撮影日記 2009年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2009.3.29〜30(土) 桜


CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM

CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM

 僕は、自分の眼に見えている通りに、被写体を写真に収めたいと思う。だから、自分が撮影した写真が実物よりも見栄えが悪いのも困るが、良過ぎるのも困る。
 ところが時々、ふとした拍子に、目の前の景色よりも自分が撮影した写真の方がドラマチックに見え、絵になっていることがある。
 だが僕は、そんな写真は没にすることにしている。
 また、昆虫の写真を撮る人の間では、一時期虫の目レンズと呼ばれる特殊なレンズを自作して撮影するのが流行り、その時に何度か、
「武田さんは虫の目レンズは使わないのですか?」
 と聞かれたのだが、僕の目にはあんな風には見えないので、虫の目レンズを、今のところ使う予定はない。」
 写真雑誌などを見ると、写真撮影に関するさまざまなテクニックが紹介されているが、それらのノーハウは基本的には写真を絵にするためのテクニックであり、必ずしも、自分の目に見えている通りに被写体を記録するための方法ではないように思う。
 写真には、記録という側面と絵画的な側面とがあるが、僕の場合は、記録的な側面が大切なのだ。そして、記録には記録のための技術があるように思う。

(撮影機材の話)
 デジタルカメラの画素数は増える一方であり、それはそれでメリットがあるが、一方でデメリットもあり、新しいものがどんな状況ででも高画質だとは限らないように、僕は感じている。
 そんな中で、キヤノンEOS5Dの、35ミリ判フルサイズセンサーに1200万画素というスペックは、平均的に言って、恐らく一番画質がいいのではないだろうか?
 今日は、そのEOS5Dを使用した。
 レンズはたった2本。 EF17-40mm F4L USM と EF70-200mm F4L USM だけ。
 カメラバッグも持たず、交換レンズは上着のポケットの中。
 だがこの2本があれば、一般的な風景などはたいがいのシーンが撮影できる。しかも、これらのレンズは非常に高画質であるにも関わらず、比較的小さくて軽くて、価格もそんなに高価ではない。
 キヤノンのEOS5Dというカメラは、派手さや面白みはないけれども、レンズシステムも含めて、本当に良く出来たカメラだと思う。
 
(お知らせ)
多忙につき、4月8日前後まで、メールの返信等などが少々遅れることがあります。

 

2009.3.28(土) お知らせ

今月の水辺を更新しました。

 

2009.3.27(金) アブラムシ


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

 僕はゴキブリの写真撮影を依頼されたことはないが、もしもそんな依頼があったなら、その時はゴキブリの出没が待ち遠しいだろうなぁと思う。
 そんな話は、以前にも書いたことがある。
 ゴキブリが大嫌いな僕だが、カメラを持てば人格が変わる。普段はゴキブリから出没される側なのに、それが、ゴキブリを待ち受ける側になる。
 つまり、立場が変わる。
 価値観が変わる。
 カメラを持つことによって、その人の立場や価値観が変わるのは、写真の大変に面白いところの1つだと思う。
 嫌われ者の生き物だって、写真を撮ってみれば、つまり見る側の立場が変われば、見方が変わるし、物事には絶対的な良し悪しや善悪など存在しないのだ、と思いしらせる。
 害獣を嫌ってはならない、と言いたいのではない。僕は、害獣は、時には駆除すればいいと思う。
 だがその時に、一定の遠慮や自分を疑う心を忘れてはならない、と感じる。
 害獣と呼ばれている生き物たちを駆除して、それが正義であるかのような振る舞いをする方が時々おられるが、僕はそれに、違和感を感じるのだ。
 
 さて、アブラムシは、園芸植物を趣味にする人たちには嫌われ者の存在だが、自然観察を趣味にする者にとっては、大変に面白い存在だ。
 僕は今、自分の自然写真の世界を、環境という方向へとシフトさせようとしているので、アブラムシを突っ込んで撮影する予定はないが、アブラムシの本を作ったりしたら面白そうだなぁと思う。
 
 

2009.3.26(木) 二股は是か非か


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

 僕は複数のメーカーのカメラを使い分けている。
 デジタルカメラに関して言うと、一番最初に買ったのはペンタックス。そして、その次はニコンで、さらにその次がキヤノン。
 ペンタックスは途中で手放してしまったが、ニコンとキヤノンは今でも両方とも使い続けている。

 人によっては複数のメーカーのカメラを持つことを嫌う方もおられる。
 だから例えば、ニコンユーザーはキヤノンのカメラも所有することを嫌がり、キヤノンユーザーはニコンのカメラを買おうとしないことが多い。
 さらに、ニコンユーザーがキヤノンのカメラをどうしても使いたくなった時は、それまで使っていたニコンの道具を下取りに出して、今度はすべてキヤノンの道具にしてしまうと言った傾向がある。
 
 カメラの場合は、レンズを買わなければならず、複数のメーカーのカメラを持つと、両社のレンズをそろえなければならないという事情もあるだろうと思う。確かに、野鳥撮影用のレンズなどは大変に高価だから、ニコンのそれとキヤノンのそれとを両方買える人は、一部のお金持ちだけだろうと思う。
 だが、風景はキヤノンで撮影し、野鳥はニコンで撮影するなどと使い分ければ、風景撮影用のレンズはキヤノンを、野鳥撮影用のレンズはニコンを買えばそれで事足りるし、無茶苦茶にお金がかかるわけではない。
 カメラマンが複数のメーカーのカメラを持ちたがらないのは、単にコストの問題だけでなく、純血主義みたいなものもあるように思う。
 あるいは、カメラを恋人に見立て、二股はかけない、という思いなのかもしれない。

