撮影日記 2008年8月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2008.828〜31(木〜日) 更新 

 今月の水辺を更新しました。

(お知らせ1 )
直方谷尾美術館で写真展を開催します。
http://www.nogata-navi.com/tanio/index.php
展覧会・イベントへと進み、筑豊アートシーンの詳細をご覧ください。

(お知らせ 2)
平尾台自然観察センターでも、写真展を開催しています。
http://www.hiraodai.jp/hnoc/
イベント〜展示イベントへと進み、生き物写真展をご覧ください。

 

2008.8.27(水) 友 

 友人に渡しておいた写真が、本の体裁になって帰ってきた。
 今回友人が手を貸してくれたのは、編集、デザイン、イラスト。つまり、写真撮影以外のすべて。
 出版社にも編集者はいるのに、なぜ友人にお願いしたか?と言えば、出版社の人だけでは作れない本を作りたいから。
 具体的には、僕の写真を上手にまとめてくれる事務員タイプの人ではなくて、そこにプラスアルファーを付け加えてくれる、才能が欲しかったから。
 その場合、それを誰にお願いするかは、ほとんど結婚相手を選ぶくらいに重要なことだ。

 まず、僕はこんな本を作りたい、という具体的なイメージがあるのだから、それを実現してくれそうな人を探さなければならない。
 そして、そのためには、相手の力量や特徴を自分がよく知っていなければならないので、結婚は結婚でも、お見合い結婚ではなくて、恋愛結婚でなければならない。
 また、結婚をする場合、愛があれば大丈夫という考え方もあるだろうが、一般的には、あまりに相手が年上だと困る。なぜなら、そんな相手は、たいてい自分よりも先に死んでしまうから。
 僕は、まだまだ出版の世界で長く仕事をしなければならないから、自分の同世代の人の中から、そんな才能の持ち主を探し、それなりに長い時間をかけて何度も一緒に仕事をすることで、回を重ねるごとに、自分の思いを社会に伝えたいのである。
 
 僕は、日頃からそんなことを考えているので、つい、身の回りの人を、そんな目で見てしまう傾向がある。たとえば、電話でのやり取りやメールのやり取りの際にも、相手の哲学や才能が、つい気になってしまう。
 その際に、僕が特に気になるのは、相手の言うとことが面白いかどうか。
 面白いというのは、ギャグのようなものを指している訳ではなく、簡単に言えば、他人が、もっと話を聞きたいなぁとか、話してみたいなぁとか、もっと相手の哲学を知りたいなぁと感じる何かがあるかどうかのこと。
 真面目にちゃんと作業をしてくれそうな人なら、いくらでも出会う機会はあるが、面白い人にはなかなか出会うことができない。
 一般的な会社内では、真面目はほめ言葉かもしれないが、出版のような仕事の場合、必ずしもそれはほめ言葉ではない。

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2008.8.26(火) 原稿作成 

 今僕が一番エネルギーを注いでいる仕事は、連載中の産経エクスプレスの原稿作成。写真家が原稿という時には、しばしば文章だけでなく、写真も含まれているように思うが、僕が特に力を入れているのは、写真撮影ではなく、文章を書くことだ。

 文字数は約800字。そして、その800字を埋めるために、まず最初に1000字くらいの原稿を作る。
 その原稿を何度も何度も見直し、不要な部分を削り、800字に近づける。

 不要な部分と書いたが、文章を書くからには、それはすべて自分にとっては伝えたいことなのだから、それらに優先順位ををつけ、優先度の低い部分から削る作業には、それなりに時間がかかる。
 が、僕はいつも、そんな書き方にこだわる。

 写真撮影も同様で、僕の場合は、まずは最初に、自分に制限をかけずに、撮りたいだけ写真を撮る。
 そして、その山ほど撮影した写真を、泣きながら取捨選択する。
 最初から何を撮るかを決めておいた方が、効率はいいだろうと思う。それは文章を書くことや本作りだって同じで、最初に文字数やページを決めておいた方が、無駄は少ない。
 が、僕はその無駄こそが大切なのだと固く信じる。

 最初から、必要とされる写真や文字数やページを決めてしまうと、手堅くまとまったものができるだろうとは思う。
 が、そうして作られた結果は、
「よくまとまっているのだろうなぁ。いいことが書いてあるんだろうなぁ。」
 とは思えても、
「読みたいな!」
 とは感じられないことが多いような気がするし、面白さに欠けるような気がする。
 制作の際に一番大切なのは抑えられない情熱であり、最初から自制心を働かせているようでは、面白いものができるはずがないような気がするのである。
 そこに、制作なのか、事務作業なのかの違いがあるような気がする。

