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2009.12.30〜31(水〜木) 更新
今月の水辺を更新しました。
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2009.12.27〜29(日〜火) 辛いこと
先日、上京中に体調がおかしくなったことを書いたら、数人の方から、大丈夫?とメールが送られてきて、ちょっと書き方が悪かったな、と反省。
と言うのも、確かに僕は時々、こんなにひどい目にあった、といった内容のことを書くことがあるが、実は、それを悪いことだとは思っていないのである。
自分が何かを体験したら、はじめて同様の体験をしている人の気持ちが分かる。そして、それ以上に人間らしくて大切なことが、果たしてこの世の中に存在するのだろうか?
「いやいや、病気になったらやっぱり不幸でしょう?どんなにその時に病気の人の気持ちが分かったって、ならないに越したことはないでしょう。」
と切り返されるかもしれない。
だが、大概の人はいずれ病気で死んでしまうのだし、病気になることが不幸だというのなら、一部の老衰で死ぬ人を除いて、大部分の人が不幸な死を遂げているということになるが、本当にそうなのだろうか?
僕は、無用に病気にならないように注意を払う必要があるとは思うのだが、ちゃんと気を配って日々の生活を送った上で、それでも自分の身に降り注ぐことを今度は受け入れることこそが、人が生きるということではないのかと信じる。最後は、やっぱり人間も自然の一部ではないのか、と。
もしかしたらその時に初めて、誰かが病の身で書いた文章が理解できるかもしれないし、大切な人を失った人が書いた詩が心にしみるかもしれない。そして、それを感じられることこそが、何よりも人間らしいことであるような気がしてならないのである。
だから僕は、何事をするにせよ工夫をしたり抵抗をしたりはするが、最後は、別に自分の思い通りにならなくてもいい、と思う。
そう言えば、それに似たことで、以前、
「日記を読んでいると、時々武田さんすごく思いつめてますよね。」
とある方から心配げに言われて、ああ、そんな風に読めるのか、とびっくりしたことがあったのだが、それも同様。実は僕は、上手くいかないことを、とても面白いと思う。
もしかしたら、そうして心配をしてくださる方の方が実は何かを思いつめていて、それに僕の記事がリンクしてしまったのかな?などと思うこともある。
僕は、
「やっぱり仕事って厳しくて辛いものなんですね。」
と言う人がいたら、
「確かに時に辛いのですが、なのに不思議と充実していて幸せなんですよね。」
と意見したいのである。
さて、上京をきっかけにおかしくなっていた体調だが、ようやく回復の兆しが感じられる。昨日は、帰宅後初めて、食事がおいしいと感じた。
上京をするといろいろなところに招かれて、ご馳走が目の前に並ぶ。そして僕はそれをとても楽しみに出かけるのに、いつもすでに都会の喧噪にやられてしまっていて、体が食べ物を受け付けてくれず、味わうことができない。
そして帰宅をしてしばらくして食欲が回復すると、その時に並べられ、無念にも残してしまった料理の数々が目の前に浮かび、気がつくと口の中が唾液でいっぱいになってしまう。
チクショウ、もったいない。
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2009.12.25〜26(金〜土) 写真が上手くなる方法
写真が上手くなるためには、どうしたらいいのだろう?僕が思うに、写真の上達には次の3つの方法がある。
1. 写真をたくさん撮る
2. 他人の写真をたくさん見る
3. 先人の教えを学ぶ
1のたくさん写真を撮る、ということに関して言えば、僕が写真を始めた頃は、田舎の1個人が1本のフィルム(リバーサルフィルム)を買いそれを現像すると、2000円弱のお金が必要だった。
そして当時僕は学生だったから、経済的な理由で、せいぜい週に1本(36枚)程度のフィルムしか消費することができなかった。
だが、今ならデジタルカメラがあるから、学生でもたった一日に36枚以上の写真を撮ることができるだろう。写真は、撮り方さえ間違えなければ撮った量に比例して上手くなる部分があるから、僕が学生の頃に比べると、今なら、7倍以上の速度で写真が上手くなることだって可能に違いない。
2の他人の写真を見ることに関しても、インターネットの普及で断然に機会が多くなった。
昔なら、出版物の中に登場する一部の人の写真しか見ることができなかったのに、今ならブログやその他で数えきれないくらいの作家の作品を見ることができる。
少なく見積もっても、昔に比べると10倍以上の量の写真を見ることができるだろうし、たくさんの写真を見ることで、昔とは比べ物にならないようなスピードで写真を上達することができるに違いない。
しかもインターネットなら、アマチュアやほんの趣味程度の軽い気持ちで写真を趣味にしている人の作品を見られるのがいい。僕は、それらのアマチュアの写真には、ヒントが満載だと感じる。
プロの作品は完成し過ぎていて、そうとしか見れないものが多いのに対して、多くのアマチュアの作品はまだ未分化な状態であり、そこにはしばしば無限の広がりがある、とさえ感じる。
「あ〜、この写真いいなぁ。あとは構図やアングルを工夫すれば凄い写真になるぞ〜。」
などと、軽い気持ちで趣味として撮られた写真に唸らされることが多いのである。お母さんが自分の子供を撮影した写真などは、写真とはいかにあるべきか、写真の基本が、写真のイロハのイがとてもよく分かるのである。
テクニック以前に大切なものが、そこにはある。
3の先人の教えを学ぶことに関しては、今でもやっぱり本がいいかな。3については、僕が学生のころとそんなに違わないと思う。
つまり今は、デジタルカメラを使いこなすことができるか。もっと言えばパソコンを操作できるか。
それから、インターネットに接続できる環境があるかどうか、どれくらいたくさんインターネットを見ているかによって、写真の腕前が大きく左右される側面があるように思う。
デジカメの場合、一枚一枚の重みがないから安易にシャッターを押してしまうし、逆に上達しないという方もおられ一理ある。
だがそれは、「これを撮り、これを表現したい」、という主張をを持たない人の場合であり、撮りたいものがあり、撮っても撮っても足りないというウズウズしている人には当てはまらないような気がする。
つまり、何か伝えたいものを持っていることが、昔に比べると、より重要になってきたのだと言える。
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2009.12.24(木) 帰宅-3
上京中のこと。写真家の黒柳昌樹さんと一緒に町に繰り出す際に、ひどいめまいに見舞われて、電車の椅子に座り続けることができなくなった。
そして、僕が何の予告もなしに突然にガサッと立ち上がったものだから、横に座っていた黒柳さんのみならず、近くに座っておられた数人の方を驚かせてしまったようだ。中には、キョトンとした眼で僕を見ている方もおられた。
都会をうろうろすると、いつも多少なりともそうして具合が悪くなる。さらに帰宅後も一週間くらいの間、頭の中がグルグルとまわり続ける。
一昨日は目まいがひどくてどうにもならず、一日中、丸太のように眠った。明るい時間にあまりに長い時間眠ったものだから夜に目がさえることを心配していたのだが、夜は夜で昏々と眠り続けた。
ちなみに普段の僕は、お腹をこわすことは多いが、それ以外の体調不良とは縁がなく、目まいなどという症状だってほとんど経験したことがない。
まるで自分が自分ではないような気がして、とにかく気持ちが悪い。僕には、都会の水が合わないことだけは間違いないだろう。
が、そんなことでも経験をしてみることは大切なことであり、もしもそうした経験がなかったなら、同様のことを主張する人に対して、
「気合いがはいっとらん!」
