撮影日記 2007年10月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

2007.10.31(水) 殻は浮き袋 

 僕は数年カタツムリを飼い続けているが、その間に一番驚かされたのは、カタツムリが水で隔てられている離れた場所へと移動できることだった。つまり、カタツムリは水を渡ることができる。
 ある時、僕は小さなお皿に入れたカタツムリの卵を、さらに大きな容器の中に入れ、大きな容器の方に水を張っておいた。お城の掘りのような状態を想像してもらえばいいと思う。
 なぜ堀を作ったか?と言えば、孵化をしたカタツムリに逃げられないため。
 卵にカメラのレンズを向け、照明器具を整えシャッターさえ押せばいつでも撮影可能な状態にセットしておき、しかも、万が一僕の留守中にカタツムリが孵化をしても逃げられないための工夫のつもりだった。周囲を水で取り囲んでおけば大丈夫だろうと考えたのである。
 そしてある日、その卵は僕が留守中に孵化をしたのだが、なんと数匹のカタツムリが水を渡り、対岸へとたどり着いていたのである。
 それから何度も同じことを試したが、いつも対岸に渡るものがでてくる。
 僕は色々なシーンを頭に思い描いた。
 例えば、カタツムリが水の中に潜り、水の底を歩き対岸に渡る姿。または、水面を這うように対岸に渡る姿。
 水面を這うことについては、2つの可能性があるだろうと考えたのだが、1つはアメンボのように水面の空気に接している側の面、つまり陸上から見た際の水面を歩く可能性。そして2つ目は、水面は水面でも水中から見た際に見える水面を、まるで飛行機の背面飛行のように這う可能性である。
 今回は、カタツムリが水を渡る現象を、再現ではあるが、自分の目で見ることができた。
 結果は、僕が想像していた可能j性のどれでもなく、カタツムリの殻が浮き袋の役割をして水に浮き、そして表面張力なのか?静電気のようなものなのか?浮いているカタツムリが胴体を伸ばしてニョロニョロしていると、ス〜ッと岸に吸い寄せられた。
 今の所、僕が試した範囲でこれが可能なのは、生まれた直後のカタツムリだけ。大きくなると、水に沈むようになる。
 カタツムリは、本能として、それを知っているような気がする。
 なぜなら、水に浮かない大きさのカタツムリは、体が水面に接すると、そこから先へは進めないことを察したかのように、すぐにそこから離れていくのに、水に浮く生まれたての子供は、しつこく水際に留まる傾向にあるから。

  

2007.10.30(火) 考えること 

 カタツムリの卵が孵化をして3日目。ようやく、今回のカタツムリの本の中で使用する主な写真の撮影が終った。残りは、絶対的に難しい撮影ではなく、そう手間はかからないだろうと思う。
 カタツムリは主に春と秋に卵を産むが、僕が主に撮影しているツクシマイマイの場合、春に卵を産んだ個体は、秋には産卵しないことが多い。
 そして、産卵と雨とには多少関係があるようで、梅雨時に雨が多い年には大抵の個体が梅雨時に産卵し、その結果秋に卵を産むものが少なくなる。ケースを湿らせれば産むというものでもないように感じている。恐らく、気圧なども関係しているのではないだろうか?
 今年は、梅雨入りこそは遅かったものの、その後は結構な量の雨が降った。多くのカタツムリがその時に産卵をしたのだが、その分、秋には卵を産んでくれなかったのである。
 
 さて、28日は最高に忙しかったにもかかわらず、日記を更新したが、
「日記を読んでいると、あなたは本当にたくさんのことを考えながら写真を撮っているんだね。」
 などと言われる。時には、
「自分ももっと考えないと。」
 などとおっしゃる方もおられる。
 だが僕は、考えているのではなくて、むしろ何も考えずに写真を撮っていることが多い。日記に書くことは、10中8、9、後付けの理屈なのである。だから、
「私ももっと考えようと思います。」
 と言われると、
「いやいや、考えるのではなくて、無心でたくさん写真を撮ればいいのではないでしょうか?」
 と答える。
 僕は、考えたり、語ったりというのは、何かの体験の付録として、後から付いてくるものなのだと思うのである。
 例えば、すばらしい景色を目にすると、誰しも心の中にいろいろな思いが込み上げてくるだろうし、誰かに語りたくなるに違いない。考えようとすることが大切なのではなく、すばらしい景色を見ることが大切であるような気がする。頭を動かすのではなくて、体を動かすことなのだと思う。
 僕は、日々の撮影が充実すればするほど、いろいろな考えが思い浮かぶし、逆に、集中できなかった日には、あまり日記に書きたいことがない。
 だから、忙しい時は益々忙しく、暇な時は益々暇に・・・・ 

 子供の頃に、学校で先生が「思い出作り」などと言うことがあった。
 僕は、おかしいのじゃないか?と思う。思い出を作るために何かをするのではなく、何かをした結果、思い出ができるのような気がするから。 

 

2007.10.29(月) 冷や汗 

 恐らく、昨日は、これまでで一番多くの仕事をこなした一日だったのではないか?と思う。
 早朝の6時台に仕事を始め、終ったのは夜の12時頃。その間、最低限の食事の時間とその後のわずかな休憩以外は、ひたすらに撮影〜原稿を書いたり・・・。
 費やした時間に関して言えば、もっと長く仕事をすることもあるが、それはむしろ集中できない結果、長くなっているのであり、仕事をしているとは言えないことが多い。
 ところが昨日は、最初から最後まで不思議なくらいに集中できた。
 
 昨日、この秋に産み落とされたカタツムリの卵がやっと孵化をした。
 そして、その孵化をして間もないカタツムリでなければ撮影できない仕事をちょうど今抱えていて、しかもそれが締め切り間近でもあり、僕も、その仕事の担当者も、首を長くしてカタツムリの孵化を待ち望んでいた。
 今年の秋は、うちのカタツムリはほとんど卵を産まなかったから、本来なら簡単にこなせるはずの仕事が、まさに危険な綱渡り状態の様相を呈していたのである。
 さらに、今週から来週あたりにかけて、ゴギという岩魚の一種の産卵が見られるのではないか?と僕は予測していて、欲張りではあるが、それも是非撮影したいと思う。
 だから、まずそのカタツムリの撮影を終えなければならない。

 本当のことを言うと、今日あたりからゴギの撮影に出かける予定だった。そして、いつもなら複数の撮影が重なり、優先順位の低い撮影を中止にしなければならない時にはひどくがっかりさせられる。大抵の場合、優先順位が低い撮影の方が楽しいのである。
 優先順位の高い撮影は、仕事の撮影が多く、これは義務だと言ってもいい。ところが優先順位が低い撮影は、仕事にはならないけれども、自分がどうしても出かけたい撮影が多く、それを中止にするのは大変に切ないもの。
 だが、さすがに今回は、カタツムリの仕事ができるか、できないかの綱渡りを経験させられたから、カタツムリが締め切りに間に合うように孵化をしてくれただけでも、感謝、感謝。
 昨日の集中力は、恐らくそれでハイになっていたのだろうと思う。
 いや〜、冷や汗かいた!それにしても、心臓に悪い。

 

