撮影日記 2007年7月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2007.7.30〜31(月〜火) 約束 

 自然は人の計画通りにはなってくれないから、生き物の写真撮影に没頭するためには、他人との約束を避け、いつでも自由に動けるようにしておくに越したことはない。
 だが現実には、そんなことは不可能だし、僕にだってちょくちょく約束事がある。
 そして今年は、なぜかその約束の日が重要な撮影と重なる。生き物の状態や天候などを見極めて、写真を撮るならこの日!と思うまさにその日に、偶然にもあらかじめ約束が入っていてカメラを持つことが出来ないケースが続いている。
 昨日、30日はちょっと用事があって一日撮影ができなかったのだが、その結果、やはり非常に重要な撮影ができなかった。

 僕が撮影する写真には、仕事として撮影するものと趣味として撮影するものとがあるが、今回のようにどうあがいたって丸一日撮影ができない日があらかじめ分かっている場合は、2〜3週間くらい前からなるべく仕事を前倒しにして、その撮影ができない一日に仕事の撮影が重ならないように、可能な限り準備する。
 そのためには、これは時に非常にせつないことだが、その準備の期間は、趣味の撮影はどんなに行きたい場所があってもすべて我慢して仕事にあてるはめになる。
 だがそれだけ備えても、仕事と約束が重なる時は重なるし、そこが自然を相手にする仕事の、時につらいところだと思う。

 ところが一方で、どんなに今日は仕事の日!と出かけても、条件が整わなければ撮影はできないし、そんな日は急遽自由時間になる。
 そんな自由時間も決して少なくないのだから、傍からみれば、「あいつ暇そうでいいなぁ〜」ということになるのもよく分かる。

 さて、昨日撮影したかったのは、アマガエルの上陸して間もない、まだ尾っぽが小さく残っている子供だ。
 今の時期、アマガエルのオタマジャクシはほぼすべて上陸済みで、これから上陸するような段階のオタマジャクシが残っている田んぼはほとんどない。
 アマガエルは、最初に足が出て、次に手が出ると、その翌日に上陸し、それからグングン尾が短くなり、一日以内にカエルの形になる。だから、そのたった一日を空けてさえおけがいいのだが・・・・。
 本当ならもっと早く、アマガエルのオタマジャクシが大量に上陸する時期に撮影しておけば、実に容易くそんなシーンが撮影できたはずだが、他の仕事との兼ね合いでそれができず、今頃になって慌てる羽目に。
 今日はたった一匹だけ、そんな尾っぽが残っているカエルを見つけて、なんとか撮影できた。

【お知らせ】
僕が所属する日本自然科学写真協会の写真展 SSP展の福岡展が今日からはじまりました。詳しくは
SSPのホームページのイベント情報をご覧ください。

 

2007.7.29(日) がま口 

 田んぼのあぜ道を歩くと、上陸して間もない小さなカエルやまさに上陸中のオタマジャクシが僕の姿に驚いて辺りを泳ぎ回り、付近の稲や植物に取り付いてのぼり始める。
 たまたま上陸して間もないカエルが多い日なら、ちょうど止まりやすい位置にある一本の植物に10匹くらいの小さなカエルが登ることもある。
 今日は、まだ尻尾が長い子蛙の姿がとてもユーモラスだったので、ちょっとカメラを向けてみた。
 少しずつ近づきながら数枚撮影し、もうちょっと尻尾が見えればなぁ〜と、カエルの尾がよく見える側にカメラを移動し、カメラを支える左手を田んぼの水の中に入れたら、静かに手を入れたつもりだったのに小さな波ができ、葉っぱの上のカエルが波に乗って逃げてしまった。

 さて、カエルといえば、オタマジャクシに手が生え、足が出ることはよく知られているのだが、実は口も大きく変化する。
 オタマジャクシの口はおちょぼ口。
 でも、カエルの口はがま口である。
 口が目に見えて変化するのは、足が生え、手がでてしばらくしてから。口ががま口になると、やがて上陸がはじまる。

 今月の水辺を更新しました。

 

2007.7.27〜28(金〜土) モリアオガエル 

 そろそろモリアオガエルのオタマジャクシが上陸をするのではないか?と、ある山上の湿地へと出かけてみた。
 上の写真に写った水中の植物の多くは、元々陸上のもの。そこに梅雨の雨がたまり、オタマジャクシはその中で暮らし、梅雨明け後にそこがまた元の陸に戻るまえに上陸して水辺を去る。
 この写真はコンパクトタイプのデジタルカメラで撮影したものだが、今回の撮影では、撮影したすべて写真の画質が僕の許容範囲を下回っていて、使いたいと思える写真が一枚も撮れなかった。
コンパクトタイプのカメラを使うと一眼レフでは撮れないものが撮影できるが、欠点もあるから、欠点をよく把握して使う必要がありそうだ。

 僕の予測ははずれ、今回は上陸中のものを見つけることができなかったから、あと一度、山に登らなければならない。
 その日はいつが適当なのかを判断するために、数匹のオタマジャクシを採集して持ち帰り、その成長の具合を見て、山上の湿地のオタマジャクシたちの様子を予測することにした。
 モリアオガエルのオタマジャクシは黒くて、尾っぽの幅が広い。
 その湿地への道のりは遠く険しいことは以前にも何度も書いたことがある。さらに、今は暑さが堪える夏場でもあるし、狙ったシーンを確実に撮影したいのである。