と感じてしまうのかもしれない。
とにかく町が合わないと感じておられる方は、体がおかしくなってしまう前に、何とかして引っ越しをして、田舎に移り住むことをお勧めする。
僕は時々、日本の自然はどうあるべきかを考えるのだが、1つの考え方として、住み分けが成立しないだろうか?と思う。
都会が好きな人は都会に、田舎が好きな人は田舎に。そして都会では徹底して効率を追い求め、田舎では自然を最優先にし、市なり町が、自分たちはどちらを目指すかを選択する。
それによって、自然が豊かな土地を確実に残す。
が、その時に問題になるのは、引っ越しはやはり容易ではないということだ。仕事だって、日本の場合、今でも基本はやはり終身雇用だろうから、転職は容易ではない。
アメリカでは、仕事を失っても、次の仕事を得ることは日本ほどは困難ではない、と聞いたことがある。また小泉改革というやつは、さまざまな規制を緩和することによって、もしかしたらそんなスタイルを目指していたのかもしれない。
僕は、政治や社会のことに全く興味がわかなかったし、自然命というタイプなのだが、それでも、本当に一生懸命自然のことを考えようとすると、社会のことや政治が非常に重要であることを思い知らされる機会は多い。
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2009.12.23(水) 自然と人と
阿久根市の竹原市長のブログや発言をめぐって、報道がいろいろと騒がしい。市長は植物の例えを持ち出して、傷んだ木の枝の先端を刈りこまなければ、全体が枯れてしまうといった内容の発言をしておられる。そして、傷んだ木の枝とは、どうも障害者のことを指しているようだ。
僕は、市長のブログを読んだり報道を見聞きし、その主張をすべてを否定するつもりはないが、お粗末な例えだなぁと思う。
植物の例を持ち出して自然の摂理を見習え、自然であるべきというのなら、自然界には国も市も存在しないのだし、政治だっていらないじゃないか、と思う。自然の節理に従って生きていけばいいのなら、弱肉強食でも適者生存でもいいし、行政によるさまざまな規制も、法律も不要になる。
逆にそれに従わないからこそ人間なのであり、政治が必要なのではなかろうか?
僕は、自然写真や自然観察の究極のテーマは、人が生きていくことってどんなことなんだろう?、と考えることなのだと思う。そしてそれは、人間だけを見ていても分かることではないから、いろいろな生き物と人間を比較する。
その結果、いつも最後に思うのは、人間はやっぱり人間だということ。自然を参考にすることは時にとても大切なことだと思うが、人は人の視点でしか、ものを見ることができないのではなかろうか?
例えば、帰化生物の駆除をしておられる方に、ある時話を聞いたことがあるのだが、
「本来ここに生息しているはずの生き物がちゃんとみられるように、外国から入ってきた生き物を駆除しています。」
とのことだった。
本来・・・というと、それはあたかも自然であるかのような感じがする。
がしかし、本来ここに生息しているはずの生き物って何をさしているのだろう?本来とは、いつの状態の自然を指すのだろう?縄文時代なのだろうか?弥生時代なのだろうか?江戸時代なのだろうか?それとも、昭和の初期なのか?人類が文明をもつ以前の話なのだろうか?
たとえば、稲作が始まる以前と以後とでは、そこで見られる生き物の種類や数は、全く違ったものになることだろう。
それによって、本来の自然の中身は違ったものになるはずだ。そもそも、自然は移り変わっていくものなのに、本来の自然なんて存在するのだろうか?
また一方で、本来そこで見られる生き物を主張する同じ人が、せっせと草刈をして、ある特定の植物を生えやすくしておられたりするのを見ると、ますます訳がわからなくなってしまう。本来そこに生息するはずの生き物を・・・と主張するのならば、植物だって本来の状態に放っておかねばならないのではないのか?
僕は、結局人が人の基準で自然を評価し、人の基準において評価が高い状態に自然を保とうとしているに過ぎないような気がするのである。
人はそういう風にしか生きることができないのだから、それを否定したのではないし当然のことだと思うのだが、それは本来の自然でもなんでもないということを知っておくべきなのではないか?と思う。
そのくらいの自覚が欲しいと思うのである。
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2009.12.22(火) 帰宅-2
日本の自動車メーカーは、大きな車=高級、小さな車=安物と考えている節があるのが怪しからん、と主張する人が結構おられる。小さくても、質感がいい、作りにこだわった車が欲しい、と。
確かに、ヨーロッパのメーカーが作る車の中には、小型なのに、実にしっかりとした作りのものがあるが、一方で国産の小型車と言えば、安上がりであることが最優先になっており、車にこだわらない人が乗るもの、という感じがする。
そこに、ヨーロッパと日本の考え方の違いがあるのかもしれない。
カメラにも、多少似た傾向がある。小さなカメラやレンズは、アマチュア用か初心者用といった扱いだ。
確かに、よく写る道具を作ろうとすると物はでかくなってしまうから、大きな道具=よく写る道具=プロ用という構図は、分からないでもない。
が、自然写真に使う道具の場合、小さいというのも1つの重要な性能であり、僕は小さくても質感がいい、車に例えるならヨーロッパ車のようなカメラやレンズを使いたい気持ちがある。
その点、日本のメーカーの中で一番ヨーロッパ的な発想なのはニコンであり、それゆえに僕はニコンを持ち続けている。
ニコンのカメラやレンズは、車で言うなら小型車や中型車に相当するような機種でもそれなりに丁寧な作りになっている。
もちろん、ニコンにも高級なカメラがあり、僕もそれを持っているしそれはそれで魅力があるのだが、昔から、ニコンが作る最高級機以外のカメラやレンズの作りの丁寧さが好きなのだ。
それは繰り返しになるが、大きさということに他ならない。
ナショナルジオグラフィック誌のページをめくってみると、時々取材中のカメラマンの様子が紹介されているが、僻地で取材をするカメラマンには、小さなカメラを胸からぶら下げている人が多い。一昔前ならニコンのF100あたりを使用している人が多かったように思うが、それも同じ理由なのだと思う。
そして、小さなカメラをぶら下げている彼らの様子を、僕は、非常にカッコイイ、といつも感じるのだ。
道具の大きさと言えば、上京した時に必ず行く場所の1つにカメラ屋さんがある。
僕は通販大好き人間なので、九州に住んでいてもそんなに不自由はないが、それでも、道具の大きさなどは手に取ってみたり、現物を見てみなければ分からない部分もたくさんある。
今回は、お店で撮影用のアクセサリーを新しいものに買い替えるべきか、それともカメラバッグを買い替えるべきか、ずいぶん悩んだ。
お店の売り場をウロウロしているうちに、あっという間に数時間がたってしまったのだが、カメラバッグのフロアーをかなりの長時間ウロウロする人間がいて、きっと店員さんも気味が悪かったのではなかろうか。
撮影用のアクセサリーとカメラバッグとはジャンルが違うのだから、変な迷い方だと感じる方もおられるだろうが、要は、現状では荷物の量が多過ぎてバッグに収まりにくくなっており、アクセサリーを小さなものに買い換えてこれまで使用してきたバッグに収まるようにするのか、或いはバッグの方を大きなものに買い換えるべきかで悩んだのだ。
僕の第一希望はアクセサリーを小さくすることだったのだが、予算の関係で、結局、カメラバッグを換えた方が安上がりだと分かったので、バッグを換えることにした。
正確に言うと、バッグに外付けで取り付けるポケットを、従来使用していたものよりも大きくした。
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2009.12.18〜21(金〜月) 帰宅-1

