撮影日記 2009年8月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2009.8.27(木) 更新のお知らせ

今月の水辺を更新しました。

(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.26(水) 対称性の破れ

 対称性の破れって、いったい何のことなんやろう?日本人がノーベル賞を受賞すると、その仕事の内容が新聞やニュースで紹介されるが、先日ノーベル賞を受賞した益川さんと小林さんの対称性の破れに関する研究などは、それらの報道を見ても、いったい何のことなのかが僕にはさっぱり理解できなかった。
 報道を見て分かったことと言えば、益川さんのキャラが面白くて、それをネタにしようとするマスコミのくだらなさだけ。
 僕に限らず、おそらくほとんどすべての人にとって、研究の内容に関しては、理解不能だったに違いない。
 それがもう少し行き過ぎて、世界中で益川さんと小林さんだけが理解できるようなことを発見したとするならば、お二人はノーベル賞どころか、ちょっとおかしい人だと受け止められてしまう危険性だってある。
 研究にしても写真にしても、人に分かってもらってなんぼ、という面があるし、僕はその分かってもらうという点を大変に重視している。
 がしかし、分かってもらうばかりでは能がない。そこで今日から僕は従来のスタイルを卒業し、アーティスト宣言をして、まずはその手始めとして僕なりの対称性の破れのイメージを、写真で表現してみることにした。
 対称性の破れを写真で表すと、こんなイメージではないだろうか?僕には、対称が破れている様子が写っているように見える。


NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF)

 というのは冗談で、実は今日の画像は、水に写った木々が、アメンボが作り出す波紋で乱れた様子だ。


NikonD3X TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF)

 僕は現実主義者なので芸術にはあまり興味がない。また、写真を通して僕が伝えたいものはあくまでも現実であり、決して想像の世界ではない。
 だがその一方で、僕は写真を撮る際に、芸術性・美術性・デザイン性・創造性などには、それなりにこだわっており、被写体がただ分かり易ければいいとは決して思わない。
 生き物や自然のことが分かるかどうかの他に、みなが自然の中で感じる何かの気配を写真に写しとめたいと思う。
 そのためには、たとえ芸術に興味がなくても、芸術の中のある部分やデザインの中のある部分は必要だと感じる。

(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.22〜25(土〜火) 新しい機材

 昨日(24日)の午前中、水路の水中写真にやっとフナの姿が写った。写真の雰囲気もなかなかイイ。
 実はここ数日は心に張りがあり、何を試みても不思議なくらいにはかどった。いつもなら、撮影に一日くらい時間を取るような難易度が高い撮影を急に依頼されたときだって、気持ちであっという間に写真を撮り、依頼者を驚かせることができた。
 だが、昨日の撮影終了後からは、一転して強烈な眠気に取りつかれ、僕は、丸太のように横たわり、しばらく眠った。
 どうもここ数日の調子の良さは、フナの写真を撮りたい!と思う気持ちの高ぶりから来ていたようで、それがなくなった瞬間に、その反動が一挙に押し寄せてきたようだ。
 というのも、僕が今取材をしている水路では、水中写真が撮れる場所は、足場の関係で一か所しかない。
 水中に足場を組むなどよほどに大掛かりなことをすれば話は別だが、僕は野外をスタジオ化するのではなく公の場所をなるべく占有しないように、さらりと写真を撮りたい気持ちが強い。できれば、そこで僕が写真を撮っていることを、あたりの人にも気付かれないくらいでありたい。
 別にそうするのがマナーだなどというのではなく、僕は目立つのが大嫌いなのだ。
 それはともあれ、そのたった一か所、水中のフナを撮影できる可能性がある場所では、群れたフナの姿が見られることもあれば、見られないこともある。さらに、あたりの水草の生え方によっては、たとえそこにフナがいても、撮影ができなくなることもある。
 要するに、写真を撮れる機会自体があまりないので、フナがそこに居ついて、しかも状況的に撮影が可能な間に、少しでも早く決着をつけたかった。
 それは、今シーズンで最もやっかいだった撮影の1つになるだろうと思う。


