撮影日記 2003年10月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

2003.10.31(金)
 丸秘

 来年使用するダンゴムシの写真を、今朝、出版社に送った。使用する写真のうちの半分は、すでに夏の間に渡してあるので、今回送った分は最近撮影した残りの半分だ。
 昨日は、その送る分のフィルムを整理して準備をしたが、僕はフィルムを準備する時によく自己嫌悪に陥る。
「なんだか、イマイチかな・・・」
 という気になる。
 本一冊分の写真を撮るのは、やはり大変なことだし、使用される写真の枚数が多くなればなるほど、納得できない写真も含まれてくる。いざ写真を送り出そうとすると、その気に入らない写真ばかりがどうも目に付いてしまう。だからとても疲れる。
 みんなそんな風なのかな?

 ダンゴムシのような身近な生き物でも、一通りの生態を撮ってみるとなかなかむずかしくて、必ずと言っていいくらい、生き物を自在に操るための丸秘テクニックが必要になる。そして、その丸秘は、写真の本に明かされることはないし、僕も明かすことをしない。僕は時に、
「生き物の生態を撮ることは、きれいな絵になる写真を撮ることよりも遥かにむずかしい」
 と書くが、生態写真のむずかしさは、その丸秘の部分にある。
 時々、僕は機材のことをたずねられるが、機材の工夫や改造は自分でやってみるとそれほど難しいわけではない(簡単でもない)。それに比べると、生き物の性質を知り、その性質をうまく利用して、思い通りのシーンを目の前で繰り広げさせることは格段に難しい。
 宮崎学さんがセンサーを使用して無人撮影した写真を、
「機械の力が撮ったものだからダメだ」
 という人がいるが、宮崎さんの写真を見ると、とてもいい場所にそのセンサーが仕掛けてあり、単純に機械があれば撮れるものではないことがよく分かる。宮崎さんと同じようにセンサーを使う人は他にも数人いるが、誰一人として宮崎さんに迫れる人はいない。
 多くの人は、宮崎さんの写真のメカの部分だけを見ていて、自然を見る目が養われていないからだと思う。
 僕は宮崎さんの生活スタイルを知らないので勝手な想像になるが、宮崎さんが、センサーによって無人で撮影できるカメラをセットして、その待ち時間でフィールドの中を歩き回っているとすると、他の写真家は自動撮影カメラをセットして、あとは家でゴロゴロして写真が撮れるのを待っているような印象を受ける。宮崎さんの自動撮影カメラが宮崎さんの分身とするならば、他の人の自動撮影カメラは、単に横着をするための道具といってもいいくらいの違いを感じる。

今月の水辺を更新しました。今月は、オオサンショウウオの写真を選んでみました。
 
 

2003.10.30(木)
 逃げたサソリ

 先日海野先生の小諸日記を見ていたら、東南アジアで取材中の海野先生自身の画像が掲載されていた。きっと誰かに撮ってもらったのだと思うが、何だかとても楽しそうで、僕が見たことのある先生自身の写真の中で、一番雰囲気がいい写真だと思った。
 きっと熱帯の森の中は、そうしてワクワクさせてくれる場所なのだろう。他にも、面白い昆虫の写真がたくさん掲載されていて、例えば、アトラスオオカブトなどはとてもカッコイイ。先生があんなに楽しそうなのがよく分かる。
 アトラスオオカブトは、なんといっても角の形がいい。日本のカブトムシの角にクワガタムシのハサミを付け足したような形をしているのだから痺れてしまう。
 そのアトラスオオカブトが、最近は、日本国内でもよく売られていて、つい2〜3ヶ月前も、近所のホームセンターで見かけた。その格好良さから想像すると1万円くらいかな・・・と思ったらら、なんとつがいで3000円を切っていて思いの他安く、僕は買いたくてたまらなくなった。
 だが、結局買うのを思い留まった。
 僕は、生きたままの生き物を見たり扱ってみたいし、海外には不思議な生き物がたくさんいるので、飼いたい人の気持ちがよく分かるが、それ以上に、海外から次々と輸入されてくる生き物たちによって引き起こされる害の方が最近大き過ぎるように感じるからだ。
 今朝もニュースで、サソリがアパートの部屋で逃げ出して、同じ建物に住む住人が何日間も避難をしなければならない事件が起こったと報道された。サソリを飼育していた人の隣の部屋に、逃げ出したサソリの中の一匹が出没して、保険所に通報した結果、それが強い毒をもったサソリだと分かったようだ。お粗末過ぎる。その危険を考えると、逃がした人は懲役一年くらいが妥当だと思う。
 愛玩用の生き物の輸入に関しては、今後厳しい規制がされるらしいが、一切輸入禁止というくらい厳しくてもいいのではないかと思う。

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2003.10.28〜29(火〜水)
 定点撮影10月分

 今年の春から、月に一度のペースで撮影をしている定点撮影中の田んぼに出かけてみた。もう、すべての田んぼで刈り取りが終わっている。
 写真を撮る時には、太陽の位置をよく考えながらカメラポジションを決めるが、定点撮影のむずかしさの1つに、季節による太陽の移動コースの違いがある。
 以前に桜の木の定点撮影をしたことがあるが、秋にちょうど良いポジションを決め、同じ構図で毎月撮影していくと、春の花の時期にはその場所があまり良くないポジションになってしまい慌てたことがある。
 その反省から、今回の田んぼの定点撮影は、太陽の向きの影響をほとんど受けない曇りの日に撮影することにして、曇った時に写真写りがいいような田んぼを探した。
 ところが、今月は来る日も来る日も晴れの日が続き、なかなか曇ってくれない。ようやく昨日の午後からほんの一瞬天気が崩れ、田んぼの定点撮影をすることができた。
 天気が崩れそうなのを天気予報で知っていたので、予報が当たった時にはすぐに出かけられるように備えていたのだ。

 僕が定点撮影をしている田んぼは熊本県にあるが、田んぼの風景を1シーン撮影するためだけに、熊本まで出て行くのはお金もかかるし疲れる。本当は、他の取材をうまく組み合わせて、熊本県の渓谷を撮影する行きがけに田んぼの定点撮影ができればいいのだが、天気の関係があったり、現実にはなかなか上手くいかない。
 いい写真を撮るためには、やっぱり面倒くさがらずに、まめに撮影に出かけなればならないようだ。僕は、日頃面倒なことが大嫌いだが、きっと撮影ですべてエネルギーを使い果たしているのだと思う。

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2003.10.27(月)
 特注
 ダンゴムシを飼育するシーンを撮影するための準備に取り掛かっている。今日は水槽に土を敷き、草を植え込んだ。
 すぐにダンゴムシを入れると、土が体に付着して汚れるので、1〜2日土を乾かしてから撮影する。

