撮影日記 2008年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2008.3.29〜31(土〜月) 更新 

 今月の水辺を更新しました。

 

2008.3.27〜28(木〜金) ミジンコ 

 時々父から、
「今日は何の写真を撮りに行くの?」
 とたずねられるのだが、僕には大抵答えがない。
 なぜなら、自然は日々変化するものだから、今日はいったい何が撮影に値するのか、それは透視でもできない限り、外に出てみなければ分らないから。
 すると、父は無理やりにでも何かを答えさせようとするし、子供の頃は、そんな時に、
「何か答えなさい。」
 と叩かれたりもしたが、ないものはないのだから、答えようがない。
 僕の父は、自分の頭の中で想像ができることを好み、大半のことを頭の中で決めてしまう傾向があり、それは人も同じだと考えているふしがあるのだが、自然は人の予測を超えた存在であるから面白い、と僕は思う。
 僕はいつも、今の自分が思いつかないことを、野外で見つけようとするのである。

 さて、今日は山間を車で走行中に、田んぼの植物が目に留まったので、写真を撮ることにした。
 
 花にカメラを向け、三脚を構え、花に強い影がつかないように太陽の光が雲に隠れるのを待っている最中に、草むらの中を探してみたり、水溜りをのぞき込んでみたりと、自分の手の届く範囲の自然を探ってみる。

 すると、水溜りののなかにミジンコが発生していることに気がついた。
「よし、今日はミジンコの写真を撮ろう!」
 とようやく、今日は何を撮るのかが決まった。
 ミジンコのような小さくて、しかも水中を泳ぐ被写体の場合、スタジオならともかく、自然条件下では写らないかな、とも思ったが、やってみると一応写った。
 今日の写真はまだまだ画質が悪く、僕の許容範囲外ではあるが、あと何度か試行錯誤をすれば、それなりに使える写真が撮れそうな感じがする。
 
 

2008.3.26(水) 無干渉 

 この場所へ撮影に出かけ、アカガエルやサンショウウオの卵が見つかると、
「ああ、良かった。」
 と僕はいつも胸をなでおろす。ここはたくさんの人が散歩をする遊歩道のすぐ傍にある水溜りなので、卵を採集しようと思えば小さな子供にだって簡単にできるし、狭い場所なので、1つ残らず卵を持ち帰ることだって難しくない。
 つい先日も、網を持った男の子がやってきてカエルの卵を掬い取ったので、
「お家で育ててみたいのなら、あとちょっと我慢して、オタマジャクシが生まれてから捕まえてね。」
 とお願いしたばかり。
 カスミサンショウウオの卵は、いよいよ幼生の形ができあがってきたから、あと少しこの場所にあり続けて欲しい。
 
 水の中を撮影していると、物珍しさから時々散歩中の人に話しかけられるが、カエルやサンショウウオの卵の存在を知っているのは、2割くらいだろうか。
 僕は、たくさんの人に生き物に関心を持ってもらいたいと思う一方で、無関心というのも、ある意味いいことだと感じている。
 恐らく、付近を散歩する人の大半がそれに興味を持つほど関心が高まれば、卵を持ちかえる人も増えるだろうと思うのである。
 そもそも、全員が自然に興味を持つなんてあり得ないことだから、
「興味を持ってください。」
 というメッセージとは別に、生き物に対して無関心であることが、無干渉につながるような啓蒙活動もあっていい。僕はそんな風に思う。
 例えば、
「自然物はなるべくそっとしておきましょう。」
 、というような発想が日本人の常識になるような。

 『弘法筆を選ばず』とは、いい言葉だなぁと思う。
 うまい人は道具を選ばないというのなら、それは同時に、上手くない人は道具を選んだ方がいい、と言っているようにも読み取れるから。
 僕のような凡才肌の人間には、いい道具が必要。いい道具があれば、自分のイメージに近い写真が撮れる。特に、水中は道具が大切。

 カスミサンショウウオは、普段は森の中ですごし、産卵の時期にのみ水の中でみられる。
 つまり、水辺だけでなく、周囲に森が必要な生き物だ。 
 
 

2008.3.25(火) 新年度 

 2週間の水鳥取材から帰宅して、およそひと月。ようやく取材の間にたまってしまった仕事が片付き、昨日からは、本格的に新たな撮影に取り組み始めた。
 もちろん、その間も金魚を撮影したり、森の水溜りでカエルの卵を撮影したり、と写真はたくさん撮っているのだが、それらはいずれも昨年度の仕事の続きであり、何か新しい撮影をしたという気持ちになれなかったのである。

 さて、これから撮影の調子を上げていく段階なので、最初は単純な撮影から始めることにした。
 例えば、メダカの体の特徴を説明する写真がそうだ。

 メダカのオス・メスのヒレの違いがよくわかる写真や、部分部分の拡大写真などは、メダカがその部位を見せてくれなければ写真が撮れないので意外に時間はかかるが、単純作業なので頭を使う必要がないし、まだ調子が上がらない時期にはいい。
 

 それからついでに、先日カエルの撮影の際に採集した水生昆虫を撮影しておくことにした。多分、ヤマトクロスジヘビトンボだと思う。
 昨日〜今日が、僕にとっての新年度のはじまりだ。
 
 

2008.3.24(月) 新聞(後半) 

 先日、帰宅をした際に読んだ新聞のコラムに大変に興味を感じ、思わず何度も何度も読み返してしまった。
 そのコラムとは、ある高校生が書いたエッセーを取上げたもので、食べ物と生き物の命について触れたもの。
 その高校生は、宮沢賢治の「よだかの星」を読んだ際に、1つの出来事を思い出したらしい。
 宮沢賢治の「よだかの星」とは、ヨタカという肉食の鳥が毎晩毎晩昆虫を食べなければらならいことを悩み、苦しみ、そして最後は自ら餓死することを選ぶというお話。