僕はだいたい年に一度、冬に上京することが多いが、上京した際の去年と今年の違いと言えば、今年はいろいろなところで、動画について聞かれたこと。これは、去年まではほとんどなかったことだ。
そこで、僕の動画に対する考えを、少しだけ書いておこうと思う。
下手をすると動画は、説明力があり過ぎるだけに、人の想像力を奪ってしまう。分かりやすい分、人から考える機会を奪う嫌いがある。
特に僕の場合は、自然物は自然物でも子供向けのものが多いわけだが、自分が作るものが子供の想像力を奪わないように、手取り足取りになり過ぎないように注意する必要があると思っている。
そう言う意味で、僕は写真+文章の組み合わせが好きだ。
一方で、動画には人を強くひきつける力がある。
例えば、学生時代から社会が苦手だった僕でさえ、社会に関して上手にまとめられたテレビのドキュメント番組を見ると理解ができる。
肝心なのは、そのあとではないのか?と思う。その番組を見て、「へぇ〜」とか「ああ、わかった」で終わるのではなく、今度は本を読んでみたいなぁと人に感じさせることができるかどうか。
それができる動画が、いい動画ではなかろうか。
仮に自分が本格的に動画に取り組むのであれば、そんなものを目指してみたい。要するに、動画と本なり写真なりが連続した世界になるように。
それが自分なりに見えた時に、本格的に動画取り組んでみようかと思う。
僕の場合、動画は今のところ完全に遊びレベルなのだが、撮ることよりも、編集することの方に面白さを感じる。そして、その際の動画は必ずしも自分が撮影したものである必要はなく、他人が撮影した動画でも、自分で切り貼りしてコンパクトなドキュメント、一つの物語を作ることを楽しいと感じている。
動画とあと1つ、去年と違うなぁと思ったのは、コンビニやファーストフードの店員さんの中に、僕がこれまで見たこともないような見事な笑顔で、
「ありがとうございました。」
と挨拶する人がおられたことだ。ただニコッとするだけでなく、歯が見えるような笑顔なのである。
田舎者の僕などは、
「なんや、この笑顔は・・・」
と少々面食らったことが何度かあった。
接遇という言葉を今年になって初めて耳にしたのだが、歯を出して笑顔を作るように接客マナーを指導するおばちゃんのことを取り上げたテレビの番組を、今年になって何度か見た。
そして僕が今回東京で見た見た笑顔は、まさにその笑顔だった。
お見事!まさにプロフェッショナルだし、訓練を受けた者にしかできにくい笑顔だと思う。
が、個人的な好みを言えば、僕は、その手のものは好きではない。
きっと詐欺師だって、実に見事な笑顔で近づいてくるのではなかろうか?
そんな笑顔に左右されない自分を持つことの方が、より大切であるような気がしてならないのである。
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2009.12.17(木) 上京4日目
午前中、八重山の写真家・黒柳昌樹さんに案内してもらい、東京の街を歩いた。
黒柳さんは、東京生まれの東京育ち。そしてそれだけでなく案内がとてもうまいので、一緒に歩くと楽しい。
待ち合わせは水道橋の駅のホームで方向は新宿方面だったのに、僕は間違えて逆のホームへと行ってしまい、少しだけ時間に遅れてしまった。
水道橋の駅は単純な作りなのに、そんな場所でさて間違えてしまう僕は、人に会うのは好きだが、時間を決めての待ち合わせが大の苦手だ。
午後からは仕事の打ち合わせで、ある出版社へ。事前の約束の際に担当の方が、
「何時にお越しになりますか?」
ではなくて、
「何時頃お越しになりますか?」
と尋ねてくださったのが、待ち合わせが苦手な僕にとって、とてもありがたかった。会社員の人とその会社で待ち合わせをするのに、何時頃?と聞かれたのは、生まれて初めてではなかろうか?
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2009.12.16(水) 上京3日目
写真家にはロマンチストが多く、その写真をまとめて本作りをする際の編集や構成を担当する人には現実主義者が多い。そしてしばしば、ロマンチストと現実主義者の間で、綱引きがはじまる。
写真家の立場からすれば、時には、ロマンをバッサバッサと切り捨てられることもある。
ところが今僕と一緒に本を作っている凹山さんはロマンチストであり、僕のロマンを切り捨てられるどころか、写真家である僕の方が、現実的なことについて心配になってしまうほど。
いやいや凹山さんとてプロであり、当然現実をよく知っておられるのだが、それでもロマンの方があふれだしてくると言った方がいいのかもしれない。
そこで、僕も営業的なことを知っておいた方がいいだろう、と上京3日目は出版社に出向き、現実的なことについて勉強をしてきた。
好みを言えば、僕は、ロマンチストタイプの編集者が好きだ。
今回の上京でも、
「ああ、あの人に会いたいなぁ」
という相手は、どんどん仕事を与えてくれる現実主義者タイプの人よりも、ロマンチストなのである。
人によって好みが分かれるところだろうとは思うが、僕の場合は、自分がロマンを主張し、それを誰か現実的なことがわかる人にまとめてもらうよりも、ロマンチストと組んで、自分で現実的なことをも考える方が性に合っているような気がする。
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2009.12.15(火) 上京2日目
自然写真はとても小さな市場なので、仕事を取捨選択するような自由はあまりない、と考えておいたほうがいい。だから、依頼されれば誰とでも仕事をすることになるし、それを節操無いなぁと思うこともあるが、そうせざるを得ないのであり、年々知り合いが増えていくことになる。
だが、本の世界へと足を踏み込む際のまだ右も左もわからなかった頃一緒に仕事をした相手は、僕にとって、特別な存在であり、年に一度は必ず会いたいなぁと思う。
仮に今一緒に仕事をしていなかったとしても、またそこで交わされる会話が別にとりとめのない内容であっても、僕はそこで初心に帰り、それまでの自分を一度すべておさらいできるような気がする。
ただそれは僕の都合であり、忙しく仕事をしている相手にとっては、何か気の利いた仕事にかかわるネタを持っていかなければ迷惑な話かなぁと思うとも思う。
がとにかく、年に一度会いに行くのである。
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2009.12.12〜14(土〜月) 上京


