撮影日記 2008年1月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2008.1.30(水) 新しい機材 



 一般的に、カメラは高画質なものほど取り扱いが難しくなり、サイズも大きくなる。
 だから、風景のように逃げないものを撮る場合には、多少取り扱いが難しくても高画質なカメラが好まれ、逆に昆虫のように急いで撮らなければ逃げる相手の場合は、画質は落ちても、操作性の良いカメラが好まれる傾向にある。
 だが僕は、それでも高画質なカメラにこだわっている。
 操作性に関しては訓練をすればいいのだし、カメラの大きさや重さに関しては、今はまだ体力も十分にあるのだから、ちょっと頑張ればいい。
 だが、高画質なカメラでは絶対に撮れない被写体があるのなら、その時はカメラの画質にこだわるつもりはない。
 たとえば、水深7センチ程度の浅い水中を、高画質なカメラで撮ることは不可能だ。なぜなら、カメラが大きくて、そんな浅い場所には沈まないのだから。
 がしかし、コンパクトタイプのカメラなら、その程度の水深の場所でも沈めることができるし、写真が撮れる。
 そこで、浅い水辺専用の撮影機材を注文していたのだが、昨日それが届いた。

 さて、特殊な撮影機材は、人には見せない方が、僕にとって得だと思う。なぜなら、機材を見せれば、何が肝心なのかが人に知られてしまうから。
 たとえば今回の機材なら、カメラの側面に三脚を取り付けるためのネジがあるが、なぜそんなところにネジがあるのかと言えば、カメラを地面スレスレに構えるためだ。普通のカメラのように、カメラの下に三脚を取り付ける穴があると、少なくとも三脚の大きさの分は、目線が高くなってしまう。が、それが横にあれば、上手に三脚を使えば、地面ギリギリにカメラを構えつつ、そのカメラをしっかりと三脚で固定できる。
 が、そう思ってはいるものの、今回の機材は極めつけにできが良く、嬉しさを抑えきれなくなったので、こうして紹介してみることにした。もう、あり得んと言うくらいに完成度が高いのである。
 これを作った人に関しても教えたくはないのだが、これだけの技術の持ち主を隠しておくわけにはいかないだろう。
 
 

2008.1.29(火) 新しい本 


 旺文社から新しい本が発売される。本は全5巻。『ぼくたち親子だよ』というシリーズで、1巻がダンゴムシ、2巻がアシナガバチ、3巻がカタツムリで、4巻がアメリカザリガニ。そして5巻目がアマガエルだ。
 1巻と2巻は昆虫写真家の新開孝さんが撮影し、僕は残りの巻の写真撮影を担当した。文章は3人の作家さんが書いた。

 僕は今、幼児向けの本の仕事を数多くこなしているが、幼児向けに限ると、何か特定の生き物の生き方を紹介するものよりも、いろいろな生き物の面白い特徴をまとめたものが多いように思う。
 つまり、広く浅くの傾向にある。
 幼児向けなのだから、それでいいような気もする。だが、たとえ幼児向けであっても、逆であって欲しいような気もする。なぜなら、生き物を理解する際の基本は、まず最初に、種類ごとにその生き方を知ることだと思うから。
 一方で、何か1つの生き物について取り上げると、生き物好きの子供しか面白いと感じられない本になってしまう嫌いがある。
 本当は、そんな本を作ることが一番面白いのだと思う。
 が、好みがはっきりしてくる小学校の高学年くらいが対象の本ならともかく、幼児向けの場合、やっぱり広くみんなが読める本でなければならないだろう。
 そこで、何か作戦を立てて、1種類の生き物についてその生き方を取り上げた本を作ってもらえるように色々と仕掛けていこうと思うのだが、その第一弾がこのシリーズだ。
 ○○の生態というような切り口ではなく、子供にも分りやすい親子をテーマにすることで、結果的にその生き物の生態について知ってもらえるような本にしようと僕は考えた。
 ただ、自分だけの力ではそれを試すことができそうもなかったので、新開さんに手を貸してもらい、助けてもらってシリーズが完成することになった。
 出版の場合、インターネットなどとは違っていろいろな人の意向があり、自分がやりたいことをすべてできるわけではないので、思い描いた通りにできなかった部分もある。
 が、それはそれで面白いし、今後ももっと作戦を練り、チャレンジを続けたい。

 

2008.1.28(月) 人工物 

 僕は野生の生き物が好きだから、品種改良を重ねた生物にはあまり興味を持ったことがない。たとえば犬なら、日本犬のような犬らしい形をしたものが可愛いと感じるし、逆にチワワやダックスフントのような作り込まれた犬は、あまり可愛いとは感じない。
 当然、品種改良の塊である金魚にも興味を持ったことはなかったし、むしろ、人が徹底して手を加えたオゾマシイ世界だと思い込んでいたことは、以前にも書いたことがある。
 ところが、いろいろと縁あって金魚を撮影してみると、その面白さが徐々に分ってきた。僕にとっての金魚の魅力は、遺伝の不思議と品種改良にかける人の思いだ。
 だから金魚の場合、品種の特徴がよく出ているものを手に入れなければ面白くない。
 