 そんなお話を読んで高校生が思い出した出来事とは、近所の小学校で行われた合鴨の解体だった。食用のカモを解体している最中に、一人の女の子が泣き崩れて地面にしゃがみ込んだという出来事だった。
 高校生は、カモの解体が怪しからんとは思わなかったようで、むしろ大切なことだと感じたようだ。
 高校生はふと考えた。人間は動物を殺して食べるが、その罪が自分の目に触れないようにするために死を遠ざけてきたと。
 確かに、僕は鶏肉を食べるが、ニワトリを自分の手で殺したことはない。
 そしてその結果、人々は、食べ物を見ても命を提供してもらったことに感謝できなくなり、それが食べ物を粗末にすることにつながっていると。
 その高校生が書いたエッセーは、ある賞を受賞した。

 僕は、それを新聞社の人が取上げたということに興味を感じた。
 僕は今産経新聞社の新しい新聞・サンケイエクスプレスに、月に一度の割り合いで連載をしているが、産経新聞社の場合、毎日2時間程度、社長以下ある一定の身分以上の人たちが同じ部屋に集まり、議論をするらしい。
 新聞に掲載される即物的なニュースにはほとんど感心はないが、そうして日々社会のことを考え、議論し、報道に携わっている記者たちの考え方や感じ方には、僕はそれなりに関心がある。
 インターネット上にもたくさんの意見はあるが、そのほとんどすべては、新聞の記者たちとは異なり、何か責任を負った上での発言ではない。
 僕は、責任を負った誰かが責任を持って発言する意見に、興味がある。
 それは、インターネットとは対極にあるのかもしれないなぁと思う。このインターネットの時代に、紙に印刷すべきは、そんな何かではないだろうか。

 その高校生と僕は、必ずしも同意見ではない。
 例えば、本当に人は、生き物を殺して食べなければならないという罪から逃れるために、死を遠ざけたのだろうか?
 僕はそうではないような気がする。

 大部分の生き物は、自分で自分の食べ物を手に入れ、自分で自分の住処を作り、自分で自分の子孫をひとり立ちさせ・・・・、自分の命を維持するために必要なこはすべて自分でやる。
 ところが人間はそれを分業し、ある人はひたすらに食べ物を作り、またある人はひたすらに家を作り、またある人は教育だけを担当する。
 つまり、本来自分一人ですべき作業を分業したもののことを仕事を言う。
 仕事は、つまり分業は、文明が発達すればするほど進み、そうして分業された作業の中に、家畜の解体という作業があったにすぎないように僕には感じられる。
 人が死を遠ざけたのは、罪の部分を見たくなかったからではなく、仕事が発達した結果であるような気がする。

 また、食べ物を粗末にするようになったのは、満たされているから。
 食欲や性欲のような本能的な欲求には、満足という状態がある。
 その点、金銭欲や権力に対する欲求には、しばしば満足がなく天井知らずであり、それは時に大変に恐ろしい。
 その恐ろしさを思うと、十分に食べれば満たされ、満たされると食べ物に感謝できなくなるのも、ある意味、非常につつましいようにも感じられる。
 もちろん、食べ物を粗末にしていいといいたいのではない。
 たくさん罪を探してきて背負えば、本当に問題は解決するのだろうか、と僕は感じる。罪を背負いたがるのは糞真面目な人であり、人間がみな糞真面目な人ばかりなら、それもいいかもしれないが、現実はそうではないように、僕は思う。

 

2008.3.21〜22(日) 新聞(前半) 

 自然写真家といっても、さまざまな立場がある。例えば、ある人は、自然を通して情緒や自分の内面を伝えようとするし、またある人は、自分ではなくて、自然現象そのものを伝えようとする。
 前者が文学なら、後者は報道。
 前者が空想の世界なら、後者は現実の世界である。
 僕は、空想や情緒の世界にはあまり興味はないし、写真をとにかく分り易く撮らなければ気が済まない僕は、2つに分けるのならば後者に属するだろう。
 ただ、僕の写真は現実路線と言えども、厳密に言えば新聞のようなタイプの報道やドキュメントではなくて、ノンフィクションのようなものだと自分では考えている。

 さて、新聞はこれからどうやって生き残っていくのだろう?
 僕は自宅に帰った際には必ず新聞を読むが、即物的なニュースに関しては、もはやインターネットで十分だと感じる。新聞を開いてみたところで、僕が知らない知識や情報は、ほとんど載っていないのである。
 ならば新聞は不要か?といえば、やっぱり新聞を読みたいと思う。紙に刷られた文字には、インターネットにはない何かがあるように感じるのである。
 なぜ突然に新聞のことを書いたのか、と言えば、新聞がインターネットの時代にどうやって生き残ろうとするかは、情緒ではなくて現実路線の写真を撮る自然写真家には、多少は参考になるだろうと思うから。
 わざわざ紙に刷らなければならないのは、一体何だろうか?と。
(続く)

 

2008.3.20(木) 新たな出費 

 ここのところ、画像処理用のパソコンの調子がやや悪い。具体的には、電源を入れても、立ち上がることなしに、固まってしまうことがある。
 だが、一度リセットをすれば、大体大丈夫。
 ところが今朝は、3〜4度のリセットを繰り返さなければ立ち上がらなかった。やばいなぁ・・・。
 その後は、何度か電源のオンオフを繰り返してみたが、不具合が生じた時でも、一度のリセットで改善されるので、すぐに動かなくなってしまうことはないだろうと思うのだが・・・・