 今回の取材は、その道のりの険しさに加えて、蚊の発生のピークに重なってしまったようで、これは耐え難いものだった。体にまとわりつくかの数は半端ではない。
 僕はその湿地へのぼる際には、ネットでできた防虫服を着用し、防虫服の効果はなかなかのものだから、人が普通の姿勢を取っている限り、滅多に蚊に刺されることはない。
 ところが無理な姿勢で写真を撮ろうとすると、例えば、カメラを地面に置き、体を丸めて上からカメラを覗き込もうとすると、防虫服のひじや背中の部分が突っ張り、皮膚と密着するため蚊に吸血されることがある。
 今回、帰宅後に刺された後を数えてみると、片腕のひじの部分だけで30箇所近い。
 陸上で撮影する場合は、虫除けをぬればかなりの効果があるが、水辺の場合は、体を水につけて撮影する時間が長いから、薬剤が役に立たないし、我慢するしかないのである。

 通常、昼間に血を吸いにくる蚊は、白と黒の縞々模様のヤブカであることが多い。そして夜間に家の中に入ってきて血を吸のが、無地で茶色っぽいイエカである。
 ところが、今回僕にまとわりついてきた蚊の多くは、昼間なのに茶色っぽい色をしていたからよく見てみると、どうもハマダラカの仲間のようだ。
 多分、シナハマダラカだと思うが、非常に吸血欲が強くてしつこい。しかも刺された時に若干の痛みがあり、ヤブカよりも敏捷性に欠けようで、吸血中のものは、「貴様〜」と、実に簡単に叩き潰せた。

 

2007.7.26(木) 小さな尾 

 上陸して間もないアマガエルの写真を撮影するために、近所の田んぼに出かけてみた。今日の画像のアマガエルは、昨日までは水の中にいたもの。
 上陸直後は、まだ小さな尾っぽが残っているのだという写真を撮るつもりが、帰宅して画像を確認してみると、その小さな尾っぽが向こう側を向いているのであまりよく見えない。
 しまったなぁ〜。もっとたくさん写真を撮っておくべきだった。
 撮り直しをしようにも、アマガエルのオタマジャクシは大半が上陸済みで、もうほとんど見られないから、残されたチャンスは少ない。
 僕は、写真を始めた当初から、写真の雰囲気の方に気を取られがちで、肝心な見せたい部分の説明が気付けば疎かになる傾向がある。

 

2007.7.25(水) 人の目 

 一時期、虫の目レンズと呼ばれる撮影用のレンズを自作するのが、昆虫の写真家の間で流行ったことがある。虫の目レンズとは、その名の通り、まるで昆虫の目線で撮影したかのような像が得られる特殊なレンズである。
 虫の目レンズでは、通常の撮影用のレンズよりもずっと小さなレンズを使うが、その結果、撮影者自身が小さくなって撮影したかのような印象を見る人に与える写真が撮れる。

「虫の目レンズという名前がおかしい!」
 と主張する方もおられる。昆虫は複眼であり、虫の目レンズともまた違ったように見えているはずだという主張だ。
 だが僕は、虫の目レンズでいいと思う。
 昆虫の複眼から入力された情報が昆虫の脳の中でどのように処理され、最終的に昆虫にどう見えているかは人間には決して体験できないのだし、虫の目レンズの見え方と本物の昆虫の視覚が同じだとも言えないが、違うとも断言できない。
 それなら、虫のように自分が小さくなって物を見る=虫の目でいいように思う。
 
 実は、僕も、ダンゴムシの仕事の中で使うためにそれを作ろうと考えたことがあり、流行よりも少し前の2004年に、どうやったら虫の目レンズが作れるのかを自分なりに考え、昆虫写真家の海野和男先生に話してみたら、
「うん、それでできるぞ。僕の場合はビデオで使ってるけど・・・」
 と先生が答え合わせをして、実際に使っている道具を教えてくださった。
 ところが、いざ取り組もうとすると、どうしてもそれを作る気になれない。そこで僕はレンズを作るのをやめ、代わりに、なぜ自分がそれを作る気になれないか?いったい何が引っかかっているのかを考えることにした。
 結論は、僕が表現したいのは虫の視点ではなく、あくまでも人の視点だということ。
 例えば、僕は水中写真を撮るが、魚になった気分で撮影するのではなく、そこに自分の目だけワープさせる。
 今日は、春先にサンショウウオが産卵にやってくる、北九州の水溜りに出かけてみた。例によってカメラを水中に沈め、水中の景色を撮影してみた。

 この水溜りで見られる生き物は、なるべく多く撮影したいのと思うのだが、今日はカラスアゲハが吸水にやってきた。

 それから、オニヤンマの産卵。
 他にもヤブヤンマが近づいてきたし、僕が撮影したかったのはオニヤンマよりもヤブヤンマの方だったのだが、水中の景色の撮影中で虫の撮影用の道具が準備できておらず、逃げられてしまった。

 

2007.7.24(火) 高速道路 

 自然写真家という仕事のいいところは、何か生き物を見つけて写真を撮れば、どこででもお金が稼げることだ。
 生き物は、何も手付かずの自然の中だけに生息するわけではなく、町には町の生き物が見られるし、いろいろと問題を引き起こす嫌われ者の帰化生物だって、嫌われているからこそ、「こんなとんでもない生き物が帰化しているぞ!」という記事が成り立ち、したがって写真の需要がある。
 時間を有効に生かすも、殺すも、自分次第である。

 僕は、以前はなるべく取材にお金がかからないようにと、滅多に高速道路を使わなかったのだが、最近は、それよりも高速道路を使って車を運転する時間を短くし、その分、たくさんの写真を撮ればいいと考えるようになった。
 写真が一枚売れれば、よほどに渋い仕事でないかぎり、ギャラが一万円を割るようなことはないし、一万円あれば、相当な距離、高速道路を走ることができる。
 早く目的地について、たった一枚写真を売ればいい。また、そう思って高速道路を使った時には、「何でもいいから撮影して稼がないかん!」という気持ちになるし、その意識が、いつもなら見過ごしてしまう被写体に気付かせてくれることもしばしばある。
 