 僕の場合は、野鳥の撮影にはニコンを、風景の撮影にはキヤノンを使用している。
 そして小さな生き物の撮影の場合は、僕のメインの仕事でもあるし、ニコンとキヤノンとのレンズを両方とも買い揃え、状況に応じてい使い分けている。
 今日は、キヤノンのカメラで撮影をしたら、どうしてもちゃんとした色が出なかったので、試しにニコンを使ってみたら、何でもなく問題が解決した。
 一年に何度か、そんなケースがある。
 さて、今日は新たなメーカーのカメラが一台届いた。
 僕の場合は、一社のカメラしか使わないというような美学よりも、どんな写真が撮れるのかが、ただひたすらに重要なのだ。

 

2009.3.25(水) 大苦戦


CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

 昨日上手く撮影できなかったある昆虫の撮影の続き。
 今日は散々に試行錯誤し、もがき苦しみ、大苦戦した結果、曲がりなりにも写真を撮った。
 正確に言うと、写真を撮ったというよりは、方法を確立したと言った感じ。
 早朝に撮影の準備をはじめたにも関わらず、撮影が一区切りついた頃には、もう夕刻で影が随分長くなっていた。
 その虫の撮影はまだ終わったわけではなく、今日の仕事はほんの序章といったところ。
 今年から少なくとも3〜4年間は、継続して写真を撮ることになるだろうと思う。
 
 仕事が一気に押し寄せてきた。
 写真を撮る。原稿を書く。さらに原稿を書く。
 ちょっと必要があって、一日くらい、桜の写真を撮りに行きたいのだが、他の仕事との兼ね合いで桜の撮影のためにうまく時間が取れるかどうかが分からない。
 そこで、時間が撮れなかった場合に備え、保険の意味で、事務所の近所の公園で、数分間ではあるが桜の写真を撮っておくことにした。

 

2009.3.23〜24(月〜火) 赤字の一日


CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

 ある昆虫の撮影を依頼されたので、探しに行ってみた。
「こんな風に撮って欲しい。」
 という写真のイメージの見本付き。
 探しに行くと言っても、その虫は、そこらにたくさん生息する生き物なので、姿を見つけること自体は全く難しくない。
 だが、与えられた見本のような写真を撮るためにはどうしたらいいのかが、分かるようで分からない。
 そこで、カメラを構えてみたり、いろいろな場所を見てみたりと、試行錯誤する。
 結局今日は、一枚もその虫の写真を撮ることができなかった。

 僕らは給料をもらうわけではないので、今日のように、必死に振る舞っても一枚も写真が撮れない日には赤字になってしまう。
 だから常に、下手をしたら生活が出来なくなるぞ!という不安が付きまとうし、時間は非常に貴重なものだ。
 時々、
「フリーの写真家は大変でしょう。」
 と声をかけられる。そして、
「機材だって、全部自分で買わなければならないのでしょう?」
 と言われるのだが、僕にとって一番大変なのは、機材を買わなければならないことよりも、給料取りのように時間がたったらお金がもらえる訳ではないところで、写真が撮れなければ、一円にもならないどころか、どんどん赤字になることだ。

 さて、今日は目的とする写真が一枚も撮れなかったので、代わりに何か売れそうな写真が撮れないか?と探した結果、セイヨウタンポポにカメラを向けてみた。セイヨウタンポポは外来の植物で、荒地や人工的な環境に多いとされているので、そんな写真を撮った。
 線路に寝転んで撮影していたら、自殺者にでも見えたのか、通りがかりのお巡りさんが見に来て、やがて、
「写真撮影だよね・・・」
 と心配そうに声をかけてくださった。

 

2009.3.21〜22(土〜日) 矛盾するようだけど


CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM
桜のつぼみがほころぶころ。


CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM

CanonEOS5D SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE

CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM
森の水溜りには、一面にオタマジャクシの姿がある。


CanonEOS5D EF70-200mm F4L USM

CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM

 時々、撮影に同行させてもらいたい、という申し出があり、僕は、別に人が同行すること自体はイヤではない。
 だが、もしも人が同行するのであれば、その人にも、心の底から楽しんで欲しいと望む。
 ところが、ここ数年僕が撮影している場所は、ヒョイと誰かがついてきたところで、楽しめるような場所ではない。
 例えば、今僕がカメラを向けている北九州市内の森の水溜りがそうだ。
 そこは、多くの人にとっては小汚いただの水たまりであり、カメラを向けるほどの場所ではないだろう。
 その同行者がもしも生き物に詳しい人なら、そんな場所を好んで利用する生き物が存在し、そこが値打のある場所であることは理解できるだろうと思う。そして、少々なら、写真を撮ることだってできるだろう。
 が恐らく、それでも20〜30分もすれば、もう撮るものがなくなってしまう可能性が高い。
 そんな場所で次から次へと被写体が見つかり、何時間も夢中になって写真を撮ることができ、時間がいくらあっても足りない状態(僕が考える心の底から楽しい状態)になる人は、滅多に存在しないことだろう。
 僕は今、有名な場所ではなくてそんな場所にカメラを向け、それを本にしたいと思う。しかもマニアの人がみるような本ではなくて、むしろ、ごく普通に自然を愛する人が見るに値する本に。
 