 うちにはあと2台のパソコンがあるが、それは事務処理用のパソコンと、取材用のノートパソコンであり、事務処理用は古くて、デジタルカメラの場合快適に動くのは600万画素くらいまで。ノートパソコンは、仕事用には論外。
 今や、仕事をするには快適に動くパソコンは不可欠なので、今日は、思い切って、新たにパソコンを一台注文することにした。
 問題は、どうやって3台のパソコンを置くか。
 大きなモニターを3つ置くのは厳しいので、1つのモニターを二台のパソコンで共用することになるだろう。
 それでも、新たに事務用の家具も買い足さなければならない。

 パソコンは、事務用の他に、画像処理ができるものが2台あった方がいい。いや、そうしておかなければ、トラブルが起きた際にダメージが大きすぎるし、大変に面倒なことになる。
 実は随分以前からそう思ってはいたのだが、パソコンが増えたところで写真の質が上がるわけではないので、どうしても機材の購入が優先になっていた。
 また一昔前のイメージで、デジカメやパソコンのような道具は日進月歩であり、早く買いすぎるとどんどん古くなるイメージがあったのも、買い控えていた理由の1つだ。
 だが、よく考えてみれば、デジカメの画素数の増加もほぼ頭打ちになっているし、僕の仕事の場合、35ミリ判フルサイズのセンサーの1200万画素クラスのカメラがあれば十分。
 だから、買い控えることもないし、ちょうどいい機会だったのかもしれない。

 

2008.3.19(水) 競争 

 僕は経済のことは全く分からないのだが、日本人全員が豊かになることなど、多分あり得ないんだろうなぁ。
 誰かが蓄財するということは、別の誰かのお金がそこへ動くということなので、同時に誰かが貧乏になる。
 唯一の例外は貿易。日本国が外国からたくさんのお金を儲け、国内のお金の総額が増えれば、日本人全員がお金持ちになりうるのかもしれない。
 が、その場合は、外国の誰かが貧乏になる。
 国内で、
「最低金銀を上げろ!」
 とか、
「同一の労働に対しては、同一の賃金が支払われるべきだ!平等が大切だ。」
 などと声高に叫んでいる人だって、外国で、人を安く働かせた結果の安い商品をありがたがって買っていることを思うと、イカガワシイものだなぁと感じる。

 誰かが金持ちになれば、誰かが貧乏をする。自然写真の世界は業界全体の規模が小さく、それゆえに、その理屈が分かりやすい。
 例えば、僕が今稼いでいるお金は、僕が登場する以前は、別の人の懐に入っていたお金である。そして、その別の人が誰なのかだって、業界が狭いのだから大体把握できている。
 つまり、写真は本来競争ではないが、仕事としての写真は競争である。もしも、これから誰かがプロの自然写真家になろうと思うのなら、恐らくその人は、誰か先輩から仕事を奪わなければならないだろう。
 
 が、その先輩は、より経験や技術や知識を持っている。
 そして、よりお金を持っている。
 さらに、より時間を持っている。新米が生活のためのアルバイトをしている間にも、先輩は写真の仕事に携わっているし、よりコネクションを持っている。
 要するに、後から追いかける立場の人をほぼすべての条件面で上回っているのだし、そんな相手と競争をして勝つことは、並大抵のことではない。
 ただ、前を走る人には走る人の難しさがあることも、最近しみじみ分かってきた。
 例えば、写真の貸し出しの依頼が増えれば、その作業に時間を取られ、写真を撮る時間が確保できにくくなる。
 そうか・・・、先輩にも死角があったんだ・・・ と今更ながら、気付かされるのである。
 さて、僕がこの先順調に仕事を伸ばすことができるかどうかは、写真をたくさん貸し出しつつ、同時に撮影時間をしっかりと確保できるかどうかにかかってくるような気がしてきた。
 ここ数日は、写真の貸し出し作業に忙殺されているのだが、今日も作業は続く。

 

2008.3.18(火) 反省 

 一冊の本ができるまでには色々な人がかかわっている。だから、自分の都合だけで物事を考えることはできないし、他の役割を果たす人たちのことも、知ろうとしなければならない。
 写真家の立場から言えば、編集者、デザイナー、印刷所の人・・・・そういった立場の人に自分の意志をいかに上手く伝えるか、それも写真家の力量の1つになってくるだろう。
 立場が違う人たちの気持ちを多少なりとも理解するには、時には、顔と顔を突き合わせ、一緒に作業をしてみるのもいい。
 つい先日、来年度の仕事について打ち合わせをするために、担当の編集者がうちの事務所にお越しになったが、一緒に写真を眺めてみた結果、今まではあまり意識しなかったことに気付かされた面もあった。

 僕はその日、事前に写真を整理しておく時間がなくて、お粗末ながら、撮影したままの状態で写真をすべて見てもらった。
 すると、経験豊富な編集者と言えども、さすがに未整理の写真をたくさん見せられた後は、疲れの色が見て取れた。
 確かに、写真を見るのは大変に疲れる作業である。その写真を撮った本人でさえそうなのだから、編集者はなおさらだろう、とそんな初歩的なことに今更ながら、初めて気がついた。
 やっぱり、写真はちゃんと整理したものを見てもらった方がいい。これは当たり前のことだとして、さらに、ある程度整理された写真でも、
「この中から好きな写真を選んでください。」
 とドサッと写真を送りつけるのも、あまり褒められた方法ではないな、と感じた。それでは、一枚一枚の写真をちゃんと見てもらえなくなってしまうし、その結果、編集者の力を、余すところなく引き出すことができなくなる可能性もある。
 やはり、1つのシーンにつき2〜3枚のお勧めの写真を自分で選んで送るのが正しいような気がする。
 実は、昨年末から写真の貸し出しの依頼が例年よりもずっと多く、ちょっと時間が不足気味であり、まとめてドサッと写真を送る貸し出し方が、ここのところ続いているのである。反省。

