撮影日記 2008年9月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2008.9.29〜30(月〜火) 本作り

 先日、母校の直方北小学校で写真撮影と本作りの授業をした際に、子供たちが作った本が届いた。本当は授業を行ったその日に本が完成する予定だったのだが、途中で時間が足りなくなり、僕は完成された本をまだ見ていなかったのである。

 その日、写真撮影に関して、僕が子供たちに教えたのは主に2つ。
 1つは記録としての写真。つまり、自分が見たものを見た通りに写そうとする写真。
 そのためには、カメラを構える前にまずは被写体をよく観察し、自分が何を見ているのかを確認した上で、それと同じになるようにカメラを構えること。
 実は、僕は写真は必ずしもそう撮らなければならないとは思わないのだが、僕の写真の基本は記録なので、そこにはこだわりがあり、「僕はこんな風に撮っているよ」、と伝える意味で、最初にそれを話してみた。

 そして2つ目は、被写体にぐいぐい迫りつつ、写真を撮ること。
 写真は、遠くから逃げ腰でカメラを向けているようではダメなのだが、これは、言葉で教えることが難しいので、あえて話の中では一切触れずにおき、代わりに、
「ちょっと先生を写してみようか!」
 と僕が担任の先生にぐいぐい近付きながら写真を撮る姿を見せることにした。

 だが、その時に僕がちょっと大げさに近づきすぎたためか、子供たちが撮影した写真は、被写体にちょっとばかり近付き過ぎてしまった傾向があり、その結果、被写体が画面からはみ出してしまったり、また、カメラの最短撮影距離を超えてしまい、ピントが合わなくなってしまった写真がたくさんできてしまった。
 
 が、不思議なことだが、ピントが合わなかった写真でも、子供がレイアウトをすると、大変に様になってしまう。
 僕が撮影したピンボケの写真などは、実に心地よくないというか、目ざわりな感じがするのだから、なんとも不思議なことだと思う。
 子供には、どうしても勝てない部分がある。
 
 時々、芸術家ぶった年配の人が、
「この年にならなければ分からないことがある。」
 とか、
「あなたも、今の私の年齢になったら分かるだろうけど・・・」
 といった言い方をする人がおられるのだが、僕は何だか嘘くさいなぁと思う。
 年を取ることで分からなくなることもたくさんあるし、人は年齢を重ねることですごくなるのではなく、変化するのではないだろうか? 

 

2008.9.26〜28(金〜日) 根性

 生き物の写真を撮影してお金を稼ぐことは、おそらく多くの人が考えているよりも難しい。自然写真家は、自分で申告すればプロになれるわけだから、プロの自然写真家を名乗る人は多いが、一年間の自然写真の売上げが100万円を超える人は極わずかなはずだし、100万はおろか50万円でさえ稼ぐことは難しい。
 だからそれを仕事にしようと思うのなら、まともでは稼げないし、天才でもなければ、戦略を持ち、よほどに売ることを意識しなければならないし、僕もそうしてきた。
 そして、欠かすことができないのが、根性。
 実は僕は努力とか根性などという発想が嫌いで、毛嫌いさえしているのだが、にもかかわらず、やっぱり最後は根性だな・・・と思わざるを得ない機会が多々あるのだ。
 僕は、根性を認めなければならないことが、悔しくて悔しくてたまらない。それくらいに根性という発想が嫌いなのだが、やっぱり根性。
 
 さて、来年からは、多少撮影スタイルを変えるつもりであることは、以前何度も書いた。
 なぜスタイルを変えるのか?と言うと、今まで積み上げてきたものを一度全部壊し、また1から、チャレンジャーとして我武者羅に写真を撮るため。
 だから、今年はそれに備えるための準備の年だと思っているのだが、今朝はひんやりと寒く、けじめの日の1/1日が少しずつ近づいてきていることを肌で感じた。
 さあ、しっかりと準備をしなければならない。

(更新のお知らせ) 
今月の水辺を更新しました。今月はルリボシヤンマの写真を選びました。
 
 

2008.9.23〜25(火〜木) 展覧を終えて

 直方谷尾美術館での展示が終わり、先日、写真を引き上げに行った。僕は過去に写真展を開催したことはあるが、今回は6人の作家が一堂に展示をするという形態で、しかもその6人は、鉄の彫刻あり、陶芸あり、写真あり・・・と表現の手段も様々。したがって、これまでに経験した展示とは随分異なる内容になったし、その間には、普段はあまり考えないようなことを多く考えもした。