 ダンゴムシの撮影は編集の方が、
「こんな雰囲気の写真を・・・」
 と、たくさんの絵コンテを書いてくださったが、中にはページの関係で、絵コンテに含まれていたのに撮影しなかったシーンもある。
 そうして省かれたシーンの中には、カメラマンがうまく工夫をすることで、他の写真の中でついでに見せることができるシーンもある。
 例えば、飼育のシーンとダンゴムシがキャベツを食べるシーンとがあり、ページの関係でどちらか一方を捨てなければならず飼育のシーンを撮影したとする。その時に僕が気を利かせて、飼育のシーンの中でダンゴムシがキャベツを食べている様子を撮れば、見せたかったものをすべて見せられる。
 今日の画像は準備中の飼育ケースを何気に撮影したものだが、本番の撮影では構図に僕なりのアイディアがあり、ページの関係で切り捨てたシーンの中の1つを、飼育の写真の中で見せてみようと思う。うまく出来るかどうかわからないが、撮影が楽しみだ。

 こうした飼育の写真をいい物にするためには、構図の基礎を知っている必要がある。
 例えば正面から見たら正方形に見える水槽の場合は、中央に物を1つ置き、全体として凸型にすることで安定する。また横長の水槽の場合は、左右に物を1つずつ置き全体の形を凹型にすることで落ち着く。
 それから、飼育ケースの大きさと、中に入れる生き物や岩の大きさをよく考えなければならないが、一般に販売されている水槽のサイズや縦横比は限られるので、なかなか思うようにはいかない。
 そこで、今回は特注の水槽を作ってもらったのが、それが昨日届いたのだ。
 特注だから高くつくのかと思ったら、ペットショップで売られているものと同じような値段だった。今回は水を入れないので強度を考えなくても良く、中がよく見えるように薄いガラスで作ってもらった。
 水槽を作ってくださった業者はインターネットで探したが、一昨日のストロボといい今日の水槽といい、もしもインターネットがなかったなら利用することはできなかっただろう。
 きっと日本には、小さいけれどいい物を作る会社がたくさんあるのだと思う。

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2003.10.26(日)
 もうすぐ紅葉の季節

 フィールドで取材をする予定だったが、スタジオでの仕事が終わらず、出かけることができない。スタジオにはスタジオの面白さがあるが、スタジオの面白さは心が開放されるような面白さではないので、長く続くとダラダラと時間が流れるようになり、辛くなってくる。
 スタジオに取り組みだしたばかりの頃は、それが分からなくて、よく不安になったが、最近は「そんなものなんだ」と思えるようになってきた。
 来週、再来週は、山陰山陽〜九州の紅葉のピークだろうからフィールドに出かける予定なので、それを思い浮かべることで頑張る他ない。

 昨日の午前中は、また子供を撮影したが、子供の撮影には僕が日頃使っている機材が向かないと痛感した。
 僕がいつも使っている645版のカメラは、じっくり撮るのには向くが、子供のように流れにのってビシバシと撮らなければならない被写体にはあまり向かない。
 同じ人物の写真でも、大人であれば645版で十分に構えて撮ることできるが、幼稚園くらいの子供には「じっとしててね・・・」とお願いしても0.5秒くらいしか通用しないし、35ミリ版のカメラがいいようだ。
 今活躍している自然写真家で人物の写真がうまい人といえば今森光彦さんだと思うが、今森さんの写真でも日本国内で撮影された子供の写真だけはよくないように思う。今森さんの写真は、極限まで腰を据えて撮られているのが特徴だが、子供は腰を据えれば据えるほど、撮れなくなる被写体なのかもしれない。
 今日は、日頃あまり使わない35ミリ版のカメラを持ち出し、ここ数年使っていないレンズをカメラバックに収めた。時々暇を見つけて構えすぎずに撮るスナップ写真のような撮影を練習してみようと思う。

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2003.10.25(土)
 さっそく試し撮り




 昨日紹介したストロボでさっそく撮影をしてみた。ここのところダンゴムシの撮影をしていたので、ダンゴムシがいそうな環境をスタジオ内に再現したセットを撮影してみた。
 ストロボは、これまでもっていたコメット社製のものと、昨日届いたアネット社製のものを1つずつ、合計2つを使用している。
 上の画像は陰影を強めに、下の画像は弱めに撮っているのだが、2つのストロボの強弱で、こうして雰囲気をコントロールできる。
 上の画像は立体感があっておしゃれだが、雰囲気が暗いので、営業用の写真としてはあまり好まれないだろう。下の画像はほどほどに立体感があり、雰囲気も明るいので、パッと目を引くような雰囲気ではないが、上の画像よりも好まれるだろう。
 そして、この中間的な写真も撮れる。
 
 昨日も書いたが、一般的なストロボは、シャッターを押した時に一瞬光るだけなので、その陰影がどんな感じになっているのかを確認できないが、スタジオ用のストロボは一瞬光る発光部とは別に、ただの電球が組み込んであるので、その電球の光で陰影を前もって確認できる。
 今日の画像の場合であれば、画面の左後ろからストロボを1つ光らせることで陰影を付けているが、ほんのわずかなストロボの位置の違いによって写真が台無しになることもある。スタジオ用のストロボは、それを前もって確認できるのでありがたい。
 今までは、スタジオ用ではない一般撮影用のストロボをバシッと光らせ、デジカメで写真を撮ってみて、その試し撮りの画像の陰影を確認して、「もう少し光を高いところから・・・」「いや、もう少し低いところから・・・」と照明の微調整をしていたが、ぐっと楽になった。
 ほんの2〜3時間試し撮りをしただけだが、買って良かった。気に入った!
 スタジオ用のストロボの場合、高級品を買えば、いいものは幾らでもある。だが、そうした高級品には数十万円のお金がかかるので、スタジオ専門のカメラマンには必需品でも、僕のように野外で撮れないものを仕方なくスタジオ撮影する者には負担が大きすぎる。
 また高級品は光量が大きい。詳しい理屈の説明は省くが、光量が大きいと、大きな被写体を撮るのに有利になる。ところが、僕のように小さな物を主に撮影するものにとっては、大きな光量は必要ではない。
 それよりも光量が小さくてもいいので、お手ごろな価格で買える商品はありがたい。

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2003.10.23〜24(木〜金)
 新しいストロボ

 ストロボを光らせて写真を撮ったら、見るも無残な出来になってしまった経験をお持ちの方は多いのではないだろうか?
 ストロボを使いこなすのは難しい。
 難しい理由は幾つかあるが、その1つに、ストロボの光は瞬間しか光らないことがある。太陽の光で撮る場合は、「ここに影が付いているな・・・」とか、「ここが明るくて、ここが暗く写るな」などと自分の目で被写体の状態を確認できるのだが、一瞬しか光らないストロボの場合はそれが分からないので難しい。
 だが、スタジオ用のストロボには光る部分に電球が埋め込まれていて、その電球のスイッチをオンにすることで被写体がどのよに照らし出されるのかが大体イメージできる。
 今日の画像は買ったばかりのスタジオ用のストロボだが、銀色の部分の中の中央に電球があり、その周りにドーナツ型のストロボの発光部がある。電球の光が、「こんな感じに写るはずですよ」と前もって教えてくれるのだ。
 
