撮影日記 2007年9月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2007.9.30(日) 写真展の案内

 北九州市の平尾台にある、平尾台自然観察センターで写真展を開催することになった。期間は、10月2日(火)〜10月30日(火)。
 僕が出品する写真は、全部で15点。地下を流れる川と洞窟の生物たちだ。
 僕の他には、トンボの写真家・西本晋也さんの昆虫写真が10点。それから、写真をはじめてまだ一ヶ月の尾崎陽さんが撮影した植物写真。
 
 2年ほど前に、トンボの撮影で、西本さんにある川を案内してもらったのだが、その日のちょっとした経験は、後に僕が洞窟にカメラを向けるきっかけになった。
 その日、僕と西本さんとは同じトンボにカメラを向けたわけだが、その共通の経験が、その後どんな風に展開したのかを見比べてもらえば、今回の展示がより面白くなるのではないか?と思う。
 (西本さんの作品)

 尾崎さんは、洞窟のガイドの経験があり、下手をすると出られなくなる危険な洞窟の中で、僕が安全に写真が撮れるように力を貸してくださった。
 写真は、まだはじめてひと月足らず。しかも、撮影は週末のみ。
 だが、写真展は、必ずしも卓越した技術や、何か内容のあるドキュメントを見せるだけがすべてではない。
 なぜなら、ある一枚の卓越した技術の写真よりも、すばらしい内容のドキュメントよりも、もしかしたら尾崎さんがひと月の練習で撮影した写真の方が、
「ひと月の練習でも、結構写真って撮れるんだね!私も写真を始めてみようかな・・・」
 と、誰かの心を大きく動かし、人の生活をより楽しくする可能性があるのだから。
(尾崎さんの作品)

 昔、ジム・ブランデンバーグという世界的に有名な写真家が、一日に一回だけシャッターを押すというルールのもとで写真を撮り、それをある雑誌の中で発表したことがある。
 もしも単純にいい写真を見せるなら、一枚ではなく、たくさんシャッターを押した方が質の高い写真が撮れる可能性が高くなるわけだから、ジム・ブランデンバーグは、写真の質以外の何かを見せようとしたのだろうが、そんな世界だってあるのだと思う。
 例えば、北九州には曽根干潟という野鳥が多い水辺があるが、そこで、ある日一日で見た野鳥の写真を展示する方法だってあるだろう。つまり、たった一日で写真展ができる。
 その結果、それを見た人が、「一日でこんなに鳥が見られるんだ!」と、心を動かされ、野鳥観察をはじめるきっかけになる可能性は、おおいにあるように思う。
 数年間撮り貯めされたような写真は、確かに質は高いが、ある一日の様子を伝えることが全くできない。
 望遠鏡に小型のコンパクトデジタルカメラを取り付ける、デジスコという撮影の方法があり、今やそれで十分に印刷物に使用できるクオリティーの写真が撮れるようになったし、実際に、その手の写真を本の中で多く見かけるようになった。
 デジスコは、非常に遠くから野鳥を大きく撮影できるため、しばしば、高価な本格的な望遠レンズよりも質の高い写真が撮れる。
 そんな道具を使うと、撮影に要する時間は一日だけというような写真展も、非常に面白いのではないか?と思う。

 写真撮影を難しく難しく考える必要などないし、一日だから、一ヶ月だからこそできることもあるし、それを考えることこそが、写真展なのだと思う。


 

2007.9.28〜29(金〜土) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

2007.9.27(木) 文系のセンス

 昆虫写真家・森上信夫さんの最新作を一冊送ってもらったのだが、非常にいい本だと思う。
 何がいいか?と言うと、まず1つ目に、既存のどの本にも似ていないこと。
 そして2つ目に、文系的なセンスが光る本だということ。
 昨日、ある編集者に写真を見てもらった時のことを書いたが、そう言えばその時に聞かせてもらった話の中に、文系的なセンスの大切さがあったなぁと、急に思い出された。
 当時は、なぜ文系的なセンスがそんなに大切なのかがあまり良く分からなかったのだが、理科的なセンスに偏った本は、生き物マニアのような人しか求められない本になってしまう。
 つまり、一種のオタク向け。
 もちろん、オタク向けの本もあっていいのだが、やっぱり王道ではないように思う。

 僕は今、水辺の環境にこだわった本を作ろうとしていることは、何度も書いたことがあるが、そういう意味でこの本に負けないようにしたいなぁ。
 ただ、これは当然のことではあるが、人にはそれぞれに個性があり才能がある。だから、いい本だなぁと何かに心を動かされた後は、影響を受けすぎないように、僕は自分の心をよく整理しなければならないだろう。

(お知らせ)
 以前にもお知らせしましたサンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は明日9月29日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。


 

2007.9.25〜26(火〜水) 半水半陸写真

 僕はお気に入りの写真集だけを本棚のすぐに手に取れる位置に並べている。つまりVIPを待遇をしているわけだが、ある時、それらの写真集のかなり高い割合を、ある一人の編集者が担当していることに気が付いた。
「そうか・・・写真集って、写真家だけの力で出来ていると思っていたけど、他にも編集者の力が大きいんだ!」
 と、僕はその時初めて知ることになった。それは何も写真集に限ったことではなく、他の本でも同じだろうと思う。
 つまり僕は、ただその写真家が好きだったのではなく、その編集者も好きだったことになる。
 僕らが撮影する写真が、料理で言うなら材料だとすると、編集は調理のようなものだと考えておけばいいと思う。調理もやっぱり大切なのである。

 そこで、さっそくその方に会いに行き、僕の水辺の写真を見てもらったのだが、その時の話の中で、心に強く残っている話題が2つある。
 1つは、
「半分水中、半分陸上の半水半陸写真が欲しいですね。」
 という話。
 なぜ、心に強く残ったのか?と言うと、そんな写真が欲しい理由が、当時の僕には分からなかったから。
 あとの1つは、里山の写真家・今森光彦さんの話。
「里山の写真を撮る人はたくさんいるけど、今森さんは、生き物から人までが本当の意味でひとつながりになっている唯一の写真家だと思います。」
 というような内容だった。
 最近になって、その2つの話が、実は全く同じことを言おうとしているのだと気が付いた。もう数年前の話だから、それを理解するのに、僕には数年の月日が必要だったことになる。