 普段あまり考えないこととは、たとえば、
「芸術とはなにか?」
 というような問いかけ。
 人さまの芸術と呼ばれる作品を頭に思い浮かべてみれば、どうも芸術とは一種の主観であり、妄想であるような気がする。
 さらに、ただの妄想癖を芸術とは呼ばないし、そこには何らかの技術が必要があり、つまり芸術家とは、妄想を卓越した技術によってあらわす人であるような気がする。
 一方で、僕は写真を撮る際に、なるべく自分の妄想が写らないようにするし、目の前の景色を忠実に写真に再現しようと試みる。
 つまり、多くの芸術家が主観を表現しているのに対して、僕はなるべく主観を排除しようとする。

 なぜ、そんなに主観を排除したいのか、と言えば、僕が撮影した写真を見て、誰かが感激し、そこへと行き、その結果、
「写真の方がきれいで、実物はイマイチだったね。」
 とか、
「写真とは、随分違った印象だったね。」
 と思われたくないから。
 僕は、自然を、ただ配達したい。
 写真に限らず、僕はあまり主観が入らないものを好きな傾向にある。誰かのロマンよりも、現実の方により興味がある。
 ロマンを否定したいのではない。僕にとっては、例えば宮沢賢治が表現した自然よりも、淡々と現実の自然を表そうとしたもの、たとえばドキュメントの方がよりロマンチックなのだ。

 決して誇張したり、上塗りしたり、作りかえることなしに、ありのままが写っている写真。ふと、幼いころの僕を父が撮影した写真が、僕の目指す世界に極めて近いことに気付いた。
 こんな風に、自然の写真が撮れたらいいな、と思うのである。

 

2008.9.21〜22(日〜月) 自然配達

 僕の仕事は、自然を配達すること。
 だから、例えば郵便屋さんが預かった手紙をそのまま受取人に届けようとするように、僕も目の前の自然を、なるべくそのまま、みなの元へと届けようとする。
 配達とはそのような行為であり、だから郵便屋さんが勝手に気を利かせてはがきの誤字脱字を修正することはないし、新聞配達をする人が新聞に勝手に新たな解説文を付け加えることもないし、牛乳配達をする人が牛乳に別な味を加えることもない。
 つまり、僕はただ単に自然を運ぼうとしているのに過ぎないのだから、僕の写真は情報やメディアを目指しているのであり、少なくともアートではない。

 そう言うと、
「いや、あなたの写真はとても情緒的であり、決して単なる情報ではありません。」
 と言われることもある。
 だがそれは、その人が情報というものを間違えて理解しているに過ぎない。
 例えば、ある人が僕の撮影現場についてくる。そしてそこの景色を見えれば、多くの場合、
「ああ、素敵だな。」
 と感じるに違いない。
 その景色を僕が撮影し、もしも的確に情報化してその人の元に伝えることができれば、その人は、まるでその場に立ったかのように
「ああ、素敵だな。」
 と感じるはずだし、逆に、素敵だなと感じてもらえなかったとしたら、それは、僕が写真を撮影する過程で、何か重要な情報が欠落してしまったということになる。
 つまり、的確な情報は人の心を動かす要素をちゃんと持っているのであり、情報がある人にとって情緒的であっても、それは少しもおかしなことではない。

 僕は自然を配達するのだから、僕が配達した自然を人がどう使うかには全く関与しないし、その情報をどう使ってほしい、という希望もない。
 それは、配達された牛乳をある人は飲用し、またある人は料理の材料に使うなど、人それぞれの使い方があるのに等しい。
 僕がなるべくそのままに配達した自然を、ある人は心の中で膨らませ、想像し、その結果情緒を感じ、またある人は自然科学を考えるための材料にし、またある人は知識として取り扱うのかもしれないが、僕はそれを、それぞれの人の自由なのだと考えている。
 ただ、もしも僕が、
「あなたは、こんなつもりで写真を撮っているのですね?」
 と人から聞かれ、それが僕の思いと違っていたなら、
「僕はそんなつもりではありません。」
 と答える。僕には僕の意志があり、それはとても大切なものなのである。
 僕の写真が仮に誰かにとって情緒的だったとしたら、それは僕がアーティストだったのではなく、その写真を見て、それを膨らませたその人がアーティストだったのだと思う。
 僕は、自然を可能な限りそのまま運んでいるに過ぎない。
 
 さて、自然を配達するためには、まずは自然狩りに出かけなければならない。
 今回は、前回撮影できなかったカエルがトンボを食べるシーンに再チャレンジだ。

 ところ、今日はカエルがあまり活発ではなかった。何度か、カエルが産卵中のトンボに忍び寄ったことはあったが、いずれもトンボはその気配を察し、飛び去った。

 メスのトンボの数自体はとても多かったので、カエルにとっては絶好の食事日和に思えたし、なぜ、カエルがもっとたくさん出てこないのだろう?と考えたりもした。
 が、自然界には、今度はそのカエルを食べる存在がある。

