撮影日記 2008年4月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2008.4.30(水) 自作水槽

 メダカのある行動の撮影を試みているのだが、そのシーンを、カメラの前で上手く再現させることができない。仕方がないので、それを後回しにし、メダカの卵の成長の様子を先に撮影することにした。
 今日は機材のテストと、メダカの採卵の準備。
 撮影は、メダカが卵を産み落とした直後からはじまるので、まずは卵を産ませるメダカを選び出し、隔離し、僕の目の前で、僕が思うタイミングで卵を産んでくれるように調整する。
 今日の2枚の画像のうち、上はゴミが目立たないような照明で、下はゴミが目立つ照明。下の画像は、ゴミが目立つ代わりに、卵もよく写っている。
 この手の撮影は、ゴミの少なさを取るか、被写体のシャープさを取るか、二者択一の選択を強いられる。



 前回、メダカの卵を撮影した際は、アクリル製の水槽を使って写真を撮った。
 だが今日は、ガラスとアクリルとを組み合わせて作った、自作水槽を使ってみた。
 ゴミの目立ち方や画像のシャープさは、水槽の素材によっても変わってくる。
 一般に、質の低いガラスを使うくらいなら、アクリルの方がいいが、今回の場合は、非常に高品位なガラスを大量に手に入れたので、水槽の一部に、そのガラスを導入してみた。

 

2008.4.29(火) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

2008.4.28(月) 実に空しい

 つい先日、新しいノートパソコンが届いた。さっそく、各種画像処理用のソフトをインストールして動かしてみたのだが、CPUは2Gのものが、メモリーは4Gも積んであるので、ノートとは言え、動きはなかなか快適でいい。
 ところが、次にインターネットに接続するための通信用のカードを差し込もうとしたら、カードがはまらないことがわかった。
 なんと、今回のパソコンはカードの規格が新しくなっており、従来のPCカードは使用できないのだという。
 ならば、USB接続の外付けのPCカードアダプターを使おうと調べてみたら、現在僕が使っているAUの通信用のカードは、それでは動かないことがわかった。
 つまり、僕が買った新しいパソコンでは、そのカードは絶対に使用できないことが判明した。
 仕方がないので通信用のカードを解約するために、AUのお店に向かった。

 さて、どうやって取材中にインターネットに接続しようか?
 まずは、今使用している古いドコモの携帯電話を高速通信ができるFOMAに変え、次に、そのFOMAを専用コードでパソコンに接続してみた。
 ところが、どんなにもがいてもパソコンが携帯電話を認識してくれない。昨晩は夜遅くまで散々やってみたが、結局解決できず。
 これはお店の人に設定してもらった方が早い!、と今朝は、パソコンを持ってドコモのお店へ行ってみた。
 すると、携帯電話とパソコンを接続するコードが故障していることがわかった。昨晩のあの苦労はいったい何だったのだろう・・・。実に空しい。

 事務所のパソコンには、バックアップソフトをインストールすることにした。
 今回購入したのは、オートセーブ2という製品で、指定したフォルダー内で何か変更がおきると、自動的にバックアップを作ってくれるようになっている。
 ところが、そのソフトが、携帯電話に続いて、またしてもどうしてもインストールできない。思いつく限りのことを試したが、どうしてもだめ。
 仕方がないので、こちらも朝になってからサポートに電話をしてみたら、VISTAの場合はCDからのインスールではなくて、最新のプログラムをホームページからダウンロードしてほしいとのこと。
 僕が購入したパッケージの中のCDは、VISTAには対応していなかったようだ。
 だが、確か箱には「VISTA対応」と書いてあったような、と箱をよく見てみたら、VISTA対応版をダウンロードできます、小さな文字で書かれていた。
 もう少しちゃんと説明して欲しい。
 昨日のあの苦労は・・・。これまた実に空しい。

 

2008.4.26〜27(土〜日) 新鮮な気持ち

 自然写真家には免許が必要なわけではないし、誰でも名乗りを上げれば、プロの自然写真家になれる。だがその中で、プロを名乗って恥ずかしくない程度に写真の売り上げがある人は、意外に少ない、と僕は感じる。
 僕は、自分の中のプロの自然写真家の基準として、年間に少なくとも100枚写真が売れる人がプロだ、と考えることにしている。
 自然写真でお金を稼げるようになるためには、それなりの時間がかかる。一説には10年かかるとか15年かかるなどと言われている。
 つまり、どんなに才能があっても1年や2年でそれを成し遂げられるわけではないし、結局長く続いた人だけが、写真を撮って暮らしていけるのだと思う。