 さて、熊本県の菊地渓谷へと行ってみた。
 今回のテーマは、半水半陸写真。ただし、陸と水は半々である必要はなく、陸がちょっとでも見えていれば、それでいい。

 まだ緑色の葉っぱをつけた木が一本、水の中に倒れ込んでいた。

 陸上では、肌で秋を感じることはできても、写真に写るような秋の気配は、まだ感じられない。
 ところが、水中には一足先に確実な秋が訪れていて、ほとんど途切れることなく、次々と落ち葉が流れてくる。
 落ち葉が水に運ばれて一箇所に集まってくるから、水中では陸上よりも秋が凝集されるようだ。

 菊地渓谷の入り口には露店があり、おじちゃんが地鶏やヤマメの塩焼きを焼いている。
 地鶏はとても硬いが、味は絶品。いろいろな場所で地鶏を食べたことがあるが、僕の中ではその露店の味がNO1。それもただのNO1ではなくて、圧倒的なNO1だと言っても言い過ぎではない。
 ところが今日は残念なことに露店がお休み。
 今日は地鶏をたくさん食べることに決めていたので、野菜不足にならないように昨日の夕食は野菜炒め定食を食べるなどして、あらかじめ気合を入れていただけにがっかり。
 そこで、そのおじちゃんの甥にあたる方がやっている炭火焼のお店(望野山という)に行ってみることにした。
「ごめんください。」
「いらっしゃいませ。」
「露店がお休みやったから、こっちに来て見ました。
「肉は、露店のものよりも、こちらがおいしいですよ。質がいいものを使っています。」
 確かに、非常に美味しい。
 大満足の一言。
 だが、露店の味が決して劣るとは思えなかったから、そう言ってみたら、
「いやねぇ、やっぱり菊地渓谷のパワーは相当なものですよ。あの空気の中で食べると、肉が美味しくなる。でも、ここで露店の肉と食べ比べをしてみると、やっぱりこちらの肉が美味しいんです。」
 
 

2007.9.22〜24(土〜月) 川のあと

 僕は学生時代に、昆虫写真家の海野和男先生に、
「生き物の写真家になりたいのです。」
 と手紙を送ったことは、何度も書いたことがある。
 その当時(もちろん今でも)、僕が一番好きだった写真家が海野先生だったわけだが、実は、あと一人同じくらに好きだったのが、岩合光昭さんだ。
 ただ、岩合さんはお父さんの代からの動物写真家。僕とは生まれ育った環境が違いすぎるし、岩合さんのやり方が僕にも当てはまる可能性は極めて低いだろうと考えた。その点、海野先生は僕と同じように自然科学の出身だから、何か僕が学べるものがあるに違いないと思ったわけだが、その判断は、多分間違いではなかっただろうと思う。
 ただ、海野先生のすべてが僕に当てはまるか?と言えば、そうではない。
 例えば、海野先生は都会で生まれ育った、おしゃれな都会人。
 僕は典型的な田舎者。
 田舎者の垢抜けしないセンスでは、都会人と同じことをするのが難しいケースが多々あるように思う。
 また、海野先生の場合、ひたすらに虫そのものが好きで、写真を通して表現しようとするものに迷いがない。だから、言わんとすることが明快で力強いし、分かりやすい。
 その点、僕には非常に曖昧なところがあって、自分でも時々何が好きで、何がしたいのかが分からなくなる。だから、僕のこれまでの写真家としての活動は、
「いったい僕がやりたいことは、何なんだ?」
 と、それを少しずつ整理する時間だったと言ってもいい。
 最近、ようやくそれが少しだけ分かってきたように感じるのだが、一言でいえば、曖昧でいいじゃないかということ。
 多くの写真家が自分のテーマの大枠を決め、それをより細かく細かく突き詰め、より明確にしていくのに対して、僕がやりたいことは、最初に小さな仮のテーマを設定し、そこから自然を大きく大きく見ていくことのような気がする。

 さて、大昔の川へと撮影に出かけてみた。この場所に今はもう川はないが、かつては、水が流れていたのだそうだ。
 かつてというのは、数千年とか数万年というスケールではないか?と思う。

 こちらは、水溜りのあと。上の画像の坂道から川がザザッと流れ落ち、この場所で貯まりになっていたのだと考えられている。
 その際の水際が、丸く洞窟の中に残されている。

 その地下の川のあとは、今では洞窟性の生き物の住処になっていて、これはカマドウマ。
 
 こちらはユビナガコウモリ。

 

2007.9.21(金) インタビュー2

 インタビューを受ける際の楽しみの1つに、他の写真家について、「誰々さんは、こんな風に話してくれましたよ」とか、「こんなタイプの人ですよ」などと、人様の話が聞けることがある。色々な人にインタビューをして本作りに携わっている人は、やはり話を聞くのが上手いし、そんな機会に耳にできる話は非常に面白いと思う。
 今日は、僕の同世代の写真家で、僕がすごいなぁと感じているある方について、ちょっと話を聞く機会があった。
 僕は、時間をかけて写真を撮るタイプだが、その方も、時間をかけて写真を撮るタイプなのだそうだ。
 一箇所で時間をかけて写真を撮るのか、それとも、あまり時間をかけ過ぎずに写真を撮るのかは、その人の作風や写真を通して言わんとすることを相当程度に決める、かなり大きな要素だと僕は感じている。
 だからもしも僕がインタビューをする立場なら、まず最初に、「一箇所に座り込み、そこで時間をかけて写真を撮るタイプですか?それとも、あまり一箇所では時間をかけないタイプですか?」と、を聞いてみたいように思う。
 
 一箇所で時間をかけて写真を撮るということは、大雑把に言ってしまうと、よく計算をして、手を尽くして写真を撮るということなので、そうして撮影された写真には、写真家のドシッとした強い意志のようなものが写りやすくなる。
 その代わりに、計算できにくいものは撮れなくなってしまうから、写真の中から偶然の要素が排除され、一瞬の面白味のようなものが薄れていく傾向にある。
 逆に、一箇所ではあまり時間をかけずに、むしろいろいろなものを見ながら写真を撮ろうとすると、そうして撮影された写真には、計算や時間をかけることでは撮れない、偶然の面白みのようなものが写りやすくなる。
 
 カメラだって、それによって、しばしば変わってくる。
 時間をかけようと思うのなら、カメラが多少重たかったり大きかったりしても、その分高画質な写真が撮れる道具がいいし、逆に、一箇所では時間をかけ過ぎずに、いろいろなものを見ながら写真を撮ろうと思うのなら、多少画質は劣っても、ある程度コンパクトなカメラの方が扱いやすいだろう。
 
