撮影日記 2007年12月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2007.12.31(月) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

2007.12.30(日) 金魚

 僕はゴキブリの写真を撮ったことはないが、もしもゴキブリの本を作ることになったら、ゴキブリの出没が、とても嬉しく感じられるだろうなぁと思う。
 普段なら、ゴキブリが登場すると実にイヤな気持ちになるが、よくよく考えてみれば、家の中でゴキブリを見かける日数はそんなに多くないし、それを写真に収めるとなると、結構な苦労を要するのではないだろうか?恐らく、その分、上手く撮影できた時は喜びもひとしおだろう、と想像するのである。
 好きな被写体にカメラを向けることは、写真のもっとも正当な楽しみ方だ。だが、写真には他にもいろいろな楽しみ方があり、カメラを向けることで、その被写体に興味を持ったり、好きになれることは、写真のすばらしい特徴の1つだと僕は思う。

 さて、僕は人工的に改良された生き物にはあまり興味がないし、むしろ、その手の生き物を、人間のやり過ぎなんじゃないか?とか、オゾマシイと感じることの方が多い。
 だが、近々金魚を撮影することになり、ペットショップで金魚の見方を教わったり、金魚について調べてみると、金魚はやっぱり文化なんだ!と、金魚に対する思いに変化が生じてきた。
 当初は、ほどほどの値段の金魚を買って、それを撮影すればいいと考えた。
 だが、金魚について調べれば調べるほど、やっぱり、いい金魚を撮影してみたいなぁと心変わりしてきた。
 ただ問題は、それが、あまりギャラのいい仕事ではないことだ。だから、高価な金魚を数種類買えば、恐らく赤字になってしまうだろう。
 さて、どうしたものか?
 僕は日頃、あまりギャラの額を気にしたことはないのだが、今回は年明けにでも、正確に幾らもらえるのか、たずねてみようと思う。
 その上で、ちょっとくらい赤字になってもいいかな・・・と思う。
 その際にたくさん撮影するであろう金魚の写真は、恐らく、他の仕事で流用する機会があるだろうし、その時に儲けが出ればいいというような気持ちになりつつある。

 

2007.12.29(土) 計画

 確か小学校の高学年の時だったと思う。学校で先生から、
「みんなは将来何になりたいですか?」
 とたずねられ、当時から生き物が好きだった僕は、
「獣医になりたい。」
 と答えた。
「何で武田君は獣医になりたいの?」
「楽そうだから。」
 と答えると、帰宅後に、父から
「楽そうだからとは何事か!」
 とひどく叩かれた記憶がある。
「武田君がこんなダメなことを言っていました。」
 と先生から報告があったのだろう。
 だが僕は、今でもやっぱり横着な人間であり、常に、どうしたら楽ができるかを考える。自然写真の仕事だって、仮に傍目にはリスクが大きく、大変な仕事に思えるかもしれないが、人には向き不向きがあり、少なくとも僕にとっては、会社員になるよりはずっと楽チンだ。
 自分にとって楽であるかどうを、僕はいつも重視するのである。
 僕の父は大変なエリートだったようだが、何事につけても、いわゆる教科書的、エリート的な答えを好む人なので、そんなことが理解できないのだろうなぁと感じる機会が、日常生活の中に多々ある。
 
 さて、僕は日頃しっかりと計画を立てるようにしている。やらなければならない仕事は、些細なことでも必ず計画帳に書き込む。
 すると、随分以前に、僕の計画表を見た父から、
「立派なことだ。」
 と褒められた。が、僕は、それが立派だからそうするわけではないし、むしろ逆に、ちゃんと計画を立てた方が楽に仕事を片付けられるからそうするに過ぎない。
 つまり、僕にとって真面目に取り組むことは、決して真面目であることではなく、楽をしたいという横着なのである。

 東京から帰宅後は、仕事をためすぎてしまい、その計画帳から、やるべきことがあふれ出していた。
 そうなると、もはや計画などは、ほとんど何の意味もなさない。計画は、ある程度先が見えるから立てられるのであり、先が見えないほどやるべきことが満載の時には、当面できることを、手当たり次第片付けるしかない。
 自転車操業状態だ。
 今日はやっとその自転車操業から抜け出し、残った仕事をいつ片付けるべきか、仕事の内容、かかりそうな時間を検討しながら、帳面に書き込んだ。
 そうして多少なりとも先が見えると、気分が随分楽になる。

 

2007.12.28(金) 風習嫌い

 僕が自然写真家という職業を選んだ理由は1つではないし、その中で何が決定的な動機になったのかについては、自分でもよく分らないところがある。
 ただ、自由に生きたい!という思いがそこにあることだけは間違いないし、フリーの写真家なら、自由に生きられるだろうと考えた。
 例えば、僕は元々、社会の風習にしばられたくないと思う傾向が強い。正月だから、里帰りをしてみんなで御節料理を食べましょう!などというのは、僕には耐え難い。恐らく風習そのものというか、文化の部分は嫌いではないのだが、みんなで同じことをしたり、「よいお年を・・・」などと同じことを言うのに対して、僕はどうも反発してしまう嫌いがある。
 一方で、そんな自分を味気なくてつまらんヤツだなぁとも思う。写真家がそんなことでいいのか?と。

 さて、東京から帰宅後は、非常に忙しい。
 上京前から仕事を溜め込んでいたのに加えて、東京で人ごみに揉まれた結果の疲れがいまだに完全に抜けず、調子があがらないことが、益々その忙しさに拍車をかける。
 しかも、年末だからすでに休みに入っている会社やお店もあり、仕事に必要なものが年明けまで手に入らないなど、これまた益々ややこしい。
 社会の風習に則って、年末や年始を味わってみたり、ゆっくりと休んだりすることに憧れる部分もある。だが、やっぱり、僕にはそれができにくいのである。
 