 とは言え、手が回らない時はどうしようもない。今日も、約半日をかけて写真を選んだのだが、やはり、すべての写真を細かくチェックする時間が足りず、やや整理されないままCDに焼き付けることになった。
 今回は約500枚の写真を1つのディスクに入れて送ったのだが、500枚もの写真を十分に吟味できるはずがない。
 これは何かうまい方法を考え出し、日頃から備えておく必要がありそうだ。
 
 

2008.3.17(月) 趣味を仕事にする 

 東京農大の博士課程の学生さん・林倉一郎君が、うちの事務所に遊びに来てくれた。
 林君は、ミズゴケの研究をしているそうで、僕の水辺というテーマとも無縁ではない。
 話を聞いてみると、写真家になりたいという訳ではないみたいだったが、何か今の研究を、直接的に生かした仕事がしたいと考えているようだ。つまり、僕の自然写真も同じようなものだが、『趣味を仕事にする』という世界だ。
 趣味を仕事にする場合、ただ真面目であることは通用しないことが多く、何か、その人にプラスアルファーが必要なことが多い。そして林君の場合、何かをやり遂げるのではないか、という雰囲気が感じられた。ミズゴケの話が、なんだか分からないけど面白かったのである。
 遊びを職業にまで昇華させようと思うのなら、そのなんだか分からないけど面白いが、非常に重要。
 ついその人の聞きたくなる。
 ついその人の文章を読みたくなる。
 ついその人の写真を見たくなる。
 ついその人の仕事に興味を持ってしまう・・・それがその人の素質なのかもしれないな、と思う。
 そう言えば、僕がまだ学生時代に初めて昆虫写真家の海野先生の事務所へ行った際に、先生は、
「自然写真のようなものを仕事にするには、性格に向き不向きがある。」
 とおっしゃったのだが、今ならその意味が良く分かる。
 それは自然写真に限ぎったことではなく、趣味を仕事にするには・・・と置きかえても同じことだろう。

 

2008.3.15〜16(土〜日) 森の水溜り 

 主に雨の日の夜に卵を産むアカガエルだが、晴れの日にはどうしているのだろう?と思い、あえて月夜の晩に、その産卵場へ行ってみることにした。
 すると、意外にも、雨の日と同じように、水溜りにはたくさんのアカガエルの姿が見られた。
 だが、その晩僕が見たのは、ことごとくオス。オスは、雨の日であろうが晴れの日であろうが、とにかく健気にメスを待っているものなのかもしれない。 

 カエルと言えば、水に浸かっているイメージがあるが、多くのカエルは、繁殖の時以外を陸上で過ごす。だから、実は水辺の周りの環境が、カエルにとって非常に重要になる。
 そこで、その周囲の環境を説明できる写真を撮ろうと試みたのだが、目の前にある景色を、自分に見えている通りに写真に収めるのは、実はなかなか難しい。
 いわゆる一般的な風景写真の場合、自分に見えている通りに撮るというよりは、絵にしようとするので、同じ景色の撮影でも随分要領が異なるのである。
 今日は、試行錯誤するうちに、あっという間に1時間半の時間が過ぎ去った。
 アカガエルが卵を産む水辺は遊歩道沿いにあり、その間にたくさんの人が僕の後ろを通り過ぎたが、あまりに平凡なものに僕が真剣に、長時間カメラを向けるものだから、多くの人が不思議そうな顔をして過ぎ去った。

 アカガエルの卵の中でも、早いものは孵化が始まった。

 同じ場所で見られるカスミサンショウウオの卵も、かなり幼生の形が出来上ってきた。

(撮影機材の話)
 さて、最初の夜景の画像を帰宅後に開いてみたら、夜空に、赤や緑や青の星がたくさん写っていたので驚いた。
 赤や緑や青の星の正体は偽色だと思う。そして、いろいろと試してみた結果、ソフトによってそれが見えたり、見えなかったりすることが分かった。
 あまりにそれが盛大なので、そのソフトで表示させた画面をキャプチャーして一部を切り出してみたのが上の小さな画像だが、すると、赤くなってしまった星がかろうじて1つ見えるだけで、他のカラフルな星は見えなくなってしまった。
 カメラはキヤノンのEOS5Dである。
 そう言えば、随分前にアマガエルがジャンプする様子を特殊な方法で撮影したら、画像に盛大な縞模様が入っていたので、びっくりしたことがある。そのときも、カメラはキヤノンだった。そしてその縞模様も、やはりソフトによって、見えたり見えなかったりした。
 つまり、偽色にしても、縞模様にしても、本当は画像に写っているのだろうが、それを、何か処理を施すことによって見えなくしているのだろうと思う。
 同様の現象は、ニコンのカメラでも報告されていて、その時はネット上でひどくニコンが叩かれたものだが、キヤノンでも、ある条件下では、しっかりと同じ現象は見られる。
 
 

2008.3.14(金) 学生時代の写真 

(お知らせ)
 サンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は3月15日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。

