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2009.5.30〜31(土〜日) 更新
今月の水辺を更新しました。
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2009.5.29(金) お見事!
 CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM

CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM

CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM
雨の中での撮影は、機材を濡らさないようにしなければならないから、なかなか神経を使う。
手に持っているカメラだけならともかく、レンズを収納しているカメラバッグにも気を配らなければならないし、レンズを交換する際にはいちいち傘の下に入り、カメラの中に水滴が入り込まないように気をつけなければならない。
今日は、撮影中にふと振り返るとカメラバッグがひどく雨に打たれていたため、ちょっとその場を離れたら、その間に三脚が、取り付けたカメラもろ共倒れてしまった。
三脚の先端のカメラが取り付けてある部分は、そばの水路に向って一直線。ああ、カメラ一台がお釈迦になった・・・これは間違いなく廃カメだろう、と僕は諦めた。
ところがなんと!
カメラは、ここしかないという僅かなスペースに、あり得ないと我が目を疑うほど見事に着地。しかも、着地の仕方も完璧であり、かすり傷1つなし。
もしもその場に体操競技の審査員がおられたとしたら、10.0、10.0、10.0、10.0、10.0、10.0、とみなその見事な着地に満点をつけたに違いない。
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2009.5.28(木) 現場で

RICHO Caplio GX100
現在作成中の本の見本を持って、現場へと向かう。現場でその見本を開き、何度も目を通し、さらに何を撮り進めるべきかを考える。
事務所でそれを考えてから出かけてもいいのだけど、事務所にいると他にもいろいろと仕事があるから、構想を練るような時間はどうしても後回しになる。
そこでとにかく、今日は事務所から飛びだすことを最優先にしたのだ。

RICHO Caplio GX100
空と相談した結果、今日の狙いは梅雨の走りのような天気に決めた。場所を決め、車を迷惑にならない場所に止め、そばに三脚を立ててカメラを据え、あとは天気が動き出すのを待つ。
雲を待つ間は、時々窓の外の様子を確認しながら、車の中の整理に励む。
取材の際に、必要な物が必要な時にサッと出てこないようではお話にならないし、車内に積んであるあらゆる物を、とにかく使いやすいように整理する。
荷物の収納の工夫のような作業も、事務所にいてはつい後回しになり、なかなかできない作業の1つだと思う。
いや、荷物の収納はむしろ現場でやった方がいいのかな。自宅でそれをすると、どうも理屈っぽくなり、よく考えたつもりが、実際には使いにくい収納になってしまう傾向がある。
ともあれ、本作りの構想を練ることにしても、荷物の整理にしても、いずれも非常に大切な時間なのである。カメラバッグや車の中で荷物がどんな風に収納されているかを見ただけで、だいたいその人の写真の力量が分かるような気がする。

CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM
そうこうするうちに、来た来た。思い描いたような雲がやってきた。
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2009.5.27(水) まとめ
金魚の産卵は、だいたい5〜6月くらい。マニアの方々は、ヒーターを使用してもっと寒い時期から卵を取るが、それは早く卵を産ませ、その年に生まれた子供をより大きくして秋に行われるコンテストに出すため。
コンテストでは、どうも大きな魚の方が評価されやすいようであり、コンテストに興味がなければ金魚の産卵のベストシーズンは5月のようだ。
金魚はその年最初に卵を産むと、あとは2週間に一度のペースで卵ととることができる。だが、金魚にとって産卵は大変にエネルギーを使うイベントであり、ベストなのは、月に一度のペース。
その月に一度の日以外の時は、オスメスを分けて飼育する。つまり一匹のメス魚が卵を産むのは、5月に1度、6月に1度の年に2度、ということになる。
仕事として写真を撮る場合は、年にたった2度のチャンスではあまりに心もとないので、多数のメスを持っておく必要がある。
だが、すべての魚を同じ容器に入れておいた場合、病気が発生するとすべての撮影が滞ってしまうから、入れ物を分けなければならないし、さらに成長した金魚は大人の男性の手のひらくらいの大きさがあるので、入れ物は大きく、とにかく飼育のための場所も取る。
そして僕にとって何よりも堪えたのは、いい金魚は一匹数千円程度とお金がかかることだった。普段、僕が撮影している野生の生き物はただなのである。
産卵の時間は、一般的には早朝になる。
だが、中には夜の間に卵を産む場合もあるようだから、何時からカメラを手に待機するかは、非常に迷うところだった。
相手が、そこらで採集できる昆虫の羽化や孵化なら、それが一番起きそうな時間に的を絞って待ち、的が外れた場合は別の虫を探して撮影するのだろうが、金魚の場合は数匹の魚を持っておいても、コンディションが整うかどうかなどの問題もあり、撮り逃した場合にいくらでも替えがきくわけではないから、僕は万が一に備えて一晩ひたすらに待つ選択をした。
撮影は、オスがメスを追いかけ求愛するところからはじまる。
ところが、求愛の様子を撮影すると、撮影の際の照明の発光などでメスが神経質になり、卵を産みにくくなる。
そこで僕は撮影を2日に分け、1日目は求愛を撮影し、求愛の撮影が終わったところでオスを取り出し、その日はメスに卵を産ませないことにした。
そして2日目は、一切求愛等の撮影をせずに、また人の姿を見せないようにし、メスが卵を産み始めるのを待つ。結局、これが今回の撮影で一番肝心なことだった。
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2009.5.26(火) あっけない最後