 どちらが優れているなどという問題ではない。
 時間をかけることで見えてくるものもあるし、時間をかけようとすることで、見えなくなるものもある。タイプの問題なのだと思う。

 

2007.9.20(木) インタビュー

「自分のことは自分が一番良く分かるから・・・。」
 などとおっしゃる方がおられるが、僕は、
「そうかなぁ・・・」
 と、いつも疑問を感じる。
 例えば、インタビューを受けると、自分でも気付かなかった自分に気付かされることが多々あり、つまり、聞き手の質問によって自分自身について教えられる。
 今日は、電話で幾つかの質問を受けたのだが、すべての質問にすんなりと答えられる訳ではなく、
「う〜ん」
 と考えさせられることがあった。自分自身について答えるのに、時には考えなければならないのである。
 インタビューを受けるって結構大切だなぁ。
 
 

2007.9.19(水) 意図

 僕のホームページは、事務所の位置を地図で表示できるようにしてあるが、先日、ライターとカメラマンの方がお越しになった際には、にもかかわらず道に迷われたようだ。
 そこで、地図といっしょに写真を載せておこうと思いつき、今日は、外出のついでに写真を撮ることにした。
 まず最寄の駅前に立った。そして、僕はカメラを構える。
 すると、いつもの習慣で、その写真を絵にしようとする頭が一気に働きだす。
 だが今回は、写真が絵になってしまっては困るし、お客さんが駅前に立った時に見る風景を忠実に再現しなければならない。
「いかん、いかん、習慣ってすごいな〜。」
 と、思わず一人で苦笑い。
 写真が上手いとか下手などという写真の評価をよく耳にするが、それはその人が何の目的で写真を撮るのか?によって違ってくるはずだ。
 例えば、ある景色をガイドブックに載せたいのか?それとも写真集の中の1ページにしたいのか?
 ガイドブックに載せるには、それはそれなりの撮り方があり、上手い写真があり、きれいな写真があるだろうし、写真集でも同じことが言えるだろう。
 つまり、撮影者の意図を理解できない人には、ある写真が上手いか下手かは、あまりよく分からないはずなのである。

 そう言えば、もう15年くらい前のことになるが、ある場所で、ある有名な野鳥写真家と出会った。
 その野鳥写真家は、あまり写真が上手くないという評判。そして僕も、いろいろな出版物を見てそう感じていたし、具体的には、ただシャッターを押しましたという感じで、写真から野鳥の息吹が伝わってこない感じがする。
 だが、その方の、撮影の際の姿勢を生でみて、僕は唸らされてしまった。
 普通なら、地面の上の鳥を撮影する際には、三脚を短くして、カメラを地面に近い低い位置に構え、鳥の目線の高さから撮影することで野鳥を生き生きとした感じに写し撮ろうとするものだが、その方は三脚を伸ばしたまま、見下ろすように写真を撮っていた。
 その姿勢は、野鳥愛好家がフィールドスコープという望遠鏡で野鳥を探す時の姿勢そのもの。つまり、その方の写真に写る野鳥の姿は、野鳥愛好家がフィールドスコープを通してみている野鳥の姿に近いわけである。
「なるほどなぁ・・・写真が下手糞なのではなくて、わざとそんな意図で写真が撮られてるんだ・・・」
 と。

 

2007.9.18(火) 結果

 国立大学やその他で進められている生き物の研究は、結果が出なければ、税金の無駄使いになるのだろうか?また、それに対して一人一人の国民は、
「俺も税金を払っているのだから、研究のデータを開示しろ」
 とか、
「結果が出ないのだから、方法論を改めろ!」
 などと、研究者に対して物を申す権利が果たしてあるものだろうか?
 僕は、生物学の学生時代にはそんなことを考えたことは一度もなかったのだが、社会人になって以降は、いろいろな方の問題提議がきっかけになり、何度かそれを考える機会があった。
 そして、いろいろな人の話を聞いた結果分かったことは、多くの人が、生き物を研究すれば、何か機械的に結果が出ると考えているということだ。
 ところが実際には、生き物の研究は非常に泥臭くて、簡単そうに思えるようなことでも、取り組んでみると、これ!と言えるような明快な結果が出にくい。だから、研究はなかなか前へ進まない。
 高校の生物の教科書に載っていたような、明快で分かりやすい現象は、まさに例外中の例外。教科書は、学生向けに分かりやすいものを選んで載せているのだろうが、そんな例ばかりを子供に教えることは詐欺なんじゃないか?と思えてくるほどに、生き物の研究で得られるデータは分かりづらいものだった。
 僕が属していた研究室で、それなりに長い期間積み重ねられたデータだって、恐らく多くの人の感覚では、「たったそれだけ?」と感じられる程度に違いない。
 僕の学生時代の研究材料は昆虫である。
 そして昆虫は、他の生物に比べると機械のように型にはまった行動をする傾向が強いが、そんな昆虫でさえ、同じ条件で実験をしても実験のたびに異なるデータが出たりして、生き物の難しさを痛感させられた。
 もっとも、僕の場合は、あまり研究熱心ではなかったこともあったとだろうとは思うが、僕の恩師を含め、多くの研究者は気が遠くなるような実験に日々取り組んでいたし、それを自分の目で見てきた僕は、結果が出ないから無駄だとは到底考えることはできない。
 なぜ、研究熱心ではなかったか?は、いずれ書いてみようと思う。
 
 この秋〜冬に撮影を予定しているアメリカザリガニも昆虫と同じ節足動物だから、他の生き物と比較すると、昆虫同様に型にはめやすい生き物だ。
 だが、そんなザリガニでさえ一匹一匹に個性のようなものがあり、狙い通りの写真を撮りたいのなら、たくさんのザリガニの中からオーディションをして役者を選ばなければならない。
 つまり、たくさん飼わなければならない。
 だが、たくさん飼うと、世話に手間がかかる。特に、水槽の水換えは煩わしい。
 そこで、水槽の水換えの際に、自動とまではいかなくても、ほとんど手間がかからないような工夫をしようと、昨日から作戦を練っているところだ。合計で14個ある水槽を、5分以内くらいで水換えできるようにしたい。

 

2007.9.17(月) 自信

 今年も、秋〜冬にかけて、スタジオの水槽の中でアメリカザリガニを撮影する予定なので、他の撮影と同時進行で、ちょうど今、ザリガニ用の飼育器具を注文したり、撮影用の水槽を整えたり(水草を植えて放置しておくだけ)と、作業を進めつつある。
 アメリカザリガニには、昨年も一昨年もカメラを向けた。だから、飼い方も、写真の撮り方もそれなりに確立されているはずだし、それに9月の今の段階ではまだまだ時間的なゆとりもあるのだが、何とも言えない妙なプレッシャーを感じ、ここ数日は、それを考えると他のことがあまり楽しくない。
 あんなにたくさん撮影した被写体なのに、やっぱり自信がないのである。
 弱いなぁ。