2007.10.28(日) 宗教 

 サンケイエクスプレスでの連載は、4週に一度順番がめぐってくるが、それはあっと言う間である。しかも800字程度の文章がなかなか書けないから、「えっ!もう僕の番?」、とあっと言う間という印象が益々強まる。
 文字を書く際に字数制限があると難しいという意見はよく耳にするし、特に少ない字数で的確に書くのは長文よりも難しいと僕も思うが、800字は、素人には恐らくちょうど書きやすい程度の字数ではないだろうか?
 にもかかわらず、苦心させられるのである。
 そこで、何で難しいんだ?と考えてみると、1つは、ついこの間も書いたように、僕が淡々とその写真や自然について説明するのではなく、人間について書こうとするから。
 だが、その点に関しては、僕が文字を書く際のテーマでもあるわけだから変えるつもりはないし、
「僕って疲れやすい、損な性格しているなぁ〜」
 と自分を笑い飛ばすしかない。
 そしてあと1つ、作文が難しくなる原因が、締め切りに合わせて書こうとしているところにあると気が付いた。
 この日記の場合は、その日感じたことを感じている間に書くのだから、書こうという意識がなくても文章ができあがる。ところが、締め切りに合わせて書こうとすると、
「さて、何を書こうか?」
 となり、それが苦心の正体であると。
 そこで、「この日に原稿を書く!」と決め、時間を作るのではなくて、日常の中で何かあっ!と感じた時に他の作業を中断して一期一会で書く。そんなやり方にあらためてみた。
 さて、昨日発売されたサンケイエクスプレスでは、数週間前に見たテレビ番組について、それを見たその日のうちに書いてみた。そのテレビ番組とは、ある小児科医を取り上げたものだった。

 ある小児病棟で小さな子供が命を落とした。
 すると、その子と仲が良かった隣のベッドの子供が大変に悲しんだ。先生は親友の死について、その子にどういう風に伝えようか?と悩む。
 そして、
「誰か身近な人が死んだことがあるかい?」
 とたずねると、
「金魚が死んだことがある。」
 と返ってくる。
「その金魚はどうした?」
「お母さんと一緒に庭に埋めた。」
 先生は、その瞬間に
「あ〜救われた!」
 と感じる。そんな経験があるのなら、自分はこの子に死を説明できると。

 さて、今日は児童書向けのカタツムリの撮影だった。そして、ここ数年間念願だったシーンを撮影できた。
 僕は主に児童書向けの写真撮影を仕事にしているわけだが、昨日も書いたように、子供に生き物のことを伝える際に、どこまで生物を擬人化をすることが適当なのかには、いつも頭を悩ませる。
 少なくとも、人間の自分勝手なチャチな擬人化はしたくないし、児童書の中での、生き物の擬人化はいかにあるべきか?と。
 その答えが、その小児科の先生の話の中にあるように、僕は感じた。
 金魚には人間のような感情はないだろうし、金魚をまるで人間のように埋葬するというのは、一種の擬人化だと思うのだが、それでこそ、伝えれるものがあると思うから。
 埋葬という儀式は広い意味での宗教ではないか?と思うが、自然科学の世界では、そこは完全に切り捨てられるし、そこに自然写真が果たせる役割があるんじゃないかな?と感じたのである。
 とても難しいテーマではあるが・・・ 

 

2007.10.27(土) 美化 

 僕は、トラブルメーカーになりうるようなタイプが嫌いではないことは、昨日書いた。だが、それを加味しても、
「それでもオヤジが世界で一番。」
 と言える亀田選手を、僕はスゴイなぁ〜と思う。
 仮に完璧な人間が世の中に存在したとして、その完璧な人のことを好きなのは当たり前のことであり、逆に、欠点のある人を好きだからこそ、愛情と言えるのではないかなぁと思うから。
 僕の父も完璧とは程遠い。
 物に置き換えるのは変かもしれないが、例えば、完璧なカメラがあったとして、そのカメラが好きなのは、愛情というよりは自分にとって都合がいいから、つまり合理性なんじゃないか?という気がする。

 人は自然をしばしば美化する。
 だが、そうして美化や擬人化されたものが好きなのは、やっぱり合理主義に近いものなんじゃないかなぁ?自然の、人間の側から見ると不都合な部分をしっかりと見て、それを受け入れてこそ、自然を愛することなんじゃないか?と。
 ただ、自然写真を仕事にする場合、多少対象を美化しなければ写真がなかなか売れなくないという事情がある。そこが、いつも僕の悩みどころなのだが、つまり僕もしっかり合理主義者なのだろう。
 だからせめて、自然を美化することを否定はしないが、一方で、自然の本当の姿をちゃんと見ておかなければならないし、それを見えなくするような美化はなるべくしないように心掛ける。
 つまり、美化しても構わない部分と、美化したくない部分とを明確にする。それが、僕の基本姿勢だ。

 

2007.10.26(金) トラブル 

 ボクシングの亀田選手の記者会見、面白かったなぁ〜。笑えたと言う意味ではなくて、いろいろと、そこから考えられることがあったから。
 僕は、トラブルメーカーになり得るようなタイプの人が嫌いではない。むしろ、紳士よりも、そんな人を好きになる傾向が強い。
 トラブルそのものは好きなわけではないし、人様がもめているのを見ると、
「馬鹿やなぁ〜」
 とか、
「面倒な奴らやなぁ〜」
 とさえ思うのだが、なぜかそのトラブルの主のことは好きだし、気になるのである。
 子供の頃からそうだったように思う。
 クラスの中でもエリートタイプの人は、だいたい教科書通りの答えをするから面白くないし、言われなくても分ることしか言わないから、尊敬はしたけれども、友達になりたいとは思わなかった。
 大人でも、もちろん100%ではないが、子供の頃に勉強が好きになれなかったり、学校が好きではなかったり、問題児だったりした人を好きになるケースが多いのである。

「亀田一家のやりすぎが、試合を台無しにして、ファンをがっかりさせた。」
 と主張するコメンテーターが多数おられる。
 だが、それはまさに教科書的な回答に過ぎず、本当にそうなのだろうか?と感じる。
 あの試合の前に大半のファンが期待したことは、いったいなんだったのだろうか?と考えてみると、少なくとも、ボクシングそのものではなかったように思うから。
 もしも、みんながボクシングそのものに興味を持っているのなら、他の試合だってもっと多くの人が注目するはずだし、例えば、対戦相手だった内藤選手が世界チャンピョンになった試合に興味を持ち、その結果を心待ちにした人が、いったいどれほど存在するのだろうか?極めて少数なのではないだろうか?
 あの試合でみんなが期待したのは、まさに、あんな試合だったのではないだろうか?
 まず亀田選手が負けること。でも、負けることにみんなの興味があったのではなくて、その時、亀田がどうするか?を見たかったのではないのだろうか?
 そういう意味では、良し悪しは別にして、亀田選手はみんなの期待に応えたような気がするのである。

 写真業界の場合は、癖の強い人が極めて多いから、トラブルの話なら尽きることがない。
 でも、そんな面々を、なぜか好きになってしまうのである。

(お知らせ)
 サンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は明日10月27日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。

 

2007.10.25(木) 連載 

(お知らせ)
 サンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は10月27日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。

 時々、日記を更新する準備をしながら、僕は何をやっているのだろう・・・、と思うことがある。一日分の文章を書くことに、べらぼうに時間がかかるわけではないが、それでも、その時間を撮影に回せば、もっと仕事ができるはずなのにと。
 例えるなら、仕事をしなければならない時間に、遊んでいるような後ろめたさ。
 だが、サンケイ・エクスプレスの連載をやってみて、その回を重ねるごとに、それがそうではないと感じるようにもなってきた。
 ある時、原稿を送ったら、
「写真に写っているものについても、もうちょっと説明してよ。」
 と注文が付いたのだが、確かに、僕はこの日記の中だって、生き物そのものについて説明することはあまり多くない。それよりも、人間のことを書く傾向にある。
 ところが、連載の他の3人の方の文章を読むと、みなそれぞれ目線は違うが、比較的淡々と写真に写っているものについて書いておられる。
「なるほどなぁ〜、文章ってこんな風に書けばいいんだ。」
 だからと言って、僕は自分のスタイルに修正を加えることはあっても、スタイルそのものを変えるつもりはないが、ある仕事を与えられ、そこで文章を書くことになったとすると、一般的にはどう書くのか?は、やっぱり知っておかなければならないし、そんな風に書けと求められれば、それもできなければならないだろう。
 