 自然保護活動には、元々あまり興味がない。
 自然が失われても平気、というのではない。
 僕は自然が大好きだけど、それは僕の好みであり、自然を守ることが正義だとは思わないのである。多くの自然保護活動家は、それを正義だと言いたがる嫌いがあるように思う。
 昔、ある方から、
「武田さんは自然が好きかも知れませんが、建築家には、人工物こそがすばらしいと考えている人がたくさんおられますよ。」
 と指摘されたことがある。全くその通りだろうと思う。
 もちろん、自然が損なわれることで多くの人の生活に悪影響があるのなら、その場合は、自然保護活動=正義かもしれない。
 だが、僕が愛する自然はそんなものではない。例えば、僕がカメラを向けている森の中の水溜りが潰されてしまっても、それによって暮らしが不自由になる人は、まずいないだろう。
 それどころか、こんな水溜りは気持ちが悪いと感じる方もおられるだろう。
 でも仮に人の暮らしに全く悪影響がなくても、そこを気持ち悪いと感じる人がいても、僕はそこが大好きだし、なくなって欲しくない、と思う。
 つまり僕が好きな自然は、そこが失われたら人の暮らしに悪影響があるとかないとか、そこが気持ちいい場所だとか気持ち悪い場所だ、といった切り口では見ることができない。
 自然は僕にとっては正義とか悪というような切り口で考えられるような存在ではないのだ。

 だがそんな僕が、矛盾するようだが、もしも水溜りの本が完成したならら、それを持って北九州市長に会いに行きたいと思う。そして、その水溜りが残るようなしくみを作るように、何かお願いをしたいのだ。
 自然保護活動のようなことをやってみたいのだ。

 

2009.3.19〜20(木〜金) 水槽か水中か


CanonEOS5D EF100mm F2.8 マクロ USM

 僕が水中の生き物を撮影する際には、大きく分けると2種類の方法がある。
 1つ目は、カメラを水中に沈めて野外で撮影する方法。そして2つ目は、生き物をいったん採集して持ち帰り、スタジオに設置された水槽内に自然の水中を再現して撮影する方法である。
 僕は、なるべくなら、自然の水の中で撮影したいと思う。
 だが、生き物をアップで撮影する場合に関しては、スタジオで写真を撮ることが多い。
 なぜなら、被写体をアップで撮影した場合は背景の景色が写らなくなるから、水槽で撮影しようが野外で撮影しようが、区別がつかなくなってしまうから。
 それならば、スタジオの方が大型の照明器具を使いこなせば質の高い写真が撮れる。だから僕は、スタジオを選択したくなる。
 第一、自然の淡水の水の中の生き物を撮影するのは、むちゃくちゃに難しいのだ。
 逆に、自然の水中で写真を撮る場合は、生き物の姿だけで画面がいっぱいになるような撮り方を避け、なるべく背景に自然の水中の景色が写るように心がける。
 ちょっと白々しいくらいに、
「これは自然の水中で撮った写真だよ。」
 と見る人に分かるようにすることが多い。

 さて、今日の画像は先日撮影したもので、自然の水中で撮ったものだ。
 そしてこのような撮り方をすると、スタジオで撮影した写真なのか自然の水中で撮った写真なのかの区別できなくなってしまう。
 つまり、せっかく困難が多い自然の水中で撮影しているのに、その意味が半減する。
 だが時には、それが分かっていても、自然の水中で写真を撮らなければならないケースがあり、今僕は、そんな撮影にチャレンジしている。
 生き物をスタジオで撮影することに関してはさまざまな意見があるが、僕は、時と場合をちゃんと考えることが大切だと思う。
 たとえば、卵の中のオタマジャクシの形を見せたい場合は、重要なのは形であるから、それがどうやって撮影されたかは二の次になるし、そんな場合は、生き物の形をより良く見せることができるスタジオを使えばいい。
 だが、単に生き物の形を説明するだけでなく、自然の空気感のようなものを一緒に伝えたい場合は、やはり自然条件下で写真を撮りたいと思う。

 

2009.3.18(水) 上京


Caplio GX100
飛行機に乗って上京した。


Caplio GX100
羽田空港からはモノレール。


Caplio GX100
空港の周辺の殺風景な景色。


Caplio GX100
都心に近付くにつれ、だんだん巨大なビルが増えてくる。

 僕は極めつけの横着者なので、普段は何をするにしても、できるだけ合理的なものや手段を選ぶ傾向が強い。
 たとえば撮影機材を買う時には、なるべくお店には出向かずに通販を利用する。お店に行くために車を運転している時間を、僕はもったいないと感じるし、時間はもっと別のことに使いたい、と思う。
 また通販に限らずインターネットはフルに活用するし、とにかく何か便利なものはないか?と常に目を光らせている。
 インターネット自体は、多分好きではないのだろうと思う。たとえば、長期取材などに出かけた際には車に寝泊まりする僕の撮影スタイルではブロードバンドを使用できないからほとんどネットを見ないが、すると非常に心が安らぐのだ。
 だが僕の場合は、それ以上に横着だから、仕方なくインターネットを活用する。
 ただ、横着という言葉は響きが悪いので、僕はそれを日頃、工夫と呼ぶことにしている。僕は工夫が大好きなのだ。
 写真撮影だって、スタジオでも野外でも気を付けていることと言えば、工夫をして、なるべく理にかなった合理的な方法を編み出すことだ。
 