 多分、今回の掲載で、サンケイEXの連載はちょうど一年になると思う。次の一年も、当面企画は続くことが決まったようだ。
 ふと考えてみれば、僕はその一年の間に、学生時代に撮影した写真を2枚使用した。写真をはじめて2〜3年くらいの時に撮影したものだ。
 僕は学生時代に、
「俺はプロ級なんじゃないか?」
 と内心思っていたのだが、それもまんざら間違えではなかったことになる。
 だが、ちょっと見方を変えれば、その2枚の写真を売るのに、実に15年以上の時間がかかったことになる。
 プロ級なんて、掃いて捨てるくらいたくさん存在し、学生だって、その程度のものは撮れる。
 だが、自分の活動を、仕事として成り立たせることは、それなりに難しい。
 
 

2008.3.13(木) お知らせ 

(お知らせ)
 サンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は3月15日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。

 この連載は、日頃撮りためておいた写真を選んできましたが、今回は、つい先月の水鳥取材の画像の中から、気に入った写真を一枚選びました。
 有名な場所で撮影したものですが、多分、類型は発表されていないはず(僕が知らないだけの可能性もあり)。撮りつくされたと思われる場所でのそんな一枚なので、とても嬉しかったのです。

 

2008.3.12(水) 防水 

 僕は写真を売ることに、それなりに熱心だし、そうしたことを日記の中に書くことがある。すると中には、
「な〜んだ、金か。」
 と受け止める方もおられるだろうと思う。
 だが、もしもお金が目的なら、僕は自然写真のような仕事は絶対に選ばない。自然写真は儲かる仕事ではない。むしろ儲かるとは程遠い仕事なのだから、それで生きて行こうとするのなら、ある程度は売ることにこだわらざるを得ない。
 お金が山ほどもらえるのなら、豪勢な取材ができるだろうと思う。が、現実は厳しいので、プロと言えども大抵の人はいろいろと頭を使い、なるべく安上がりに、いい写真が撮れるように工夫する。
 先月、水鳥の取材の際に長野に立ち寄り、小諸市にある昆虫写真家の海野先生のスタジオに泊めてもらった時に、先生が、
「オリンパスのE-3だったら、レンズ半分くらい水につけたって大丈夫じゃないか?水中写真が撮れるかもしれないぞ。」
 とおっしゃったのだが、僕は水の中を撮影するのに、一般のカメラを水中ハウジングと呼ばれる高価な入れ物に収めて写真を撮っているのだから、その案は、なんと大胆で、そして安上がりでシンプルな発想なんだろう!
 海野先生は、愛用のE-3を片手に、
「よしやってみよう。たらいに浸けてみようか。」
 と炊事場に向かう。
「海野さん、たらいはちょっとヤバイんじゃないですか?」
「いや、大丈夫だよ。でも、水をかけるだけにしておこうか。」
 とカメラに蛇口から水道の水をしばらく注ぐ。
 そして、電源を入れてみると、見事にカメラは作動。
「ほら、大丈夫だ。実はね、水をかけてみたのは初めてなんだ。あぁ良かった。水洗いできるのだから、すごいよな、このカメラ。」
 E-3の防水の限界って、どの程度のものなのだろう。
 それはともあれ、腕時計の生活防水程度の防水が利いたカメラシステムがあったらなぁと思う。

 さて、今日は浅い水辺の撮影。森の水溜りに水中カメラを沈め、ニホンアカガエルの卵の写真を撮った。
 水深は10センチ程度だろうか。

 カスミサンショウウオの卵も見つけた。

 

2008.3.11(火) セリ 

「おい信玄、セリ採りに行くか?」
 信玄とは、子供の頃のぼくのあだ名であり、僕はある日、幼馴染のKちゃんから、セリを採りに行かないか?と誘われた。
 僕が小3の時、担任の先生がしばらく学校を休んだことがあり、その際にやってきた隣のクラスのE先生が、武田信玄と上杉謙信の話をしたものだから、その時から僕のあだ名は信玄になった。
 武田晋一のしんの字は、武田信玄の信ではなく、高杉晋作にちなんだものだが、小学生の頃は武田信玄の方がスゴイと思っていたし、武田信一だったら良かったのになぁなどと思うことがあった。
 「セミ採り?いくいく。」
 と僕は二つ返事で約束。が、それは、セミではなくてセリ。
 行って見たら、草を探すことになったのでがっかりした記憶がある。あまりにがっかりし過ぎたせいか、その日、セリを探す現場についた以降のことは、見事なくらいに一切憶えてない。

 小学生の頃は、暇さえあれば、生き物を採集して歩いた。
 中でも、セミを捕まえるのは特に楽しかった。
 家は、門限が早くて厳しかったから、主に夕刻に地上に出てくる幼虫を見つけることができたのは、確か一度だけだったと思う。学校の校舎と塀の間には点々と木が植えられており、その中の一本の根っこのところに、まだ明るい時間帯に出てきた慌て者のセミの幼虫を捕まえた時の感激は、今でも忘れることができない。
 それ以外は、もっぱら成虫に網をかぶせた。
 木の高いところに止まっているクマゼミに柄の長い網をそっと伸ばし、わざと強めに網をかぶせると、その振動で驚いたセミが飛び立ち、自ら網の中に入る。
 
 今では、セミだけでなく、セリも好きになった。
 でもやっぱり、僕は、セリ採りよりもセミ採りがいい。
 僕は勉強には全く興味が持てなかったけど、学校は大好きで、校庭や中庭や中庭に作られたコンクリートの小さな池のことをよく憶えている。
 セリを食べると、いまだに、セミを捕まえてまわった小学校の校庭が思い浮かぶ。

 