 昨日は、夕方日が暮れるまで大分県の別府で写真を撮った。それから高速道路を走ると、ちょっと遅くはなったが、福岡の自宅で夕食を食べることができた。
 ETCを導入し夕方の通勤割引という制度を使うと、高速道路の料金が半額になるから、その通勤割引を利用した。
 ただし、通勤割引は走行距離が100キロまでと決まっていて、それを少しでも越えると本来の額を支払わなければならないから、適当なところで高速を降りなければならない。
 僕は、クレジットカードを2枚持っていてそれぞれでETCカードを作っているから、100キロ弱走ったところで高速をいったん降り、別のカードを使ってまた高速道路に乗れば、およそ200キロまで、高速を半額で利用できる。
 
 さて、別府から撮影用に持ち帰った生き物の中にヒルが紛れていたので、一応写真を撮っておくことにした。
 田んぼでよく見かけるヒルだが、これは幾らなんでも売れないだろうなぁ〜

 

2007.7.23(月) 湯布院 

 何となく好きな場所というのがある。例えば、僕の場合は山陰がそう。特に気に入った写真が撮れた記憶もないのだが、何だかつい思い浮かべてしまう。
 それから、冬の北海道の北側の海辺。学生の頃、社会に全く興味が持てなかった僕はほとんど授業を聞かなかったし、今でも場所の名前が怪しいのだが、オホーツク海沿いと言えばいいのだろうか?
 勉強は、やっぱり子供の頃にしっかりやっておいた方がいいなぁと思う。子供の頃に学校で勉強して覚えた場所の名前は、忘れっぽい僕でさえなかなか忘れないのに、大人になって覚えたものは、右から左に忘れてしまう。青森県と秋田県と岩手県などは、自分で何度か車を運転して撮影に行っておきながら、すぐに分からなくなる。
 ひどい場合は、撮影に行ったことさえ忘れてしまった県があり、写真に添付されたデータを見て、ああ、行ったんだ・・・と思い出すようなことがある。
 ともあれ、僕はだいたい人気がなく静かな場所が好みにあう。
 九州では、大分県の別府から山側にのぼった湯布院のあたりの山間の田んぼが好きだ。
 特に珍しい生き物が見つかるわけではないが、カエルの宝庫だ。

 もう数年前のことになるが、ある時、田んぼの側に植えられたアジサイに近づいてみたら、何十というアマガエルの上陸したての子供が、1本の木に乗っかっているのを見つけた。
 自然写真の世界では、アマガエルと言えばアジサイ。アサガオの花の上に乗っかっているアマガエルの写真は過去に一度も売れたことがないが、アジサイの上のアマガエルの写真は、数え切れないくらい使われた。
 でも、それは単に梅雨の季節のイメージにあう生き物を人が勝手に組み合わせたに過ぎないと思い込んでいたのに、湯布院周辺の田んぼは、その組み合わせがまんざら嘘じゃないことを教えられた場所だ。
 上陸したてのアマガエルの子供は、背丈が一メートル以下くらいの高さの葉っぱの上で多く見かけるが、田んぼの脇に植えられるアジサイは、ちょうどそんな植物になるのだろう。

 セミもトンボも、町の中では比較的簡単に近づくことができるのに、山間部では大変に警戒心が強くて、なかなか近づけない。今日は、カエルの子供を探して撮影する合間に、近くにいるシオカラトンボやオオシオカラトンボを狙ってみたが、至近距離まで近づけたのはたったの2度。
 だから、単純に写真が撮りたいのなら、町に近い場所で撮影した方が手っ取り早いが、僕は、それでも静かで空気のいい場所がいい。
 あまりに条件がいいので本当はあと一日撮影したいが、他にも仕事があり、今日の夜の間に引き返さなければならない。 

 

2007.7.21〜22(土〜日) ハチの巣 

 僕は科学出身でありながら、どこか研究者の言うことが信じられない部分がある。研究者から、「この生き物のあの行動には、こんな意味がある」と言われても、僕は、「それってホントか?」と、常に心のどこかで感じる。
 科学者はしばしば現象をすっきりと理論で説明したがるが、自然現象の中には、理論など最初から存在しない、単なる偶然も少なからずあるような気がするのである。
 ただ、そんな僕でも、巷で言われていることを「なるほど!」と感じる機会もある。
 今日は、自宅の軒下に、アシナガバチの一種の巣があることに気がついた。

「アシナガバチの巣の撮影は難しい。」
 と、昆虫写真家の森上信夫さんや新開孝さんから聞いたことがあるが、多くの巣が外敵に襲われてしまうため、巣が形成される途中の写真までは撮影できても、一連の写真を完結させるのが難しいのだそうだ。
 並の人間が言うのなら、「難しい」と言われてもアシナガバチはたくさんいるのだし、「そんなことあるか!」と思いたくなる。だが、昆虫のエキスパートであるお二人が揃ってそう言うのだから、紛れもない事実なのだろうと思う。
 ところが、家の庭の周囲に作られる巣は、非常に高い確率で大きくなっていく。
 これまた、僕が子供の頃からずっと見続けてきた事実であり、
「あっ、あそこに巣があるなぁ。」
 と巣を見つけると、その巣が放棄されたというような経験はほとんどない。
 家の自宅に作られる巣は、なぜ非常に高い確率で大きくなるのだろうか?
 それは多分、僕の自宅が町の中にあり、外敵が少ないからだと思う。
 生き物の中には、好んで町の中に進出したものがいると言われていて、その理由の1つとして、町の中には外敵が少ないことが挙げられているが、家のアシナガバチを見ていると、なるほどなぁと思う。
(CanonEOS5D 300mm)

 

