撮影日記 2008年2月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2008.2.28(木) 更新 

 今月の水辺を更新しました。

 

2008.2.27(水) 取材のこと(人編) 

 昨年、一昨年は、冬の取材はひと月の時間をかけて北海道まで足を伸ばした。北海道には楽しい仲間たちがいて、囲炉裏を囲んでの食事が実にいい。今年は2週間しか時間を作れなかったから、北は宮城までの旅になり、撮影そのものは楽しかったのだが、北海道のみなさんに会えなかった点はやはり物足りないと感じる。
 ただ、山形では僕のホームページを見てくださる方と合流し、一緒に宮城県まで足を伸ばして撮影した時間が楽しかった。
 気がかりだったのは、その時に撮影した写真がどうだったか?ということ。だが、帰宅後にホームページを覗いてみたら、写真がなかなかいい発色をしていたので一安心。

 また、途中で長野県では海野先生のスタジオへと立寄ったことは昨日も書いたが、僕が初めてスタジオに行った時に比べると、随分雑然としていたので驚いた。その大部分はカメラやレンズなのだが、先生によると、上には上がいて、僕が見た程度の物は実は大したことはないのだそうだ。

 僕が写真家になろう!と決意した時、僕の身の回りには一人も自然写真の世界のことを知っている人がいなかった。唯一、父の同級生の弟さんであるNさんがスタジオを経営し、40人近くのスタッフを使い、その世界では名の知れた写真家だったから、話を聞きに行ってみたら、
「そのジャンルで実際に仕事をしている人の話以外は、ほとんど当てにならないと思うよ。」
 とアドバイスをしてくださった。
 そこで、僕は大好きだった海野先生に手紙を書いた。
 海野先生はすでに有名人だったし、僕は恥かしがり屋なので、もしもNさんのそのアドバイスがなかったなら、僕には手紙を書く勇気が出てこなかったような気がする。だから、僕にとって、Nさんのアドバイスは大変にありがたかった。
「写真って不思議なんだよね。我々は女優さんを撮影することがありますが、女優さんはお金をもらいますよね。でも写真館だったら写る人がお金を出しますね。スナップ写真だったら、普通お金のやり取りは生じませんよね。それによってすべてが変わってくるし、同じ写真でも、ジャンルが違えば全然違うんです。」
 それは写真に限ったことではなく、出版だって同様。自分が児童書の世界で仕事をしているからと言って、別のタイプの本がすぐに作れるかと言えば、そうではないように思う。
 生き方や考え方や理念を語り合うことならできるのだが、現実的な作業はそうはいかないのだ。
 人は誰しも自分が役に立ちたいと望むし、その願望をかなえるためにアドバイスをしたがる傾向がある。なのにそこで、
「自分には分かりません。手助けができません。」
 と答えたNさんは、恐らく本物の自信を持っている人なのだろう。海野先生からのアドバイスにしても、本当にその世界でしのぎを削り、結果を出し、いろいろなことを試し生き抜いてきた人だけが持つ説得力があり、僕は聞きたいなとつい思ってしまうのである。
 やっぱり、現場の人はスゴイと思う。

 以前、僕が道具のことを書いたら、それにずいぶん影響された方がおられたようで、申し訳なくなったことがある。ある日、トンボを撮影中に出会った方が、実は僕の 『EOS5Dは画質がいい。』 という記述に随分やられてしまい、せっかくの休みでしかも高性能なカメラを使用していると言うのに、5Dを買った方がいいのではないか、とトンボの撮影どころではなくなったと聞かされたのだ。
 さて、今日は新しい道具が到着したのだが、なぜこれを買ったのかと言えば、一番大きな理由は、現在使用中のCRTモニターが弱ってきたから。それなら、もうAdobe-RGB対応のものを買った方がいい。
 だが、それが必須か?と言えば、そうではないと思うし、Adobe-RGBに興味がある人でも、今問題なく使用しているモニターがあるのなら、慌てて買う必要は無いように僕は思う。
 製品自体は、非常に優れていると思う。とにかく調整が実に簡単。それと同時に、CRTの良さも改めて感じた。
  
 

2008.2.25(月) 取材のこと(食事編) 

 取材の時には何を食べているのですか?とよくたずねられるが、僕は朝食を除いてほぼ100%、どこかのお店に入る。
 今回の取材は約2週間だから、昼食と夕食で合計30食くらい外食したことになるが、そのうちの5食くらいは牡蠣フライ定食を食べただろうと思う。僕は牡蠣フライが大好き。
 それから、4食くらいはミソラーメンを食べたのだが、これは日頃の僕にしてみれば、考えられないことだ。福岡県と言えばトンコツラーメン。ミソラーメンなどというのは、普段は食べたいもののリストの中にはまず入ってない。
 ところが、不思議と寒い場所に行くとあれが食べたくなり、逆にトンコツを思い出すことはない。
 それから、他にはマグロを3回くらい食べたはず。
 さて、今回の取材では関西に住む友人宅をたずね、本作りに関して打ち合わせをしたら、夕食は、なんと!彼の手作り。
 打ち合わせの途中で何やら炊事場でジャリジャリやっているので、何をしているのだろう?と思ったら、米を研いでいたようだ。僕の場合、無洗米でなくても無洗なので、これには感心させられた。
 海野先生のスタジオでは、料理はすべて先生が作ってくださったが、シチューが大変に美味しいので驚いた。僕は思わず、
「えっ、これ全部海野さんが作ったんですか?」
 などと聞いてしまったのだが、その味は新宿・中村屋のボルシチと甲乙付けがたかった。

 