 

2008.9.19〜20(金〜土) 昼食+夕食

 最近、写真撮影に関しては多少上達し、だいたい自分が想定しているよりも簡単に、そして早く終わるようになったが、相変わらず上手くいかないのが、画像の処理や原稿作成などのパソコンに向かう時間だ。
 うまく行かない、というよりは、もしかしたら僕が軽く見過ぎているのかな?
 ここ数日は、そんなパソコンの時間が長くなっていたのだが、仕事が思ったよりもはかどらないので昼食の時間が遅くなり、ある日は午後の1時、次の日は2時、そらに翌日は3時と一時間ずつずれこんで、昨日はとうとう遅くなった昼食が夕食と合体をして1つになってしまった。

 それにしても、パソコンに向かう時間が長いのは、肩が凝ったり、目が疲れたりと、あまり体に良くない。
 僕は、結構昔からホームページの更新を続けているので、パソコンが好きなのだと思われがちだが、実はあまりそれらが好きではなく、メールなども、できれば3日に1度くらいのチェックで済ませたいほど。
 別にお金持ちになりたいわけではないが、自然写真の仕事をしながら、そんなにお金のことを心配する必要がなく、マイペースが許されるような身分になれたらなぁ。
 まあ、そんなことは、あり得ないとは思うのだが。
  
(お知らせ1 )
直方谷尾美術館で写真展を開催します。
http://www.nogata-navi.com/tanio/index.php
展覧会・イベントへと進み、筑豊アートシーンの詳細をご覧ください。

 

2008.9.17〜18(水〜木) 好きとは



 僕は、写真の世界で仕事をする時には、
「あれが好き、これは嫌い。」
 などということを、なるべく言わないようにしている。僕の信条は、とにかくやってみること。そして、やってみるはやってみるでも、そこそこ結果が出るまでやる。ちょっと齧って、
「やってみました。」
 というのは厚かましいのであり、それは、見せかけだけやってみたに過ぎないような気がする。

 そもそも、自分自身をよく分析してみれば、「僕はこれが好き」というのは、実にいかがわしい。
 なぜなら、僕は自然写真が好きなつもりでいるのに、時には辛いことだってあるし、つまり、僕の心の中には、自然写真を好きな部分もあれば嫌いな部分もある。
 ただ、それらの好きと嫌いとを比べてみると、好きの方が上回っているから、僕全体の平均値としては自然写真が好きだと言っているに過ぎない。

 それは何も写真に限ったことではなく、どんなに愛し合っている男女だって、たまには相手にムカつくことだってあるだろう。どこの誰が相手であれ、相手の中に好きな部分もあれば、嫌いな部分もあるし、それは当り前のことだ。
 また、僕はいい仕事道具が欲しいし、新製品が発表されれば胸が躍ることもあるし、それが早く欲しくて欲しくてたまらない場合もあるが、では、新しいカメラを手にしたら100%嬉しいか?と言われれば決してそうではなく、支払いに使ったお金がなくなってしまうことに関しては悲しい。
 ただ、その悲しみよりも、カメラが欲しい気持ちが上回っているだけに過ぎない。

 さて、今日の画像は、先日撮影したオオルリボシヤンマ。下が元の画像で、上がその一部を拡大したもの。
 カメラの感度はiso800で、カメラはニコンのD700だ。
 僕がこれまで使用してきたキヤノンのEOS5Dは、低感度の画質はすばらしいが、iso800は、僕の基準では使えないカメラだった。一度、iso800で半日ほど無心になって撮影し、あとでがっかりさせられたことがある。
 だが、ニコンのD700なら、iso800でも全く問題がない。
 高感度での撮影は、今後はニコンにお任せでいい。

 あとは、風景を撮影するような場合に、そこそこ軽くて小さくて、低感度の画質がずばぬけたカメラが欲しいのだが、昨日発表されたキヤノンのEOS5Dマーク2は、いったいどんなカメラだろう?
 ネット上で知り得る範囲では、僕にとって、小躍りさせられるようなカメラではなった。
 だから、ちょっとがっかりしたのだが、一方で、少し嬉しかった。
 もしもそれが小躍りさせられるようなカメラだったなら、僕は早く欲しくなってしまうだろうが、カメラは発売直後は高価なので、その分お金が余計にかかってしまうし、いいカメラが出たなら出たで、困ったことも起きるのである。
「EOS5Dマーク2は実売で26万円台ですよ。」
 と写真店に勤める友人からすぐに連絡があったのだが、半年もすれば20万円くらいまで下がってくるだろうから、その頃にでも買おうと思う。
  