 スタジオでは、時には3つも4つものストロボを使用することがあるが、僕はこれまでスタジオ用のストロボを1つしか持っていなかったので、スタジオ用のストロボに一般撮影用のストロボを混ぜて撮影していた。
 本当は、もっと早くスタジオ用のものをあと1つ買い足したかったのだが、スタジオ用の物は高価なので、そこにお金を回すことができずにいた。
 ところがインターネット上でアネット社(
WWW.PROKIZAI.COM)製のなんと2万円程度!で買えるシリーズを見つけたので、1つ試しに買ってみた。耐久性の問題など使い込まなければ分からない点もあるが、もしも気に入ったら、そのうちあと1つ一つ買い足したい。
 写真を撮る人のために参考までに書くと、今回僕が買ったものは110W/Sの光量しかないのでこのストロボを主な照明として使うことは難しいだろうが、部分部分を照らす照明としてはとてもいいと思う。
 安い価格で、でも最低限のところをちゃんと満たしているこの製品には、
「痒いところに手が届く、なんてうまい商品なんだろう!」
 と感動させられた。

 僕の場合は、例えば葉っぱの上の生き物を撮る時に、これまで使用してきたスタジオ用のストロボで大まかに照明をして、今回購入したストロボを葉っぱの後ろ側から光らせ、葉っぱを光に透かすことできれいに撮るような使い方をしようと考えている。

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2003.10.21〜22(火〜水) 中身のある写真

 自宅から事務所へと向かう途中の河川敷に植えられたコスモスが、ちょうど今見ごろだ。
 満開のお花畑の写真にはニーズがあるし、きれいに撮っておけばいつかは売れるだろうから、「ちょっと撮ってみようかな?」とも思ったのだが、他にも仕事があることだし思いとどまった。
 代わりにといっては何だが、今日は、他の撮影の合間をぬって、タンポポの綿毛を撮影してみた。タンポポの綿毛もやはりニーズがあり、人気がある被写体の1つなので、この綿毛が発芽していく様子をしばらく撮影してみようと思う。
 先日、少しだけ綿毛の発芽を試してみたが、簡単に発芽をすることがわかった。さすがに荒地にも生育できる強い植物だけのことはある。
 僕のテーマである水辺ではないが、たまたま他の撮影でタンポポの綿毛を使ったので、そのついでに売れる写真は撮っておこうと思いついた。下世話だが、お小遣い稼ぎの撮影だ。

 写真は、仮に撮影しても、誰かに見てもらわなければあまり意味がない。つまり、撮影は人に対して何かを伝えようとする行為だが、写真にせよ文学にせよ音楽にせよ、何かを伝える作業には大切なことが2つある。
 1つは何を伝えるかというメッセージの中身で、あとの1つはその伝えたいことをいかに上手く伝えるかという伝えるための技術なのだが、一般的に言うと、プロの写真家はメッセージの中身を重視し、趣味の写真の世界では技術が重視される。
 僕は、今日は、コスモス畑を撮影せずにタンポポの綿毛を撮影した。コスモス畑は確かにきれいなのだが、それで何を伝えたいの?と僕のメッセージの中身をたずねられると、
「きれいだったから」
と答えるしかないし、それではちょっとばかり弱い。
 だが、タンポポの綿毛なら、この種がどんな感じで発芽していくのかを伝える生き物の記録として値打ちのある写真が撮れるし、そしてこの素敵な形は絵にもなる。

 自然写真の場合、写真が2〜3回使われれば、一般的な普及機のカメラが一台買えるくらいのお金になるので、売れ筋の被写体に関しては、面倒でも小まめに撮っておけば、後々、好きな被写体を撮るための資金になる。
 だが、売れるからといって、そんなものばかりを撮っているのも本末転倒だ。
 そこで、僕の場合は自分なりに線引きをして、どこまで売るための写真を撮るかをあらかじめ決めているのが、その基準の1つとして、ただきれいなだけじゃなく、生き物の記録として面白いものはガンガン撮っていくことにしている。

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 2003.10.19〜20(日〜月) つめが甘い

 金曜日に撮影した子供の写真を現像してみたら、雰囲気がとてもよく出ていたので嬉しくなった。だが、よくよく一枚一枚を見ていくと、ピントが若干悪い写真が多かった。狙いは良かったのだが、つめが甘い。
 人物の撮影ではいい表情を捉えることが何よりも優先されるが、そこに気を取られ過ぎて技術が甘くなってしまった。
 「あっ、この写真いいな」
 と思う写真のピントが悪くて、ちょっと落ちる写真の方はピントがちゃんと合っているケースが多い。子供のような被写体は、とにかく流れにのってたくさんのシャッターを押すことが大切だが、最低限の確実性はやはり必要だ。
 
 今日は北九州で現像をしたのだが、北九州で現像をするといつも郵送で利用している東京の現像所よりも若干現像料が高い。だが、3時間で仕上げてもらえるので自信がなくて早く仕上がりを見たい時には北九州で現像をすることにしている。
 今回は、子供の写真の他に、ここ数日で撮影したあまり自信のない写真を一緒に現像してみたが、撮り直しをしなければならない写真があった。
 今日は、夜まで撮影しなければならないようだ。
   
 

 2003.10.18(土) 撮影はショー?

 昨日は子供の写真を撮ったが、やはり自然写真とは違うんだな・・・と思った。例えば、フィルム交換をする時間は何を撮るにも必要な時間だが、子供たちはフィルムを交換する様子までもを見ているし、
「何をしているの?」
「電池がなくなったの?」
 と、こちらに興味を持っている。
 フィルム交換だけではない。こちらがカメラを何台持っているのか、どんなバックにカメラを入れているのかなど、隅から隅までが子供たちの興味の対象になる。
 見られているのだからスマートでなければならないし、ちょっとレンズを交換しようかな・・・などとカメラを触っていると、もう子供の興味は別のところへいってしまう。
 自然写真であれば黙々とフィルムを交換すればいいが、子供の写真を撮る時は、フィルム交換をする自分が子供にどう映っているのか、その自分を見つめる客観的なもう一人の自分が必要なんだと感じた。こちらのしぐさまでもを、スマートに見せなければならない。
 もしもフィルム交換中にフィルムをうっかり落としてしまったなら、自然写真であれば、そのフィルムを拾ってカメラにつめ、時間とタイミングさえ許せば同じように写真が撮れるが、人が相手の場合は、そんなところでモタモタしていると、
「あれ?下手糞だな・・・」
 と時には相手の表情を曇らせてしまうだろう。子供に限らず人物の撮影は、撮影者が被写体を見て写真におさめるだけでなく、撮影者が自分の姿を見せる一種のショーなのかもしれない。
 僕は人物の撮影が不得意で、人を撮らなければならない時には、大抵一週間くらい前から気分が重いが、昨日は生まれて初めて人を撮って楽しいと思った。
 楽しかったからだろうか?いつもは訳が分からないままで終わる撮影が、昨日は、道具の選択から技術的なことまで、「もっとこうすれば!ああすれば!」と次に繋がる何かを体で感じ取ることができたように思う。

