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2009.10.30〜31(金〜土) 更新
今月の水辺を更新しました。。
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2009.10.29(木) 変温動物

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)
イノシシの撮影に全神経を集中している間に、いつの間にか朝はずいぶん冷え込むようになった。
金魚の撮影を早めに終わらせてしまわなけば、寒くなると金魚は泳いでくれないし、その場合はヒーターを使用して水温を上げなければ撮影ができなくなる。
そしてヒーターを使用すると、水換えの際にいちいち温水を作り、温度を合わせなければならないから、各段に飼育に手間がかかるようになる。
アーティストなら、わざわざ面倒なことをやってみたり、わざわざ非効率なことをして楽しむ手もあるのだろうが、僕のような凡人は、物事はなるべく簡単に終わらせるに限る。
金魚の撮影は、常温で金魚が泳ぐ間にすべて終わらせ、あとは魚たちには屋外で冬眠してもらうに限る。
そこで昨日からは、金魚に多めに餌を与え、一日中水槽の前に張り付き、金魚が糞を出すたびにカメラのシャッターを押し続けている。
それにしても、写真撮影って難しいなぁ。
撮っても撮っても、なかなか、思ったようなイメージには写らないのである。
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2009.10.28(水) じっくり

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM
ある湿地の周辺に釣り糸を張っておくと、夜の間にそれが引きずられており、イノシシが、毎晩のように、泥を浴びるために湿地にやってきていることがわかった。
ところが、自動撮影カメラを設置したら、イノシシが出てこなくなった。どうもイノシシは、僕が置いたカメラを嫌っているようだった。
そこで、カメラを設置する位置に、代わりに木の枝を三脚のように組み、カメラのダミーとしておいておいたら、今度は、イノシシがやってきた痕跡があった。
「木の枝なら大丈夫なんやなぁ。」
ならば、とそのダミーの三脚の位置にまたカメラを設置すると、やっぱりイノシシはこなかった。
木の枝で組んだ三脚と本物の三脚やカメラとの違いを、イノシシは認識できるのだろうか?とにかく、賢いことには違いない。
「敏感やなぁ。」
その場所に僕が立てる三脚は、カメラ用、ストロボ用がそれぞれ1本に、センサー用が2本の合計4本。果たして、そのうちのどれがイノシシに嫌われているのだろう?
これは面倒ではあるが、その4本の三脚を順に毎晩1本ずつ立て、まずはイノシシが嫌っている三脚がどれなのかを、ちょっとばかり調べてみようと思う。
写真が撮れるかどうかとは別に、イノシシに何がどう見えているのかを知りたいと思う。
ただ、その前に、ここのところ雨が降っておらず、湿地は乾き、イノシシが泥を浴びる場所としては適さなくなりつつある。そのせいなのか、痕跡の数が徐々に減っているような感じがする。
ということは、湿地の乾き具合の関係でイノシシが来なくなった可能性も排除できない。
そこで今日は、三脚を1本ずつ立ててみる試みの前に、まずは再び湿地の周辺に釣り糸を張り、イノシシの出没を確認することにした。
イノシシの撮影は僕の予想以上に難しそうだ。これは、急がば回れで、じっくり構える必要がある。まずは、イノシシの気持ちが多少は理解できるようになることが先決だろう。
泥を浴びるイノシシの撮影は、出版の予定から逆算すると、来年の秋くらいまではチャンスがある。
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2009.10.26〜27(月〜火) 1つのこと
午後4時、イノシシを撮影するための自動撮影カメラを持って、森に出かける。翌朝は、4時に起床して、それを回収する。
自動撮影カメラを仕掛ける夕刻までは何もすることがないから、その間は、どこかで写真を撮ればいいのだろうけど、全くその気になれない。
僕には、何か1つのことに取り組むと、他のことが全くできなくなる傾向がある。
1つのことを続けている限り、それができるまでの間の精神的なスタミナにはそれなりに自信があるが、作業の内容が変わるとそこでプツンと集中が途切れ、途端に体が重たくなる。
だから、
「今日はこの写真を撮る」
と決めたら他の写真は撮れないし、その結果、だいたい1種類の生き物か、一カ所の写真しか撮れないのである。
朝早起きをしてイノシシ撮影用の自動撮影カメラを回収すると、午前7時30分頃には事務所に帰り着き、一段落する。
すると、僕の体は、その日の一日が終わったかのような反応を示す。まるで朝から晩まで働いた日の夜のように、体が重くて切れが悪い。
先日、トンボ写真の尾園暁さんのブログの中で、僕のホームページを紹介してもらったのだが、その尾園さんなどは、僕とはタイプが異なるようであり、大変な馬力の持ち主だと思う。
尾園さんが一度撮影に出かけると、その日のブログには、いろいろなタイプの写真が掲載される。また、少しでも暇を見つけては写真を撮っておられるような印象を受ける。
昔は、何か1つしかできないことや、その結果何もしていない時間が大変に長くなることが、
「こんなんで大丈夫か?」
と大変に不安になったものだ。
だが、僕の場合は、そんな時間が必要なのだろう。僕は時々、
「ここのところは忙しい。」
と書くことがあるが、それは、何もしていない時間も含めて忙しいのである。
その何もしていない時間の中から、新たなものが生まれる。
きちんとした目的を持っていたら、逆にできなくなることもある。
とは言え、それでも、今でもその何もしていない時間に、多少は不安に取りつかれるのは、まぎれもない事実なのだが。
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2009.10.25(日) 仕事場