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2008.9.16(火) 原稿作成

 自然写真は被写体がなければ撮影することができない。 
 だから、自分を被写体に合わせなければならないし、その結果、場所や時間を選ぶ。
 それに対して原稿を書くような作業は、極端な話をすれば、いつでも、どこででも可能だ。取材先の車の中でもいいし、仕事がたまれば、ひたすらに夜を徹して作業を続けることだってできる。
 僕は、自分の収入の中に含まれる、文字を書いて得る金額の割合を可能な限り増やしたい、と考えている。
 そうすれば、例えば何かのアクシデントに見舞われて入院などしてしまっても、それはそれなりに仕事ができる。

 が、いつでも、どこででも仕事ができるということは、逆に言えば際限がないということでもある。
 今日は、ふと気付けば3つも原稿作成の仕事がたまっていることに気づき、早朝から昼食も抜きで、ひたすらにその作業に打ち込んだ。
 結局片付いた仕事は1つだけ。
 その気になれば、3つの作業をすべて完了することもできたのだろうが、自分が書いたものを読み直してみると、読むたびに何か気に入らない箇所があり、何度見直してもしても終わりがない。
 なるほどな・・・。
 自然写真は、自分がどんなにやり直したい、と思っても、だいたい時間がくれば終わらざるを得なくなるわけだが、それも、とてもいいことだと感じた。

 仕事というやつは不思議と重なるもので、原稿を書くような機会も、なぜか、重なってしまうことが多い。
 重なると、日頃はやる気があっても、大概のことはつらい。
 また、先日はザリガニが脱皮をしそうだったから、深夜に撮影が及ぶことを考慮し、昼寝をしておこうと思ったら、そんな日に限って、電話や打ち合わせや仕事の依頼や来客あり。
 僕はわけのわからない運命やその他は、基本的には信じないのだが、でもやっぱり何かあるよね!と思わざるを得ない機会がたまにある。
 
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2008.9.14〜15(日〜月) オオルリボシヤンマ

 先日の小学校での授業は、やはり慣れないことではあるし、9月10日にそれがあるというだけで直前の2〜3週間は何をしても集中ができない感じがし、何だか仕事をためてしまった。
 別に、小学校で授業をするからと言って山のような準備があるわけではないが、考えだけは最後の最後までめぐらさなければならない。
 大人が相手なら、「まあ、ほどほどにしておくか・・・」と横着や楽もできるが、そんな僕でも、子供が相手も場合は、なかなかそんな心境にはなれない。僕は、真面目である、というのがあまり好きではないが、にも関わらず、つい真面目になってしまう。

 11日に、小学校での2日目の授業を終えたあとは、その間に貯めてしまった仕事をひたすらに片付けた。
 そして昨日は、気分を切り替えるために撮影に出かけた。何1つ気がかりがなく、生き物の写真撮影に打ち込む時間はやはりイイ。
 そして今日は、久々の休養日。さあ、気分も新たに頑張らなければならない。
 
 さて、昨日はオオルリボシヤンマの撮影に出かけた。
 午前10:30頃に撮影を始め、午後の5時過ぎまで、ひたすらに、飛翔中のトンボにカメラを向けた。
 この場所へと案内をしてくださったのは、トンボマニアの西本晋也さん。
 そして行ってみたら、そこは何と、僕が時々立ち寄る施設の中にある小さな池だった。

 西本さんの狙いは、オオルリボシヤンマの行列。
 行列とは、複数のオスが一匹のメスを追いかけている状態で、この日は最大でメスも含めて5匹の行列ができた。

メスはオスを振り切ると、高度を下げ、水草の上に降りる。

 そして、産卵が始まる。

 僕の狙いは、そのメスを食べるカエルだ。
 だが、目の前を飛ぶオスの飛翔が気になって仕方がなく、そればかりをレンズで追ってしまい、結局カエルの捕食のシーンは、撮影ができなかった。もしも時間を作ることができれば、今度は捕食のシーンのみを狙い、もう一度出直そうと思う。