 

2007.12.26〜27(水〜木) マニアの世界

 僕は、よほどのことがない限り、普段は滅多に人に教えを乞うことはない。
 人に習わない理由はいろいろとあるが、僕のように自分の腕一本で生きてこうとする者は、成功よりも失敗の体験の方が大切だと信じるから。
 上手くいかずに積み重ねた失敗が、後々財産になると僕は考えるのである。
 例えば、初めての被写体にカメラを向ける。
 さて、どうしたら上手に撮影できるだろうか?と考えるわけだが、大抵の人は同時に、過去の失敗の経験から、こうしたら多分上手くいかないだろうなぁと最初に的を絞る。
 時々、他人と一緒に写真を撮ることがあるが、他人の的の絞り方を見ていると、その人がどれくらい経験を積んでいるのかは、だいたい想像ができる。
 
 ただ、いろいろと縁があり、僕も人に教わることがある。僕はトンボの撮影に関しては、迷わず、トンボマニアの西本晋也さんに教わることに決めている。
 何事にも例外はあり、たまには近道もいいのである。
 さて、その西本さんがトンボを見つけ出す目は、僕からみれば神業に近い。
 ところが上には上がいるもので、西本さんの師匠である堀田実さんから見れば、その西本さんでも十分に青いのだという。
 ある時、西本さんのホームグランドに堀田さんがやってきて、あるトンボが羽化をするシーンを探し出す競争をしてみたら、西本さんが一匹も見つけられなかったのに対して、堀田さんは初めての場所であるにもかかわらず、数匹を見つけ出した。
 噂によると、堀田さんは小学校の5年生の時にすでに日本産のトンボをすべて制覇してしまった、というから、世の中には詳しい人が存在するのである。
 過去に繰り広げられた西本さんと堀田さんの勝負は、今のところ、すべて堀田さんの勝ちなのだそうだ。
 東京から帰宅後、西本さんのところに立寄った際に一冊分けてもらった『大分県のトンボ』は、その堀田さんが中心になって作った本だ。
 
 時々、生物学の研究者は机の上でばかりで物事を考えていて、実際の生き物を知らないと批判する方がおられる。
 だが今や、生物学の研究は分子レベルの話になっているのであり、それは研究者が生き物を知らないのではなくて、視点が違うだけに過ぎないように思う。
 僕は、分子レベルでだけ物を見ればいいとは思わないのだが、分子レベルの研究のように、公の機関でしかできにくい研究があることも、また事実である。
 そして、西本さんや堀田さんのような優れたアマチュア愛好家の存在を考えると、野外で生き物を調べることは、今や個人やアマチュアにでも十分に可能であり、インターネットを使えば、個人だって発信できる。
 また自然写真家の中にも、研究のような視点で自然を見つめ、プロの研究者よりもスゴイのではないか?と思えるほどの成果を挙げておられる方も存在する。
 研究者は机上の論理ばかりで実際の生き物を知らないという発想は、もしかしたら、もう時代遅れなのかもしれないなぁ、と僕は時に感じることがある。
 野外での研究はアマチュアや個人に任せておき、プロの研究者は机の上で研究をすることになるのではないか?と。

 

2007.12.22〜25(土〜火) 帰宅

 上京するといつも具合が悪くなることは、以前にも書いたことがある。
 僕はとにかく人ごみが苦手。都会の雑踏の中で数日を過ごしただけで、その後は帰宅をしても、体が元に戻るには1〜2週間くらいの時間を要する。
 ところが今回は、途中までは絶好調だった。珍しく食事が文句なしに美味しくて、夜はぐっすりと眠ることができた。
 僕もとうとう都会人になれたか!と喜んだ。
 だが、北九州へと帰る最後の日の朝、ついに体が随分重たく感じられ、空港へと向かうモノレールに乗り込むあたりからの僕は、ほとんど遭難者のような足取りだったに違いない。
 
 帰宅をした翌日と翌々日は完全休養にして、とにかく、疲れを取り除くことにした。
 そして昨日は、上京の準備で後回しになっていた小さな用事を幾つか片付けた。
 その最後に、車のタイヤを冬用のものへと交換するために整備工場へと向かった。だが、途中で頭がクラクラして目が回り始め、これは危ないと車を広場に止め、車内に積みっぱなしにしてある蒲団の中へともぐりこんだ。
 頭がクラクラするのは、僕が町の中を歩いた後の典型的な症状であり、特に東京では、おや、地震か?と勘違いして立ち止まるような機会が何度かある。
 ともあれ、車の中で再び目を覚ました時には、もう完全に日が暮れていた。

 さて、少しずつ調子を上げていかなければならない、と思ったいたら、アメリカザリガニのメスが一匹卵を産んでいることに気付いた。
 万全の準備を整えていたにもかかわらず、なぜか今年は卵を産んでくれなかったアメリカザリガニ。
 それだけにたかがアメリカザリガニの産卵が非常に嬉しいのだが、その卵の成長の速度や撮影の具合によっては、1〜2月にかけて予定していた水鳥の撮影を中止にしなければならない可能性も・・・。
 それを思うと、実に複雑な心境である。
 生き物は大好きだし、撮影も嫌いではないのだが、やっぱり仕事は辛いのである。

 

2007.12.21(金) お知らせ

(お知らせ)
 サンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は12月22日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。

 