2007.7.20(金) ブラックバス 

 水中写真を撮りたいのなら、水の透明度が高い方が、クリアーな写真が撮れる。ただ単に水辺の生き物を採集したり観察するだけならともかく、写真を撮る場合は、その日の水質や水量が写真のクオリティーに大きな影響を与える。
 一般的に言うと、大雨が降り、水量が増え、その水の濁りがおさまったころが、もっとも淡水の水中撮影に適する。
 つまり、梅雨明け後の数日である。
 九州北部は、今日〜明日の雨を最後に、あと数日で梅雨が明けると言われているから、これからしばらく忙しくなりそうだ。

 オタマジャクシを採集しようと、田んぼへ出かけたらブラックバスを見つけた。恐らく、大雨の際にため池からあふれ出したブラックバスが水路を通り、田んぼに入り込んだのだと思う。
 在来の生き物を食べてしまうことで問題視されているブラックバスだが、そうして分布を広げていくのだろうなぁ・・・。
 ブラックバスと言うと、止水の生き物というイメージがあるが、実は川にも結構多い。
 そして、性質が悪いのは、その川に生息するブラックバスで、それらの魚は細い水路をたどり、どんどん分布を広げる。
 止水の場合、そこが小さければいったん池を干し、すべてのブラックバスを駆除することが可能だが、川の場合はほとんど打つ手がないだろう。

 今朝はアマガエルのオタマジャクシを捕まえたかったのだが、今日出かけた場所では時期が遅く、一匹も見当たらない。
 代わりに、ヌマガエルがちょうど上陸をするタイミングだったようで、大変に多い。
 ヌマガエルは、茶色いカエルで見た目が気持ち悪いし、出版の世界では人気があるとは言えないのだが、上陸直後のものは何だかカワイイ。
 (RICHO・Capilo CanonEOS5D 90mm)

 

2007.7.19(木) 上達 

 僕は、新しい本を作るときに、過去に何かの機会に撮影した古い写真を使うのではなく、すべての写真をそれに向けて新しく撮影したい方だ。
 古い写真を探すのが煩わしいのである。
 特にフィルムで撮影した写真の場合、なかなか目的の写真が出てこないし、
「あの写真はどこにいったんだ?無くしたのか?」
 というヒヤヒヤはもうウンザリ。
 デジタルカメラで撮影した写真でも、やっぱり年々写真の技術が上達するので、過去に撮影した自分の写真になかなか納得できないことが多い。だから、
「もっとマシな写真はないのか?」
 と、写真を選ぶのに大変な暇がかかる。
 今日は、2005年の6月にデジタルカメラで撮影した写真に目を通したが、お粗末な写真が多くて参った。
 
 僕がテーマにしている水辺の場合、しばしば陸上の生物の撮影では要求されないような工夫が必要になる。
 例えば、水の中を当たり前に撮影するためにはカメラに工夫を施さなければならないのだが、今年に入って、やっと水辺の写真家として仕事をするための最低限の技術レベルに達したのではないか?という自信のような何かが感じられるようになった。
 とは言え、それは気のせいかもしれないし、今撮影している写真は、2〜3年後の僕にどう見えるのだろう?
  さて、今日は、本を作るための写真を選ぶ合間に、上陸したばかりのアマガエルの子供にカメラを向けた。
 (CanonEOS5D 90mm)

 

2007.7.18(水) 品種改良 
 
 僕は、人が手を加えた生き物にはあまり興味がない。
 例えば、春になると「桜が綺麗だ!」とみな大騒ぎするが、「実につまらん」と思う。所詮、人が植えたものでしょう?と思う。
 だが先日ペットショップでグッピーを眺めてみたら、「きれいなやつがいるなぁ〜」と感じた。その品種の名前は忘れてしまったのだが、グッピーマニアの気持ちが、多少分かるような気がした。
  
 よく考えてみると、人は、最新の科学技術を駆使しても微生物一匹作れないのだし、人の手が加わったグッピーと言えども、決して人が一から作ったわけではなく、元々存在したグッピーの原種の中から取捨選択をしたに過ぎない。
 だから、桜にしてもグッピーにしても、あんなものは人工的に作られた存在であり自然ではないというような感じ方は、実は人のおごりなのかもしれないなぁなどとふと考えた。
 さて、昨年から飼い続けているアメリカザリガニの色変わりを撮影しておくことにした。

 これは、オレンジザリガニと呼ばれているタイプ。
 家にはあと一匹オレンジザリガニがいるが、そちらは脱皮をしたらさらに赤くなり、スーパーレッドと呼ばれている色になった。 

 こちらはブルーザリガニ。
 (CanonEOS5D 90mm)

 

2007.7.17(火) 危険地帯 

 いつかも書いたことがある。昔、ムツゴロウさんこと作家の畑正憲さんがテレビの番組の中で、ヒグマと人との事故に関して、
「いいじゃないですか!ヒグマの事故で命を落とすのは一年に一人か二人程度でしょう?それくらい熊にも食べさせてあげなさいよ。」
 と語るのを聞いたことがあるが、すごい人だなぁと思う。
 僕は、その視点なくして、自然を語ることは絶対にできないように思う。

 例えば、子供の水の事故は不幸な出来事ではあるが、そのたびに行政が真面目に反省をし、すべての水辺の事故を無くすようなシステムを作り出そうとすれば、それはいったいどんな結果になるだろう?
 小さな流れには子供が落ちないようにすべて蓋をして、川には近づけないようにして、池の周りはすべて完全にフェンスで覆い・・・・
 ちょっと考えただけど、空恐ろしい。
 自然の中で事故が起きると必ず行政の責任が問われるが、自然に関しては、「仕方がないじゃない」、「いいじゃないですか!一人か二人くらい」という受け止め方も必要ではないだろうか?
 それよりも、自然は時には恐ろしい。自然と人とは究極のところでは対立することがあると、子供にちゃんと教育する機会を設けるべきではないだろうか?