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)
金魚は、産卵間近になると腹部が柔らかくなるのだが、昨日撮影に使用したメスは腹部が硬く、まだ産卵には適さない魚だと僕は考えていた。
だから、仮に卵を産むにしてもごく少量だろうし、産卵シーンの撮影の本番は2週間後の大潮の日。昨日はその予行練習であり、僕は他方で、2週間後にベストなコンディションになりそうな別の魚を選びだし、VIP待遇し、準備を整えていた。
ところが昨日その撮影の予行練習を終え、使用した水槽を片付けようと中をのぞき込んだら、思いの他、たくさんの卵が産み落とされていることに驚かされた。
問題は、その金魚が産卵をしている写真に、メスの体内からこぼれおちてきた卵が写っていないことだ。
だが、昨日ほどの量の卵が産み落とされたにも関わらず、それが写真に写らなかったということは、恐らく、卵の色合いや大きさの具合からして、写真には写らないものなのだろう。
今日の画像は、水草に付着した卵の密度が一番高い部分を撮影したものだが、アップでこの程度しか写らないのだから、遠くから撮影された写真には、卵は写らないだろうなぁ。
僕は、勝手なイメージで、産卵がはじまるとメスはもっとドバッと卵をまき散らし、水に漂う卵が写真に写ると思い込んでいたのだ。
確かに、数千個の卵が一斉に放出されれば、それはきっと写真に写るに違いない。だが実際には、少しずつ少しずつ、こぼれるように卵は産み落とされるようだ。
昨年から苦心していた金魚の産卵の撮影は、実にあっけなく終わった。いや、終わっていた。金魚の撮影で一番神経を使い、辛い部分を乗り越えたのだ。
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2009.5.24〜25(日〜月) 原因と対策
 NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)
1月に、野鳥写真家の中田一真さんのお宅にお邪魔した際に、
「僕は、高校時代に文系の科目が苦手だったので、理科系に進みました。」
と話をしたら、中田さんの奥様さまから
「そんなことってあるんですか?普通は理科系が難しいから、文系に進むものだと思っていました。」
と笑われてしまった。
笑われてふと考えてみれば、両親を含め、僕の身の回りには圧倒的に理科系の人間が多い。そして、武田家では文学が話題に上ることはまずないし、非科学的な主張も通用しにくい。
例えば家でどんなに不幸事が続いたとしても、お払いをしてもらうという発想にはならないだろうし、何かの罰があたっているなどと家族で不安がることもあり得ないだろう。
何かうまくいかないことが起きた時には、まずそれが不可抗力なのか、それとも原因があるのかに分け、不可抗力なら受け入れ、原因があるのなら原因追究し、原因を取り除くのみである。
おのずと僕も、うまくいかないことが起き、それが不可抗力ではないと判断した時に、その理由を知りたいと思う気持ちが強い。撮影も、試行錯誤を繰り返した結果、なんだかわからないけど写真が撮れました、では納得できず、撮れるべくして写真を撮りたい気持ちが強い。
さて、金魚は、本来は水槽ではなく 池 や プラ舟 と呼ばれる容器で飼育するものであり、繁殖の際にも、ガラス水槽ではなく、プラ舟が用いられる。
プラ舟とは 、本来はコンクリートをかき混ぜたりするための容器で、多くは青や緑のプラスチックでできている。
(例えばここ→ http://www.risu.co.jp/risukogyo/sakan/sakan_1.html)
当然僕も、撮影用の金魚は、プラ舟で飼育している。
だが、実際に写真を撮るときには、上からしか魚を見ることができないプラ舟では困るので、ガラス水槽に魚を移すことになる。
ところが、金魚の産卵のシーンに関しては、昨年からなぜか、ガラス水槽ではうまくいかない。プラ舟ではいともたやすく卵を産むのに、水槽の中では、卵を産みそうで産んでくれないのだ。
いったいなぜ、ガラス水槽では卵を産まないのだろうか?
昨年の僕は、一刻も早く金魚の撮影を終えたい気持ちから、その理由を解明しようとする試みをおろそかにし、実にちぐはぐになり、結局最後まで、産卵シーンを撮影することができなかった。
今年は、とにかく冷静になることを心掛けている。水槽の中で金魚が卵を産まない要因と思えることをすべてリストアップし、それらを1つずつ確認していく作業を続けている。
そしてようやく、昨晩〜今朝にかけては、一応目の前の水槽の中で、狙った日に、狙った時間帯に、金魚に産卵させることができた。
と同時に、水槽の中で金魚が卵を産まなかった理由が、だいたい分かった。
水槽の場合、こちらから金魚がよく見える代わりに、金魚からも僕がよく見える。金魚はどうも、カメラを持った人間の存在を嫌っていたようだ。
原因さえわかれば、あとは対策を施すのみ。おそらく、次に金魚が産卵しやすくなる2週間後の大潮の日には、撮影ができるだろうと思う。
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2009.5.23(土) 草むらにて