2007.12.20(木) 作家性

 上京して、みなさんにお会いして話をしている最中に時々、不思議な縁だなぁと思う。
 目の前にいる相手は、会社で知り合ったわけではないし、学校で知り合ったわけでもなく、住んでいる地域が同じというわけでもなければ、親の知りあいでもない。また、僕はどこかの会社の一員としてそこにいる訳ではないし、みな、本来ならば赤の他人というべき相手。
 最初は、知り合いがゼロ人という状態からはじまり、すべてが緊張であり、すべて売り込みであり、すべてが仕事だったように思う。
 ところがふと気付けば、会えば、こちらが楽しくなれたり、癒されるような相手がいつの間にかいるのである。

 さて、僕は自分が撮影する写真を大きく2つに分けていることは、以前にも何度か書いたことがあるが、その1つ目は、カタツムリやアマガエルやザリガニなどの写真である。
 これは業界の定番であり、型のようなものだと思ってもらえればいい。そしてそのジャンルに関しては、これまで徹底的に技術を磨き、訓練を積んできたし、いつでもトップレベルの仕事ができる自信がある。
 また、あとの1つは、型にはまらないもの。定番の仕事ではなくて、僕はこう思う!という自分の思いを伝える一種の作家活動である。
 こちらは、これからいよいよ本格的に走り出そうかという状態だ。
 そこで昨日は紀伊国屋書店へとでかけ、2時間を費やして子供向けの写真絵本に一冊残らず目を通してきた。その中で自分が今思い描いている本がどんな位置づけになるのか、自分自身を値踏みしてきた。
 少なくとも、僕の同世代の自然写真家の中には、仕事としての写真と作家としての写真を両立させている人は、今は一人もいないと僕は考える。
 だが、そのどちらか片方ならできる人はポツリポツリと存在し、僕の場合は、今徹底して仕事としての写真に偏っているのだが、逆に、写真は仕事として成立してなくても、作家としてはすばらしい活動をしておられる方は存在し、僕は近頃それをカッコいいなぁとか、あいつ凄いなぁ〜と思うようになった。
 以前は、食えなければ話にならんと思っていたのだが・・・・ 
 夕刻は、作家としての活動に本格的に取り組む前に、どうしても会っておきたい方をたずねた。
「こうしたらいいと思うよ。」
 などという野暮なことを言う方ではないが、しばらく話をしているうちに、ちょっと自分の視野が狭くなっていたことに気付かされ、
「こうして行こう!」
 という新たな思いが込み上げてきた。
 
 

2007.12.19(水) やり取り

 今回の上京は月曜日に北九州を発ち、金曜日の夜に福岡に帰る予定になっている。
 その間に、主な仕事が2つ。
 それ以外の時間が遊びというわけではないが、残りは、出版業界で働く友人や話をしたいと思う相手に会いに行く意味合いの方がずっと強い。昨晩も、あらかじめ友人に声をかけておき、食事を共にした。

 2つある主な仕事のうちの1つは、本の企画を通すためのやり取りだ。
 まずちょうど一年ほど前に最初にある方に写真を見てもらい、帰宅後にそれを企画書といえるようなものにまとめた。
 そして、その企画書に対する相手の意見を聞いた上で修正を加え、今回は一昨日上京したその日にまた目を通してもらい、さらに意見してもらった。
 そうしたやり取りをしない売り込み方もあるだろうと思う。
「あなたの企画をそのままやりましょう!」
 と言ってくれる出版社を探すような方法である。
 だが僕は今回やり取りにこだわった。そのやり取りの中に、将来僕が出版業界で仕事を続けていくために大切なものがあると思うから。
 今の僕にとって大切なことは、思い通りの本がでることやすぐに本が出ることではなくて、本が出るべくして出ること。本を1冊作ることではなく、10冊や20冊作れるノーハウを身に付けることなのである。
 今回は非常に学ぶべきことが多かった。だからそれは仕事というよりも、授業を受けに行くようなものなのかもしれないなぁと思う。
 
 さて、友人に声をかけておいたら、共通の知人がきてくださった。
 さらにその知人が、ある本の編集長をしておられる方を連れてきてくださったのだが、その方が生物学の専門家で、昨日はなんだか楽しかった。
 そういえばつい先日、やはり生物学出身で今でも研究者として働いておられる見ず知らずの方から突然にメールをもらったのだが、その時もやっぱり嬉しかった。
 僕は科学の世界を選ばずに自然写真の世界を選んだのだが、自然科学出身の人と話ができるのは非常に楽しい。

 

2007.12.17〜18(月〜火) 都会

 宗教という言葉が、
「あの人が言っていることは、ほとんど宗教のようなものだ。」
 などという風に使われることがあるが、そんな時の宗教という言葉は、大抵悪口である。視野が狭く、何か一つのことを思い込み、その殻に閉じこもった人のことを指すことが多い。
 僕はそういう意味では、自然を愛好することも、しばしば宗教だなぁと思う。自然愛好家は、人間のすることの中でも文明に属するようなことを無条件に否定する嫌いがあるが、それも一種の宗教だと。
 例えば、開発は悪であり、ダムも悪であり、冷房は悪であり、車は悪であり、お金は悪であり・・・・・。
 だが、ふと、子供の頃のことを思い出すと、小学校の見学旅行で、あるダムを見に行った際には、
「こんなに大きな壁ができるのか!」
 とダムという構造物の凄さに素直に驚かされたし、また、どこかの山の上から下界を見下ろした時には、びっしりと立ち並んだ住宅に、まるでアリの巣かハチの巣の内部をはじめてじっくりと観察した時のような感動を覚えた。
 ところが、今の僕は、そういう感動を感じることが明らかにできにくい。が、都会に出てきたときやその他、何かの機会に自然という宗教から一旦離れると、文明はやっぱり凄い!と思い、自分の視野が狭くなってきたことにふと気付かされるような気がする。
 第一、自分が住んでいる家だって、昔は原野だったはずだし、開発の結果である。