 さて、昨年末にある方から、
「武田さんは自然が一番美しいと思うかもしれませんが、建築家には、人工物こそが美しい!って言う人が多いんですよ。」
 と言われて、ハツとさせられた。確かに、僕は自然物が一番美しいと固く信じていた。
 そして問題は、それを真理だと思い込んでいたことである。
 何かを一方的に信じ込んでいて、決まったことしか言わない人との会話は、相手にしてみればしばしば虚しい。そして、僕は自然について伝えたいことがあるのだから、相手から、会話ややり取りが虚しいと思われてはならないのである。

 

2008.1.26〜27(土〜日) レンズの性能 

(撮影機材の話)
 写真の画面の中のピントが合っていない部分のことを、ぼけという。そして、そのぼけの部分の描写はレンズによって異なり、ぼけ具合のことをボケ味などという。
 ぼけ味は、写真の雰囲気をかなり大きく左右する重要な要素の1つだ。だから写真家はしばしばレンズにこだわる。
 そして、
「あのレンズは、ぼけがいい。」
 とか、
「あのレンズは、ぼけが悪い。」
 などという会話が繰り広げられる。

 僕が最近主に使用しているニコンの手ぶれ防止機能付きの105ミリマクロレンズは、ボケがきれいなレンズだと言われている。
 が、いろいろな状況で使用してみると欠点もあり、ピントが合っている部分の奥のぼけ(後ぼけ)はきれいだが、手前のぼけ(前ぼけ)が随分汚い。僕が今撮影しているザリガニの写真で言うと、ザリガニの奥の水草はきれいにぼけるのに、手前の水草のぼけは汚いのである。
 そこで、他のレンズを試してみたら、タムロン社製の90ミリマクロレンズの描写がいいことが分った。今日はレンズを取り替えて、タムロンでアメリカザリガニを撮影してみた。

 タムロン社製の90ミリレンズは、大変に評価が高いが、なるほど!と思う。
 一般に、前ボケがきれいなレンズは後ボケが汚く、後ボケがきれいなレンズは前ボケが汚いと言われているが、タムロンはそのバランスが絶妙!

 一方、白の背景の上での標本的な写真を撮る場合、レンズのボケ味の良し悪しは全く関係ない。この手の写真の場合は、レンズが細密な描写をすることが非常に重要だが、今日はニコンの60ミリマクロレンズを試してみたら、どの100ミリクラスのレンズよりも一段シャープな描写をすることが分った。

 

2008.1.25(金) 説明 

 被写体をきちんと説明することは、とても難しい。
 たとえばアメリカザリガニなら、長いひげが2本と短いひげが4本。
 口のところには、鎌のような形をしたものを掴むパーツが2つ。
 脚は、片側に大きなはさみ付きが1本と、小さなものが4本。そして小さな脚のうち、前の2本には小さなはさみがあり、後ろの2本は先端が尖った形になっている。
 その特徴のすべてが写っているような写真は、よほどに数を打たなければ撮ることはできないし、ここのところ撮影しているザリガニや金魚のような被写体なら、僕の場合1カット撮影するのに、まず試しに2時間程度写してみようか!というくらいの気持ちでカメラを構えることが多い。

 だが、最初から説明しようとして撮った写真は、大抵はダメ。ダメと言っては言い過ぎかもしれないが、そのレベルの写真では、自分の写真を選んでもらうことが難しい。
 基本は説明しようとするのではなく、生き生きとしたザリガニの写真を撮ろうとすることで、その過程で偶然に写った、ちゃんと被写体を説明出来ている写真が、よく売れる写真だ。
 実は、カメラマンにとって被写体をちゃんと説明できているかどうかは、しばしば大した問題ではない。僕にとっても、ザリガニの脚がすべて見えるかどうかは、あまり重要なことではないし、むしろ、ザリガニが凛々しく写っていて欲しいと思う。
 だが、本作りをする編集者にとっては、写真に説明力があることはとても重要なことのようだ。
 だから、ただ説明しただけの写真は編集者に媚びた写真。説明という意識が感じられない写真は、仕事の経験があまりない人の写真。他人の写真を見れば、その人がどんな意識で写真を撮っているのかを、多少ではあるが、うかがい知ることができる。

 

2008.1.23〜24(水〜木) 親子 

 僕は、必ずしも自分と同じ意見の人が好きなわけではない。
 自分と違う意見も認めなければならないとか、そんなことではなくて、違う意見の持ち主との会話の方が楽しいから。そこには、僕にとって新しいものがあるから。
 たとえば、僕は日々写真の技術にこだわり、自分ならこう撮るという意見を持っているのに、その僕のやり方とは違う方法で、僕がいいなぁと感じる写真を撮る方もおられる。
 面白いなぁと思う。

 さて、生き物に、人間のような感情は存在するのだろうか?僕は、類人猿にはあるような気がするが、大半の動物にはないような気がする。
 なぜか?と言えば、人間の感情は、想像力の上に成り立っているから。そして、多くの動物には、人間のような想像力はないような気がする。
 たとえば、思いやりがそう。自分が自分の立場から物を考えるのではなく、相手の立場になりきって考えてみる。自分の脳のなかに相手を作り、そうして作った相手の中に自分の脳を入れてみるのだから、それは随分高度なことだ。
 