金魚が、長〜い長〜い糞をおしりにぶらさている様子を撮影したいのだが、撮影用の水槽の中で、そんな様子を上手く再現することができない。
屋外で飼育している金魚などは、時には体長の10倍くらいの長さの糞をぶらさげていることがあり、是非ともそんなスゴイ糞をを撮影したいのだが・・・。
それを撮影するためにスタジオに水槽を設置して金魚を放し、もう2週間以上の時間が経過したが、金魚はせいぜい3〜4センチ程度の長さの糞しか出してくれない。
水の違いかなぁ?
屋外の飼育容器の水には、強烈な太陽の光の力でたくさんのコケや微生物が発生するが、スタジオ内の撮影用水槽の澄んだ水の中にはそれがない。そして、コケや微生物をたくさん食べた時に、糞が特に長く伸びるのではなかろうか?
あるいは、屋外の飼育容器の中では、金魚は常にコケなどを食べることができるから、消化管の中に切れ目なく餌が詰まっておりそれが長い糞になる。一方でスタジオ内の水槽では、僕が餌を与える限られた時間しか食べ物が口に入らないので、餌と餌の合間に糞が途切れてしまうのか。
屋外と水槽内の、泳ぎの違いも考えられる。
屋外の大きな容器の中では金魚はゆっくりと泳ぐので、糞が切れにくい。一方で、ガラスの水槽の中では金魚が落ち着かず、激しく泳ぐし、その際に糞が切れてしまうことがある。
金魚のような生き物と野生の生き物の撮影とを比較して、いったいどちらが面白いか?と言えば、言うまでもなく面白いのは野生の生き物の撮影だ。だから、金魚の撮影はほどほどにして、時間は野生の生き物の撮影に費やすべきだと思うのだが、それでも一方で、スタジオでだって、ちょっとでもいい写真を撮りたいと思う気持ちもある。
「ええ?何この糞?」
「嘘やろう〜」
「異常に長い!」
「あり得んやろう!!」
「これはあり得ん。」
などともしも人が喜んでくれたなら、それはそれで、とても楽しい。
問題は、大きな水槽をスタジオに設置すると、他の撮影ができなくなること。
そこで、今年の冬は仕事場をリフォームして新しい部屋を3つほど作り、その1つを新たなスタジオにするつもりだ。
僕の仕事場は、もともと部屋が6つあるのだが、そのうちの2階の3部屋は、床が抜ける危険性があり、現在使用することが出来ない。それを、使えるようにする予定なのだ。
先日、昆虫写真家の新開さんが遊びに来てくださったときにも、居間のソファーで寝てもらわなければならず、少々申し訳なかった。が、部屋を増やせば、客人にもリラックスしてもらえるだろう。
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2009.10.23〜24(金〜土) 続・自動撮影

CanonEOS30D EF20-35mm F3.5-4.5 USM
先日、イノシシが泥浴びをする湿地に仕掛けておいた自動撮影用の機材だが、翌朝確認してみたら、イノシシが出没した形跡はなかった。
そこでカメラを取り除き、代わりに湿地の周辺にまた釣り糸を張巡らせておいたら、今度はイノシシが釣り糸を引っ張った跡があった。
どうも、イノシシはカメラを嫌がっているようだ。
そこで今日は、カメラを設置する箇所に木の枝を置き、カメラは撮影時にその倒木に隠すように設置することにした。木の枝なら、置いてあってもイノシシは嫌がらないだろうし、それに隠すようにカメラを置けば、そこにカメラがあることに気付かないのではないだろうか。
面倒なのは、何といっても人がたくさん通る場所だから、盗難にあわないように、そこに僕がカメラを仕掛けていることを知られないようにする必要があることだ。
だから、カメラのセットやその他の作業は、夕刻薄暗くなって人影がなくなってから。そして、カメラをセットした翌日は、朝まだ薄暗いうちに、カメラを取り除く。
先日は、もしも朝寝坊をして、気付いたら明るくなっており、カメラが無くなっていたらどうしよう?という最悪のシナリオを考えたら、夜落ち着いて眠ることができなかった。
翌朝は、4時に起床してカメラの回収に向かったのだが、運悪く僕が風邪をひいたようで、頭がガンガン無茶苦茶に痛い。が、とにかく、カメラを回収しなければならないのだ。
カメラを回収して事務所に帰るのは、朝の6時台だが、北九州の町中は、すでにその時間結構な量の車が走っていて、信号待ちも長く、なかなか事務所に帰りつかない。
昆虫など小さな被写体の場合は、撮影に要する場所もせまいし、人に気付かれることなく撮影することは難しくはないが、大型の獣になるとすべてが大掛かりになるから、人に気付かれやすいし、気付かれると、いろいろと煩わしいこともある。
それを避けるようにするのは、結構めんどくさい。
ただ、撮影そのものは、小さな生き物の自動撮影よりも、ずっと面白いと思う。
同じ自動撮影でも小さな生き物の撮影は、とにかく細かい作業であり、神経を使うのだ。自動撮影のためのセンサーだって、小さな昆虫を検知できるようにすると、1ミリとか2ミリくらいのずれが許されないことだってある。
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2009.10.21〜22(水〜木) 自動撮影