2008.2.22〜24(金〜日) 文明 

 車に寝泊りしながら取材をすると、あまり物がない生活っていいなぁと思う。そして、しばらく車に寝泊りしながら取材した後にいつも感じるのは、文明っていいなぁ、町っていいなぁということ。
 ポリシーがない!日和見主義じゃないかと感じる方もおられるだろう。が、僕はそうした体験をいつもとても重視する。
 なぜなら、それが人の多様さだと思うから。
 僕は、人が自然を理解しようとすることを重要なことだと思うが、今はむしろ、文明を理解しようとすることの方が大切ではないか?と感じる。
 当たり前に電気を使うのではなく、あ〜、電気ってありがたいなと思えることが。
 その文明に対する感謝の気持ちが欠けていることが、人の傲慢な振る舞いに結びついているように思えるのだ。
 当たり前に文明の利器が使えると思っている人も、文明の利器を嫌っている人も、文明に対する感謝の気持ちが欠けているという意味ではよく似ているのではないか?と感じる。
 
 僕が冬になるとカメラを向けるカモの仲間の場合、全国を回ると餌付けをしてある場所があり、そこにいけば、鳥に逃げられずに近い距離で写真を撮ることができる。
 一方で、石川県の片野鴨池のように、遠くからガラス越しに観察させるようにして、鳥と人とを隔離している場所もある。
 そして、カメラを持って自分がそれらの場所を取材してみると、それぞれの場所に、それぞれの意義があると僕は感じる。
 鴨池のように、野生のものを野生のままに観察できる場所はとても大切。だが、実際にそれらの場所を訪れる人たちの様子を観察してみると、もうすでに自然にある程度以上のめり込んでいる人たち以外は、実に退屈そう。
 その点、餌付けをしてある場所は、子供たちだけでなく、おじさんやおばさんも楽しそうで、敷居が低い。
 餌付けが正しいとか間違えているなどという議論は、なんだかナンセンスに思えてくる。全国が餌付けだらけになるのは困るが、餌付けをしてある場所だってあってもいい。
 写真撮影だって、餌付けをしてある場所ならばでの楽しさもあれば、餌付けられていない生き物にカメラを向ける楽しさもある。
 よく、日本人ははっきりしないと批判されるようだが、僕は、そんな日本人が好きだ。

 

2008.2.21(木) 山陰 

 新聞に連載をしている関係で、昨年末に新聞の方と話をする機会があったのだが、
「こうとしか読めない文章があったとするなら、それは間違いなくいい文章です。」
 というその方の話が、僕にはとても面白く感じられた。
 自然写真の仕事の場合はどうだろう?と僕はそれから考え続けた。
 その前に、もしも文学作品なら、こうとしか読めない文章は、何の面白みもない、つまらない文章だろう。
 なるほどなぁ。文章の良し悪しというのは、誰に、どんな経路で、どんな目的で読んでもらうのかによって変わってくるんだ!
 文学のプロだったとしても、新聞記事を書けばただの素人かもしれないし、僕だってスナップ写真を撮ればど素人もいいところだし、イラストだって、編集だって同じようなものだろう。
 自然写真の場合は、その写真がどうにでも受け取れるようでは困るが、やはり文学と同じように、多少のりしろのような曖昧な部分を残しておくのが楽しい、と僕は思う。
 
 曖昧と言えば、以前は、
「あなたはやりたいことがあっていいですね。夢があっていいですね!」
 と言われるたびに、
「僕にとって自然写真は夢じゃない!現実だ。」
 と強く感じた。
 だが、最近になって、夢という言葉も悪くないなと思うようになった。
 一般的に、やりたいことを見つけましょうとか、私にはやりたいことがある!などという時のやりたいこととは、今すぐにしたいことではない。例えば、今晩のテレビの番組が見たいなどということを、人はやりたいこととは表現しない。
 やりたいこととは、将来にわたってライフワークとして取り組みたいことなのだから将来の話だ。
 だが、将来の自分がやりたいことを考えているのは、今の自分である。そして、自分はどんどん変わっていくのだから、厳密に言うと、タイムマシーンが存在し、未来の自分を見てこない限り、自分のやりたいことは何かはわかるわけがない。
 僕の自然写真だって、正確に答えるなら、やりたいことは何かを写真を撮ることによって探す行為なのだと思う。
 すると、夢という言葉の曖昧さが、何だかとてもいいものであるように思えてくる。
 さて、今日は最後の訪問地、山陰の海辺へ行ってみた。

 山陰の海辺と言えば、ひなびた小さな漁村と漁業。
 遠くを航行する漁船に海鳥が集っていた。

 それから、漁港と言えばトビ。

 そしてウミネコ。

 それから、山陰の海岸の岩場で砕け散る波。
 夢のような2週間が終わろうとしている。

 

2008.2.20(水) スナップ写真 

 写真の撮り方には大きく分けて2つの方法あり、1つは状況をよく計算して自分で予測したものを撮影する方法。そして、あとの1つは計算をせずに、流れに任せて写真を撮る方法だ。
 計算をせずに写真を撮るというのは分かりにくいかもしれないが、大まかに言うと、スナップ写真だと考えてもらえばいい。
 もちろん、計算をすると言っても1から10まですべて計算できるはずはないし、スナップ写真だって全く計算しないなんてあり得ないのだから、どちらに軸足があるかの問題であることは言うまでもない。
 僕は計算をする手法はともかく、スナップ的な写真は全く不得意であり、その才能は極めてゼロに近いと認めざるを得ない。スナップ写真なら、写真部の学生さんあたりでも、僕よりも遥かに上手い人が掃いて捨てるくらい存在するだろう。

 計算をするのか、それともしないのかについては、被写体によっても違ってくることが多く、例えば昆虫の写真家にはスナップ的な撮り方を得意とする人が多いように思う。
 ただ、スナップと書いたのは、それらの写真の多くは発想がスナップ写真なのであって、写真の絵柄はスナップ写真のものとは異なることが多いから。
 そして、自然にカメラを向ける人でスナップ写真の名手と言えば糸崎さんあたりになるのだろうが、糸崎さんの写真になると、絵柄までもが完全なスナップ写真になる。だから、木村 伊兵衛さんの下町のスナップ写真の人物の代わり昆虫が写っていると思えば理解しやすい。
 何かに徹している人の写真を見ると、ふと、その何かが理解できることがある。僕は、ある日、糸崎さんの写真を眺めているうちに、スナップ写真というのはまず面白ければいいのだということに気付いた。正確には、面白さ以外のことをすべて二の次だと考えると、全く手も足の出なかったスナップ写真が、多少撮れるような気がしてくるのだ。
 そこで今回の取材では、スナップした写真を16〜17日の日記の一番最初にのっけておいたら、翌日電話で話した方から、
「カモの写真がすごく面白いね。」
 と褒めてもらえた。
 なかなか気分がいい。