 さて、上京すると、いつも帰宅する頃にはクタクタに疲れ果てる。その疲れ具合は半端なものではなく、いったいなぜ、こんなに疲れるのか?と自分でも不思議なくらいにくたびれる。
 そして、
「どこでもドアがあったらなぁ」
 と真面目に妄想する自分に気付き、
「あり得ない!何を馬鹿なことを考えているんだ。」
 と自分の妄想癖の激しさに驚かされる。
 そこで今回の上京では、漠然と東京は疲れるではなくて、東京の何に自分が疲れているのかを分析してみようと思う。
 そして、その部分に関しては、時には文明の利器に頼り、少しだけ贅沢をしてみようかなぁと思う。 僕は、快適であるということに一方で感謝することができ、一方で、そんなに快適である必要があるのか?と疑うことができる、ある意味矛盾する人間でありたいと思う。

 

2007.12.16(日) 自分

 写真を撮ることと売ることは、全く質が異なる作業だ。前者が創作活動の一種なら、後者は商売のようなものである。
 その商売を成り立たせるためには、よほどの天才でもない限り、社会のことを知る努力をしなければならないし、世間が見えていなければならない。
 そして、写真がうまい人は数多く存在するけれども、社会のことに興味を持ち、社会を知る努力をしている人は、決して多くないように思う。

 出版の場合、まず出版社の人に自分がやりたいことを、ちゃんと伝えきれなければならないし、しかも、ただ機械的に伝達するのではなく、その面白さや有意義さを感じ取ってもらわなければならない。
「あなた、面白いこと考えているね!いいじゃない。」
 と受け止めてもらわなければならない。
 だから最後に大切になるのは、人対人であり、僕は最近、写真の素質うんぬんよりも、そうした際に求められる人間力の方が、写真家にとってより重要なのではないか?と感じるようになってきた。
 写真が上手いだけの人なら、山ほど存在するのである。

 口が上手であれ!と言いたいのではない。自分の作品を自分で良く理解し、その結果、自分の作品について、よく伝えられることが大切だと思うのである。つまり、自分が何をしたいのかをよく整理すること。
 時々、
「自分のことは自分が一番良く分る!」
 と主張する方がおられるが、僕は大嘘だと思う。そんなことが言える人は、自分のことを人に伝える努力をしたことがない人だと思う。
 人に自分を伝えようとすると、なかなか上手く伝わらないし、つまり自分で自分のことを語るのが非常に難しい。
 いざ語ろうとしてみると、自分が分らないのである。
 だがそうしてもがいていると、時にパッとうまい言葉が閃き、相手に自分の思いが伝わると同時に、自分の思いに気付かされる。
 僕のこの日記には、そのための訓練という側面もある。
 
 さて、明日から上京するが、ようやくその準備が整った。

 

2007.12.14〜15(金〜土) デジタルカメラの色

 デジタル画像の場合、使用するパソコンのモニターによって、同じ一枚の画像の色が違って見えるという問題がある。あるモニターでは色鮮やかに見える画像が、別のモニターでは地味に見えるなどという現象がおきてしまう。
 すると、どれが、その画像の本来の色なのかが分らなくなる。
 そこで、その問題を解決するため、カラーマネージメントという考え方がある。

 カラーマネージメントとは何か?と言われると、実は僕も、所々よく分らないところがある。が、簡単に言ってしまえば、色の統一規格を作り、デジタル画像やその画像を見るためのモニターやその他を、すべてその規格に合わせようという考え方だ。
 その際の色の統一規格には幾つか種類があるが、一般的にはs-RGBだろうと思う。そしてプロの写真家のように印刷を目的とする人の場合は、 Adobe-RGB がスタンダードだとされている。
 s-RGBかAdobe-RGBかに関しては、
「撮影の時にカメラの設定をどちらにすればいいのですか?」
 と僕もよく質問を受けるが、何と答えていいのか、僕には適当な答えがない。
 Adobe-RGBの方が、より表現できる色の幅が広いという利点があるが、やや扱いにくい面もあり、つまり、一長一短なのだから答えられないのである。
 では、いったいどうしたらいいのか?と言えば、Adobe-RGBとs-RGBとで、どれくらい色が違うのか?を自分の目で確認してみることが重要ではないだろうか。
 Adobe-RGBが圧倒的にいいと思えばAdobe-RGB。
 違わないと思えば、s-RGBだろうと思う。
 図解カラーマネージメント実践ルールブック という本の21ページに、その比較をした画像が載せられているが、分りやすい比較だと僕は感じた。

 この本の中味は、色の仕組みなどにも触れていて自然科学出身の僕は、なかなか興味をそそられるのだが、一般的には不要な知識が多いのでお勧めとは言いにくい
 そこで結果を簡単に書くと、Adobe-RGBとs-RGBとはかなり違うとも言えるし、大体同じであるとも言える。
 一枚の写真の印刷にたくさんの時間とお金をかけられる人にとっては、かなり違うだろうと思う。
 だが、一般的な印刷の仕事をしている人にとっては、だいたい同じという印象になるのではないか?と思う。一般的な印刷の場合、Adobe-RGBとs-RGBの違いよりも、印刷の際の技術者の力量や機械の調子やその他に由来するバラツキの方が比較にならないくらいに大きいのである。
 
 