RICHO GX200

RICHO GX200

 さて、先日新しい機材が到着した。
 オリンパスのE620用の防水ケースであり、プルーフ社の製品だ。E620用の防水ケースはオリンパスからも発売されているが、僕の用途はとても特殊なので、それに適うものを、腕のいい職人さんに作ってもらう必要があった。
 いや、腕がいいというよりは、こちらの特殊な要望をあうんの呼吸で理解してくれる理解力や想像力を持った人に作ってもらわなければならなかったのだ。
 こう作ってくださいという僕の発注に対して、ただその通りに作ったり、または、それは不可能ですと断るのではなく、こちらの意図を理解し、
「それなら、こう作ればよりいいですよ。」
 などと僕の心の中に入ってきて、一緒に考えてくれる人が必要だったのだ。
 そしてそれは、僕が撮影の際に一番重視していることでもある。撮影を依頼された時に、ただ言われた通りの写真を撮ったり、逆に相手を無視して自分が好きな写真を撮るのではなく、相手の希望にかなっていながら、それでいて相手の想像以上の写真を撮りたい気持ちが僕は強い。
 
(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.20〜21(木〜金) 現代版・里山


CanonEOS5D SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE

 僕が自分の目で見ているものに近い、それっぽい雰囲気の町の水路の水中写真。あとはここにフナの姿が欲しいのだが、今回も、それを撮影することはできなかった。
 もっとも今回の撮影ではうっかりしてしまい、陸上からリモコンでカメラを操作する僕の姿が画面の片隅に写っている。だからもしも、ここにいい感じに魚が写っていたとしても、
「畜生・・・、この隅っこの邪魔者がなぁ」
 と悔い、再度撮影をやり直すことになっただろうと思う。

 リモコン付きの水中カメラを水に沈めると、魚が警戒をして、いつも群れているところとは違う場所に群れるようになる。
 そこで、カメラの位置を変えてみる。
 すると、さらに別の場所に群れる。
 そんなことを何度も繰り返すうちに、カメラを沈めても、それでも魚が集まってくる場所があることがわかる。
 つまり、魚がいつも群れている場所にも実は好き嫌いがあり、ちょっと嫌なことがあっただけで放棄してしまう場所と、少々のことでは放棄しない場所とが存在する。
 これは、カメラを沈めてみなければ分からないことであり、ある程度試行錯誤の時間が必要になる。
 そして、試行錯誤の結果、ここぞ!という場所が定まってきた。あとは天気と時間帯のみ。
 撮影は、次に晴れた日の午前中の予定だ。

 その翌日、天気は晴れ。
 いよいよ、水中のフナの姿を撮影できるはず、と出かけてみると、何やら測量中であり、話を聞いてみれば、役場の依頼で水草を刈り取るのだという。

「水中の写真撮影は何時ころまでかかる予定ですか?」
「午前中いっぱいくらいの予定です。」
「水草を刈り取る作業ですが、どうしましょう?」
「いや、それはもう仕方ないことです。今日は撮影を諦めますから作業をしてください。」
「本当にいいですか?なんなら、ここだけ水草を残しましょうか?」
「え?あなたの立場が悪くなりませんか?役所の人の怒られたり・・・」
「役所には説明しますから。」
「ありがとうございます!それなら、また別の日にカメラをもって出直しますので、ここら辺りだけ、水草を残してください。どうぞよろしくお願いします。」
 さて、水草が刈り取られたあと、果たして予定どおりに撮影をすることができるだろうか?周辺の水草がなくなることで、僕が目をつけているその場所に、逆に魚が集中する可能性もあるだろう。


NikonD3X Ai Nikkor 20mm F2.8S

NikonD3X Ai Nikkor 20mm F2.8S

 この水路のオオカナダモを放って置くと、やがて水路を埋め尽くしてしまう。そうなると、水路の水の通りが悪くなるので、役所は草刈をする。
 僕は、この水路のオオカナダモを、水を浄化したり、野生の生き物のすみかになっていると評価しているのだが、それでも水路全体を藻が覆ってしまうと、やがて魚もろくにすめない環境になってしまうだろうから、草刈は必要だと考えている。
 つまり、役所は魚を住まわせるために草刈をするわけではないが、定期的な草刈が、生き物たちの生息環境を結果として守ることになる。
 これって何かに似てはないだろうか?
 そう、里山。
 現在使用されている里山という言葉は、人が手を加えることによって、一定の自然環境が維持され、人と生き物とが共生できているような田舎の環境を指しているようであり、そうした環境は近年失われつつあると言われているが、もしかしたらこの水路のような状態が、現代版の里山なのかもしれない。
人の暮らしは変化しているのだから、里山の中身も、それに合わせて変化しなければならないのかもしれない。
 
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北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.19(水) フナ


NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

 フナの写真と言えば、フナ 踊るヘラ、金と銀(平凡社) という写真集が僕の本棚の中にある。
 著者は、自然写真家の大塚高雄さんだが、「フナは写真の被写体としてはなかなかに手強い」、といった感じのことを、その大塚さんがどこかで書いておられるのを、大学生のころに読んだ記憶がある。
 それから、およそ20年の月日が流れた。
 時代は移り変わり、自然を題材にした写真集があまり売れなくなった。今や、出版社に写真集の企画を持ち込んでも、写真集という言葉を出した瞬間に相手の顔色が変わり、
「うちではあり得ません。」
 、と言った返事が返ってくるのが当り前なのだと、いろいろな方面で聞いたことがある。
 オタクな生き物の写真集ならそれも理解できるが、広く一般受けしそうな風景などの写真でも相当に厳しい状況なのだというから、写真が行き渡り、みなが目新しさを感じなくなり、市場が飽和してしまったのかもしれない。
 が、ほんの二十数年前までは、一般受けするはずもないフナの写真集が発売されていたのだから、生き物の写真の世界もずいぶん変化をしたものだなぁと思う。
 フナの写真集が発売されるなんて、いい時代だったんじゃないかなぁ。今僕らに与えられている発表の場だって、20年後もあるとは限らないのである。


NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

CanonEOS5D SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE

 今日は、リモコン付きの水中カメラを使用して、町の水路に生息するフナにカメラを向けてみたのだが、フナがカメラのシャッターの音を嫌がり、シャッターを押すことでさえ難しい。
 水中のフナの撮影には、明日再度挑戦する予定だ。

 大塚高雄さんの「フナ 踊るヘラ、金と銀」のページを今改めてめくってみると、いい写真集だなぁとしみじみ感じた。
 カメラがデジタル化して今まで撮れなかったものが撮れるようになった、といった話を近頃よく耳にするようになったが、果たして本当にそうなのだろうか?
 「フナ 踊るヘラ、金と銀」に限らず、当時作られた写真集にはいいもの多いのだ。
 
(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.16〜18(日〜火) オオカナダモ


CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

 森の水たまりへ

 昨日、カスミサンショウウオやニホンアカガエルが卵を産みにやってくる、とある森の水溜まりへと出かけてみたら、誰かが水たまりの中にオオカナダモという水草を植えつけていた。
 この場所は多くの人の散歩コースになっていることもあり、撮影中によく話しかけられるが、中には、
「殺風景だったから周囲に球根を植えた」
 だの
「水たまりに魚を放した」
 だの、
「水草を植えた」
 だのと嬉しそうに話してくださる方もおられる。
 が、そんなことをしたら、場合によってはこの水溜まりの環境が変化し、今ここを利用して生きている野生の生き物たちの暮らしを脅かしてしまう。
 昨日は予定していた撮影を取りやめにし、水溜まりの中に入り、オオカナダモを一本ずつ取り除くことにした。

 以前、
「ここにせっかく水草を植えたのに、誰かがその水草を取ってしまった。」
 と語るおじさんから意見を求められたことがあった。
 恐らくおじさんは、水草を植えることに関して僕に賛成して欲しいのだろう、とその話しぶりから感じられた。
 が、たとえお付き合い程度の会話であっても、それに賛同することはできなかったので、
「ここに水草を植えることは、この水溜まりの環境を変えてしまう危険性があるので・・・。」
 と正直に自分の思いを伝えてみたら、
「それは知らんかった。何もしないのが一番なんやね!」
 という返事が返ってきたのでホッとさせられた。
 ところがその数日後、また同じおじさんから、
「せっかく植えた水草を誰かが持ち去った。」
 という話を聞かされ、愕然とさせられた。理屈では分かっても、感覚としては理解できないのだろうな、やっぱり水草を植えたいのだろうな。
 もしかしたら、特別に自然に興味を持っているわけではない人や知識を持ち合わせない人に、それを理解しろ、という方が無理なのかもしれない。第一、世間ではあちこちにホタルを放してフィーバーし、小川に鯉を放して「自然を大切にしましょう」いうと看板を立て、桜の花が満開だ、とお祭りをするのだから。
「公園に桜の木を植えるのと、公園の水たまりに水草を植えるのとどう違うのだ?」
 または、
「水辺に人が手を加えてビオトープを作り、そこに自分たちが気に入った植物をどこかから移植することとどう違うのか?オオカナダモだからダメなのか?なら、日本産の水草ならいいのか?」
 と聞かれると、僕には何とも答えようがない。