 僕がフィルム交換をしていると、一人の子供が、
「壊れたから電池を換えているの?」
 と興味津々でカメラを見つめていた。本当は壊れたら電池を換えても動かないのだが、きっとお父さんやお母さんから、そう教わったのではないだろうか?
 電池がなくなり動かなくなったおもちゃを目の前にして、
「あれ、壊れたぞ!どうしようかな・・・ 電池を換えてみよう。ほら良くなったよ」
 そんな会話が聞こえてくるような気がした。
 当初は、事務所の近くの北九州の幼稚園に撮影をお願いしようかと思ったが、いろいろ考えるところがあって、僕が生まれ育った直方市の幼稚園にお願いした。それが良かったように思う。北九州で撮っていたなら、そんなことまで考えるゆとりがなかったように思うのだ。
   
 

 2003.10.17(金) 人の豊かさってなんだろう?
西徳寺幼稚園にて
エクアドルにて

 いつだったか、上京した際に新宿公園の付近を歩いていたら、超ミニスカートの女子高生が歩いてきた。ちょうど援助交際などという言葉が使われだしたばかりの頃だったように記憶している。
 僕が子供の頃は、校則に逆らいたい時はスカートを長くするのが相場だったが、今は逆になった。稀に裾を引きずるような長いスカートのヤンキー女子高生を見かけると、
「あ〜生きた化石だ・・・」
 と握手したくなる。
 ミニスカートくらいなら大して驚きはしないが、その子は超ミニだったので、さすがに驚いた。気難しい人からは差別だと怒られそうだが、その子が彼氏もできなさそうなルックスならまだしも、それどころか「おっ」と思わず振り向くくらいにきれいな子で、すれ違う何人もが振り返った。
 僕の前を歩いていた数人の会社員も全員振り返った。その中の女性は、
「いくらなんでもあれはね・・・」
 と隣の男性に話しかけたが、男性には返す言葉がなかった。
 無料でいい物を見せてもらったと思えばそれでいいのかもしれないが、街を歩いている高校生などを見ると、「病んでるんじゃない?」と感じられることが少なくない。
 なぜ豊かになっているのに、こんなに病んでるような気がするのだろう?という疑問をいつも感じる。仕事柄いろいろな人の写真を通して海外の子供たちの顔を見る機会があるが、貧困で苦しんでいるような国の子供でも日本人よりも目が輝いているように思うのだ。

 今日は幼稚園で、子供たちがダンゴムシを探す様子を撮影させてもらった。子供たちは、みんな奥ゆかしいところがあるが、南米のジャングルの中で出会う自然な生き生きとした表情の子供たちとなんら違わないことが分かった。
 だからだろうか、僕は人を相手にする撮影は不得意で、人物を撮影するととても疲れるが、今日は、不思議とそんな疲れを感じなかった。
 そんな子供たちの中の数人かが、ほんの数年うちに病んでしまう。それを思うと、大人の責任を感じた一日でもあった。

 人を相手にすると、社会全体の縮図が見えるので、時としてそれが疲れる。
 例えば、有名な鶴や白鳥などのサンクチュアリを取材したとする。
 そこには鳥の写真を撮りたいカメラマンもたくさん訪れることだろう。みんなとても熱心で、そんなに夢中になれるのは楽しいが、中には、狭い場所で何本もの三脚を立てて場所を独占するような窮屈な人がいる。
 そこで取材をしたなら、きっと息苦しくて疲れることだろう。
 明後日は西徳寺幼稚園の運動会らしいが、みんな自分の子供を応援するために早起きをして場所を取りにくるだろう。父兄がそうしてでも見たい運動会は、すばらしいに違いない。
 だが、中には度が過ぎた場所取りをする人がいると、最近ときどき報道される。
 そんな人の隣で僕が写真を撮ったなら、とても疲れる時間になるだろうし、それならカメラやビデオなんてなければいいと思う。
 僕が親なら、そんな時はカメラを持たずに自分の目で見る。
   
 

 2003.10.16(木) 気持ち悪いダンゴムシ

 土の上に煮干を置いたら、ダンゴムシが群がって食べた。
「ダンゴムシは煮干を食べるよ」
 と説明する写真なので、それが撮りたかったシーンなのだが、いざ撮ろうと思ったら群がったダンゴムシは気持ちが悪いと分かった。
 撮影を依頼してくださった出版社の方は、僕の写真は絵になっていると高く評価をしてくださった。僕に絵にすることを望んでおられるのだから、ただダンゴムシの食事を説明しただけで、その写真が気持ち悪ければ、僕は求めに応えていないことになる。また、撮影を依頼するカメラマンは僕でなくてもいいことになる。
 そこで、土の上の煮干に群がるダンゴムシの撮影を予定変更して、逆に煮干を食べる1匹のダンゴムシをアップ気味に撮影することで、気持ち悪さを抑えるように撮ってみることにした。
 煮干を土の上に置くと、いかにも魚の死体という感じがしてこれまた気持ちが悪いが、特に煮干の顔の部分がよくない。そこで顔の部分をわざとぼかした。だが、ぼかしすぎると煮干だと分からないので、その塩梅が肝心だ。
 面倒なのは、キュウリを食べるシーンやニンジンを食べるシーンも全部それに合わせて撮り直さなければならないことだ。撮り直しをするとフィルム代に無駄がでるが、気持ち悪いダンゴムシの食事の写真もいつか使う機会があるだろう。
 他に、枯葉を食べるシーンやお菓子を食べるシーンも撮りたい。今晩は、もう少し頑張らなければならないようだ。ダンゴムシにもポーズがある。体の丸まり具合や手足の形が可愛い瞬間を待っている。

 絵になっている写真とは、趣味の写真の世界ではモヤモヤっとした感じに撮ったり、わざと薄暗く撮ったり、わざと明るく撮ったりして、ただの写真ではないおしゃれな雰囲気をもった写真のことを指すことが多い。そうした写真はコンテストや写真展など、趣味の写真を撮る仲間同士でみる写真なので、それが楽しいのだが、プロのカメラマンが撮る写真は、大抵は写真に特別な興味を持たないごく一般の人が見る写真になる。
 例えば、今回のダンゴムシの写真を見るのは、子供やそのお父さんやお母さんや幼稚園の先生などになるだろう。
 今日、僕が書いた絵になっている写真とは、そうしたごく普通の人が見て分かりやすく、同時に「可愛いね」「面白いね」といった感動のある写真のことを指す。
   
 