 僕は、気付けば、生き物のこと以外について多く書いているわけだが、それは、僕の興味がそこにあるからなのだろうなぁ。
 ならば、それでお金を稼ぐのが写真家の仕事。それを仕事にできるようにすればいい。
 そのためには、まず自分が何を言いたいのかを明確にしなければならないし、それは頭の中で考えても恐らく先には進まないのだろうし、たとえお金にならなくても、日頃からできることをやっておかなければならないような気がする。
 例えば、写真撮影そのものだって、いきなりお金を稼ぐために自然写真を撮り、成功したものなんて、恐らくいないと思う。
 僕の知人の中には、そんなやり方で写真家になろうとしている方もおられるのだが、もうかなりの時間が経ったが、プロとしては全く通用しないし、その結果、元々熱を入れてやっていた活動も段々下火になり、ついに死に体と言ってもいいような状態に陥った。
 それを傍から見ていると、
「日頃からたくさん写真を撮っていないのに、何か仕事が来てから本腰入れて写真を撮ろうなんて、通用するわけないじゃん!」
 と思う。それは僕が文章を書くことにも当てはまり、お金を得ることは、まずやりたいことを一生懸命やった結果なのだろうなぁと理屈では思うのだが、それが我が身となると、
「こんなことをしていていいのだろうか?」
 と不安にもなるのである。人間って弱いなぁ〜。

 

2007.10.24(水) 多様性 

 時々、
「生物学者は、生き物に対して優しくない。食べるために生き物を殺すのならともかく、自分の興味、研究のために生き物を苦しめるなんて・・・」
 と言った主張を耳にする。
 確かに、研究者は生き物を殺すし、僕だって、生物学の学生時代には数千匹くらいの単位で生き物を殺してきたし、研究者は、もしもある実験で生き物を10匹殺せばいいと判断しても、その生き物が20匹手に入れば、大抵の人は、20匹を殺して実験するに違いない。
 だが、それが生き物に対して優しくないというのは、違うなと僕は思う。
 なぜなら、野生の生き物には、食べるために人間から殺されることも、研究目的で殺されることも、果ては意味もなく遊び目的で人に殺されることも区別ができないのだし、殺されるのであれば、何の目的で殺されようが全く同じなのだから。
 つまり「殺され方」というような概念や、それに伴って生じる優しいとか優しくないとか、残酷という概念もないのだから。
 もしも、誰かが理由もなく野生の生き物を殺したとする。
 それで、
「ああ、残酷だなぁ」
 と悲しむのは、実は、野生の生き物ではなくて人間ではないだろうか?
 だから、
「残酷な行為で、生き物がかわいそうですよ。」
 ではなくて、
「あなたの行為を知った人が、こんなに悲しんでますよ。」
 と。
「あなたは、生き物の気持ちも考えなさい!」 
 ではなくて、
「他人の気持ちも考えなさい。」
 と主張すべきだと思う。

「子供に生き物を見せて、命の尊さを学ばさせる。」
 と最近よく耳にするが、眉唾な話だなぁと思う。
 野生の生き物は、人間風に言えば、好き勝手生きている。食べたいと思って食べ物がそこにあれば心行くまで食べるし、他の個体を蹴落とす必要があれば、迷いもなくそうする。資源が枯渇するとか、他の生き物のことや将来のことを考えるとか、その手のことは何も考えてないはず。
 だから、そんな野生生物の本当の姿を人が人生に応用したら、社会はとんでもないことになるだろう。
「生き物から命の大切さを学ぶ」
 の前に、徹底して、
「他人の気持ちを分るようになりなさい。」 
 がなければ、どんなに生き物を見ても、意味がないような気がするし、むしろ、
「他人の気持ちを分るようになりなさい。」 
 の方が重要な気がする。

 一方で、人の感情を捨て去り、自然そのものを見て、自然を知ることも大切だと思う。
 例えば、個々の野生生物は本能の赴くままに生きているわけだがが、それでも自然が破綻することはない。
 そんな自然を見て、
「自然って優しいね。」
 と人間のドラマに仕立て上げた上で、その物語を愛するのではなく、生き物を美化したり、擬人化せずに見て、野生生物が本能の赴くままに生き、やさしさなどという概念もないのに、それでも自然が破綻しないのはなぜか?と、考えてみるのも大切だと思う。
 すると、その理由は、自然が多様だからではないだろうか?
 例えば、フナは好き勝手食べる。でも、サギも好き勝手食べるから、フナが食べれる。
 みんなが違う方向に好き勝手をする結果、全体として調和が取れるし、そこに存在する生き物が多様であればあるほど、その調和は安定する。
 自然の多様性って無茶苦茶に重要なことではないか?と、僕は最近しみじみ思う。 

 多様性と言えば、いつもカタツムリを採集する場所へと行ってみたら、下草がすべて刈られて、どうも整備されるようだ。
 この場所には、大きなクスの木の下にぼうぼうに草が生え、その下草とそこに貯まった落ち葉が、ツクシマイマイというカタツムリの天国になっていた。が、人間にとっては、ぼうぼうに茂った下草なんて、ほとんど必要がない環境だから、そんな下草は、一箇所ずつ、今後もどんどんなくなっていくだろう。
 そうした形で自然の多様性が失われるのは、人間の人間に対する優しさでは解決できにくいことだと思う。むしろ、他人を思いやった結果、下草が刈られるのだろうから。
 人間的に言えば、冷たい見方であっても、自然をありのままに見ることも大切なのだと思う。

 

2007.10.23(火) 更新 

 今月の水辺を更新しました。

 

2007.10.22(月) アキアカネ 

 水辺をテーマにする僕としては、アキアカネは有名なトンボだから、是非いい写真をストックしておきたい。
 特殊で珍しい種類の場合は、そもそも滅多に写真の需要がないのだから、たまたま1匹見かけたような時にそれを数枚撮影しておけば、その程度の写真で十分に事足りるだろう。だが、アキアカネを含めてポピュラーな種類の場合は、それなりに細かく写真を撮りたいところだし、そうすると、できるだけたくさんのアキアカネが生息する場所で写真を撮らなければならない。
 だが、アキアカネの場合、どちらかと言うと寒い地域に多いトンボであり、九州に住む僕が撮影できる機会はあまり多くない。僕にとって、ちょっとばかりやっかいな部分があるトンボである。

 そう言えば、かなり前のことになるが、昆虫写真の海野和男先生の事務所で写真を見せてもらった際に、特殊なセミの写真が随分たくさんあったから、
「こんなにたくさんの写真が必要なんですか?」
 と聞いてみたら、
「いらない、いらない、その手の特殊な生き物の写真は、一生の間に、まあ5枚もあれば十分だよ。」
 と答えてくださった。
 もちろん、特殊で、写真の需要がほとんどない生き物でも、本人が撮影したいと思えば、幾らでもカメラをむければいいのだが、プロの場合は、優先順位をつけなければ写真が仕事として成立しなくなる。だから、いつでも全力投球というわけにはいかないし、力の入れ具合というか、抜き具合は大切なことだ。
 それを教えてもらう機会があったことに、僕は感謝しなければならないなぁと思う。
 ともあれ、アキアカネは、間違いなく力を入れなければならない被写体である。
 海野先生に写真を見せてもらったと書いたが、正確に書くと、「写真を見ま〜す」と僕が勝手にしまってあるフィルムを引っ張りだして見て、いろいろと質問を投げかけたのだが、海野先生の事務所を訪問した者で、そんな図々しい振る舞いをしたのは、僕と昆虫写真家の森上信夫さんと今森光彦さんの3人だけらしい。