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2008.8.23〜25(土〜月) 続・授業 

 今日も洞窟へ向かう。今回は単独行なので、事故を起こさないように、洞窟の入口から差し込む光が見える範囲内で写真を撮った。
 洞窟は涼しくて暗いからだろうか、考え事をするのには実にいい。
 考え事とは、先日も糸崎さんの本を紹介しながら書いたように、小学校での授業のこと。
 今回はアートの企画なので、子供達と一緒に創作をする予定であり、自然について話をするつもりはないのだが、それでも、僕が日ごろ作っているのは自然に関する本なのだから、何か考え事を始めれば、最終的には、自然ってなんだろうというテーマになる。

 さて、自然ってなんだろう?と考えると、僕はいつも、人間って勝手だなぁと思う。
 別に、勝手であることを批判したいわけではない。僕の場合は、僕自身も極めつけに勝手なのだから、ただ単に、ああ、人って勝手な存在なんだぁと思うだけ。
 たとえば、
「人の活動の結果、自然のバランスが変わってしまう。ある種の生き物たちが数を減らしている。」
 と嘆く方がおられる。ところが、一方で、多くの自然愛好家が、
「里山、里山。」
 と主張する。
 僕は、なんか変だなぁ、と思う。
 里山とは、インターネットで検索してみれば、
『集落、人里に接した山、あるいはこうした地形において人間の影響を受けた生態系が存在している状態を指す言葉』
 とあるから、その中には田んぼなども含まれているのだろう。
 ならば、稲作以前の日本ってどんな状態だったんだろう?と考えてみると、おそらく、そこには今とは全く違った自然環境があったはず。だから、稲作が盛んになった時には、その結果環境は大きく変化し、極端に数を減らしてしまった生き物もたくさん存在しただろうし、その過程で絶滅したものもいるのかもしれない。
 逆に、田んぼのような環境に適した生き物は、爆発的に数を増やしたに違いない。もしかしたら、里山の象徴のような存在であるメダカなどは、そんな生き物の例だったのかもしれないなぁと思う。
 つまりそれは、自然のバランスを大きく変えてしまう出来事だったはずなのに、今、里山という言葉が自然愛好家に持てはやされるのは、いったいなぜなのだろう?
 人間にとって、終わってしまったことは、もういいのかな?

 さらに、稲作が盛んになった際には、移入種もたくさん入ってきたはず。
 これまで日本に存在しなかった生き物が、外国から入ってくると、
「日本に従来から住んでいた生き物が影響を受けてしまう。」
 と問題視する方がおられる。
 ところが、そんな人でも、モンシロチョウは日本の生物として認めていることが多い。
 モンシロチョウは移入種だと言われているのに、なぜ、その人は駆除しないのだろう?と僕は時に不思議に思う。
 また、佐賀県に生息するカササギという鳥だって、移入種だと言われているので、これだって駆除をしに出かけるべきではないのか?
 僕は以前、
「帰化生物を嬉々として殺す人たちを見ていると、恐ろしいなぁと感じる。」
 と書いたことがあるのだが、嬉々としてを別の言葉で言うなら、自分を正義だと思って、と言い換えてもいい。
 それが正義かどうか、そんなこと分かるもんか、と思う。移入種を殺すな、と言いたいわけではないが、モンシロチョウのような生き物が、今は愛されているじゃないか、と思う。
 結局、その手の問題は、実は生態系うんぬんの話ではなくて、自分たちが見慣れているかどうかで決まっているような気がする。

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2008.8.22(金) 授業 

 9月に母校の直方北小学校で授業をすることになっているので、ここのところ、その時に何をすべきか、検討を進めている。
 僕は、だいたい適当な人間であり、人の話の聞き方も悪いので、その企画がどんなコンセプトで、どこの協賛を得て、どこからお金をもらうのかなどはよく覚えていないのだが、自然ではなく、アートの企画だったので、引き受けてみることにした。

 僕の場合は、自然に関する話を求められることが多いのだが、子供に対するその手の話は、たいがい断ることにしている。
 理由は、学校や授業という場はどうしても教条的だし、自然の話をしようと思っても、道徳の話とか社会の話の方へと結び付けられがちだから。
「命の大切さを知りましょう。」
 とか、
「自然を愛しましょう。」
 とか、
「こんなに自然が破壊されていますよ。」
 というような見方を求められがちだから。
 その点、アートの企画なら、その手の話に巻き込まれずに済むと考えたのである。