 2003.10.15(水) 何でも食べるダンゴムシ

 昨日、白い紙の上でダンゴムシが煮干を食べる様子の撮影しようとしたら上手くいかなかったと書いた。ダンゴムシがあまり熱心に食べてくれなかったのだが、同じ煮干を土を敷いた容器に入れたら、よく食べる。
 なぜ紙の上で食べないのかは、文章が長くなり過ぎるので書かずにおくが、いろいろと試してみた結果大体原因が分かった。やはり自然な環境に近い方がダンゴムシも食欲が増進されるみたいなので、白バックでの撮影を諦めて、土の上で撮り直すことにした。
 白バックの方がビジュアル的にはきれいな印象を与えるが、食べる食べないという事実を正確に伝えることの方を、ビジュアルよりも優先することにした。
 その他、食べないだろうと思った与えた飴玉までもを、ダンゴムシが食べることが分かった。人が食べるものはほぼすべて食べると思って差し障りなさそうだ。

 一般的なパソコンの画面は、やや青っぽく見えるように設定されている。だから、もしもデジカメで撮影した画像をごく普通のパソコン上で開いたなら、画像は青っぽく見えることになる。
 画像を扱う人はそれを嫌い、モニターを調整して青く見えないようにする。だが、青みを取ると画像は正しい色で見えるようになるが、画像以外の画面が今度はおかしな色で見えるようになってしまう。
 デジカメや画像処理の本を見ると、モニターの色合いは専用の機器を使って調整するか、或いはせめてその青みを取るようにと書かれていて、僕も以前は青みを取っていたが、画像以外の部分の色合いがおかしくなり、目の感覚が狂い、やはり正しい色合いで画像を見ることができなかった。
 そのおかしな状態で色合いを調節して掲載した「ギャラリー」や「淡水記」のページのの画像は当然すべて色がおかしい。
 最近は、色を調節するシステムが充実してきて、ウインドウズの場合は s-RGB というモードがあるモニターを使えば、自動的に画像やその他の表示が正しい色合いで見えるようになってきている。
 僕も s-RGB モード付きのモニターをこの春から使用しているが、その結果、モニター上で画像の色がどうしてもうまく調整できないという悩みから開放されたので、いずれは以前に掲載した画像の色合いをすべて直したいと思っている。
 ここ3日くらいは、ダンゴムシが土の上や紙の上で、どんな食べ物をどの程度食べるのかを確かめるための待ち時間が長かったので、その時間で、まずはギャラリーのページの画像をすべてスキャナーで取り込みなおし、画像処理をやり直した。また、ギャラリー上に新しく「沢の小さな住人たち」というページを加えた。
 s-RGB付きのモニターを使用しても、専用のモニター調整機器を使って色合わせをするのには敵わないらしいが、あまり神経質になり過ぎるときりがないので、当分はs-RGB付きのモニターにお任せしておこうと思う。
   
 

 2003.10.14(火) 煮干を食べるかな?

 先日から、ダンゴムシがいろいろな食べ物を食べるシーンを撮影している。キュウリ、ニンジンと撮影して、今日は煮干を食べる様子を撮りたいのだが、なかなか食べてくれない。
 キュウリやニンジンにはたくさんのダンゴムシがたかり、短時間で撮影ができたのだが、煮干は大好物という訳ではなさそうだ。
 朝からずっと待ているが、今日の画像の煮干には、ダンゴムシが2匹たかったのが最高記録だ。
 多分、土を敷きその上に煮干を置けば、自然に近い状態になるので、もっとたくさんのダンゴムシが食べてくれると思うが、土のに置いた煮干はグロテスクな印象を与えるので白バックで撮影しようとすると、何でもないシーンの撮影が難しい。どんどん時間が過ぎ去っていく。
 虫にも食事の時間帯があるだろうから、今日はこのまま夜まで様子をみようと思う。

 ダンゴムシがあまり好んで食べないものを、無理をして粘って、あたかも好んで食べるかのような写真を撮り、誤った印象を与えるのも良くないと思う。
 だから、キュウリやニンジンにはたくさんダンゴムシがたかっている様子を撮影して、
「ダンゴムシは野菜が大好きなんだよ」
 と紹介し、煮干には、2匹だけが食べている様子を撮影して、
「食べるけど、あまり人気がないみたいだね」
 とありのままの写真を撮るのがいいと思う。
 だが、本当に食べないのか、色々な条件の元でちゃんと自分の目で確認しなければならないので粘ってみることも大切だと思う。簡単に結論を出してしまってはならない。
   
 

 2003.10.13(月) 石原国土交通大臣と

 石原国土交通大臣のうちに遊びに行ってきた。
 といっても、夢の中での話だ。今朝は奇妙な夢を見た。

 夢の中の大臣は、僕にとってはただの友達のようだった。ちょうど子供の頃、学校の帰りに友達のうちに寄って遊ぶような感じで、僕は大臣の家に通された。
 大臣の家は古めかしい農家のような作りで、たたみが敷かれた大部屋が1つだけあり、背の低いテーブルがたくさん並べてあり、どこかの宴会場みたいな雰囲気だった。
 建物のすぐそばには大きな川が流れていて、窓からはその流れがよく見えた。流れは大きくて、澄み切っていて、北米のサケやマスが大挙して押し寄せる川のようなイメージの流れだった。
 魚がいるかな?と思った瞬間に夢のシーンが変わり、今度は僕たちはその川を船で進んでいた。船は3〜4人乗りの小さなもので、仲間の船3〜4隻と一緒に、川の流れをのぼっていった。
 途中で、何だか数隻の船がもめているようだった。
 その場を通り抜けようとしたら、もめている船の上で一人のおじさんが銃で撃ち殺された。頭に小さな穴が開く瞬間がとてもリアルだった。どうも盗賊に襲われているようだった。
 盗賊は僕たちにも目をつけた。その一人が、「ボールを置いていけ」と僕たちに命令をした。仲間の中の一人が、青いドッジボール用の球を盗賊に渡すと、盗賊はそれ以上追ってこなかった。
 盗賊の姿が完全に見えなくなった時、気が付くと知人のNさんが船に乗っており
「憤りを感じますね。早く民主化して、このような悲惨な出来事がおきないようにしなければ!」
 と言った。話しかけた相手は石原慎太郎都知事だった。やがて、僕たちは川沿いの建物に上陸した。
 建物は今度は近代的なビルだった。僕は石原慎太郎都知事の後ろに付いて歩きながら、都知事に向かって
「石原家の裏を流れる川に潜って、一度サケの写真を撮ってみたいのです」
 と話しかけたら、聞き取れなかったみたいで、
「え、何を?」
 とたずね返され、再度同じことを繰り返したら目が覚めた。
 夢の続きを見たかったので二度寝しようかと思ったが、そうするとすべてを忘れてしまいそうだったので、布団の中で見た夢を何度も何度も復習して、夢を覚える努力をした。いったい何を考えながら寝たら、こんな変な夢を見るのだろう?
   