 何でスナップ写真に興味を持っているのかと言えば、そんな要素も大切だと思うから。僕らのような自然写真の仕事の場合、面白いということが非常に重要であり、スナップに限らず、何らかの形で面白いを盛り込まなければならない。
「あっ、記事を読みたいな。」
 とか、
「もっと写真を見たいな。」
 と思わせることが命だ。だから、僕はもしも自分の写真を誰かに託すのなら、面白いができる人に託したいと思うし、手堅く、破綻なくまとまっていることなどは二の次、三の次。
 だが、新聞や教材なら、また違ってくるだろう。その手の媒体の場合は、面白いは二の次、三の次であり、手堅く、破綻なくまとめることが大切であるに違いない。

 さて、今日は鳥取砂丘へと行ってみた。
 砂丘を撮影しておけば、いずれ僕の人生の中で一度くらいは写真が教材か何かに使われるだろうと考えたのだが、ゴミが凄くて、写真どころではない。

 

2008.2.19(火) 考え事 

 人間以外の動物には、写真という存在が果たして理解できるだろうか?
 例えば、犬に犬の写真を見せても、それは犬にとっては犬ではなく、ただの紙に過ぎないだろう。
 写真で犬を騙すことなら時にはできるし、犬と同じくらいの大きさの写真を作り、それを上手に犬にみせ、そこに犬がいるように思い込ませるなら可能に違いない。
 だが、それが紙だとよく分かった上で、それでもそこに写っているものを犬だとか、人間だなどと認識できるのは、ほとんど人間だけだろうし、仮に野生の生き物にそれができるとしたら、せいぜい、チンパンジーあたりの類人猿くらいではないだろうか?
 他の生き物の立場にたって考えるなら、人が写真を眺める行為は、実に不気味な振る舞いに違いない。
「新垣結衣ってかわいいなぁ。」
 などと多くの若者が写真という紙に夢中になるのである。
 被写体を、画像という別のものに一旦変換し、その変換された情報を頭の中でもう一度被写体に作り直す。人間には、そんな能力が備わっているようだ。
 よく考えてみれば、お金というシステムだって、人にそんな能力があるからそこ成り立つ。だから、会社で働いて米をもらう代わりにお金をもらい、そのお金を米に変換する。
 偶像を崇拝する宗教だって同じだろう。
 それを思うと、やっぱりチンパンジーには、写真は理解できないような気がしてくる。チンパンジーの世界に、お金に相当するものや宗教に相当するものがあるようには思えないから。
 どなたが、類人猿に詳しい方がおられたら、聞いてみたい気がする。

 さて、今日は琵琶湖に行ってみた。車道は見事に除雪されているが、歩道は雪でザックザク。

 雪でどこが道なのかがさっぱりわからないのだが、「カメラマンや釣り人にみなさんは、これ以上近づかないで」という看板があるところをみると、この辺りは撮影スポットになっているのだろう。
 今日は早朝に琵琶湖を発ち、一般道を走って鳥取まで移動したのだが、最近はいつも高速道路を使っているので、このあたりの一般道を走ったのは10年ぶりくらいになると思う。
 道路が随分変わっていることには驚かされた。
 さすがに一般道を走ると随分時間がかかったが、その間ずっと考え事をしながら車を走らせた。
 
 

2008.2.18(月) 滋賀へ 

 今日は移動日。ひたすらに車を走らせ、新潟から滋賀へ。
 早朝は、先日見かけたハクガンの群れを探してみたが、みつけることが出来なかった。
 その途中で、ヒシクイが随分道路に近い場所にいるなぁ、と喜んでカメラを向けてみたら、ヒシクイではなくて、マガンだった。実は、マガンも相当に警戒心が強い鳥なのだが、ヒシクイに比べれば、随分近づきやすいし、撮影しやすい。
 それにしても、マガンとヒシクイは同じようなタイプの鳥なのに、確実に警戒心の強さが違うのは、面白いことだなぁと思う。多分遺伝なのだろうが、何が原因で、そんな差が生じたのだろう?ヒシクイの方がマガンよりも外敵に狙われやすいような状況が過去にあったのだろうか?

(撮影機材の話)
 今回の取材では、ほとんどの撮影にニコンのD3を使用しているが、これは凄いカメラだ。さすがに、多くの一流プロが絶賛するだけのことはある。
 もちろん、何にだって欠点はあるのだから探せば悪口はかけるし、ネット上にはそんな記事も当然たくさんあるのだが、それらはクレーマーか、ネガティブキャンペーンレベルだと言ってもいいような気がしてくる。
 いや、クレーマーは言い過ぎかなとも思うが、一流の人が一流の仕事に使えるカメラなのだから、間違いなく悪いものでなく、D3は凄い製品だ。
 昨年、一昨年の取材では、ニコンのレンズにキヤノンのEOS5Dを取り付けて使用したりもしたが、似たような状況でたくさん写真を撮ってみると、D3の方が5Dよりも若干画質がいいように感じる。
 特に、条件が厳しくなればなるほどそう。どんよりと曇っていて極端にコントラストが低かったり、曇りの日の雪の中などは、D3は非常によく写る。
 ところで、僕は時々撮影機材に関して書くが、ニコンにしてもキヤノンにしても世界の一流品であり、世界の一流写真家が、「これはいい。」というものを並みの人間が偉そうに評価しているのだから、正直に言うと、厚かましいことだなぁと思う。
 