 生き物の丈夫さに関しては、いろいろなイメージがある。たとえば、サンショウウオと言えば、非常にデリケートな生き物であるような印象を受ける。
 だがサンショウウオの幼生を実際に飼育してみると、もちろん、種類にもよるのだが、意外に水質の悪化などに対しては丈夫で、同じ水槽で飼育中のおたまじゃくしが次々と死ぬような状況に陥っても、サンショウウオの幼生だけは、ほとんどダメージを受けなかったというような経験が、僕は過去に何度かある。
 アメリカザリガニの場合はどうか?と言えば、丈夫で強い生き物というイメージがあるにもかかわらず、実はなかなかデリケート。例えば水質の悪化にはそうとうに弱い。
 したがって、水が閉じ込められた状態の飼育ケースの中では、ろ過装置を使っても、徐々に、徐々に弱っていく傾向にあり、アメリカザリガニを本当の意味でいい状態で飼育するのは、なかなか難しい。
 それを避けるには、十分な大きさの水槽で飼うか、または、毎日のように水換えをすること。
 だが、大きな水槽(アメリカザリガニなら幅60センチは欲しい)は、何つがい分もを置くスペースがないので論外。
 頻繁な水換えは、努力さえすればいい。だが、結構泥臭い。だから、アメリカザリガニの撮影の仕事は疲れるし、ストレスがかかる。
 
 

2007.9.16(日) ジャンボタニシ

 現在僕が取材を進めている町の水路には、たくさんの生き物たちが棲みついていることは、以前にも紹介したことがある。そして、僕はその場所へ何度も出かけて撮影しているのに、今でも、そこでは初めて見る生き物に時々出くわす。
 だが本を作るとなると、それらの初対面の生き物をすべて紹介すればいいわけでなく、その本の中で自分の言いたいことをよく整理して、それを伝えるのに相応しい生き物を取捨選択し、登場させなければならない。
 スクミリンゴガイ、別名ジャンボタニシは、僕が町の水路を語るのに不可欠な生き物だが、なかなか分かりやすい写真を撮ることが出来ず、あらかじめ、「この生き物の写真は絶対に欲しい」と決めていた種類の中では、一番後回しになってしまった。
 なぜ、たかが巻貝の写真が撮れないか?と言うと、被写体として面白くないから。元々絵になる被写体なら撮影はやさしいが、そうではない生き物の場合、ただ写ってますという感じになるのは避けられない面があるし、それを少しでも納得できる写真にしようと思うと、時間がかかってしまう。
 
 僕は、何に取り組んでも短時間で結果が出せるタイプではない。恐らく、才能や閃きで生きているタイプではなく、積み重ねと論理で生きていくタイプなのだと思う。
 だから、写真の撮り方の中では、反射神経で瞬間を写し取るスナップ写真が苦手だ。
 でも、たまには苦手に挑戦するのもいいだろうと考え、町の水路でカメラを向ける時には、スナップ写真を撮るような感覚でカメラを構える。したがって、絶対に生き物には手を触れないし、生き物だけでなく、水路に浮いているゴミなどにも、一切、取り除いたりするなどの手を加えない。「う〜ん、水草が一本邪魔だなぁ」と思っても、それを取り除くことをしないし、完全にありのままを撮ることにしている。

 ジャンボタニシがどれくらいジャンボか?というと、こんな感じになる。
 僕の手の上に乗っているのは、今日の一枚目の画像のものを網で採集して持ち帰ったものだが、あと一回りくらい大きな、「コイツ、サザエじゃないか?」と思いたくなるような大物も、時々見かける。
 ジャンボタニシは、田んぼで稲を食い荒らすことで有名になった生き物だが、町の水路にすむものは、田んぼのものよりもずっと大きい。

 ジャンボタニシの卵は、赤〜ピンクでとてもよく目立つ。卵の写真は、ずっと以前に撮影したものだから、もしかしたら、すでに紹介済みかもしれない。

 

2007.9.15(土) 故障

 不思議と、機材や周辺機器の故障は重なるように感じる。カメラが壊れたり、三脚の部品が取れてしまったり、ストロボが故障したり・・・
 ちょっと前にはハードディスクが壊れたりもした。
 ハードディスクが壊れる話は結構色々なところで耳にするが、僕は幸運にも、これまでに致命的な事故にあったことは一度もなかった。
 ところが今回は修理不能。いや正確には修理できるが、ディスクを交換しなければならないと宣告された。
 すると、そこに保存してあったデータは消えてしまうし、その修理費用は、ディスカウントのお店で新品が買える価格だったから、修理する意味がない。
 せめてもの救いは、そのハードディスクが遊び用のディスクだったこと。でも、たとえ遊びでも、いざデータが消えると、やっぱりがっかりさせられるもんだなぁと思い知った。
 それと同時に、仕事用のディスクに関しては、今以上に幾重にもバックアップを作っておいたほうが良さそうだと感じた。
 
 そこで、新しいハードディスクを買おうと思い立ったのだが、何かの雑誌で見た凄くカッコイイ奴がむしょうに欲しくなった。
 そのカッコイイ奴とは、取り外し式のカセットタイプのディスクを4つくらい取り付けることができ、そのカセットの中の1つにデータを収めれば、自動的にバックアップを別のカセットに作る機能が搭載されたもので、見た目も大げさで実にイイ。
 だが、価格が10万円に近くて高価だし、第一、そのカセットを収める本体が壊れたら、すべてのカセットが読めなくなってしまうし、その日に重大な仕事があったら困る。だから、さらにその予備を1つ買うとなると、20万円弱の出費になる。

 20万円はあり得ないなぁ・・・
 でも、中のディスクを簡単に交換できる機能は便利そうだし、欲しいなぁと、色々カタログを眺めていると、ディスク交換式で、カセットを1つしか取り付けることができない格安のものがあることを知り、それを買うことになった。
 価格も、そんなに高くはなかったので、合計2つ購入。2つあれば、カセットを読み取る本体が壊れても、予備の機械で補うことができる。
 取り外し可能なディスクには、さまざまな容量のものがあるようだが、僕は500Gのものを選んだ。
 もしも今回購入したものが、故障などなく、ちゃんと機能するようなら、これからはカセットだけを買い足せばいいし、ハードディスクが次々と満タンになり、その本体やら、電源やら、コードやらが妙に場所を取り、置き場に困るような問題も解消されそうだ。