NikonD3X TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

NikonD3X TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

 町の水路へ

 一方で、僕の事務所の近くの町の水路では、そのオオカナダモが汚れた水路の水を浄化し、小鮒やトンボのヤゴたちに隠れ家を提供するなど一定の役割を果たしているのだから、話はややこしい。
 この水路からオオカナダモを取り除いてしまうと、それらの生き物たちの大半は、一緒に姿を消してしまうことだろう。
 水路には、フナなどの日本産の淡水魚の他に、雷魚やカダヤシなどの外来の魚の姿も多くみられる。そしてこの場所では、今や日本の生き物と外来の生き物とが、お互いになくてはならない関係になっているように、僕の目には映る。
 つまり、外来種の問題を議論する時に、そこがどんなタイプの環境なのかによってまずは分類し、それぞれの場所に合った対応をする必要があるように、僕には感じられる。

(写真展のお知らせ)
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期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.15(土) キアゲハ


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

 羽の裏・表・胴体も合わせて総合的に評価すると、僕はキアゲハが日本で一番美しい蝶だと思う。幼虫の模様もとても面白い。
 蝶と言えば、モンシロチョウやアゲハチョウの写真には結構な需要があるようで、アゲハチョウなどは、昆虫のカメラマンではない僕でさえ何度か仕事の依頼を受けたことがあるし、過去に何度か撮影したことがある。
 一方でそれ以外の蝶となると、劇的に写真の需要が少なくなるようだ。
 アゲハの撮影を依頼されてカメラを持ち出すたびにいつも、アゲハじゃなくて、僕が大好きなキアゲハでもいいじゃないか?と思うのだが、やっぱりスタンダードはアゲハチョウなのだ。
 さて、先日撮影用に捕まえてきたキアゲハの幼虫をそのまま飼育していたら、成虫になった。あまりに美しいので、羽化して間もないものをスタジオで撮影してみることにした。

 それにしても、蝶は絵になるなぁ。
 蝶にカメラを向けると、トンボマニアの気持ちも少々わかるような気がする。蝶はあまりに王道過ぎる。その点トンボなら、なんだかマニアックな、秘かな喜びが得られるような気がする。
 マニアの人たちはどうも、自分たちが周囲の一般人には理解されないことを喜んでいるようにも見える。
 僕の場合、マニアックなものはあまり得意ではないから、もしも僕が昆虫写真家なら、やっぱりトンボではなくて、蝶だろうな。
 だが蝶の写真と言えば、青森の工藤君のような無茶苦茶に上手い若者が存在し、もしも僕が蝶をテーマにしていたなら、今頃焦り、顔色が青ざめている可能性がある。工藤君はまだ学生さんが、その写真のうまさは反則!僕よりも年下の人の中では、ずば抜けているを通り越している存在だと言える。
 
 それはともあれ、実は、僕は写真撮影自体にはあまり興味がないし、何かに感動した時には、写真に記録するよりも、心に記録した気持が強い。
 では、なぜ写真を撮るのか?
 それは僕にとっては、写真を撮る行為=自分の心の中を整理することであり、写真撮影が物事を考えるための手段だからである。
 ただ今回は、あまりのキアゲハの美しさに、「これって写真に写らないかな?」と試してみたくなった。
 残念ながら、あの美しさは写らなかったのだが。

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2009.8.14(金) 続・オリンパス恐るべし


OLYMPUS E-30 ED 50-200mm F2.8-3.5 SWD

 11日のトンボの撮影の際に、オリンパスのカメラで撮影したキアゲハの幼虫。カメラは、その時の日記にも書いたように、田中博さんのもの。
 写真に全く興味がない人には訳が分からない話だろうから申し訳ないのだが、今日は勘弁してほしい。
 オリンパスのカメラで撮影すると、ニコンやキャノンで撮影するよりも、被写界深度が深くなるとされている。
 被写界深度が深いということは、ボケが小さいということでもあり、深い被写界深度が要求される場合にはオリンパスはいいが、大きなボケが要求される場合には、オリンパスは不適というのが一般的なオリンパスに対する評価であるように感じる。
 ところが、今回お借りしたED 50-200mm F2.8-3.5 SWDで実際に撮影してみると、意外にも、ボケが大きいのである。
 ニコンの35ミリ判フルサイズセンサーで撮影した画像よりも、なぜだから分からないけどども、よりボケが大きく感じられる画像もあった。
 レンズの性能の良さからくるボケのきれいさなのかなぁ・・・。
 一方で、ボケの部分ではなく、虫の部分に関しては、フォーサーズならばでの深い被写界深度が得られていた。
 ようするに、ピントを合わせたい部分にはよくピントが合い、ぼかした部分はよくぼける。
 理論的に破たんしていると思われるかもしれない。だが、実写してみたらそうなのだから、そうとしか言いようがない。
 なんなんやろう?