 厚かましいといえば・・・
 随分以前の話だが、僕は一時期、ありとあらゆる自然関係の出版物に目を通したことがある。そして、これはいい本だとか、これはつまらない本だなど、斜に構えて自分なりに評価してみた。
 だがその後、自分で本を作ってみてわかったことが1つある。
 それは、自然関係の単行本は、本の内容云々の前に、ちゃんとした出版社からギャラをもらって出版するだけで十分に評価に値するくらい難しいということ。
 だから、当時の僕なんかには、そのハードルを乗り越えて出版されている本を評価することなど出来なかったはずだ、と今は思う。
 もちろん、評価にもいろいろ種類があって、読み手としての評価なら誰でもできる。だが、一冊の本を作り手として評価するのなら、その本の周辺にあるものが一通り理解できなければならない。
 例えば、写真や編集やデザインのことはもちろん、経済や流通のことも。
 中でも、経済や流通は、僕が考えていたよりもずっと大切なことだったように思う。
 なぜなら、誰にどうやって本を買ってもらうのかが分からなければ、その本の編集意図は当然理解できないし、それが理解できなければ、良し悪しも何もないのだから。
 僕は、自分が箸にも棒にもかからないということを受け止めるのに、随分時間がかかった。
  
 

2008.2.16〜17(土〜日) 宮城〜福島へ 

 僕が子供の頃に、大人から言われていたことと言えば、ほとんどすべてが、
「他人のことを考えなさい。」
 だったように思う。少なくとも、
「好きなことを見つけなさい。」
 と言われた経験は、僕の場合はほとんどない。
 それが今では、ここ最近はまたちょっと変わってきたけれども、ひたすらに自己実現をしなさいと社会が言う。そして僕も、一般的に考えれば、その自己実現が、今のところとてもよく出来ているタイプになるのだろうと思う。
 だが僕は、実は自己実現をあまり考えたことがない。僕の場合は、もっと理屈ではないもの、そうせざるを得ないという何らかの力に動かされていることが多い。
 僕は、生き物となるべく長い時間接しながら暮らしたい気持ちが抑えられないのである。

 今回の取材では、僕のホームページをよく見てくださる山形県在住の方(以前にカタツムリをおくってもらったことがある)と合流して、一緒に写真を撮ることになった。
 一緒に写真を撮ると言っても、並んで記念写真を撮るのではない。野鳥にカメラを向けるのである。
 待ち合わせの場所に行ってみると、人見知りが激しいはずの僕が、あうんの呼吸。自己実現とかそんな難しい理屈抜きに、野鳥を見て、写真を撮ってひたすらに楽しい。楽しくて、抑えられない。
 そんな時間になった。

 残念ながら、山形県は天気が荒れ撮影が難しそうだったので、宮城県まで足を伸ばし、伊豆沼の周辺で写真を撮ることにした。
 すると、こちらは好天。
 僕一人なら、風雪の中ででも写真を撮ったのだろうが、今回はせっかく声をかけてもらったので、
「いい写真が撮れましたよ。」
 とどうしても喜んでもらいたくて、一路、宮城まで車を走らせたが正解だったと思う。
 楽しんでもらうどころか、いつの間にか、僕の方が喜んでいた嫌いもある。

 先日、友人がカモの写真を使った企画を考えてくれたのだが、いざ写真を提出しようとしたら、意外にいい写真がない種類がいくつかあったので、今年の水鳥取材は、受験で言うなら、弱点克服だ。
 まずはキンクロハジロ。このカモは、水の上で伸びをしたりとか横になったりと、だらしないオヤジを彷彿させる。

 それから、ホシハジロ。
 こちらは、上品なんだけど怖いおばさんがイメージ。目が厳しい。

 つい先日、ある方から、
「雁行っていいよね。」
 とメールをもらったのだが、その一言を思い出し、夕刻は、雁の群れが沼に帰ってくる様子を撮影。
 今回は気象とても条件がよく、いい写真が撮れたので、いずれどこかでお見せする機会があるだろうと思う。
 そして、ほぼ完全に日が暮れてから、二人旅もおしまい。また次回も一緒に写真を撮ることを約束してお別れだ。
 この日の宮城は天気は良かったのだが、風がとても強かった。マイナス20度でも、僕は風がなければ、ほとんど苦痛はないが、今日はマイナス1度台くらいだったのに、大変に寒さが堪えた。
 そのせいだろうと思うが、夕飯を食べ、温泉に入ると、体がポカポカして強烈な眠気が。そこで急いで高速道路に乗り、最初のパーキングエリアで横になったが最後、気が付いたらもう朝だった。

 今日は、早朝に宮城を発ち、途中福島県の猪苗代湖でカモを撮影。
 猪苗代湖に行きたかったというよりも、山椒漬けのニシン蕎麦が食べたかった。僕は蕎麦の味は、ほとんど分からないのだが、猪苗代の付近に毎回必ず立ち寄るお店があり、そこに行くと、美味しいなぁと思う。
 だが、調子に乗りすぎて、いろいろと食べ過ぎた結果、会計がなんと4200円・・・ 

 

2008.2.15(金) ハクガンを探して 

 昨日たまたま見つけたハクガンを、もう一度、今度はもうちょっと分かり易い写真を撮りたいなぁと思い、今朝は早朝から車を走らせた。
 が、どうしてもその姿を見つけることができない。
 残念。

 今日はハクガンの代わりに、コハクチョウにカメラを向けた。
 この辺りに住んでいる人にとっては何でもない景色なのだろうが、九州に住む僕にとってコハクチョウはおろか、カチカチに凍っている田んぼでさえ新鮮で気持ちがいい。
 生き物の撮影には時間がかかることが多いし、したがって何度も通うことができる地元の人にはなかなか勝てないものだが、逆に旅行者の方に見えやすいものもある。

  体を掻く。

 しなやかに羽を広げる。

 群れの中に、ちょっと顔が違うコハクチョウを見つけた。大多数のものよりも、くちばしの付け根の黄色が小さいのだが、するとくちばしがより長く見え、一瞬種類が違うものが紛れているのかと思った。
 カメラを向けてシャッターを押そうとしてさらに気付いたのだが、後ろに写っている子供のコハクチョウも、やはりくちばしの付け根の黄色の部分が小さい。
 その黄色が大きかったり小さかったりすることに何の意味があるのか?と問われれば、僕には返す言葉がない。客観的に考えてみれば、多分、それは多くの人にとって些細なことだろうなぁと思う。
 が、そんな些細なことまでもが、ちゃんと遺伝して脈々と伝わっていくことを考えると、つまり自然界のルールに則っていることを考えると、僕はやっぱり、神秘的だなぁ、面白いなぁと感じる。
 
 ところで、どうも昨日の日記の更新の際に間違えて、13日の日記を消してしまったようだ。いや、更新をしたつもりで、実際にはできていなかったのだろうか?
 確か、海野先生のスタジオに行ったことを書き、コハクチョウが餌を食べている様子の画像をUPしたはずだったのだが・・・。僕はパソコンにあまり強くないのでよく知らないのだが、復帰させる方法なんてないよなぁ?
 