CanonEOS5D SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE
ナナホシテントウの撮影を引き受けてみたら、事務所周辺の草むらが、それ以前とは全く違って見えるようになった。
テントウムシの撮影以前から、自分としては、そうした場所もそれなりにちゃんと見ているつもりだったのに、実は全く見ていなかったことに気付かされた。
テントウムシと言えば、連想されるのは、餌になるアブラムシである。そしてそのアブラムシにも当然種類があり、うちの事務所の敷地内には、少なくとも3種類のアブラムシが存在するようだ。
黒いアブラムシ、黄緑色のアブラムシ、赤いアブラムシ。それらは種類によって異なる植物に付着し、その植物は、時期によって突然に繁茂したり姿を消してしまい、アブラムシもその植物に合わせて急に増えたり、逆に、一匹も見られなくなる。
今日は、そのアブラムシを眺めていたら、目の前の金網にハチが巣を作っていることに気づいた。
へぇ〜。
自然愛好家には、「世間のみんながちゃんと自然を見ていない」と嘆き、「そんなことじゃダメだ!」と主張する方が結構おられる。
ところがそう嘆く人も、実はあまりよく自然を見ていない、などというケースは多々あるように思う。たとえば、獣が好きな人が、昆虫に関しては実に無知であり、さらに知ろうともしなかったり、魚が得意な人が植物についてはほとんど知らなかったり。
実は僕も、大変に無知だ。
だが僕は、自然は知らなければならない、というような筋合いのものではないような気がする。僕の仕事は、自然を知らなければならない、と人に思わせることではなく、自然って面白いね。面白いから知りたいね、と感じてもらうことなのである。
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2009.5.20〜22(水〜金) 知識

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)
プロの写真家とはどんな存在かについては、人によってさまざまな考え方があるが、人さまの話をよく聞いてみると、そこには大きく分けて2つの考え方があるように思う。
1つ目は、哲学を持ち、納得できるまで写真を撮り続けるこだわりの人をプロだとする考え方。そして2つ目は、写真で生計を立てられるだけの稼ぎがある人をプロの写真家だとする考え方。
僕は、基本的には後者をプロだと考える。なぜなら、純粋な趣味の写真を撮っている人でも、哲学やこだわりを持つ人はたくさんいるのだから。哲学やこだわりは、趣味であるか仕事であるかとは無関係に大切なことだと思う。だから、それによってプロであるかそうでないかを分けられるものではないような気がする。
では、単純に写真でお金が稼げればプロなのか?と言うと、もちろんそうではない。
例えば、家族が出版社を経営しており、
「君に仕事をやろう。」
と与えてくれた仕事でお金が稼げても、それはプロではないだろう。
でも、そうして写真を撮っているうちに外ででも通用するだけの何かを身につければ、その人はプロの写真家ではなかろうか。
プロは、開けた市場で競争の中から選ばれるだけの何かを持っていなければならないような気がする。
また、今は引退してしまい写真でお金を稼いでいなくても、昔稼いでいた人は、僕にとってはプロの写真家だ。要するに、ただお金を稼いでいるかどうかではなく、稼げるだけの確かな技術や知識を持つ人を、僕はプロだと考えている。
その点、やっぱり自分は素人だなぁ、と時々思うことがある。
僕は、時々今日の画像のように、魚や昆虫や小さな生き物を無地の背景で撮影することがあるが、その際の背景の色としては、白・グレー・黒・青などを使い分けている。
ところが、実はその使い分け方を全く理解できていなかったことに、つい最近気付かされたのだ。これまでは、何となく色の感じの良し悪しで、背景を選んでいたのだ。
なんと適当な、浅い知識で写真を撮っていたのだろう。
その具体的な中身については、あまりに特殊な世界だし説明が長くなってしまうので、また別の機会にでも書こうと思うが、とにかく、これまで撮影した写真で背景の色の選び方を誤っていたものの撮り直しを、昨日から始めた。
応用が利く本物の知識って、やっぱり大切ですね!
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2009.5.18〜19(月〜火)