一昨日、イノシシが泥浴びをする場所に釣り糸を張り巡らせておき、昨日の朝、それを確認してみたら、釣り糸は見事に引きずられていた。
その晩、イノシシはやってきたようだ。
そこで、まずは自動撮影カメラを仕掛けてみることにしたのだが、僕の自動撮影のシステムはフィルム時代のものであり、デジタルカメラ用のシステムを準備しなければらならない。
ところが、夜の間だけと言えでも、たくさんの人が歩く散歩コースの端っこにカメラを放置するのだから、盗難の可能性はゼロではないし、盗られてもダメージが小さなものを選ばなければならない。そして、これが意外に難しくて、道具の選定には予定以上の時間がかかった。
たとえば、使えるのだけど、気に入っていない道具があればいい。
がしかし、誰が好き好んで気に入らない道具を買おうか? いつもは、道具と言えば気に入った物がいいのに、今回に限っては、気に入らないものがいいのだ。
結局、カメラとレンズは、キヤノンのちょい前の機種を使用することにした。
三脚の類は、いずれ捨てるつもりで倉庫の中に放り込んでおいたボロボロのものの中から、今回の撮影限定で、一応道具を支えられるものを引っ張り出す。
そして、自動撮影用のセンサーを、キヤノンのデジタルカメラに取り付けられるように工作する。
問題はストロボである。
ストロボの電池が、はたして一晩持つものか?
電池が持たない場合は、外部電源を自作しなければならない。
うちには昔作った外部電源があるのだが、電池が古いから、おそらくもう使えないだろう。
ならば、まずはテストをしてみよう!と普通にストロボに電池を入れ、電源のスイッチをオンにして、昨日の夕刻から放っておいたら、翌朝までは何とか電池が持ちそうな感じだ。
よし、それならまずは普通に電池を入れた状態で、一晩自動撮影をしてみようではないか!
それにしても、ストロボ用の外部電源などは、もっと早くから準備をしておくべきだったな・・・
いや、今からでも準備をするべきか?
いやいや、その場所は元は水たまりなので、雨が降ったりすると水がたまり、当分はイノシシは泥を浴びに来なくなってしまう。だから、一日でも早く、写真を撮りたいのだ。
カメラをおいたら、来なくなるかな?
まあ、その場合はじっくりと構え直せばいいし、その時は、外部電源なども手厚く準備をしようと思う。
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2009.10.20(火) ニコンのカメラ
ニコンの技術者の方とプロサービス担当の方が、うちの事務所にお越しになり、ニコンのカメラに対する要望などを、吸い上げてお帰りになった。
ニコンは、元々報道カメラマンがよく使うメーカーだ。確か、僕が写真を始めた頃は、世界の報道の95%がニコンを使っていたのではなかっただろうか。
だから、デジタルカメラの画質やカメラの作りは、どちらかと言うとそうしたニーズにこたえるようになっているのだが、僕の場合は、自然写真の立場から自分の思いを伝えた。
写真は、被写体を、タイプ別に分類することから始まる。
たとえば、ガラスのように光が透過する被写体。
金属のように光を反射する被写体。
木のように光を吸収する被写体。
など、被写体の素材にはいくつかのタイプがある。
または、平らな被写体と凸凹した被写体の違いもある。
それから、同じように凸凹した被写体でも、その凸凹が直線で構成された被写体と曲線で構成された被写体とでは、適した光や写真の撮り方や、適したカメラだって違うのである。
自然物を撮影する場合に関して言うと、自然界には平らなものは少なく、また直線は少ないので、凸凹した被写体や曲線で構成された被写体がよく写ることが肝心である。
僕はもともとニコンユーザーであり、写真を始めたばかりのころは、ニコンのカタログを何度も何度も眺めては、あれ欲しい、これ欲しいと胸を躍らせ、でも高くて買えない・・・溜息をついたものだ。
時代の違いなのだろう。当時のニコンのカタログに掲載されていた商品の品揃えは大変に豪華であり、夢がギッシリ詰まったものだった。
300ミリレンズなどは、f2、f2.8、f4.5ED、f4.5と4種類もラインアップされていた。400ミリだって、f2.8、f3.5、f5.6と3種類。
恐らく当時のカタログの中には、ほとんどニーズがなくて、むしろ売れば売るほどメーカーが赤字になるような商品も含まれていたのではなかろうか。
もちろん、今の時代にそんなことができるわけがないことは、世間に疎い僕だってよくわかっている。
ともあれ、その憧れだったカメラを作っているメーカーの技術者の方の話を直接、しかも長時間聞けたのだから、感無量である。
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2009.10.18〜19(日〜月) 水辺の生き物
むかし、ある水辺の生き物図鑑の中にキアゲハが紹介されており、
「キアゲハが水辺の生き物か?」
と違和感を感じたことがある。
だが、今年訳あってキアゲハの幼虫を撮影する機会があり、いろいろと探してみたら、水辺のセリに多くのキアゲハの幼虫が付着しており、
「おお〜、確かにキアゲハは水辺の生き物や!」
と思った。
ただそれでも、僕は、図鑑の中で、 『水辺の生き物』 としてキアゲハが紹介されることには,違和感を感じる。
一方でそれが図鑑ではなくて、水辺の物語なら、とてもしっくりくる。
水辺の写真家と言っても、水辺とは、いったいどこからどこまでなのか?
僕がここ数年テーマにしている森の水たまりには、水が少ない時期になるとイノシシが泥を浴びた痕跡があるが、僕は、それくらいの範囲までは、『水辺の物語』として、自分の守備範囲としてカメラを向けたい気持ちが強い。
ただ、いかにしてイノシシの写真を撮ろうか?
先日からいろいろと考えているのだが、恐らく、イノシシがここにやってくるのは夜だろう。なぜなら、昼間はこの場所はほとんど人が途切れることはないし、イノシシの姿を見たと言う人に、まだあったこともない。
そして、もしもイノシシが毎晩のようにここに泥を浴びにくるのなら、一晩辛抱すればいいのだから、撮影はそんなに難しくないだろう。
ということは、まずは、イノシシが出没する頻度を知らなければならない。

CanonEOS5D SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE
イノシシがどのルートでこの場所にやってくるのかは、足跡をみればだいたい分かる。

CanonEOS5D EF20mm F2.8 USM(改)
今日は、水辺に釣り糸を軽く張り、明日それが乱れているかどうかを見ることで、イノシシが来たかどうかを判断してみることにした。