 だがそんな僕だって、その大好きな工夫によって損なわれるものもあると思う。
 たとえば、人と人のやり取りには、メールや電話やその他の便利なツールをできるなら使いたくない、と思う。
 人と直接会って話をすることの大切さを、近頃しみじみ感じる。
 どんなに工夫をしても、生身の人間から得られる刺激がなければ、写真はある所から先は上手くならないような気がする。

 

2009.3.17(火) とんぼ返り

 2月に北海道で写真家の伊藤健次さんとお会いした際に、僕が、
「北海道は自然が観光の目玉になっていて自然写真の需要も多いし、カメラマンも食えやすいでしょうから・・・」
 と口にしたら、
「いえいえ、とんでもない!北海道で写真家を名乗っている人でも、実際に純粋に写真を売って飯が食えている人はほとんどいないと思いますよ。自然写真は本来飯が食えない存在ですから。」
 と返ってきた。
 なるほどなぁ・・・、北海道でもそうなんだ!
 恐らく、プロの写真家を名乗っている人でも、大半の収入はアマチュアカメラマンをガイドする仕事で得ていたり、生き物の調査の仕事など得ていたり、講演活動など、他の何かで得ているのだろう。
 伊藤さんは僕と同じ年だから、写真業界の中での立場は近いに違いない。具体的に言うと、僕も伊藤さんもチャレンジャーの立場であり、目の前をもっともっと切り開いていかなければならないのだ。
 だから僕は、伊藤さんが何を感じ何を考えているかには大変に興味があったし、その伊藤さんの話は大変に印象深かった。
「自然写真は本来飯が食えない存在。」
 それは確かにその通りだ。だから自然写真んで飯を食おうと思うのなら、一般的な仕事に就くよりも、お金を稼ぐ努力が必要だと思う。
 
 もちろん、僕だって、自然写真業界でお金を稼ぐことの難しさはよく知っているつもりだ。
 だからこそ僕は、自分が何を撮りたいかよりも、まず経済的な立脚点をしっかりと整えることに大半のエネルギーを注いできた。
 だが、そろそろ次の段階へと進みたいのだ。
 さて、とんぼ返りではあるが、上京する。 

 

2009.3.16(月) 癒し

 日本を離れ、大自然の中へと移住し、そこで壮大なスケールの写真を撮ったある著名な自然写真家が、
「ニューヨークの街の中を歩くと、とても心が安らぐ。」
 と語った、というような話を耳にしたことがある。
 世間には、自然=癒しというような構図があるが、自然を仕事の対象にすると、自然は真剣勝負の場であったり戦いの場でもあり、むしろ町の中の方が癒される、ということも無きにしも非ずだと思う。
 だから僕は、世間が自然=癒しと決め付け、その癒しをひたすらに求めるのが好きではない。そこで使われる癒しという言葉は、ただ型にはまったほとんど中身がないものだと思うから。
 癒しって、そんな流行語のようなものなのだろうか?と疑問に感じるのである。
 癒しを否定したいのではない。僕は、癒しという言葉の使われ方に違和感を感じるのであり、癒し自体は、人間には不可欠なものだと思う。
 だから僕だって、たまには思いっきり癒されるのもいい、と思う。 

 

2009.3.14〜15(土〜日) こだわりの種類

 写真を撮る際には、大きく分けると2種類の喜びがあるように思う。
 2種類の喜びとは、1つは自己満足の喜びであり、あとのひとつは、他人に写真を見てもらい他人に感じてもらう喜び。
 例えば、プロアマ問わず熱心に写真を撮る人は、しばしば使用するカメラのメーカーにこだわりがあり、俺はニコン党だとかキヤノン党だなどと主張し、その主張は時にネット上で派手な喧嘩にまで発展するが、写真を見る側からするとそんなことはどうでもいいことであり、大切なのはどんな写真が撮れているかに違いない。
 つまり、カメラマンがカメラのメーカーにこだわるのは、大抵は自己満足のため。
 もちろん、ニコンでしか撮れない写真やキヤノンでしか撮れない写真があり、そんな写真を撮り、その写真を人に見てもらうためにどうしてもニコンでなければならなかったり、キヤノンを選ぶのなら、それは単なる自己満足を超えていると思うのだが、実際にはそんなケースはごく一部だろう。
 僕は思う。
 写真は結果の世界なので、そんなことで頑なになるよりも、その道具でしか撮れない写真を撮り、それを人に見てもらった方が断然に前向きだ、と。
 自己満足がすべてダメだと言いたいのではない。自己満足は自己満足で、とても大切なことだと思う。
 がしかし、自己満足のこだわりと、そうでないこだわりとを、『こだわり』という一つの言葉でごちゃまぜにしてしまうのは、むしろこだわりが足りないのではなかろうか。

 

2009.3.13(金) 雨


NikonD700 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

NikonD700 AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF)