 僕は以前、野鳥の飛翔に一生懸命にカメラを向けたことがある。
 だがその後、カメラが進化し、今や野鳥の飛翔は、大概レンズさえ向ければカメラが自動的にピントを合わせるオートフォーカスで撮影できるようになった。
 とても簡単になったと思う。
 だが簡単になると、僕は面白くなくなった。野鳥の飛翔を撮るぞ!という気持ちには、あまりならなくなった。
 その点トンボの飛翔は、オートフォーカスではほぼ100%撮影することができない。だから、ひたすらにレンズのピントリングを回して、自分の指でピントを合わせる。
 昨日は、それがなんともいえず楽しかった。
 機材はニコンのD700に300ミリf4のレンズ+1.4倍のテレコンバーター。昆虫の撮影には、高感度撮影が得意なニコンのD700はとてもイイと思う。
 昆虫の場合、体温を持つ野鳥などと違う点は、活動が温度や時間と密接に結びついており、中には晴れの日にしか見られないシーンや、逆に曇りの時しか見らないシーン、さらに夕刻だけしかみられないシーンが少なくない。
 だから、野鳥の撮影と違って、「今日は曇っていて薄暗く撮影が難しいから、晴れの日を待つか!」などということができにくいし、なるべく、どんな状況ででもとにかく写るカメラがいい。
 D700を使えば、夕刻でも、f5.6のレンズでトンボの飛翔が撮影できることが分かった。
「高感度の画質が優れたカメラがあれば、こんなに世界が広がるのか!」
 と、昨日は驚かされた一日になった。

 ニコンの300ミリf4は、ここのところずっと使用していたキヤノンの同格のレンズと違って手ぶれ防止レンズではないので、それがどうだろう?と思っていたが、昨日撮影した写真の中には手ぶれは一枚もなかった。
 夕刻は、さすがに長時間の撮影で腕が疲れ、手元が怪しくなりかかっていたのだが、手ぶれ補正は、ないならないでも十分に撮影できるようだ。

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2008.9.12〜13(金〜土) 続々・母校へ

 先日の小学校での授業の様子はNHKのテレビで少しだけ放映され、
「テレビ見たよ。」
 とたくさんの連絡があった。
 中には全く知らない人から、
「あっ、昨日テレビ出てたよね。」
 と声をかけられたことも。
 それはともあれ、僕をよく知る人には、
「意外だなぁ。」
 と感じた人が多かったようだ。
 意外とは、僕は出たがりではないし、なるべく出たくないから主に本の世界で仕事をしているのであり、僕は、本の場合の読者と自分との距離が大好きなのだ。
 そんな人間が直接的に子供たちと接する。たしかに、それは僕の好みではないし、みなの指摘は実に的を得ている。

 また、学校は基本的には組織(社会)の論理を学ぶ場所なのだろうが、フリーの写真家のような仕事を選ぶ人には、その組織が嫌いだ、という人が多く、僕もその例外ではない。
 その僕がなぜ学校へ。
 学校が不要だと言いたいのではない。学校はとても大切な場であり、組織の論理も必要なものだと思うのだが、それが世の中のすべてではないし、そうではない生き方もあり、簡単に言えば、自分が学校には不要だという気がするのである。
 
 だが、その一方で、僕は好きではないことでも、やってみることにしている。
 僕は、何かを頼まれた時に、決して断れない性格ではないし、むしろ、
「よくそんなに躊躇なく断れるね!」
 と普段は人から驚かれることが多い。
 では、なぜ好きではないことでも引き受けるのか?と言えば、その気持ちは、なかなか人からは理解してもらえないことが多い。

 好きだから何かをする。これは、一般的には理想の人生だとされる。
 嫌いだからやらない。これも、とてもわかりやすい。
 次が、嫌いだけど我慢してやる、なのだろうが、僕の場合はこれではない。
 僕には、これが好きとか、これが嫌いという感情があるが、そんなものはすべて仮のものであり、好きだったものを嫌いになることもあるし、嫌いだったものが好きになることもあるし、本当はどうなのか、そんなこと自分でも分かるもんか!と思うのである。
 将来の自分を決めつけない、とでも言ったらいいのだろうか。


 さて、母校での授業に気を取られていて、うっかりしていて告示できなかったのですが、今日は、僕の連載が載っている産経エクスプレスの発売日でした。

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2008.9.10〜11(水〜木) 続・母校へ

 直方北小学校での授業2日目。この日は、前日に撮影した写真を本にする。
 僕は一日目の授業を終えたあとで急いで事務所に戻り、その日子供たちと一緒に撮影した写真を本にしてみたのだが、その作業は深夜にまでいたり、トータルで10時間ほどの時間がかかってしまった。
 と言うことは、2日目の本作りも僕の予想以上の時間がかかり、授業の間にすべての作業を終えることができないのではないか・・・と突然に不安がよぎる。
 が、これはもう腹をくくってやるしかない!
 2日目の僕は、そんな心持で、学校へと出向いた。