2007.12.13(木) 正直に告白すると

 大阪府知事への立候補を表明した橋下弁護士が、僕よりも年下だったことには驚いた。確か、横浜市長の中田さんも、今の僕とそう違わない年齢で市長になったように記憶しているのだが、勇気があるなぁと思う。
 そう言えば、つい先日、宮崎県の東国原知事が、
「若者には、徴兵制度のようなものがあった方がいい。」
 と発言して社会を騒がせたが、政治って分らん!と思う。
 例えば、紛争がおきたときに日本は人的な国際貢献すべきか?という問いに対して、
「当然。」
 と答える人は、政治家にも一般市民にも決して少なくはない。
 だが、日本という名前の人はいないのだし、”日本は人的な国際貢献をすべき”という時の日本って誰のことだろう?と考えてみると、それは日本国民全員を指すと考えるのが自然ではないだろうか?
 もしもそうなら、”日本は人的な国際貢献をすべき”と主張する人は、もちろん私だって場合によっては出て行きますよ!と言わなければならないように思う。もしも年を取り過ぎていて紛争の場では役に立てない人なら、私の息子だって、孫だって行かせますよと言わなければ、筋が通らないような気がする。
 がしかし、それは徴兵制度ではないのか?と僕は不思議に思う。
 ちょっとした知事の発言で大騒ぎになるのに、”日本は人的な国際貢献をすべき”とたくさんの人が主張しても何の騒ぎにもならないのは、いったいなぜなのだろう?
 とにかく、僕は社会のことが、あまりよく分らんのである。
 
 随分前に亡くなられた写真家で、木村伊兵衛さんという有名なスナップ写真の名手がおられるが、僕は木村さんの写真を見ても、それがそんなにすごいのか、正直に告白するとあまり深く理解ができない。
 もちろん、下手糞や愚作ではないことは僕にだってすぐに分るが、そこから先がピンと来ないのである。
 また、戦争を取材した有名なロバートキャパだって同様。
 だが、自然の写真なら、
「これはいい!」
 とか、
「これはイマイチ」
 などと自分の意見を持てる。
 恐らく、そこに写っている被写体に対する興味の問題なのだろうが、結局自分が分ることしかできなのだなぁと、そんな時僕は思うのである。

 

2007.12.11〜12(火〜水) 買い物

 ここ数日は、テーマをもって撮影してきた写真を本の体裁に整える作業で忙しかった。パソコンの前に釘付け、事務所に籠もりっきりになっていた。
 使い切ったプリンターのインクが山積みになってきた。特に、シアンのインクなどは、2度も交換した。
 だが、今日でようやく、その一番大きな山場を乗り越えたのではないか?と思う。あとしばらくしたら、そうして作った本の見本を持って上京することになっている。
 
 パソコンの前に座る時間が長くなると、僕は退屈しやすい性格なので、ちょっとした待ち時間などに撮影機材のカタログを眺めてみたり、カメラメーカーのホームページを見たり、ネットオークションの画面を見るような時間が増える。
 すると、ふと気付いた時には抑えられない物欲に支配されていて、必要なものがあるわけではないのに、とにかく何か物を買うことだけがかたく決心されているのである。
 だが、やっぱり冷静になると、僕にそんな無駄遣いをするゆとりがあろうはずがない。
 ならば、どっち道必要な消耗品、プリンターのインク、記録メディアなどを買うことで、その場をおさめようと試みる。
 ところが、今回はどうしてもそれでも気分が収まらないので、今日は、いっそうのこと、お金を使いに行くことにした。近所の電気屋さんへ出向き、食器洗浄乾燥機を購入したのである。

 なぜ、そんなものを買うのか?と言えば、先日宮崎へ出かけた際に、昆虫写真の新開さんのお宅におじゃましたことから話は始まる。そこで、新開さんの奥さんから、
「うちの人は、私が留守の時でも自分でご飯を作ったり、子供にご飯を作ってあげたり、とにかくとてもいい夫なんです。」
 というような話を聞いたのである。
 それに影響されて、自分もいい主夫になろう!などとずうずうしい僕が決意するわけはないのだが、自分で出来ることは、なるべく自分でやろうかなぁという気になった。
 具体的には、事務所で仕事をする日くらいは、なるべく自炊をしようと考えた。その方が安くつくし、いいではないかと。
 ところが試してみると、どうも面白くない。そこで、なぜ僕には自炊がそんなに苦痛なのかを考えてみると、後片付けというやつが、性に合わないことが分った。自炊をすると、その食器を洗うのはいつも後回しになり、大抵次の食事の準備をする時になってしまうのだ。
 ならば、食器洗浄器でも買おうかな・・・と考えるようになったのである。
 他にも、自分で食器を洗ってみると非常に多くの水が必要になることがわかり、驚かされた。その点、食器洗浄器は優れているようだし、水を節約するためという理由もあった。
 が、電気代を考えると、果たしてどちらが地球に優しいのだろうか?
 
 ともあれ、僕は電気屋に出かけた。
 電気屋さんでは女性の店員につかまり、セールスをかけられた。
 僕は設置に伴う工事に関して、いろいろなことをたずねてみた。ちょっとした水道の工事なら自分で出来るし、なるべくなら自分でやりたいと思ったのである。
 ところが、その手の工事を自分でやりたいというお客は恐らく多くないのだろう。そしてその結果、店員さんには細かい知識がなかったようで、説明があやふやになってきた。
 女性に多い傾向だと感じるが、分らない時には知ったかぶりをせずに、分りませんと答えればいいのではないか?と僕はいつも思う。
 途中で、
「ちょっと確認してきます。」
 とついに店員さんが席をはずした。
 店員さんは戻ってきてしばらくすると、突然に
「設置のための工事の料金はいりません。おまけします。」
 とおっしゃった。
「え!あなたが勝手に決めていいのですか?」
「大丈夫です。さっき、確認してきました。」
 僕は大抵家電は展示処分品を買うのだが、今回も同様。そこから、本来工事に必要な金額をまけてもらい、総額で3万円台のものを買ってきた。