 

2008.2.14(木) ヒシクイを探して 

 僕が新潟で是非撮影したい水辺の鳥と言えばヒシクイだ。ヒシクイはとても警戒心が強くて、これまでに、ヒシクイらしい写真が撮れたことは一度もないのである。
 だが、昨日海野先生のスタジオへ行った際に、
「結構近くで見たことがあるぞ。800ミリくらいのレンズがあれば十分撮れるだろう。」
 と先生が言う。海野先生は、写真のイベントで9年くらい連続してヒシクイの越冬地へと行った事があるのだそうだ。
 また、海野先生のパートナーである高嶋君も、比較的近くで見たことがあるという。
 ならば、僕の探し方に何か足りない点があるということになる。

 さて、どうしたらヒシクイに近づけるのだろうか?と考えた見た結果、1つの作戦を思いついた。今日は、いつもよりも町に近い田んぼを探してみることにした。
 町に近い場所では、生き物たちは自動車を見慣れているので、車をあまり恐れない可能性があり、もしもそうなら、車でそっと近づけばいいからだ。

 その考え方はそれなりに正しかったようで、今朝はヒシクイの小さな群れに比較的簡単に近づくことができた。さらにその写真を撮っていると、次々と別の群れが舞い降りてきた。
 超気持ちがイイ!

 ただそれでも、やっぱり警戒心は強く、800ミリクラスのレンズ(カメラはニコンD3)で、この程度の大きさにしか写らない。
 しかも、彼らは常に頭を上げていて見張り番の役割を果たしており、これ以上僕が近づくと、十中八九群れは飛び立つだろう。だから、奥で餌を食べたり、自然な振る舞いをしているヒシクイたちに近づいて大きく撮影することは、今日もやっぱりできなかった。

 ヒシクイを撮影していると、マガンの群れも舞い降りてきた。

 そして今日はなんと!珍しいハクガンが10羽以上の群れでやってきた。興奮。
 明日は、山形県へと移動の予定だが、午前中にもう一度ハクガンを探してみようと思う。
 
 

2008.2.12(火) 旅の途中で 

 取材に携帯しているノートパソコンはもうそれなりに古いものなので、弱った電池の減りが早い。だから、ホームページを更新したり、デジタルカメラで記録した画像を大きく拡大してみたり、ハードディスクへと移す作業の際には、車のエンジンをかけて電源を供給しなければならない。
 がしかし、温暖化が問題になっているこの時代なので、それはやはり気分が悪い。今回の取材はもう仕方がないとして、帰宅をしたら対策を考えようと思う。
 何かいい工夫をご存知の方がおられれば、是非教えて欲しい。

 今回の取材からでもできることがあるんじゃないか?、と真っ先に考えたのは、ノートパソコン用の新しい電池を、どこか途中のお店で買うこと。
 がしかし、パソコン用の電池はやたらに高いし、パソコン自体が古くてこの先の寿命があまりないのだから、やっぱり勿体無い。
 以前は、車のバッテリーのトラブルに備え予備のパッテリーを積み、そのバッテリーを常にフルチャージするようにアイソレーターと呼ばれる機械を取り付けていた。
 だが、バッテリーのトラブルを防ぐためには、予備のバッテリーを積むよりも、車本体のバッテリーのメインテナンスをしっかりとする方が効果的で、結局予備バッテリーはほとんど使う機会もなく、取り外してしまった。
 それをもう一度見直し、エンジンを停止中は、そこからパソコン用の電源を取るようにしようか?
 がしかし、僕はあまり機械が好きではないので、アイソレーターの仕組みも知らないし、仕組みが分からないものを使うのは、何だか不安な感じがする。
 車に強い人に、多少教えてもらう要があるだろうなぁ。
 
 今回は、パソコンなしでデジタルカメラの画像を保存できる、バッテリー内臓の携帯用ハードディスクを1つ持ち歩いている。確か、フォト・ストレージー(僕はカタカタが苦手なので、間違っているかも)などと呼ばれているタイプのハードディスクだ。
 それを使えば、パソコンを起動させなくても画像を保存できるから、僕にとっては都合がいい。が、残念ながら僕はそれを1つしか持っていない。
 デジタル画像は、機器の故障に備えて2箇所以上に保存するのが常識だから1つでは作業が完結しないが、あと1つ同じものを買い足せば、今回の取材でもパソコンを使うことなしにすべての撮影画像の保存ができるし、その時間の分だけは、車のエンジンをかけずに済む。
 だから、それを買うべきかなと考え、先日は、大阪の梅田にあるヨドバシカメラへと行ってみた。
 が、置いてあるストレージーの種類が少なくて選べないし、いずれもとても高価で手が出ない。僕が今使用しているのは、飛鳥社製のもので容量が80ギガ。そんなに高価だった記憶はないのだが・・・・。