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)
・この日の日記は、間違えて消してしまいました。仕方がないので、画像のみ、再度掲載します。
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2009.5.16〜17(土〜日) 在庫から

NikonD3X TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO
僕は、この日記の更新をがんばらないことにしている。実は、別に更新が滞ったなら滞ったで、全く構わないと思っている。
とは言え、過去にひどく日記を滞らせたことがないのは、毎日何がしかの活動をし、その結果、何か人に伝えたい思いが込み上げてくるからであり、勤勉さや義理堅さから日記を続けているわけではない。
込み上げてくる思いは例えるなら湧水のようなもので、自分でもコントロールできないのだ。
さて、僕は過去の日記の更新の際に、在庫から写真を出してきて日記に掲載したことは、ほとんどない。
3日分まとめて日記を更新するような時に、今日ではなく、1日前や2日前に撮影した写真を載せることはよくあるが、ある日日記を更新したら、その日以前に撮影した画像はもうおしまい。次の更新の際には、基本的に、新しく撮影した写真を載せることにしている。
だが今日は、先日山陰〜山陽の水辺に出かけた際に撮影した画像を、あえて載せてみた。
理由は、画像処理をはかどらせるため。僕の場合、撮影をした当日なら、画像処理を楽しく感じられるのだが、翌日になると、一転して画像処理が苦痛になる。だから画像処理は、可能な限り撮影当日に終わらせてはいるが、いつでもそうできるわけではなく、そんな場合は、画像処理が苦痛で、ひどく貯め込んでしまう結果になる。
ところが、過去に撮影した画像であっても、その日日記にその画像を載せるとなると、意外に楽しく画像処理がはかどることに気がついたのである。日記に画像を載せる、という動機が生まれるからだろう。
ならばそれを利用しない手はない。幸い、日記はなぜか続いてしまうので、その勢いを借り、これからは時々、画像処理や画像の整理を兼ね、過去に撮影した写真も日記に載せてみようと思う。
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2009.5.15(金) 三段峡

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D EF300mm F4L IS USM

CanonEOS5D EF300mm F4L IS USM 1.4X

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM
僕は以前、渓流釣りに夢中になったことがあり、もしも渓流釣りの世界でプロが成立するのであれば、当時の僕ならプロを目指しただろうと思う。
だが、おそらく渓流釣りだけで飯を食うのは、ほぼ不可能なこと。渓流に生息するヤマメやイワナを誰かが食べたいと望むのならば、釣りをするよりも、養殖をした方が断然に安上がりに違いない。
そこで、釣り以外に、何か自分が好きでやっていることの中に飯が食えるものものはないか?と考えた結果が自然写真だった。
自然写真で飯を食うというのも、かなりリスクがあるが、渓流釣りのプロよりは、はるかに現実的な選択だ。
僕は今でも、渓流を歩くと、心の中で釣りをする。だから今日なども、目的とする滝に到着するまでに100匹以上のヤマメを釣り上げた。
正直に言うと、僕は現実の世界で100匹もヤマメを釣ったことはないのだから、想像というやつは厚かましいものだと思う。
弁解をすれば、僕が好む釣りの方法はルアーと呼ばれる疑似餌を使うやり方で、ルアーは本物の餌ほどは釣れないので、おそらく、ルアーで一日にヤマメ100匹は不可能だろう。
今日は、野村芳宏さんとの撮影の最終日。広島県の三段峡を歩いた。
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2009.5.14(木) 湿原