 

 2003.10.12(日) 必ず工夫をする

 撮影には、いかにも難しいそうな撮影と、間違いなく撮れるだろうなと感じられる撮影とがある。動物の場合、いかにも難しいのは繁殖の撮影で、多くの小動物が繁殖期を向かえる4〜7月には毎日が気を抜けない緊張した日々になる。
 逆に今の時期には、そんなに難しい撮影はないので、何とかして力ずくで写真を撮るのではなくて、頭を使い、そして丁寧に、また技を凝らしえて人とは一味違う写真を撮る努力をする。
 今日は、小動物の糞が土に返り、そしてそれが植物の栄養になっていくイメージを撮影するための準備をしているが、ただ単にそんな写真を撮ることはいかにも容易いだろう。だが、それを強く印象付けるような写真を撮るためには、何をどう撮るのか、そのアイディアが写真の出来を左右するだろう。
 今年の秋は、安易にシャッターを押すのではなく、必ず何かを工夫するように心がけている。 
   
 

 2003.10.11(土) 幼稚園

 子供向けの自然雑誌の中には、時々、子供がザリガニを釣っている様子や飼育中の生き物に餌を与えているシーンなど、人の子供の写真が出てくる。
 今朝は、そんな写真を撮るために、自宅の近所の幼稚園へ挨拶に出かけた。まずは挨拶のみだが、前もって話を聞いておいてもらった方がいいだろうと考えた。撮影は来週に決まった。
 僕は一人で撮影をするのが好きだが、子供が写るような写真は、それをうまく支えてくれる人の力が必要だし、幼稚園なら先生がおられるのできっとうまくいくだろう。
 東京に住んでいたら、本の編集者の方が準備をしてくださり、撮影に付き添って手伝ったもらえるのだろうが、人を相手にするような撮影の時は一人は少しだけつらい。
 でも冷静に考えてみると、子供には大人が考えるような特別な自意識や緊張はないのだろうから、撮影の時は気持ちを楽にして、子供ではなくて、子ザルを撮っているつもりで写そうと思う。 
   
 

 2003.10.10(金) night rainbow

 僕は写真好きの人が撮る写真があまり好きではない。
 写真雑誌のコンテストを見たり、二科の写真展などを見ても、数枚の好きな写真があったり、常連の人の中に数人好きな写真を撮る人がいるが、全体としては面白くないと思う。
 面白くない理由は、写真の技術にばかり捉われていて、写真に写っている被写体が実につまらないからだ。定番のものだらけで、「だから何?」と思う。
 例えば二科展の写真を見ると、写っている被写体が全体に似通っている。自分の目で物が見れないのだろうか?と思う。
 撮り方もよく似ていて、全体にわざと薄暗く撮られた写真が多い。そうして薄暗く撮った独特の雰囲気の写真を「芸術だ!」という人もいるが、馬鹿の一つ覚えみたいに薄暗く撮るオリジナリティーのなさは、芸術とは対極にあるような気がする。
 芸術だと言う人たちにとっては、何でもない被写体を意図的に暗く撮ることで作品として見せているのだから芸術らしいが、見方を変えれば、つまらない被写体を撮り、それを暗く撮ることでごまかしているとも言える。
 料理に例えるなら、お粗末な素材に強烈なスパイスをふりかけて、そのスパイスの味でごまかした料理に近いような気がする。
 もしも、それが仕事なら、つまらない素材を安く仕入れ、強烈なスパイスでごまかす商売もありだと思うが、写真が好きで、趣味で撮っているような人が、何のためにそんなごまかしをするのかが僕には全く理解できない。
 一所懸命にそんな作品作りをしている人をみると、入賞したり評価されたいのかもしれないが、趣味で写真を撮っても成績ばかり気にして伸び伸びできないのだから、窮屈だなと思う。

 先日、高砂淳二さんの night raionbow 祝福の虹(小学館)という本をかった。星空にかかった虹の写真の他、主に夜景の写真で構成された本だが、写っている被写体にとても魅力がある。自然って楽しいな〜という気持ちになれるし、そんな高砂さんの気持ちが伝わってくる。
   
 

 2003.10.9(木) 撮れた!という感激

 いい写真を撮るためには、機を見るに敏でなければならない。例えば、そろそろシギやチドリの仲間が各地の干潟に渡ってくる頃だが、干潟の鳥たちを写真に撮ろうと思うのなら、潮が引いた干潟のずっと遠くに鳥がいる時ではむずかしいし、満潮が近づき、鳥が岸辺に近づいた時でなければならない。
 さらに、満潮は満潮でも、写真を撮るのに適した時間帯もある。それから同じ満潮でも、潮が高い日もあれば低い日もあり、大抵は、潮が高い日の方が写真は撮りやすい。
 そういった条件が整わない日に、どんなに時間をかけても無駄になることが多いし、条件が整った日に、これでもか!というくらいシャッターを押せば、いい写真が撮れる可能性が高い。
 必ずしもクソ真面目に写真を撮っている人がいい写真を撮るとは限らないし、ツボを押さえた人がさらっと一瞬でいい写真を撮ってしまうことは珍しくない。
 だが同時に、たくさん時間をかけている人には敵わないという面もある。ツボがあるといっても、そのツボはそんなに容易く把握できるものではないし、実際にはいつが条件がよくて、いつが条件が悪いのか、なかなか把握できるものではないからだ。
 条件が良くなったり悪くなったり、シャッターチャンスが近づいたり遠ざかったりするリズムがうまく体で感じ取れれば、いつ力を入れればいいのかが、きっと分かるだろう。
 最近の僕は、うまくそんなリズムに乗って撮影ができるように、写真を撮る仕事、機材の改良やテストなどの準備、また事務的な仕事、そして休みの時間ををうまくかみ合わせる試みをしている。今日は最低限しなければならない生き物の世話などを除いて、一切仕事をせずに過ごした。

 天候や時間の影響をあまり受けないスタジオでの小動物撮影が増えた結果、始終写真を撮ることになり、写真を撮ることに慢性的に疲れている感じがするので、ここ最近は、ちょっとばかりメリハリをつけてみようかなと考えている。
 毎日のように写真を撮っていると、撮れていて当たり前だと思うようになり、それはそれでプロとして大切なことだが、同時にやはり「撮れてる!」という感激も多少大切だと感じるようになったのだ。
   
 

 2003.10.8(水) 素敵な驚き

 昨日画像を掲載した糞を拡大して撮影したら、まるでハンバーグみたいで、なかなか面白い。
 写真を撮っている僕自身も、デジカメで試し撮りをした画像をパソコン上でみて、
「うん、面白い!」
 と思わずにんまりした。
 小さな物の撮影は、まず写真に撮り、仕上がりを大きく拡大してみなければ分からないところがあり、そこが難しいわけだが、時には今日のような素敵な驚きもある。