 

2007.9.14(金) 美しい国、日本

 類は友を呼ぶで、僕の身の回りには生き物好きが多い。だから、そんな方々に囲まれて暮らしていると、非常に高いパーセンテージの人が、自然や生き物に興味を持っているような錯覚をおこしてしまう。
 ところが自然写真の仕事に携わっていると、まず生き物の写真の需要が極めて少ないことが分かり、それから生き物関係の出版物だって、そうたくさん出版されるわけではなく、仮に出版されても、そんなに多く売れるものでもないことを思い知らされる。
 自然関係の本でヒットしたと言われるものでも、例えば、アイドルの写真集あたりと比べてみると、販売される部数は1桁ところか最低二桁、下手をすると3桁くらいは違うのではないだろうか?
 自然って、その程度の扱いなんだ・・・と、がっかりさせられることが多々ある。
 自然写真の仕事は、自然が難しいのでも、写真が難しいのでもなく、需要が少ないことが何よりも難しいのだと、僕は思う。

 国政選挙でも、自然を旗印にかかげた結果、自然愛好家が結集し、その人が当選したなどという話は聞いたことがない。候補者の多くは一応『環境』を口にはするが、それはただ口にしているだけで、いつも中味が空っぽ。また一見、自然や環境が争点になっているように思えるケースでも、実は自然そのものが争点ではなく、漁業権が絡んでいたりして、結局いつも経済の話であるように感じられる。
 自民党の総裁選だって、候補者の政策や考え方が世間の興味を集めている時に、その興味の中には、環境や自然に関する話は、まず含まれていないだろう。
 やっぱり、自然ってその程度のものなのかな・・・と、益々がっかりさせられる。
 安部総理大臣の『美しい国、日本』は、「意味が分からない」などとさんざんにけなされた言葉だが、環境や自然の専門家の知識を結集して、本気で何かに取り組んでみたらどうだったのだろうか?などと、ふと思うのである。
 
 

2007.9.12〜13(水〜木) 結果

 僕の事務所から貸し出される写真は、必ずしも僕が自分で撮影したものである必要はない。時と場合によっては、誰か他の人の写真でも、全く構わない。
 もちろん僕を特集するようなページの場合は、自分で撮影した写真でなければならないが、それ以外のケースでは、例えば○○トンボの写真を貸してくださいと依頼された時にその写真を僕が持たなければ、トンボマニアの方に写真を借り、それを又貸してもいい。
 その場合、一般的には、それで得たお金の6割程度を撮影者に支払い、残りを僕がもらうなどという形にある。
 
 時々、誰かアマチュアの人でそうして組める相手はいないものか?と、考えることがある。例えば、植物の写真が撮れる人がいたらなぁなどと思う。
 植物の場合、動物とは撮影のリズムが異なるというか、時間の掛かり方が違う面があり、動物写真とは両立できにくいと僕は感じているのだが、それなりに僕の元へは植物写真の依頼はあり、いつも仕事を逃しているのである。
 もちろん、アマチュアの方が思い思いに写真を撮っても、それは仕事の写真としてはツボを外している可能性が非常に高いから、僕が、「この植物のこんなシーンを・・・」などと、指示を出すことになる。
 ところが、過去にそんな風にやってみようと試みたことが何度かあるのだが、いざ、仕事をやろうとすると、普段は小難しい写真の技術論を論じ、植物写真の哲学を語る植物写真の腕自慢の方々がみな尻込みをし、写真が撮れないのである。
 趣味で、自分が好きな時に好きなものを撮るのと、依頼され、相手が求める種類の植物で、相手の思い描くイメージの写真を撮影するのとでは大違いなのである。
 腕自慢をすることは易しいが、実際に、緊張感のある状況の中で何か結果で示すことは、なかなかに難しい。

 写真程度のことなら、もしも誰か自分を批判するものがいたなら、
「じゃあ、お前やってみせろよ!」
 と、返せばいい。
 だが、総理大臣などという立場になると、批判を受け、愚痴を聞くのも仕事の一部であり、やっぱりそうはいかないのだろうなぁ。
 ふと、もしも安部首相が普通の会社にいたとしたら、極めて真面目で有能で、どれだけ重宝される人だろう?などと思った。安部首相に限らず、元の民主党代表の岡田さんなどもそう。
 僕は、どんなにお金を積まれたって、政治家にはなりたくない。国を背負うどころか、僕には、むしろ個人の世界に近い自然写真程度のことが非常に難しい。
 自分のことで精一杯。
 
 

2007.9.11(火) 夜の水路

 今になって思うと、学生の頃は何であんなに難しく考えていたのだろう?と、ふと感じることがよくある。
 例えば、歴史の勉強がそう。とにかく苦痛で苦痛でたまらなかったのだが、今なら、歴史って面白いんだなぁと思えるし、地理だって、ここ数年は冬の期間にひと月ほど北日本取材に出かけているのだが、日本列島を車で縦断してみると、地理って面白いじゃないかと痛感する機会が何度もある。

 一方で、やっぱり難しいことがあると、感じる機会もある。子供の頃、出来なくて当然だったと。
 例えば受験勉強のようなスタイルの勉強がそう。僕は、夜になるとすぐに眠たくなってしまうし、放っておけば8時にでも9時にでも強烈な睡魔に襲われてしまうのだから、昼間学校に行くと、あとは勉強なんてする暇がなかったし、今でも、午後8時以降に仕事ができる日は、年に数日程度しかない。
 大好きな生き物を見たり、撮影をする時間でさえ、夜は非常に辛いのである。
 人と夕食を共にするような約束をすると、昼間はその約束が楽しくてワクワクするのに、実際にその時間になるとズ〜ンと眠たくなり、昼間とはまた別の僕が出てきて、急に苦痛になってしまうことも珍しくない。
 ただそれでも夜に撮影すべきものもあるから、たまには踏ん張ることになるが、そんな日は、まず十分に昼寝をして、寝過ぎで、夜はもう寝られないというような状況を作っておく。

 さて、夜の水路に出かけてみたら、特大のウシガエルを見つけた。
 昼間は、小さなものを過去に1匹見たことがあるだけ。だから、どこかに隠れていることになる。

 アメリカザリガニも、昼間はこの水路では、見かけたことがない。
 夜の水路での撮影のポイントは、完璧に撮り過ぎないことだ。写真のセオリーに則って立派な照明でキレイに撮ってしまうと、夜の臨場感がなくなってしまう。
 この場所での撮影では、懐中電灯で生き物を探し出す、あの興奮が写真に欲しい。僕はその手の撮り方があまり得意ではない。