NikonD3X Ai Nikkor 20mm F2.8S
木道を進み、湿原に立ち入る。

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)
湿地の植物たちが出迎えてくれる。
 NikonD3X Ai Nikkor 20mm F2.8S
まず、左側にカメラを向け、
 NikonD3X Ai Nikkor 20mm F2.8S
つぎに、その場でくるりと回り、今度は進路の右側に向かって数枚のシャッターを切り、
 NikonD3X Ai Nikkor 20mm F2.8S
最後に後ろを振り向いて、歩いてきた木道にカメラを向ける。
以前、この場所を訪れた際には、点々とサラサヤンマの姿があり、存分に写真を撮ることができた。
ところが今回は、そのサラサヤンマを見つけることができなかった。
前回ここに来たのは、いつのことだっただろうか?僕はあまりデータ人間ではないので、以前この場所に来た年度も月も忘れてしまったのだが、多分、時期がずれているんだろうなぁ。
がしかし、右も左も後ろ側も、すべてが絵になる、とても充実した一日だった。
「野村さんの写真、撮っておきましょうか?」
と今回の撮影に同行してくださった野村さんにカメラを向けた。
「ああ、是非お願いしますよ。私のホームページの自己紹介の写真、あまり気に入ってないんです。」
「じゃあ、ちょっとカメラでも構えてもらえますか。」
「私、写真写りが悪いから嫌なんです。」
「今回は僕が写真を撮るのだから大丈夫です。もしもその顔が変な顔だったなら、普段からそんな顔をしているということでしょう。」
写真家は、それくらい厚かましくなければならないのである。

NikonD3X TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO
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2009.5.13(水) 趣味の写真

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)
たまには、まるで趣味のように、気ままに写真を撮りたい、と思う。
だが、実際にそうして写真を撮ろうとしても、僕は、いつの間にか仕事的な真剣さに取りつかれてしまい、なかなか趣味のようには写真を楽しむことができない。
仕事としての写真が楽しくないのではないが、趣味と仕事では、楽しさの質が少々違うのである。
ところが、今回は写真仲間の野村さんが同行しており、その野村さんに合わせて時間を過ごす結果、まるで趣味のように写真を楽しむことができている。
こんな気持ちで写真を撮ることができたのは、いったい何年振りだろうか?時々、人についてきてもらわなければならないなぁ。
僕は、目標や目的を持つことを大切なことだと思うが、きっと、目標や目的だけがすべてではないんだろうなぁ。
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2009.5.12(火) 滝

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)
僕は過去に写真教室のような催しを何度かやったことがあるのだが、レッスンというものがあまり性に合わなかったため、ここのところは、その手の催しはお断りしている。
レッスンの何が性に合わないかは自分でもよく分からないし、好みというやつは大体そんなものだと思うが、もしかしたら、先生と呼ばれてそれなりの扱いを受けることが、その大きな理由かもしれない。
僕は、持ち上げられるのがあまり好きではない。
持ち上げられるのも程々ならいいのだが、時に、まるで一神教の教祖様のような大層な扱いを受けるのが、どうも苦手なのだ。
僕は、写真が撮れることを別にえらいとは思わないし、凄いとも思わないし、尊敬に値するわけでもないと思う。
写真なんて下手糞だっていいし、僕にとって、写真撮影は単なる1芸能に過ぎない。
ただ、そんな写真にあほらしいほど本気になり、一生懸命取り組むことは、くだらないことではあるが、大変に面白い。
いや、くだらないがゆえに面白いのではなかろうか?
さて、今日は、昨年一緒に写真展を開催した野村芳宏さんとともに、滝の撮影に出かけた。今日から、広島〜島根〜鳥取県内の何ヵ所かの水辺を回り、水辺の撮影のノーハウを野村さんに伝える。
写真教室は僕の性には合わなかったのだが、身近なみなさんと一緒に撮影に出かけ、こう撮影したらいいとか、ああした方がいい、などと話をするのなら、僕はとても楽しい。
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2009.5.11(月) 書類の束