 2月の上旬に北海道で仲間たちと集った際に、編集の仕事をしておられる凹山さんが、白い軍手の上にはらはらと降ってきた雪の結晶の写真を撮りながら、
「この手袋が赤だったらなぁ・・・」
 とつぶやいた。
 すると、写真家の門間君が、
「軍手にも黒いものがあるよ。」
 と応え、凹山さんが、
「いや、赤でなければ・・・」
 とさらに返した。
 雪は白なので、白い手袋の上では目立ちにくいが、黒い軍手の上ならよく見えるだろう。
 だが凹山さんにとっては、雪の結晶がただよく見えれば良かったわけではなく、その写真を本のページの中にレイアウトした際に、ページが明るく映えるように、手袋は赤でなければならなかったのだろうと思う。
 凹山さんはカメラマンではないし、その写真を仕事で使おうとは思っていなかったと思うが、それは本作りのプロの、ほとんど本能のような要求なのだろう、と僕は思った。
 その凹山さんに、
「生き物の写真はもう十分揃っていると思うのですが、本を作る立場から言うと、その他に季節感やその他を伝える写真が欲しいのです。」
 と言われたことがある。
 言われてみれば、確かにその通り。優れた編集者には教わることが多い。
 自分で分かりきっているつもりのことでも、何かの機会にそうして直接言われると、ズンと心に響き、体に染み付き、血となり、肉となるような気がする。
 雨の日には雨の日で、カメラを向けるべきシーンがある。

 

2009.3.12(木) 筋肉痛


RICHO GX200

RICHO GX200

 昨日、北九州市内の森の水溜りで撮影をした後、僕はそのまま車を島根県まで車を走らせた。
 車の中で一晩をあかし、目を覚ましたら、全身が筋肉痛で痛い。
 そうそう、昨日は水溜りの水中撮影をしたんだっけ!
 水深が15センチにも満たない浅い水の中を撮影するのは大変に骨が折れる。水の中に手やカメラをつこうものなら泥を巻き上げてしまうから、そうならないように、カメラだけを上手に水の中に入れ、後はそのカメラがぶれないように、精神力や念力で固定しなければならないのである。
 当然無理な姿勢になるから、筋肉痛にもなる。
 そう言えば、昔ナショナルジオグラフィック誌でサンショウウオが取り上げられた際に、その撮影シーンが紹介されていたのだが、たかが水溜りと言ってもいいような浅い水辺に生息するサンショウウオの撮影が大変な重労働だったことには驚かされた。
 カメラマンは、ちょっと見たこともないような姿勢でカメラを構えておられた。
 サンショウウオは、そんなに絵になる生き物ではないし、地味で写真写りが悪い被写体である。
 なのに、そんな報われにくい撮影に、その重労働なのだ。
 正直に言うと、馬鹿なことをする人がいるもんだ!とさえ思った。
 その時は、まさか自分が同じような撮影をすることになろうとは思いもしなかった。だから、その本のページが何年の何月号だったのかも記憶にないのだが、今もう一度あのページをめくってみたいものだと思う。
 今そのページを眺めてみたなら、恐らく撮影のヒント満載で、面白いんだろうなぁ。

 

2009.3.11(水) 体験


CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM
 森の水溜りへ行ってみた。


RICHO GX200
 アカガエルのオタマジャクシが生まれた。


CanonEOS5D EF17-40mm F4L USM
 幼稚園の子供たちが、サンショウウオやオタマジャクシの観察にやってきた。
 ここ数年、毎年この時期に、ここで顔を合わせる先生とはすでに顔なじみ。サンショウウオの赤ちゃんの居場所を教えてあげたら、みんな大喜び。
 でも本当は、小さな子供は、稀少な生き物よりも、むしろダンゴムシやテントウムシなどに興味があることが多い。
 サンショウウオの子供を見て一番喜んでいたのは、実は先生だったような気がする。

 コマーシャル写真の仕事をしておられる方が、
「この世界で生きていこうと思うのなら、おいしいものを食べたりすることも必要です。」
 と何かの本の中に書いておられた。
「だって、時にはフランス料理の撮影を依頼されることだってあるのに、自分がフランス料理を食べたことがなかったらイメージがわかないし、どう撮影していいかが分からないでしょう?」
 と。
 僕は時々子供たちにカメラを向ける機会があるが、子供たちを可愛いなぁと思えなければ、きっといい写真なんて撮れないだろうと思う。
 もちろん、写真は冷静なメカの目であり、物理学でもあるのだから、カメラを使いこなすには冷静でなければならず、一方で、相手を物としてみるくらいの冷めた目も持っていなければならない。
 だがとにかく、冷静さと同時に、被写体に対するこみ上げてくる気持ちが必要なのだ。

 そう言えば、1月の末に野鳥写真家の中田一真さんのお宅にお邪魔をしたら、二人のお子さんに大歓迎をされたのだが、かわいかったなぁ。
 それは、ただ幼ささが愛らしいとか、そんなことではなくて、子供たちのしぐさの中に両親の思いがが滲み出ているのである。
 僕はとにかく、胸を打たれたのだった。
 いいものを見せてもらったなぁ。その日以降、小さな子供の姿が、ちょっとばかり違って見えるようになった。
 ふと、見ず知らずの子供にカメラを向けてみても、その子供たちを通して親の思いが伝わってくるような気がして、以前よりも楽しいのだ。
 
 

2009.3.10(火) 第二の写真人生


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

 写真を撮影する際に、被写体の後ろ側から射してくるような光を、逆光の光という。そして逆光の光を当てると、ナメクジのゼリー状の卵の中身が透けて見えたり、葉っぱが透けて見えたりして、とても美しい。
 だが一方で、それを生かすためには周囲を暗く写さなければならない。そして周囲を暗くすると、写真の印象が重たくなってしまう。
 一般的に仕事の現場では、印象が重たい写真は嫌われる。だから逆光の写真はカッコいいが、写真を売ろうと思うのなら、明るい雰囲気を選んだ方がいい。
 先日、ユニクロの柳井社長を取り上げたテレビの番組を見たのだが、社長が、これから配布する広告のサンプルを見て、
「なんでこんな暗い色の服を広告に載せるんだ。何を考えているんだ。明るい色に差し替えなさい!」
 と部下を指導するシーンがあったが、写真や出版も同じなのだ。