 その後は、車が大阪の中心部を抜け出すことができず、上手く高速道路に乗れずに、もがいている間に2〜3時間が無駄に過ぎ去ったのだから、行くのをやめておけば良かった。
 そして、やっとの思いで高速道路に乗ったはいいが、今度は車の燃料がやばくなった。
 カーナビで調べてみると、ガソリンスタンドがあるパーキングエリアは、100キロ以上先になる。しかたなくまた高速を降り、燃料を入れるという段取りの悪さ。
 高速道路に乗る前にガソリンを入れなかったり、なかなか高速道路に乗れなかったり、高速道路上にガソリンスタンドがなかったのは、あとで考えるといずれも大阪の道路事情によるものだった。
 大阪の中心部では道路が2階建てになっているので、2階には路肩もほとんどなく、当然ガソリンスタンドなどもないし、また名古屋方面へ向かう高速道路に乗るためには、一般道を走っている時から、車が名古屋方面を向いていなければならないようだ。僕は、逆向きの車線を走っていたのである。
 もっとも、これは僕がここに書いても、関西に住んでいる人以外には分からないのかな?
 さて、今日はこれから長野へと向かう。

 

2008.2.11(月) 富山へ 

 いつもなら、関西から福井〜石川〜富山県をすっ飛ばし、一気に新潟まで行くのだが、今回は富山で高速道路を降りて、カモの写真が撮れそうな場所を探した。
 今日撮影した場所は何でもない池だったけれども、氷が張り、その上にコガモが乗っていたので撮影は楽しかった。
 コガモはとても小さなカモで、体重が軽いからだろうか、氷が張るとその上に乗りたがる傾向がある。
 昨日の画像のヒドリガモも氷に乗っているが、正確に言うと、ヒドリガモはあまり氷の上に乗ろうとはしない。だから、昨日の写真は、あまり典型的ではない写真になるだろうと思う。
 カモの仲間の場合、数種類が同じ池で見られることが多く、それらを比較しながら撮影していると、生き物の性質は体が表現するものなんだなぁ、としみじみ感じることがある。
 人間は心を重視する傾向が強いと思うのだが、体ってむちゃくちゃ大切なんじゃないか?と僕はそんな時考えさせられる。 

 氷が解けてしまったので移動しようかと思ったら、オスのオナガガモが喧嘩を始めた。
 メスは、
「私のために争わないで!」
 などとは決して振舞わないし、野生の生物の世界は全く民主的ではないように思う。
 人は自然の一部という考え方があるが、自分なりに一生懸命生き物たちを見つめてきた結果、僕は最近、なんだかそれは違うんじゃないか?と感じるようになってきた。
 人間の世界にしかないものが、間違いなく存在するような気がするのである。
 また逆に、人間の世界にはないものが野生の生き物の世界にはあり、そしてさらに、人間と他の生き物とで共通のものもある。
 人も自然の一部と言い続けていて、人類はこの先大丈夫なのかな?
 例えば、人間が食べ物を粗末にしたくないのは、教育の影響もあるとは思うが、僕は、人の動物としての本能もあるような気がする。今、食べ物を粗末にしている人でも、もしも飢餓を体験すれば、自然と食べ物を大切にしなければらないない気持ちが込み上げてくるような気がする。
 だが、二酸化炭素の排出の問題などは、そうはいかないだろうなぁと思う。人間の体は、本能的に二酸化炭素の排出を嫌がるようには、できていないと思うのである。
 今や人の暮らしは自然の枠組みをはみ出していると、いう自覚が必要なのではないか?と。
 
 

2008.2.9〜10(土〜日) 関西にて 

【2/9】
 旅の途中で関西に住む友人宅をたずね、本を作るための打ち合わせ。最近は本があまり売れなくなり出版は厳しいとされているが、打ち合わせは、ただ単に今取り組んでいる本の話ではなく、厳しい状況に、いかに対応していくかを踏まえた内容だ。
 つまり、友人と本を作ろうとしているのではなく、本の作り方を作ろうとしているのである。
 本は、作家が作りたいものを作れば売れなくなり、売れるものを作れば、内容がごく一般的でつまらなくなる傾向にある。
 つまり、趣味を取るか、仕事を取るか。僕らのジャンルは子供向けの本の世界になるが、だいたい市販されいるものを眺めてみても、その2種類の本に分類される傾向がある。
 例えば、
「あ〜、この本面白いなぁ。僕もやってみたいなぁ。でも、これは趣味の世界だよなぁ・・・」
 などと考えさせられることがある。

 さて、今僕らがやろうとしているのは、紛れもない仕事の本を、趣味のように作ることだ。
 出版社に勤務しているその友人に言わせると、それは、多くの人が、やりたい!と思っていることらしいが、勤めという形や枠組みの中では、なかなかできにくいのだという。
 だから僕らは自分たちの時間を使い、それを自主的にやって、仕事の本でありながら、どこにも仕事的な妥協のない本を作ろうとしているのである。
 僕は先日、小学校の教科書を分析し、自分が作ろうとしている本をそれに近づけようとしていることを書いたが、それだって、まさに仕事的な作業だ。だが、その仕事的な作業を、単なる事務作業のレベルではなく、これぞ、まさにプロ!というレベルでやりたいのだ。

 【2/10】
 スタジオで写真を撮ると、野外では何を撮るべきかが、逆に浮き彫りになってくる。
 例えば、スタジオには気象条件は存在しないが、野外にはそれがある。ならば、野外で写真を撮るのなら、氷、雪、雨などの気象条件は、是非写したいものの1つだ。
 今日は、ヒドリガモを撮影。
 僕は生き物を調査する活動にはほとんど興味がないので、正確なことは知らないのだが、僕の経験の範囲では、ヒドリガモは西日本に多い。
 だから、ヒドリガモを連日凍りつくような寒い場所で撮影した経験はあまりなく、しがたって、先日ヒドリガモの写真を探そうとしたら、雪や氷の上の写真が一枚もなかった。
 今朝はたまたま西日本が凍っていたから、迷わずヒドリガモの撮影に決めた。
 
 

2008.2.8(金) 宍道湖のマガン 

 僕は普段撮影の際には、太陽の位置を真っ先に確認することが多い。そして、その位置に合わせてカメラを構える方向を決める。
 僕の場合は、生き物の色や形が忠実に再現された、そして分かり易い写真を撮りたい気持ちが強いのだが、そんな写真が撮れる可能性が高い太陽の位置を、まずは選び出す。
 太陽の位置は、写真の大まかな雰囲気を決めることが多い。
 