 では続けるためには、どうしたらいいのだろう?
 逆説的かもしれないが、1つのことを続けるためには、自分がどんどん変わっていかなければならない。
 例えば、全く同じシーンを同じように10日続けて撮影したら、一体どうなるだろうか?もちろん、それは人によって違うのだろうが、多くの人は、10日目には随分情熱を失っていることだろう。
 僕は特に飽きっぽい方だから、同じシーンを2日続けて撮影するくらいまでは頑張れるが、3日以上続けて、となると非常に辛い。
 情熱やワクワクする思うが湧いてこなくなってしまう。
 以前は、同じシーンを一ヶ月続けて撮影したこともあった。
 だが、それは技術に問題があり過ぎて失敗ばかりを繰り返していたから、それが可能だったのだろう。
 自分が変われば、やり方も変えなければならないし、常に自分が新鮮な気持ちになるように、自分で自分をコントロールしなければならない。

 

2008.4.25(金) 準備

 僕は、野外だけでなくスタジオでも生き物の写真を撮るが、スタジオの場合、自分の意思で多少生き物をコントロールできるものだから、時に強引になり過ぎてしまうことがある。
 例えば、メダカを飼育している水槽にヒーターを設置すれば、真冬にまるで春のような写真が撮れる。だが、それで完全に春が再現できるか、と言えば、決してそうではない。
 冬があり、その後に春が来た時のメダカと、ヒーターによって一年中春の状態に調節されているメダカとでは、多少ではあるが、やはり違いがある。
 そして、自然条件下に近いメダカの方が、よりいい写真が撮れるし、撮影の難易度だって、より容易くなる。
 僕の結論は、なるべく季節には逆らわない、というものである。

 さて、今日はそのメダカを撮影するための準備だ。
 今回撮影したいシーンは、以前にも何度か撮影したことがあるが、なかなか厄介なシーンで、以前は時間をかけ、無駄を承知で数を打つことでかろうじて写真を撮った。だが今回は、スマートに撮ってみたい。
 そのためには、いい状態のメダカといい工夫が必要なのである。

 

2008.4.23(水) レンズを通して

 かつて、福岡県の英彦山(ひこさん)に姫沙羅という喫茶店があった。そして、そこにはたくさんの写真や自然の愛好家がやってきたが、今思い出してみると、その面々は大変に個性に満ち溢れていた。
 常連客の一人であるHさんは、まだデジタルカメラという存在がほとんど知られていなかった時代に、すでにデジタルを導入し、キヤノンとコダックとが共同開発したデジカメ・D6000やD2000を持っておられた。
 D6000は、当時300万円以上したはずだ。Fさんは新しいものや洒落た道具には目が無く、カメラ、レンズ、車、パソコン・・・・、欲しいものがあれば、お金に糸目をつけず、何でも手に入れた。
 Hさんが花の撮影に使用していたライカのマクロレンズは、実売でも40万円以上するものだった。
「武田君、ライカの100ミリマクロレンズが使いたい時はいつでも言ってよ。しばらく持っていって使ってみてもいいよ。」
 などと、僕は自分の財力では触れられないものに触る機会を与えてもらった。
 僕はそのHさんから画像処理の基礎を教わったのだが、デジタルに関して正しい知識を持つ人がほどんどいなかったその時代に、実際にデジタルを使いこなしている人に教わることができたのは、幸運だったと思う。

 また、常連客のFさんは二科のアマチュア写真グループに属し、写真は光の芸術だとか、写真の構図はどうあるべきか、など難しい写真の話をよく聞かせてくれた。
 Fさんはコンタックス167MTというカメラを愛用し、
「80〜200ミリのズームレンズが俺の標準レンズだ。」
 というのが口癖だった。そして、Fさんはいつもこう言った。
「このレンズで風景の一部を切り取ると、目で見ただけでは何の変哲もない景色が、絵になるよ。」
 と。
 僕の場合は、自分の肉眼でみて、
「ああ、いいな!」
 と感じる被写体を、素直にそのまま見る人に伝えられるような写真が撮りたい。
 だから、肉眼でみてつまらないシーンが、レンズの力をかりると作品に仕上がる、という世界にはあまり興味がない。僕が写真を通して伝えたいのは、写真の表現の面白さよりも、ありのままの自然の魅力なのである。
 だがそんな僕だって、Fさんの思いが理解できる瞬間もある。
 例えば、小さな被写体を拡大した時がそうだ。今日は、米粒よりも小さなナメクジの生まれたばかりの子供が、レンズの力で大変に愛らしかった。
 レンズを通して物を見るってって面白い!、と感じる瞬間である。