過去に思いついたアイディアの中で、これぞ!という自負があり、しかもそれが企画として成立したものの中には、なぜか飛行機の中で考えたものが多い。
あまり自由がなく他にすることがないあの空間が、物事を考えるのに適しているのだろうか。
今回は、ここ2〜3ヶ月間どうしたものかと頭を悩ませていた案を、大まかにではあるが、まとめることができた。
飛行機の中から日本列島を眺めてみると、川の流れによって運ばれてきた土砂によって造られた土地に大都市が発達していることがよくわかり、都市と自然とのつながりや、水という被写体を改めて面白いと思った。
今自分が、水をテーマにすることであらわそうとしている物事が、なかなかいいんじゃないか!と思えてきた。
飛行機が買いたいなぁ。
カメラは置いていくつもりだったのに、カメラメーカーの忘年会に参加することにしていたので、コンパクトタイプの小さなものを1つ持っていくことにした。
が、会場について、しまった!と思った。
よく考えてみればオリンパス社の忘年会なのに、僕が持ってきたカメラはリコーの製品だったのだ。そして、多くの参加者が、まるで社員証のようにオリンパスのカメラを胸からぶら下げておられるのを目にしたときには・・・・・。
付き合いが悪い僕が忘年会に参加する、という事実に驚いた人もおられるだろうが、今回は、八重山の写真家・黒柳昌樹さんが一緒に参加してくださるとのことだったので、行ってみることになった。またオリンパスの会場では、トンボ写真で有名な尾園暁さんと初対面を果たすことができた。
普段僕を支えているものは、大まかにいえば反骨精神なのだが、黒柳さんや尾園さんは大変にやさしいタイプであり、お二人と話をすると、ああ大人だな、と身につまされる思いがして少し自分が恥ずかしくなる。
忘年会終了後は、昆虫写真家の海野先生の事務所へ。
海野先生と話をすると、いつものことではあるが、今の自分にはわからないことがたくさんある。
僕は、自分はこう思うという思いが割と前面に出てくるタイプなので、その波長が合った時に人と共感したり合わなかったときに共感できなかったりすることは多く、比較的はっきりするタイプだと思うが、逆に人と話をしてわからないというのは普段あまりなく、海野先生と話をする時間は、そんな僕にとって、他では体験できにくい時間だ。
先生の定義は人のよって異なるが、そんな相手が、僕にとっての先生だ。
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2009.12.11(金) 準備
14日からの上京の準備。
本当なら、是非とも参加したいイベントが明日開催されるのだが、今年は土曜〜日曜日にどうしても留守をできない事情があり、月曜日からの出発となった。
上京をして人と会うのは楽しいが、東京の喧騒は田舎者の僕にとって大変に堪える苦痛であり、楽しみと煩わしさがごっちゃ混ぜになって押し寄せてくる。
ああ、どこでもドアがあったらなぁ。
人ゴミの中でクタクタになった頭で人と会うのではなく、一度くらい、みなさんとしらふであって話がしてみたい。、
大きな旅行用のトランクを1つ、ホテルに送った。
カメラは持っていくまい。飛行機や電車など待ち時間がたくさん生じるが、スナップ写真を撮るよりも、企画を練り上げることに使おう。
「企画を1つ、持っていきます。」
と約束だけ、あらかじめ交わしておく。
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2009.12.9〜10(水〜木) リフォーム
うちの事務所は元々は完全に放置された崩壊寸前の空家であり、当初は、ここを本当に使うの?と聞き返されたくらいにボロボロの建物だった。
屋根には穴。
そして、そこから降り注ぐ雨水によって、天井は部分的に崩落。
恐らくあと5年も放置されていたならば、取り壊し以外に選択肢はなかっただろう。
その後、手を入れて住めるようにし、さらには外壁を新しくしたので、今では見栄えはそこまでひどくはない。
だが、中身はやはり問題だらけであり、風が強いにはすべての窓を閉めていても、室内を風が吹き抜け、窓や扉がガタガタと揺れる。
隙間だらけだからだろうか?それとも、放置されていた期間が長かったからだろうか?
埃も凄い。
どんなに床を磨いたって、スリッパを履くことなしに暮らすことはできない。その汚れ具合は、ちょうど小学校や中学校の校舎のような半土足的な場所を思い浮かべてもらえばいい。
近くを大きな車が通ると、巨大な地震に見舞われたかのように揺れる。
つい先日も、事務所にお越しになっていた方が、目を丸くして驚いておられたので、
「近くを工事用の車両が通っているんですよ。」
と説明しなければならなかった。
だが僕は、そんなボロ屋を、それなりに気に入っている。
なぜなら、壁に釘を打ちたい時には心おきなく打つことができるし、時には壁に穴をあけることもできる。たとえば、僕は魚を飼育するために屋外に業務用の巨大なエアーポンプを置いているのだが、そのエアーの一部を、チューブを使って、壁に穴をあけてスタジオに引き込んでいる。
スタジオ内で魚の撮影をする際には、そのエアーを状況に応じて使用している。