 学校で授業をするために、いろいろと思いを巡らせてみると気になる本が一冊あった。それは、糸崎公朗さんの『 東京昆虫デジワイド 』だった。
 虫好きで、この本を知らない人は、もしかしたらモグリかもしれない。
 この本の中には東京の街中で撮影された昆虫の写真が掲載されているが、いったい糸崎さんは何を言おうとしているのか、それが知りたくなったのである。
 そして僕は、こう読んだ。
 まず、本の中では、
「自然とは、人の意志が加わらない状態である」
 と定義されており、だから、たとえ背景が東京の町中であっても、これはまさに自然写真である、と主張されている。
 いや、それは僕がそう読みたいだけで、糸崎さんの意図は別にある、という可能性もあるが。

 それはともあれ、この本に写っているものと正反対の存在が、今流行りのビオトープだ。
 ビオトープは、一見自然なのだが、実は大変に人工でもあり、時には、そこに住むことが許される生き物と、許されない生き物とが区別されていたりする。
 ビオオープを、否定したいわけではない。それはそれで楽しい遊びだと思うが、それが自然だと思い込んだり、そう子供たちに教えるのは、大間違いであるような気がする。
 里山や田んぼだって同じ。先日、友人が、
「田んぼを自然だと思い込んでいる人がいる。まさに人工なのに・・・・がっかりさせられる」
 と語ってくれたのだが、僕も全く同感。
 里山とかビオトープがブームになり、それこそが正しい自然との接し方だと思われると、僕は、大変な違和感を感じる。
 
 さて、野山に比べれば少ないとは言え、糸崎さんの本に写っているように、東京の街中にもそれなりにたくさんの虫がいる。
 なのに、それが多くの人の目には見えないのはなぜだろう?
 もしも、学校で子供たちに、
「自然が破壊され、生き物たちがいなくなっているよ。人間ってひどいことをしているね。」
 とだけ大人が教えるのなら、町は生き物が住んでいるはずがない場所なのだから、そこに住む生き物は見えなくなってしまうのかもしれないなぁと思う。
 子供たちに自然を語る際に、道徳とか社会の話をあまりたくさん持ち込みたくない理由は、そこにある。それによって、逆に自然を見せないようにしているのでは?と思わなくもないのである。
 
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2008.8.20〜21(水〜木) 徹夜 

 一般的に、生き物の世話は、午前中にするのが正しい。
 だから、撮影用のモデルを飼育している飼育室に、僕が午後になってから出入りする機会は、日頃はあまりないのだが、昨日はたまたま夕刻に部屋に入ってみたら、アメリカザリガニの脱皮が近いことに気がついた。

 そのザリガニのサイズは、大人でもなければ子供でもない、中途半端なもの。
 ザリガニの脱皮の写真はよく売れるのだが、それは、だいたい大人か子供の脱皮のシーンであり、中途半端な大きさのアメリカザリガニの脱皮の写真を貸してほしいと依頼されたのは、僕の場合、過去にたった一度かしかない。
 だが、今回のザリガニは、中途半端な大きさながら、今すぐにでも脱皮をしそうな雰囲気だったので、とにかく写真を撮っておくことにした。
 昨日の、午後7時頃のことだ。
 
 僕は、遅くても深夜の2時頃までには脱皮がはじまるだろうと予測していた。そして現に、そのアメリカザリガニは、今すぐにでも脱皮をしそうな動きを見せていた。
 ところが、待っても待っても、なかなか脱皮が始まらない。
 ついに時計は深夜の2時を回り、撮影をやめてもう寝ようかと一瞬考えたのだが、やめるとそれまでに待った数時間が完全な無駄になり、それなら早く寝ておけば良かったということになるし、なるべく無駄な時間は出したくないので、辛抱することにした。
 時計の針は、3時、4時と回り、やがて少しずつ外が明るくなってきた。
 僕は徹夜をすると、5〜6時くらいが一番眠たくて辛いのが、ついにその時間に突入。
 だが、それでもまだ脱皮は始めらず、結局、すべての撮影を終え、画像をチェックして眠りに就くことができたのは、ほとんど正午に近い時間だった。
 その時間になると、もはや眠気もピークを過ぎ、眠る必要はないかと思ったのだが、横になり目を閉じると、10秒もたたずに強烈な睡魔が襲ってきた。ああ、眠るってなんて気持ちがいいんだろう。
 気持ちイイ〜超気持ちイイ。
 おそらく撮影はすぐに終わるだろうと予測していた僕にとって、思いがけず、大変に辛い撮影になってしまった。