 

2008.4.22(火) 森の水溜り

 通い慣れた場所なのに、それでも毎回違う写真が撮れることに、いつも驚かされる。規模が大きな場所ならそれも分るが、ここは公園の片隅にある小さな水溜りに過ぎない。
 出発前に頭の中で、今日はそこで何を撮影しようか?と考えてみれば、知り尽くした場所だから、ほとんど新しいアイディアは思い浮かばないし、その自分の感覚を信じるのなら、
「じゃあ、今日は別の場所に行くか!」
 といった気持ちにさえなるのに、実際にそこに行ってみれば、毎回必ず、何か新しいシーンが見つかるのである。
 
 今日は水に写った景色が良かった。
 風景の写真を撮る人の中には、水面の反射を消す働きがある偏光フィルターを常用している人が多いように思うが、水面の表情を消し去ってしまうなんて、実に勿体ないことだと思う。

 小さなサンショウウオの子供を見つけた。

 水の中も、毎回違った写真が撮れるから、僕はカメラを水に沈めるたびに胸がワクワクする。

 葉っぱの上に乗っかったサンショウウオの子供に、そっと水中カメラを近づける。
 こうした撮影に、オリンパスのE-510あたりの、コンパクトで手ブレ補正がきくデジタルカメラを使ってみたいのだが、適当な広角系の短焦点レンズがないので、いつも購入を見送ることになる。

 

2008.4.18〜21(金〜月) 勝負

 生き物の写真を撮って暮らすことができるのは、とても幸せなことだと思う。だが、当然のことながら、その見返りに捨てなければならないものもあり、その1つが、安定した安心できる暮らしである。
 だから、フリーの自然写真家を志す人が、もしも安定という言葉をやたらに口にするなら、それは同時に、「私は写真家にはなりません。」と宣言をするようなもので、大変に矛盾することだ。
 ただ、そうは思っていても、やはりふと気がつけば守りに入ってしまうことがあって、今の僕には、ややその傾向がある、と思う。
 だから、来年は生活をがらりと変えてみようと思う。そして、今年は、そのための準備をしなければならない。
 リスクは、やたらに犯せばいいわけではない。まずはできる範囲で準備をして、あとは、どうにでもなれ!と開き直ることが肝心。

 さて、リスクを犯して勝負をかける時に恐ろしいのは、それがうまく軌道に乗らなかった際に、資金繰りが苦しくなることだ。
 だいたい世の中は金持ちほど有利になるようにできているので、資金繰りが苦しくなると、益々損をしてしまう。
 そこで、勝負に出る前に、今年はまず物を揃えておこうと考え、特にパソコン関係の機材の入れ替えを進めている。今年になってから、新しいパソコンを2台、モニターを3台買い、その他諸々の道具を追加購入した。
 パソコンは、OSがXPからVISTAになったが、幾つかのソフトがVISTAでは動かなかったので、アップグレードが必要になり、さらにお金がかかったし、面倒だった。
 が、余裕がある間に、それを終えておいて良かったと思う。
 よほどの天才でもない限り、いい仕事がしたいと思えば、1つのことを続けるしかない。だが、1つのことを続けるためには、自分が変わらなければならない。

 

2008.4.16〜17(水〜木) 田んぼ

 田んぼは非常に多くの人がカメラを向けている被写体だが、僕は、今森光彦さんの作品を除いて、なかなか心を打たれる作品に出会うことができない。
 そこで、ならば自分で田んぼの写真を撮ってみるか、と試してみると、これが実に難しい。過去に何度か、田んぼをテーマとして撮影しようと試みたのだが、いずれも手詰まりになり、中断を余儀なくされた。
 田んぼは全国に幾らでもあるが、ありふれているものの撮影は難しいように思う。

 そのありふれている田んぼの中から、どこの田んぼを選んでカメラを向けようか、と田んぼをたくさん見て回れば回るほど、今森さんが実にいい場所で写真を撮っていることを痛感させられる。
 今森さんは、ある場所で、
「有名な場所に押しかけるのではなく、自分の身の回りに、自分で撮影場所を探すことがマナーだ。」
 と言った趣旨の発言をしておられるが、僕も自分でいい場所を探し出し、そこにカメラを向けたい。
 市場で見かける多くの田んぼの写真は、有名なブランド化された場所で撮影されたものだ。僕は、その手の撮影には全く興味が持てないのである。
 僕の場合は、水辺というテーマがあるのだから、その自分なりの切り口で田んぼを切ってみたい。 

 

2008.4.15(火) きつくてもいいじゃないか!