 この糞を含む一連の撮影は、編集者の方がお書きになった絵コンテ通りに撮影をしているのだが、その絵コンテの中にたった一箇所だけ、実際に撮ってみたら難しいかな?と感じられる部分があった。
 大人の虫が糞をしている写真と子供の虫が糞をしている写真を、2枚並べて見開きのページで見せる予定になっているのだが、昨日写真に撮ってみると、大人の虫と子供の虫の違いがあまり感じられないのだ。大人の虫は単に写真を大きく伸ばして掲載しただけで、子供の虫は写真を小さめ掲載したかのように受け止めらるかな?という心配が僕の頭をよぎった。
 ただ撮ってみなければお話にならないので、なるべくあどけない感じがする子供の虫を選んで撮影したが、それでもどこかしっくりこない。僕がしっくりこないということは、編集者の方がいざ写真を手にして本作りに取り掛かられたときに、僕と同じような印象をお持ちになる可能性もある。
 そこで、子供の虫が糞をする写真の代わりに掲載できる写真・・・ということで、糞を大きく拡大して撮影してみた。 
   
 

 2003.10.7(火) うんこを漏らした

 今日も昨日に引き続き、小動物の糞を撮影している。意外なようだが、子供向けの自然雑誌の中では、糞の写真には結構なニーズがある。
 今日の画像は、この夏撮影した生き物の落し物だが、さて、何の糞だか分かるだろうか?
 本当のサイズは、この画像よりもずっと小さくて、長い方の一辺の長さが1ミリくらいだ。
 今日は、この白バック写真のほかに、その生き物が自然な生息環境の中で落とした糞もこれから撮影する。

 子供にはうんこネタが受けるらしい。だからだろうか?子供の頃は、学校でうんこをしようと大便所に篭っていると、みんなから冷やかされることが多い。
 最近は、それでトイレにいけなくて困ってしまう子供もいると聞いたことがある。また、
「うんこをすることは恥ずかしいことではありませんよ」
 とそうならないように、学校で教育しているという話も聞いたことがある。
 そう言えば、小学校の同級生のY君は、それでうんこを我慢していて漏らしてしまった。彼が、その後、屋外にあった水道で身を清めている姿が、今でもまるで昨日のことのように思い出される。小学校の2年生の時のことだ。
 だが、人間のうんこだけでなく、動物たちのうんこの写真に人気があるということは、単純に「こいつうんこしてる!恥ずかしいことしてるぞ」と友達をからかっているのではなく、その根本には、自然現象の不思議に対する興味があるような気がする。
 そんな子供の好奇心は、時にとても残酷でもある。
   
 

 2003.10.6(月) これ何の糞?

 僕の学生時代の恩師である千葉喜彦先生は、生態学といって、生き物を野外で観察しながら研究する学問の出身だったが、学生が生態学を専門に研究しようとすることを好まれなかった。
 生態学では往々にして、研究が学問のレベルまで到達せず、「こうなりました。ああなりました」とただ見たことを羅列した、まるで子供の夏休みの観察日記と大差がないようなレベルで終わってしまう難しさがあるというのが、その理由だった。
 例えば、ギンヤンマというトンボを徹底して野外で調べたなら、確かに人が知らないことが幾つかは見つかるだろう。だが、それが生物学的に価値のある面白い現象でなれば、何かを発見したとしても「だから何?」の一言で終わってしまう。
 そういう風に書くと、中には、
「面白いって、人によって感じ方が違うんです。いろいろな研究があっていいんです」
 という人もいるだろうが、研究者が言う面白いとは、それが他の研究に繋がっていくような末広がりの奥行きを持っていることを指すことが多い。
 自分だけの研究をして、「私にとっては面白いんです。それが私の個性なんです」という独りよがりは、国のお金を使う大学での研究にはふさわしくないと、千葉先生は考えておられたのだ。
 学生時代に蚊の生態学を学ばれた千葉先生は、その後は生態学ではなく、実験室で時には蚊を解剖したり遺伝的に調べてみたり、蚊の活動の体内でのメカニズムを調べる研究に打ち込まれた。

 今朝は、カタツムリの糞を撮影した。カタツムリは食べ物の色が糞の色に反映されるので、子供にとってはそれがなかなか面白いようだ。
 例えば、ニンジンを食べさせると赤い糞がでる。
 白菜を食べさせると白い糞がでる。
 ニンジンの直後に白菜を食べさせると、途中までは赤い糞が、その先は白い糞が繋がって出る。そうして食べ物を組み合わせていけば、無数にパターンがあるだろうし、昨年は子供の本向けにそんな糞を撮影した。
 でも、ふと千葉先生の言葉を思い出し、「だから何?」と言われるような写真になっていないか?と考えてみた。赤と白が繋がった糞は、それを見れば、赤い食べ物の後に白い食べ物を食べたことが分かるが、それ以上の奥行きがないような気がしてきたのだ。
 そこで今日は、キュウリを食べた時の糞を撮影した。画像の上部の濃い緑の部分が皮で、下の薄い緑の部分が中身の部分に相当する。
「さあ、何を食べたらこんな糞がでるのかな?」
 と問いかけられた子供が、一生懸命に自分の知っている野菜を想像する。黄緑と深緑の2色の野菜・・・・
「あ、キュウリじゃない?キュウリは皮が緑で中が黄色いよ」
 と、これなら多少想像力を掻き立てることができるのではないだろうか?
  
 

 2003.10.4〜5(土〜日) そろそろ全開に

 8〜9月はフィルム整理をしたり、来年度に使用する予定の写真を編集者の方に見てもらったり、その際の意見を参考にして撮影の計画を立て直したり、機材の改良をしたり・・・今年は、新しいフィルムが発売されたので、そのテストにも結構な時間を使った。
 撮影そのものよりもその準備に多くの時間を費やしたが、10〜11月は、また集中してシャッターを押す時期だ。特に小動物は冬場は冬眠してしまうので、来年使うための写真は10月中に取っておく必要がある。
 撮影の準備をする時期も、撮影そのものに打ち込んでいる時期も、両方共に大切な時間だが、僕の場合は、その狭間の時間を辛く感じることが多い。気持ちがうまく切り替わらないとでも言うのだろうか?無気力になるのだが、今がまさにその真っ只中だ。
 そろそろエンジンを全開にしなければならない。

 撮影は体で覚える部分が多いので、撮れば撮るほどに上手くなるし、それが自分自身に見えやすいのだが、準備の時間は、日頃自分が出来ないことを試行錯誤する時間なので、果たして成果があがっているのか、ただ単に足掻いているだけではないか?という不安も同時に感じることが多い。
 だが、今年の夏は、準備の時間がとても有意義だったと思う。
 これまで「まあ、写真が撮れているからいいや!」と曖昧にしていた部分を徹底的に洗い直した。そうしてみると、今までよくもあんなに適当に写真を撮っていたものだな・・・などと今は感じる。
  
 