2008.3.10(月) 効率 

 プロという言葉は、恐らくプロフェッショナルを略したものだろうから、本来は専門家を意味する言葉なのだと思う。だが、日本語の中でプロという言葉が使われる時、それは大抵、遊びを仕事にしている人のことを指す。
 プロ野球の選手、プロの将棋指し、プロカメラマン、・・・
 だから、例えばお医者さんも立派な専門家ではあるが、医師のことを、プロのお医者さんなどと人が言うのを僕は聞いたことがない。
 僕は、
「プロの定義は?」
 とたずねられたなら、
「遊びで飯を食っている人。」
 と答える。僕にとってプロとは、ちょっとばかりイカガワシイ存在なのである。 
「あなたの職業は?」
 とたずねられ、
「自然の写真を撮っています。」
 と答えると、
「は〜、ごくつぶしだね。」
 などと言われることがたまにあるが、実は僕はそう言われることがちょっとばかり気持ちいい。
「あっ、この人、プロの写真家の本質を知ってる!」
 と。
 少なくとも、僕は、決して腹立たしい気持ちにはならないのである。

 遊びでお金を稼ぐのは大変に難しいし、それは自然写真だって例外ではない。
 まず最初に、僕はこれだけのお金が欲しい!と自分が必要なお金の総額をイメージし、それを仕事の単価で割ってみると、あっと驚くほどたくさん仕事をしなければ、自然写真で暮らすことはできない。
 つまり、写真の技術と同時に、幾つもの仕事を同時進行できる効率の良さや、神経の太さや厚かましさが不可欠。
 僕が出会ったことがあるほとんどすべてのプロの写真が共通して口にする言葉がある。それは、
「写真がうまい人なんて幾らでもいるからね・・・」
 という言葉。何か1つの撮影に時間をかければ、いい写真が撮れるのは当たり前。

 効率を上げるために僕がこだわるのは、仕事の組み合わせだ。
 例えばここのところはスタジオで金魚の撮影を進めているが、実は今この時期に金魚が重要なのではなく、僕にとって大切なのは、金魚を撮影しつつ、雨が降った日の晩に産卵場に集まるアカガエルの撮影に出られるようにスタンバイしておくこと。
 スタジオでの金魚のポートレート撮影なら、夜はいつだってあけておくことができる。

 さて、昨晩はたくさんのニホンアカガエルがやってきた。場所は、北九州市内の森の水溜り。
 日暮れ後、早い時間にみられるのは、すべてオス。

 やがて深夜になると、おなかが大きなメスが姿を現す。
 今回の撮影で僕がこだわったのは、夜であること。カエルの奥にある闇の表現だ。
 それらの写真は子供向けの本の中で使いたいのだが、僕が取り組んでいるのは、ただ分かればいいという世界ではなく、ちゃんと写真を通して物語れることだ。

 

2008.3.8〜9(土〜日) お金の使い方 

 写真は僕にとって仕事なので、日々の生活の中でいつも最優先するのは費用対効果である。だから、これを買えば一時的にはお金が出て行くが、結果的にはやがてその分を取り戻し、利潤を生み出すと判断すれば、僕は一日でも早くそれを買う。

 だが逆にそうではないと思えば、そこはシビアに切捨てる。
 たとえば、デジタルカメラはどんな故障を秘めているのかが外見からは分からない。だから、よほどに信用できる人が使っていたもの以外は中古には手を出さないが、写真用のレンズなどは、傷があるかどうかなど大抵は見れば分かるのだから、中古品を選ぶことが多い。
 だが、時には安物買いをして損をすることもある。
 実は、昨年末から使い始めたNikonのD3、CFカードを2枚差し込めるようになっていて、僕は4Gの安いものを2枚購入して使用してきたが、書き込み速度が遅くて、せっかく機敏なD3を十分に生かすことができないことがある。だから、ついに一番高速なCFカードを追加して購入するはめに・・・。
 連写速度が速いデジタルカメラの場合、ケチらずに、記録メディアはいいものを買った方がいいみたい。だが、EOS5Dのような、画質はいいけど動きは緩慢というようなカメラの場合、安物の記録メディアで十分。
 ああ、お金が勿体なかった。

 現在僕が撮影している金魚は、すべて自費で購入したものだ。
 そして撮影終了後は、買ったお店に金魚をもらってもらう。今日の画像の東錦も、ここ数日で3つの角度から撮影し、今日はこれからお店へと持っていく。
 金魚には全部でもう数万円のお金を費やしたのだが、買わずに貸してもらうことだって、多分お願いすればできるだろう。
 だが、その場合は、機材をショップに持ち込み、そこで写真を撮らせてもらうなど、購入するのに比べると撮影はずっと不自由になる可能性が高い。
 また、
「持って帰ってもいいよ。」
 ともしかしたら言ってもらえるかもしれないのだが、それはそれで、金魚を傷めないように控えめに控えめに写真を撮らなければならなくなる。
 う〜ん、どっちが得なのかな・・・
 僕は今回は、金魚を買取り、スタジオで存分に撮影した方がいい写真がたくさん撮ることができ、その結果、長い目で見れば、より売り上げが上がり、最終的にはお金が残るだろうと考えた。
 さて、どうなることだろう。

 

2008.3.6〜7(木〜金) 遺伝の不思議 

「尾瀬って、行ったことある?」
 と聞かれた。
「いや、ないよ。でも、あんまり写真を撮ってみたいとは思わんかなぁ。」
 多分僕のことだから、行ったら行ったで楽しく写真は撮れると思うが、僕は、できれば無名の場所がいい。人が知っているものは、もういいじゃないか、と思うし、その傾向は年々少しずつ強くなっているように思う。
 有名な場所にカメラを向けることを否定しているのではない。それはそれで、誰か写真を撮る人は必要なのだから、単に僕の好みを言っているに過ぎない。
 そう言えば、先日、ある方に金魚の話をしてみたら、
「面白いですね。」
 と言ってもらえた。
「金魚なんて見るべきものはないと思っていたけど、武田さんの話を聞いて、私も面白いと思いました。」
 と。その企画が本当に成立するかどうかはまた別の問題だが、会話がとても気持ち良かった。その面白い金魚の話の中身はまだ明かすことができないが、人が気にも留めていないものの中に埋もれている面白いや素敵を発掘したいと思う。
 そして僕の場合、マニアにしか分からない面白いさではなく、一般の人にとっても面白い。それが目標だ。
 僕自身、金魚なんて見るべき点はない、と強く思っていたのだから、それは、自分の価値観がひっくり返ることから始まった。