 ある山上の湿原に、今年初めて登った。
 その場所については過去に何度も紹介したことがあるが、麓から荷物なしで一時間弱、撮影機材をたくさん持つと、一時間半くらいの道のりを歩かなければならない。しかも、その山道は風通しが悪く、ジトッと蒸し暑くて、さらに不快昆虫の宝庫だから、非常にきつい。
 だが、その結果あまり人がやってこないので、こんな時代に、まさに手付かずの自然を満喫できる。僕は、その場所を満喫すればするほど、きついって悪いことじゃないなぁと感じるようになった。
   ところが、今日は必死に山登りをしてその場所にたどり着いてみると、なんと!車が通れる道ができていた。非常に残念なことだと思う。
 そんなに、車を通さなければならないのだろうか?あとは、その場所が人に荒らされないことを望むのみである。





 さて、今日は、湿原の周辺で植物写真の練習だ。
 僕は、人間的には非常に偏ったタイプだと思うが、写真に関しては、バランスの取れた写真が好きだ。
 植物にカメラを向けるのなら、花の形が分かるだけでなく、周囲の環境も何となく分かり、しかも、花ってきれいだな!という自分の感動も伝えたい。

 

2008.4.13〜14(日〜月) 植物の写真

 僕が生物学の学生時代に取り扱っていた材料は、昆虫だった。しかも写真家を志す際に門をたたいたのは、昆虫写真家の海野先生だった。
 にも関わらず、僕が昆虫写真家への道を選ばなかったのは、植物が苦手だったから。昆虫は植物と密接な関係を持つため、昆虫を極めようと思うのなら、植物にもそこそこ興味が持てなければならない。
 残念ながら僕は植物がほとんど分からないので、自分で植物の写真を撮ってみても、また他人の写真を見ても、それがいい写真なのか、悪い写真なのかがあまり分からないのである。
 もちろん技術的なことならわかるが、写真の良し悪しは技術で決まるわけではないし、むしろ、技術以外の理屈では解釈できない部分に良し悪しがあることが多いように思う。
 そしてその理屈以外の何かは、被写体に対する愛情がなければ、なかなか理解できないように思う。例えば、僕が鉄道写真を見たところで、その良し悪しはほとんど分からない。

 さて、今日は森の水溜りへ、オタマジャクシの撮影に出かけたのだが、水の中よりも植物にカメラを向けてみた。少し、植物の写真を練習してみようか、と思う。

 今撮影中のテーマが一段落ついたら、いずれ田んぼにカメラを向けてみたいと思うのだが、田んぼをテーマにする場合、植物は避けて通れないだろうし、そのための練習だ。

 

2008.4.12(土) 新しい本

「アマガエルの親子」 写真・武田晋一 文・西沢杏子 (旺文社)

 何事にせよ、粘り強く、時間をかけて一生懸命に取り組むと、自分が思っていた以上にいい結果が出ることがある。そして、好き嫌いとか、得意不得意などという分ったようなことを、安易に口にすべきではないと思う。
 だがその一方で、やればやるほど、自分の能力の限界を感じることもある。例えば僕の場合、文系的なセンスに関しては、イマイチだなぁと思う。
 そんな場合、いったいどうしたらいいのだろうか?
 僕は、まず第一に、それでもそんなことお構いなしに、練習を続ける。
 それから、第二に、自分に欠けているセンスを持っている人に助けてもらう。
 
 さて、新しい本が発売された。
 文章は、作家の西沢杏子さん。西沢さんは賞を受賞するなど、大変に高い評価を得ておられる方だ。
 そして、この本の展開は、僕には絶対に思い浮かばないものだと思う。僕は、言葉でしか伝えられないものを文章で伝える作家にはなれないなぁと思う。
 出来上ってきた本を眺めてみて、改めて、自分がなぜ写真を撮っているのかを気付かされ、思い知らされ、そして自分がこれからすべきことは何なのかを、教えられるような気がした。