 子供の頃は出来たのに、今はもう出来ないだろうなぁと思うこともある。
 例えば、学校の全校集会。
 校長先生が壇上に立つたびに、起立、礼が何度も何度もあって、時には、最初に「おはよう!」と挨拶をした学校長が、再び壇上に立った際に、「もう一度、おはよう!」などという日もあった。
 つまり、起立とか礼とかおはようが、ただの儀式や掛け声に成り下っていて、その本来の意味が失われているのである。そして、いつも同じような話。
 よくあんな時間に耐えられたなぁと思う。
 今なら、時間の無駄が悲しくて、虚しくて、不登校になってしまうことだろう。
 ともあれ、大人になると、出来なくなることもある。

 

2007.9.10(月) ヤゴの写真

 時々、この日記に対して多くの反応が返ってくる日があり、9月1日や3日の生まれて間もないシオカラトンボのヤゴの写真は、可愛いじゃない!と大好評だった。特に、体に泥をくっつけている姿がキュートだとか。
 まさか、ヤゴの写真で、みなさんがそんなに喜んでくれようとは!
 昆虫にカメラを向けるカメラマンは数多くいても、ヤゴの写真で、その日の僕ほど他人を喜ばせた人はいないのではないか?などと、勝手に想像してニンマリ。
 僕は、分かる人が分かればいいという世界、つまりマニアの世界よりも、一般の人に分かってもらいたいと思う。それも何か奇をてらって分かってもらうのではなく、直球勝負で分かってもらいたいのである。
  
 さて、それから毎日水槽の中でヤゴを探すのだが、昨日は、ヤゴの抜け殻が多く見つかった。どうも脱皮のタイミングだったようだ。残念ながら、その脱皮の瞬間を見ることができなかったが、今日は少しだけ大きくなったヤゴが見つかった。
 生まれた直後の写真と比べると、頭の大きさに対して胴体が大きくなったように思う。

 

2007.9.8〜9(土〜日) 一場所、ニ物、三技術

 いい写真を撮るために大切なものを順に言うと、1場所、2物、3技術だという説がある。
 一番大切な場所とは、いい場所で写真を撮ること。
 二番目の物とは、機材。
 三番目の技術とは、写真家の腕前のことだが、なかなか的を得たいい説だと思う。
 
 一番目の場所は、本来は、生き物がたくさんいるような場所を意味するのだろう。例えば、ハクチョウの写真は北日本で撮影されたものの方が、九州で撮影されたものよりも大抵は質が高い。
 だが、場所は広く解釈すれば、撮影ポジションだって含まれる。今日はいい撮影ポジションから写真を撮るために、水路に足場をかけてみた。
 写真に写ることが大嫌いな僕が、なぜ写真に写ったのか?というと、手伝ってくれた人がたまたまいたからという理由もあるが、僕はこれから環境の本を作ることに力を入れたいと考えているからだ。環境を見せる時には、そこに人の姿が入ると、非常にわかり易くなるのである。
 でも、本の主なページの中に、通りがかりの人などの姿が入っていると、いかにもそれを狙ってま〜すと、何だかあざとい感じがするので、自己紹介の写真の中にそんな要素を含ませてみたらどうだろうと考えた。
 自己紹介の写真は、本の中の大抵は最後に出てくるのだが、最後の一枚まで環境について徹底して語ってみたい。

 今日は天気があまり良くなくて、肝心な魚の写真が撮れなかったので、いずれもう一度、足場を使った撮影にチャレンジする予定だ。

(撮影テクニックの話)
 今日の一枚目の写真は、ちょうど今写真を始めたばかりの人が撮影したものだが、写真を見慣れている人が見たら、少なくとも、シャッターを押したのはプロではないと、すぐに分かるだろう。
 なぜなら、僕の頭〜肩と後ろにあるエアコンの室外機やドアの下部が重なり、僕の姿がやや見難くなっている。
 これがプロなら、「もう少し左に寄って」と、指示を出すに違いない。すると、僕の姿がもっと浮き上がってきて、より分かりやすい写真になるだろう。
 僕は時々、「写真を見てもらえませんか?」と依頼されることがあるが、そんな感じで説明すると、大抵は、
「もっとよく考えて写真を撮ります。」
 と、答えが返ってくる。
 でも実はこれは理屈ではないので、考えることはしばしば逆効果。
 写真をたくさん撮っていたり見ている人は、僕と背景の重なり合いに理屈抜きの違和感を感じるのである。だから、考えるのではなく、数を撮り、写真をたくさん見るのがいい。
 
 

2007.9.7(金) 恥をしのんで 

 先日、雑誌の取材を受けたことを書いたが、取材を受けると、何をきっかけに写真家を志すようになったのか?を大抵聞かれるし、僕の場合、それを説明しようとすると、小学生の頃にまで遡ることになる。
 僕は、小学生の頃からすでに、何か生き物に携わる仕事がしたいと切望していた。

 ならば、将来のことをよく考えているしっかり者だったか?と言えば、全く逆。
 授業中は、大人しく座っていることがなかなか出来なかったし、周囲の者にちょっかいを出したりするクラスの問題児だった。
 今なら、他動性があるなどと一種の病気として理解されている行動の大半が、子供の頃の僕にはよく当てはまっているように思う。道徳の授業などは、ほとんど僕のために存在しているようだった。みんなで寄って集って、
「武田君がこんなひどいことをするので、やめて欲しいと思いま〜す。」
 と、言いつけられるのが常だった。
 でも、とにかく、生き物と接しつつ生きていきたい!僕の頭の中は、生き物のことと、あとは好きな人のことだけでいっぱいだったように思う。

 父は、そんな僕がどうしても理解できなかったようで、数え切れないくらい叩かれたし、それは強烈な体罰や拘束や束縛だった。
 最近時々、子供が、自分に厳しく接する親や祖父母を殺すような事件が起きるが、僕は、その子供の気持ちがそれなりに分かるような気がする。
 ただ僕は父を殺したりはしなかった。当時はフリーターなどという立場はなかったし、父が死んだから生活が出来なくなると考えたし、生活ができなくなったら生き物と接するどころではなくなってしまう。
 今はもちろん、父に僕が理解できないのも、無理もないことだと思う。
 