 さて、森の中に、危険!とロープが張ってあるのを見て、ある事故を思い出した。
 もう数年前のことになるが、ある有名な国有林だったと思う。大きな木の枝が落ちてきて、下にいた人が大怪我をするという事故があった。
 事故にあわれた方は、「管理が悪い」と行政を訴えた。そして、裁判で勝利した。
 でもね・・・と思う。
 折れそうな枝や倒れそうな木を、すべて手堅く前もって片付けてしまうと、そこははもう森ではなく、公園か庭になってしまうような気がする。
 自然は危険なのだし、どんなに大勢の人が歩いても、そこが危険な場所であることを理解し、自分の身は最低限自分で守る心構えは必要ではないか?と感じる。
 僕がよく撮影する場所でも、例えば熊本県の菊池渓谷などでは、サンダルなど、信じられないような足回りで渓谷の水際を歩く人が多数おられる。
 多分、プールか何かと同じような感覚なのだろうと思うが、ムチャクチャに危ない。

 政治家が、税を上げる必要があると思ってもなかなか口にできないように、自然愛好家も、「いいじゃないですか!一人や二人くらい」とは、なかなか言えないものだ。
 下手をすると、命を軽視する偏った自然オタクだと袋叩きに合ってしまうだろう。
 自然写真家も、自然と人とは対立するものではなく調和できるのだという視点に立っている人が多いように思う。
 だが僕は、自然と人とは、人が人である限り、究極のところはやっぱり対立するのだと感じるし、自然は恐ろしいという側面にもカメラを向ける機会があれば向けてみたいと思うし、自然と人が対立する部分を切り捨ててしまいたくない。
(RICHO Capilo)

 

2007.7.16(月) 撮影用の水槽 

 新しい撮影用の水槽が準備できたので、試してみた。
 今日の画像と同じような水中の生き物の標本写真は、以前にも何度も見せたことがあるが、水槽に改良を加えることで、より完璧に近い写真が撮れるようになった。
 ただし、お金もかかった。
 これまで使ってきた撮影用の水槽はせいぜい4000〜5000円といったところだが、今回のものは一桁違って、40000円を越えた。
 だから、発注するのをやめようか?と思ったが、写真の仕上がりを見ると、もう今回の方法以外は考えられなくなった。
 
 昔、ダンゴムシの糞を白い紙の上において高倍率で撮影しようとしたら、紙の繊維までもが拡大され、どうしてもそれが気になって仕方がなかったことがある。
 そこで、そのことを日記に書いたら、ある先輩がある紙を教えてくださった。
 それは、撮影用の特殊な紙ではなく、日常生活の中で使われる紙だが、いったい何パーセント人間が紙の表面にまで興味を持ちつつ暮らしているだろう?
 僕は、
「なるほど、そんな方法があるのか!」
 ではなく、
「写真を撮ろうとすることが、そんなところにまで人の目を向けさせるのか!」
 と唸らされたし、撮影のための知識や技術以上に、自分が何をすべきか、そして答えはどこにあるのかを教えられた。

 同じ白い紙でも、なぜか、その上に物を置けば綺麗に写る紙とそうではない紙とがある。
 また、同じ白い紙でも、材質が違えば光の反射の具合が違ってくる。ある材質は、45度の角度で光をあてても、90度の角度で光をあてても同じような発色をするのに、またある材質は、光の角度のよっては青っぽく色が付くなどの癖があるなど、とにかく、たかが写真を撮影するのにそんな知識が必要なのか・・・と、唸らされることが多い。
 (CanonEOS5D 90mm)

 

2007.7.12〜15(木〜日) 本 

 古い撮影機材のカタログをひっぱり出して何となく眺めてみたり、大きなホームセンターをウロウロしたり、昼間のテレビ番組を見たり、インターネット上のいろいろなサイトを何となく次々と訪れてみるなど、特に目的もなく過ごす一種無駄な時間は、矛盾するようだが、僕にとってたいへんに意味のある時間だ。
 写真家にとって、その人独自のアイディアや閃きはまさに生命線だと言えるが、アイディアは出そうと思って出せるものではないし、かといって逆に、志がなければ、恐らく永遠に出てこないに違いない。
 出そうとするわけでも、放っておくわけでもなく、どこかで何となく考え、その結果、アイディアの方から勝手に出てくるように仕向ける。そんな環境を整えたいときに、僕は、何となくゴロゴロして過ごすことが多い。
 これは口で言うのはやさしいが、怠けているのとほぼ同じことだから、その不安に耐えるだけの精神力、流行の言葉であらわすのなら一種の鈍感力が必要だろうと思う。
 ここ数日は、まさにそうして過ごした。
 すると、何となく見ていたテレビ番組の中で、出版社が訴えられているという報道があった。
 訴えたのは、ある出版社で自費出版をした数人の人たちだ。
「うちでを作ると全国の書店に本が並びますよ。」
 と誘われて百万単位のお金をかけて絵本を自費出版をしても、出版後数ヶ月たっても本が並ばないと涙を流しながら訴える人がいた。

 辛辣ではあるが、僕は、馬鹿じゃないのか?と思う。
 訴訟は、本が書店に並ばないこともあるという現実を隠し通した上で自費出版させ、しかもあまり熱心に営業もしていないという中味で、お金の回収が目的ではなく、純粋な作者の心を踏みにじったというものだ。
 だが、その前に、売れそうもない本を書店が並べてくれるはずもなく、そんなことは説明の必要もない常識ではないのか?それはむしろ、自分が商品価値のあるものを作れるかどうかの問題ではないのか?
 涙を流す暇があるのなら商品価値があるものを作り、お金を払うのではなく、お金をもらって本を作る努力をすればいいじゃないかと、僕は感じる。
 僕の知人の中には、完全なアマチュアでありながら、見事に一流の出版社からお金をもらって写真絵本を作った方もおられる。
「いや、自分にはそんな能力はないし、だから自費出版を・・・」
 と言うのかもしれないが、それなら本が売れないのは自分でよく分かっているのであり、売れない本が、書店に並ぶ道理がないような気がする。
 ただ単に何かを伝えたかったり、たくさんの人に見てもらいたいのなら、インターネットでコンテンツを見せたり、作った本を販売することで十分なはずだ。なのに、いったいお金の問題でもないのに、なぜ、書店に本を並べたいと思うのだろうか?
 それは、本が権威であり、書店に本が並ぶことが一種のステータスであり、凄いことだからである。
 なのに、お金を払っただけで、それができると思うことが、そもそも自己矛盾しないのだろうか?
 
