撮影日記 2007年11月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2007.11.30(金) 新型 

 僕は以前は写真が大好きなつもりでいたのだが、最近は、それがそうでもないことに気付かされた。例えばちょっと旅行に行く際や打ち合わせや売り込みで上京する時など、僕はカメラを持っていく気にはなれないのだが、中には大きなカメラバッグを持ってこられる方もおられる。
「なるほどなぁ〜、これが写真が好きっていうことなのか・・・・」
 とそんな時に、ただただ驚かされる。
 また、カメラには特別に興味がないつもりだったのに、
「武田さんって、機材好きだよねぇ。」
 と言われる機会は多い。
 
 さて、
「武田さん一大事ですよ。」
 と写真店に勤める仲間から電話があったのは、ちょっと前のことだ。
「ニコンからファックスが来ました!ニコンの最新のデジタルカメラ、D3が発表されたけどどうします?」
 と。
 僕はちょうどその時車の運転中だったのだが、新型のカメラが気になりどうにも運転に集中できないし、そんな状態で車を走らせるのは危な過ぎる。まだまだ未発表の傑作写真があるのに、事故を起こして死んでしまっては話にならないし、仕方がないので、
「一台取り寄せてよ。」
 と注文をするはめになった。

 昨日、その新型が、
「明日、入荷します。」
 と連絡があった。が、
「明日は私が休みなので、明後日に取りに来てください。」
 とのこと。
 一刻も早く最新のカメラを手にしたいのだが・・・ さすがに一流の店員である。新型が発表されると、まるで見計らったかのように買いたくなるタイミングで電話が入り、新型が入荷すると、今度は一日ばかり焦らされて、恐らくそれによって、新型を手にした感激が倍増するに違いない。

 

2007.11.29(木) 取り巻き 

 先日、宮崎で一緒にSSPの写真展の展示作業をした坂本陽平さんは、自然写真を流通させる業務に長く携わってこられた方で、現在はフリーのプロデューサーとして活動しておられるが、自然写真業界の裏から表までを、日本で一番よく知っている人の一人ではないか?と思う。
 坂本さんの話を聞けば、どんな過程を経て今の自然写真業界があるのかがある程度想像できるし、僕は坂本さんの話が好きだ。だから、福岡から宮崎まで出かけて作業をするのは疲れるが、坂本さんに会えるのならと思い、出かけることになる。

 例えば、自然写真業界は今拡大しているのか?それても縮小しているのか?それをよく知っておくことは、やっぱり大切なことではないだろうか?
 もしもそれが拡大中なら、その流れにのって仕事をすればいいだろうと思う。需要を消費すればいいのだと思う。
 だがもしも縮小中なら、業界全体を盛り上げるために、自分もアイディアを出さなければならないだろうし、需要を生み出さなければならなくなる。
 時々僕宛に送られてくるメールに、
「これからは自然が注目を集める時代がくるし、あなたの仕事も多くなっているのではないでしょうか?」
 と言ったことが書かれているのだが、実際には自然写真業界は縮小中であり、自然写真家はなかなか食えない存在になりつつある。そして、僕くらいの年齢の者はまだまだ先があるのだから、先輩方が築き上げたものの恩恵で最後まで暮らすことはできないだろうし、「不景気だ。どうにかならないの?」ではなくて、何か自分で新しい流れを作らなければならないのである。
 ただ、それは一人ではできないことで、周辺のさまざまなジャンルにかかわる仲間たちと力をあわせて仕掛けていかなければならない。
 すると今度は、自分の取り巻きが非常に大切になってくる。

 さて、今僕が形にしたい企画は、すべてを写真だけで表現することが難しく、その部分をイラストに頼らなければならない。つまり、その企画の中ではイラストが単なる挿絵ではなく、写真と同程度に重要になってくる。
 ところが、人にイラストを依頼するとなると、まず先に本ができることが確定しなければならなくなる。出るか出ないかが分らない本のために描いてもらうのは、やっぱり心苦しい。
 だが、先に本が出ることを確定させようとすると、その肝心なイラスト抜きで、出版社の人に僕の意図を理解してもらわなければならなくなる。これは非常に難しいことで、僕はそんなジレンマに陥っていた。
 だが、イラストを描く友人に話してみると、「それでもいいよ」と受け入れてもらうことができた。
 先日からそのためのやり取りを何度も繰り返しているのだが、初めて自分が依頼する立場にたった。
 依頼をする立場になると、依頼を受ける時とは違うものが見えてくることが分った。
 すると今度は、自分が依頼を受けるときに、どのように受けたらいいのかが、少しだけつかめたような気がする。
 安倍元総理は教育改革を唱えておられたが、学校の先生は、教えるばかりじゃなくて、時々、自分が教わる立場に立てばいいのではないか?と思う。

 

2007.11.27〜28(火〜水) 宮崎へ 

 僕が所属する日本自然科学写真協会(SSP)の仕事で宮崎へ。宮崎市の総合博物館で開催されるSSPの写真展の準備だ。
 同じ九州と言えども福岡から宮崎市は遠く、高速道路を使っても4〜5時間はみなければならない。だから、展示作業がはじまる時間から逆算して早朝に自宅を発ったまでは良かったのだが、何と、高速道路が事故で15キロの渋滞である。
 事故の箇所は佐賀県の鳥栖市付近。仕方がないので、そこでいったん高速道路を降りることになった。
 佐賀県といえば過疎地のイメージが強いが、鳥栖は九州を縦に結ぶ幹線道路と横につなげる幹線道路が交差する交通の要所であり、大型の運送用のトラックなどがひっきりなしに通る。便利な商業施設はほとんどないにもかかわらず、あたりはやたらに交通量だけは多く、空気が悪い。鳥栖市は、実は僕が九州で一番住みたくな場所なのである。
 それはともあれ、高速道路を降りたは降りたで、そんな理由でこちらもそれなりの渋滞。時間がどんどん無駄に過ぎ去っていく。
 虚しいなぁ。