2ヶ月ぶりに、机の上にたまった書類の束を整理したら、心が軽くなった。送られてくる数々の書類の封も切らずにしばらく放っておいたら、その厚みは10センチ以上にもなり、どんなにうまく積んでも倒壊するので困っていたのだ。
仕方がないから、新たに送られてくる書類は別の机に積んでいたのだが、そちらも高さが10センチを越えてしまった。
昨日僕は、ここのところ原因不明の焦りを感じていると書いたが、もしかしたら焦りの原因は、撮影ではなくて、この書類の束だったのかもしれない。
書類の束とは、領収書、封書、撮影のための資料などなど。個人からいただく封書は、すぐに開封して目を通すのだが、会社や組織から送られてくるものは、僕の場合、大半のものは封も切られずにゴミ箱行きになるか、ずっと時間が経過し、完全に手遅れになってから開封されるかのどちらかになる。
中には、返事を出さなければならないものもあり、往復ハガキなどが入っているので、心苦しくなる。こんな僕でも、幹事さんや集計する係りの人には申し訳ない、と思う。
僕は、日本自然科学写真協会の写真展・SSP展の委員をしており、福岡でSSP展の展示がある時には、その事務的な仕事をお手伝いしていた。そしてその際に、こちらの呼びかけにちゃんと返事をしてくださる方の、何とありがたかったことか!
SSP展の委員は、当時SSPの副会長だった昆虫写真家の海野先生から任命されたのだが、それは恐らく、ただ労働力を提供すればいいのではなく、そうして係りの人の立場を分かるようになったり、人の気持ちを多少は知りなさい、という意味もあったのだと思う。
それが分かっていながら、どうしても、事務的な用事が滞ってしまうのである。
会社に勤めないで、本当に良かったと思う。
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2009.5.9〜10(土〜日) 焦り
ここ2〜3週間ほど、ふと気がつけば、焦りのような何かに追いつめられているのだが、その焦りの理由が分からないので困っている。
いったい僕は、何に焦っているのだろうか?
そう言えば、臨床心理学の第一人者だった河合隼雄先生の著作に、原因が何かが分かっている悩みは、実はすでに解決済みの悩みなのだといった感じのことが書かれているのを読んだことがある。逆に言うと、悩みとは理由が分からないものであり、今の僕のような状態を指すのかもしれない。

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)
さて、テントウムシは水辺の生き物ではないが、仕事として写真を撮っていることは、以前に書いたことがある。
僕は今年、テントウムシの中でもナナホシテントウを主に撮影しているのだが、そのナナホシテントウは暑くなると活動が鈍り、姿が少なくなるので、5月中旬までにすべての写真を撮ってしまおうと考えていた。
ところが、そこに原因不明の焦りの症状。その焦りを感じている状態で頑張り過ぎ、それがきっかけになりうつ病にでもなってしまっては困るし、何事も諦めは肝心。
僕は手綱を緩め、テントウムシに関して少々撮れない写真があってもいいや!と気持ちを切り替えることにした。
ところが先日、テントウムシの卵が手に入った。
そこで、その卵から生まれてくる幼虫を育てながら、簡単に撮れる写真だけは、今年のうちに撮影しておくことにした。
今日の画像は、卵から生まれて間もないテントウムシの幼虫で、わざと小さく撮影してある。
この幼虫が脱皮をするたびに今日と同じ距離から写真を撮り、それらの写真を並べたら、テントウムシの幼虫が徐々に大きくなっていくように、つまり、被写体の大きさをちゃんと比較できるように、写真を撮り進めようと思う。
諦めは肝心だが、ちょっと目線を変えたり、すぐにでもできることだけをやってみたりと、今度は離れたところから見てみることも、また肝心だと思う。
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2009.5.8(金) 地質学

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)
水辺と言ってもさまざまな環境があり、ある種の生物は渓流に生息し、またある種の生物は、水溜りに住む。さらに、ある種の生物は酸性の水を好み、またある種の生物はアルカリ性の水を好む。
水辺の生き物を知ろうとするならば、その水はどんな理由でそこに存在し、その水がどんな性質なのかが非常に重要になる。
すると、生き物を知るのに地質学の知識が大切になるし、さらに地質学を知ろうとすると、化学も勉強しなければならない。
さて、北九州の平尾台は、石灰岩という種類の岩石でできた土地だ。そして石灰岩には雨水に溶けやすい性質がある。
雨水は最初、地表の石灰岩の小さな隙間にしみ込み、岩の隙間を溶かし広げながら地下へと進む。そして、地下で雨水は集まり、地下を流れる川になる。
水がそんな風にして石灰岩を溶かした後にできる洞窟を、鍾乳洞という。つまり、鍾乳洞というのは、地下の水辺なのである。
学生の頃は、自然科学の中では生物学が圧倒的に面白いと感じていたのだが、最近僕は、地質学が大変に面白いことが分かった。
正確には、地質学が面白いというよりは、地質学と生物学のつながりが面白い、と言った方がいいのかもしれない。
その面白さを伝えられる本を、何とかして作りたい。
学校の勉強なんて、糞くらえ!と思う。僕は昔から、学校の勉強が大嫌いだ。だがもしも学生の頃に化学を勉強していなかったなら、生物の体内で起きていることや、地質学を、多少なりとも理解し、面白いと感じることはできにくくなるだろう。
たかが学校の勉強。されど学校の勉強。
特に科学は、その性質上、教科書を1ページ目から最後のページまで順に開き、一度体系的にきちんと勉強する時間も必要。その過程を経なければ、本当の意味では、科学を語ることはできないように感じる。
最近そんなことを、しみじみ思う。
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2009.5.7(木) ニコン的な解釈
僕は、撮影の際には太陽の光の状態に大変にこだわるし、光が好みの状態ではない時にはあまり写真を撮らないことは昨日書いたが、僕がそうなったことには、写真を覚える際にニコンのカメラを使っていたことがあるだろうと思う。
具体的には、当時のニコンのレンズはとても描写が硬かった。
描写が硬いとは、写真の中の影の部分が、より暗く、黒く写ってしまうこと。そして影がより暗く写ると、写真は時に力強い感じになるが、時に汚らしく写ってしまう。
それを、汚く写らないようにするためには、とにかく光を選ばなければならなかったのである。
ただ僕は、ニコンのレンズしか使ったことがなかったものだから、そんなものだと思い込んでいた。
ところがのちに、キヤノンをはじめて使用した時には、影の部分が黒く塗りつぶされてしまわずによく描写されることには驚かされたし、なんと扱いやすいんだろう!と感激させられたものだ。
ニコンのレンズを通すと写真の影の部分がより暗く写ってしまうことを、ある方は、
「写真にニコン的な解釈が付け加えられる」
と言った風に表現しておられた。
被写体を、人の見た眼に近く写そうとするのではなく、ニコン流に写すという意味なのだろう。

