撮影日記 2007年6月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2007.6.29(金) サバイバル 

 父の仕事場に、『サバイバル』という漫画の本が置いてあったので読んでみた。父は、少なくとも日本の漫画は読まないから誰かに寄贈された本だと思うが、父の身の回りの人を思い浮かべれば、だいたい誰が贈った本なのかは想像ができる。
 サバイバルは、ある日地球に天変地異がおきるという本で、人類はもう絶滅寸前。そんな中で、主人公の少年が、最初はまず誰か他人を、その次に、離れ離れになってしまった家族を探して歩く。
 絵が大げさだったから、最初は、
「くだらん本やなぁ」
 と思ったのだが、よくよく考えてみれば、もしも人類が滅びたらとか、もしもあなたが人類最後の一人になったら・・・・という実に難しいテーマの本だと気が付いた。
 
 もしも僕が人類最後の一人かそれに近い立場になったなら、少なくとも写真を撮ろうとは思わないだろうなぁと思う。写真は誰か見てくれる人がいて、初めて意味がある。
 何をやっても、きっと面白くないのではなかろうか?
 と言うことは、嬉しいだとか、楽しいといった僕の感情は、他人の存在があってはじめて意味を持つものであるような気がする。
 かと言って、自殺する気にも、何となくではあるが、なれないような気がする。自殺は、社会が存在してはじめて意味がある行為であるように、僕には思える。

 もしも僕が人類最後の一人になったなら、自然保護などという発想は、実に馬鹿げた考え方だろうなぁと思う。
 かすみ網を張って野鳥を捕らえようが、川に毒を流して魚を捕まえようが、何をやっても構わないはずだし、その結果、ある地域である生き物の個体群が絶滅してしまっても、全く何の問題もないに違いない。
 つまり、自然保護や動物愛護の考え方だって、一見、自然や動物のためであるように思えても、実はそれは他人あってのことであり、他人を思いやることであり、それは完全に人のための考え方ではないだろうか?
 だから、自然保護や動物愛護を訴える人は、他人を思いやる力に長けてなければならないような気がする。自然を破壊して動物を虐めてこんなひどいことをしているヤツがいる!と、他人を攻撃するだけでは、何かが足らないような気がする。
 
 人様のホームページを見ていると時々立派な本が紹介してあるから、僕も何か・・・と考えてみたのだが、マンガの本しか思い浮かばなかった。
 子供の頃に、僕は学校の勉強がどうしても楽しくなかったのが、今になってよく分かる。どうも、僕の場合、アカデミックなものとの相性が、あまりよくないようだ。

 

2007.6.27〜28(水〜木) 絵本 

 一昨年だったか、ある場所で、ある写真家と対面をした際に、その方が一冊の写真絵本を見て、
「これはおかしい!」
 とおっしゃった。
「だって、これはモンシロチョウの幼虫の写真なのに、周囲のキャベツの葉っぱにはどこにも虫食いがないもん。」
 と。
 確かにその通りだったから、後日、本を担当した方に聞いてみると、思い描いた写真が撮れるような場所がなかなか見つからず、そこで、モンシロチョウの幼虫を持って、カメラマンといっしょにキャベツ畑を探して歩いたのだそうだ。その結果見つけたキャベツ畑が、たまたま農薬をたっぷり使用した、モンシロチョウ一匹住まない畑だったのだろう。
 それがおかしいかどうか?と言われれば、僕には答えがないのだが、図鑑ではなくて写真絵本なのだから、その絵本のストーリーや絵本の中で言わんとすることの中味次第では、ウソがあってもいいのではないか?と、個人的には思う。

 先日はテレビである有名な子供向けの絵本作家が紹介されたのだが、その作家の作品について、読者である子供たちの父兄から、
「内容が矛盾している」
 だとか、
「間違えている。」
 と言った苦情が届けられるのだと紹介された。その作家の場合は、わざと間違いを書いているわけだが、最近は、フィクションや物語を、人があまり理解できなくなりかかっているのかもしれないなぁと思う。
 