2階は、床が抜けかけている箇所が数か所あって、使用することができない。
が、年明けにも、その2階に手を入れてリフォームをし、撮影や生活のためのスペースを増やす予定だ。
その2階だが、一旦は使うつもりがなかったので、空き箱、滅多に使わない道具、粗大ゴミの置き場だった。また、元々空家に放置してあった家具なども多数置いてある。
だから工事が始まる前に、まずはそれらを整理しなければならなかったのだが、捨てるものを1つの部屋にまとめたら、部屋がご覧の通り、いっぱいになった。
一部屋にまとめるだけの作業に、3日も要した。
ここ数年は、冬に一ヶ月ほど野鳥の撮影に出かけていたのだが、今年は訳あって出かけることができないので工事をするにはちょうどいい。
ついでに機材についても、何が本当に良くて何がそうではないのか?徹底して研究することにした。
今研究中などのは、先日も紹介したシルキーピクスという画像処理ソフトだ。カメラはニコンのD700。
先日は晴れの日に試したので、今回は小雨の中でテスト。
うん、D700のデータとシルキーピクスの画像処理は、非常に相性がいい!
 NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S
 NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S

NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S
そして、機材の修理や点検も。
ここ数年忙しくて、不具合が生じている機材を修理するゆとりがなく、不具合をごまかしながら使用していた。
が、今年は冬に遠出をしないこともあって、それらをすべて修理することにした。
すでにレンズ3本がメーカー送りに。
また、カメラ2台をこのあと修理することになっている。
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2009.12.8(火) 画像処理の研究
先日、知人のブログを見ていたら、ニコンのカメラとキヤノンのカメラの画質を比較した印象が書かれていた。
彼が言うには、野鳥にはキヤノンの画質が向くが、飛行機にはニコンの画質が合うとのこと。
ネット上の記事には信頼できないものも少なくないが、すご腕の男が言うのだから間違いない。
また、僕は飛行機を撮影したことはないが、彼の意見に同感。ニコンは機械のような質感の物体を撮影するのに適し、キヤノンは自然物の撮影に適する画質だと思う。
では、その差はいったいどこからくるのだろう?
センサーの違いなのか?それとも、カメラ内部での画像処理の違いなのか?
そこで先日からいろいろと試しているのだが、今回は、画像処理をするソフトを変えてみた。これまでニコンのカメラを使用した場合は、ニコンの純正ソフト・キャプチャNX2を使っていたのを、シルキーピクスという別のソフトに変えてみた。
結果は、ニコンのカメラで撮影したのに、まるでキヤノンのカメラのような画質になった。自然物の撮影には、ニコンの純正ソフトよりも、シルキーピクスの方が適しているような印象受けた。
ただ、純正ソフトには純正の強みがある。
たとえば倍率色収差という現象があり、被写体の輪郭に本来存在しない色が発生することがあるが、ニコンのカメラで撮影し、ニコンの純正ソフトで処理をすると、その倍率色収差が実に見事に処理される。しかも自動的に。
シルキーピクスにも同様の機能があるが、自動ではないし、ニコンのソフトほどは、処理が完璧ではない。
つまり、画像の質感や色に関してはシルキーピクスに魅力があるが、その他に関してはニコンの純正ソフトがいい。
実に悩ましい。
今日は、その倍率色収差がどんな状況でどの程度発生するのかを試すために、事務所の近所をウロウロして、あたりに適当にカメラを向けてみた。
今日の撮影に使用したニコンの20ミリレンズは、僕が大学時代に買ったものだからずいぶん古いものだが、気になるほどの倍率色収差は見当たらなかった。

NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S

NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S

NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S

NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S

NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S
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2009.12.6〜7(日〜月) 多様な価値観
ここ数年テレビの番組などで昔のヒット曲を取り上げたものが多くなったのは、昔を懐かしむことがブームになっているから、とどこかで聞いたことがある。
だが、僕には、もっと別の理由があるような気がする。
昔の曲には、子供〜大人まで幅広い年齢層の人が楽しむことができるものが多い。だからではないのかな?と感じるのである。
最近は、多様な価値観が認められるべき、などと言って、音楽の世界にもいろいろなタイプのものがある。が、多様化した結果、すべてがマニアックでもあり、みんなで楽しむことができ、みんなが知っているような曲は逆に少なくなってしまった。
B'zのCDが爆発的に売れたからと言ったって、それを聞いたことがあるのは主に若者で、年配の人の中にはただの一度さえも耳にしたことがない方も多いに違いない。
多様な価値観が認められることって、そんなに素晴らしいことなのか?と僕は近頃、世のトレンドを疑問に感じることがある。
カメラも、デジタルになってからはいろいろな規格や形態のものが登場し、昔に比べると多様になり、選択肢が増えた。
いやいや、フィルム時代だって、35ミリ、645、67、45などといろいろな規格が存在したじゃないか?と言う人もおられるだろうが、それらは最初から用途が違っていたのであり、同じカメラという枠に収めてしまえるような代物ではなかったし、選択肢がたくさんあったという感じではなかった。
が、選択肢が増えた今、むしろ、カメラという道具は、なんだかつまらなくなったような気がするのは僕だけだろうか?
昔のニコンや、キヤノンや、オリンパスや、ミノルタや、ペンタックスのカタログを眺めてみると、各社が同じ1つの土俵に上がり、同じ方向を向いてしのぎを削っており、その中から名機が登場してきたように僕には思える。
人間が自由になったり価値観が多様な方向へと向かうのは、おそらく当然のことなのだろうが、それが正しいことであり、素晴らしいことだと思い込んでしまうのは、大間違いであるような気がしてならない。
さて、山田緑地での写真展が終わり、今日の午前中は撤去作業に行ってきた。
一緒に写真展を開催した野村芳宏さんが新しいカメラとレンズを買ったというので、北九州市内のフィールドを何箇所か見て回り、機材のテストをさせてもらった。
機材の比較テストと言えば、フィルムを使用していた時代に比べると、カメラが多様に複雑になった分、比べることが難しくなった。
比べようにも、比べられないのである。
例えるなら、人と人の意見がぶつかった時に、
「いろいろな意見があっていいんじゃない?」
と言われると、それ以上話が深まらないことにどこか似ているように思う。
どんな視点でテストをしたかだけ、下に紹介しておこうと思う。
掲載した画像は、すべて僕のカメラで撮影したもの。ほぼ同一のカットを、野村さんのカメラでの撮影した。
まずは、モノトーンで、微妙に凸凹した被写体の比較から。
僕が知りうる範囲内では、カメラの描写の差が一番大きく出るのは、凸凹した状態の砂浜を、順光で撮影した時。
順光の時に砂の凸凹の立体感を再現できるデジタルカメラは、絵作りが優れていると言える。今回のテストでも、2台のカメラの描写の差は大きく、野村さんも驚いておられた。