CanonEOS5D SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE

CanonEOS5D SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE
水たまりには、水が濁っている部分と澄んでいる部分とがある。
この場所では、一度水が濁ると、3〜4日は濁りが取れない。
だから、これらの水の濁り具合を見れば、何日くらい前にイノシシがここで泥を浴びたのかがわかる。
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2009.10.17(土) 鳥の声
脳に障害を持った子供が生まれ、一切の反応をしてくれない。ところがある日、その子が、ラジオから流れてきたホトトギスの声に反応を示した。
そこで、世界中から鳥の声を録音したレコードを買い集める。文学に詳しい方なら、「ああ、大江健三郎さんのところの話だ」とお分かりになるだろう。
僕は、文字を目で追うことが苦手なので、あまり字を読まないし、ましては文学などには全くと言ってもいいくらい縁がない。
特に、文字は文字でも、字がぎっしり詰まったものがどうしても読めないので、この日記の文章などは、自分で書いたものを自分で読めるように、句読点や改行をやたらに多くして、文字がすかすかになるようにしている。
それはともあれ、大江さんのことは名前と顔くらいしか知らなかったのだが、昨日は、何か大江さんの記念日だったのか、テレビで小さな特集がされていた。
そうか・・・鳥の声か・・・
自然ってやっぱりすごいなぁと思う。
自然写真は、記録報道的な意味合いの写真(科学の写真も含めて)と、癒しの写真との大きく2つに分けられる。
そして、自分も含めて記録報道的な写真を撮る人は、癒しの写真を馬鹿にする傾向がある。
「ただきれいなだけの、内容がない写真だと。」
だが、やっぱり自然が人を癒してくれる力を馬鹿にするのは間違えているのだろう。昨日は、そんな風に改めて考えさせられた一日になった。
そもそも、人が自然を、例えば夕焼けや青空を心地いいと感じるのことには、何か生物学的な意味があるに違いない。
問題は、ただきれいなだけの写真が世に氾濫していることではなくて、小賢しいテクニックで撮影された、みせかけだけのきれいな写真が氾濫していることにあるのではなかろうか。
鳥の声に反応を示したお子さんだが、一切口をきくことはなかったらしい。
ところがある日、その子が6歳の時に、生まれて初めて言葉をしゃべる。森を散歩している最中に、どこかでクイナが鳴くと、それに対して
「クイナです。」
としゃべったのだそうだ。 「クイナです。」
というのは、大江さんが買い与えたレコードの中のクイナの声の解説のセリフだった。
もしも僕がそのレコードの制作を企画した人間で、そのエピソードを聞かされたなら、涙がこぼれてしまったかもしれない。
僕が今作ろうとしている本は、いったいどんな風に受け止められるのだろうか。
自然と向かい合い、そこでカメラを構えたなら、小賢しいテクニックでただ上手に写真を撮ればいいのではなく、目の前の自然に対してとにかく誠実でなければならないなぁ、と思うのである。
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2009.10.16(金) 町中の自然
北九州市の町中にある、森の公園。
その公園に、年間を通して涸れない水たまりがあり、僕はそこでニホンアカガエルやカスミサンショウウオにカメラを向けている。
その水たまりには流れ込む川はなく、水は、森から湧いてくる湧水が溜まったものだ。
北九州の100万都市に近い場所だから、そこにはたくさんの人がやってくる。そして、人がたくさんやってくると、いろいろな人がいるもので、困ったこともたくさん起きる。
ある時は、その水たまりの中に、繁殖力の強い外来の水草が植えられていて、僕はそれがはびこってしまわないように、あわてて取り除いた。
また今日は、一人のおばさんの野猫を呼ぶ声がじつに騒がしいかった。
「ブッチャ〜ン、ブッチャ〜ン、ブッチャ〜ン」
「ブッチャ〜ン、ブッチャ〜ン」
と延々と叫び続け、せっかくの野鳥の声が台無しだ。猫に餌を与えた後には、大量のキャットフードの袋が放置されていた。
おばさんは、水辺で撮影をしている僕を見つけて近づいてきた。腕組みをして、仁王立ちで、カメラを持ってしゃがんでいる僕が見下ろし、しゃべりかけたそうな素振りを見せていたのだが、どう考えてもお友達になれる相手ではなかった。
僕は、軽くガンを飛ばし、
「近づくなよ、コラ!」
というオーラを全開にする。
他にも、まあ、とにかく色々なことが起きる。
だが、いつも気をつけていることは、それをチェックするために歩くような、小姑のような行動だけは、絶対にしないということ。
僕にとって、自然は自由の象徴であり、身勝手な振る舞いをする人も好きではないが、管理人のような振る舞いをする人も、どうも受け入れがたい。
人がたくさんやってくる場所では、いろいろなことが起きて当り前。それも人間という動物の生態の1つであり、また、町が排出するうんこのようなものだと僕は思うのだ。

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM

CanonEOS5D EF20mm F2.8 USM(改)
さて、元々ごく少量の湧水で維持されている水たまりだから、雨が少ないと、湿地に変わる。
残された小さな水辺には、カワニナなどの姿がある。
そしてその湿地には、イノシシが泥を浴びた跡がたくさん残されている。
そのイノシシを何とかして撮影したいと思うのだが、これと言った方法が思い浮かばない。
一般的には自動撮影カメラをしかけるところだろうが、僕は、自分の目で被写体を見て撮影したい気持ちが強い。
暗視装置って、高いのかな?
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2009.10.14〜15(水〜木) 見え方
「写真は、何を主張するか、その主張の内容が肝心であり、写真が上手いかどうか、きれいかどうかなど、写真の見え方は2の次、3の次。」
と主張する写真家は少なくない。
僕はそれに対して、賛同する部分もあれば、違うと思う部分もある。
賛同するのは、写真の内容が大切だという部分。そして違うと思うのは、写真が上手いかどうか、きれいかどうかは2の次、3の次という部分。
僕は、写真の見え方は、写真の内容と同等かそれ以上に大切なことではないのかと思う。
最近よく考えるのは、テレビで面白い実験をしてみせてくれる米村でんじろう先生のこと。
でんじろう先生の実験は、基本的に学校で勉強するような中身であり、内容的には、教科書に近い。
ところが教科書と言えば面白くないものの代表なのに、でんじろう先生の実験はとても面白いし、人気がある。
何が違うのかと言えば、同じことを伝えるのにそれがどう見えるのか、その見え方だ。
僕はあの面白い実験を見るたびに、見え方というものがいかに大切なことなのか、ひしひしと感じる。
以前にも書いたことがあるが、僕は、学校で子供たちに理科を教えた経験があるのだが、学校の教科書は、そうした見え方を軽視するあまり、わざわざ面白いことをつまらなくしている傾向があると思う。
もっとも、それを面白い見え方で教えるのが、先生の役割なのかもしれないが・・・。
また、もしもでんじろう先生の実験が、学校教育とはかけ離れた内容だったなら、あれほどには一般受けしなかったのではないだろうか?教育はとても大きな市場であり、その巨大な市場あってのあの人気だと感じるのである。
そして、それは実はとても難しいことだ。
なぜなら、『面白い』と『教育の役に立つ』という常識的には相反する2つのことが両立されなければならないから。
僕の場合は、ああいう類の面白さを目指しているわけではないが、自分の自然写真と教育とをリンクさせたいと考えていることは、ずっと以前にも書いた。
でんじろう先生の実験は稀な例であり、あんなのは例外中の例外。参考にはならないと感じる方もおられるだろう。
だが、それはまさに学校の教科書に毒されているのであって、学校の先生なら、余程に授業がへたくそな先生でない限り、誰しもそんな可能性があることを経験上知っておられるはずだ。面白くもないなんとも教科書の中身を教えていても、教え方によって、またその見え方によっては、子供たちのつぼにはまり、授業が大変に授業が盛り上がることがある。
僕も、でんじろう先生のように、本作りの際に、何とかして面白いと役に立つを両立させたいと思う。
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2009.10.13(火) 洞くつ探検(後)
一言で厄介な撮影と言っても、いろいろある。
たとえば、体力を要する撮影。
または、長い時間を待たなければならない撮影。
技術的に難しい撮影。
さらに、運に左右される撮影。
それから、危険が付きまとう撮影・・・その厄介さには、いろいろな質がある。
さて、初めて洞窟を案内してもらった時、僕は、
「これは本になる!」
とすぐに感じた。
だが、一方でためらいもあった。なぜなら、洞窟での撮影は、これまでに体験したことがないタイプの非常に厄介なものだとすぐに分かったから。
まず第一に、体力的なこと。
洞窟内部には結構な起伏があり、場所によっては、まるで沢登でもしているかのようだ。さらに、洞窟の内には大変に狭い場所があり、時には匍匐前進のように前に進んだり、狭い穴を通り抜けなければならない。
腰にまいた小さなウエストバッグが、これほどにも大きくてかさ張るように感じられる場所が、他にどこかにあるのだろうか?
そんな場所に、カメラはまだしも、三脚などという邪魔くさいものを持っていかなければならないのだから、考えただけで気が遠くなりそうだった。
そして、付きまとう危険の問題。
まるで迷路のように入り組んだ洞窟の中から出られなくなることの他にも、転んで怪我をしかねない場所のオンパレード。
わずか2〜3時間の撮影でも、撮影終了後には、ドッと疲れが押し寄せてくる。
それ故に、洞窟で撮影をするためには必ず誰かにガイドをお願いしなければならないことも、撮影を厄介にする。ガイドさんの都合にこちらが合わせなければならないから、そんなに頻繁に撮影に出かけることはできないし、撮影は遅々として進まない。
撮影の技術的には、光が全くない場所で写真を撮らなければならないことの難しさがあげられる。
仮に被写体が小さな生き物なら、小型の照明器具で撮影ができるが、時には風景写真のような巨大なものを撮影するのだから、まずはそれを可能にする方法を考えなければならなかった。
しかも、洞窟に持って行ける程度の大きさと重さで。
いい照明をするためには大きな道具が必要になる。この道具が使いたいのだけど、持っていくことができない、と理想と現実の迫でこれほどに悩んだ経験は、過去にはないように思う。
一方で、照明の問題は、僕の撮影技術を飛躍的に高めてくれた面もある。
照明に関しては、僕はスタジオでの小動物の撮影も多いのだから、最低限のことは身についているつもりだったのだが、今となっては、その程度のことは身に付けているとは言えないような恥ずかしいものだったのだと思う。
いずれ時間にゆとりがある時に、洞窟で学んだものをスタジオでも生かすことができるように、スタジオの機材に改良を加える予定だ。
厄介であるということは、実は大変にありがたいことなのだと改めて思う。
便利な道具が目白押しであり、自然写真に関して言えば、大概のことがやり尽くされているこの時代に、厄介であるという理由で未開拓なものが残っており、新しいことにチャンレジできるのは、とても幸せなことだ。
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2009.10.10〜12(土〜月) 洞くつ探検(前)

CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM

CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM
さて、この連休に撮影した画像を選んでみたのだが、何を書こうか?
画像に写っている自然に関する説明か?あるいは、この写真を撮影するための洞窟探検のことか?
僕は基本的に、自然についての説明よりも、撮影にまつわる話の方が好きだ。
それはたぶん好みの問題なのだが、後付けで理屈をつければ、説明は知識があれば誰にでもできるが、僕の体験は僕しか語ることができない。
ただ最近になって、それは違うかな、自然に関する説明も大切かな・・・と感じつつもある。
なぜなら、自然をよく観察しておられる方に自然について説明してもらうと、それをきっかけで新たな興味が芽生え、日々の暮らしが楽しくなることがあるから。
そして、その場合その知識は少なくとも単なる情報ではないし、そんな機会が持てることは、多くの人にとって素晴らしいことだ。
僕は元々独学派であり、人に物を習うのがあまり好きではないし、人から自然について教わった経験が乏しく、教わることの素晴らしさや楽しさを知ったのは、実はごく最近のことなのだ。
さて、今日の画像の場合、これが何かが分からない方の方が多いだろうから、簡単に説明しておこう。
洞窟(鍾乳洞)を形成している石灰岩には水に溶けやすい性質がある。だから、洞窟の中に地表から水がしみ込んでくると、その水によって岩が溶けてしまう。
さらに、岩を溶かした水が洞窟内部をつたいながら流れる。そして、洞窟の天井などから下に向かって、ポトリ、ポトリと滴り落ちる。
その水滴が滴るまでの数十秒なのか、数分なのかの間に、今度は水に溶けていた岩の成分が固まり、岩に逆戻りする。
すると、このつららのような構造物ができる。
つららは、内部が空洞になっていて、ストローのような構造をしている。水は、そのストローの内部を伝わり、ストローを下へ下へと伸ばす。
今日は、洞窟内で撮影後、動けないほどの疲労ですぐに帰宅をすることができず、車の中で数時間横にならなければならなかった。
洞くつ探検(前)に続く
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2009.10.9(金) 想像
僕は現実主義者なので、妄想をして、それを楽しめるようなタイプではないが、想像をする時間ならとても楽しいと思う。
想像の中でも、特に 『読み』 が好きだ。例えるなら、缶を外からコ〜ンと叩いてみて、その際に跳ね返ってくる音を聞きながら、中に何が入っているのかを考えるような想像が楽しい。
昔メンデルという人が、黄色いエンドウ豆と緑色のエンドウ豆との掛け合わせをして、その結果出来る子孫の豆の色を調べることで、生き物の体の中には遺伝子があり、それはこんな状態になっているはずだ!と推測をした実験などは、僕にとって大変に面白い。
メンデルは、豆の色の出方を見て、遺伝子の構造を推測し、遺伝の仕組みについて考えた訳だが、詳しくは高校の教科書でもめくってもらえばいいと思う。
だが現代は、黄色いと緑のエンドウ豆の掛け合わせをするような時代ではなく、生き物の体の中から遺伝子を取り出し、その遺伝子を直接に調べてしまうような時代。
さっきの缶の例で言うなら、缶を外から叩いてみてその反応を見るのではなく、缶を切り開いて中を直接見るような時代になった。今は様々な技術が生み出され、それが可能になった。
僕は生物学の世界に興味をもち、生物学へと進学したのだが、僕が思い描いた読みの世界は、すでに前の時代の古いものだったのだ。
そこで僕は、自然写真家への道を選んだ。
だから僕は、写真で自分の妄想を表現するようなことはしないけれども、想像は大切にしたいといつも思う。
ただその想像を表すためには、何らかの表現力が必要になる。
その表現力とは、写真の技術のことではなく、本作りの際の技術なのだが、運良くそうした技術を持った方に出会うことができ、ここ数年取材を続けてきた町の水路の写真は、本として出版できることになった。