 プロレスだって、人気がなくなってしまった。
 僕が子供の頃は、アントニオ猪木の全盛時代だったけれども、子供の目にも、猪木の強さはヤラセだと分かっていても、それを分かって上で、みんなそれを1つのショーとして楽しんだ。
 また、テレビの番組の中には芸人が熱湯に入るようなものもあったが、あれだって、お湯は実はそんなに大した温度ではないと言われている。
 芸人は、それをいかに熱そうに見せるのか。そして、見る方は、それを何となく分かった上で、すべてを楽しむ。
 最近は、そんなことをしたら、すぐにヤラセだとか、子供が真似をすると大人が騒ぎ出すが、僕は、黙っとれ!と言いたい。ウソを分かった上で、そのウソごと楽しむくらいの心のゆとりを、子供に与えてあげればいいのではないか?と思う。
 それくらいの不真面目さは、人には必要なのではないだろうか? それを知らない子供が、大人になった時に、何かの機会に騙されるような気がするのである。
 
 さて、カタツムリは、今シーズン中に子供向けの新しい本を作る予定になっているが、久しぶりにカタツムリにカメラを向けた。
 文章は作家さんが書くかもしれないのだが、当面写真を撮ったり選ぶ段階で僕なりの物語を作ることになっていて、それを版元に見てもらった上で、最終的にどうなるかが決まる。
 もしも自分で文を書くことになったなら、絵本という特性を生かして、そこに何か、自分なりのメッセージが込められたらなぁと思う。フィクションだから伝えられるものだって、あるはずだと思う。
(CanonEOS5D 65mm)

 

2007.6.26(火) 湿原までの道のり 

 モリアオガエルの生態を撮影している山上の湿原までの道のりは、健脚者が歩いても1時間近くの時間がかかるし、撮影機材をたくさんもっていこうとするなら、荷物の重さによっては1時間30分くらいは見ておかなければならない。
 だが、そこで味わえる自然は圧倒的で、モリアオガエルの卵などは、昨日ある程度真面目に数えてみたら、確実に1000個は越えている。
 野鳥だって凄い。アカショウビンの声は一日を通して聞こえてくるし、先週はヤイロチョウの鳴き声がよく聞こえた。
 昨日は、湿原にクマタカが降りてきたのだが、モリアオガエルなども食べるのあろうか。他にも、サンコウチョウの鳴き声は、今の時期なら絶え間ない。
 
 ツキノワグマも、昔から生息するという。だからもしかしたら、湿原を歩くその姿を写真に収めることができるのではないか・・・などと妄想が膨らみ、最低でも400ミリ程度のレンズが欲しいと思えば、益々機材の量が増える。
 ただ冷静になって考えてみると、ツキノワグマとの事故を起こさないように、僕は時々大声を上げながら歩いているのだから、その機会を自ら摘んでいることになるし、やっぱり、撮影するのは無理かもしれない。
 仮にツキノワグマがいなければ、モリアオガエルの撮影はもっと気楽だろうなぁと思う。
 モリアオガエルの産卵のシーンなどは、できれば早朝のまだ薄暗い時間帯に現場に着いておきたいし、時には、夜間行軍だって試してみたいが、そんな時間帯に森の中を歩くのは、やっぱり気が引ける。
 僕は、中国山地で何度かツキノワグマに比較的近い距離で遭遇したことがあるが、時には、熊が僕に気付くよりも先に、僕が熊に気付いたことだってある。そして、熊がこちらに気付かずに、どんどん近づいてくるから、仕方なく、
「ガァ〜」
 と大声を張り上げると、熊は上体を持ち上げ、鼻をクンクンさせながらキョロキョロし、僕の姿を認めると、大慌てで逃げ去った。
 熊が僕に気付けなかったことに関しては、風向きとか、僕の場合であれば水辺での撮影が多いから水の音だとかいろいろな要因があるのだろうが、人の場合、目が利くのだから、最低限、周囲をよく見るくらいは必要だろうと思う。