(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.12〜13(水〜木) 落とし穴

 先日、田中博さんと一緒にトンボの写真を撮影した日、撮影が楽しかったこともあって少々ハイになり過ぎたか、夕食の際に不摂生をしたら、その晩、腹具合が悪くなった。
 以前ちょっと書いたことがあるが僕には膵臓炎の持病があり、油ものを多く食べると具合が悪くなるのだが、ちょっと食べすぎた上に、油ものを食べた際に忘れずに飲むべき薬を飲み忘れたのだった。
 翌日は、さらに悪かった。朝から体に力が入らず、夕刻になり、ようやくベッドから抜け出すことができ、今日はやっと一段落した感じになった。
 僕は寝るのは大好きなのだが、朝早起きしないのは大嫌いであり、普段は具合が悪くても午前中に限っては大抵仕事をするが、今回は、僕としては非常に珍しく、ほぼ一日を横になって過ごした。

「終わりよければすべてよし」
 と言う方がおられるが、僕の座右の銘は
「終わり悪くてもすべてよし」
 であり、別にトラブルが発生してもいいと思っているのだが、昼間の撮影がせっかく楽しかっただけに、その余韻を翌日まで楽しめなかったことは、勿体ないことをしてしまったと思う。
 田中さんがまた九州にお越しになるのは、随分先のことだろう。

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期間  7/1〜8/30
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2009.8.11(火) オリンパス恐るべし

NikonD3X Distagon T* 2.8/25mm ZF
 トンボ写真で有名な田中博さん(手前)がやってきた!今日はほぼ一日、一緒にトンボにカメラを向けた。奥に小さく写っているのは今やトンボの神様と崇め奉られつつある北九州在住のトンボ愛好家・西本晋也さん

OLYMPUS E-30 ED 50-200mm F2.8-3.5 SWD

(撮影機材の話)
 今日は、田中さんのオリンパスのカメラと、僕のニコンのカメラとを一時的に取り換えて写真を撮ったのだが、ある状況下で、圧倒的にオリンパスのカメラがよく写った。
 勝負にならないというくらいにオリンパスが良かったし、こんなに違っていいのか?とさえ僕には感じられた。
 もちろん、ニコンがよく写った状況もある。だから結局カメラは適材適所であり、それぞれのカメラに得意不得意があるのだが、昆虫の撮影に関して言うと、オリンパスのカメラが大変に威力を発揮することを思い知らされた。
 昆虫のカメラマンにはオリンパスを愛用する人が多いが、なるほど!と思う。

 実は僕は、オリンパスを使用するのは初めてではないし、それどころかオリンパスのカメラも、現在使用している。
 が、それを使う理由はカメラのサイズが小さいからであり、画質を期待したわけではなかったし、そんなに画質がいいという印象もなかった。
 ところが今日に限っては、そのオリンパスの画質が各段に良かった。どうも、オリンパスのカメラがピシャリはまる状況があることが分かった。
 具体的にどこが良かったかについては、なぜオリンパスだけがそんなによく写ったのか、理由がよく分からないのであえて書かずにおくが、普段ニコンやキヤノンのカメラを使用していて、状況が悪くてまともな写真は撮れないだろうと判断していたような悪条件下でも、オリンパスならちゃんと写るということがあり、非常に守備範囲が広いカメラだということが分かった。
 オリンパス恐るべし。
 今日の主役は、コシボソヤンマだ。

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

(図巻写真とは)
 昔、ナショナルジオグラフィックを見ていたら、本編では使用されなかったけどれも捨てがたい写真を紹介するコーナーがあった。
 ある一枚の写真は、その編集者にとってゾクッとするくらいにいい写真だったのだが、別のページで使用された写真と印象が似ているという理由で選に漏れたのだ、とその写真が傑作であるにも関わらず使われなかった理由が説明されていた。
 つまり、本は同じような写真を羅列するのではなく、メリハリをつけなければならない。

 たとえば図鑑の中でコシボソヤンマを紹介する場合、コシボソヤンマの識別のポイントがちゃんと分かる写真がまず必要になるが、そこに複数の写真を掲載する場合は、2枚目3枚目に載せる写真に限って言うと、図鑑だからと言ってそのトンボの特徴が分かる必要はない。
 むしろ、どれもこれもトンボの模様がよく見えるように撮られた写真を載せてしまうと、同じような写真ばかりが羅列された印象にあり、メリハリがなくなってしまう。
 図鑑的なシーンの撮影だからと言って、必ずしも、昆虫にストロボの光を当て、トンボの色がよく見えるように撮影する必要もない。同じことばかりを何度もくりかして主張したって仕方がないし、むしろそれは、本作りというよりは、情報の羅列になってしまう。
 また、そうならないようにするのが編集という作業なのだ。
 今日は、産卵中のコシボソヤンマの撮影では、特に自然光にこだわってみた。