 さて、今日は東京からある出版社の編集者が一人、この秋〜冬にかけて撮影する仕事の打ち合わせでお越しになった。
 まだどんな本になるのかは全く決まってない段階だから、今日のところは、僕が生き物の性質についてたずねられ、それに答える。
 そのやり取りの中で、僕は答える立場であるはずなのに、むしろ逆に、僕の方が気付かされ、教えられることがある。

 

2007.7.11(水) 晴耕雨読 

 僕は事務的な仕事を苦手にしていることは、以前にも何度か書いたことがある。事務作業に費やす時間があまりに長くなると、ウツ気味になり、
「いったい何のために生きているのだろう?」
 などと考えはじめ、それはあまりいい傾向ではないと思うから、日頃から事務作業をまめに片付けるようにして、その手の仕事をあまり貯め込まないように気をつけている。
 日々の買い物の際の領収書は、なるべくその日のうちに処理するし、月に一度、電気代やガス代やクレジットカードで引き落とされる料金にも目を通し、納税の時期に、事務作業のために缶詰にならないでいいように心掛けている。
 だがそんな僕でも、体があまりに疲れている時は、撮影よりも事務作業の方が気楽に感じられることもあり、今日はまさにそんな日だった。領収書のチェックが何だか楽しい。たまにはそんな日もある。
 晴耕雨読とは、よく言ったものだなぁと思う。
 僕の場合、雨の中での撮影も少なくないから必ずしも雨読ではないが、それは人それぞれの事情であり、体を動かす作業とそうではない作業とがなるべく上手く噛み合えば、それに越したことはないと思う。

 僕は極めつけの不精ものだし、元々まめなタイプではない。
 だが、事務作業の際のあのストレスが長く続くと、病院での治療が必要な、本物のうつ病になってしまうのではないか?と、自分で真剣に感じるのである。
 だから、最初からそのような状況を作らないことにして、とにかく予防を心掛ける。
 僕の場合、野外での撮影の際に集中が持続する時間は、だいたい3時間くらいだ。だから午前9時頃から本格的な撮影に入り無心になると、その後、ふと我にかえり、ふ〜っと一息つきたくなるのが12時頃。
 それに対して、事務作業に集中できる時間の長さは15〜30分。どんなに頑張ってもせいぜい1時間程度でしかない。

 

2007.7.10(火) カスミサンショウウオ 


 今年はサンショウウオが住む水辺を取材しているのだが、カタツムリとサンショウウオって、結構似たところがあるなぁと感じたことが何度かある。

 まず両者とも、時に種類による違いが微妙で、その区別が難しいこと。
 産地を伏せられた上で、
「これなんだ?」
 と聞かれたなら、物によっては専門家でも、即答することは難しいだろう。

 それから、同じ種類の中にも色のバリエーションが多く、時には、これって同じ生き物か?と、疑いたくなるようなことがある。今日の画像のカスミサンショウウオにも、かなりの色のバリエーションがみられる。

 そして、平地に住むものと山地に住むものとが、色だけでなく、体つきまで異なるケースがあり、平地型だとか、山地型というような言葉がある。
 カスミサンショウウオの場合は、平地型と山地型とで足の指の数が違うのだそうだ。
 僕はまだ山地型のカスミサンショウウオを見たことがないのだが、ここ最近は無性にそれが見てみたくなりつつある。
 
 そうした生き物の場合、今同じ種類だとされているものが、将来も同じ種類であり続ける保障はない。よく調べてみたら、同じ種類に分類されていた生き物が、別の生物だったなどということだって、十分にあり得る。
 時に、生き物の研究者、特に野外で生き物を見た経験に乏しい人の中には、学名に異常なほど執着する人がいるが、カタツムリやサンショウウオのような生き物の場合、学名が同じだからといって、その性質が同じである保証はない。
 野外で生き物を見た経験が乏しい研究者なんているの?と感じる方もおられるだろうが、実は結構多いのである。
 僕の大学時代の同級生の約30人を思い浮かべてみても、本当の意味で野外をよく歩いていて、自然をみることに関して、自分独自の目を持っていると言えるようなものは、実は一人もいない。
 詳しい者でも、せいぜい、型にはまった調査ができるという程度である。

 野外で生き物を見ることに関しては、生物学の教育を受けたことがあるものよりも、圧倒的に一般のアマチュア生物マニアが凄いが、それは、生物学が好きなのか?生物が好きなのか?の違いである。
(CanonEOS5D 90mm)

 

2007.7.9(月) 結露 

 もう10年以上前のことになるが、カワセミが水中で魚を捕らえる瞬間を撮影したことがある。
 その時は、遠隔地操作と呼ばれる手法を用い、あらかじめ水中にカメラをセットしておき、少し離れた場所に止めた車の中から、カワセミの動きを見ながらリモコンでシャッターを切った。