 展示作業終了後は、一緒に作業をしたSSPの坂本陽平さんと、宮崎県は都城の近くに住んでおられる昆虫写真の新開孝さんをたずね、一晩泊めてもらうことになった。上の画像は新開さんの自宅の部屋からの眺めだ。
 
 僕は多くの写真家の影響を受けているが、僕の場合、誰かの写真の技術や自然に関することよりも、その人の生き方や哲学に影響を受けやすい傾向にある。
 そして新開さんは、今でも僕が日々影響を受け続けている写真家の一人だと言ってもいいだろう。
 新開さんの何に驚かされるか?と言えば、大変に家庭的な人であること。
 自然写真家は自然中心の暮らしをするのだし、しばしば家庭を省みず、仕事は成立したけれども家庭は崩壊したという話は珍しくないし、僕も以前は、そうでなければ自然写真の仕事なんて成り立たないと思い込んでいた。
 ところが新開さんのことを知ったことで、その考えは根底から覆されたし、「家庭があるから写真が撮れない」などというのは言い訳に過ぎないことを教えてくださった方だ。
 それは同時に、「お金がない」とか「時間がない」というのも言い訳に過ぎないということを表しているし、何かのせいにするのではなく、今自分が置かれている状況を切り開くのがプロだということでもある。
 
 

2007.11.26(月) 更新 

 今月の水辺を更新しました。

 

2007.11.24〜25(土〜日) 学生時代のこと 

 写真だけでなく文章でもお金を稼ぎたい、というのは僕が以前から望んでいたことだが、最近、少しずつ、「武田はいい原稿を書く」と関係者に評価されるようになってきた。
 評価の中味を大まかに言うと、語彙が豊富で高度な文章が書けるではなくて、自分の心の内面を、難しい言葉を使わずに、読みやすく簡単な文章で表せるということ。
 時には、「何でこんなに簡単に書けるの?」と真面目にたずねられることもあるが、そんな機会にふと考えてみると、学生時代のある経験が影響しているように思う。

 確か、大学院の学生の時だったと思うが、当時僕が所属していた研究室の助手で、今では岡山大学の教授を勤めておられる富岡憲治先生の一言が、何か僕に影響を与えたような気がする。
 当時まだ若かった富岡先生は、僕にとって先生というよりはお兄さんというような存在だったのだが、学会発表を間近に控えた先生をちょっと焦らせてやろうと、
「先生、発表の練習しなくていいのですかぁ〜。学会が近いですよぉ」
 とからかうと、
「なんで練習なんてしなくちゃならないんだよ。」
 と思いがけない返事が返ってきたのである。先生が豪放磊落なタイプならその返事も理解できるが、先生は極めて繊細で真面目な人だった。
「??????」
「だってさぁ、他人の研究をゼミで紹介するのならともかく、自分の研究を発表するんだよ。」
「・・・・・・・・・・・・」
「もしね、どんな研究しているの?と突然にたずねられたらさぁ、自分の研究なら誰だって即座に答えられるし、幾らでも語れるじゃない。ちょっと説明の練習してきますなんて言わないでしょう?学会発表だってそれと同じだよ。」
 と。
 今の僕の場合は、先生にとっての学会発表が原稿を書くことに置き換わるのだが、書こうとするのではなくて、日頃考えていることを素直に表す。力むのではなくて自然体で臨むその感覚が、富岡先生の一言で、その瞬間に、ちょっとつかめたような気がする。
 僕の父は、何かに取り組む時にガチガチに構えるタイプなので、僕も自然と、頑張る時はそうしなければならないと思っていた面があり、それだけに先生の一言が大変に鮮烈に感じられた。
 
 そう言えば、富岡先生の講義は極めて分りやすく、初めて授業を受けた日に、僕は目から鱗が落ちる思いがした。僕は勉強が嫌いなので授業の内容は100%忘れてしまったのだが、
「分りやすい、この人の言葉・・・」
 という驚きは、今でも非常に鮮明に覚えている。
 わかり易さでは、僕が大学時代に受けたすべての授業の中でダントツの一番だったという印象があり、他の先生の授業の言葉が、例えるなら文語であり、役人の言葉に近い雰囲気を持ったものだとすると、富岡先生の言葉は口語であり、まるで身近な家族の言葉のように僕は感じていた。

 

2007.11.23(木〜金) シーズンオフ? 