 話は戻るが、僕には不利な被写体と言えども、アキアカネの撮影に関しては、できる範囲のことはやっておこうと思う。
 そこで昨年は、僕の自宅から2〜3時間でいける範囲でアキアカネを探し、それなりの数みられる場所を何箇所か見つけておいた。
 その際には写真も撮った。
 だが、ピントがよく合っていない写真が多かったので、今回は、その時の写真のピントが悪かった理由をよく分析した上で、日頃は使わない道具を1つ追加し、撮影をやり直した。
 すると結果は上々。今回はピントが合っている写真の割合が非常に高い。
 来年は、広角レンズを使用して、トンボの背景をぼかすのではなくて、周囲の風景までもがよく分かるように撮影してみたい。今日は、およそ2時間ほど写真を撮ったが、その間に広角の35ミリくらいのレンズがあれば、いい写真が撮れそうな機会が2〜3度あった。 

 

2007.10.20〜21(日) 画像処理 

 時々、
「画像処理ってどうしてる?」
 と、仲間内で話をすることがある。
 すると中には、写真撮影終了後、特別な処理を施さずに画像をそのまま保存し、貸し出しの依頼を受けてから該当の写真を探し、その画像だけに処理を施す方もおられるようだ。そうすることによって、ひたすらに撮影に集中することができるだろうと思う。
 だが僕の場合は、撮影した画像の処理をだいたい数日うちには済ませることにしている。
 その理由の1つは、僕はパソコンが好きではないから。大量の写真の貸し出しの依頼があった際にまとめて画像処理の時間を取ることが辛いので、パソコンでの作業の時間をなるべく分散しておくため。
 そしてあとの1つは、画像処理はそれなりに難しい作業であり経験が必要なので、その経験を日頃から積んでおくため。そこで経験を積むことで、写真の撮り方の方も変わってくるのである。

 ここ数日は、その画像処理がやや遅れ気味になっていた。そこで今朝は、早朝から、まずはその貯まっている画像を処理することにした。
 僕は、その日撮影した写真の中からいいものを厳選して数枚だけ選び、その画像にだけは、すぐに貸し出せるように処置を施した上で、まずは生き物の種類ごとに、さらにその中で写真の内容別に分類し、『カタログ』と称するハードディスクに保存する。そして最後に、そのハードディスクを丸ごとバックアップして、同じものを2個作る。
 一番最初にそうして作ったカタログ用のハードディスクは120Gの容量のものだった。確か2万円くらいだったと思う。
 やがてそれが満タンになったから、250Gを買って画像を引越しさせたが、その頃にはディスクの価格が下がっていたので、250Gもやっぱり2万円くらい。
 さらに、250Gが満タンになり、350Gに引越しをしたのだが、その頃には350Gが2万円くらい。
 そして、今僕がカタログ用に使用しているハードディスクは500Gだが、500Gが2万円くらい。
 だいたい、その程度の速度でカタログ内の画像が増えていく。
 もちろん、元の画像はすべて、そのまま保存してあることは言うまでもない。
 元の画像は、1つのハードディスクと2枚のDVDの合計3重に保存。2枚のDVDは、必ず別のメーカーのものを使う。

 さて、つい先日撮影したメダカのメスの画像の中に、偶然、上から落ちてきた餌を食べようとする様子が写っていた。 しかも、このメダカは糞をしている。
 この写真の使い道は?と言うと、
 まずは、メスの形態を説明する写真。
 次に、糞をしている様子を見せる写真。
 さらに、餌を食べることを見せる写真。
 そして、メダカの口は、下あごが長いことを説明する写真。
 また、メダカは、上から落ちてくる餌を主に食べることを伝える写真。
 使い道が多いというのは、僕が考える『いい写真』の条件の1つだ。
 写真は引き算だという人がおられる。画面の中から余分なものを次々と排除し、画面をなるべくシンプルにするのを良しと考える方である。だが、僕は足し算で写真を撮る。

 ただ、車内泊をしながらの長期取材の際の写真は、さすがにその日のうちに処理とはいかない。 ノートパソコンの液晶の性能では、画像を本当の意味で正しくみることができないので、画像処理はおろか、どの写真がいいのかを選ぶことでさえ、画像の内容によっては難しいことがある。
 そこで、長期取材の際の画像は、帰宅後にまとめて、或いは少しずつ処理をするのだが、この2月に撮影した画像の処理は、未だにまだ終っていない。2月4日に撮影した画像の処理を、今頃片付けている有様だ。

 

2007.10.19(金) 続・言葉 

 物には大抵名前がある。カメラだって、ニコンのD3などと、機種ごとに固有の名前がつけられている。名前には、ものを分類し区別する働きがある。
 そうした区別の他にも名前には働きがあり、例えば、野生の生き物に人間っぽい名前をつける方が時々おられるが、それによって親しみのような何らかの感情を表現しているのだと思う。
 言葉って、いろいろな働きがあるんだなぁ・・・
 ちょうど今、僕がかかわっている本でも、登場する生き物に名前をつけることになりそうだ。小学校の低学年向けの本だから、子供が感情移入をしやすいように、そんな手法を使う。
 
 だが、もしも大人が、何となく野生の生き物に名前をつけて呼んでいるのではなくて、真剣に、
「生き物を、種類の名前で呼ぶのは、何だか冷たい感じがする。」
 と言うのなら、僕はそれには大変な違和感を感じる。
 例えば、
「コウノトリは、・・・・」
 というのが冷たくて、
「コウちゃんは、・・・・」
 というのが暖かいと言う人がおられるのであれば。
 僕はむしろ、愛称をつけることの方に、一種の冷たさを感じる。
 愛称をつけるのは、言い換えれば擬人化ではないか?と思う。つまりそれは、頭の中で野生の生物を擬人化し、別の人間っぽい何かに作り変えた上で愛しているのであり、その人が愛しているのは生き物そのものではなく、その人の空想の世界、つまり自分自身であり、自己愛ではないか?と感じるのである。
 それは、生き物に興味を持ち、生き物を好きになることなのかなぁ?
 愛称をつける相手が、飼い犬ならよく分る。飼い犬と人間との間には、明らかに心と心のやり取りがあるように感じるから。
 
 さて、本の中に登場する生き物に名前をつけることに、僕は、正直な気持ちとして、一応反対してみた。
 でも、読者は小さな子供だし、大人がそうするのとは随分意味が違うかなと考え直した。

 

2007.10.18(木) 言葉 

 都会には住みたくないなぁと思う。都会の中の文明や流行の部分などは決して嫌いではないが、僕の場合は、人ごみや順番待ちなどが全くダメ。
 ところが、出版の仕事は東京を中心に回っているようなところがあって、どんなに都会がいやでも、完全に無縁であることはできないし、
「都会に住む人の気が知れないなぁ」
 ではなくて、都会の人の気持ちもある程度は理解できなければならない。
 例えば、時々田舎の田んぼで写真を撮らせてもらうことがあるが、田んぼの持ち主の農家の方は、そこに住む生き物にはあまり興味を示さないことが多い。その手の写真をありがたがって見てくれるのは、基本的に町の人なのである。