 自分が好きなイメージに写真をるのか、それとも写真を一枚でもたくさん売ろうとするのか。その選択はとても悩ましいが、僕はこれまで、とにかく写真を売ることに徹してきた。
 写真は、短期間で上達しようと思うのなら、現場で仕事をして覚えるのが一番。
 だが、それもそろそろ卒業するタイミングなのかな?と内心感じるようになっていた。
 例えば、徹底して明るい影のない写真を売っていると、そうではない写真がどんな状況で使われ仕事として成立する可能性があるのか、などが逆によく分かってくるのだ。
 これは何も逆光の光だけに言えることではなく、特殊な技術全般に当てはまることではないだろうか。 
 だがら今年からは、従来のスタイルを変えることは、昨年中に何度もこの日記の中で書いた。
「あなたは、好きなことができていいですね。」
 といったい何度も言われたことだろう。だが、僕がその好きなことをするのは、実はこれからなのだ。
 そして、スタイルを変えるために、先日はスタジオの改良を加えた。
 従来のノーハウを完全に捨ててしまうつもりはない。好きなことをするにはお金はやはり必要だ。
 だがこれからは、、時と場合によってもっと色々な表現を駆使し、さらに幅広い被写体にカメラを向ける予定だ。
 何はともあれ、今日から、僕の第二の写真人生が始まるのだ。

 

2009.3.8(日) お札が飛んでいく?


NikonD700 SIGMA15mm F2.8 EX DG DIAGONAL FISHEYE

 パソコンにソフトをインストールする際に、時々ウィルス対策ソフトが邪魔をして、新しいソフトが入れられないことがある。
 そんな時は仕方がないから、一時的にウィルス対策ソフトを止めることになるが、その間はなんとも言えず、イヤな感じがする。
 人は時々、自ら弱みを晒さなければならないことがある。
 例えば、野外で撮影中に大便をしたくなり、どこかに隠れて野糞をする時などは、お尻をアブに噛まれないかとか、誰かに見られないかなどと僕は心配になる。
 また、かつらを付けている人なら、かつらを取り外している間は、恐らく大変に落ち着かない気分になることだろう。

 さて、今日はスタジオの改造をしなければならない日だ。僕は毎年、少しでも効率よく仕事ができるように、1〜2度スタジオに大幅に手を加え、改造を続けてきた。
 だが、そのスタジオの改造を始めると、作業が終わるまではスタジオが使えなくなるし、その間に仕事が舞い込んでも、対応できなくなってしまう。
 たとえば、
「あの〜、カタツムリが角の部分の拡大写真を急きょ撮影してほしいのですが、可能ですか?」
「ごめんなさい。今ちょっと撮影機材が使えない状態なんです。撮影ができません。」
「そうですか。残念です。」
 と目の前から、お札が1枚、2枚と飛び去っていくのだ。
 そして、作業が一日で終わればまだいいが、予想外に手間取り、それが2日3日と伸びていくと、不思議とそんなタイミングを狙ったかのように、スタジオで撮らなければならない仕事を依頼されるのである。



NikonD700 SIGMA20mm F1.8 EX DG ASPHERICAL RF

 スタジオの改造は、日曜日でなければならない。
 なぜなら、事務所の向かいには僕の場所ではないが駐車場があり、日曜日にはそこが使用されていないので、スタジオの中の荷物を一時的に置かせてもらうことができるからだ。
 今日は早朝から荷物を運び出す作業を始めた。
 

NikonD700 SIGMA20mm F1.8 EX DG ASPHERICAL RF

 何よりもやっかいなのは、撮影用の水槽の移動だ。
 水槽を移動するためには、まず飼育器具を取り外し、水を抜かなければならない。
 が、水槽に取り付けてある器具の中でも、ろ過装置は大変にデリケートであり、中に住み着いている微生物を殺してしまわないように注意しなければならない。
 それらの微生物は、水槽の水に含まれる汚れを食べてくれるが、酸素が不足すると死んでしまう。
 そして、一度微生物が死に絶えると、新たな微生物を住み着かせるにはそれなりの時間がかかる。
 ろ過装置の中の微生物は、鰻屋さんで言うなら、先代から継ぎ足し継ぎ足し維持されてきた秘伝のタレみたいなもの。
 だから、微生物を殺さないように、ろ過装置はなるべく止めないように、常に水を通し続けなければならない。
 要するに、水槽からろ過装置を取り外し、水槽の水を抜き、水槽を目的の場所へと移動し、ササッと水槽に新たな水を注ぎ、水温や水質を整え、ろ過装置を取り付け電源を入れ、ろ過装置の中に水を通さなければならないのだ。
 さて、今日のスタジオ改造の山場はすでに越え、あとは小さな作業が残るのみ。恐らく、今日の深夜にはすべての仕事が終わるだろう。
 今回はどうも、目の前から万札が飛んでいくのを見ずに済みそうだ。

 