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

(写真展のお知らせ)
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2009.8.10(月) あばきたい


NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

 昔、正義を主張するある新聞社のカメラマンが、
「あばきたい!社会的に地位がある人間が不正なんかをしているのをあばきたい。」
 と語るのを聞いて、とてもむなしく感じたことがある。
 なんだか、そうした不正を待ち望んでいるのか、あるいは、自分のストレスみたいなものを、不正をあばくという大義名分の元に発散したいのではないか?と感じられた。
 僕は、だいたい正義の味方みたいなものがあまり好きではない。
 そもそも、何が正義かなんて人によってみんな違うのだし、ある人にとって正しいことが、またある人にとって悪事だったりもするのに、神様でもあるまいし、何が正義かなんて誰にも分かるものか!と思うのである。正義なんて主張できる人は、むしろいかがわしいのではないか?と僕は基本的に疑っているのだ。

 ところが、水路に捨てられたゴミの取材をしてみると、僕が受け付けられなかったそのカメラマンの「あばきたい」という言葉が、なんと!多少理解できるのだ。
 というのも、僕は自然が好きだし、ゴミだらけの場所を見ると心底がっかりさせられるし、悲しくなったり、腹立たしくもなる。
 なのに、写真を撮る場合には、不謹慎にも、どこかでそんなゴミだらけの状況を楽しまなければならないのだ。
 たとえば、水路に捨てられたサイダーのペットボトルにカメラを向ける。そしてその撮影を終え、今度はコーラの空き缶に気付いた時に、
「ヨ〜シ、あいつも撮影したいなぁ」
 と張り切ることができなければ、写真なんて撮れないのだ。
 なんとおかしなことだろう!ゴミが嫌なはずの僕が、ゴミがあればあるほど張り切ってしまう。
「あばきたい」
 というのは、僕がゴミだらけの水路の取材の際に、ゴミを見つけたら「撮影したい!」と張り切ってしまうのと同じような意味だったのかな?彼も張り切っていたのかな?
 でもやっぱり理解できないのは、実際にあるかないかまだ分からない、具体的ではない不正を、あばきたいという心だ。
 いやいや、報道に携わっている人なら、日頃の経験からそんな不正が目の前にゴロゴロあるという実感があり、その実感が「あばきたい」と言わせるのかもしれない。
 いつか、僕にもその感覚が理解できる日がくるのだろうか?
 いや、分かりたくないような気もする。

(写真展のお知らせ)
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期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.8〜9(土〜日) 丁寧な写真

「自分のことは自分が一番よくわかる」
 と主張される方がおられるが、僕の場合は、だいたいにおいて自分のことこそが一番分かりづらく、難しい。
 ところが、何かに後悔させられたり心を揺すぶられたような瞬間には、その後悔に付随して、自分がどこを目指しているのかが浮き彫りになるし、自分自身についてよく気付かされる
 自分が撮影したことがある被写体に他人がカメラを向けると、ドキッとさせられるものだが、僕の場合、その他人の写真がどんなに上手い写真であってもあまり悔しくないのだが、それがより丁寧に撮られた写真だった場合には、負けた!悔しいなぁと感じるし、自分ももっと丁寧に写真を撮るべきだったなぁ!と強烈に後悔させられる。

 丁寧な写真といっても、人それぞれ思い浮かべるイメージが異なるだろうが、僕にとっての丁寧な写真とは、撮影者の意図がよく見える写真だ。
 ただし意図は意図でも、生き物の形態や生態がよく分かるようになどというくそ真面目な理屈っぽい意図が見えてしまう写真はその対象ではなく、味気ない写真にはしたくない、という撮影者の思いがにじみ出ているような写真に僕は弱い。
 そう言えば、本は誰が編集者するかによって、同じテーマのものでも全く違った味わいになるが、僕は、味気なくない本を作る編集者が好きだ。
 どうも僕は、本を通して、情報ではない何かを伝えたいようだ。ああ良く分かるねではなくて、ああいいねと言わせたい。
 もちろん、写真を通して何かが分かるのはとても大切なことであり、特に図鑑などを作る際には最優先にされるべきことなのだが、それは僕の仕事ではない、と思うのだ。
 