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2008.8.19(火) 整理 

 写真の貸出しの依頼があり、フィルムを探そうとするのだが、どうしても見つからない。ある生き物の写真を探しているのだが、中でもいいものばかりを収めた入れ物が見当たらない。
 見当たらない、というよりは、正確に書くと、そもそも自分がどんなケースにそれを入れたのかが思い出せないのであり、したがって探しようがないのである。
 
 フィルムを貸し出していた頃、すべての仕事の中で僕が一番いやだったのは、写真の貸出しだった。
 本来であれば、
「仕事が来た!ギャラがもらえる。」
 と大喜びのはずなのに、写真の整理が悪い僕の場合は目的の写真がなかなか出てこないし、それを探す作業は本当に辛かった。
 
 デジタルになってからは、そんな苦労もなくなった。
 ただ時々、まだデジタルカメラでは撮影していない被写体の貸出しの依頼があり、あのつら〜い感じを再び味わうことになる。
 フィルムに関しては、現像をしたものの、まだよく見ていない写真が山積みになっている状況であり、それらをちゃんと整理することは、とっくの昔に諦めたし、そんな理由もあって、僕は仕事の写真をデジタルへと切り替えた。
 僕にとって、写真のデジタル化は、武田写真事務所の仕事を一度リセットするとてもいい機会になった。

 だから、デジタルは、絶対に未整理の画像をためないようにしよう、と心に誓ったし、それを実践してきた。
 が、今シーズンは金魚の撮影や飼育があまりに忙しく、5月の末から6月までの間、写真が撮りっぱなしになってしまった。
 写真のモデルになる金魚たちがある程度大きくなり、世話にあまり時間がかからなくなった7月中旬からは、その間にためまくった未整理の画像をせっせと処理し、昨日ようやくそれが終わった。
 とても晴れ晴れした気分だ。
 
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2008.8.17〜18(日〜月) テーマの絞り方 

 僕はちょうど今、直方市の谷尾美術館の 『 筑豊アートシーン 』 という企画に出品しているが、先日、その企画のトークショーがあり、話をする機会があった。
 その際に、
「なぜ、あなたは水辺にカメラを向けるのですか?」
 と尋ねられたのだが、一言で言えば、
「お金を稼ぐため。」
 別に、水辺が儲かるわけではないのだが、仕事として写真を撮るのなら、武田と言えば○○を撮っている人、とみなが思い浮かべるイメージが必要であり、そのイメージ作りのために、僕は水辺というテーマを設定した。

 僕よりも、20歳ほど年上の人たちは、「昆虫」だとか、「野鳥」だとか、「魚」などという風に、生き物の種類にテーマを絞った。
 そして僕は、その世代の人たちの仕事を見て写真を覚えたので、そんな切り口には大変に影響を受けたし、写真はそう撮らなければならない、と思い込んでいた。
 だがその後、僕よりも10歳ほど年上で、沖縄在住の湊和雄さんが、琉球列島などという風に、地域にテーマを絞った上で写真を撮り、成功する姿を見せてくださったので、僕はそれに影響を受けた。
 ならば、自分たちの世代にはどんな切り口があるのだろう?と考えるようになった。
 その結果、僕は水辺という「環境」にテーマを絞ってみることにした。

 水辺という切り口で写真を撮ってみると、やがて、水が大抵の自然現象にかかわっていることが分かってきた。
 今日の画像の洞窟も、大昔に水が岩を溶かした結果であり、つまりここは、水辺の化石だ。

 洞窟の入り口付近。

 そこから先は、懐中電灯の明かりの世界。

 この洞窟は、水が下へ下へと岩場を溶かした結果階層構造になっており、今回僕がカメラを向けた洞窟は、確か全部で5階建になっていると聞いたことがある。
 懐中電灯の光を頼りに、穴の中を奥へと進むと、岩が陥没したような箇所があり、下の階には川が流れていた。
 そこは、ちょうど今、水が岩を溶かしている真っ最中である。
 