 さて、昨日の画像の中から、卵の内部のオタマジャクシの写真を選んでみた。
 1000個以上の泡状の卵塊があると、中にはいろいろな状態のものがあり、半分木から零れ落ちそうな卵があった。
 近づいてみると、半ば崩壊した卵の中がよく見えるから、カメラを向けてみた。
 泡状の卵の中心は、多分、空洞になっていて、オタマジャクシはその内部の空間の壁に張り付くようにして過ごすのではないか?と思う。 

 オタマジャクシはやがて泡の中を泳ぎ、ボトリと下に落ちる。
(CanonEOS5D 90mm)

 

2007.6.25(月) 科学 

 今日は、いつもの山上の湿原に登ってきた。
 今年の中国地方は梅雨入りが遅く、しかも梅雨入り後も、まだ一度もまとまった量の雨が降っていないから、例年なら雨の影響で沼になっているはずの湿原に、まだ水がない。
 湿原の周辺の木に産み付けられたモリアオガエルの卵は、もうオタマジャクシになり、木の上からポトリポトリと落ちてくるが、そこには水がないのだから、どうやらこのまま干からびて死んでしまう可能性が高い。
 自然の摂理とは言え、何だかかわいそうだなぁと感じた。

 生物学を勉強していた学生の頃は、自然現象を見て、かわいそうだなどという感情を持つことはほどんどなかったように思うが、自然科学の世界から離れて時間がたったから、物の感じ方もまた違ってきたのかもしれない。
 何だか軟弱になったなぁとも思うし、一方で、科学だけがすべてじゃないとも思う。
 ただ、一度はちゃんと科学を勉強するのはいいことだと僕は思う。なぜなら、今の日本人は誰一人、科学とは無縁で過ごせないからだ。
 科学を基礎から学んだ経験がない人の中には、ほとんど信仰のようなレベルで科学を信じようとする人も多い。「科学的に証明されている。」などという言葉に、みな大変に弱い。
 だが、科学はそこまで大したものではないということが、科学を学ぶとよく分かる。
 一方で、科学なんて糞食らえだ!と主張する人だって、病院にかかれば、たっぷり科学のお世話になることだろうし、病院に限らず、みな散々に科学の恩恵にあずかっているに違いない。

 科学者は残酷だ!と非難する方が時々おられる。例えば、生物学の世界では実験の際にたくさんの生き物の命を奪うが、科学者には、人の心がないのか?と憤る方である。
 だが僕は、全く的外れな言葉だと思う。
 なぜなら、科学は対象を『物』としてみる学問であり、当然、生物学の世界では、生き物を尊い命としてみるのではなく、物としてみる。だから、生き物の不思議な行動を化学反応として理解しようとしたり、脳の中での神秘的な出来事を電気信号として受け止めようとする。
 そうして対象を見ることこそが科学の目なのだから、科学の目が時に冷たいのは当たり前のことであり、別に科学者が冷たいわけではない。
 それは、ボクシングの選手がボクシングの試合で殴り合いをするのを見て、「あの人残酷だ。」と非難するのが的外れなのと同じようなもので、ボクサーは残酷なのではなく、そんなルールのもとで試合をしているに過ぎない。
 対象を物としてみる科学の目でしか見えないものもたくさんあるし、それによって人が救われている部分だって、山ほどあるのだから。
(CanonEOS5D 21mm)

 

2007.6.24(日) ナカヤママイマイ? 

 あまり長い距離を移動することができないカタツムリは、地域ごとに細かく種類が分かれている。
 だから、全国的に広く分布する一部の種類を除いて、例えば、東京のカタツムリと九州のカタツムリとでは、どんなに外見が似ていても、種類が異なることが多い。
 東京まで行かなくても、広島と福岡とを比較しても、そうとうに種類が異なる。広島県で普通に見られるセトウチ(瀬戸内)マイマイやサンイン(山陰)マイマイは、福岡県には分布しない。
 セトウチ(瀬戸内)マイマイの場合、福岡県を通り過ぎて、宮崎県にも分布するとされていて、僕は以前にそれっぽいカタツムリを採取したことがあるのだが、その姿は明らかに広島産のものとは異なっていたし、もしかしたら、よく調べればそれらは別の生き物なのかもしれないと感じた。
 極端な場合、日本国内でもある山地にだけ分布するようなカタツムリが存在するという。
 福岡県内では、ナカヤママイマイという種類が、北九州周辺のある場所にだけ産するのだが、先日、そのナカヤママイマイっぽいカタツムリを偶然見つけたので採集しておいた。
 採集した時にはまだ子供だったが、飼育をしているうちに大人になり、今朝世話をするついでに写真を撮っておくことにした。
 ただし、これが絶対にナカヤママイマイだという自信はない。
 ナカヤママイマイは極めてオタクなカタツムリなので、たくさんの種類が網羅してある図鑑でさえ、殻の標本の写真しか載せられていないし、インターネットを検索しても、一枚の画像も出てこない。
 