 今日はカメラのテストを兼ねて、使用済みのインクを撮影してみた。スタジオで撮影すると、カメラの実力が分りやすいのだが、ニコンのD3も、キヤノンのEOS5Dも、無茶苦茶に違うわけではない。もしもブラインドテストをされたなら、僕には判別不能だろうと思う。
 ただ拡大すると、ニコンの方が像がシャープなのだが、これはレンズの影響なのかなぁ・・・

 

2007.12.10(月) オークション

 どうしても、一度持ってみたいレンズがある。ライカのアポ・マクロエルマリ−トR f2.8/100mmがそれである。もう随分前のことになるが、大金持ちの知人がこのレンズを持っていて、花の撮影に愛用していたのだが、このレンズの描写には何とも言えない味わいがあった。
 当時はまだデジタルカメラなどという名前が知られていない時代だった。にもかかわらず、その知人はデジタルカメラを使用していた。キヤノンとコダックが共同開発したD2000と、その後、新しく発売されたD6000というデジタルカメラだったが、確か、デジタルカメラ一台数百万だったと思う。
 僕の目の前で椿の花の写真を撮り、パソコンに表示させ、画像処理ソフトで花の破れている部分を見事に修正する様子を見せてもらったのだが、これはスゴイ!と僕はデジタルカメラという道具に打ちのめされた。
 あまりに驚かされたので、ある時、海野先生に話してみたら、
「何だそれは?」
 と新しいもの好きの海野先生でさえ、デジタルカメラの存在を知らなかったのだから、その方がとにかく突っ走っていたことだけは確かである。
 そのデジタルカメラに、アダプターを介して色々なメーカーのレンズを取り付けた際の描写の違いを解説してもらったことがあるのだが、国産のレンズで一番描写が良かったのは、タムロン社製の90ミリだった。ただ、タムロンのレンズは軽すぎて、巨大なD2000やD6000に取り付けると、バランスが悪いから却下されたようだった。
 カールツァイスの100ミリマクロレンズも散々テストしたらしいのだが、全然ダメだったらしい。キヤノンの100ミリマクロレンズなどは論外であり、全然ボケがダメやない!と、買ったその日に付き返したのだそうだ。
 その方がこだわっていたのは、花の背景のボケの描写だった。わざとボケが汚くなる状況で撮影し、その際のボケの良し悪しを解説してもらったことがある。
 そして、あらゆるあらゆるレンズを試し、その結果圧倒的に良かったのが、そのライカのレンズだったのだ。

 僕は、ある時一度、そのライカを買おうとしたことがある。ところが、ヨドバシカメラの価格で、40万円強というから目玉が飛び出しそうになった。国産の同じクラスのレンズが数万円〜せいぜい10万円弱なのだから、べらぼうに高い。高すぎる。買えるわけがない。
 ところが、先日このレンズがオークションに出ているのを見つけた。どうせ、まともではない値段がつくだろうと、入札することを考えなかったのだが、終ってみると、最終的には約12万円。
 入札に参加すれば良かったかな・・・。
 まあ、終ったものは仕方がない。憧れは憧れのままの方がいいのかもしれない。

 

2007.12.8〜9(土〜日) 書類

 僕は毎月一度、領収書の束を整理することは以前書いたことがある。けっしてまめな訳ではない。事務的な作業が大の苦手であり、貯めるとその後が非常に辛く、僕にとってその辛さは半端なものではないので、貯めないようにしているに過ぎない。
 貯めるとどうなるのか?と言えば、会計ソフトに領収書に記載されている金額等を10枚程度打ち込んでは、休憩と称して本を読んだり、ゴロゴロとソファーに横になる。
 それを何度も何度も繰り返すことになる。
 子供の頃、英単語を3つ暗記しては、ベッドに横になりマンガを読むことを繰り返しているうちに深い深い眠りに落ち、気付けば翌日の朝になっているようなことが頻繁にあったが、まるで試験前の学生のような状況に陥ってしまうのである。

 ふと思う。あの試験勉強に、今の自分が耐えられるだろうか?と。
 僕は恐らく耐えられないと思う。
 イジメとシゴキには違いがあり、イジメは延々と続くのに対して、シゴキは新入生の時にだけに受けるなど期間限定であるという話をどこかで聞いたことがあるが、その定義に照らし合わせてみると、試験勉強はシゴキのようなものだ。
 その手の苦労は、一生続かないからこそ耐えられるのであり、その苦しみが大人になっても延々と続くのであれば、僕の精神は異常をきたすに違いないと固く信じる。
 だから、事務作業は貯めないように、まめに、まめに片付けることにしている。

 だが、ここのところはちょっと忙しかったこともあり、今日は2か月分の領収書や振込みの明細書を整理した。
 その手の書類は大抵郵便受けの中に入っているから、溜め込んだ領収書の束の中には手紙も含まれているのだが、2ヶ月分の封書を開封してみると、返事をしなければならないものがが次々と出てきた。
 時期が時期だけに、忘年会のお誘いが多いが、「武田は返事1つよこさない!」と幹事の方は迷惑をされたに違いない。申し訳ないことだと思う。