次に、砂浜を一応逆光でも撮影してみる。

山のもこもこした感じを比較してみる。これは、丸みの表現力の比較。

逆光時の描写の比較と黒の締まり具合の比較。こうした条件下では、カメラよりもレンズの描写の差が出やすい。

はっきりした形を持たない被写体、この場合は水の描写の比較と青空の色の抜けの比較。

はっきりした輪郭を持つ被写体の比較。

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2009.12.5(土) 強迫観念
主婦という生き物は極めてちゃっかりしており、値引きのクーポンなどがあれば決して見逃さない、と聞いたことがある。
一方で僕は、そうしたことに関しては、なかなか積極的になることができない。値引きのクーポンを持っていても、厚かましいような気がしてどうしても提出できないし、それどころか間違えたものを買ってしまった際の返品程度のことだって、「間違えたのは自分だし・・・」となかなか切り出すことができない。
先日は、コンタクトレンズの保存に使う液体を間違えて買ってしまった。2箱も買ったものの、それは僕が使用しているハードコンタクト用ではなくて、ソフト用の製品だった。
僕は、返品すべきかどうか、ずいぶん迷った。
が、最終的には主婦を見習う決意を固め、返品を切り出してみることにした。
返品は、当り前のように受け入れられた。
がしかし、返品されたあの箱はどんな扱いを受けるのだろう?また棚に並ぶのか、それとも一旦誰かが買って帰ったものとして処分されるのか。一抹のバツの悪さも残った。
僕はコンタクトは水につけて保存をしているので、専用の液など、これまでは買ったことがなかった。
ところが、つい先日コンタクトレンズを新調した際に、保存液なるものをすすめられた。
「水などとんでもない。保存液でなければ!」
と言う店員さんの言い分は、 僕には、まるで何かの強迫観念に駆られているかのように聞こえた。
なぜなら、僕はもう20年以上もコンタクトレンズは水につけて保存しており、それで何1つ不都合なことは起きていないのだから。
もちろん、店員さんだってその程度のことは分かっており、その上で商売をしているのだとは思うが、そうしなければならない、というようなすすめ方ではなくて、もっと気の利いた会話ができないものかと思う。
結局僕は、そこでは保存液を買わずに、逃げるように店の外に出た。
写真の世界にも、そうしなければならない、とまるで強迫観念にかられたような言い分がある。
たとえば、最新のデジタルカメラには最新のレンズをレンズを付けなければならないとか、画素数が大きなカメラを購入したら、パソコンも買い替えなければならないとか・・・。
馬鹿じゃなかろうか、と時に思う。
確かに、最新のレンズでなければ真価が発揮できないようなカメラもあるにはあるが、それは一部のカメラであり、また、古いレンズだって、最新のデジタルカメラに取り付けてちゃんと写るものはたくさんある。
さらに、画像を馬鹿みたいに拡大してみれば、確かに新しいレンズは古いレンズよりも欠点が少ないケースが多いが、一般的な大きさの画像を鑑賞するのであれば、その差が分からないことの方が多いのである。
またパソコンだって、確かに一部の動作が遅いソフト(キャプチャーNX2でRAW現像をする場合など)を使う場合は、高画素なデータには高性能なパソコンが必要になるが、それ以外の大概のケースでは、そこまで神経質になる必要もない。
なんだか窮屈だなぁと思う。
さて、コンタクトレンズの保存液だが、どんなものかだけは調べておこうと薬局に行ってみた。
もちろん、それを買うつもりなど全くなしに、
ところが、箱に書かれた使用説明書を見て、これはいい!と気が変った。と言うのも、前の日の夜にコンタクトレンズを外し、保存液に漬けてさえおけば、翌朝、保存液を洗い流すこともなしに、そのまま目に着用できると書いてあったのである。
これは車の中で寝泊まりする時にいい!
僕はいつもはコンタクトレンズを専用の液で洗い、さらに液を水ですすいで着用しているが、車の中でコンタクトレンズのようなデリケートで、小さくて、しかも紛失しやすい物体を擦り洗いし、さらに水できれいにすすぐ作業をいつも面倒だと感じていたのだ。
だから、その商品に飛びついてしまったわけだが、それはソフトコンタクトの話だったのである。
ハードコンタクトレンズにも保存や滅菌をするための液が販売されてはいるが、それらはいずれも水でちゃんとすすぎをする必要があり、僕にとって特別に便利なものではなかった。
● 写真展のお知らせ
山田緑地にて写真展を開催します。内容は、以前に平尾台やグリーンパークで展示したものと全く同じものです。平尾台やグリーンパークでの展示をご覧にならなかった方は、是非お越しください。
期間 11/8〜12/6
その他 9:00〜17:00 火曜日休館 入園料無料 駐車場300円
内容 野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展
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2009.12.4(金) 本作りと写真撮影の違い