 さて、地方に住んでいると人ごみにまみれないですむなどのいいこともあるが、デメリットだってある。
 まず、僕が出かける多くの撮影ポイントは、東京や関東の人から見れば非常にローカルな場所であり、僕のネタはローカルな話題だろう。そして最近そのことが、僕が仕事を進める上での障害になるようなケースが時々出てくるようになった。
 そこで、地方に住んでいて、しかも大成功している人はいったい何が違うのだろう?と考えてみる。例えば、里山の写真で有名な今森光彦さんは、多くの作品を滋賀の琵琶湖の周りで撮影しておられる。
 すると、今森さんの場合は、『里山』という言葉が大変に威力を発揮していることに気付かされる。
 里山という言葉があることで、写真に写っているのは滋賀の景色でも、みんなが思い浮かべるのは自分の故郷なのだ。たった一つの言葉が、一枚の写真をローカルな写真ではなく、全国で通用する普遍性のある写真に仕立て上げているように思う。
 言葉って大切なんだなぁ・・・と思い知らされるのである。

 そんな目で、同世代の人のことを考えてみると、昆虫写真・芸術家の糸崎公朗さんが、『フォトモ』 や 『ツギラマ』 などという自分の言葉を持っておられる。
 そして驚くべきは、その言葉が随分前から使われていること。僕が最近になってやっと気付いたようなことを、そんなに前から知っておられたことになる。
 先日、ビーパルに記事が掲載されましたと紹介したが、同じ号の中に、糸崎さんの新しい本と記事が紹介されている。

 

2007.10.16〜17(火〜水) 湧き水 

 熊本市から車で15程走った場所に、僕が数年前に何度も取材した湧き水の池がある。あたりには幾つかの湧水池が点在し、有名な水前寺公園なども同じようなタイプの池の1つだ。
 本を作る際には、どんなに型にはまっていて定番でありふれていても、やっぱりこの写真は欲しいというシーンが時にあると思うのだが、湧き水の池の場合は、水が湧いている写真は是非写真に収めておきたいと思う。
 ところが、僕がカメラを向けているその池では、池の底の広い範囲から少しずつ水が湧いているため、湧水の現場を写真に写すことが出来ない。
 それをどうやってクリアーしようか?と、以前から時々頭の中で考えを巡らせてきたが、考えていても仕方がないし、今回は、まず辺りに点在する湧水の現場を見て歩くことにした。
 今日の写真の場所は、石垣の隙間からこんこんと水が湧いている場所だ。
 この場所の場合は湧き水が見えることはいいのだが、地上から撮影すると、ただの天然の洗い場のような雰囲気であまりに平凡で面白くない。
 そこでカメラを水に沈めてみたが、すると、湧水の水の流れが分りにくくなる。
 さて、どうしたものか?
 もっと色々なレンズを使ってみるという手もあるが、今回は機材を入れたケース1つを忘れてきてしまいそれができないから、来週にでも再度挑戦してみようと思う。

 

2007.10.15(月) 阿蘇 

 九州の自然と言えば阿蘇や九重である。阿蘇〜九重あたりの景観は、何度見ても素晴らしいと思う。
 だが、写真の被写体としてはつまらないなぁと思う。見通しがいいシンプルな場所だけに、誰が撮影しても同じような写真になるし、さらに、人気がある場所だから写真はすでに撮り尽くされているを通り越しているとしか言いようがない。
 人によって好みは様々だから誰が何を撮影しようが勝手なのだが、僕は、その手の撮影には基本的には興味がない。みんなで同じような写真を量産して、いったい何が楽しいんだろう?とさえ感じることもある。
 だが、その阿蘇を少しだけ撮影してみようかと思う。

 なぜ、今更阿蘇なのか?と言えば、僕のテーマである水と火山には深い関係があるから。
 まず火山が噴火してマグマが噴出し、それが固まり岩になる。次に、その岩の上に火山灰や土が降り積もる。
 そこに雨が降ると、水は火山灰の層にはしみ込むが、その下の岩の層にはしみ込まないから、地下の岩の層の上を水が流れ、やがて適当な場所で湧き水として湧いて出る。だから、阿蘇の周辺には、湧き水が多い。
 では、なぜ阿蘇に火山ができたのか?
 それはあまりに雄大な話であり、それを説明すると長くなり過ぎるから省略するが、小さな湧き水の池の背景に、地球規模の壮大な出来事がある。
 そんな小さな大自然、ひとつながりの地球を表現してみようと思うのである。
 今日は火口が撮影できる一番いい場所が有毒ガスの影響で立ち入り禁止だったため、初めて行く別の場所から撮影してみた。
 上の写真は、そこへ向かうロープウェイの中から撮影したもの。

 昔、特に深い意味もなく撮影した牛の写真を、ある方が、
「これいいじゃない!使えるよ。」
 とおっしゃり、実際にその写真が売れたことを思い出し、阿蘇の風景を撮影するついでに、牛にカメラを向けてみた。
「牛の口元がいいよ。草を食べてる口がちゃんと見える写真は案外少ないんだよ。」
 というその時の話を思い出し、口がちゃんと見えるように撮影してみた。
 牛の迫力という点では、目線をもっと下げた方がいい。だからカメラマン的な発想で考えると、もっとカメラの位置を低くしたくなる。だが、そうすると、口が草に隠れて見えなくなる。


 

2007.10.12〜14(金〜日) 道具 

 先月、雑誌の取材を受けたことを書いたが、昨日、その本が届いた。
 担当の編集者が熱心な方だったから、いろいろな質問を受け、それに答えようとした結果気付かされることが非常に多い時間だったと思う。
 また、取材の際のカメラマンとしてお越しになったのが、キノコの写真家・柳沢牧嘉さんだったことも良かった。
 僕の目の前で編集の松村さんが時にカメラマンの柳沢さんに意見を求め、柳沢さんはカメラマンや自然写真家としての立場からアドバイスを送る。
 編集者は、そのアドバイスに一通り耳を傾けるが、すべて採用するわけではない。当然、編集者には編集者の立場がある。
 そんな、普段自分と編集者がやっているやり取りを、目の前で、しかも自分は客観的な立場で見せてもらうことができた。
 
 僕は、自分では道具には無頓着な方ではないか?と思っていたのだが、カメラマンの柳沢さんは、
「いろいろな写真家の取材に同行したけど、ネイチャー系の人の中では、武田さんの機材が一番すごいなぁ!道具好きでしょう?」
 とおっしゃる。だから、客観的にみると、多分そうなんだろうと思う。
 厳密に言うと、道具が好きというよりは、道具に込められた設計者の思いが僕は好きだ。僕にとって道具はしばしば工夫のるつぼであり、ただ単に物ではなく、人が考えたことや人の思いが、形になって現れたものなのである。
 だからホームセンターなどに出かけると、時間がある時はなるべくウロウロして一通りのものを見て回る。そして、そこにどんな工夫が施されていているか?を楽しむ。
 一方で、自分なりのこだわりもあって、既存の道具をバラバラにしてしまうような改造や、元に戻らないような改造が僕はあまり好きではないし、可能な限り、それをしないことにしている。
 どんな道具にも設計者の思いが込められていて、その思いを、なるべくそのままにしておきたいのである。
 だから、多少使いにくくても我慢することもある。
 ただ、雑誌の字数は限られているから、そんな細かいことを説明できるはずもなく、『メカが大好きな武田さん』なのである。