 支払いに関する明細は、なるべく早く見ることにしている。
 その理由は、以前に間違えで100万円も振り込まれていたことがあるから。そんな間違えがあった時に、お金がたくさん残っていると思い込み、使い込んでしまう危険性があるからだ。
 すると先月は、150,0.00と支払い明細に書かれていたのだが、あまり心当たりがなかったので、
「150000円もくれるのですか?」
 と出版社に問い合わせてみたら、
「右から二番目の点はコンマではなくて、点ではありませんか?」
 と言われた。つまり1500円だったのである。
「なんと紛らわしい!怪しからん出版社だ。」
 が、翌月分の貯金通帳まで点検すると、今度は、同じ出版社から、明細の倍以上の金額が振り込まれていたので、怪しからん出版社ではあったが、帳消しにしてやることにした。
 が、その後よく封筒を点検してみると、明細が2枚に渡っており、2枚目の書類を僕が見ていなかったことに気付づかされた。
 ともあれ、書類と手紙の束が片付いた。
 
 

2007.12.7(金) 一番の技術

 以前講演をした際に、
「写真はフィルム代もかかるし、大変でしょう!」
 と会場におられたおば様に言われて、僕はう〜んと考え込んでしまった。
 僕がその当時苦しんでいたのは、逆にフィルム代がかからないことだったからだ。
 写真家はシャッターを押しフィルムを消費し、そうして撮影した写真でお金を稼ぐのだから、基本的にはフィルム代が掛かっている時は儲かっている時。
 にもかかわらず、その当時の僕は、なかなか被写体を見つけることができず、少ない月には数本しかフィルムを消費できないこともあった。それでは売り上げが伸びるはずがない。
 もちろん、何でもいいから撮ればいいのなら、フィルムを消費することくらい容易い。だが、写真が仕事として成立するような状況でシャッターを押すのは、今だって難しい。
 僕はその当時、自分に鞭を打とうと思い、月ごとに消費したフィルムの本数をグラフに表示してみたことがある。それは、セールスマンの営業成績表のようなものだが、やってみると益々惨めになることが分り、すぐにやめた。
 そのおばさまの話は、全く逆なのである。
 その前にそもそも、町にお店を出して商売を始めようと思えば、いったい幾らお金がかかるだろう?その際に必要なお金は、お店の種類にもよるだろうが、フィルム代の比ではないことだけは明らかである。それに比べれば、写真は安上がりであるとも言える。
「好きなことができていいですね!楽しいでしょう?」
「ええ。そうですね。」
「でもその実は大変なのではないですか?分りますよ。私には・・・」
 というような会話を好む方は、多いように思う。
 だが、私には分るという人は、ほぼ間違いなく分らない人であり、それはしばしば、私は分る人間でありたいというその人の願望を表しているように感じる。むしろ、自分には分らないという人の言葉が真実をついていることに、ハッとさせられる機会が多いように思う。
 
 僕は時々撮影機材に関して書くが、機材や機材の使いこなしの前に、シャッターを押すこと、つまり被写体を見つけ出す目が、写真家にとっての一番の技術だと思う。

 

2007.12.6(木) 手ブレ補正レンズ

 確か、僕が大学4年の時のことだ。
「おい、Y君よ。今日できることを明日に残すなよ!」
 と先生に注意されたY先輩が、
「先生、トルコでは、明日できることを今日するな!という格言があります。」
 と切り返し、先生に怒られた。
 Y先輩は冒険好きであり、有名な冒険家についてのトルコの洞窟探検から帰国したばかりだった。
 僕は、そんなY先輩が好きだった。あんな風に生きることができたらなぁと思うことがあった。
 もちろん、事と次第によっては、Y先輩のようなことを主張されては困る。例えば、お医者さんがそんな心構えでは困るし、医師なら、可能な限りあらかじめ手を尽くし、石橋を叩かなければならないだろう。
 だが、自然科学の研究や自然写真は、あまりにクソ真面目にのぞむものでもないだろうと僕は内心思う。後ろ指を指されるくらいがちょうどいいのだと。
 僕は自然写真を仕事にするにあたって、当面真面目に努力すると決めているが、内心は、自然写真家が真面目に努力をするというのは、やや反則気味の面白くない行為であり、小さな人間のする恥ずかしいことだと思う。
 真面目であることが悪いとは思わないが、決して威張ったり、胸を張ったり、特別に褒められるようなことでもなく、数ある考え方の中の1つに過ぎないと思うのである。

 さて、インターネット上のデジタルカメラに関する書き込みを読むと、実に真面目な記述が多い。
 あのカメラはオートフォーカスの性能が悪いクソカメラだとか、高感度での画質が悪いとか、高性能=すばらしいというクソ真面目な構図のものが多い。
 それらの書き込みが、失敗をすれば他人に迷惑がかかるようなプロによるものか?と言えば、大半の人は趣味の写真であり、みみっちいなぁと思う。そんなにみみっちく遊ばなければならないのだろうか?と。
 昆虫写真の海野先生が言うには、カメラは扱いにくいのがいいのだという。扱いにくい方が可愛いと。さすがプロである。
 僕も海野先生な発言をしてみたいと思う。が、今の僕の実力では、残念ながら、どうかんがえてもやせ我慢にしか聞こえないだろう。
 
 さて、新しいレンズが届いた。ニコンの105ミリ、手ブレ補正機構付きのマクロレンズ(中古で約7万円)だ。
 このレンズは、一言でいえば、僕のような小人物向け。もしもニコンユーザーで、そして僕のように、恥ずかしいけど失敗せずに写真を撮りたいと思う者は、絶対に買いだと思う。
 手ブレ補正機構を内蔵した唯一のマクロレンズだが、その威力はなかなか大したもので、使える!と感じた。
 このレンズを使うだけで、かなりのアドバンテージがあるだろうし、使わないと勿体ないと思わせるほどのものがある。

 

2007.12.5(水) いったいなぜ?