 だが、動物にも感情があると信じる人がいてもいいと思う。そして僕は時として、本気でそう信じる人が好きだ。
 ただし、それを利用する人は、あまり好きではない。本気で信じているわけでもないのに、自然保護を訴える時に、動物にも感情があるかのようなことを主張する方がしばしばおられるが、止めてくれ!と懇願したくなる。
 自分の主張に大義名分が必要な時にだけ、都合よくそんなものを持ち出すのではなくて、自分の意見を述べて欲しい。自分の論理で説得して欲しいと思うのである。
 僕は、ザリガニの親子を撮影する時にはいつも、動物にも感情はあるのだろうか?と考える。
 
 

2008.1.22(火) 教育 

 僕は、何をするにせよ、それが役に立つとか立たない、などとは考えたくない方である。たとえば、僕の写真が何かの役に立つから自然にカメラを向けるのではなく、僕自身が面白い!撮りたい!と感じるから、僕はカメラを手にする。
 それが、結果的に人の役に立つことはあるだろうと思う。
 が、最初から何かに役立てようというような発想は僕の好みではないし、僕は誰かが無心になって取り組んだ仕事が好きだ。
 もちろん、それがすべての職種に当てはまるわけではない。中には、役立つことを考えなければならない職業だってある。
 ただ、生き物の研究や自然写真に関して言うと、役に立つからと言うのは、ちょっと下心がありすぎるのではないか?と感じる。
 
 一方で、僕らは、役に立つことを求められることが多い。
 たとえば、
「僕のこの写真を本にすることは、こんなに社会にとって意義があることなんですよ!」
 と上手に説明できれば、その企画は成立する確率が高い。
 だから、今の僕の悩みはそこにある。
 役立てようとすることで、自分が伝えたいことが伝えられなくなったら意味がない。
 これが一番重要なことだ。
 だが、それが両立でるのなら両立した方がいいし、両立できるのが、僕が考えるプロの自然写真家である。
 
 さて、自分の写真を一体どういう風に役立てようか?僕は今、教育という部分を研究中だ。
 なぜなら、日本の自然を大切にすることを考えた時に、やっぱり教育は重要だと思うから。
 大人に、
「虫を好きになれ。」
 とか、
「虫を知れ。」
 と言ったってほとんど無理な話だが、子供なら可能性があるだろう。
 そして、その重要性をよく考えてみると、役に立つかどうかなんて考えたくないという僕のポリシーは、些細なことなのかもしれないなぁと思う。
 また、子供向けの生き物の本の中で、学校や教育とは無縁なところで手に取られるものは、ほとんどないのでは?そして、教科書に準じた内容の本は、やっぱりよく売れるのだという。
 ならば、それを生かさない手はない。
 そこで、小学校の理科の教科書を、4年生〜6年生まで全社分取り寄せてみた。
 
 ところで、小学校の先生で、その程度の努力をしている人って、どれくらいいるのだろう?
 
 

2008.1.21(月) 目処 

 アメリカザリガニの子供がさかんに動き回るようになり、これからザリガニの撮影が本格的になる。
 この撮影は、ザリガニがなかなか卵を産まなかったため、本来の予定よりも一ヶ月以上遅れているのだが、その影響で幾つもの仕事が重なり、ここのところは思いがけず非常に慌しかった。
 特に1月末〜2月にかけて予定している野鳥の長期取材は、ザリガニの撮影が一段落終らなければ出発ができないのに、それがいつになりそうなのかの目処が立たず、予定を組むことができなかった。
 が、子供が親の体を離れて水槽の中をウロウロするようになると、だいたい先が見えてくるので、ようやく野鳥取材のことを考えられる状態になった。
 あと3週間以内には、恐らく自由の身になれるだろう。

 ザリガニと言えども、子供を抱えると神経質になるため、親子の撮影はなかなか難しい。
 だから、ザリガニの親子はこれまでにも散々撮影してきた撮り慣れたシーンであるにもかかわらず、また撮影するとなると、一抹の不安や自信のなさが時々顔を覗かせる。
 難しいものは、やっぱり難しいのである。

 

2008.1.19〜20(土〜日) 比較 

 僕は今のところ、仕事で主に使用するカメラは、35ミリ判フルサイズセンサーのカメラだと決めている。
 理由は幾つかあるが、例えば、野外で小さな生き物を撮影する場合でなら、ファインダーの見易さがある。
 以前に、ニコンのD2X(200ミリ)とキヤノンのEOS5D(300ミリ)とで、飛翔中のトンボを散々撮り比べてみたことがあるのだが、フルサイズセンサーのEOS5Dの方がファインダー像が大きい分ピントが見やすく、撮影した写真も、明らかにピントが合っている確率が高かった。
 特に僕の場合、絞りをあまり絞らないので、シビアなピント合わせが求められる。
 被写体がトンボではなくて野鳥なら、若干話は変わる。なぜなら、野鳥の場合は飛んでいる被写体を撮影するのにオートフォーカスが極めて有効であり、カメラにピント合わせを任せておけばいいのだから、ファインダーは、そんなに大きな必要はない。
 だが、オートフォーカスが全く通用しないトンボは、自分でピントを合わせなければならないし、飛んでいるトンボが一番撮りやすいカメラ。それが、僕が機材を選ぶ際の1つの基準だ。
 