(お知らせ)
 サンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は11月24日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。

 小動物にカメラを向ける写真家にとって一番忙しいのは、やはり生き物の活動が活発になる春〜夏にかけてだろうと思う。だから、その時期にはまとめて大量の写真を撮ることになる。
 だが僕は、できれば撮影を一年間にまんべんなく割り振りたいと考えてきた。
 一年中写真を撮り、たくさん稼ぎたいというのではない。ある時期に撮影が集中して、その結果、一つ一つの仕事が雑になることを防ぎたいから。
 もしも年中まんべんなく写真が撮れ、そこで撮影した写真をコンスタントにお金に換えられるのなら、春〜夏にかけての撮影を今までよりもセーブできるからである。
 その目論見は、昨年あたりから形になって現れるようになってきた。例年であれば、比較的ゆっくりと暮らしていた、いわゆるシーズンオフの時期も、撮影で忙しくなってきた。
 数年前までは比較的暇だったこの時期に、「あ〜暇が欲しいなぁ」と感じるようになってきた。
 ここ数日も実に慌しくて、事務的な仕事が疎かになり、ドンドンたまっていく。ちょっと、ボウッとする時間が欲しくなってきた。
 それはそれなりに、また何か作戦を考えて、忙しくなり過ぎないようにしなければならないようだ。
 なぜ、そこそこ暇であることにこだわるのか?と言えば、多くの出版関係者は大変に忙しく過ごしていて、僕はそれを目の当たりにすると、「こんなにバタバタしていて、本当にいい本ってできるのか?」と疑いたくなるから。
 と言うことは、同じことが自分にも当てはまるような気がするからである。創作活動に携わる人間には、心のゆとりや遊び心が、絶対に必要だと感じるからだ。

 

2007.11.20〜21(火〜水) 落ち葉 

 僕は撮影に時間をかけることは、以前にも何度も書いたことがあるが、ここぞ!と場所を一箇所決めると、その場所での撮影だけで一日が終ることも珍しくない。水の中にだって2時間でも3時間でも居続けるし、一箇所でじっとして写真を撮りながら、同時に周囲の自然の様子をじっくりと観察し把握することが多い。
 水中の場合は機材が大きく、そして多くなるので、一般的な撮影機材と水中用の機材を両方持って沢を歩くのはほぼ不可能に近いし、しかたなく「今日は水の中」とか「今日は陸上から」とあらかじめ撮影の方法を決めた上で沢に入るが、それでも目だけは陸上の被写体も追っているし、次の撮影のための観察をしながら写真を撮るのである。
 たくさん人が訪れるような有名な撮影地では、被写体だけでなく、他人の様子の観察も僕の仕事の一部分に含まれる。
 というよりはむしろ、周囲のあらゆることに興味をもってみることの中に、自然の観察が含まれていると言った方が正確だろうと思う。

 さて、今回は、紅葉もすでに終わりに近く、
「あ〜あ、もう終わりだ。今日は撮るべきものがない。」
 などとカメラを取り出すことなく引き返すような人も目にしたのだが、被写体なんて本当は幾らでもあるのだと僕は思う。
 すると、ピュ〜と風が吹き、辺りの木々から一斉に見たこともないほど無数の落ち葉が降り始めたのだが、僕は水の中だし、その前に陸上用の撮影機材もないので、手も足も出ない。
「ああああ・・・、ここで陸上用の撮影機材があれば!」
 僕はあれほどたくさんの落ち葉が一斉に降ってくるのをこれまで見たこともない。
 ところが、辺りには上等なカメラや三脚を持った人がたくさんいるにもかかわらず、みんな、「撮るべきものはない」と決めつけているか、或いは流れに落ち葉を投げ込んで、それがクルクル舞う様子にカメラを向けているなど、型にはまった定番の被写体に夢中で、大量に降ってくる落ち葉に気付くことはなかった。
 そうして他人の様子を見ていると、僕は、何でもいいから物語を作りながら写真を撮ればいいのに・・・・などと思う。
 例えば、木々はある日突然に紅葉するわけではないし、少しずつ色づくのだから、それを物語として撮ればいいじゃないか!と思う。つまり、色づく過程を作品として見せる努力をするのである。
 また、葉が落ちたあとだって、立派な被写体だと思う。葉を落とした木々を見て、「ああ、もう終わりだ」と感じたその寂しさを表現できるような写真を撮ればいいじゃないか!と思う。
 それは、恐らく見事に色づいた葉っぱを撮影するよりも遥かに難しいだろう。だから、より表現力が求められるに違いないし、写真は量を撮らなければ上手くならないように、僕は感じるのである。
 
 

2007.11.19(月) ゴギがすむ沢 

 ちょうど一週間前にゴギのつがいを確認した沢を歩いてみたら、前回魚影を見かけた場所に、今回は魚たちの姿はない。
 ということは、前回僕が目にした魚は、この一週間の間にすべて産卵を終えたことになる。
 今回は、先週よりもやや下流でゴギたちを見た。上の画像の場所でも、僕が近づくと数匹のゴギが慌てて岩陰に隠れるのが見えた。
 ただ、魚の数はより上流に比べるとそう多くないから、この沢で最もゴギが濃い場所は、先週下見をした上流よりの場所になるのだろう。
 だいたいゴギの産卵の様子が目に浮かぶようになってきた。来年は確実に写真が撮れそうだ。
 
 

2007.11.17〜18(土〜日) 撮影機材の話 

 今僕は主にキヤノンのカメラを使っているが、以前はニコンを使っていたのでニコンのレンズをたくさん持っているし、その中には捨てがたい描写のものがある。
 例えば、今は製造中止になった28ミリのf1.4は、それだけで写真が楽しくなるほどすばらしい描写であり、レンズの開放F値がただ明るいだけでなく、一般的な描写もずば抜けていい。したがって、僕の場合、どうしてもニコンのカメラを切り捨てることができない。

 一方で、お金が幾らでもあるのなら各社のカメラを使い分ければいいが、僕の場合はそうではないのだから・・・と思うこともある。
 そんな時、いつも考えるのは、自分にとって写真は何か?ということ。 
 すると、僕にとっての写真は仕事ではあるが、趣味でもある。僕は写真でお金を稼ぐことにそれなりに熱心だし、時に、
「君はプロに徹しているんだね。」
 と言われることさえあるのだが、もしも写真が仕事として成立しなくても、だいたい同じような生活をするのではないか?と想像する。だから、写真は遊びでもあるのだから、持ちたい道具を持てばいいじゃないか!といつも考え直すことになる。