 

2008.4.11(金) 比較


(撮影機材の話)
 次に購入するデジタルカメラをニコンにすべきか、あるいはキヤノンにすべきかを決めるために、今日は現在所有しているデジタルカメラの描写を比べてみた。
 一台はキヤノンのイオス5D、あとの一台はニコンのD3である。

 画質を比較する際に大切なことは、自分の使い方をよく考えること。
 例えば、僕はコンパクトカメラ以外はJPGを全く使わないので、雑誌やネット上でたまに見かけるJPG画質の比較は、僕にとっては全く意味がない。
 また、2台のカメラの絞りやシャッター速度を同じにした上での画質の比較も、僕には意味がない。
 なぜなら、カメラのメーカーによって、同じ絞り、同じシャッター速度で撮影しても、画面の明るさは随分異なるのだから、むしろ、2つのカメラで撮影した画面の明るさが同じになるように写さなければならない。
 さらに、画質の比較の際には特殊な機能をオフにした上での比較が多いように思うが、これも僕には全く意味がない。自分が本番で使用する機能はすべてオンにして比べなければならない。
 また、シャープをかけずに撮影しておいて、その画像を比較するのも、同様に僕にとっては意味がない。仕事で写真を使う際にはシャープをかけるのだから、どちらにもほどよくシャープをかけた上で、画像を比較しなければならない。
 僕はカメラの評論家ではないので、僕が比べるのは、最終的な写真の仕上がりなのである。

 が、そうすると、色味以外は、5DとD3とに明確な違いを見出すことができない。今や、デジタル一眼レフは、画質に関してはどれでもいい。 
 いや、厳密に言えば、拡大画像には違いがあるが、その違いよりも印刷の際のばらつきの方が遥かに大きいので、そんな小さな違いを論じるのは意味がない。
 結局、次のデジタルカメラは、レンズで選ぶことになりそうだ。

 4人の自然写真家(武田晋一・伊藤健次・田中達也・吉野雄輔)によるサンケイ・エクスプレスでの連載ですが、次回は4月12日(土)が僕の順番です。新聞の一面いっぱいに、写真と文章が掲載されます。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。
 4月1日から、首都圏でもサンケイ・エクスプレスの駅売りが始まりました。一部100円です。銀座線を除く東京メトロ、都営地下鉄の全売店と、JRの主な売店、東武、西部の売店のほか、東急の一部売店で購入可能です。

 

2008.4.10(木) お知らせ

 サンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は4月12日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。

 4月1日から、首都圏でもサンケイ・エクスプレスの駅売りが始まりました。一部100円です。銀座線を除く東京メトロ、都営地下鉄の全売店と、JRの主な売店、東武、西部の売店のほか、東急の一部売店で購入可能です。

 

2008.4.8〜9(火〜水) オタマジャクシ

 水溜りの中に無数に見られるオタマジャクシ。だが、どれも落ち葉の間に隠れていいるので、写真を撮るのは難しい。
 時々葉っぱの上に乗っかっている目立ちたがり屋がいるから、僕は逃げられないようにオタマジャクシを注視しながら、丁寧に丁寧にそっとカメラを水に沈める。
 だが、僕がカメラを置いたその場所の落ち葉の下にだって別のオタマジャクシは隠れているし、その隠れ家の上にカメラを乗っけられたものだから、中から慌てて飛び出してきて、辺りはパニック状態になる。
 最後は、僕が狙いをつけていたオタマジャクシも、飛び出してきたオタマジャクシたちに驚いて、どこかに逃げ去る。
 昨日〜今日と二日間、水中のオタマジャクシの撮影に挑戦したのだが、なかなか気に入った写真を撮ることができない。
 
 さて、今日は大変に風が強かったのだが、風が強いと水が揺れ、水溜りの中が揺すられるので、透明度が悪くなる。
 上の画像は昨日撮影した写真だ。

 