 金魚の祖先は中国産のフナだ。そして、まず最初にその中にヒブナと呼ばれる赤いものが、突然変異によって生まれた。
 次に、そのヒブナの中に、尾っぽが開いたものが生まれる。それが金魚の始まりであり、和金と呼ばれている。
 その和金を品種改良した結果、いろいろな金魚ができる。たとえば、多くの人がイメージするプックリ丸い金魚は、和金の体高が高くなり尾が長くなったもので、流金と呼ばれる。
 ここのところ、連日のように紹介している金魚は、すべて同じ種に属する生き物ということになるが、その変異の幅はなんてスゴイのだろう。
 ありとあらゆる生き物を思い浮かべてみても、金魚ほどの変異が存在する生き物は、他には犬くらいのものではないだろうか?
 グッピーやショウジョウバエも遺伝の面白さで知られているが、いずれも部分部分の変異は大きいが、全く別の生き物に見えるほど、全体が変わるような遺伝ではないように思う。

 フナや金魚と言うと、泳ぎは緩やかで、性格はあまり神経質ではないイメージを、僕は持っていた。
 ところが、コメットと呼ばれる体高が低くて尾が長い流線型の金魚を撮影してみると、それがなかなか敏感で、人の動きを嫌い、かなり神経質なことには驚いた。
 同じ種の生き物だから、金魚はどの品種でも同じ性格だと僕は思い込んでいたのだが、どうもそうではないようだ。
 細長いものは神経質。丸っこいものは穏やか。
 生き物の性格は、脳の中にあると僕は思い込んでいたが、実は随分体の形の影響を受けているようように見える。
 遺伝って面白いなぁ。

 

2008.3.5(水) 原稿 

 写真を仕事にして何に一番苦労させられるか?と言えば、写真撮影という行為が、大変に被写体に縛られる点である。
 たとえば、朝の風景は朝しか撮ることができないし、晴れの日の景色は晴れの日にしか撮影できないし、4月の風景は4月にしか撮れないし、それらは、努力ではどうにもならない。
 5月になって、
「あ〜4月に撮り忘れたものがある」
 と嘆いても、もう手遅れ。
 その点、原稿を書く作業はいいなぁ、といつも思う。ヤル気さえあれば、どこでも、どんな時間にだってできる。
 が、ヤル気になれない時の原稿作成は、その逆で非常に辛い。パソコンの前で、時間が無駄にどんどん過ぎ去る。
 今日は、カタツムリに関する原稿を1つ書いたが、実は、それは一昨日に終える予定だったもの。それが一昨日はダメ。昨日もダメ。突然に、ギャラが安すぎるんじゃないか?などと被害妄想が心の中に渦巻き、僕を苦しめる。
 そしてようやく今日になり、一通りの文字を書き上げることができた。
 そう言えば、以前、童話・児童文学作家の深山さくらさんに、
「文字っていいですよね。いつでも、どこだって仕事ができるのだから。」
 などと厚かましいことを話したら、
「ウフフ。」
 と笑われたことがある。

 さて、つい先日、新しい本がでた。旺文社のぼくたち親子だよシリーズ・ザリガニの親子だ。写真を僕が撮影し、文章は、僕をウフフと笑った深山さくらさん。
 旺文社のぼくたち親子だよシリーズは全五巻。ザリガニの他には、
 ・ 新開孝さんが撮影し、麻生かづこさんが文章の『ダンゴムシの親子』、
 ・ 新開孝さんが撮影し、深山さくらさんが文章の『アシナガバチの親子』
 ・ 僕が撮影し、西沢杏子さんが文章の『カタツムリの親子』
 があり、これらはすでに発売されている。

 原稿を送ったら、晴れ晴れして、実に気分がいい。
 金魚がより一層、きれいに見える。絶妙な青みがまるでシャガールの絵画のよう。

 

2008.3.4(火) ああ、レンズが欲しい・・・ 

(撮影機材の話)
 僕はこれまで、スタジオでの撮影には100ミリクラスのマクロレンズを使用してきた。ところが、ふと、ニコンの60ミリマクロレンズをD3に取り付けて使ってみたら、これが大変によく写るので驚いた。
 60ミリマクロは随分前から持っていたレンズだが、フィルム時代はスタジオではペンタックスの645判を使っていたし、デジタルになってからは主にキヤノンを使ってきたので、じっくりと試す機会がなかったレンズだ。
 陸上の被写体なら、僕は100ミリクラスのマクロレンズに全く不満はないが、水中の被写体の場合は、できれば50(60)ミリクラスがいいなぁ。水の中の被写体を撮影する場合、どうしても水が邪魔をして写りが悪くなる傾向にある。そして、条件が悪くなればなるほど、レンズの性能の差が写真に現れやすくなるように思う。
 ただ、50ミリクラスのレンズの場合、被写体に近づかなければならず、その結果、金魚が僕の動きを嫌がるため、今日は水槽に目隠しをして、なるべく金魚から僕が見えないようにして写真を撮った。