 さて、あと1つ別のカメラのシステムを持ちたい、と考えることがある。
 持ちたいメーカーが決まっているわけではなく、撮りたい場所が先にあり、そこで活躍してくれるカメラが欲しい。
 その撮りたい場所とは、浅い水の中だ。
 今年はその役割をリコーのコンパクトタイプのデジタルカメラに任せたが、コンパクトカメラであることの有利さと同時に、画質の面での限界も感じた。
 その限界の部分を補うカメラのシステムが欲しいのである。 
 そのためにはどんなスペックのカメラがいいか?と言えば、まずは手ブレ防止機構がカメラに組み込まれていること。すると、現状ではニコンやキヤノンではダメ。
 そして撮影素子の大きさは、35ミリ判フルサイズよりも小さくて、よりピントが深いカメラであること。
 これは、森の中などの暗い水溜りの中を撮影すること想定した結果だ。
 さらに、35ミリ判換算で20〜24ミリ前後の、接写能力の高いレンズが準備されていること。
 今のところその条件を一番よく満たすのは、ペンタックスのK10D+14ミリレンズだ。
 だが、もしもオリンパスのシステムの中に、単焦点の広角レンズがあれば、オリンパスの方がより適したカメラになるだろうと思うし、そこに期待するがゆえに、ペンタックスのカメラを買うところまではいってない。
 オリンパスにも魚眼レンズはあるが、水の中にカメラを沈める場合は、魚眼レンズを使うと水中ケースが馬鹿でかくなるので困る。
 
 

2007.11.14〜16(水〜金) 火山 

 熊本県の嘉島町には湧き水が多く、僕はその中の1つの湧水池をもう随分長いこと取材している。そして、そこに湧き水があるのは大昔の火山の噴火の影響であることは以前にも書いたことがあるが、ならばその火山にもカメラを向けておきたい。
 そうして自然の因果関係を突き詰めていくと、今日の画像だって僕のテーマである水辺の周辺を写したものということになるし、やっぱり地球は1つながりなんだなぁ。
 ここは観光地だからたくさんの人がやってくるが、たまたま近くで解説をしているガイドさんの話を盗み聞きしながらカメラのシャッターを押した。
 ガイドさんの話の中には火口の深さに関するものがあったのだが、この火口の深さをちょっと想像しておいてもらいたい。

 10月の中旬にも、阿蘇の火山の写真を撮った。だがその日は、火山から発生するガスの関係で、上の画像の向かい側にしか立ち入りができず、火口の見え方やその他の関係で気に入った写真を撮ることができなかった。
 そして今回は、風向きが違ったのだろう。この場所への立ち入りが可能で、火口が一番よく見えるポジションでカメラを構えることができた。
 実は10年くらい前だったと思うが、やはりこの場所で、手を変え品を変え、随分たくさんの写真を撮ったことがある。だから阿蘇の写真が必要な時は、その時に撮影した写真を使えばいいかな・・・、また同じ場所で写真を撮る必要はないかな・・・とも考えた。なぜなら、その際に撮影した写真は、まだ一枚も使われたことがないのである。
 だが久しぶりでもあるし、半分遊びを兼ねてまた火口に近づいてみたら、以前とは違うカメラの構え方が思い浮かび、また違った写真が次々と撮れた。そして、今回の写真の中には売れるものがでてくるのではないか?と直感的に感じるものがあった。
 それが上達するということなのだろうが、たかが一枚の写真を撮るのに随分時間がかかるものだなぁと思う。
 写真のような世界の場合、頑張ることは当たり前のことである。1〜2年頑張ったところで、それを頑張ったとか夢中になったとはまず受け止めてもらえないし、3〜4年打ち込んだって、だから何?というような程度のものだと思う。
 10年撮り続けたって、やっとスタート地点に立てるかどうかという程度の扱いを受けることが多いが、やっぱりそれくらいの時間がかかるものなのだと最近やっと感覚として分ってきた。
 
 さて、阿蘇の火口の深さだが、音で測定すると、なんと!8キロもあるのだそうだ。スゴイ。
 
 

2007.11.13(火) 次の仕事へ 

 10月に撮影したカタツムリの写真が、近々レイアウトされて送られてくるようだ。その本は全5巻で、そのうちの3つを僕が担当し、カタツムリが終わると次の生き物に取り掛かる。
 担当者は、以前に一緒に仕事をしたことがある方で、突飛なアイディアを出すタイプの方ではないが、素材としての写真の生かし方が実に上手い、素晴らしい編集者だなぁとその時に感じた。
 料理で例えるなら、その編集の手法はフランス料理ではなくて寿司。
 今回の企画は、その後、
「何か新しい企画を持ってきてくださいよ!」
 と声をかけてもらったのがきっかけで成立したもの。ただ、今の僕には、一気に5冊の本をすべてを担当できる精神的なゆとりも力量も時間もないので、先輩に力を貸してもらい助けてもらって最終的に企画が動きだした。
 