(お知らせ)
ビーパルの11月号。その中の、『いま注目の自然写真家による珠玉のショット』に約7ページ分記事があります。

 

2007.10.11(木) システム 

 写真は練習をすれば上手くなるけれども、すべてにおいて上達するか?と言えば、僕は、そうではないように思う。
 昔撮影した写真を一枚ずつ見ていくと、
「これはお粗末だなぁ・・・。」
 と感じる写真が多く、そこに自分の上達を見出せるのだが、逆に、
「良く撮ったなぁ。」
 と感じられる写真も、間違いなく一定程度存在するのである。
 上手くなったなぁと思うのは、スタジオ撮影や仕事として撮影する写真。これは、間違いなく、年々上達し、前年撮影した写真でも、今の僕にはイマイチに感じられる。
 だが、仕事を離れて、ライフワークとして撮影する写真に関しては、むしろ僕は、年々難しくなっていくように思う。

 仕事の写真の世界は、職人的な世界であり、技術が占める割合が高い。だからやれば確実に上手くなる。それは、「ああすれば、こんな写真が撮れる」とか、「こういう被写体はこう攻める」といった How to の世界であり、いかに自分のシステムを確立するか?という世界だ。

 だが、写真はすべて技術で撮影するわけではなし、リラックスした心が撮影する部分もあれば、根性が撮影する部分もある。そして、技術は時に、それを邪魔するように思う。
 話は少し変わるが、僕は、賢い優等生タイプの人と話をすると、しばしば、言いたいことが伝わらないなぁと思う。相手が賢いと、「なるほど、分かりました!」とすぐに理解してもらえるのだが、相手は、自分はもう分かったと思っているので、それ以上のことが伝わらなくなる。
 だが、むしろ聡明ではないタイプの人が相手の場合は、なかなか理解してくれないから、じっくりと不器用なやり取りをする結果となり、それが、より深くお互いを理解させてくれるケースことが多いように僕は感じる。
 写真撮影にも似たところがあって、出来るようになると見えなくなるものがあり、いかに自分のやり方を確立するか?自分のシステムを構築するか?に熱を入れ過ぎると、上手くはなるものの、中味が希薄になってなる危険性がある。
 自分のシステムを構築することも大切なことではあるが、僕はシステム原理主義者になりたくない。
 
 さて、デジタル化の波は思ったよりも早く、フィルムの出番がグングン少なくなっているから、昔撮影した写真を、一日2〜3枚程度、少しずつスキャンしていく予定だ。

 

2007.10.10(水) パターン2 

 昨日と良く似た画像だが、今日は左側がメスである点が異なる。上の画像は、右側のオスが左側のメスに近づこうとしている様子だ。オスは中途半端にハサミを振り上げているが、これは恐らく、「今から近づきますよ、行くよ!」という、相手を驚かせないための配慮であり、予告だと思う。

 メスは、体を触られると、身を低くして、ハサミを前に差出して、死んだようにカチンと固まりおとなしくなる。

 オスは動かなくなったメスのはさみを、足と一緒に掴んで固定し、交尾する。
 昨日紹介した喧嘩と同じように、交尾行動も見事に型にはまった行動であり、今日の撮影は、あらかじめ準備をしておいたこともあるが、わずか30分程度で終えることができた。
 
 帰化生物としてのアメリカザリガニの問題については、以前にも何度か触れたことがある。そして、僕の基本姿勢は、今更何を言うんだ?というもの。
 アメリカザリガニが比較的最近帰化した生き物なら、帰化生物はヤバイ!という話は分かるが、アメリカザリガニの場合は、日本に帰化してからすでに数十年の歴史があり、しかも僕が子供の頃には、ザリガニと他の生き物たちは、特に問題もなく共存していた。
 問題と言えば、田んぼに穴をあけてしまうことくらいだった。
 小川には今よりももっとたくさんアメリカザリガニがいたけどれども、それと同時にメダカも、ハヤも、ドンコも、タナゴも、二枚貝も、もっと多く生息していた。
 そして今では、僕が子供のころに遊んだ小川では、アメリカザリガニも少なくなり、にもかかわらず小魚たちも一緒に少なくなった。
 もちろん、それでも帰化生物であることには違いなく、保護しなければならないとは思わないのだが、扱いとしては、雷魚やダンゴムシなどの帰化生物とだいたい同様の準国産生物的な扱いでいいんじゃないか?と僕は思う。
「最近は、何でもかんでも温暖化に結び付けたがる人が多くて、もうウンザリ。」
 と、先日、ネイチャーガイドとして働いている知人からのメールに書かれていたのだが、温暖化にしても、帰化生物の問題にしても、なにかパターンに当てはめることが自然について考えることだと思い違いをしていないだろうか?

 

2007.10.9(火) パターン 

 僕の父は物事をパターンに当てはめて考えるのを好み、父の話の大半は、例えば、
「戦時中に生まれた人はこんな考え方。」
 とか、
「キリスト教の国の人はこんな風。」
 とか、
「東大の学者はこんな風。」
 などという話になる。父はどうも、人の性格や特徴などの大半が、周囲の環境によって決まると考えている節がある。

 だが僕は、その手のパターンが大嫌いであり、父の話を聞いていると、
「それじゃあ、まるで人間が機械みたいじゃないか!」
 と感じる。
 戦時中に生まれた人だって実際には右から左までいろいろな考え方の人がいるし、キリスト教国の人だってさまざまであり、東大の学者にだっていろいろなタイプの人がいるじゃないかと思う。
 もちろん、統計を取れば何かそんな傾向が導き出せるに違いないと僕でも思う。
 だが統計はあくまでも全体の傾向であり、統計が個人に当てはまるとは限らないように僕は感じる。
 もっとも、恐らく人間にも機械のようにパターンに当てはまる部分があり、父はまさにそこに興味があるのだと思う。
 一方で僕は、型にはまらない部分、つまり多様性の方がずっと大切なのではないか?と思う。
 
 さて、アメリカザリガニは、非常に型にはまった行動をし、ああすれば、こうなるというのが、実に分かりやすい。
 だから、もしも僕の父がアメリカザリガニの研究などに携われば、ザリガニは父の感性にピタリと合い、たいへんに優れた研究ができるのではなか?と思う。
 もっとも父は、生き物が嫌いなので、そんなことはあり得ないのだが。

 アメリカザリガニのオスは、他の個体に出会うとハサミを振り上げる。
 そして恐らくその時点では、ハサミを振り上げたアメリカザリガニにとって、その相手がオスなのかメスなのかは、まだ分からないのではないか?と思う。
 つまり、ハサミを振り上げる行為は、相手がオスかメスかを試す行為である。
 
 相手がオスの場合は、相手もハサミを振り上げ、つかみ合いの喧嘩が始まる。
 喧嘩は一見ハサミで切りあっているように見えるが、よく観察すると、お互いにハサミを伸ばして、相手を近づけさせないようにしている。
 そして力の強さを競い、それがはっきりすると負けた方が逃げ出し、一度勝負が決まると、再度仕切りなおしをさせても、喧嘩が始まることは滅多にない。
 どのアメリカザリガニでも不思議なくらいに同じ行動をし、喧嘩は喧嘩というよりは、まるで儀式のようだと感じる。アメリカザリは、まるで機械のような生き物なのである。
 
 

2007.10.8(月) カタツムリ? 