 カタツムリの場合、厳密に種類を調べるためには、解剖をして生殖器の形を見る必要があるようだが、現実的には、すべてのカタツムリを解剖するわけにはいかず、殻の大きさ、形、巻き数、産地などで種類を判別する。
 だから、標本的な写真を撮る場合は、殻の巻き数が分かるように撮影する。
 ただ僕は、数字があまり好きではないので、何かのカタツムリの種類を調べるために、殻の巻き数を真剣に数えたことは過去に一度もない。その手の種類の判別には、全く興味が湧かない。

 そして、肉質の部分の感じも種類を判別する上で手がかりになるから、死んだ貝の殻の標本写真ではなくて、やっぱり生きているカタツムリの写真が見たいところだ。
 僕は、殻の巻き数が何回というような数字による種類の区別よりも、見た感じの印象で区別したい方だから、もしも生きたカタツムリの標本写真で図鑑を作る機会があれば、是非チャレンジしてみたい。
 見た感じで生き物の種類を区別するのは、曖昧で適当だと思われるかもしれないが、それができるところが人間の優れたところであり、コンピュータが人に永遠に敵わないところだと僕は信じる。
 この手の標本写真は、白い紙の上にカタツムリを置いて撮影するだけだが、写真の基礎をちゃんと勉強しておかなければ、実は結構難しい。最近は、インターネット上でアマチュアの方が撮影した白バック写真を見かけることもあるが、それなりに工夫は施されていても、プロの写真とは明らかに一線を画するし、その差は、むしろ野外で撮影された写真よりも大きいように思う。
 白バック写真で、照明の技術が悪いと、むしろ別の生き物に見えてくることもある。

 ただ、カタツムリの図鑑がペイするはずもないし、恐らくカタツムリ図鑑を作ったとしても、写真家のギャラは、なしか、お小遣いにもならない、まさにスズメの涙程度に違いない。
 ギャラがないなんてあり得ないと感じる方もおられるかもしれないが、例えば、地方の出版物などでは、特に出版の景気が悪い最近は、むしろギャラなしの方が普通のようだ。
 僕は、最初からその労働の量に相応しいギャラがもらえる撮影だけをターゲットにしているから、極端にギャラが安いとか、ギャラなしで写真を撮った経験はないのだが、いろいろと人から聞いた話によると、自費出版をすると思えば、ギャラなしでもありがたいと受け止めなければならないのだそうだ。
 
 それから、裏側もカタツムリの種類を区別する際には重要だ。
 その裏側の写真だって、生きているものを撮影した写真と死んだ貝殻の標本写真とでは、分かり易さが全く違う。
 死んだ貝の標本では、しばしば殻のつやなどが失われている。
 図鑑の説明に、文章で、つやがあるとかないと書かれていても、そうした言葉はあまり役に立たないことが多い。なぜなら、実物のカタツムリを見た際に、果たしてそれがつやがあると言っていいのか、それともないのか、人によって受け止め方が違うからだ。
 だが、人が見た通りのつやが見事に再現された殻の写真があれば、その写真から伝わってくる質感は、「あ〜これこれ!」と、生き物の種類を区別する際に大いに役に立つ。
 僕は、その感覚的な部分を大切にしたいのである。
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)

 

2007.6.23(土) 更新 

 今月の水辺を更新しました。

 