 2003.10.3(金) アニマ嫌い

 かつて「アニマ」という月刊誌があった。「アニマ」は、動物行動学や生態学の世界を、写真を使って一般の人にも分かりやすく伝えるというのがコンセプトだった。僕は大学一年の時に写真を撮り始めたが、僕が強く影響を受けた写真家の多くは、その「アニマ」に作品を発表している写真家たちだった。
 ただ、中には、アニマ誌を嫌う写真家もいて、そんな人たちの中にも大好きな写真家がいた。例えば野鳥の和田剛一さんがその代表格になる。
 昨日「ファウラ」という新刊の本を紹介したが、ファウラの編集長であり野鳥写真家でもある大橋弘一さんも、
「アニマに写真を発表したいと思ったことは一度もないな〜」
 とおっしゃっていた。アニマのように、科学的にばかり自然を見ようとすることに嫌悪感を持っている写真家もおられた。
 かといって、大橋さんや和田さんの写真が科学的ではないか?と言えば、決してそんなことはないのだから、お二人の「アニマ」嫌いは、科学的な見方を否定しておられるわけではないようだ。
 写真が科学的かどうか、写真はどうあるべきかなどと考えるのではなく、「もっと伸び伸びと感じるままに写真を撮りたい」という思いが、「アニマ」嫌いだったのではないかと僕は思う。

 ただ、アニマ誌が廃刊になって以降、全盛期のアニマに取って代われるような新しいコンセプトの本が生まれていないことも確かだ。新潮社から「シンラ」が創刊されても、あっという間に廃刊になってしまった。今は出版がとても悪い時代なので、そんな時代背景もあると思うが、僕はシンラを読んでアニマのようなパンチ力は感じなかった。
 アニマを叩くのは簡単だが、では代わりのあなたなりの世界を見せてみろと言われて、多くの人に「うん」と言わせるだけの答えを持っている人は少ないと思う。
 和田さんは、そのすぐれた個人技で、自分なりの世界を見せてくださっている。すごいことだと思う。大橋さんは、「ファウラ」という本を立ち上げることで、それをこれから見せようとしておられるし、僕はその魂を是非是非見たいと思う。
 
 僕は科学出身だが、アニマ嫌いには共感を感じる。
 僕自身は科学を勉強したわけだし、多くの自然写真家よりも科学の面白さを知っているつもりだし科学的な見方は好きなので、僕が思うままに撮ればそれが結果科学的な見方の写真になっている可能性は高いと思う。だが、科学的に見なければならないとは思わない。
 自然写真に限らず、生き物に接する活動をしている人には、科学を知らない人ほど変に科学的な見方にこだわる傾向がある。単に野鳥を眺めて「調査」だとか「研究」だと言いたがる人が多い。一種のコンプレックスなのではないかと思う。
  
 

 2003.10.2(木) ファウラ

 つい先日販売が始まったばかりの「faura(ファウラ)」は、北海道の自然をテーマに、年四回出版される定期刊行物だが、今日はそのファウラを紹介したい。
 自然の本というと、廃刊になった平凡社のアニマを思い起こされる方が多いのではないかと思うが、ファウラはアニマとは全く違う、むしろ正反対のコンセプトの雑誌だと言ってもいいのかもしれない。
 アニマが科学的・理科系的な視点にこだわったのに対して、ファウラはむしろ文系的な発想を大切にしようとしている
 この本を企画したのは、僕が尊敬する写真家の1人、大橋弘一さんで、今年の1月に北海道でハクチョウを撮影をした際に立ち寄った札幌の大橋さんの事務所でファウラの構想を聞かせてもらったが、その第一号がようやく出版されたのだ。

 ページをめくると、第一印象は新潮社のシンラに近いように思う。シンラには自然以外の記事も多かったが、ファウラは自然の記事だけで約60ページが構成されている。
 シンラもアニマと同様に廃刊に追い込まれたが、シンラとこのファウラの違いは、編集長である大橋さん自身が写真家であることだ。写真家はまさに現場の人間なので、本職の編集者よりも自然をよく知っている。
 その大橋さんが作る本なのだから、僕はとても期待している。
 写真家が自ら本を作るということ以外に、あと1つ、僕がこのファウラに注目するのには理由があるが、それはまた明日にでも書いてみようと思う。

ファウラの注文は
郵便番号・住所・電話番号・氏名・年齢・性別・職業・メールアドレスを
単号の注文の場合は、第何号から何冊を注文するのか
年間購読の場合は、第何号から1年間分(4冊)を注文するのか
を明記して、
E-mail
bird@naturally.co.jp  fax 011-261-1659 まで
電話での注文は、011-261-1658(9:30〜18:00)
価格は、送料込みで1冊1150円 4冊の年間定期購読で5000円(オリジナルカレンダー付き)となっている。

インターネットでの購入は、下記でも手続きができる。
http://store.yahoo.co.jp/snowland/faura.html
  
 

 2003.10.1(水) ちょっと古いカメラ
 
 カメラの具合がおかしくなったので、博多の町に出かけてサービスセンターに預けてきた。学生時代から使っていたものに、若干の狂いが生じ始めた。ついでに現像所によって最近撮影した写真を現像し、カメラ屋さんによってスタジオ用の小道具を購入した。
 僕は町にわざわざ出かけるのは面倒なので嫌いだが、3つくらい用事があると、行こうかなという気になる。今週末からは、スタジオ撮影や来年度の本のための撮影をいくつか予定しているが、今の時期はあまり忙しくないので、そんなゆとりがある時に、機材の修理や現像などのいつかはやらなければならない作業を終えておくことにした。

 修理に出したカメラ・ニコンのF4はもう古いものだが、最新のカメラとは違ったいい所もあり、今でもメインの機材として、僕は全く同じものを2台使い続けている。
 最近のカメラは、カメラにデジタル時計のような窓があり、そこを見ながら、いろいろな設定をするように作られているものが多いが、ニコンF4をはじめ以前のカメラはそうではなくて、今日の画像のように、ダイヤルやレバーで操作するようになっていた。
 共に一長一短がある。
 ダイヤルやレバーが多いと、そこから雨の水滴が漏れたりトラブルの元になることもある。また、コストが高くなるらしい。それから、たくさんの機能を盛り込もうとすると、それに伴ってダイヤルやレバーの数も増え、カメラが操作箇所だらけになってしまう。だが感覚的には、ダイヤルやレバーの方が人に優しくて分かりやすい感じがする。
 そこのところの関係は、ちょうどアナログの時計とデジタルの時計のようなものだと思っていただければいい。アナログの方が人の感覚には合うのだが、デジタルの方が複雑な機能(タイマーやストップウォッチや・・・)を盛り込ませることができたり、たくさん作れば安くなる。
 デジカメが普及して、カメラは機械というよりは電気製品になってきているし、ますます構造が複雑になっているので、F4のようなカメラはもう二度と出てくることはないのだろう。ちょっと寂しい気がする。大切に使おう。
  
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2003年10月分


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