 さて、今日の画像に写っている赤いシャツの男の子は、実はとても不安そうな顔をしていて、聞いてみると、どうしていいのかが分からないのだそうだ。
 だが僕は、相手が大人だとか子供ということを抜きにして、実はそんな風に思う傾向がある人が、結構好きだ。
 僕らの世界は、それとは全く逆の、俺は!俺は!という世界。あくが強いことが許され、あくが強いことを求められ、そしてやっぱり、あくが強くなければなしえない世界。
 そこには、結果的に、俺は俺はと主張しなければ気がすまない人間が圧倒的に多いわけだが、それは必ずしもほめられたことではなく、人の性格や向き不向きの問題だと思うのである。
 みんながそんな風にならなくていいし、むしろ自分の主張がない人の中に、他人に深く尽くすことができる人をが多いように、僕は日ごろ感じる。
 自分の主張があり過ぎる人は、他人に尽くすには忙し過ぎる。それはそれで悪いことでもない、と思うのだが。

 子供たちの中には、僕の幼馴染のたー坊の息子のとしちゃんが含まれていた。
 たー坊は、昔からいつも控え目で、何をするにしても、
「晋ちゃん先にしていいよ。」
 という感じ。
 それは、ある一面では自分の主張がないのかもしれないけど、そのたー坊が、自分の息子を大切に可愛がっているのを目にすると、僕は心を打たれる。学校の廊下に、行事の際に撮影された写真が飾ってあったので見ていくと、その中にたー坊が写っていることに気がついた。それは運動会の写真で、たー坊が父兄として、会をお手伝いしている様子だった。
 結局、そんなことが地域を支えているのだろう、と僕は思う。が、自分の主張に忙し過ぎる人には、そんなことはできまい。
 たー坊のことを考えると、この赤いシャツの男の子が、自分のことは二の次で、自分の子供を大切に可愛がる温かいお父さんになるような気がするのである。

 僕は、本作りの作業は、できなかったらできなかったでいいと思う。
 写真も、上手に撮れなかったら撮れなかったでいいと思う。
 だがそれは、たとえば、僕がみんなが撮影した写真を評価しない、評価なんて意味がないといいたいのではない。
 僕は、何かに区切りをつけるため評価は必要だと思うのだが、評価なんて一時的に必要な仮のものに過ぎないことを子供たちに知っておいてほしいなぁと思う。

 今、社会は、評価することに熱心過ぎ、評価を絶対視し過ぎているように思う。たとえば自然を見ても、
「これは外来種だ。ここは外来種がはびこっているから良くない状態だ。」
 とか、
「これは日本本来の自然だ。だからいい状態だ。」
 とか、
「ここはゴミだらけでよくない。」
 とか、とにかく評価することばかり。
 でもそれは、自然観察ではなくて、恐らく学校の教科の中では社会だろう。つまり、人間にとってどうなのか?という話。
 そんなことを抜きにして、ただ自然ってどうなっているのかを静かに見ることが大切であるような気がする。

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2008.9.8〜9(火) 母校へ

 母校で授業をすることになっているので、ここ数日は、その時に何をするのかを具体的に決めようとしてみたのだが、ついに最後まで、考えがまとまらなかった。
 何を考えてみても、結局は子供たちがどう反応するかが分からないので、何も決められなかった。
 今回は小学4年生に授業をするのだが、よく考えてみると、僕の身の回りにはその年頃の子どもがいないので、検討のしようがなかった。
 まあ、うまくいかなくても命を取られるわけではない。その場その場でできる限りのアイディアを出すしかないのかな、と覚悟を決め、今日は小学校へと出かけた。

 懐かしい玄関。

 僕の授業は写真を撮ってそれを本にする、というもの。子供たちが次々と教室にやってくる。

 さあ、カメラをもって出かけよう。

 最初はみんなが写真を撮る様子を見て、何か声をかえようと思っていたのだが、それはやめて、僕も写真を撮ることにした。

 子供たちのテーマはさまざま。
 ホースから水を出して、それを撮影する子。

 傘にジョロで水をかけ、それを撮影する子。

 奥に写っている一際大きな人物が、4年生の担任の一人・いつもアディダスの服を着ている香月先生。僕の中のイメージは、強くて優しい先生。

 本を作る際には、最後に自分のことを紹介するものだから、それ用の写真を撮っておくように伝えておいたら、いろいろな撮り方が見られた。
 ある班は、交互にカメラマンを務めながら、一人ずつ写真に写った。
 またある班は、他の班の人にカメラマンを頼み、全員一緒に写真を撮った。
 またある班は、自分撮りと言うのだろうか?自分たちだけで、自分たち全員の集合写真を撮った。
 明日は、今日撮影した画像を本にする。

 さて、今日の写真は、すべてニコンのD700で撮った。今回は、カメラの感度を1600という高い感度に設定したのだが、いや〜驚いた。このカメラの高感度の画質は、本当にすごい!凄いを通り越している。
 僕は日ごろは高感度を使わないことは、以前に書いたことがあるが、今回は仕事用の写真撮影ではないし、まあいいか、と軽い気持ちでカメラの感度を決めた。
 ところが帰宅後に画像を見てみると、高感度に否定的な僕でさえ、ホ〜とただただ感心するしかない。凄すぎる。