 またスタジオで写真を撮る場合には、35ミリ判フルサイズセンサーのカメラの方が画質にゆとりがある分、白の表現がいい。
 だから、白の背景で白っぽいものを表現しなければならない場合、35ミリ判フルサイズセンサーの方が撮影が楽になるし、画像処理も簡単になる。
 今日の画像の場合は、金魚のヒレの表現である。

 動かないものなら、ライティングを工夫すればいいのかもしれないが、動く被写体の場合は、ライティングは大まかにならざるを得ないし、その分、カメラのポテンシャルは高い方がいい。
 特に、昨年末に購入したニコンのD3は白の表現がいいので実に扱いやすい。白の表現に関しては、EOS5DよりもD3の方がいいように思う。

 ニコンのD3は、僕が過去に使用したことがあるデジタルカメラの中では、一番フィルムっぽい感じを受ける。ほぼ同じ規格のEOS5Dの画像が非常にデジタルっぽいシャープさであり、一瞬画像を見たときにオッと驚かせるような先鋭さがあるのに対して、D3は、マイルドなんだけどシャープ。
 だから、あまり写真が分らない人に画像を見せる場合は、キヤノンがいいかなと思う。だが、写真がわかる人が相手の場合、D3の画質は好ましいように感じる。
 ただし、僕は高感度を全く使わないので、それはすべて低感度で撮影した場合の話。
 それから、僕はRAW現像の際に純正のソフトを使っていることを書き加えておかなければならないだろう。ソフトの影響も少なからずあるだろう。
 そしてあと1つ。D3と5Dに違いがあるといっても、一般的に言うとそれは実に細かい話であり、誤差のレベルであり、被写体によりけりだろう。
 
 

2008.1.18(金) 品種 

 今回僕は、生まれて初めて金魚の品種について調べ、品種を指定した上で数匹の魚を取り寄せた。昨日の画像は丹頂という品種。今日の画像は、赤出目金である。
 ギャラが無限にあればなぁ・・・どうせなら最高級の魚を取り寄せて撮影したところだが、今回は、無限どころかむしろ安い部類の仕事に入る。
 だが、その全額を握りしめ、僕は先日ペットショップをたずねた。

「金魚を買いたいのですけど・・・・」
「どんな金魚ですか?」
「撮影用に全部で12種類。マニアックなヤツではなくて、代表的な品種で・・・」
「代表的というとまずは和金ですね。それから流金、ランチュウ、丹頂、出目金、オランダ獅子頭、・・・・といったところかなぁ」
「予算が全部で○万円くらいだから、その額に収まる様に、どの品種にお金をかけるべきか、社長が考え取り寄せてもらえますか?」
「わかりました。流金や和金はそんなに高くありませんが、ランチュウだけはいいものは別格なので、今うちで売っている安いものの中から選んでください。そうしないと、ランチュウ1匹で全予算の○万円を超えてしまいます。」
 かくして、まずは4種類の金魚がうちにやってきたのである。

(お知らせ)
 サンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は1月19日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。

 

2008.1.16〜17(水〜木) 権威 

 写真家が、依頼されたわけでもないのにライフワークとして撮影する写真を、作品という。そして大抵の場合、その作品でお金を稼ぐことは非常に難しい。
 それがどれくらい難しいか?と言えば、僕の場合、写真家を志した当時に、これくらい頑張れば100万円くらい稼げるのかな?と思っていた努力で、だいたい1万円くらい売り上げがあがるように感じる。
 つまり、僕の当初の予測よりも100倍難しいかったことになる。
 決して甘く見ていたわけではない。十分過ぎるくらいに厳しく見積もっていたつもりなのに、それ以上に、遥かに現実が難しかったのである。

 だから時々、
「作品では飯は食えないよ。」
 という方もおられる。
 が、僕はその意見には、完全には同意することができない。確かに、作品だけで飯を食っている人はいないのかもしれないが、それなりに、自分の思いを実現している写真家もおられるからだ。それは間単に言えば、先生と呼ばれている人たちである。
 どうも作品というヤツは、その一枚の写真がどうなのか?以外に、誰がその写真を撮ったのかも重要になってくるようだ。
 それを、日本の社会が権威に弱いという見方もできるのかもしれないが、違う見方をすれば、日本では下積みが必要だとも言える。
 話はちょっと変わるが、先日、あるところでスポーツ選手を特集した子供向けの読み物を見せてもらった。
 そしてその本を担当した編集者が、
「イチロー選手に会いましたよ。」
 と自慢するから、ならば僕も、新垣結衣を生で見てみたいなぁと思い、
「アイドルなんかを取り上げる企画はないのですか?」
 とたずねてみると、横にいた社長さんが、
「アイドルは不祥事があり得るでしょう。でも、一流のスポーツ選手は、あんまりそんな心配をしなくてもいいから。」
 と教えてくださった。つまり、社長さんは、その人が努力をしてきたという確かな証や確実性をそこで求めたことになる。
 権威も、そんな証明書のようなものなのだろうと思う。
 ならば、僕も権威になりたいなぁと思う。権威自体にはあまり興味はないが、僕も作品をバンバン発表して、見てもらいたいのである。
 では、権威になるためにはどうしたらいいのだろう?僕は今権威ではないので、それが分らないのだが、まずは依頼されたものであっても、ちょっとでも人よりもいい写真を撮り、山ほど仕事をこなして、実績を積もうと思う。