 先日、昆虫写真家の森上信夫さんやトンボ写真家に西本信也さんと3人で、地鶏を食べた。その際に、森上さんや西本さんから、
「武田さんって、洞窟とか水中とか、危険な場所好きだよね。」
 と指摘されたのだが、その通りかもしれない。
 僕は、危険とか冒険という側面には興味がないので、あまりそれを書きたくはないのだが、洞窟は非常に危ないので、照明付きの観光洞窟でもない限り、絶対に一人では入ってはならない。入口からたった1〜2分奥へと入ったところでも、そこでアクシデントに見舞われ、すべての照明器具を失えば、多分、その人は外へと出ることはできないだろう。
 今回僕は、洞窟に詳しい方に案内をしてもらった。

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2008.8.15〜16(金〜土) 選別 

 今僕が育てている金魚は、たぶん全部で1万匹くらいの数になるので、たくさんの容器に分けて飼育している。
 そして、それらの容器の中には病気が発生したものもあり、その容器では、毎日毎日、20〜30匹くらいの魚が死んでいった。
 病気の場合、それが体力のない稚魚なら、全滅を覚悟しておいた方がいい。マニアの方々なら、そんな場合は、その容器の中の魚を見限って捨ててしまうことが多いようだ。
 取っておくと、ふとした拍子に病気が別の容器に入り込む危険性があるし、そもそも、いい金魚はたくさんの魚の中の数匹なので、いい魚を得るためにはたくさん飼わなければならず、少ない数の魚を育てることにはあまり意味がないし、そんな容器を置いておくくらいなら、そのスペースで別の魚を飼いたいのである。
 
 ただ、僕はマニアではないので、病気が発生したその容器を、少し離れたところに置いておいた。
 世話は少なめの餌を与えるだけで、水替えは一切なし。
 すると、やがて8割方の魚が死んだところで、何とか病気が治まった。
 その後も、下手に水替えをして、その際に使用した器具から他の入れ物に病気を持ち込むことが怖いので、一切水替えはなしで、ただ餌を与えるだけ。
 すると、なんとその容器の中に、他の入れ物では見えらない、いい形の金魚が何匹が育ちつつある。
 また、以前、酸欠で100匹くらいの金魚を死なせてしまった、と書いたことがあるが、その後、その容器の中で生き残った魚はよく成長し、やはり、むしろ他の容器の魚よりもいい形の魚になりつつある。
 病気やアクシデントでたくさんの魚が死に、密度が低くなったのが良かったのだろうか?
 逆に、順調に育ち、死亡するものが少なかった容器では、おそらく密度が高すぎるからだろう。奇形っぽい形の魚が多い。
 金魚の飼育って面白いなぁ。

 さて、金魚の飼育の際には密度が肝心ということを痛感させられた。また、いよいよ金魚を飼育するスペースが足りなくなってきたこともあり、稚魚たちの選別を試みることにした。
 選別とは、金魚に一匹一匹目を通し、いい金魚を残し、そうではないものを捨ててしまうこと。
 僕の場合は、必ずしもいい魚を残すのではなくて、本の中で紹介するために、あえて悪い魚も残すことにした。
 朝から夕方までひたすらに作業をして、みかん箱ほどの大きさの発砲スチロールの容器5つ分(全体の半分)の稚魚たちを選別した。
 捨ててしまう稚魚たちは、ペットショップへ持っていき、肉食魚の餌にしてもらうことにした。
 
 

2008.8.13〜14(水〜木) 写真にする、とは 

 中学生を連れたキャンプの帰り道に、ちょっと仕事をしようと思い、車を広場に止めて入道雲の写真を撮ったら、
「それが欲しいから、写真にしてほしい。」
 とその中学生から求められた。
 写真にする、とはカメラが記録したデータをプリントすること。
 デジタルカメラで撮影したデータと、紙に刷られたものとを区別した上で、紙に刷られたものだけを「写真」というのは、なかなか面白いと思う。

 僕は、どちらかというと言葉の定義にはこだわる方で、たとえば、自然とは何か?などと日頃から考える時間が長い方だと思うのだが、僕の場合は、『写真』や『画像』などいう言葉を、この日記の中では、あまり区別していない。
 それらの違いについて、考えない訳ではない。
 また、人様の考え方については、興味を持っているつもり。だいたい、知的な人ほど、写真と画像とを明確に区別しているように感じる。
 が、僕の場合は、最終目的は本という形なので、データであろうが、フィルムであろうが、プリントされたものであろうが、それらはすべて、その本のための材料に過ぎず、同じようなもの。
 だから、そんな自分のこだわりを表現するために、あえて区別をせずに、言葉を適当に使うことにしている。
 