2009.3.5(木) 外れもあれば、

 3/1〜2日の日記の画像は、昨年末に購入した新型カメラで撮影したものだが、画質が僕の好みに合わず、正直に言うと、がっかりさせられた。
 デジタルカメラは日進月歩の道具ではあるが、新しいものが、みなにとって必ずしもいいわけではなく、どこかが良くなった代わりに、その副作用で別の部分が悪くなることは、決して珍しくない。
 そうした道具の本当のところの良し悪しは、試し撮りのレベルではなかなか判断できるものではない。やはり、本番撮影に用い、真剣に使ってみなければ、結論めいたことは言えないというのが正直なところ。
 だから、カタログを見て、さらにある程度の世間の評価を知った上で、それでもその道具が気になるのなら、買ってみるしかない。

 時に新しい道具にがっかりさせられる一方で、買ってみたら予測以上に気に入る道具もある。僕が近頃買ったカメラの中では、ニコンのD3Xがまさにそれになる。
 実は、D3Xを手にし、最初に試し撮りをした時は、もちろんいいカメラだとは思ったのだが、値段だけの価値はないかな?と内心感じた。
 D3Xは、あまりに高価なのである。
 ところが、1〜2月の水鳥の取材の際にこのカメラを使用してみると、さすがに値段だけのことはある、と感じるようになった。
 さらに昨日はD3Xを初めてスタジオで使用したのだが、これが予想をはるかに超えるほど良くて、ついには値段以上の価値があるカメラではないか?と感じるようにさえなった。

 カメラがいいと、動いている被写体が、まるでスローモーションのように良く見えるし、一瞬を自在に写し止めることができる。その結果、金魚が餌を食べる瞬間だって、餌が口の中に消え去る直前の一瞬を捉えることができた。
 というのは幾らなんでも言い過ぎであり、カメラのお陰で被写体がスローモーションに見えるわけがないし、何を隠そう、昨日は、その瞬間がなかなか撮影できずに、何度も何度もシャッターを押した続けた。
 人は見かけによらぬ、と言うが、写真だって見かけによらないことがある。
 僕は昔、カワセミが水に飛び込む瞬間を撮影したことがあるが、金魚の餌が口に吸い込まれる瞬間の撮影は、明らかにカワセミ以上に、僕の予測以上に速くて難しかった。
 だが、カメラが手になじむと撮影が楽しくなるから長く集中して撮影できるし、その結果、偶然いい瞬間を写し止めることができるのである。
 さらにデジタルカメラになってからは、撮影後に画像処理が待っている。そして画像処理も、カメラの画質がいいと楽になり楽しくなるが、逆に画質が悪いと、大変に神経を使うし、余分な手間がかかり、楽しくない。


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

 

2009.3.4(水) 写真の定価とは

・写真の定価とは
 写真には、その使用目的やサイズなどに応じて大まかな定価があり、使用の際の条件が同じなら、基本的には、その写真が傑作であろうが愚策であろうが、同等のギャラが支払われる場合が多い。
 だから、−20℃にもなる厳寒の北海道で寒さに震えながら撮影された野生動物の写真と、そこらの動物園で気楽に撮影された動物の写真とが、同じ料金で流通することになる。
 僕は未だに、そんな不公平なことがあってもいいのか!と感じることがある。
 が、そういうシステムになっているのだから、そのしくみを上手に使わなければならない。簡単に言えば、稼ぎやすいところでお金を稼ぎ、そのお金を使って、今度は割に合わないシーンの撮影に挑む。これが僕の基本的なスタイルだ。


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)

 ならば、金魚が餌を食べているシーンの写真撮影などは楽チンでいい仕事だ、とみなさんは思うでしょう?
 ところが、それが一概には言えないところが、生き物を扱う仕事の難しいところ。
 確かに、飼い慣らされていて餌を与えれば寄ってくるような魚が、撮影可能な水槽の中に入っていれば、それは極めて簡単な仕事になるが、そんな水槽を準備することから始めると、それは一転して非常に効率の悪い仕事になってしまう。
 
 さて、急きょ、金魚が餌を食べているシーンを撮影することになった。
 ところが、我が家には昨年撮影した数百匹の金魚がいるにも関わらず、いずれも冬眠中なので、あまり活発に餌を食べてはくれまい。金魚は変温動物なので、水温が低いと活性も低くなり、餌も食べなくなってしまうのだ。
 そこで、ペットショップで25℃に温度管理されている金魚を買ってきて、ヒーターを投入した水槽に入れて写真を撮ることにした。
 だが、新しい水槽に金魚を入れても、金魚はしばらくは警戒して、すぐには、活発に餌を食べようとはしない。
 僕は、買ってきた金魚をスタジオに置かれた水槽で1日、2日と飼育して、餌を覚えさせることにした。
 
 時々餌を少量水槽に落としては、スタジオに座り込んで様子を観察することを繰り返した。
 今回は、水面に浮いた餌を食べる様子を撮影したいのだが、一般にペットショップでは水に沈む餌を与えるので、金魚はなかなか浮かび上がろうとはしなかった。
 写真の締め切りが刻々と迫ってきて、精神的に追いつめられてきた。
 たかが金魚が餌を食べるシーンの撮影である。先方は、まさがそれが撮影できないとは思ってはいないだろうから、「ごめんなさい、撮影できませんでした」は、許されない状況だ。
 が、ついに一匹の魚がフワリと浮き上がり、水面で餌を食べた。
「く、食った〜!」
 と僕は大感激。金魚が餌を食べただけのことが、こんなに嬉しいとは思いもしなかった。
 金魚がようやく餌を覚えた頃には水槽の透明な水は糞で汚れてしまい、撮影の前には水を浄化しなければならない。
 ああ、なんと面倒なのだろう!
 今月の水辺のマガンの飛び立ちの写真が良かった、と何通かのメールが寄せられたのだが、マガンの飛び立ちの写真などは、天気さえ良ければ、朝早く起きて待っているだけで、マガンが勝手に飛び出してきてくれるのだから、むしろ楽な撮影だと言える。
 それに比べると、金魚の撮影のなんと煩わしいことか。 
 今日撮影した金魚が餌を食べるシーンなどは、何か別の機会で金魚にカメラを向けた際に、ついでに撮影しておけば、何の苦もなかったはずなのに・・・
 やっぱり、仕事は辛いよ!