 さて、金魚の撮影が始まった。
 こうした撮影は、作品でないが、これはこれで面白い。
 ただ、面白かったからと言って、それだけを撮影するカメラマンにならないように、気をつけなければと思う。

(お知らせ)
 サンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は1月19日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。

 

2008.1.15(火) 4年 

 僕は最近、ほぼすてべの仕事を、デジタルカメラでこなしている。
 デジタルカメラで写真を撮っているという意味ではない。僕の事務所から写真を貸し出す場合に、昔撮影したフィルムは使わずに、デジカメで撮影した画像を貸し出しているという意味だ。
 フィルムを使わない理由は幾つかあるが、まず僕の場合、写真の整理が悪くて、目的とする写真がなかなか出てこないこと。
 それからフィルムを直接に貸し出すと紛失が怖いし、かと言って、デジタル化したものを貸し出そうとすると、スキャンに時間がかかるから。
 が、今日はそんな僕が大量にフィルムをスキャンして、昔撮影した写真を貸し出すことになった。ある1つのシーンを撮影した写真が大量に使いたい、とリクエストを受け、デジタルカメラで撮影した画像だけでは数をまかないきれなかったである。

 さて、以前、僕が一番恐れていたことと言えば、火災などですべてのフィルムを紛失することだった。フィルムを失うと、写真を貸し出すことができなくなり、生計が成り立たなくなる。
 だがデジタルカメラになってからは、画像のコピーを複数の場所においてあるので、その心配から開放された。
 僕がデジタルカメラを導入した大きな理由の1つは、そこにある。
 動物の写真で飯が食えるようになるには10年かかるとか、15年かかるなどと言われるが、その間に写真家は何をしているのかと言えば、主に貸し出しのための写真を溜め込んでいるのであり、写真こそが、全財産であるとも言える。 
 だが、ふと考えてみると、僕はここ2年くらいはフィルムをほとんど貸し出してない。僕はデジタルカメラで丸4年ほど撮影したのだが、今の僕は、4年あれば、だいたい写真を撮りながら暮らしていける状況を築けるという計算になる。
 デジカメの導入で写真をすべて紛失する危険性は非常に低くなったのだが、フリーの写真家である限り、今後も何が起きるか分らないという面は常に付きまとう。
 だが多少のアクシデントがあったところで、4年死に物狂いで頑張れば、だいたい何とかなるということなのだろう。

 

2008.1.12〜14(土〜月) 喜びすぎたら・・・ 

 この冬はアメリカザリガニの撮影を予定しているのに、肝心なメスが、なかなか卵を産まなかったことは、以前に書いた。
 そしてその後、ある1つの条件を変えて飼育してみたら、やがて一匹のメスが卵を産み、さらに、その5日後に別の1匹も卵を産んだことから、ザリガニが卵を産まなかった理由に関して、1つ可能性が浮き彫りになった。 
 その1つの条件は、同じ水槽の中で育てていた水草をよく育成する条件と相反し、僕は水草の育成を優先していたため、そんな結果になってしまった可能性が高い。
 ともあれ、うまくいかなかったことで、1つ新しいことが分った。
 そんなことを積み重ねていけば、やがて、その生き物に関しては、かなり自在に操れるようになるし、写真が撮れるようになる。
 そうなって初めて、写真を撮影することで利潤が上がるようになる。
 その後、2匹のメスが産んだ卵のうち、1匹のメスが抱えていたものが腐って死んでしまった。だが、あと1匹のメスが抱えている卵は順調に育っているから、その1匹にかけるしか、僕には選択肢がない。

 今日は、ふと飼育水槽をのぞいてみたら、卵を産まなかったメスの甲羅が少しずれていて、脱皮寸前であることに気付いた。
 実は、ザリガニの場合、脱皮の撮影は、昆虫などに比べると辛抱を要する。昆虫の場合、その個体が成長するまでに何度脱皮をするかが決まっているので、ある一定の時期の間に必ず脱皮が見られるが、ザリガニの場合はそうではないので、いつ脱皮をするのか検討をつけにくいのである。
 儲かった、儲かった!こんな機会に脱皮を簡単に撮影しておけば、仕事になる。すると、その分の時間がいずれ浮くことになり、代わりに何か自分が好きなものを撮影することができる。
 例えるなら、貯金のようなものである。
 しかも、今日のザリガニの動きはとても撮影がやりやすい。最高のモデルだ。これは、凄くきれいに撮れる予感がするぞ!、と自然と顔がニヤケ、嬉しくなる。
 そして、撮影は順調。
 が、ちょっと向きが悪いなっと水槽に手を突っ込み、ザリガニの向きを微調整をしようとしたら、うっかりして水槽の砂利を多少巻き上げてしまった。
 
 結果、ザリガニの周りに浮遊物が大量に写り、写真は没。
 あ〜、喜び過ぎた。
 
 