 僕が子供の頃には、なんとかの一生というような、生き物のライフサイクルを取り扱った本が多かった。
 ところが、最近は、その手の本がとても少なくなったように思う。『企画もの』と言ったらいいのだろうか、オーソドックスな生き物の本ではなくて、何か面白い点にだけに着目した本が増えた。
 確かに、生き物のライフサイクルを取り上げた本は、もうやり尽くされていることは間違いない。だが子供は入れ替わるのだし、僕はやっぱり生き物の本の基本は、ライフサイクルではないか?と信じるし、もう一度、それが主流になるように自分なりに頑張ってみようと考えている。
 今回の企画はその第一弾で、ライフサイクルの本が通用しにくくなった時代に、いかにライフサイクルの本を受け入れてもらうか、自分なりに考えた結果だ。
 僕がいかに考えたかは、本ができた時にでも書いてみたい。

 文章は、作家さんが付けてくださることになった。すると、写真家や編集者だけでは得られないような面白いアイディアが出てくるし、少し自分の視野を広げてもらうことができたとでも言おうか、それは、僕が過去に幼児向けの本を作る際には考えもしなかったことを考えるきっかけになった。
 ありがたいことだなぁと思う。
 もちろん、自分の立場からの主張もしなければならないが・・・ ともあれ、いい本になるような予感がする。

 さて、今日は落ち葉の渓谷を歩いてみた。
 帰宅をすると次の仕事が待っているわけだが、そう思うと、水の中を覗いている時間がより一層いとおしい。 

 

2007.11.10〜12(土〜月) ゴギ 

 僕よりも年配の方でアウトドアが好きな人の中には、冒険家の植村直己さんが好きだという人が結構おられる。そして、その植村さんの、
「夢は諦めなければ必ずかなう。」
 という言葉を座右の銘とする者が、僕の知人の中だけでも複数存在する。
 だが僕は、植村さんのその言葉の理解を、多くの人が間違えているのではないか?と密かに思う。植村さんの本来の意思とは逆に解釈しているのではないか?と。
 なぜなら、多くの人が、
「夢は必ずかなうから、がんばりなさい。」
 と植村さんから言われているのだと、受け止めているように感じるから。つまり、夢がかなうという見返りを求めて頑張ろうとしているように思うのである。
 だが僕は、植村さんがインタビューを受けたテレビ番組などを見ると、植村さんが見返りとは全く縁がない人物であるように感じる。
 僕の目に映る植村さんは、夢がかなうという見返りを求めて生きた人ではなくて、そんな結果うんぬんを抜きにして、どうしてもそこに行きたくて行きたくて抑えられなかったから冒険に出かけた人にしか思えないのである。
 僕は植村さんの言葉を、「無心になって取り組んだことは、なぜかどこかで必ず評価されるようですね。どうも世の中って、そんなものみたいですね。」という風に受け止める。植村さんが、植村さん自身に対して投げかけている、一種の悟りのようなものだと感じる。
 
 さて、先週出かけたゴギがすむ沢へ、また行ってみた。前回はゴギの姿がほとんど見られなかったのだが、果たして、その沢からゴギがいなくなってしまったのかどうか?どうしても知りたいのである。
 その沢の周辺には、クマが出没することは前回書いたが、
「クマが頻繁に出るような場所に、よく行くなぁ〜。」
 と複数の方が感想を下さった。だが僕は、努力とか、根性とか、頑張るのではなく、どうしてもゴギを見に行きたくて抑えられないのである。
 今回は、前回、徹底してゴギを探した場所からさらに上流へとのぼってみたら、いよいよ源流に近い狭い範囲で、4組のゴギのつがいの姿を見つけた。
 また来週も同じ場所を歩いてみようと思うが、もしもその時にゴギの姿がなくなっていたなら、この沢のゴギの産卵のピークは、今回僕が見たゴギの状態から一週間以内くらいだと推定できる。
 そこまで分っていれば、来年はほぼ間違いなく撮影できるだろう。
 ただ今度は、その源流まで荷物を上げる術を考えなければならない。その場所へ行き着くためには、一部、滝つぼのそれなりに深い場所を通らなければならない。
 そして、クマ対策。これは、CDプレーヤーで大音量の音楽でもならそうかと思う。いやいや、長時間にわたる撮影になるだろうしバッテリーの問題があるから、ラジオの方がいいのだろうか・・・

 

2007.11.9(金) 機材の話 

(撮影機材の話)
 もしも、ただ求められているシーンを撮影すればいいのなら、デジタルカメラのイメージセンサーのサイズは、小さい方が有利だろうと思う。もちろん、小さいと言っても程度はあるのだが、少なくとも35ミリ判フルサイズのイメージセンサーを持つカメラよりも、APS−Cと呼ばれるタイプの方がいい。
 APS−Cの方が、同じ画角を得ようとするのなら大抵レンズが小さくなるし、レンズが明るくなるし、ピントも深くなるので扱いやすい。

 だがもしも画質にこだわるのなら、やっぱり35ミリ判フルサイズセンサーのカメラはいい。これは、EOS5Dを使ってみて、しみじみ思った。
 APS−Cのカメラ同士でキヤノンの画質がいいとか、ニコンがいいとか、ソニーがいいなどというのは、もはやナンセンスではないか?と僕は思う。そんなに画質にこだわるのなら、フルサイズセンサーのカメラを使えばいいでしょう?と。高感度での画質に限ってはキヤノンがいいとされているのだが、僕は通常ISO200までしか使わないので、そうなると、いよいよどれでも同じなのである。