2008.4.6〜7(日〜月) 研究

 メダカのヒレを撮影しようと試みたところ、僕のカメラの前に、いつも同じメダカがやってくることに気付いた。そのメダカは、ヒレの一部が裂けていて、まるで切れ込みがあるように見える。
 水槽の中での撮影と言えども、奥の方にいるものは撮影しづらいし、その他、水槽ならばでのいろいろな制限があり、いい写真を撮ろうと思うのならメダカの位置はココ、と10センチ四方くらいの位置が決まってくる。
 ところが、その一番いい場所に、ヒレが破れていて撮影には適さないメダカがやってくるのである。
 それはともあれ、何となく水槽の中を泳いでいるように思っていたメダカに、それぞれ居場所があることが分った。
 ふと、学生時代に参加した学会での話を思い出した。
 確か、高知大学のみなさんだったと思うが、群れで泳いでいるメダカをワッと脅かし、そのメダカが右に逃げるのか、それとも左に逃げるのかを調べておられた。
 すると、例えばオスが右、メスが左に逃げるなど、性別によって逃げる向きが異なり、その様子を撮影したビデオで見せてくださった。オスが右に逃げると書いたが、どちらが右に逃げるのだったかは、すっかり忘れてしまったので、正確ではない。
 たかがメダカ。でも、もしかしたら、それが解明されることによって、大変に大きなことが分るかもしれない。
 例えば、メダカのオスとメスとでは右脳と左脳の構造に違いがあり、それが逃げる方向の違いとして現れているのだとしたら・・・・。そのような違いは、人間の男女にも当てはまるかもしれない。

 生物学の世界では、メダカはメダカを調べるためだけに調べられるわけではないし、それは他の生き物の研究にも当てはまる。 
 例えば、渡り鳥の渡りを調べることによって、生き物たちがどうやって方角を知っているのかがわかるかもしれないし、もしもその際に地球の磁気が利用されているとするなら、生き物がどうやって磁気を感じとっているのかがさらに解明されるかもしれない。
 さらに、磁気が人間にどういう影響を与えているのかなどなど、鳥の研究から、いろいろなことが分ってくる可能性がある。
 もちろん、鳥を調べている人は、鳥そのものに興味を持っているのだが、そうした知識の蓄積は、とても大切なことだ。
 生物学や生き物の調査は、生き物を守るためになされている、と思い込んでいる人は多いように思うが、調査の目的はそれだけではないし、仮に生き物の調査が生き物を守ることに結びついていなかったとしても、調査は調査で大切なことだ。
 それが何の役に立つかは、知識が蓄積して初めて分ることである。

 

2008.4.4〜5(金〜土) 贈り物

 僕の両親は共に理科系出身なので、武田家では科学的ではないことは通用しにくかったし、僕も大学進学時には、迷うことなく自然科学を選んだ。僕の場合、それが生物学だった。
 さらに、子供の頃から、身近に文系的なセンスに優れた人がいなかったこともあり、文系的なものに触れる機会はほとんどなかったし、そんな僕が自然に振舞うと、それはいつの間にか、理科系的な物事の進め方になってしまう。

 理科系的な物事の進め方とは、何か作業をする際に、まずは法則性を見つけること。そしてあとは、別の作業の際に、その法則を当てはめていくこと。
 つまり公式を重視する。
 例えば、写真を撮影する場合、こういう被写体はこう撮ればよく写るというルールをまずは見つけ出し、似たタイプの被写体の撮影の際にそれを当てはめる。
 だから、
「偶然だけど、とにかくいい写真が撮れました!」
 というのを良しとせず、ちゃんと自分で分って写真を撮ろうとする。
 
 だが、自然写真の場合、あまりにそれに徹しすぎると、時に味気なくなる。
 例えば、車を作る際に最初に型を作成し、あとはその型に当てはめて次々と車を量産すれば、効率はいいし、精度が高い製品ができるだろうが、それはあくまでも大量生産品である。
 車は、大半の人にとって所詮道具なので、大量生産品でもいいかもしれないが、自然写真の場合は、それでは困る。
 だから僕は、意識して理科系的な物事の進め方をしないように、自分の仕事の中に偶然の要素や遊びの要素を取り込むように心掛けてきた。
 だが、今年は、ちょっとその禁を破り、効率を重視している。飼育室も写真事務所も、この先10年くらいを見越して、徹底して効率よく作業ができるように作り直した。
 その作業で、この春は随分忙しかったのだが、昨日でやっとすべての作業が終った。
 
 さて、忙しい作業から開放されたところで、1つやってみたかったことがある。
 それは、この冬に、あるフリーの編集者からもらった洒落た贈り物を、じっくりと眺めてみること。
 眺めることなんて、いつだってできるじゃないか!と感じる方もおられるだろう。が、物理的にはそれは可能でも、心の底から眺めることは、また違うのである。
 ああ、素敵な贈り物。

 