2008.1.10〜11(木〜金) 編集者 

 先日上京した際に、ある出版社で、
「うちで今自然の本を作っている編集者は、僕だけなんだよ。」
 と言われて、ちょっと驚いた。
 なぜなら、そこは子供向けの自然の本をたくさん出してきた、老舗と言える出版社の1つだったから。
 写真家が撮影した写真を、生かすも殺すも編集者次第なのだから、これは由々しき事態ではないだろうか?
 誰か、今生き物に関して専門教育を受けている人の中から、例えばもしも僕の日記を読んでいる生物学の学生さんがおられるのなら、最初から自然の本を作る目的で出版社に入社し、写真家を駒のように操っていろいろな本を作り、自然について伝えたいという人が出てきてもいいのではないか?、と僕は感じた。

 なぜそんなことを考えたのか?もうちょっと書いてみようと思う。
 プロの写真家は、山ほど写真を撮らなければならない。すると、趣味の段階では楽しかった撮影が、時には煩わしく感じられるような人もでてくる。
 時々、他人の写真を見ていて、
「この人、生き物は好きなのかもしれないけど、撮影は楽しめてないな。完全に撮影が義務になっているな!」
 と感じられることがある。
「早く撮影を終らせたい。」
 とか、
「きつい」
 とか、
「面倒なことはしたくない。」
 というような気持ちは、写真に滲み出る。
 そんな写真を見ると、僕は、
「この人、自分で写真を撮るのではなくて、写真家を使えばいいんじゃないか?」
 と感じるのである。
 僕の場合は、幸運にも、プロの自然写真家の中でも、写真撮影が楽しめている方だろうと思う。だが、本が作れるのであれば、つまり自然について自分の思いを伝えることができるのなら、必ずしも自分が写真を撮る必要はないなぁと感じることもある。

 

2008.1.9(水) 壁 

 だいたい特殊な撮影とやつは、一回で上手くできるものではないが、今回の植物の撮影も、やはり『壁』にぶつかった。今日は、撮影を最初からやり直すことになった。今日からまた10日間ほど、日程をあけておかなければならない。
 今回の撮影が簡単ではないことは最初から覚悟していたのだが、どうも僕が考えていたよりも、一段難しい撮影だったようだ。
 実は、その『壁』については最初から分っていたのだが、何とかなるだろうと楽観していた。ところが撮影が進むにつれて、それが何とかならないことが分ってきたのである。

 がしかし、その決定的な対策があるのなら、最初からそれを試しているのだし、絶対的な解決方法があるわけではない。だから、これから先は、手探りのようにして、作業を進めなければならない。
 そして、当然仕事には締め切りがある。

 時間とお金をふんだんに使えば、いい仕事ができると思う。
 だが僕は、その手の仕事にはあまり興味がないし、あまり好きではない。
 時間とお金をかければ、いいものができるのは当たり前のことだと思うから。
 そしてあと1つ、僕は人の我武者羅さが生み出すものが好きだから。
 完璧で完成されたものよりも、限られた条件の中で、もがき、悩み、妥協し、何とかしてまとめようとした結果が面白い、と僕は感じる。 

 

2008.1.8(火) 塵も積もれば 

 昨日、プリンターがインクを認識しなくなったその次は、画像に筋が入るようになって、どうにもならなくなった。
 ノズルのクリーニングを何度やってもダメ。クリーニングの際にはインクが消費されるので、ぐんぐんインクが目減りしていく。これはメーカー送りかな?と最後には諦め、あと1台のプリンターを使って、当面の作業の続きを終らせた。
 そして今日、もう一度不具合が生じたプリンターを試してみると、一応改善。そう言えば、ノズルのクリーニングの効果は翌日に現れることがあると聞いたことがある。確か、詰まっているインクが少しずつ溶けていくのだったと思う。
 一応改善と書いたのは、やっぱり絵柄によっては筋が入ることがあるから。
 原因は恐らく、純正ではない格安のインクを使ったからではないだろうか?
 純正以外のインクを使うと、他にもちょくちょく不具合が生じることがある。例えば、インクの残りが少なくなりましたと表示される時には、すでに完全にインクがなくなっていて印刷ができていないなど・・・
 やっぱり純正でなければならないのかなぁ。
 事務的な印刷物をプリントするのには、なるべくお金をかけたくないと思ったのだが・・・

 今日はやたらに写真の貸し出しの依頼が多かった。そして、貸し出しをする時にはいつも、
「あ〜撮影しておいて良かった。」
 と思う。と言うのも、何かのついでにちょっと撮影しておいた写真が、意外によく売れるからだ。
 塵も積もれば山となる。
 つまり、気合を入れてウ〜ンと打ち込んめば、必ずしも写真が売れるというわけではないということ。
 でも一方で、気合を入れて徹底して撮影した写真も、飯を食うためには重要であり、力を入れた部分と、何となくの部分が上手にかみ合っていることがどうも大切みたいだ、と最近感じるようになった。
 もっとも、それは良く考えてみれば、当たり前のことではある。
 プロが撮影する写真には定価はないが、相場と言えるものは存在するし、したがって、年に幾ら稼ぎたいのなら、何枚売らなければならないという計算が成り立つ。
 それを実際に計算してみると、そこそこの暮らしをするためには、かなりの枚数の写真を売らなければならなず、たくさん売ろうとするのなら、いつでも気合満々で写真を撮ることなど、不可能である。
 プロ野球の投手が、一回から最終回まで全力投球できないのと同じことだ。