(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.7(金) 図書館

 僕は基本的にどんな仕事でも全力で取り組むことにしている。ギャラが高いとか低いとか、好きな被写体とか嫌いな被写体とか、今は時間があるとかいや忙しいなどとは言わないことにしているし、どんな状況であっても、自分なりの規格をクリアーするまでは、写真を撮り続けることに決めている。
 だから、普段撮影の際には手を抜くことはしないのだが、場合によっては、ある仕事にだけ必要以上に時間をかけて取り組むことはある。
 最終的に提出する写真は一枚だったとしても、その一枚を撮るまでに、求められてもない様々なことを試し、その中から一枚を選ぶのである。

 ここしばらくの間取り組んでいた仕事も、まさにそうして時間をかけた仕事だった。
 月刊誌とは毎月一度発売される本のことだが、月刊だからと言って、すべての号が同じ役割を持つのではなく、それぞれの号に個性がある。ある号では一般受けする必要があり、またある号では、受けを気にせずに比較的自由に本作りができる、といった違いがある。
 僕の場合、仕事として楽しいのは、自由にやれる、受けを気にせずにすむ号だ。ところが不思議なことに、
「○月号はあまり受けを考えないでいいので、武田さん自由にやってください。」
 と言われると、どうせあまり重要ではない号だから自由にやれるんだもんね、とちょっとさみしいものがある。
 逆に、
「一般受けが求められる△月号をお願いします。」
 と言われると、撮影自体は楽しくないがやる気にはなるし、それに取り組んでいる間は、集中するが故に、生き物の世話やパソコンでの画像処理など、他のすべての作業を放棄したくさえなる。

 さて、一昨日、その重大な仕事が終わったところで、昨日の午後は、直方市の市立図書館をたずねてみた。
 まずは、読者になって本を閲覧する。現在市販されている子供向けの生き物の本の中で、どの本が所蔵されており、どの本が所蔵されていないかを確かめる。
 なるほど、所蔵されているものには何となく傾向がある。
 次に、本を閲覧する子供たちを観察する。
 最後に、現在制作中の本を館長に見てもらい、本を購入する図書館の人の立場から、どんな本を買いたくなるのか、アドバイスをもらう。

 直方市は僕の地元なので身内贔屓があっては困るし、武田が作った本ということを抜きにして、見本を見てもらった。その結果、今制作中のものは、間違いなくいい線を行っていると手ごたえを感じた。
 もっと自信を持って前に進んでもいいのかもしれない。中には、自分ではあまり自信がなく、恐る恐るやっていた部分をとても高く評価してもらった面もあった。
 普段から本の山の中で仕事をし、子供たちの反応を見ている館長さんの話の中には、唸らされるものがあった。
 今回本を出してくれる出版社が、大変に信頼されていることを知り、これは結果オーライだったが、実は本を手に取ってもらいたいのなら、出版社選びも重要だったことに気付かされた。
 そして、本は内容も大切だが、見え方が非常に重要ということを再認識。
 最後に、本を、もっとたくさんの人の手に取ってもらうためのアドバイスを受けた。が、そこはかなり大きな本の市場であるにも関わらず全くの未開拓ゾーンであり、館長さんも、具体的にどのようにしたらいいのかは分からないとのこと。
 さて、どうしたものか・・・

NikonD3X Distagon T* 2.8/25mm ZF

NikonD3X Distagon T* 2.8/25mm ZF

(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.5〜6(水〜木) 長雨

 僕は、以前野鳥専門の写真家になりたかったことは、過去にも書いたことがあるが、野鳥の活動は、天気や気温に左右されるようなことは、あまりないように思う。
 積雪があり、食べ物が雪に覆われてしまった結果、野鳥が普段とは異なったパターンで活動するようなことは多々あるように感じるが、それは天気や気温の影響というよりは、食べ物の影響であろう。
 一方で昆虫の活動は、天気や気温に大きく左右される。一般的には、昆虫は天気がいい日によく活動する。