 僕の場合、写真文化という部分には、ほとんど興味がない。
 僕にとって写真は、1つは自分の思いを伝えるための手段であり、あとの1つは生活の手段に過ぎず、写真そのものは、全く目的ではないのである。

 僕にとって、写真は目的ではないから、僕は、写真以外のことをする時間が長い方だろうと思う。
 時にはパソコンばかりやっていることもあるし、時には工作ばかりやっていることもあるが、それはそれでいい。
 今は、ひたすらに金魚の本作りのための、金魚の飼育。金魚が大きくなり、容器が相対的に狭くなるから、容器を増やす作業に忙しい。
 最初は地面に容器を置いていたのだが、スペースが足りなくなり、それを2階建にする。

 それでも、まだ場所が足りなくなり、今度は容器が駐車場を狭めてしまい、駐車が難しくなってきたので、駐車の際の目安にするために、今日は駐車場にラインを引いた。
 テープでペンキが付いては困る部分を覆い、その上から塗料を塗る作業だ。
 
 

2008.8.10〜12(日〜火) テント 

 ちょっと前のことだが、
「テントを処分しようかと思うけど、使うことがあるね?」
 と父が言うので、
「うん、取っておいてよ。」
 と答えておいた。
 テントは、僕が小学生の頃に父が購入したもの。ダンロップの製品で、ゴアテックス製。
 ゴアテックスというのは、水は通さないが空気は通すくらいの小さな穴があいた素材で、雨具などにも使われており、内部が蒸れないというすばらしい特徴を持つ。今でこそ、比較的買いやすい値段になったが、当時は、雨具くらいの大きさのものでも目玉が飛び出るくらいに高価だった。
 それから月日が流れ、うちのテントは購入して30年くらいたっていると思うが、今でも全く問題なく使用できる。当時のダンロップの製品は、本当に作りがいい。
 組み立ても実に簡単。名作だと思う。

 うちには他にもいくつかテントがあったし、父は、時には僕の友達を10人くらい連れて、山へキャンプに出かけた。
 その最中に、仲良しだった島津君が、山道をふざけながら歩いているのを見た父は、
「島津!ふざけるな。」
 と、他人の子供でも構わず、凄いゲンコツを見舞った。
 僕の友達には悪が多かったので、それでも誰一人委縮することなく、
「へへえ〜島津が怒られた〜。」
 とみんなで島津君をちゃかした。

 それはともあれ、先日僕は、そのダンロップのテントを車に積み、中学生を連れて、キャンプへ出かけた。初めてテントで寝る中学生は、大変に興奮し、楽しかったようだ。
 僕の父は、他人の子供でも平気でゲンコツをくらわすくらいだし、癇癪持ちで、楽しく過ごすことが大変に下手な人なので、何かうまくいかないことがあるとイライラ、イライラして我を失いがちだし、僕は、父と一緒にどこかに出かけることが楽しくなかった。
 さらに、オートキャンプなどという軟弱なものを父は好まなかったし、キャンプとは、大抵重たい荷物を持つ山登りだったから、体力的にもきついことが多かった。
 だから僕の場合、むしろ父にどこかに連れて行かれるのがイヤでイヤで、本当なら一人で大好きな釣りに打ち込みたかった。
 が、
「いや、僕はいかん。」
 と断ると、大量に英語の宿題を出すなどの嫌がらせをされるので、仕方なくついていった。
 ただ先日、その中学生がテント暮らしを大喜びする様を見て、
「へぇ〜、キャンプって、そんなに感激するようなことなんだ。」
 と驚かされたし、きっと僕は、飽きるくらい、もう行きたくないというくらい、たくさん、いろいろと連れて行ってもらっていたのだろうなぁと今更ながら感じた。

 

2008.8.8〜9(金〜土) 小旅行 

 今晩から明日まで、少旅行に出かける。
 カメラはもちろん持っていくのだが、今回はまるで趣味の写真のように、気楽にシャターを押してこようと思う。
 たまにそんな風にシャターを押す日があってもいい、いや、そんな日があった方がいい、と僕はよく思うのだが、いざ現場に着くと、「写真は、どうせ撮るなら売れてほしい!」という気持ちが湧いてきて、結局、市場を意識した写真の撮り方になってしまう。
 だが明日は日曜日だし、しかも夏休み中なので、さすがに仕事的な気合いを入れて写真を撮るような状況や心持にはなれないだろうから、いい気分転換ができるに違いない。