 アジサイは冬になると葉っぱを落としてしまうので、アジサイの葉の上での撮影は、そうなる前に早めに終えなければならない。
 そこで今日は、アジサイの葉っぱの上でカタツムリ?いや、ナメクジの写真を撮った。

 小さな子供にカタツムリの実物を見せると、カタツムリはナメクジが貝殻の中に入ったものなのか?といったことを、よく聞かれる。
 だが、それにもかかわらず、ナメクジが子供向けの本の中に出てくることは滅多にない。気持ちが悪いとされている生き物だから、本の評判が悪くなっては困ると、出版をする側から敬遠されるようだ。

 僕は、それを面白くない!と時に感じる。
 ある種の生き物を、気持ちが悪いと嫌われることが面白くないのではない。
 それはそれでいいと思うのだが、それよりも、本作りの際の写真の選び方が How to になり過ぎていることが面白くないと思う。
 例えば、梅雨と言えばアジサイとアマガエル。でも、アジサイとアマガエルの写真ならどれでも梅雨を感じさせる訳ではないし、逆に、アジサイとアマガエルではなくても、梅雨を感じさせる写真だってある。
 なのに、アジサイとアマガエルなら多少お粗末な写真でも通用してしまうようなところがあり、パターンに当てはめることに熱心になり過ぎていることが面白くないのである。
 ナメクジの写真だって、上手に写真を撮ったり、上手に見せればいいじゃないかと思う。また写真家の作風によっても生き物の見え方がそうとうに違ってくるものだから、写真家を使い分けたり、使いこなせばいいじゃないかと思う。


 

2007.10.6〜7(土〜日) 2日目 

 撮影用の水槽に泥を敷くと、撮影は格段に難しくなり、ややこしくなる。撮影用の水槽の中には、写真には写らない工夫が幾つか施してあるが、その工夫に、泥の存在が時に差し障るのである。
 例えば、水槽の中にわざと水流を作ることがあるが、底が泥の場合は、水流があたる場所だけ、泥の表面の質感が変化し、妙な具合に写真に写ることがある。
 だが、上手くそれらの点をクリアーできれば、泥ならばでの面白さがある。今日の場合は、産卵中のメダカが体を震わせ、それが泥の煙を巻き上げている様子が撮れた。
 泥が巻き上げられることで、メダカの微細な動きが写真に写る。

 今日は、先日に引き続き、今シーズン2度目のメダカの撮影だが、これで、オスメスの出会い〜求愛〜産卵のシーンをすべて撮影できた。
 同じシーンを撮影するのに以前は数ヶ月の時間を要したが、今回は合計2日、しかも前回は数ヶ月スタジオに篭りっきりだったのが、今回は1日あたり2時間程度の時間ですんだ。
 写真は効率を競うものではないが、効率を無視して、写真を仕事として成立させることは難しいだろうと思う。
 例えば、写真の使用料は、どこに、どんな目的で使用するかによって大抵決まるのだが、自然写真の世界で仮に一枚の写真の平均的な使用料が2万円だったとすると、年に500万円稼ぐためには250枚、1000万円稼ぐためには500枚売らなければならない。
 自然写真の場合、準備も必要だから、年に実質200日撮影ができるとするなら、これは一日に一枚以上のペースで商品価値がある写真を撮らなければならないことになる。
 商品価値の有無を考えなくてもいいのなら、一日に1枚は難しくはないのだが・・・
 プロの自然写真家というと、たっぷり時間とお金をかけて、ゆったりと時間を過ごしながら写真を撮ると思い込まれがちだが、なかなかそうは出来ない。
 時々、一流と評価されている先輩方のことを、
「有名な先生たちはお金のかけ方も、時間の使い方も違うから・・・」
 などという人がいるのだが、僕の知る範囲では、成功している人ほど、限られた時間、コストの中でちゃんと仕事を成し遂げているように思う。
 
 逆に、写真が仕事でなければ、1つのシーンに幾らでも時間を費やせるし、僕は時々「究極のところではプロはアマチュアに勝てない」と書くが、そこの部分こそが、プロがアマチュアに勝てない点だ。
 だからもしもメダカが大好きで、数年間にわたり、暇さえあれば水槽にカメラを向けメダカの撮影をしている人がいたとするなら、僕がわずか2日で撮影した写真などは、それに敵うはずがない。
 そして中には、そういうことをやり遂げているアマチュアもおられる。僕は、最近ではプロが撮影した写真に嫉妬を感じることは滅多にないが、アマチュアの方がそうして時間をかけて撮影した写真には、時々冷や汗をかかされる。
 
 

2007.10.5(金) 教科書 

 生き物の本には大人向けのものと子供向けのものとがあるが、僕の仕事の大半は、子供向けである。
 そして子供向けというと、やはり図書館や学校教育と言ったものと無縁ではない。
 それは、重々知っているつもりではあったが、つい先日、ある方から、
「図書館や教育の現場にいる人に興味を持ってもらえるような形を取った上で、その中に、自分の伝えたいことをいかに盛り込むかが大切ではないか?」
 と指摘をしてもらった。
 一般誌ならともかく、生き物の本の場合は誰でもが興味を持つわけではないし、図書館などの公の施設が本を買ってくださることは、本を売り上げの部数を手堅く、確実に伸ばすためには大切なことだ。
 例えば、図書館の本は、分類された上で整理される。つまり、生物だとか、環境などという既存のカテゴリーが存在する。
 そのカテゴリーににピタリとはまる本は、やっぱりよく売れる本だという。

 もちろん、媚びるのは嫌いだ!売れなくてもいい!という考え方もある。
 だが、それは十分に市場を知り尽くし、そんな本を作ろうと思えば作れるだけの経験を積んだ上で、それでも、売れなくてもいい、自分の作品をそのまま受け入れ、理解した上で本にして欲しいと活動すればいいのだと僕は思う。
 だから、媚びるのは嫌いだ!売れなくてもいい!という考え方は、今の僕にはまだ早すぎるし、それを主張する前に、改めて教科書を徹底分析してみることにした。
 
 とは言え、完全に媚びるつもりはない。
 自分の思いと世間のニーズとをちゃんと両立させるのがプロなのだと僕は思うし、両立できれば、それ以上のものはないのだし、それは、そんな努力を重ねた人だけができることなのだと思う。その可能性の芽を、最初から摘んでしまいたくないのである。

 

2007.10.4(木) 効率・能率 

 2日分の熊本取材を中止したのは、どうも正解だったようだ。時間的にゆとりが生まれ、その結果、頭が働くようになった。無気力症候群からも、しっかりと抜け出すことが出来たように思う。
 計画帳に記入した事柄を何となくこなすのではなくて、どんな作業であろうと、やっぱり1つ1つ心を込めて仕事をしなければ充実感がないし、僕にとっては生きている意味がない。

 僕は子供の頃に、父から、勉強のやり方をよく教わった。
 そのやり方とは、数学や語学など頭を使う作業を中心に計画を立て、残りの余った時間に、社会のノートを整理するなど、あまり頭を使わない作業を入れなさいというものだった。
 つまり、自分のやるべきことを重要な作業とそうでない作業とに分け、重要な作業にいい時間を、重要ではない作業に悪い時間を割り当てるという、合理主義の考え方である。

 でも、僕にはそのやり方が全く合わないなぁといつも感じていたのだが、そうしなければゲンコツをされるので、仕方なくそれに従っていた。
 そして習慣とは恐ろしいもので、自分ひとりで仕事をしていても、気が付けば、いつの間にか自分には合わないと思う父の方法で作業を進めようとしてしまう。
 今の僕にとって、当面一番重要な時間とは撮影の時間であり、あまり重要ではない時間とは事務的な仕事をする時間などになるが、一番頭が元気で能率が上がる時間帯に写真を撮り、その残りの時間で事務的な作業を片付けようとしたくなるのである。