 

2008.1.7(月) プリンター 

 植物の撮影でスタジオに釘付けのこんな時だからこそ、並行して本を作るための作業を進めようと!とパソコンに向かい、パソコン上で作ったものをプリンターで打ち出してみる。毎年、年に何度かそんな作業に打ち込む時期がある。
 すると非常に高い確率で、パソコンやプリンターが不具合を起こす。今日も、一時的にプリンターがインクを認識しなくなり、動かなくなってしまった。
 もしも仕事をするのであれば、パソコンとプリンターのセットは、できれば3セット欲しい。
 今は2セットあるが、一方のプリンターが事務用、他方が画像用と用途が違いすぎ、一方が他方の予備になりにくい。いつも仕事が立て込んできた時には、動かなくなったらどうしよう?という不安が過ぎる。
 僕が購入するようなプリンターは業務用というわけではないし、バリバリに仕事で使うには、やや物足りない面がある。

 何かトラブルが起きると、僕は気が短いタイプなので、カッカ、カッカしてくる。
 カッカ、カッカするのは頭の中だけでなく、体にまで表れ、寒いなぁと思っていたような日でも、一枚ずつ上着を脱き、最後は真冬にTシャツ一枚で暖房器具をとめるほど熱くなる。
 だが、熱くなりすぎている時は、大抵強引になり過ぎていて、事態をより悪化させる。  
 そこで、冷静にならないかん!、とこの日記に今日の事態を書いてみる。
 そして、ちょっと頭が冷えたところで、すべてのインクを一度取り外し、また取り付けてみることを試してみたら、症状が良くなった。
 
 写真のような仕事をしている人と接してみると、みんな気が短いところがあるように思う。これをやってみたい!と思ったなら、すぐにでも試さずにはいられない、というようなタイプの人が多い。
 のんびりやろうぜ!などと言い、本当にのんびりやってしまうような人で、ある程度以上の成果を上げた人を、僕は知らないくらいだ。
 そうした気が短さは、創作活動をする上で、非常に大切なものだと僕は感じる。
 だが、上手にそんな自分をコントロールしなければ、熱くなり過ぎて自滅してしまう危険性も、常にはらんでいる。
 
 

2008.1.5〜6(土〜日) 植物 

 先日植物の撮影用に準備をした小道具を、スタジオに持ち込んだ。今日から、植物の撮影のはじまりだ。植物の場合、その動きは実にゆっくりだから、成長の様子を写真に収めようとすると、毎日一度定期的に撮影するなどして、トータルとしては結構長い期間が必要になる。
 今回の撮影では、合計10日の日程を組んだ。
 その間、スタジオから離れることができないのが、植物の撮影の辛いところだ。
 だが、毎日することと言えばシャッターを押すだけだから、撮影前の準備はそれなりに難しくても、その後は、僕じゃなくても助手がいれば事足りるのだろうが・・・・。
 それはともあれ、動物と植物とでは、同じ生き物の撮影でも、かなり違った仕事のリズムになる。
 
 さて、僕は、近頃よく叫ばれる『命の大切さ』という言葉に違和感を感じる。例えば、子供たちを野外へと連れ出す際に、
「子供に命の大切さを伝える。」
 などと言われる。
 生き物を見せることで、命の大切さを伝える。
 そのこと自体を否定するつもりはないのだが、その時に、多くの人がイメージしている命というものには、違和感を感じるのである。
 『命の大切さ』という言葉が使われる時、多くの人は、ある瞬間を持ってボックリと死んでしまう動物のようなタイプの命をイメージしていることが多い。
 だが、命には色々とあって、植物をよく観察してみると、例えば、切り倒した木の切り株から小さな枝が出てきたりするなど、動物とは違うタイプの命が、世の中に存在することに気付かされる。
 植物の場合、しばしば、どこからが生でどこからが死なのか、その境界が曖昧なのだが、死という概念が動物と植物とでかなり異なるのだから、『命の大切さ』と言うのであれば、もっと命を広く知り、広く定義しなければならないように思う。

 大人が、『命の大切さ』という言葉を使う時、大抵の場合、その命とは動物の命であり、さらに言うと、究極のところは、人が人に優しくすることを求めているように思う。
 野外にでて命の大切さを学んだ子供が、その結果優しい人間に育つ。そして社会が良くなる。
 つまり、道徳教育の代わりに自然を見せようというわけだが、僕はそこに、大人の下心がありすぎるような気がする。
 自然ってなんだ?ともっと純粋に自然を楽しんだり驚くことは、できないのだろうか?