 

2008.8.6〜7(水〜木) お客さん 

 自分が日ごろ気になっている写真家について、その人がどんな人なのかを詳しく教えてもらう。僕は、雑誌のインタビューを受けたり、編集者と打ち合わせをする際には、そんなことを楽しみにしている。
 出版社の人がうちの事務所へ仕事に来たら、
「今まで誰と仕事をしたことがありますか?」
 と切り出してみる。
 すると、ある時、
「先月は○○さんのところに行きましたよ。」
 という返事が返ってきたのだが、その○○さんは、僕が同世代の写真家の中で一番気になっている人だった。

「で、どんな人でした?」
「学生時代は、なかなかのエリートだったようです。バイオテクノロジーなんかをやっていたみたい。彼の作風とバイオテクノロジーって結びつきませんよね!その時に聞いた話によると、ちょっと勉強したら、すぐにいい点が取れてしまうものだから、逆に怖くなって、ある時からなるべく不器用に生きようと決めたようで、それがあの作風に表れているのですかね?」
「簡単にいい点が取れてしまうから怖いか・・・・、かっこいいいなぁ。僕の場合は、あまりに点が悪過ぎて怖いでしたからね。」
 本当はできる人間が、それをあえて封印して生きるなんて、かっこいいなぁ。

 さて、僕は自分が劣等生だったからかもしれないが、どちらか言うと、優等生や真面目な人があまり好きになれない傾向にある。
 もしかしたら、それがコンプレックスというやつなのかもしれないが、真面目な優等生はだいたい当り前のことしか口にしないし、あえて話をしなくても、ほぼ何を言うのかが想像できてしまうし、僕にとっては会話がはずまないのである。
 また逆に、挫折を味わっている人や一癖ある人を、僕は好きになる傾向が強い。この人との話は楽しいなぁ、と思っていたら、例えば、その人が学校を途中でやめていたなどというケースが過去に何度かあった。
 昨日は、そんな劣等生系の人間が3人集まり、食事に出かけた。
 一人は名の知れた昆虫写真家。
 一人は名の知れたトンボマニア。
 そして、最後の一人が僕。

 

2008.8.2〜5(土〜火) 一泊 

「金魚の世話に、特に時間がかかる時期は終わろうとしている。一泊くらいになら、取材に出かけられるようになった。」
 と日記に書いた直後に、金魚の子供が大量死。原因は、酸欠による窒息死だった。
 それでもまだ早く気付いた方だったから良かったものの、もしも、その日に、
「やった〜、金魚の世話に手間がかからなくなったから、取材にでかけられる!」
 と事務所を飛び出していたなら、おそらく600匹くらいの魚を死なせていただろう。その取材から帰宅し、容器の中で起きたことを目の当たりにしたなら、その日がどんなにいい一日だったとしても、その幸せは全部吹っ飛んでしまったに違いない。

 生物学の学生時代は、生き物を死なせることは、僕にとってそんなに重大なことではなかったように思う。
 何といっても実験の際には、大量に生き物を殺す。
 また僕は、生き物との接し方に関しては一通りのことは経験してきたし、昆虫採集に夢中になり、虫をたくさん殺したこともあるし、夢中になり過ぎたあまり、採ってはいけない場所で採集をしてしまったことさえある。

 だが、自然写真を仕事にするようになってからは、少しずつ、生き物の死が堪えるようになってきた。
 例えば、時々、
「君の本が、人のブログの中で紹介されているよ。」
 などと教えてもらうことがあるのだが、それらはだいたい小さな子供を持つお母さんが、子供に与えている児童書を紹介しもの。
 そして、それらのブログの著者であるお母さんには、元々生き物が特別に好きというわけではない人が多いみたい。
 だが、自分の大切な子どもと、その子供が大好きな小さな生き物いて、そんな生き物だから大切にしたいと思うお母さんの気持ちがある。
 たった一匹のダンゴムシやアメリカザリガニやアマガエルが、そこでは特別な存在であり、
「ああ、こんなに丁寧な目で生き物を見つめている方がおられるんだ!」
 と僕などは思い知らされ、心を打たれる。
 すると、僕にとっても一匹の生き物の命が重たく感じられるようになってくる。