 なぜ写真家になったのか?という質問とあと1つ、大抵聞かれるのが、プロを目指すにあたって、なぜ、昆虫写真家の海野和男先生に教えを乞うたのか?ということ。当時僕は野鳥のカメラマンを目指していたので、昆虫の海野先生とはジャンルが違うし、作風だって全く異なる。
 それに対しては、常に自分なりに答えを持っているつもりだったが、最近になって、僕の生い立ちや性格を理解できる相手でなければならなかったのかも、と感じることがある。
 海野先生に初めて会いに行った日、先生は僕の生い立ちや性格を、ごく短時間で見抜いてしまったのだが、そうして僕を取り扱える人間である必要があったのかもしれないなぁ〜と。癖が強すぎる者は、ただのエリートや並みの人間には、取り扱うのは難しいのである。
 当時の僕は、海野先生のことを、反骨精神の写真家と理解していたいのだが、そこに何かを求めたのかもしれないなぁと。
 なぜ、海野先生に僕が一瞬で見抜かれたのかは、まだ聞いたことがないが、もしかしたら、先生にも同じような生い立ちや経験があったのかもしれない。
 それはともあれ、
「写真やって良かっただろう!写真をやらなかったら、どうなっていたか・・・」
 と、先生から何度か言われたことがあるが、全くその通り。
 僕のようなタイプの人間には、何か打ち込むべき対象が必要なのだと思う。
 ただ僕は、「個性!個性!」と、社会が強く子供に求めるのも、「好きなことを見つけましょう!」と大人がけしかけるのもあまり好きではない。
 それは、みんなに当てはまることではなくて、そんな生き方しか出来にくい人にだけ、当てはまることだと思うのである。

 同じようなタイプの人のために、恥をしのんで書いてみようと思った。
  
 

2007.9.6(木) 橋 

 うちの事務所の近所には、町の中だというのにやたらに魚が多い水路があることは、以前にも何度か紹介したことがあるが、近所でもあるし、昨年の夏から暇を見つけては出かけ、そこに住むいろいろな生き物たちにカメラを向けてきた。
 最近では、8月26日にフナやブラックバスなどを紹介した。

 その水路での撮影の方法は至って簡単。水路沿いの道路を歩きながら、魚の群れを見つけては望遠レンズで写し撮る。水が汚い場所なので、どう考えても水中撮影は不可能だし、他に方法が思い当たらない。
 ところが一方で、その方法だと写真があまりに説明的で、かつ単調になり過ぎる。だから、本として仕上げるところまでを考えると、ちょっと雰囲気の違うイメージ写真が欲しいなぁと思う。
 そこである時から、水路に橋をかけ、水路上を飛ぶカワセミのようなアングルで写真を撮ることを考えるようになったのだが、今日は、どうやって橋をかけるのか、それを検討するために建築関係の材料を取り扱う店でいろいろな商品を見ながら考えた。
 結局、4メートルの足場を購入した。それなりの出費にもなった。
 だが、足場は他にも流用できる。例えば、次の冬は、水溜りでカスミサンショウウオが産卵するシーンの水中撮影を予定しているが、泥が深く溜まった水溜りの中に人が立ち入ると、濁りで数日間は写真が撮れなくなる。
 いったいどうしたものか?と、今の段階から頭を悩ませていたが、今回購入した足場があれば、水溜りの上に橋をかけられる。橋の上から、カメラだけを水につけて撮影ができるはずだ。
 
 買い物や工作をする日には、それに組み合わせてスタジオで写真を撮るのがいい。
 今日は、先日洞窟を撮影した際に採集しておいたカタツムリにカメラを向けてみた。このカタツムリは、九州では時々見かける非常に小さな種類で、あまり自信はないが、多分、ヒメカサキビだと思う。
 
 直径は2〜3ミリ程度だが、子供ではない。上の画像のカタツムリの殻は、グルグルと何度か巻いているが、これは大人の証拠。子供ではこの巻き数が少ない。

 

2007.9.4〜5(火〜水) 取材 

 今日のタイトルは取材である。取材といっても、いつもの撮影取材ではなく、僕が取材を受けた。
 実は僕は取材があまり得意ではない。
 正確に書くと、話をするのは好きなので一旦話し出すと、「泊まって行けば!」というような気持ちにさえなるのだが、写真に写るのがどうしてもダメ。
 他に、散髪や病院が大嫌いだから、つまり、まな板の鯉的な状況になることが徹底して不得手なのである。散髪は、高校時代に最後に行って以来、一度も行ったことがない。
 フリーの写真家になりたいと僕が思ったのには、そうしたこともそれなりに大きく影響しているだろうと思う。会社に勤めれば、社員証を作るから写真に写れだとか、定期的な健康診断だとか、髪をさっぱりしろなどと求められる可能性が高くなる。
 自然写真の世界で時に弱気になった時、もしもここで挫けてどこかに勤め社員になると、その手のことが待ってるぞ!と頭によぎる。すると、おのずと気合が入るし、頑張れるのである。
 
 さて、雑誌の編集者と一緒にカメラマンとしてお越しになったのは、キノコの写真家・柳沢牧嘉(まきよし)さん。数多くの雑誌の取材をこなしているだけあって、さすがに上手いとうか、手馴れている。
 取材が大の苦手な僕が、ほとんど苦痛を感じることなく、すんなりと写真に写ることができた。
 そこで、何が違うんだ?と考えてみたら、しっかりと自分の形を持っておられること。
「あそこに立ってもらえますか」
「そうそう、体をあちらに向けて」
「顔だけは、こちらを向いて」
 と、決めてくださる点。僕の側が、
「どうしたらいの?これでいいの?」
 と考える余地がないから、安心できる。
 もっとも、それはただ指示を出せばいいのではなく、ここでこういう風に立ってもらえばいい感じに写るという確かな知識や技術と、それを裏打ちする経験が必要であることは言うまでもない。

(撮影機材の話)
 さて、僕が水中カメラを覗くシーンを撮影してもらったのだが、その水中カメラで、僕を取材しているカメラマンを写してみた。
 カメラの感度はISO1600。なぜ1600になっていたか?と言うと、最近、メトロノームを使って、瞬間を捉える練習をしているから。ちょっと時間が空いたときに事務所の部屋の中で、カチ、カチと動いているメトロノームにカメラを向け、シャッターを押して、針をど真ん中でとめる練習中で、そのままの設定で水中ケースにカメラを収めてしまった。
 ところが、それがそれなりにキレイに写っていることにはビックリ。
 もちろん低感度で撮影した方がキレイに決まっているのだから、一般的な自然写真にはISO1600を使いたくはないが、特殊なシーンに限ると、十分に実用になると感じた。
 とは言え、僕がデジタルカメラに求めるのは、基本的には低感度で撮影した際の絵の自然さである。
 高感度に関してはキヤノンのカメラが圧倒的に優れているが、低感度に関してはニコンのカメラの画質が僕の好みに合うし、ニコンから発売されるフルサイズセンサーのカメラは是非使ってみたいと思う。