2007.6.20〜22(水〜金) 品種改良 

 恐らく、今シーズンの撮影の一番の山場は乗り切れたのではないか?と思う。
 水辺の生き物の生活は雨に影響されやすく、例えば、カエルは雨をきっかけにして卵を産み始めることが多い。だから、梅雨入り直後の数日は撮影の絶好のチャンスであり、僕の撮影の山場でもある。
 今日は、そうした撮影が一段落ついたところで、飼育中のアマガエルのオタマジャクシを撮影しておくことにした。

 それから、忙しさのあまりに放っておいた飼育中の生き物たちの世話があり、まず、ナマズに与える餌を買いに行く。
 ナマズは以前に撮影に使ったものだが、しばらく水槽で飼育したものを、たとえ元の場所であっても野外に放すのは何となく抵抗があるから、そのまま飼い続けている。
 餌は、餌金だとかコアカと呼ばれる金魚の子供を買ってくる。
 金魚を育てる達人は、稚魚を一目見れば、それが将来いい模様を出したり、いい色を発色するかどうかがすぐ分かるという。そして一部のいい子供を除いて残りは肥料にされてしまうのだが、最近ではペットブームの影響で、以前なら金魚としての商品価値がなく肥料になるような稚魚が、肉食魚の餌として売られているのである。
 
 僕は、アメリカザリガニの水槽の中で一緒に日本産の淡水魚を飼育しているのだが、それらの魚がザリガニに食べられた経験はない。時には、ふとした拍子に魚がザリガニの胸元に飛び込んでしまうようなこともあるが、それでもザリガニに襲われたことはない。
 ザリガニと言えば、魚を捕まえ押さえつけて食べているシーンが定番だが、少なくとも水槽の中ではそうしたシーンは、滅多に見ることが出来ない。
 実は、それを知らずにそのようなシーンを撮影しようとして、全く上手くいかずに諦めた経験がある。大半のその手の写真は、恐らく、写真家が自らの手で弱らせた魚をザリガニに与えて撮影したものだと思う。
 ところが、金魚はよくザリガニに襲われるのである。
 そこで、しばらく様子を観察すると、金魚の体を揺するようにして泳ぐあの動きが、どうもザリガニの食欲を誘っているように見える。
 僕は昔ルアーフィッシングに夢中になったことがあるが、ルアーを泳がせる際には、ピクピクと弱って痙攣をおこしている魚の動きを再現するとよく釣れる。弱った生き物の動きが肉食の生き物の食欲をそそっているわけだが、金魚の場合、元気な状態であってもそんな動きをしていることになる。
 もしも野生であれば、そんな動きをする魚はあっという間に淘汰されるのだろう。
 またコアカは、ナマズに餌を与える際に網ですくおうとすると、実に簡単に捕まる。逃げるという本能が失われているのではないか?とさえ思える。
 生き物の性質をそれだけ変えてしまうのだから、人間って恐ろしいなぁと、一瞬考えることがある。
 品種改良を止めた方がいいと言いたいのではない。品種改良にはそんな側面があることを、やっぱり知っておくべきだと思うのである。
(CanonEOS5D 90mm 50mm ストロボ)

 

2007.6.18〜19(月〜火) モリアオガエル 

 先日、産卵の様子を紹介したモリアオガエルの卵を見にいったら、新しい卵が点々と見られた。この場所は、恐らく西日本で最大のモリアオガエルの生息地ではないか?と思う。
 沼にまだ水はないが、今後、梅雨前線の活動が活発になるとこの場所は沼の底になり、木の上の泡の中で生まれたオタマジャクシは、ポトリとその沼の中に落ちる。
 数を数えたことはないのだが、産卵のピークの時には、このあたりの木々には千単位の泡が生み付けられているように僕には思える。
 今日は、午前中には青空が顔をのぞかせたが、その後、急に風が強まり雷がなり、ザッと夕立のような雨が降った。
 
 開けた場所でし落雷が怖いから、山を降りようか?と一瞬考えたが、雨の刺激でカエルが活発になるかも・・・と、しばらく木陰で雨が収まるのを待ったら、思ったとおり。
 カエルたちが木の上で、ピョンピョン跳ねはじめた。