 

2009.3.3(火) 経済とは

 僕の目下の悩みは、新しいカメラを買うかどうかである。
 その新しいカメラとはキヤノンのEOS5DUであり、ここ数年僕がメインのカメラとして愛用してきたEOS5Dの新型だ。
 なぜ悩むのか?といえば、旧型のEOS5Dでも十分過ぎるくらいの画質の絵が得られるから。EOS5Dは一昔前のカメラとは言え、他のメーカーの製品と比較すると、他社の最新のものでも、EOS5Dよりも高画質と言えるカメラはほとんどない。
 
 ならば新型は買わなければいい、ということになるが、一方でEOS5Dはメカの部分はお世辞にも丈夫とは言えず、長く使用している僕のカメラの場合、いつ故障してもおかしくない状態だ。
 だから、どこか山の中などで、ここぞ!という時に故障するよりも、一歩早めに新型に切り替えておいた方が手堅い気がする。
 さて、どうしたものか。
 
 それにしても、経済というものは、なんと残酷で不思議なものなのだろう!
 もしも僕がEOS5Dの画質に満足していなければ、僕はとっくの昔に新型を購入しているに違いないし、するとキヤノンは儲かることになる。
 ところがキヤノンはとてもいい製品を開発し、EOS5Dの画質が極めつけに良かったので、僕は、新しいものを急いで買う必要がなくなり、その分キヤノンが儲からなくなった。
 近頃は、物を使い捨てではなくて長く使いましょう!と主張する声をよく耳にし、それは一見正論であるように思えるが、もしかしたら、みんなが1つのものを長く使い続けたら物が売れなくなり、みなが貧しくなってしまうのかもしれない。

 それは僕らの本作りや写真撮影でも同様で、僕は、1冊の本や一枚の写真が長く流通してほしい、と思う。
 が、もしも本当にそうなったなら、それは一方で新しい本や新しい写真はあまり多くはいらない、ということでもあり、写真家は生活に困窮してしまうのかもしれない。
 たとえば、雑誌は次から次へと新しい号がでて、古いものは使い捨てられていくが、もしも写真をそうして使い捨てる雑誌がなければ、少なくとも僕は、間違いなく生活できないだろう。
 さて、勿体ないとかまだ使えるという発想は、本当に正しいのだろうか?
 もちろん、僕は、もっと使い捨てろ、と言いたいのではないし、その疑問に対する紛れもない正解などあるわけがないのだが・・・。

 

2009.3.1〜2(日〜月) 二兎を追う者は


RICHO GX200

・二兎を追う者は・・・
 長期取材中にイヤな予感がした。天気予報によると、僕が東北で撮影している頃、どうも九州では雨の日が続いているようだった。
 その雨に誘われて、アカガエルやサンショウウオの産卵が始まるのではないだろうか?さらに僕が帰宅する頃には、それが終わってしまうのではないか?
 そして長期取材中のある日カーナビが故障し、僕には急ぎ帰宅する理由ができた。ある朝富山を発ち、一気に北九州まで戻った。
 僕の頭の中は、アカガエルとサンショウウオの産卵のことでいっぱいだった。
 が、悪い予感はみごとに的中し、大急ぎで帰ってきたにも関わらず、森の中の水溜りには大量の卵が産み落とされていた。おそらく、今シーズンの産卵は、ほぼ終わりに違いない。
 僕はその光景から目をそむけたくなり、池のほとりでしばらく放心した。
 が、クヨクヨしても仕方がない。
 産卵シーンは来年に回すとして、産卵以降のシーン、つまりはオタマジャクシやサンショウウオの幼生にかかわるシーンの撮影を片付けておくしかない。
 今日は気を取り直し、水中カメラを持って、水溜りへと出かけた。
 
・確定申告のこと
 この時期、写真家のブログや日記には確定申告に関する記事がよく書かれているが、僕は、そんな事務的な作業をしたくないからこそ写真を選んだのであり、申告は税理士さんにお任せすることにしている。 
 申告を人にお願いすれば当然お金がかかるが、そこで空いた時間に写真を撮り、その分のお金を取り戻せばいい。
 とは言え、全く何もしない訳にはいかず、領収書やカードの明細やお金の出入りを記録した帳簿を束ねて提出するのだが、たかがその程度の作業が僕にとっては非常に辛い。
 今日はそれらの作業中に気分が悪くなってしまった。
 何って弱いのだろう!
 会社員にならなくて良かった、としみじみ思う。
「武田君、この資料まとめといて!」
 などと上司から書類の束を渡されたなら、僕はひと月もたたないうちにうつ病になり、退職してしまったに違いない。
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2009年3月分


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