 ところで、ニコンの60ミリマクロは、近々新型が発売されるという。
 そしてそれは、恐らくスゴイ性能だろうと思う。
 が、それが必需品か?といわれれば、今使用しているモデルがあるのだから必需品ではないし、買い物の際の優先度は低くなる。
 でも、やっぱり欲しいなぁと思う。今のモデルでこれだけ写るのだから、新型なら・・・僕は、レンズは基本的には新品を買わないことにしているので、新型レンズが発売され、やがて中古品が出回り、価格が落ち着いてきた頃に手に入れようと思う。

 

2008.3.3(月) すいほうがん 

 同じように白を背景にした写真でも、水中の生き物の撮影は、陸上の生き物よりも手間や時間がかかることが多い。なぜなら、撮影の前にまず水槽を設置しなければならないから。
 特に魚は、水質や水温の変化に弱く、あとで病気になってしまうこともあり、いちいち気を使う。
 また、魚を横から撮影するのに適した水槽と上から撮影するのに適した水槽とが異なるのも、作業をより一層面倒にする。
 だが、写真の使用料は、陸上の生き物でも水中の生き物でも、どんなに手間をかけようが、すんなりと撮影しようが同じ。
 水槽を設置する作業があまりに面倒な日は、
「手間賃だしてよ・・・」
 といった気持ちになることもある。
 たかが金魚の撮影。なのに、やってみれば大変に時間がかかる。
 僕は今回金魚を3つの角度から撮影しているが、ある1つの角度から2〜3種類の金魚を撮影したら、だいたい一日が終る。金魚の品種の特徴がよく写っていて、同時に、その表情がいい写真は、なかなか撮ることができない。
 今日の画像の金魚はすいほうがんという種類で、写真は、僕の基準で一応合格のレベル。僕はまず一応合格程度の写真を撮り、心を落ち着けてから、あとは余程に時間がない時以外は、自分で想像できるベストの絵柄以上にいい写真が撮れるまで撮影を続ける。
 今回の金魚の仕事は大人向けのものだが、子供向けの写真でも、だいたい同じような感じで撮影することが多い。
 子供は、そこまで分からないという人もおられるが、とんでもない。なぜなら、子供の本を選ぶのは大抵大人なのである。単行本の場合は親。月刊誌の場合は、幼稚園や保育園の先生。図書館の場合は司書の方・・・。大人も子供も、ひとつながりなのである。

 

2008.3.1〜2(土〜日) 僕の努力 

 自然写真は、たとえプロの世界であっても、本来は、好きだから、やりたいから取り組むのであり、努力などという言葉は似合わない、と内心思う。
 だがそれは才能のある人の話であり、僕のような凡才肌の人間の場合、悲しいかな、やはりそこには努力が必要になる。
 だから僕は、何かあれば迷わず努力をするし、間違えても、
「僕の写真は、分かる人が分ればいい!」
 などとは主張しないと決めている。努力をすればみんなが分かってくれる、とは毛頭思わない。だが、他に何ができるか?と考えてみれば、何も思い浮かばないのである。
 しかたがないから、努力でもしておこうか!

 さて、プロのカメラマンの場合、時には、撮りたくないものでも撮らなければならない。
 だが、それを我慢して撮影するのが僕の努力ではないし、僕が考える努力とは、最初は気が進まないなぁと感じたものでも、最終的には楽しく撮ってしまうこと。それは写真に限った話ではないし、何をするにせよ楽しくやる。どうしたら楽しくできるのかを探り、探すことが僕の努力だ。
 金魚は、当初あまり興味を持っていた被写体ではないが、随分好きになったし、面白くなってきた。
 僕は、一番最初にまず、金魚が好きな人に話を聞いてみることにした。
「金魚って、錦鯉と同じように良し悪しがありますよね?それって、どこを見たらいいんですか?」
「金魚の良し悪しは、種類によって違いますが、まずは流金の場合、体高が高いものがいい金魚です。」
「金魚って、横から鑑賞するものと考えていいのですか?」
「基本的には横からです。」
「ということは、模様は、横から見てきれいに見えるものがいい?」
「その通りです。それから、もしも金魚を楽しもうと思うのなら、3歳以上のものを買うことです。3歳以上になると、品種ごとの特徴がよく現れます。」

 やがて僕は、数匹の金魚を購入したのだが、写真を撮ってみると、カメラのファインダーの中で、
「あっ、今の瞬間いいな!」
 と感じられるのは、その金魚の品種の特徴がよく見えている時だと気がついた。
 そうなると、加速度的に金魚の撮影がおもしろくなった。
 唯一、あまり興味を感じなかったのが、キャリコ系と呼ばれているまだら模様の金魚だった。
「金魚と言えば赤か白だろう!キャリコは撮らない。」
 と僕は最初考えた。だが、キャリコ系の金魚をたくさん眺めてみたら、次第にその魅力が分かってきた。
 そこでついに、今日はキャリコを一匹買ってみることにした。
 金魚の場合、色と形の組み合わせで品種名が決まるが、今日の画像の金魚の色がキャリコ。
 色がキャリコで頭に瘤があるものは、東錦という品種になる。
 
 キャリコ系は、体の青みが強いものがいいとされている。これは、左半身。

 こちらは、右半身。
 キャリコが一番きれいに見えるのは、上から、しかも尾っぽ側から見た時。すると、墨を流したような尾っぽの模様がゾクッとするくらいに美しい瞬間がある。
 が、今日は、まずはオーソドックスに横だから写真を撮った。 
 
   
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2008年3月分


このサイトに掲載されている文章・画像の無断転用を禁じます
Copyright Shinichi Takeda All rights reserved.
- since 2001/5/26 -

TopPageへ