 だが曇りの日の場合、太陽は隠れているのだから、その位置はあまり重要な要素ではない。だからその場合は、自分が写真を通して何を伝えたいのか、今度は具体的なイメージを考える。
 今日は島根県の宍道湖のほとりでマガンの写真を撮ったが、僕が写真に写したいのは単なるマガンではなく、山陰の、冬の宍道湖のマガンだ。
 僕にとっての冬の山陰は、ちょっと憂いがあり、寂しいけれども、何だか心安らげる場所。雪は、どっさり、ふかふかと言うよりも、氷が混じった感じ。
 今朝は、そんな場所にいるマガンを探して車を走らせた。
 
 ところが、そんな場所を見つけたのはいいが、マガンはただ休んでいるだけで、写真としてはあまり面白くない。
 これは、よく考えてみれば当たり前のことで、氷の上に餌はないのだから、そんな場所にいるマガンは、ひたすらに休みたいマガンだろう。
 一方で、隣の田んぼには背丈の高い草が茂っていて、そこにいるマガンは非常に活発で、食べ物を食べ、動き回っている。
 
 さて、どちらを撮影しようか?
 今日は、せっかく雪が降り氷が張っているのだから、氷の上のマガンが動き出すのを待つことにした。
 しばらくすると、やがてマガンが起き出し、隣の草丈が高い田んぼへ、小さな群れが一列になり歩き去った。僕は数枚シャッターを切った。

 僕は時々、撮影の際に考えた道順を、今日のように日記に書くことがある。
 すると、
「私ももっと考えて写真を撮らなければ。」
 と感想のメールが届くことがある。
 がしかし、そこにはしばしば誤解があり、僕は写真を撮ると同時に考えているのであり、決して考えてから写真を撮るわけではない。
 いや、もしかしたら、写真を撮ったあとで考えているのかもしれないなぁと思うことさえある。
 それは理屈ではなくて、感覚の話なのである。僕にとって、理屈はあくまでも後から付いてくるものだ。

 日本の学校教育は、理屈をちゃんと教えないからダメだと言う人がおられる。が、僕は、そんな日本の教育が間違っているとは思わない。
 教育は、頭におぼえさせるものではなく、体に叩き込むものだ、と思うから。
 もちろん、それがいつでも絶対的に正しいとは毛頭思わないのだが、例えば、日本の工業製品のレベルの高さを考えると、日本の教育の結果がつまらないとは、とても考えられないのである。
 
 

2008.2.6〜7(水〜木) 出発 

 今日から約2週間、車に寝泊りしながら水鳥を取材するが、ここ一ヶ月ほどは、その準備が本当に忙しかった。多分、先月から今日までの間に自宅のふとんで寝たのは、昨晩の1日だけだったように思う。
 他は、取材で車の中に寝たのが1晩あったが、残りはすべて、今回の準備のために事務所に泊まり込んだ。
 準備と言っても、取材そのものの準備は、仮に一ヶ月の取材でも、僕の場合は1時間もあればいい。だが、写真の貸し出しの仕事やその他、長期間事務所をあけるための準備には、それなりの時間がかかる。
 今日は、ひたすらに車を走らせる移動日だが、ただの移動にしてしまっては時間が勿体無いので、途中で高速道路を下り、過去に一度も行ったことがない場所を自分の目で見ておくことにした。
 今日の画像は、山口県の「きらら浜」という場所だ。
 今回は、山形県まで行く予定だが、九州から出かける場合、本当を言うと一ヶ月くらいの時間をかけたいところだ。そうすれば移動に無理がなくなり、穏やかな気持ちで写真が撮れるだろうなぁと思う。さらに北海道まで行くのなら、2ヶ月欲しい。
 現実には、それだけの時間を作り出すことができず、その倍のスピードで移動をするが、車の運転は辛いなぁと思う。僕はだいたい、移動があまり得意ではない。
 取材にでると、いろいろなことを考えながら運転するので、書きたいことがたくさん出てくるのだが、運転に疲れ、結局逆、淡々とその日のことを書くだけに終わることが多い。

 

2008.2.5(火) 野鳥の写真 

 先日、
「野鳥の写真もいずれどこかで形にしたい」
 と書いたら、ある方がカモの企画を考え、声をかけてくださった。ありがたいことだなぁ。
 しかも、その内容は、僕がやってみたいことによく一致する。僕がやってみたいこととは、夏と言えばカブトムシの写真が次々と売れるように、冬と言えばカモの写真がよく動くように、自分で出版の世界の定番を作ること。
 カモは冬の風物詩ではあるが、残念ながら今のところ、出版とはあまり結びついていないように思う。冬の出版の時期になったらカモの写真がバンバン動くなどという話は聞いたことがない。本当は野鳥の写真家がそんなことをやればいいと思うのだが、野鳥の写真を撮る人は、それよりも己の世界を極めることだけに興味がある人が多いように思う。
 カブトムシの場合、写真の用途は児童書だから、子供たちのアイドルという位置づけになるのだろうが、カモは、どんなコンセプトで売り込んだらいいのだろう?
 僕は、幼児向けの児童書の世界でたくさん仕事をしているのだから、カモが冬の児童書の定番になるように、児童書向けの写真を撮るのはもちろん、他にも、大人向けのもので、季語的な存在として売り込むこともできるだろうなぁ。すると、それはそれなりの写真の撮り方があるだろう。
 カモに限らず、季節の風物詩という切り口で、金魚やその他、生き物の写真がもっと流通するように働きかけていきたいのである。
 ともあれ、さっそくサンプル画像を送ろうとしたら、ちょうど一年前の長期取材の写真がまだ半分ほど未整理であり、なかなか肝心な写真が出てこない。
 いかんなぁ〜。