 高感度での画質が良ければ、暗い場所でも写真を撮ることができる。つまり、ニコンD700は、守備範囲が広いカメラだと言える。
 だからこのカメラを一番重宝するのは、どんな状況ででもとにかく写真を撮らなければならない報道カメラマンだろうけど、他にも、たとえば小さなお子さんをお持ちのお父さんやお母さんは、もしも写真撮影に興味があるのなら、ちょっと高価ではあるが、買う価値はある、と思う。
 そして感度を1600などの高感度に設定しておけば、大抵の場所で写真を撮ることができるだろうし、子供たちのとてもいい記録が残るのではないだろうか?
 
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2008.9.5〜7(金〜日) 機材の撮影



 自然写真家と言えども、写真を仕事にすると、いろいろなものにカメラを向ける機会がある。時には人物だって撮るし、時には、物の写真を撮ることもある。
 今日は、撮影機材の白バック写真を撮った。本当なら、撮影機材も、取材に出かけた際に野原や雪の上などに置いて撮影しておけばカッコいいと思うのだが、僕は面倒が嫌いな性格なので、「まあ、いいか!」といつも結局後回しになる。
 この手のスタジオ的な写真撮影は、実は結構難しい。
 野外での自然にカメラを向ける場合は、状況さて良ければ誰にだっていい写真が撮れてしまう、つまりまぐれの可能性があるが、スタジオ的な写真の場合はほぼ100%技術や知識で写真が決まる。
 例えば、オークションに出品する際に撮られた写真などを見れば、その人の写真や画像処理の技量や、デジタル画像に対する理解の程度などがとてもよくわかる。
 
 さて、僕が今主に使用しているカメラはキヤノンのEOS5DとニコンのD3、D700だが、白バック写真に関しては、なぜだか分からないのだが、ニコンのD3やD700がよく写る。
 まず、変な色かぶりが生じにくい。
 それから、白バック写真の場合は白を調節するために、ほぼ100%撮影後にパソコンで画像処理をすることになるが、その際にも破綻が生じにくく、ずっしりとした質感のある画像が得られる感じがする。
 いずれ暇なときにでも検証してみようと思う。
 
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2008.9.4(木) スクミリンゴガイ

 僕は、同じカメラを2台買ったことは何度もあるが、同じレンズを2本買ったのは、過去にペンタックスの645判用の120ミリマクロレンズを2本買っただけ。
 カメラは、同じものが2台あれば、それぞれに違うレンズを取り付け、その2台を持ちかえながら写真を撮ることで、いちいちレンズ交換するよりも効率良く撮影ができる。

 だがレンズに関しては、同じものが2本あってもカメラほどは役に立たないし、よほどに仕事の上でよく使うもの以外は、同じものを2本買う気にはなりにくい。
 ところが、水中写真を撮る場合は、同じレンズが2本欲しくなることもある。
 水中の写真を撮る際には、陸上で使用するカメラを水中ケースに収めて水に沈めるが、水中ケースは水漏れの危険性が常につきまとうためその開け閉めには神経を使うし、水中ケースの中に入っているレンズをちょっと取り出して、陸上で一時的に別の撮影に使うなどということは、非常にやりにくいのである。
 水中撮影用と陸上撮影用に同じレンズを2本持っておけば、そんな悩みからは解放される。だが、やっぱりそれは勿体ないなっ、と結局そんな買い物をしたことは、まだない。
 ところが不思議なことに、同じ焦点距離のレンズでも、メーカーやマウントが違えば、買ってもいいという気になる。例えば、キヤノンの20ミリを持っていても、ニコンの20ミリだって欲しいし、そんな買い物なら、不思議と無駄使いした気にはならないのである。

 さて、今日は水中撮影用にキヤノンのEOS5D。そして、陸上での撮影用に、ニコンのD700を持っていった。
 ニコンとキヤノンを両方持っていけば、同じレンズを2本買う必要はない。が、やっぱりお金がたくさんかかることには変わりない。
 D700を購入した結果、久しぶりにニコンの300ミリ(Ai AF-S Nikkor ED 300mm F4D)を使うことになったのだが、このレンズは実にシャープ。キヤノンの300ミリf4にはない魅力がある。
 帰宅後に、画像を拡大してみる際に、思わずにやりとしてしまった。