 

2008.1.4(金) 技術 

 ある植物を撮影することになっていて、ちょうど今、そのための準備を整えている。 
 撮影は非常に特殊な内容であり、植物の種を材料にした実験のようなものだと思っていただければいい。
 そんな撮影の場合、僕は一人の作家ではなくて、写真撮影の技術を持った職人的な存在である。だから、これが俺の世界だ!と主張するような写真ではなくて、相手が望む写真を撮らなければならない。
 つまり、技術の世界である。
 写真で一番大切なことは何か?と聞かれれば、僕は、
「写真にこめられた撮影者の思いであり、写真を通して何を伝えるかだ。」 
 と答えたい。
 だが、その伝えたいことを伝えるためには、技術がなければ何も始まらないし、技術は不可欠だ。
 時々、
「俺の写真は何を伝えるかの世界であり、技術は二の次、三の次だ。」
 と主張する方がおられるが、僕はいつも、妙な話だなぁと思う。技術が二の次、三の次で、それを一体どうやって伝えるのだろう?と不思議に思うのである。
 それは例えるなら、年金の不払い問題を解決するのに、
「大切なのは解決したいと思う心であって、どうやって解決するかは二の次、三の次だ。」
 と主張するようなものではないだろうか?
 本当にそれを解決したいと思っている人は、どうしたら解決できるか、その技術的な側面を真剣に考えているものだ。

 中には、一流の写真家でありながら、
「俺は技術にはこだわらない。」
 と主張する方もおられる。
 だが、実際にその人の写真を見てみると、まず例外なく非常に高い技術で撮影されていて、技術にはこだわらないというその言葉の次元が違うことに気付かされる。
 
 

2008.1.2〜3(水〜木) 撮影機材の話 

 一泊二日の日程で、島根県の宍道湖へと、野鳥の撮影に出かけた。
 北九州から宍道湖は、できれば二泊三日以上の日程がいい。一泊二日だと、撮影をする時間よりも、車を運転する時間の方が遥かに長い。
 だが、そんな理想ばかりを主張していると何もできないし、また短時間で結果が出るときもあれば、長い時間を費やしても思うような成果が得られないこともあるという事実もある。

(撮影機材の話)
 僕は35ミリ判フルサイズセンサーのデジタルカメラを主に使用しているが、野鳥の撮影に限っては、APS-Cのセンサーを搭載したカメラの方がいいなぁと、今回はしみじみ感じた。
 今回の撮影ではニコンのD3を使用したのだが、D300あたりが欲しくなった。
 ただ僕の場合、他の撮影でAPS-Cのセンサーを搭載したカメラを使う機会は滅多にないし、そんな滅多に使わない道具のために捻出できるお金はないのだが・・・・

 なかなか近づくことができない被写体を望遠レンズを使って撮影する場合、一般的には、35ミリ判フルサイズセンサーのカメラよりも、被写体をより大きく写すことができるAPS-Cのセンサーのカメラが有利だとされている。
 だが僕の場合、APS-Cのカメラが欲しい理由は、それとはちょっと違う。
 僕は、近づくことができる被写体でも、わざと離れて撮りたいのである。
 離れて撮るとどうなるのか?と言えば、例えば、海辺の堤防の上から、水面に浮かんでいる水鳥を撮影してみると良く分るのだが、近くの鳥を撮影すると目線が高くなり、遠くの鳥を撮影すると逆に目線が低くなる。
 一番極端な場合は、その水鳥がどんどん近づいてきて、自分の足元にまで寄ってきたケース。その場合は、水鳥の背中しか見えなくなってしまう。
 地面の上や水面など低い位置にいる鳥を撮影する場合は、目線の高さがそうとうに写真の印象を左右するし、僕は、その目線が低くなる効果が欲しいのだ。

 さて、今日はごくわずかな時間の撮影ではあったが、多少青空が出たこともあって、なかなか楽しかった。
 ノスリは、ほとんど撮り放題。
 
 マガンの群れも、雲に表情があって良かった。
 ただ、久しぶりの野鳥の撮影とあって、ちょっとちぐはぐ。写真はあまりいいものがなかった。

 

2008.1.1(火) 編集 

 先日上京した際に見てもらった本を見本を、その際にしてもらったアドバイスに則って頭の中で何度も修正しようとしたのだが、どうしても作業が進まない。どうも、そこら辺りに僕の力量の限界があるようで、一人では心もとないと感じる。
 僕は写真を撮る立場ではあるが、撮影の際には編集作業のことも一応考える。が、やっぱりそこは所詮素人であり、自分が作りたい本のことなら考えることができても、市場で通用するような本を作ろうとすると、自分の無力さが浮き彫りになる。
 市場で通用する本とは、例えば、書店や図書館の棚に本が並べられる際に、この本ならあそこに並べるべき、と本を並べる人が迷わないでいいような作りの本は、そんな本になるだろう。
 つまり、コンセプトが明快な本だ。
 市場に存在する需要の中の、どこに狙いに定めるのか?
 今回僕が苦心している点は、自分が言いたいことや作りたい本のイメージを保ちつつ、市場で通用するような本にまとめることであり、自分のやりたいことと需要とを両立させる作業だ。

 さて、手詰まりになった時にはどうしたらいいのか?と言えば、友達である。
 そこで、編集者として勤めている友人に相談したてみたら、一緒に考えてくれるというので、今日はそのための資料を送るための準備に取り掛かった。
 資料なんて、チョチョイのチョイと作れるつもりだったのに、予定の1/3程度しか作業が進まなかった。編集という作業は、僕が思っているよりも、実際にやってみると随分に難しいようだ。
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2008年1月分


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