 僕にとって、APS−Cの確実性を取るのか、それともフルサイズセンサーの画質を取るのかは、それなりに悩ましい問題だったのだが、僕は結局フルサイズセンサーのカメラを選んだ。そして、今後もよほどに特殊な理由がない限り、APS−Cのカメラを使う意志はない。
 APS−Cの確実性を取った方がいいのではないか?と真剣に考えたことはある。
 だが、その時にいつも頭に思い浮かんだのは、里山の写真家・今森光彦さんだった。今森さんは、一般的には、画質は良くてもその分扱いづらい67判のカメラを使っておられるが、より扱いやすい35ミリ判を使用しておられる方々と比べても何の遜色もない写真を撮っておられる。
 使いこなせば、あそこまでできるんだ!と思い知られされるのである。機材の扱いやすさとか確実性などということは、自分の腕を磨けばいいのだと。 

 さて、EOS5Dの後継機が出たらすぐに買おうと思っているのに、なかなか新型の発表がない。今僕が使用しているEOS5Dは、そうとうにガタが来ているので、いいかげんにヤバイなぁ〜という感じがする。
 がしかし、発売されて2年以上も経つEOS5Dを、今更追加して買うのも馬鹿らしい。だから、もしも今使っているEOS5Dが壊れたら、その時に、至急迷わずカメラ屋さんに走り、新品の5Dを買うことにして、後はひたすら今使用しているやつでしのごうと決意した。

 今月の末には、ニコンからフルサイズセンサーを搭載したD3が発売される予定になっている。それをすでに予約してあるのだが、ついでに105ミリの新型マクロレンズを購入し、スタジオでの撮影に関しては、壊れそうになっているEOSの代わりに、ニコンを使うつもりだ。
 ニコンに関しては、28ミリのf1.4、85mmのf1.4、コシナが製造しているカールツァイスの25mmのf2.8(ニコンマウント)など、お気に入りの短焦点レンズが何本かあるので、キヤノンを主に使用している今でも、やっぱり手放すことが出来ない。
 今はそれらのレンズを、アダプターを介してEOSに取り付けているが、絞りを絞ると、多分センサーに入る光の角度の問題だろうと思うが、かなり露出計が狂うので、やっぱりちょっと使い辛い。

 ただ、パソコンで見ると、結構大きく感じられるAPS−Cとフルサイズの画質の差が、印刷レベルでは正直に言うと、あまり?いや全くかな?感じられないことも付け加えておこうと思う。
 印刷の際のばらつきの方が、はるかに大きいように思う。

 

2007.11.8(木) ファックス 

 山陰での取材から帰宅したら、この冬に撮影を予定している仕事について、担当者からのファクスが届いていた。
 取り上げる生き物はアメリカザリガニである。
 その担当者には妙に鋭いところがあり、だいたい厳しい注文が寄せられるのだが、今回もやっぱり・・・・。
「本の中で使用する複数のアメリカザリガニの写真の雰囲気が似すぎないように!」
 という注文が付いた。
 アメリカザリガニの写真に関しては水槽を使用して撮影することになるが、水槽という閉ざされた狭い空間で写真を撮らなければならないため、どうしてもすべての写真が似通ってくる。だから何か上手い方法を考える必要があるなぁ〜と日頃から思ってはいたのだが、まさにそこを指摘された。
 ならば、今回の仕事はその点にこだわり、それに対して何か自分なりの工夫を考え出す機会にしようと思う。
 
 ファックスと言えば、もう随分前のことになるが、事務所に設置したファックスが初めて作動した際には、
「やった〜仕事が来た!」
 と嬉しかった。
 だがその中味を見てみると、なぜかそのファックスには、僕が持たない写真ばかりがリクエストされていて、何1つ相手の求めにこたえることができず、大喜びした分、反動で大変にがっかりさせられた。
 その後も時々そうしてファックスが送られてくるのだが、それらに目を通してみると、不思議なことに、その写真に限って持っていないというケースが多く、被害妄想な気分の時には、わざと僕が持たない写真ばかりを狙ってリクエストしているのではないか?と疑いたくなることさえある。
 僕は、いつの間にか、ファックスが作動することが恐ろしくなった。
 では、なぜ僕が持たない写真のリクエストばかりが寄せられるのだろう?
 僕が思うに、それは恐らく、僕にとって撮影が難しいシーンは他の人にも難しいからではないか?と思う。
 その結果、そんな写真が市場に不足し、誰に問い合わせても借りられないから、「こんな写真がありませんか?」と僕の元にも問い合わせがくるのではないだろうか?
 ならば逆に、それらを丁寧に抑えていけば、
「なぜか武田の写真がばかりが流通している。怪しからん!」
 などと同業者から陰口を叩かれる、まさに理想的な状況が出来上がるかもしれない。
 そう思うと、ファックスを寄せられ、そのリクエストに今の僕がこたえられなかったとしても、がっかりする必要はないし、むしろ、そこにチャンスが眠っているような気もしてくるのである。
 ただそれでも、ファックスが恐ろしいことには違いはないが・・・

 

2007.11.6〜7(火〜水) クマが出る沢 

 産卵の準備中のゴギの姿はないか?と散々沢を歩いてみたのだが、それらしい魚影はない。 見つかるのはヤマメばかりであり、もしかしたら、僕の懸念通りに、その沢からゴギが激減してしまったのかもしれない。
 2年前にはそこで産卵直前のゴギを数匹見たのだが、悔しいことに、それを撮影できるだけの道具がなかった。だから今年は完璧に道具を整えて出かけたのだが・・・。
 ただ時期の問題である可能性も否定できないから、来週もう一度同じ沢を見てみたいなぁ。