 例年なら、秋〜初冬にかけて次々と産卵をするはずのアメリカザリガニが、今年はまだ一匹も卵を産んでいない。いったい、なぜなのだろう?
 今年は、アメリカザリガニの写真をたくさん撮らなければならないので、水槽を多めに準備して、たくさんのアメリカザリガニを飼育しているにもかかわらずである。
 生き物は機械ではないのだし、仮に思い通りにならなくても、慌てふためいたり、考え込んだり、それを何とかしてやろうとは思わないことに僕はあらかじめ決めているし、仮に自分にとって不都合なことでも、生き物のすることなら受け入れることにしているのだが、さすがにちょっとばかり不安になってきた。
 どうしたんやろう?
 飼育中のザリガニが1つがいとか2つがいなら、話はわかる。
 だが、今年は10つがい近く飼っているのだから、たまたまとは思えないし、盛んに交尾をしているのだが・・・
 生き物って、やっぱり難しい。
 しかし、なぜなのだろう?
 
 

2007.12.3〜4(月〜火) 写真展 

 先日紹介した尾上さんの写真展を見に、博多の町へと出かけてきたが、他人のイベントは実に気楽でいい。取材の方がお越しになっても、自分が対応する必要はないし、写真をただ見るだけという立場は、なんと楽しいのだろう!
 僕が写真を見せてもらっている間にも、西日本新聞の記者がお越しになったが、
「すいません。西日本新聞ですが、取材に来ました。」
 などと声が聞こえると、日頃の習慣で一瞬ハッとなり緊張し、その後、ああ、今日は僕の写真展じゃないんだ・・・と内心確認ができると、じんわりと写真を見る楽しみが湧いてくる。

 僕にとって取材や新聞が怪しからんのは、しばしば顔写真を撮っていくことにある。僕は、写真に写るのが、大嫌いなので、
「それでは写真を・・・」
 と言われると、頼むから、それは許して!と懇願し、逃げ出したくなる。
 だが、他人が写真に撮られるのを見るのは、それなりに面白い。
 今回お越しになった記者さんは、年齢がとても若く見えたが、インタビューも初々しく、顔写真の撮影も不慣れだったようで時間がかかり、尾上さんの写真集でも作れそうなほどたくさんの写真を撮影して帰られた。
 すると、尾上さんもその間に緊張が高まってきたのか、実に表情が硬い。
 それなら、いい笑顔を引き出してやるのが、その場にいたものの役割ではないか!と、カメラの後ろ側にまわり、ニヤニヤと尾上さんを見つめるわけだが、尾上さんにとっては非常に困った観客だったに違いない。
 
 僕は日頃は自分が発信する立場にいることが多いのだが、たまには受け手になることもいいなぁと思った。
 最近、いつもの自分の立場と逆の立場に立った時に、ハッとさせられることが、なぜか非常に多いように思う。
 
 

2007.12.1〜2(土〜日) NikonD3 

 インターネット上には、デジタル一眼レフカメラの画質に関する記事が数多く存在する。そして、「あのカメラの画質はいい」とか「悪い」 などとネット上の掲示板で語り合っているうちに、喧嘩に発展することも決して珍しくない。
 だが、僕はいつも、
「みんな、そんなに分るのか?」
 と疑問を感じる。
 話が、一眼レフではなくて、コンパクトカメラなら分る。コンパクトカメラの場合は、元々小さくするために設計に無理があり、その無理を改善する技術の発達で新製品が明らかにいいというようなケースがある。
 だが、一眼レフに関しては・・・・
 そこで時々、ちょっとした機会に同業者に率直な意見を聞いてみると、大抵、
「いや〜、あんまり分らないねぇ。少なくとも、語れるほどはね。」
 という答えが返ってくる。プロでさえ。
 そんな時僕は、「さすが、プロだなぁ」と思う。ちゃんと知っているのだ。
 厳密に言うと違いはあるのだが、どちらが優れているのかは全然分らないのだ。

 それが分るという人を否定するつもりはない。また僕だって、撮影の状況によっては画質の違いを明確に感じることもある。だがその手の違いは、ある特殊な状況での違いであり、一般的な撮影での良し悪しは、なかなか分らないものだと僕は感じる。
 比較をするカメラがコンパクトカメラと一眼レフであれば、画質の差を見出すことができても、カメラの規格が同じであれば、
「こちらが優れている!」
 と断定するのは難しい。
 
 さて、僕は厚化粧ではない女性が好きだ。ばっちりメークが決まった女性は、僕には人間というよりもサイボーグのように見える。食べ物だって、作りこまれているものよりも、素材重視のものが好みに合う。
「それが一番贅沢なんだよ!」
 と人から言われることもあるが、別に女性はピチピチの肌である必要はないし、食べ物だって同様。
 カメラに関しても同じような好みの傾向があり、最近はカメラやレンズの欠点を画像処理によって補うテクノロジーが発達してきたけれども、そんな画像に化粧を施すテクノロジーよりも、従来のカメラやレンズ作りの基本に忠実な製品が好きだ。

 今日は受け取ったばかりのニコンD3で事務所の周辺の植物を撮影してみたが、同じ規格のキヤノンEOS5Dに比べて、画質がいいのか、悪いのか、好みに合うのか、合わないのか、まだまだ全然分らない。
 一方で、メカの部分の凄さは、思わずにやけてしまうほど。

(お知らせ)  知人の写真展を紹介します。
 尾上(オウエ)さんの写真展 「絶滅危惧種クロツラヘラサギって知っていますか?」が、福岡市天神のアクロス福岡2F・メッセージホワイエで開催されます。期間は12/3〜12/9まで、入場無料となっています。
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2007年12月分


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