CanonEOS5D EF20mm F2.8 USM (改)
さて、町の水路の中で僕が目をつけている穴に、以前よりもずっと大きな巨大ザリガニが住み着いているのを見つけた。
以前この穴に住んでいたのは、体型からしてたぶんメスだったと思うが、今回のものは、たぶんオス。
日本に生息しているアメリカザリガニは、主に秋に繁殖するのだが、飼育をしてみるとこの時期、オスとメスとが同じ隠れ家にこもることが多いので、もしかしたらこの穴の奥にはメスが入っているのかもしれない。
アメリカザリガニの場合、その大きさは、環境によってかなりのばらつきがあり、書物に3歳などと書かれているサイズになるのに、あるものはわずか1年も要さないことがある。
だから、大きさから生き延びてきた期間を推測することが難しい。
だが今日の巨大ザリガニの場合、この写真からは分からないのだが、左のハサミが右よりもやや小さい。
ザリガニは、ハサミを強くつかまれると自分でハサミを切り落として逃げるのだが、その後小さなハサミがまた生えてきて、それは脱皮をするたびに少しずつ大きくなり、本来のサイズに近づいていく。
そして、左右のハサミの大きさがほとんど違わないようなサイズになるまで回復している画像の個体の場合は、ハサミを失って以降、少なくとも3〜4回は脱皮を繰り返しているはず。
脱皮は、子供の時には頻繁に見られるが、大きなザリガニの場合は春と秋の年2回が標準的な回数なる。
飼育下では、水質が急激に変化をしたり悪化をすると、春と秋以外にも脱皮をすることがあるが、水槽のような閉ざされていて水の量が少ない飼育下ではともかく、自然条件下ではそんなことがおきる可能性は低いに違いない。
だとすると、このザリガニは、誕生してある程度成長し、そこで何らかの理由で一方のハサミを失い、それから春の脱皮、秋の脱皮、春の脱皮と繰り返した、おそらく3歳以上の個体ではないかと思う。
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2009.10.8(木) 写真展
来年の秋〜再来年の春にかけて、数冊の本を出版することは以前に何度か書いたことがあるが、それに合わせて何か行動をすべきか、ここのところずっと迷っている。
そして僕が一番興味があるのは、写真集を出すこと。今回の本は子供向けのものだが、それらの取材の過程で撮影した大人向けのものを写真集にまとめるというのは僕の夢でもある。
が、現実的なことを言うと、大人向けのものは経済的に成り立ちそうもない。
ならば写真展か?、と思うのだが、実は正直に言えば、僕は写真展があまり好きではない。
東京での写真展はニコンサロンで過去に2度ほど経験があるのだが、僕には合わないなぁ、とその時に痛感したのだった。
僕はとにかく、目立つこととか、イベントとか、ドラマチックなこととか、大げさなことなど、一言で言ってしまえば、非日常が嫌いなのだ。
人のイベントに参加するのは、別に厭ではない。
が、自分がイベントの主になるのはだめ。
僕は昔何度か結婚しようか?と考えたことがあるが、結婚式を想像したら、どうも耐えられそうもないと思った。
ケーキ入刀とか、大げさな音楽を流されたり演出をされたり、初めての共同作業だとか、あんなベタなことを言われたりするのなら、僕にとっては、死んだ方がマシのような気もしたものだ。
でも、それでもやってみることが大切なのかな・・・
がしかし、やっぱり好きではないんだなぁ。
ただ、1つ言えることは、好きじゃなくてもやってみることは大切。でも、義務とか仕方なくやるのは最悪。
自然写真家などという存在は、ただひたすらに好きでやっていると思われがちなのだが、それは的外れであり、プロの場合は、好きじゃないことをやらなければならない機会だってたくさんある。
ところがそう言うと、
「じゃあ、仕方なくやってることもあるんだ!」
となってしまうのだが、これまた的外れで、「好きではないことでもやる」のと「仕方なくやる」とか「義務」とは、全く別のことだ。
そうした感覚は、お務めをしている人にはなかなかわかってもらえないことが多いのだが、よく考えてみると、お務めには常に義務が付きまとう。一方でフリーの仕事には義務はない。
ならば、義務がないのにどうやって仕事をやればいいのだろうか?
それを考えることそこが、フリーの世界で生きていくことなのかもしれない。
フリーの世界なんて考えられないという人の多くは、おそらくそこが想像つかないのだろうと思う。
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2009.10.7(水) 環境問題
アメリカザリガニの水中撮影を予定しているのだが、天気が悪くて、先送りになっている。
だが、撮影を予定している場所が気になって仕方がないので、とにかくの様子を見に行ってみることにした。
水中撮影の場合、撮影の際に泥を巻き上げてしまい、自分で水を汚してしまう問題が起きる。
だから、水が流れている場所では比較的簡単なのだが、止水での撮影は非常に難しく、それが可能な場所はそんなに多くはないので、写真が撮れる時に一刻も早く撮っておきたい気持ちが強い。