 辺りにはツキノワグマが生息し、何年かに一度くらいの割り合いで人が襲われている。しかも、僕が歩くのは沢沿いであり、水の音が僕の存在をかき消してしまうから、熊と至近距離で遭遇する危険性が常にある。おまけに僕は魚に気付かれないように、木化け、石化け、身を低くしてこそ泥のように歩いているのだから、益々危ない。
 そこで時々、「ガ〜」と大声を出しながら歩くので、おかげで今日は喉が痛い。
 学生時代のある年、僕はその場所へ10回出かけ、そのうち5回ツキノワグマの姿を見た。大抵は僕が林道を車で走行中に、車に驚いたクマが慌てて森に走り去るというパターンだった。
 だから、熊にとって車はそんな存在なのだろうと思い込んでいたのだが、数年前に、どこかで夜間に車を止めて外に出た人がいきなり熊に襲われるという事故があり、決め付けは禁物であることを教えられた。
 そういう場所を生身の人間が歩くのは、やはり大変な緊張を強いられる。

 ゴギの姿が見当たらないから紅葉でも撮影するか!と30分ほど車を走らせてみた。

 

2007.11.5(月) 異変 

 広島県のある川で、毎年同じ箇所でゴギの産卵が見られるという。そしてその様子は写真に撮られ、「今年もゴギの産卵が始まりました。」と報道されるようだ。
 そこで、今日はまずその場所を見てみてみようと考え、昨晩のうちに広島県、島根、鳥取県の3県の県境付近まで車を走らせておいた。その川の周辺にはキャンプ場やホテルがあり、たくさんの人が訪れる施設になっていた。

 施設の人に尋ねてみると、ゴギが産卵する場所を詳しく教えてもらうことができた。そして、
「昨日の夕刻は産卵が見られたみたいですよ。カメラマンの人がここ二日ほど、ずっと産卵を待っておられました。」
 と教えてくださった。恐らくそれが新聞社の方なのだろう。
 場所の雰囲気は、だいたい僕が思っていた通り。
 そこでさっそくその場所で写真を撮るという手もあるが、人と同じ場所で撮影するなど馬鹿げているし、そこは足場が良くて写真は撮り易そうではあるが、施設の中の川だから沢の雰囲気はイマイチ。
 だから今日は早朝のうちにその施設を発ち、およそ100キロほど車を走らせて移動し、今度は、僕のお気に入りの沢を歩いてみることにした。

 この沢は、ほどんと誰も訪れることがない僕の秘密の場所であり、ゴギの宝庫でもある。

 ところが、もしかしたら異変か?と思われるような出来事が・・・
 僕はその沢で何度も釣りをしたことがあるが、そこで釣れるのはすべてゴギであり、過去にヤマメが釣れたことは一度もない。にもかかわらず、今日はやらたにヤマメの姿が多く、一方でゴギの姿がほとんどないのである。
 それが季節的なものなのかどうかは、まだ不明。
 ヤマメとゴギ(イワナ)は、棲み分けをする関係にあると言われている。そして、もしも両者が同じ河川に生息する場合は、イワナがより上流へ、ヤマメがより下流に住む。
 ヤマメは、イワナが生息するようなより上流部に住めないわけではなくて、イワナがいない河川では、本来イワナが住むような場所にまでヤマメが広がるとされている。
 つまり、ゴギが多く生息していた場所にヤマメがたくさんいるということは、ゴギが激減した結果である可能性だって考えられる。
 激減を引き起こしかねない変化が、実は数年前にあった。それは、川の片側の木が伐採されたことである。
 その結果、川に多く光が射し込むようになり、以前よりも川が開けた環境になった。すると、恐らく水中の苔の生え方も変わってくるだろうし、水生昆虫の出具合も違ってくるだろう。
 果たして真実はどうなのだろうか?

 たくさん沢を歩いてみると、この沢は特別としかいいようがない沢がある。
 例えば、周辺に数ある支流の中でも、そこにだけやたらに魚が多かったり、明らかに水が澄んでいたり、恐らく湧き水の影響のだと思うが、その沢だけ一段と水温が低かったり・・・。
 僕の秘密の沢はまさに典型的なそんな場所になるのだが、そのような沢の周辺も森には、手を付けてはならないのではないか?と思う。
 自然保護だとか、そんな次元の話ではなくて、僕はだいたい楽天的で無責任なタイプではあるが、そんな僕でさえ、いいのか、ここに手を付けて・・・と恐ろしくなったり、真面目に心配になるのである。
 僕は昔渓流つりに夢中になったことがあるのだが、水がいいと言われている水系の沢を一本ずつ丁寧に釣り歩いてみると、その水系の沢ならどこでも水質がいいのではなく、むしろ大半の沢の水は並なのに、そこに流れ込む支流の中に一本だけ特別に水がいい沢があり、その水が全体の水質を格段に向上させているようなケースが多々あるように思う。
 特別扱いしなければならない場所がやっぱりあるように思うのである。

 

2007.11.3(土〜日) 出発 

 ここ数日は、年に一度あるかどうかというくらいの好調期だった。ちょうどそのタイミングに、カタツムリの撮影の仕事の重要な部分が重なり、通常であれば一週間は見ておきたい量の撮影を、わずか3日間程度で終えることができた。
 がしかしその反動で、今日は放心状態。今朝は早朝から山陰に向かって出発する予定だったのだが、出発を半日遅らせ、午後から発つことになった。今日から数日間は、ゴギという岩魚の一種の産卵シーンを撮影するために出かける。
 それをちゃんと撮影できる自信はあまりない。