2008.4.3(木) カスミサンショウウオ 

 カスミサンショウウオの産卵は、是非撮影したいシーンの1つであり、今年はどうしたらそれが撮影できるのかを検討中だ。
 産卵シーンをただ写真に収めるだけなら水槽撮影という手もあるし、また野外で撮影する場合は、写真が撮りやすい場所を選べばいい。
 だが今回は、場所がテーマの撮影なので、僕はどうしてもこの場所で写真を撮らなければならない。
 そして、ここで写真を撮ろうとすると何が難しいかと言えば、僕が水に入ると、泥が巻き上がってしまうこと。
 そこで、この水溜りに。撮影の時にだけ一時的に橋をかけようと思うのだが、それなりに大掛かりな作業になるので、いつ、どんな感じで産卵をするのかをまずは完全に把握して、一度の撮影でバシッと決めたいのである。
 今日は、現在水溜りにある卵をすべて見て、その成長の具合から、卵がいつ頃産み落とされたのかを確認した。
 中には、まだあまり発生が進んでいいない、比較的新しく産み落とされた卵もあった。 


 

2008.4.2(水) ナメクジ 
 
「写真はクールなメカの目だ。」
 とある有名な自然写真家が、その著書の中で書いておられるのを読んだことがある。
 確かに、写真は大変にクールな表現の手段であり、それゆえに客観性を持つから報道の分野では多用されるし、文章だけなら、
「これは嘘かもしれない。」
 と疑いを持つ人が、そこに写真が添えられていることで、
「なるほど。確かにその通りだ。」
 と頷いてくれるケースは、決して少なくないだろう。

 一方で、その写真にも、どこかにカメラマンの思いのような何かが現れるように感じられることもある。
 例えば、被写体に対する深〜い愛情が感じられるような写真がある。
 またその逆に、時には撮りたくないものにもカメラを向けなければならないプロの場合、いかにも仕方なく撮影した感じが現れているように思えることもある。
 さらに、例えば、
「生き物には貴賎はない。」
 などと立派なことを主張し、あえて人が忌み嫌う生き物にカメラを向けた写真でも、その写真からはどうしても情熱のような熱い思いが伝わらず、逆に、
「この人、偽善者なんじゃないか?」
 と疑いたくなるようなこともある。
 一般に、嫌われがちな被写体にカメラを向けた時の方が、その人の本音や考え方がよく現れるように僕は感じる。
 ふと考えてみれば、僕が心のそこから尊敬する写真家のほとんどは、一般的には嫌われがちな被写体を、実に凛々しく、生き生きと写しとめる人たちである。
 さて、今日はナメクジの卵の撮影だ。


 

2008.4.1(火) 出目金 

 
 子供の頃は、
「気持ちが悪いなぁ。何でこんな生き物を作り上げたのかな?」
 と思っていた黒出目。
 だが、久しぶりにそれをじっくりと眺めてみると、それなりの魅力があった。
 真っ黒だと思っていた体には金色の艶があり、尾っぽには白っぽいすじがあって、それがフワッと揺れると、なかなか美しい。
 そうした金魚の特徴は、ある程度成長しなければ現れてこないので、金魚を飼うとしたら、ちょっと高価になるが、2歳以上のものを買うのがいい。

 金魚にはいろいろな品種があるが、それらを作成する際には、出目金と何かの品種を掛け合わせることが多いらしく、出目金は、新しい品種作成には不可欠なのだそうだ。
 それを知識として知ることで、僕には、出目金がより一層凛々しく見える。
 だがそれはあくまでも僕の思いであり、写真を見る人には通用しないので、僕は写真の質で勝負しなければならない。

 この出目金は、岩手県のお店から購入したもの。
 通信販売で申し込んだら、
「岩手県から九州だと、翌々日の到着になり、金魚の体調が心配なので、せめて時間指定をして午前中に受け取ってくれませんか?」
 とわざわざ電話があった。
 丁寧なお店だなぁと思ったら、送られてきた金魚のヒレが大変に綺麗で、コンディションがいいので驚いた。この金魚は、間違いなく丁寧に飼われていたものだ。
 気持ちがいい。
 なぜ、わざわざ通信販売で買ったのか、と言うと、最近は、出目金を改良した蝶尾という品種の人気が高く、金魚の専門店を訪ねてみても蝶尾ばかりで、オーソドックスな出目金の大きなものが手に入らなかったのである。
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2008年4月分


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