NikonD3X Ai Nikkor 20mm F2.8S
「ここのところ環境問題が注目され始めているので、これからは、あなた方自然写真家の活躍の場が多くなるでしょうね。」
とちょくちょく言われるようになった。
だが僕には、環境問題が重視されはじめているとは、どうしても思えない。
たとえば地球の温暖化の問題について考えてみる。そして、仮に今心配されているような急速な温暖化がこのまま進むものだして、そこで問題にされているのは、例えば、これまで育っていた農作物が育たなくなり、農業がダメージを受けること。
今みなが環境問題と思い込んでいるものは、実は環境の問題ではなくて、例えば農業の問題であり、みなが心配しているのは、環境ではなくて、人の経済活動であるようなるような気がしてならない。
僕は、自然環境を、仮に人の経済活動の役に立たなかったとしても、人間の財産であると考えている。
だから例えば、森がリゾートのために切り開かれて開発されたならば、木がかわいそうとか、そこに住んでいた生き物たちがかわいそうではなくて、なんと勿体ない!森という財産を奪われた人たちがかわいそうだと思う。
もしも貴重な歴史的建造物を取り壊して、もっと儲かる一大遊技場を作る、などと誰かが言いだしたとするならば、そんな馬鹿げた話があるか!と多くの人が感じるに違いない。
歴史的建造物は、今人の役に立つとか立たないに関係なく人間の財産なわけだが、自然も財産であると僕は思う。
そして僕が目指すのは、それを人に分かってもらえるような本を作ることだ。
また、それらの本の中で、環境とは何か?を定義していけたらなぁと思う。
自然を粗末にすると罰があたる、というような考え方もある。
そして罰とは何だろう?と考えてみると、それは人間にとって良からぬことであり、今の時代においては、やはり人間にとっての経済的なダメージであるような気がする。
環境の問題の中に、人の経済的な損得の話が含まれていることを僕は否定するつもりはないし、むしろとても重要なことだと思うが、それがすべてではないはず。
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2009.10.6(火) 僕にとっての自然写真
私はさみしい、という気持ちを文章で伝える場合に、
「私はさみしい。」
と書いたならば、それは単なる説明であり、少なくとも芸術ではないだろうと思う。
だが、私はさみしいと書くのではなく、例えば、
「ふと窓の外に目をやると鉛色の雲が重たく、雪がしんしんと・・・・。」
などと、自分の気持ちを何かに置き換えることで間接的に表わし、たださみしいと書くのよりも深み与えることができれば、それは芸術足りうるのではなかろうか。
少なくとも詩人は、さみしい時にはさみしいとは表現しないだろうし、文学者だって、誰かのさみしさを伝えたい時に、さみしいとは絶対に書かないはずだ。
だが、論説文や科学の論文を書く時には、逆にそんな間接的な表現は用いないし、そんな遠まわしな書き方をしたならば、それは科学の論文としては最悪の出来になる。
僕の写真は、文章に例えるなら科学の論文に近いものだし、少なくとも、僕は詩人や文学者や芸術家ではない。だから、仮に僕が地に落ちた椿の花にカメラを向けたとしても、僕は、それによって何か自分の心の内面を代弁させようとしているのではないし、僕は、椿の花をあくまでも椿の花をして見ているに過ぎない。
「では、あなたの写真は図鑑写真や記録写真なのですか?」
と尋ねられたなら、僕は
「厳密に言うと違います。」
と答える。
なぜなら、僕は、人が僕の写真をどう見ても構わないと思っているから。僕は、自分が撮影した椿の落花の写真を見た誰かが、僕のつもりとは違った想像を働かせることを否定しないし、むしろ、そんな想像の余地があるように写真を撮る。
一方で図鑑写真や記録写真の場合は、この写真はこんな風に見なさいと決めてくる。もしも図鑑に
「羽に細かい模様がある」
と書いてあるならば、読者も、
「ああ、細かい模様だ。」
と同様に感じてくれなければ、図鑑は成立しない。
僕は、あまりコテコテの図鑑写真を撮らないのだが、それは、図鑑写真の
「この写真はこんな風に見なさい。」
という性質が窮屈に感じられるから。
本物の自然を見た時に、ある人はそれを科学の目で見るし、またある人は詩人の目で見つめるのだから、僕はそんな風にいろいろな見方ができるように自然の写真を撮りたい。
僕は写真にありのままの自然が写っていてほしいのだが、僕にとって『ありのままの自然が写っている写真』、というのは、そんな風に、人によっていろいろに見ることができる写真のことだ。
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2009.10.3〜5(土〜月) 太陽は1つ
照明器具を使って撮影する場合には、いくつかの基本があるのだが、その中の1つに
「太陽は1つである。」
という大原則がある。
たとえば、自然の光で撮影する場合、被写体の右側と左側から同時に強い光が差し込んでくることはない。なぜなら、太陽は1つしかないのだから。
そして、人工的な明かりを使って撮影する場合、照明器具を複数個用いることは珍しくないが、たとえ複数の照明を用いても目指すところは自然の光の再現であり、自然界に存在しないような光は作らないのが原則だ。
では、なぜ照明器具を複数用いるのか?
太陽はむちゃくちゃに大きな存在だが、人工的な照明器具は小さく、その小さな照明で巨大な太陽を模そうとすると、それを複数組み合わせる必要があるのだ。
ところが、照明器具を複数使うと、下手をすると、自然界にはあり得ない光を作りだしてしまう。
昆虫写真家の新開孝さんは、照明器具を操るのがとても巧みな名手だが、新開さんの写真などは基本にきわめて忠実に撮られており、照明の基本の大切さを改めて教えられることが多い。
さて、太陽光が地面の上の人物を照らし出すとする。
すると当然のことながら、人物の、光があたった側が明るくなる。
さらに太陽の光は地面を照らし、今度はその地面からは太陽光が反射した弱い光が照射され、人物の反対側を弱く照らしだす。
その場合、人物を直接照らす太陽の光と、それが周囲で反射した反射光とでは光の質が異なる。
写真家は複数の照明器具を用い、それぞれの照明の光の質を変え、それを再現しようとする。
もしも2つの照明器具を用いるのなら、1つ目は太陽の光を模したもの。2つ目は、太陽の光が周囲で反射した光を模したものになることが多い。
以前、新開さんのお宅にお邪魔をした際に、照明器具の光の質を調整するための小道具がたくさん置いてあり、
「これが肝心ですよね。」
と話してくださったことがあるのだが、僕の予想以上の細かさで光の質がコントロールしていたことには驚かされた。
光はただあちこちから照射すればいいのではないし、被写体がただ明るく見えればいいのでもないし、ただ立体的に見えればいいのでもないのだ。
 CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM
 CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM
ただ、洞窟の撮影の場合は、ちょっと事情が異なる。
なぜなら、洞窟の中は本来真っ暗であり、太陽の光で照らすことを考えることの方がナンセンスなのだから。むしろ、完全に太陽の光を模すとそこが地下であることが分からなくなってしまう可能性だってある。
そこで僕は、洞窟で撮影する場合は、探検者の懐中電灯の明かりを模した照明を作ろうとする。
がそれでも、基本的な照明の原則は守らなければ、違和感を感じる写真になってしまうことが多い。
それは、写真を撮る撮らないにかかわらず、人間の脳は自然の光をちゃんと知っており、それにかなった光で照らされた物体を、美しいと感じるようにできているからだと思う。
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2009.10.2(金) 男と女
作りかけの本が一冊届いた。
その本はすべて僕の写真で構成されているわけではないが、重要な位置付けになる写真のうちの半分くらいを、僕がこの夏、苦心して撮影したのだ。
担当の編集者は女性である。
そして、女性の編集の魅力は、天真爛漫というか、突拍子もない部分だと思う。
一方で、男性の編集者は、論理的な本作りをする傾向がある。
僕は男なので、編集者が男性の方が、何をしたいのかが理解できやすいし仕事は楽なのだけど、小さな子供向けの本は、本当は理屈ではないよな!と思う。
なぜなら、小動物を見つめる子供はほとんど野生動物みたいなものであり、自然界の理屈に興味を持っているわけではないのだから。
ただ、今の僕が子供に逆戻りして、子供の目線で写真を撮れるわけではなし、仕方がないから、理屈で考えて写真を撮っているにすぎない。
その点、女性と仕事をすると、理屈を超えた部分で、教えられることも、打ちのめせれることも多いのである。今回の仕事も、まさにそんな仕事だった。
本は魅力的な内容に仕上がっており、僕にもこんなセンスがあったのかな?と勘違いしてしまいそうだ。
一方で、女性が理屈っぽく論理的に作った本は、つまらないことが多いように感じる。主張は確かにその通りだけど、だから何?と言いたくなってしまうような面白くなさを感じることが多い。
だから僕は、女性と仕事をする場合は、相手の年齢やキャリアに関係なく、自分が部下だと思って写真を撮ることにしている。
自分が意見を言うと、女性の編集の良さを殺してしまうような気がしてならないので、そうならないように、相手が何をやりたがっているのか、それに耳を傾けることに全エネルギーを費やすのだ。
逆に、男性の編集者と仕事をするのであれば、理論がしっかりした、どっしりした、どこをつついても隙がないような、本格的な、自分の人生を賭けたかのような本を作りたい気持ちが強い。
(写真展のお知らせ)
グリーンパーク(響灘緑地) にて写真展を開催します。内容は、先月平尾台で展示したものと全く同じものです。平尾台での展示をご覧にならなかった方は、是非お越しください。
期間 9/12〜10/4
その他 9:00〜17:30 火曜日休館 入園料100円 駐車場300円
内容 野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展
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2009.10.1(木) 背景の選び方