NikonD3X TAMRON SP AF28-75mmF/2.8 XR Di LD Aspherical [IF] MACRO

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)
さて、ここのところ僕が大変に気に入って使っているニコンのデジタルカメラD3Xだが、このカメラで写真を撮ると、何だかわからないのだが、独特の雰囲気の写真が撮れる。
描写に癖があるのだが、その癖に雰囲気がある、とでも言おうか。条件が悪いなと思い込み、試し撮りのつもりで気軽に写した写真が、カメラの力で勝手に絵になってしまうようなところがある。
これも一種のニコン的な解釈なのかな?
一般的には、D3Xは、癖があり、少々扱いにくいカメラである可能性もあるが、僕にはその癖が大変に面白く、自然と使う頻度が高くなっている。
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2009.5.6(水) 一球入魂

CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM

CanonEOS5D EF300mm F4L IS USM

CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM
ホームページ「トンボと花のギャラリー」を開設しておられる田中博さんと言えば、写真業界では大変に名の知れた方だが、田中さんは普段、午前中だけか午後だけかのどちらか一方しか写真を撮らないことが多いらしい。田中さんはそれを、短期集中型を表現しておられるが、僕もその短期集中型になる(トンボと花のギャラリーDiary・5/4の記事を参照)。
僕の場合は、それを一球入魂型と勝手に名づけて過去の日記の中でも書いたことがある。
要するに、一日中やたら滅多に撮影するのではなく、狙いを定め、的を絞り、目的とするイメージの写真だけを狙うのである。
一球入魂型で撮影する理由は、僕の場合は、野外での写真撮影の際には可能な限り人工の照明を使わないようにし、自然の光だけで撮影するように心がけており、その光の具体を何よりも重視するから。
写真撮影の際には、太陽の位置が大変に重要なのだが、その太陽が自分の好みの状態になるのは、一日の中のごく限られた時間帯なのだ。
さて、ここ数日はスケジュールが立て込んでいたこともあり、疲れがひどく、今日は、朝目覚めたらすでに7時30分。それから準備をして撮影現場に出かけたが、目的地に到着するのが少々遅れてしまい、自分が理想とする光の状態を過ぎてしまっていた。
仕方がないので今日は、下見と試し撮りに徹した。
撮影の際に光にこだわると、写真の質は上がるが、写真の量が撮れなくなってしまう。だから僕は、たくさんの量の写真を撮ることを、大変に苦手としている。そして、自然関係の出版物の中で、たくさんの量の写真が必要なものといえば図鑑になるだろうが、僕の場合は、その図鑑は、最初から念頭にない。
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2009.5.3〜5(日〜火) 権現様