 僕は昔ある方から、
「武田さん!どんなに仕事でいい結果を残しても、結婚して子供を持たない限り、一人前じゃない、と私は思いますよ。もちろん、私の考えだけどね。」
 と言われたことがある。
 僕はそれを、言い過ぎのような気がするのだが、ただ、小さな子供の目を通して生き物を見ているお母さんのブログを読み、子供を持つことによって変化するお母さんのありさまを知ると、その指摘は、やっぱり当を得ているのかなと思えてくる。
 それはともあれ、そんな機会があるたびに、やっぱり命って凄いんだなぁと僕はより一層強く思う。
 
 また、撮影に使用したカタツムリやアメリカザリガニや金魚を、欲しいという人に差し上げることがあるが、その方々が本当に丁寧にそれらの生き物を育てる有様を目の当たりにすると、やはり同様に心を打たれ、動かされるのである。
 
 さて、金魚の飼育をさらに万全にし、やっとの思いで一泊の取材に出かけた。
 今回は、買って間もないニコンのD700のテストが主な目的だ。

 トンボの写真を撮り、

 普段はあまりカメラを向けない植物の写真を撮った。

 それから、撮り慣れたアマガエル。

 

2008.7.31〜8.1(木〜金) 痛恨 

「金魚の世話に、特に時間がかかる時期は終わろうとしている。」
 と先日書いたばかりだが、その翌日に、稚魚が大量死した。たぶん100匹くらい。ある容器の中の、三分の一くらいが死んでしまった。
 針子と呼ばれる針のようなサイズの小さな稚魚なら、そういうこともあるだろうと常に覚悟はしているが、2〜3センチにまで成長した魚だから、衝撃は大きかった。

 大急ぎで水替えをして、様子を見た。もしも、何か病気が発生したのなら、さらに翌日も大量死は続くはずで、容器の中の魚は全滅する可能性が高い。
 だが、今日は一匹も死んでいなかったことから、死亡の原因が分かった。
 どうも、酸欠になってしまったようだ。
 以前にも一度書いたことがあるが、金魚は微生物が湧いた状態の緑色の水で飼うのがいいが、微生物が濃くなり過ぎると、酸欠になってしまうことがある。
 もちろん、容器にはエアーを供給してあるが、それが追いつかなくなってしまったようだ。
 また、金魚たちが大きくなり、相対的に容器が狭くなっていた、つまり詰め込み過ぎも、酸欠の原因の1つだろう。
 昨日は一日がかりで容器をさらに増やし、金魚の密度を低くする作業に明け暮れた。

 沈みがちな気持ちで、夜になり、金魚のブリーダーのブログを見ていたら、その方のところでも僕と全く同じ現象が起きていて、
「容器1つ分の魚を全滅させてしまった。」
 という記述があった。
 西日本の方なので、ここのところの天気や気象条件などは、北九州とそんなに違わないはず。
 そうか・・・、そういうことが起きやすい条件になっていたんだ!偶然じゃないんだ・・・

 僕の場合は、本を作るために金魚を飼っているわけだから、金魚を飼うといってもブリーダーとはまた立場は違うが、それでも本格的にやっていることには違いはない。
 そして、本格的に金魚を飼うとなると、大量死はいずれは体験しなければならなかったことだろうと思う。
 がしかし、やはりショックは大きかった。

 ただ時々、生き物を飼うことについて、
「生き物は嫌いじゃないし、飼ってみたいけど、死ぬと悲しいから飼わない。」
 というような方がおられるが、僕はそれは違うと思うし、とてもズルイ言い分だと思う。
 なぜなら、生き物が死ぬことは最初から誰だって分かっていることだし、それでも抑えられない、という状態を、生き物を飼いたいとか、生き物が好きと言い表すべきだと思うから。
 好きとは、その代償に何か負担が付きまとう状態を指すような気がする。

(お知らせ)
 4人の自然写真家(武田晋一・伊藤健次・田中達也・吉野雄輔)によるサンケイ・エクスプレスでの連載ですが、次回は8月2日(土)が僕の順番です。新聞の一面いっぱいに、写真と文章が掲載されます。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。
 4月1日から、首都圏でもサンケイ・エクスプレスの駅売りが始まりました。一部100円です。銀座線を除く東京メトロ、都営地下鉄の全売店と、JRの主な売店、東武、西部の売店のほか、東急の一部売店で購入可能です。

 
   
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