NikonD700 Ai Nikkor 20mm F2.8S

AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)
この日記で時々紹介する町の水路は、元々は田圃の合間を流れる水路だったものが、町となった今でも取り残されたままになったものだ。
だから、そうした時代の変化を思い描きながら、僕は撮影を進めている。
一方で今日の画像の場所は、町の水路は水路でも全く違った目的の水路であり、それら2つの水路が近くだからと言って、写真を一まとめにしてしまうことはできない。
つまり、町の水路にいろいろな生き物がいて、それがだた面白いから本を作るのではなく、僕は、その本を通じて時代の変化を表してみたいと考えている。
町の水路の写真を撮り始める時は、むしろ逆だった。時代の変化とか、本にまとめることなんて、ほとんど何も考えていなかった。
僕はただ、町中の水路の生き物たちが面白いと思った。
ところが、そのおもろい生き物をもっと見たいと何度も同じ場所に通い、写真を撮っているうちに、いつの間にか大きなテーマが浮かび上がってきて、今度は、そのテーマに則って、1から写真を撮り直すことにした。
感覚的に、本を作ることと写真を撮ることはずいぶん違うことだなぁといつも思うのだが、それこそが本作りと写真撮影の違いではなかろうか?
写真撮影は、面白いと感じたものの写真をまるでコレクションのように集めていけばいいのだが、本作りには何か1つ大きなテーマが欲しい。
もちろん、生き物がただおもろいということもとても重要なことだが、その面白いが、一本筋の通った物語の中で表現される必要がある。
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山田緑地にて写真展を開催します。内容は、以前に平尾台やグリーンパークで展示したものと全く同じものです。平尾台やグリーンパークでの展示をご覧にならなかった方は、是非お越しください。
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2009.12.2〜3(水〜木) カメラマンは目が命
最近のカメラはオートフォーカスと言って機械が自動でピントを合わせてくれる。
だがそれでも、オートフォーカスが通用しない被写体もあるし、その場合は自分の目で被写体を見ながら、自分の指でレンズのピントを操作してピントを合わせることになる。
そしてその際には、視力の良し悪しが物を言う。
ところが、である。
僕はコンタクトレンズを使用しているのだが、コンタクトレンズの視力を上げ、遠くが良く見えるようにすると、その代償として近くが見にくくなる。
一番困るのが、字を読む時だ。
果たして撮影を撮るべきか、それとも字を読みやすくするべきか。
これまで愛用してきたコンタクトレンズは、撮影を重視したものだった。とにかく、遠くを見ることばかりを考えていた。
だが、ちょっとそちらに偏り過ぎているきらいもあった。
また、片目を隠してあと一方の眼だけで字を見ながらグーンとその字に近づいていくと、やがて近づきすぎてピントが合わなくなるが、これまで使用してきたコンタクトレンズでは右見と左目とでその距離が10センチほど違っていて、それも字を見にくくする原因になっていた。
字を読みやすい距離に本を近づけると、左目ではピントが合うのに、右目ではピントが合わないなどということがあった。
そこで今日は、もう少し近くを重視し、さらに近くを見る際の左右のバランスを重視して、新しいコンタクトレンズを作ることにした。
大嫌いな病院へ。
機械で眼球のカーブの具合を測ってもらうのだが、まばたきを我慢して機械の中をのぞきこんでいると、眉間の辺りが痛くなって、気が狂いそうになる。
医療は決して人に意地悪をするために考え出されたものではないのに、時にまるで拷問のようだ。
● お知らせ
今月の水辺を更新しました。
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2009.12.1(火) カメラマン
水族館で、ある生き物の撮影。今回は東京からディレクターと編集担当の方がお越しになったので、僕の仕事は楽チンだ。ただひたすらに、写真を撮ることに集中できる。 一方でディレクターは、昼食を取っている間も、午後からの撮影をどう進めるべきか頭を使っている様子だった。
地方に住んでいると、東京の出版社からの依頼を受け、自分で一人で写真を撮りに行くこともあるが、そんな場合は、仮に「こんな風な写真を撮ってください」とあらかじめ絵コンテをもらっていたとしても、実際にはその通りに写真が撮れないことも少なくないし、自分で何をどう撮ってどんな物語を作るのかも考えなければならない。
だから、常に頭を働かせておく必要があり、これが非常に疲れる。
その点、手足のように動けばいい仕事のなんと楽なことか!
ただ僕は、今のところは、誰のサポートもなしにひとりで撮影に行くのも嫌いではない。なぜなら、そんな機会は本作りを勉強するいいチャンスになるから。
本作りと写真撮影は別の作業であり、写真が上手い写真家は数多く存在するが、本作りをもある程度心得ている人は意外に少ないものだと思う。
自分がただ好きなように写真を撮るのではなく、自分と他人とを両立させなければならない。
その際には、世間のニーズの中に、自分が好きなものを見出すのもよし。逆に、自分が好きなものの中に世間のニーズを見出してもいい。
人がお越しになることで大変になる部分もある。それは、旅費などがかかっているので、カメラの故障なども含めて、すべての失敗が許されないことである。
今回も、帰宅をして事務所のパソコンで撮影した画像を確認するまでは、大変に不安な気持ちになった。
僕は過去に、うっかりは別にして、撮影した画像がトラブルで消えてしまった経験はないのだが、それでも不安で不安でたまらなくなる。
そうした取材の場合、レンズのボケ味とか、デジタルカメラの微妙な描写性能などは全くどうでもいい。とにかく、確実に、シャープに写っていることが重要。
今回の取材は、水族館の暗い場所での撮影だったので、高感度の画質に優れたニコンのD700を使用したが、できればD3かD3sが欲しかった。
僕は以前ニコンのD3を持っていたのだが、D3Xを購入する際に経済的な理由で手放さざるを得なくなり、もう手元にはない。
D3とD700の違いだが、画質はほぼ同一であるものの、D3の方がカメラのファインダーをのぞいた時の像が見やすい。したがって、暗い場所で撮影する際には、ピントが合わせやすい。
またD3には2枚の記録メディアを挿入することができるので、一方のメディアが壊れていた場合でも、他方で救われる可能性がある。
D3sは、さらに高感度の画質がいいと言われている。
普段の自然写真しか撮らない僕は、高感度の画質なんてどうでもいいと思っているのだが、取材をしてみると、そんな考えは一瞬でぶっ飛んでしまう。高感度の画質が優れたカメラは、非常に非常にありがたい。
D3以降のニコンのカメラは、高感度でのノイズが少なくて、高感度の画質が非常に良くなった。
一方で、高感度のノイズを少なくすると、写真の質感が悪くなってしまう嫌いがある。
それを、ニコンのやり過ぎであり、間違えだという人もおられるようだ。だが、そんなことを言う人は、おそらく取材の現場を全く知らない人だろうと思う。
要は、機材は適材適所。これに尽きる。
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