 ところが、やっぱりすべての作業は一つながりのものであり、どこかが粗末になると、結局撮影の時間に回り回って響いてくる。
 能率とか効率をあまり考え過ぎずに、一つ一つ順番に一期一会で、どんな作業にも心を込める方が、僕には合うように思う。
 自分があまり重要ではないと思っていた作業が、時間かけ、心を込めてやってみると、実は非常に意味があったと感じたような経験が過去に何度かあるのだが、何が重要か?は、そんなに簡単に分からないと僕は思うのである。

 

2007.10.3(水) メダカの産卵 

 先日、出版が差し迫っている本一冊分の写真を選び出し、画像を担当者に送ったら、ここしばらくの不調が嘘のように、思いがけず気持ちが楽になった。
 なんだ!そうだったのか!
 自分でも気が付かなかったのだが、その写真選びが、どうも僕に重たく圧し掛かっていたようだ。
 だが、先週だったか、担当者の方が「そろそろ・・・」と催促してくださり、その催促に助けられた。
 マイペースという言葉は実にいい響きではあるが、僕のように精神力が弱い人間は、ほどほどに催促をしてもらった方がいいように思う。
 悩みは、自分が何に悩んでいるのかが分かった時が解決の時だと、ある心の問題の第一人者が書物に書いているのを読んだことがあるが、なるほどなぁと思う。自分が何に苦しんでいるのかがわからない状態が、イライラや不安や無気力なのである。

 さて、子供の本の世界で身近な水辺の生き物の代表格と言うと、アマガエル、アメリカザリガニ、カタツムリ、メダカの4種類になる。カタツムリは、厳密には水辺ではないが、貝なので水辺の生き物として扱われるケースが多い。
 その中で、僕がデジタルカメラでまだ撮影していないのがメダカ。だからメダカの写真の貸し出しの依頼があった時は、フィルムをスキャンするのが大変な作業だった。
 1枚や2枚ならともかく、たくさんの量を貸し出さなければならない時は、フィルムをスキャンするよりも、デジタルカメラで新たに撮影し直した方がしばしば早く、メダカはデジタルで一刻も早く撮影すべき被写体だったが、今年の秋〜冬は、ようやくそれにも手をつけることができそうだ。 

  最初にメダカの産卵行動を撮影した時は、数ヶ月の時間がかかった。だが、今日は、数時間でそのシーンの大半を撮影できた。
 以前、苦心させられたのが、オスがメスの前でクルリと回る、メダカの求愛シーンだ。

 今日、1つだけ撮影できなかったのが、メスの体内から卵がプリプリと出てくるシーン。
 上の画像は、手前がオス、奥がメスになるが、それが逆になりメスが手前にいなければ、卵が出てくる様子は見えない。
 だが不思議なことに、オスが手前になることが多い。オスは、自分が手前になることで、僕からメスを遠ざけるようにしているのかもしれない。
 メダカは水槽の中から外の人間をよく見ていて、僕がちょっと席を外した間に、ササッと産卵を終えてしまうこともある。

 メダカは田んぼの水路のような場所に住む生物なので、メダカの生息環境を忠実に水槽に再現して写真を撮ると、写真が泥臭くなりやすい。
 一方で、水槽に砂利を敷き、クリアーな水の中で写真を撮ると、一般受けしそうなキレイな写真が撮れるが、それではメダカのことを正確に伝えることができない。
 そこで今回は、自然な感じで、しかもキレイに見える写真を、工夫を施して撮りたいと思う。

 

2007.10.2(火) アルミケース 


 弘法筆を選ばず!と声を大にして言いたいところだが、水中撮影に限っては、器材の良し悪しがかなり撮影結果を左右するので、カメラから周辺機器まで、道具は十分に吟味しなければならない。
 そして、淡水の水中撮影で重要なことの1つに、器材をいかに上手に、効率よく持ち運ぶかがある。
 同じ水中でも海の場合は、船で現場まで連れて行ってもらえることが多いようなので、器材の持ち運びにそんなに頭を悩ませる必要はないに違いない。
 だが淡水の場合、例えば渓流で撮影をするのなら、まず沢歩きからはじめなければならない。そして、一箇所で撮影をしてさらに別の場所で撮影するためには、泳いでいける海とは違って、また器材を収納して、歩かなければならない。
 水中用の器材は、衝撃や妙な圧力が加わることでの水漏れが何よりも怖い。水漏れにより、数十万円が一瞬にして消える可能性が常にある。
 だから、なるべくカメラはハードケースに収めたい。
 だが、水中カメラは非常に特殊な形状やサイズなので、レンズやその他をすべてセットした状態で、これをピッタリと収納できるハードケースは市販にはない。
 そこで、アルミケースを特注で作った。特注だから、それなりの額を覚悟したのだが、意外にも安く作ってくれるところを見つけ、およそ1万5千円でできた。
 先日、菊池渓谷で水中撮影をした際には、このアルミケースを肩からぶら下げて歩いたのだが、水辺の場合は、やっぱりちゃんと背中に背負わなければ危なそうだな・・・と、帰宅後に反省。
 だから次回からは、アルミケースを釣り用の背負子にくくり付け、水辺を歩く予定だ。
 
 

2007.10.1(月) 写真選び 

 以前ほども多くはないのだが、時々、計画を予定通りに進めることができずに、優先度の低い撮影から中止にしなければならないことがある。今週は、熊本県の湧き水の池での撮影を予定していたが、そんな理由で二日分の水中撮影を取り止めることになった。
 特に先週〜今週の2週間は、ひどく頭痛がしたり、体がだるかったりして仕事の効率が上がらない。
 風邪をひいたのだろうか、それとも無気力症候群に取り付かれたのだろうか。そこのところは、自分でも不明。
 すると、恐ろしい勢いで、次々と仕事がたまり、机の上にメモが積み重なる。
 あ〜ゆっくりする時間が欲しい。
 のんびりしたいわけではない。考える時間が欲しい。構想をじっくりと練る時間が欲しいと思う。いやいや、構想を練るというよりも、踏ん張らなくても自然とアイディアが湧いてくるのを待つ時間が欲しい。
 さて、二日分の撮影を取り止めたので、二日の猶予ができた。ここしばらくの間に貯め込んだ仕事を、その間に片付けなければならない。
 そこで今日は、出版が差し迫っている本のための写真を選び出した。
 するとどうだろう、何だか非常に心が軽くて、そこが滞っていたことが、自分でも気付かなかったのだが、ストレスになっていたことが分かった。

 写真を選ぶ作業は、「あのシーンを貸してください」などという形で、求められた写真を機械的に提出する場合はともかく、そうでない場合は、自分の写真を使って物語を作る作業である。
 では、その物語はどこにあるか?というと、僕の頭の中にある。
 つまり、人の頭の中だけにある実体がないものを相手にする作業だと言える。
 その手の作業は、気分がのっている時には非常に楽しいが、乗らないときには、なかなか苦しい。
 時々、将来的に、文章を書くことで、そこそこのお金が稼げたらなぁと考えることがある。文章を書くことなら、ほとんどお金がかからないし、どこででも仕事ができるし、立派な場所も機材も不要だから。大部分の作業を、自分の頭の中だけで出来る。
 でもやっぱり辛いのかな・・・。
 乗っているときにはいいけど、そうではない日が・・・・と、今日のような日に思い直すことになる。
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2007年10月分


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