 

2007.9.3(月) 撮り直し 

 昨日の反省を踏まえ、まだ9月だというのに厚手の防寒具をザックに詰め込み、今朝は昨日と同じ場所へ向かった。昨日の撮影のやり直しである。
 今回はよりマシな写真が撮れたが、その写真は9月分の今月の水辺の中で紹介しようと思う。
 もちろん、その写真だって完全に満足できるものではないが、どこかで自分にOKを出さなければ先へ進まなくなってしまうし、一旦先へと進み、まず先を見てからもう一度元の場所へと戻った方が上達が早いことだってあり得る。
 写真を撮ることにせよ、見せることにせよ、やたらに難しく考えて立ち止まる人はなかなか上達しないし、逆に、簡単に考えすぎる人もやっぱり上達が遅いように思う。それは、どちらにしても自分の殻に閉じこもっているのだと思う。

 そこのところは、写真撮影に限らず、何事でも同じではないだろうか?
 写真の世界にも天才は存在するだろうと思う。だが、天才は滅多にいないのだし、大半の人は、その才能に関して言うとどんぐりの背比べだと断言してもいいのではないだろうか?
 プロの写真家と言えども、特別な才能を持った人など1%にも満たないような気がするし、大半の人は並だと僕は感じる。もちろん僕自身もそう。僕が過去に撮影した写真の中に、才能に恵まれてなければ撮れないものなんて一枚もない。
 それでもある人は写真機を持てばメキメキ上達し、またある人はなかなか上達しないのは、写真のセンスウンヌンも前に、力の入れ方を知っているかどうかの差であるような気がする。

 さて、一昨日、生まれたばかりのトンボのヤゴを撮影した。
 その水槽の中を、今日も拡大用のレンズで探してみたら、前回とほぼ同じ場所でヤゴが見つかった。
 ヤゴの後ろの糸状の苔は、今日の写真を見ると髪の毛くらいの太さがあるように感じられるかもしれないが、恐らくこの苔を10本束ねても、髪の毛一本よりも細いと思う。微細な世界もなかなか面白い。

 

2007.9.2(日) 洞窟 

 昨年から取り組んでいる地下の川、つまり洞窟の撮影の中で、水が洞窟から流れ出す様子は、是非撮影しておきたいと思ったシーンの1つだ。だが大抵の場合、水の出口は小さいし、それを洞窟の中から撮影できるような場所は多くない。
 それが可能なのは、地形の関係上数多く存在する北九州の洞窟群の中でも、今日の画像の場所一箇所だけではないか?と思う。
 だからこの場所での撮影には、使用する機材も含めて、満を持して臨みたいと前々から考えていた。
 
 ところが、世の中やっぱり甘くない。
 まず、水中を撮影するための機材はかさばるし、重たい。それに加えて、洞窟の入り口まではある程度歩かなければならない。だから、今日はそれなりに荷物を減らして出発したのだが、その結果防寒具は置くことになった。この暑いのに、ただでさえかさばる荷物に、さらにかさばる防寒具を加えたくなかったのである。
 だが、洞窟の温度は15℃。しかも洞窟の中から外に向かって強く冷気が吹き出してくる。
 体は寒さでカチカチになり、最後はとうとう耐えられなくなった。
 
 撮影も思ったよりも難しかった。
 まず、明暗が激しいこと。
 それから、水中と陸上とを同時に写そうとしているのだから、僕が撮りたい写真が元々複雑な絵であり、幾つかの相反する条件の折り合いをつけなければならないこと。
 だから、帰宅後にパソコンで画像を確認してみると、残念ながらどれもイマイチ。
 今晩、もう一度現場を思い出しながらいろいろと検討して、明日、再度チャレンジしてみたい。

 

2007.9.1(土) シオカラトンボ 

 昨日のシオカラトンボの卵は今日いっせいに孵化した。孵化したばかりの幼虫は、孵化を終えるとすぐに一度脱皮をして、最初は細長い形だったものがヤゴらしい形になる。
 その様子は2006年8月16日分のバックナンバーにある。

 最初の脱皮を終えたシオカラトンボのヤゴは、今度は体に泥やその他をくっ付ける。
 セミの中ではニイニイゼミの幼虫が体に泥をくっつけているが、ヤゴの中にも体にわざと泥をくっつける種類が存在するようだ。

 そして、そのヤゴが土の上に降りると、もうその姿はほとんど分からなくなる。
 今日の写真は高倍率に拡大して撮影したものだから、ヤゴが大きく感じられるかもしれないが、実際のヤゴのサイズは肉眼でかろうじて何かものの存在がわかる程度のサイズだ。
 そんな小さなものを、水槽の中と言えども、土の上で良く見つけたものだと自分でも驚いた。

 ところで、上の画像には並んで3匹のヤゴが写っている。一番右がもっとも良く見え、隣もそれなりに分かる。そしてさらに左側のヤゴは、足だけがかろうじて分かる程度に写っている。
 今日の撮影に使用した水槽は昨日紹介した自作のものだが、極小のヤゴにとっては十分な広さがあるにもかかわらず、こうして一箇所にまとまって3匹もみられるということは、生まれて間もないヤゴは、ある程度かたまってすごす性質を持つのかもしれない。

 今回は、もしも可能なら、このヤゴの成長の続きを撮影したい。そして、最終的にシオカラトンボのライフサイクルをすべて写真に収めたい。
 最近は、何か一種類の生き物のライフサイクルを追いかけるような撮影があまり流行らなくなってきているように感じられるが、生き物の観察の基本はやはりライフサイクルをおさえることだと僕は思う。
 そのためには、たくさんのヤゴを飼わなければ、撮影は不可能だろう。なんといっても体の大きさは1ミリ以下。しかも水槽内で撮影するといっても、泥の上で、泥をまとった生き物を探さなければならないのである。

 そこで今日は、シオカラトンボの卵を新たに採卵するために出かけた。

 シオカラトンボの他にはショウジョウトンボが目立つ。
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2007年9月分


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