 写真のしくみ上、もしも自然の光で撮影するなら、動きが早い被写体の動きを写しとめるためには明るい日でなければならない。そこで僕は、まず曇った日に何度も何度も試し撮りを繰り返し、あとは天候さえ整えば万全という体勢を整えた上で、晴れの日が訪れるのを待った。
 そして、ついに本番の日。
 集中して見事に写しとめたはずのカワセミの捕食の瞬間の写真は、現像をしてみるとどれも白っぽく、まるで霧に包まれたかのような写真だった。
 晴れの日の太陽の光でカメラが温まり、一方で川の水温は気温の影響をほとんど受けることなく低温だから、その温度差からレンズに結露が生じていたのだ。それ以前に散々にテストを重ねた曇りの日は、日差しが弱くカメラの温度と水温との温度差が小さく、結露をするようなことは一度もなかったのだから、たった1つの条件の違いで予想外のことがおきる可能性があることを思い知らされた。
「これでいける!」とどんなに手ごたえがあっても、写真が撮れるまでは、「もう大丈夫」などとは思うまいと、その時心に誓った。
 最近は、写真が撮れるまでではなくて、写真が売れるまでかな?と思うことさえある。自分では万全と思っていた写真が、使う側から見ると、多少の問題をはらんでいることが結構ある。
 ともあれ、何事も結果が出るまでは油断大敵。

 水に深く潜ってしまえば、すべて水温で冷されて均一な温度になるから全く問題はないのだが、今僕が力を入れている水面ぎりぎりの世界を撮影しようとすると、結露は、時にやっかいな問題になる。
 昨日は、コンパクトタイプのデジタルカメラで撮影した水中の写真を紹介したが、結露が生じ、まともな写真を3枚しか撮影することができなかった。そこで今日は、結露対策を施した上で、同じ場所にカメラを沈めてみた。
 アングルによる微妙な見え方の違いを楽しみながら、一時間くらいかけて、一枚の写真を撮る。
 水がなんとなく青っぽいが、湧き水は青っぽく写ることが多い。水の濁りは、微細な泥だと思うが、雨の際に流れ込んだ浮遊物だ。

 水中の写真にも、「あっ、これが水中の世界か!」と、陸上とは明らかに異質なものを感じさせる写真と、「まあ、こんなものかな・・・」と、何となく想像がついてしまうような写真とがあるが、その差は、しばしば写真に写る水の質感にある。
 水溜りのような場所でも、湧き水がある場所は、独特の質感の、なんともいえない雰囲気の写真が撮れるが、湧き水は温度が低いから、気温が高い季節には、結露という問題をクリアーしなければならない。
(RICHO Capilo)

 

2007.7.7〜8(土〜日) 湧き水 

 ここ数日の報道によると九州北部全体が激しい雨に見舞われたかのような印象を受けるが、北九州市では相変わらず雨が少ない。
 ただ、ここ3〜4日は、それでも一応梅雨らしいシトシトとした雨が降った。
 北九州の小倉にあるサンショウウオが卵を産みに来る水溜りも満水になった。
 満水というのは、この水溜りは多くの人が散歩をするコースの片隅にあり、多少人の手が加わっていて、片側はコンクリートで固められ、また貯まった水の出口が設けられている。 
 したがって、水はその排水溝の位置よりも高くなることはないのである。

 水の出口はあるが、入り口はない。
 川が流れ込んでいるわけではないし、だから僕はこの水辺を水溜りと書いている。
 だが、この場所の付近には恐らく地下水が流れていて、雨が続くと、岩の隙間から水が染み出してくる。
 何とか、その湧き水の動きを写真に写したいのだが、水が静かに流れ出るため、今日のところはそれが分かるように撮影することはできなかった。
 もしかしたら、もう少し水位が下がると、チョロチョロと言う感じで水の動きが写るのかもしれない。

 排水溝へと流れ出す水の量は結構多くて、恐らく1秒に500CCくらいは出て行くのではないか?と思う。

 先日購入したばかりのリコーのコンパクトデジタルカメラで水中を撮影してみたら、思っていたよりも使えるなぁ〜という印象。上手く使えば、条件によっては、一眼レフで無理をして撮影するよりも高画質に仕上がるだろう。
(CanonEOS5D 17-40 300mm RICHO Capilo)

 

2007.7.5〜6(木〜金) お知らせ 

 以前にもお知らせしましたサンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、次回は明後日7日(土)が僕の順番です。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。
 自分の記事はさておき、新聞全体に読む場所が多く、電車などでちょっとした移動をする際にも、退屈しのぎの週刊誌を買うよりもずっと安くて、読み応えがあるのではないか?と思います。

 

2007.7.4(水) 同じ場所 

 この4月に山口へ遊びに行った際に、
「俺はずっと山口に住んでいるつもりだったけど、本当はほとんどここには住んでなんかなかったんだよ。」
 と、大学時代の恩師がおっしゃった。
「はて、いったい何を伝えようとしておられるのか?」
 と思えば、若い頃に仙台から山口にきて以来、山口大学を定年退職するまでの数十年間、先生は大半の時間を大学で過ごした結果、自宅の周辺については、実はほとんど何も知らなかったのだそうだ。
 庭にどんな虫が来るのか、どんな鳥の声がするのか・・・・、それらは定年後に毎日を自宅で過ごすようになってはじめて知ったのだそうだ。
「とにかく、初めて知ることだらけなんだよ。」
 と先生はおっしゃった。そこに自宅があることと、住んでいることは別のことなのだと先生は話してくださった。
 