(撮影機材の話)
 カモには、金属光沢に近い質感の羽毛のものが存在する。そしてその色合いは、僕のパソコン上ではなかなか再現することができない。フィルムを使用していた時からそうだったので、元々出にくい色であることは間違いない。
 だが、他にも、その原因は僕のパソコンのモニターにもあるのだろうなぁと思う。僕は一般的なs-RGB対応のモニターを使用しているが、Adobe-RGB対応のモニターがあれば、その手の被写体に関しては、もう少し色がよく見えるに違いない。
 カモの場合はまだいい。s-RGBのモニターでも、経験さえあれば、支障はなく仕事はできる。
 だが、先日から撮影している金魚は、種類によっては赤が僕のモニター上ではなかなか再現できず、画像の処理に大変に手間取り、今のところそれを保留している。
 金魚の場合は、その赤が生命線なのだから、僕ははじめて、Adobe-RGB対応のモニターしかないかなぁと感じるようになった。長期取材から帰宅をしたら、それを一台調達しようと思う。

 

2008.2.3〜4(日〜月) 準備 

 7日からしばらく取材にでかけるため、ここのところは、その準備で忙しかった。
 まずは、アメリカザリガニの撮影に区切りをつけること。これは当初なかなか上手く事が運ばず、下手をすると今回の取材が中止になる可能性だってあった。
 現実に、この冬予定していた2つの長期取材のうちの1つ、韓国で予定していた水鳥の撮影は中止せざるを得なくなった。
 だが、その後は調子もあがり、依頼されていたほぼすべてのシーンを完璧に撮影でき、日本での取材に関しては、なんとか時間を確保できた。

 それから、写真の貸し出しの仕事。
 写真は、貸し出したからといって絶対に使用されるわけではない。だから最初はまずサンプルを提供し、使用が決まってから本物のデータを送るケースが多いが、留守の間にデータを送ってくれ!と求められても、応えられないので困る。
 そうなると僕の売り上げが少なくなるだけでなく、相手にも大変な迷惑を掛ける。担当者は新しい写真を大急ぎで探したり、それに伴ってレイアウトが変わったり、時にはストーリーまでもを変更しなければならないだろう。
 そこで先方に事情を話し、写真の使用の有無に関わらず、あらかじめすべてのデータを送っておくことにしたのだが、今年は非常に写真の貸し出しの依頼が多く、その作業に大変に手間取った。

 それから、生き物の飼育。
 飼育は、留守の間、アルバイトの人にお願いをするが、そのためには、飼育室を分かりやすく整理しておかねばならず、今日はそのための作業だ。
 一番気がかりなのは、水槽の中に入れてあるヒーター。ヒーターは、下手をしたら火事の原因になる。だから、どうしても必要な3つの水槽をのぞいて、他のすべてのヒーターはコンセントを抜いておくことにした。
 実は、つい先日、新たに一匹のアメリカザリガニのメスが卵を産んだ。だが、そのメスが入っている水槽のヒーターも電源を落としたのだが、その結果卵がどうなるかに関しては、2つの可能性が考えられる。
 1つは、温度変化の結果、卵が死んでしまう可能性。
 そして、あとの1つは、温度が低くなった結果、卵の成長が遅くなり、2週間の取材から帰宅してもまだ卵のままで残っている可能性。後者の場合、春になる頃に卵が孵るはずだから、帰宅後にアメリカザリガニをまた撮影できる。
 最初に書いたように、今回のアメリカザリガニの仕事は、なかなかいい結果が出ているのだが、その場合は、それにだめを押すことができるだろう。

 

2008.2.1〜2(金〜土) 自分らしさ 

 アメリカザリガニは、自分の腹部に卵を抱えて守る。
 その後、卵が孵化をすると、子供たちはしばらくその腹部に留まり、親の背中の上に乗っかってみたり、辺りを散歩したり、また親の腹部に戻ってくることを繰り返す。
 一方でメス親は、子供たちがある程度大きくなるタイミングで、脱皮をすることが多い。今シーズン僕がカメラを向けたメス親も、つい先日古い殻を脱ぎ捨てたが、するとそれが親子の別れになる。
 子供たちは脱皮殻の周囲には集まるが、抜け出した親の本体にはほとんど興味を示さない。子供たちの目に、親の抜け殻はどう映るのだろう?

 脱皮した親をそのまま水槽に入れておくと、親は抜け殻を食べてしまうが、今回はメスを水槽から取り出し、脱皮殻の方をそのまま置いておくことにした。
 すると、子供たちが少しずつ抜け殻を食べ、今日は殻の尾っぽや脚がバラバラになった。
 写真には大きく分けると2つの撮り方があり、1つは被写体そのものを写すような撮り方。
 そしてあとの1つは、写真に自分の内面を写し込み、写真を通して自分自身を表現するような撮り方だ。写真の世界でアートという言葉が使われるのは、大抵は、自分の内面を表現している写真に対してであり、写真がきれいかどうかで、アートかどうかが決まるわけではない。
 抜け殻にしがみつく。そして、やがて、その抜け殻への興味は少しずつ薄れ、今度はその抜け殻を食べ始める。
 それに自分を重ね合わせてみることだってできるし、そんな世界だってある。

 だが僕は、アートの世界には、ほとんど興味がない。僕が表現したいのは自然そのものであり、自然を通して人間社会に対して自分の意見は言うが、伝えたいのは自分の内面ではないし、それこそが僕の自分らしさなのである。
 自分らしさを勘違いしている人は多いように思う。俺は!俺は!私は!私は!と主張することだけが、自分らしさだと勘違いしている人たちだ。その手のオレオレは、大抵はただの我ままであり、自分らしさでも何でもないことが多い。
  
 さて、なぜ、抜け殻の方を水槽に残し、抜け出した親の本体を水槽から出したのか?と言うと、ザリガニの子供は、どうやって親を認識しているのかを知りたかったからだ。
 たとえば、ザリガニの子供は親の背中でよく遊ぶが、それは殻でもいいのか、それとも中味が詰まったザリガニでなければならないのか?
 もしも中味が詰まったザリガニでなければならないのなら、親のどの部分をみているのか?親の動きなのか、何か合図でも出しているのか・・・・。
   
   
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2008年2月分


このサイトに掲載されている文章・画像の無断転用を禁じます
Copyright Shinichi Takeda All rights reserved.
- since 2001/5/26 -

TopPageへ