 さて、苦心していた仕事が1つ終わった。今年は梅雨が長かったので、昆虫の撮影には大苦戦させられたし、仕事が終わった今日は、実に気分がいい。通りすがりの人の向って、
「超気持ちいい!」
 と叫びたくなるほどだ。
 生き物の写真は、通常、どこにどれくらいの大きさで使用するかによって使用料が決まる。だから、苦労して撮影した写真でも、何かのついでに簡単に撮影した写真でも、用途が同じなら、使用料は同じになる。
 この写真は一枚撮影するのに20年かかったんだ。だからたくさんお金をくれ!というのは、なかなか通用しないのである。
 つまり、おいしい仕事もあれば割に合わないものもあるが、今回の仕事に関しては、当初、これはおいしいと思っていた数枚の写真が、天候不順のために、おいしいどころか非常に割に合わない仕事になってしまい、冷汗をかいた。
 せめてもの救いは、担当者が気の知れた相手だったことだ。相手の顔や表情が想像できると、苦労も半減したような気になる。
 逆に、どんなにインターネットが発達しても、相手の顔が見えないような仕事をしていると、いつの間にか頑張れなくなってしまうに違いない。
 
(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.8.4(火) 夏眠


CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM

 昆虫の中には、夏眠といって夏になると活動が弱まるものが存在するが、ナナホシテントウの夏眠と言えば、以前、真夏にナナホシテントウの撮影を安請け合いしたら、ちょうどナナホシテントウが夏眠中で見つからず、大苦戦したことがあった。
 結局、数千円の交通費を投じて気温が低い大分県の高原まで出かけ、ナナホシテントウを見つけ出し、なんとか写真を撮った。
 思い起こしてみると、身近な生き物の撮影では、意外に苦心させられることが多いように思う。
 
 昆虫という存在は、まるで機械のようだ。
 ある時間になると突然に活動が活発になったり、また逆に、ある時間になると、それまでの活動が嘘のように収まったり。それは、意思を持って活動しているというよりは、時間帯や温度や明るさなどに、ただひたすらに反応しているようにさえ感じられる。
 だから、そのタイミングを逃せば、どんなに身近な生き物でも時には全く見つけられないことがあるし、逆にそのタイミングさえとらえれば、写真は撮り放題というような側面が昆虫の撮影には付きまとう。

 時々、昆虫に対して人間の感情のようなものを当てはめて考える方がおられる。
 例えば、昆虫採集の結果、人の手で殺されてしまう虫に対して、
「きっとその虫は無念でしょう。たとえアリに食われて死んでしまったとしても、昆虫はそんな死に方を望んでいるはずです。」
 というような意見を聞いたことがあるのだが、おそらくその人は、自分に酔っているだけで、昆虫をよく見たことがない人、昆虫に対して特別な愛情を持たない人ではないかと思う。
 
(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

 

2009.7.30〜8.3(木〜月) 没に備えて


CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM

 本作りって、難しいなぁ、としみじみ思う。
 生き物の本を作る際には、生き物という要素と本作りという要素の2つの要素を満たさなければならないが、生き物の写真としてはいい写真が、本作りのための素材としては必ずしもいい写真であるとは言えないのである。
 特に、幼児向けの本ではそんな傾向が強く、自分ではこれで間違いなくOKだろうと思う写真が、思いがけない理由で没になることだって珍しくない。
 だから、仮に自分では写真がちゃんと撮れていると思っていても、クレームがついた場合に備えておく必要がある。
 先日は蝶の幼虫をスタジオで撮影したのだが、撮影終了後も、すぐに幼虫を野に返すのではなくて飼育し、撮り直しに備えた。
 が、その蝶のための食草を毎日取りにいくのの面倒なこと!そうして没になった場合に備えて維持してある生き物が、1種類、2種類・・・・と増え、ここのところは、撮影以外のことが忙しい。
 ダンゴムシのような身近にいくらでも見つかる生き物でも、僕は、撮影が終わったら、その個体を飼育しておくことが多い。たかがダンゴムシでも、撮影の際によく言うことを聞いてくれるいいモデルと、聞き分けのない困ったモデルとが存在し、いいモデルにはなかなか出合えないのだ。
 たとえば、ダンゴムシが丸まった姿を撮影したとする。
 そこでダンゴムシを指で丸めてみると、丸まったままなかなか起きてこない個体と、すぐに起きだしてくる個体とが存在する。
 丸まった姿の撮影には、なかなか起きてこない個体が適するのは、言うまでもない。中には、死んでるんじゃないか?と疑いたくなるくらいに、丸まったままの姿を長時間維持するものもある。
 そんなダンゴムシを見つけた時には、丸まった姿は撮り放題であり、短時間で質のいい写真を量産することができる。
 
(写真展のお知らせ)
北九州市平尾台自然観察センターにて、写真展を開催します。是非、御覧ください。
期間  7/1〜8/30
内容  野村芳宏 西本晋也 武田晋一による3人展

   
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