NikonD3X Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)
秋ですねぇ。
秋と言えば赤トンボ。赤トンボと言えばアキアカネ。
そのアキアカネの撮影をするつもりで広島県の山間部に行ってみたら、アキアカネも多かったけど、ノシメトンボが凄かった。
そこで今日はアキアカネの撮影は取りやめにして、代わりに、ひたすらにノシメトンボにカメラを向けた。
そこにアキアカネもたくさんいるのだから両方撮影すればいいじゃないか、と考える方もおられるだろうが、ノシメトンボにはノシメトンボの撮影に適した場所があり、アキアカネにはアキアカネの撮影に適した場所がある。
だから、こだわっていい写真を撮ろうと思うと、両方を同じ場所で撮影するのはなかなかできにくい。

NikonD3X Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)
(撮影テクニックの話)
最近は、オートフォーカスと言って、カメラが機械的にピントを合わせてくれるようになったが、飛びながら動き回るトンボには機械が追随できないことが多い。
そこで、自分の目で被写体を見ならが自分の手でレンズを操作してピントを合わせることになるが、手動でピントを合わせようとするとピントがなかなか合わない、という方は少なからずおられるようだ。
そして、そうした方々の多くはピントが合わない原因を、視力や反射神経の問題だと考えておられるようだ。
だが、手動でのピント合わせは元々結構難しいもので練習が不可欠。正確なピント合わせは、少なくとも、普通の人の撮影頻度では、1年やそこらでマスターできるものではない。
また、ピント合わせが上手いかどうかには、その人に、絵心があるかどうかが大きく関わってくる。
たとえば、トンボの色と背景の色が同系色の場合、トンボは背景に溶け込んでしまい、輪郭が確認しづらくなるから、ピント合わせが難しくなる。
 NikonD3X Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)
だが、トンボとは違った色の背景を選ぶと、トンボが背景から浮かび上がってくるから、ピント合わせが簡単になる。
色じゃなくても、トンボとは違った明るさの背景を選んでもいい。
とにかく、トンボと背景との間に色や明るさの変化をつけると、トンボが目立つようになり、ピントは合いやすくなる。
そして、トンボに限らず被写体がよく目立つような画面構成の写真は、優れたいい写真でもあり、絵心がある人は、自然とそんな風にカメラを構えていることが多いのだ。
 NikonD3X Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)
月の大きさは変わらないのに、人の目にはその月が大きく見えたり小さく見えたりする。月の高さが低くて月と一緒に建物や山並などが見えると、月は大きく感じらる。
それと同様に、同じ色の物体でも、周囲のものの色によって違って色に見えるし、同じ生き物を撮影しても、背景の色によって、色がよく見えたり、濁って見えたりすることはよくある。
そしてやはり絵心がある人は、被写体の色を引き立てる色の背景を選んでいるものだ。
同じノシメトンボでも、色がよく見える背景とそうではない背景とがある。
背景の色や明るさの選び方は、その被写体を正しく伝えるための極めて重要な要素なのだ。
僕の場合は絵心があるというタイプではないので、自分が撮影した画像を分析し、どんな時によくピントが合っているのか、とかどんな時に被写体の色がいいのかなどとデータを積み、法則性を見出し、それを当てはめていくわけだが、絵心がある人は、それをいとも簡単に理屈抜きにやってしまう。
ただ、生き物写真の場合は、その生き物の生態を正しくあらわすことも大切だから、必ずしも、そのような視覚的な理由だけで背景を選んでいいわけではないのだが。

NikonD3X Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D(IF)
(写真展のお知らせ)
グリーンパーク(響灘緑地) にて写真展を開催します。内容は、先月平尾台で展示したものと全く同じものです。平尾台での展示をご覧にならなかった方は、是非お越しください。 期間 9/12〜10/4 その他 9:00〜17:30 火曜日休館 入園料100円 駐車場300円 内容 野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展
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