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

NikonD3X SIGMA20mm F1.8 EX DG ASPHERICAL RF

NikonD3X SIGMA20mm F1.8 EX DG ASPHERICAL RF
プロの写真の世界とアマチュアの写真の世界の違いは、プロは量をこなさなければならないこと。
自分が年間に必要だと思う金額を写真一枚の平均的な使用料で割ると、一年間に何枚くらいの写真を売ればいいのかを割り出せるわけだが、その写真の枚数は、大変な数になる。
僕は自然写真を仕事にできることを幸せなことだと思う。ただ、唯一辛いことがあるとするならば、それは量をこなさなければならないことだ。
辛いというよりは、つまらないと言った方がいいのかもしれない。量をこなすことは、創作活動というよりは事務作業であり、面白みがないのである。
量をこなすためには、上手に計画を立てなければならない。近頃僕は、プロの写真家にとってその時間のやりくりは、ほとんど写真の技術と同じくらいに重要なのではないか?とさえ感じる。
1つのシーンを、もっとじっくり撮影できたらなぁ・・・
カメラを向けるシーンの内容によっては、写真は必ずしも時間をかければいいものが撮れるわけではないが、時間をかければ、撮影地までの移動や、そこでの過ごし方などは間違いなく豊かになる。
さて、ほとんどとんぼ返りのように、島根県まで行ってきた。僕がいつも撮影する水辺にある権現様のお祭りがあるというので、カメラを向けてみた。
(撮影機材の話)
お祭りの撮影の際にSIGMAの20mmレンズを使用してみたら、デジカメのモニターで画像を確認した段階で、画質がいいことが分かった。
カメラはニコンのD3X。D3Xには少々レンズを選ぶようなところがあるので、安いSIGMAの20mmでは画質に満足できないかなと予測していただけに、その結果には驚いた。
そこで、付近でスミレの群落にカメラを向けてみたら、やはり結果がいい。
撮影の際の距離が20センチ前後〜数メートルくらいの範囲の場合、ニコンのD3XとSIGMAの20mmの相性はなかなかいいように感じる。
レンズの性能は撮影の際の距離によって随分変化し、近くにピントを合わせたらよく写るものの、遠くにピントを合わせたら画質が悪いレンズや、その逆のレンズなどがある。
いやいや、近くも遠くも完璧に写るレンズなんて、もしかしたらないのかもしれない。
道具選びの際には、どんな用途に使うのかが重要なのである。
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2009.5.1〜2(金〜土) 殿様蛙

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D Distagon T* 2.8/25mm ZF

CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM
僕は、カエルの中では、トノサマガエルが好きだ。珍しい生き物ではないが、トノサマガエルを見つけると、何だか楽しい気分になる。
姿や動きや性質だけでなく、声も、生息する環境も大好きだから、もしもどこかに引っ越しをするなら、トノサマガエルが多く住む場所に引っ越してみたいとさえ思う。
うちの近所でもの田んぼでも、僕が子供の頃には時々姿を見ることがあったが、今ではまったく見かけなくなった。夜間にカエルの撮影にでかけても、トノサマガエルの鳴き声は聞こえてこないので、子供の頃、トノサマガエルを見つけたあの場所では、残念ながら滅びてしまったのだろう。
元々は里の身近な生き物だとされているトノサマガエルは、現在では、里というよりは、山裾のひなびた農村などに多く、どちらかと言えば、山の生き物という印象すらある。
大好きな生き物であるにも関わらす、写真は、あまり撮影したことがない。
カメラを持つとどうしても熱くなるし疲れてしまうから、大好きなトノサマガエルは、その対象にしたくないのである。
 CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM
 CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM
先週、とある水辺で湧水を撮影していたら、向かいに住んでいるおばあちゃんがやってきて、
「そこの○△は、私が植えたのよ。」
と話してくださった。
正直に言うと、僕はその人工的なにおいがプンプンする園芸植物がいやで、そこにはカメラを向けなかった。いや、向けることができずに、大変に歯がゆい思いをした。そんなもの、ない方がきれいじゃないか。いや、ないからこそ、きれいなんじゃないかと。
田舎に行くと、何でもない草むらや、何気なく植えてある木が絵になる。
ところが、あたりに住んでおられる方々は、そこに都会的な花を植えたがる。
以前は、そんな有様を見て、田舎の人って、何に価値があるのかを分かっていないよなぁと感じた。
が近頃は、そんな自分が上から目線になっていた、と感じるようになった。
田舎のありのままが美しいと感じるのは、それが正しい訳でもなんでもなく、あくまでも、町の人間の感覚なんだろうなぁ。
もちろん全員がそうだと思わないが、基本的には、自分たちの身近にないものをねだっているのだろう。
町の人のとっては美しい棚田も、所有者にとっては、稲の生産の場に過ぎない。
「何を撮影しとるん?」
「カエルです。」
「カエルなんかの写真を撮る人がおるなんて、あっはっはっ。」
カメラを持って里山を歩くと、自分は田舎の人たちの代弁者になったような錯覚を起こしてしまいがちだが、そうして撮影された写真を見てありがたがっているのは都会の人であり、決してその地域の人たちの代弁など、していないのである。
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