 今日の午後から出発すると、目的地に到着する頃には日が暮れているので、今日の間にロケハンをして、明日の朝から撮影という予定がこなせなくなる。
 つまり、元々撮影を完結できる自信がないというのに、さらに一日撮影ができる時間が短くなる。
 だがいい事もあって、吉和というパーキングエリアを夕刻に通ることになるのだが、そこで岩魚のから揚げの定食を食べられる。パーキングエリアの食事であるにもかかわらず、 これは実に美味いのである。
 
 これから数日間は飼育中の生き物たちの世話ができなくなるので、今日は念入りに手入れをしておいたのだが、それに午前中いっぱいの時間がかかってしまった。今年は秋〜冬に、スタジオでの撮影の仕事を多く予定しているので、当然飼育するモデルの数も多く、時間がかかる。
 自然写真の仕事は、元々が儲かる仕事ではないので、それを仕事として成立させようとすると、相当の量をこなさなければならず、1つ1つの撮影に心行くまで没頭することは難しくなる。
 いつも結局、ギリギリの日数しか、つぎ込むことができない。
 
 ゴギの産卵シーンは、撮影できる自信がないと書いたが、それはそれでいいのだと思う。
 今年撮影ができなければ、また来年チャレンジすればいいし、来年も楽しみがあるのだから、それはそれでいいのだと思う。
 だから、たとえ予定が一日短くなったって、やっぱり僕は出かけるのである。
  
 

2007.11.2(金) デジタルカメラの優位性? 

 仕事の撮影をフィルムからデジタルカメラへと切り替えた当初は、デジタルの便利さと優位さを痛感し、
「フィルムならできなかった仕事ができるようになった。」
 などと考えた。
 だがよく考えてみれば、日本国内における自然写真の需要、つまり仕事の絶対量はフィルム時代と変わらないのだから、みんながデジタルカメラを使い、みんな有利になると、結局僕が特別に有利になったわけでもなく、今までと何ら変わらないことに気付かされた。
 むしろ下手とすると、今まで二人のカメラマンが必要だったところが、より優れた一人のカメラマンですんでしまうようなことになり、誰かが一人勝ちして、自分が消えてしまう危険性さえある。
 では、どうすればいいのだろう?
 僕が出した結論は、デジタルカメラの特性を最大限に生かした仕事をすることである。

 さて、今日は、メダカの写真に関する問い合わせがあったのだが、それに対応できるような写真を持たなかったので、即座に撮影して撮れたてのほやほやの写真を送ることにした。
 これは単にデジタルカメラがあればできるわけではなく、生き物の方もいつでも撮影可能な状態で準備されていなければならない。例えばメダカの写真を貸し出すのなら、いつでもメダカを撮影可能な水槽といいコンディションのメダカを持っておかなければならない。
 すると今度は、いかに手間がかからないように効率よくメダカを飼うか、そして手間がかからないように水槽を維持するかが重要になる。

「写真を探しているのですが・・・・、いろいろ当たってみたのですが、どこにもイメージに合う写真がなくて」
 と依頼され、
「それなら今から撮影して数時間後に送りましょうか?」
 と答えると、多くの人が、
「え!そんなことできるんですか?」
 と驚かれるが、僕は、そうしてびっくりさせることが楽しいのである。

 

2007.11.1(木) メダカの卵 

 メダカはデジタルカメラで一刻も早く写真を撮っておきたい被写体であることは、以前に書いた。昔撮影したフィルムをスキャンするという手もあるが、数枚ならともかく、量が多い場合は、スキャンよりもデジカメで新しく撮り直した方が早いのである。
 そこで先日はメダカの産卵行動にカメラを向けたのだが、今日はその続き、メダカの卵を撮影してみた。

 メダカのメスは産卵後しばらくの間、お尻に卵をぶら下げて泳ぎ、やがてどこかに擦りつける。
 卵をどこに擦りつけるかには個性があり、メスを一匹ずつ管理してみると、あるものは水草に、またあるものは岩に、さらにあるものは水槽の水をろ過するための器具に毎回決まってこすり付けることが分る。
 また、産み付けられた卵の状態も同様で、今僕が撮影しているメダカの場合は、卵を10個くらいの塊の状態で産みつける傾向がある。
 もっともこれは、メダカが意図的にそうしているのではなく、卵と卵をつないでいる糸の強さなど、何かが結果的にそうなるようになっているのだと思う。
 だから、いかに自分が撮りたい絵を撮らせてくれるメダカを選ぶかで撮影の結果はほぼすべてが決まる。
 昔、メダカが水草に卵をこすり付ける瞬間がなかなか撮影できずに苦労したことがあるが、それは僕が、どのメスでもいいだろうと適当にメダカを選んでいたことに原因があった。もしもそんなシーンが撮影したいのであれば、水草に卵を産みつける癖のあるメダカを選ぶ必要があった。

 水草にこすり付けられたメダカの卵を撮影するのであれば、卵をお尻にぶら下げているメスから人の手で採卵し、それを水草にくっ付ける手もあるが、やってみると、なかなか卵がくっ付かなかったり、くっ付いても、その後死んでしまう可能性が高かったり、となかなかに難しい。
 僕はそういう作為的なこともそれなりに試してきたが、僕の結論は、そこまで人の手で作るのは逆に難しいということ。
 一番簡単なのは、生き物の行動を上手に引き出すことだと思う。
  
   
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2007年11月分


このサイトに掲載されている文章・画像の無断転用を禁じます
Copyright Shinichi Takeda All rights reserved.
- since 2001/5/26 -

TopPageへ