 それを聞いて、ふと自分自身のことを考えてみると、僕も、自宅周辺の自然についてはほとんど知らない。どんなにそこに自宅があっても、そこをよく見る時間を取らなければ、確かに住んでいるとは言えないのかもしれない。
 最近は田舎暮らしをする人が増えたようだが、大半は、田舎に自宅を構えることはできても、住むことができないという。田舎での暮らしが経済的に成り立たず、結局都会へお金を稼ぎに行くのだという。
 確かに、僕の知人にも何人か田舎へ引っ越したものがいるが、なかなか田舎に住むことができないらしい。ある者は、また都会へと逆戻りしてしまった。
 また、田舎に引っ越した知人よりも、下手をすると部外者として時たまにそこで撮影をする僕の方が、そこの自然に関しては詳しいようなことも珍しくない。
 結局、どこに住んでいるかよりも、そこをどれだけたくさん歩き、何をみようとするのか?という中味の方が大切なのだと思う。
 それこそが、何かをやってみることなのだろう。

 さて一昨日と同じような感じで雨が降り出したので、今日も、春先にサンショウウオが卵を産みに来る水辺へと出かけてみた。
 前回と同じ場所。しかも同じような気象条件だから、今回特に新しい写真が撮れるとは思わなかったのだが、そんな時でももしも時間が許すのなら、とにかく同じ場所で何度か写真を撮ってみたい。
 実際にそうして繰り返し撮影してみると、前回見えなかったものが今回なら見えることも珍しくなく、その差が、人の心を打つ写真とそうでない写真との差であることが多いように感じられる。
 ただ、すべて前回と同じアングルからの撮影ではおもしろくないから、今日は別のアングルを・・・と、落ち葉の中に足を突っ込んだから、小さな小さな生き物が多数、落ち葉の中から這い出してきた。
 多分、雨が降っているから微小な生き物たちが水を避けて積もった落ち葉の表面に近い部分に集まっていて、そこに僕が足を踏み込んだから、ワサワサとその姿が目立ったのに違いない。
「なるほどなぁ・・・、こいつらが、上陸をして間もない小さなサンショウウオの子供たちの餌になるんだ!」
 自然は、何度も通ってみなければ、1度や2度歩くだけでは、なかなか見えないものだと思う。
(CanonEOS5D 17-40mm)

 

2007.7.3(火) 無気力症候群 

 ここ数日は、かなり重症の無気力症候群に取り付かれていて苦しい。そんな時は生きていても仕方がないような気分になるのだが、恐らくウツで苦しんでおられる方は、それがずっと長く続くのだろう。
 無気力のピークは多分1日だったのだと思う。昨日〜今日は幾分いい。
 僕の場合は、一年に2〜3度くらい、そんなことがある。

 そうなる時はだいたいある程度のパターンがあるが、典型的なのは、何か苦しい撮影に臨み、そこから開放された時。
 それは無気力症候群というより燃え尽き症候群なのかもしれないが、そんな時は多分体が休みたがっているのだろうから、調子があがらなくてもあまり気にしないことに決めている。 
 ただ、あまりに放っておくと、実は回復しているのに、その回復に気付かずに、必要以上に長く悶々と耐えてしまうことがあるから、それにだけ気をつける。
 また、簡単そうに思えるのに実際は難しい仕事に取り組んでいる時も、僕は無気力症候群に陥りやすい。
 多分、「この程度のことができないなんて!」と、心のどこかで知らず知らずのうちに自分を責めているのだと思う。だからそうなった時は、「簡単そうなイメージと、実際にそれが簡単かどうかは一致しないのだ」と、自分にしっかりと言って聞かせる。
 さらに小さな仕事がたくさんたまっている時にも、心のバランスを崩しやすい。恐らく、「あれもやらないと、これもやらないと!」と、自分で自分を急かしているのだと思うが、それでバランスを崩しそうな時は、すべてを片付けることを諦め、少しでも気が向いたものから、1つ1つ、今の自分にできるだけの仕事を片付けることを心掛ける。
 それらの状況に、ちょっとした不摂生などからくる小さな大量不良が重なったりすると、1〜2週間程度の無気力症候群は決定的になる。

 今回の場合は、苦しい撮影から開放され燃え尽き気味のところに、その間忙しくて手をつけることができず放っておいた小さな仕事が山ほどたまり、さらに、体力的に無理をしなければならなかったことからくる体調不良が重なったのだと思う。
 
 さて、何を片付けるか・・・。今日は、何となく、カスミサンショウウオの子供を撮影しておきたい気分になった。
 せっかく飼育しているのだから、節目節目で写真を撮っておこうと思っていたのだが、ほんの数分で終る撮影に手がつけられずにいたのである。
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)
 
 

2007.7.1〜2(日〜月) 雨 

 もう、だいぶ前のことになるが、初めて渓流に潜って水中写真を撮ろうとした時に、僕は、渓流の水中が思っていたよりもきれいではないことに、がっかりさせられた。
 上流に民家があるわけではなかったし、そこはほとんど人の活動の影響を受けない場所だったから、「渓流の水中ってこんな程度か・・・?」と、とにかく意外に感じられた。
 だがその後大雨が降り、大雨の後にまた同じ場所に潜ると、今度は、川底が目が覚めるくらいに美しかったから、もうびっくり。
 大雨の際の水流で、川底に貯まっていた堆積物がすべて流され、岩の表面に生えたまま半分腐りかかっていた苔は、まるでやすりで磨いたかのように綺麗に擦り落とされていた。
 とにかく、何もかもがピカピカ。大雨には、川を掃除する役割があるようだ。
 
 さて、今日は、サンショウウオが卵を産みにやってくる水溜りに出かけた。
 今年は梅雨入りが遅く、梅雨入り宣言後もまとまった雨が降らなかったから、水溜りの水は涸れ果ててしまっていたが、今日の雨で水溜りはまた元の水溜りに戻った。
 もっともっと本格的に梅雨の雨が降り続けると、水溜りの周囲に湧き水が湧き、澄んだ水が流れ込んでくるというから、それを楽しみに待とうと思う。
 自然のそんな側面に、もっともっとカメラを向けてみたなぁと思う。
(CanonEOS5D 17-40mm)
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2007年7月分


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