 今日の最初の画像の赤い物体は、スクミリンゴガイの卵だ。
 水中撮影では、そのスクミリンゴガイにカメラを向けた。

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2008.9.3(水) 縮小

 今シーズンの春〜夏は、金魚の本作りのための金魚の飼育に翻弄された。相当に時間を取られたし、設備投資にたくさんのお金もかかった。
 仕事に、手間と時間がかかるのは仕方がない。が、もうこれ以上、お金をかけるのだけは止そうと思っていても、ちょくちょく、ちょくちょく、次から次へと必要に迫られ、そのたびにお金が出て行った。
 僕は、普段は1万円以上は持ち歩かないことにしているのだが、金魚を飼い始めてからは、財布に3万円は入っていなければ、落ち着かなくなった。
 しかも、その3万円も数日で消えていくのだから、こんなに簡単に万札が消えてもいいのか?、といったい何度不安になったことか。

 一方で、金魚を本格的に飼育した結果、いいこともあった。
 金魚は、もともと飼育をするために品種改良された生き物なので、飼育に関する情報を手に入れやすいし、いろいろなテクニックが確立されている。
 それらは、他の生き物の生き物の飼育の際にも当然役に立つ。水中に住む生き物の飼育の基本を学ぶには、とてもいい材料だと感じた。
 今回勉強したことや、購入した飼育器具や、金魚の飼育のために作りだした場所などは、今後も有効に生かさなければならない。
 特に、飼育器具と場所に関しては、今回準備したものを他の何かに流用すれば、何か面白いことができそうな予感がする。
 それにしても、あまりに高価な授業料ではあるが・・・・

 その金魚の飼育も、どんなに頑張っても、もうこれ以上は手を広げることができない、と観念するところまで行きついた。
 世話に割くことができる時間的にも、場所的にも、明らかに限界に達したように思う。
 そこでここ数日は、逆に一部を店じまいし、規模を縮小しつつある。

 僕は、まめなタイプではないので、生き物を飼うのはあまり得意ではないし、金魚に関しては、楽しい、というよりは仕事という側面が強いが、今シーズンの春〜夏に関しては、一生忘れられない特別なシーズンになるような気がする。
 
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2008.9.2(火) 子供達 

 先日、北海道在住のT君から、カメラに関する問い合わせのメールが届いた。T君は、僕が北海道へと出かけた際にはいつも仕事を休んでやってくる写真仲間だが、元をたどれば、とある高校で僕が生物や物理を教えた教え子だ。
 教え子、と言っても、T君ももう30歳を過ぎたおっさん。結婚をして子供がいる点などは、僕よりも先輩でもある。
 T君に限らず、その当時僕が理科を教えた若者たちとは、今でも結構話をする機会がある。

 さて、今日は、僕の母校である直方北小学校のみなさんが美術館に来る、というので、話をしに行ってきた。
 今日対面したみんなとは、数日後に小学校でまた顔を合わせ、次は写真撮影と本作りの授業をする予定になっている。
 その中から、もしかしたらT君のような写真仲間や生き物仲間が現れるかもしれないし、なかなか侮れない時間になりそうだ。
 
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2008.9.1(月) 町の水路 

 僕の事務所の近所に、町の中だというのにたくさんの魚が住む水路があることは、以前にも何度も紹介したことがある。
 そして、そこは、今僕が何とかして本にまとめようとしている場所の1つだ。
 水路には、びっしりとオオカナダモという外来の水草が生えており、その水草が隠れ家の役割をしたり、恐らく、水を浄化する働きもしているだろうと思うのだが、その結果、町の中のコンクリートの水路であるにも関わらず、ここには、たくさんの生き物が住む。
 オオカナダモは大変に繁殖力が強く、ある一面では、日本産の水草から住処を奪うため問題視されている植物なのだが、もしもこの水路からオオカナダモをすべて取り除いてしまったとすると、ここに住んでいる生き物たちは消え去ってしまうだろう。
 そこが、いったん住み着いてしまった外来種の問題の難しいところだと思う。
 さて、オオカナダモには、いったいどう対処したらいいのだろうか?外来種の中で、完全に日本に住み着いてしまったものに関しては、馬鹿の1つ覚えのように駆除をするのではなく、それなりの対処の仕方を考えなければならないような気がする。

 さて、僕がカメラを向けたくなる場所には、なぜか撮影が難しい場所が多い。
 今日は、町の水路の濁った水の中にカメラを沈めてみたのだが、やってみると、水の中の汚れが水中カメラのレンズの表面に付着し、写真に写り込んでしまう。
 遠くを撮る時は全く問題にならないのだが、近くにピントを合わせると、当然付着したゴミにもピントが合う。
 今日は2時間ほど写真を撮ったが、ちゃんと見られる写真は1シーンだけだった。
 
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