 中には、真昼間から卵を産むものまで現れたのだが、いずれも木の高い場所での産卵であり、写真には撮りにくい。結局、前回撮影したものよりも気に入った写真は撮れなかったのだが、その代わりに、カエルたちが追いかけっこをする様子が撮影できた。
(CanonEOS5D 17-40mm/300mm/70-200mm)

 

2007.6.17(日) カメ 

 大学に入学して山口に住むことになり、僕が生き物に関して最初に驚かされたのは、カメがごく普通に田んぼに生息していることだった。カメの活動が活発な日は、道路で車にひかれて死んだ死体を頻繁に見た。
 少なくとも福岡県では、僕はそんな田んぼを知らないし、もっと田んぼが多い熊本県あたりでも、田んぼでカメを見たことはない。
 ただ僕が子供の頃に見た図鑑には、『田んぼにはカメがいる』と書いてあったから、田んぼでカメを見かけるのは珍しい現象ではなく、福岡県(九州)と山口県とでは地域差みたいなものがあるのかもしれない。

 ただ、山口県でもカメは探そうと思って見つかるものではない。
 カメの方から動き出し、目立つ場所を歩いている時にだけ、
「あっ、カメがいる!」
 と人の目に触れる。
 学生の頃は、日頃はいったいどこにいるのだろう?と疑問に思っていたのだが、今日見かけたカメを追跡すると、田んぼの土を掘りはじめ、最後は見事に隠れてしまった。

 土の上に残されたカメの足跡はこれ。

 今日は、同じ田んぼにちょうど上陸したてのニホンアカガエルが多かったのだが、アカガエルのオタマジャクシも、福岡県では水路や水溜りで多く見かけ、滅多に田んぼで見かけることはない。
 
 田んぼの畦には、まだ産み落とされた間もないシュレーゲルアオガエルの卵があった。
 卵はこの泡の中でオタマジャクシになり、オタマジャクシは田んぼの中にこぼれ落ちる。
 他にも、トノサマガエルやアマガエルが多い。
 今日は、なかなか面白い田んぼを見つけることができた。この場所で撮影中に、僕の頭の中に幾つかの物語が浮かんできた。
 来年は、この場所を徹底して撮影し、その物語を形にしてみようと思う。
(CanonEOS5D 21mm/70−200mm/90mm/90m/21mm)

 

2007.6.16(土) 新しいカメラ 

 作日届いたばかりの新しいカメラを試してみた。今回購入したのは、リコーのコンパクトタイプのデジタルカメラだ。
 僕はコンパクトタイプのカメラを、過去に5〜6台購入したことがあるが、いずれも特に気に入ることはなく、結局、人にあげてしまったりして手放した。
 何が気に入らなかったか?と言えば、操作が難しいこと。
 一眼レフタイプのカメラは本格的で使い方が難しいそう!と感じられる方が多いようだが、カメラの操作に関しては、コンパクトタイプのカメラの方が難しいように、僕には感じられる。
 コンパクトタイプのカメラは、小さいカメラの中に一眼レフとあまり変わらない量の機能が詰め込まれているから、ボタン類と機能との関係がゴチャゴチャしていて、しばらく使わなかったら、また説明書を読まなければ使い方が分からなくなってしまう。
 もっとも、使い方が分からなくなる一番の原因は、僕の頭があまり良くないことなのだが、それはさておき、カメラのせいにしたくなるのだ。

 ところが、今回買ったリコーのカメラは、なかなか操作性がいい。説明書を読む前に、適当にカメラを触ってみるだけで、ほぼすべての機能が使いこなせた。
 ボタン類が非常によく考えて作られているように思う。
 いいメーカーだなぁと、痛感させられる。
 画質は、購入前に思っていたよりもやや悪いかな・・・と、具体的には色が浅いなぁと思うのだが、使いこなしもあるだろうから、いろいろな局面で試してみようと思う。
 なぜコンパクトタイプのカメラを買ったのか?と言えば、大きな一眼レフでは水深が10センチ以下になるような、いよいよ浅い場所ではカメラが沈められないから、撮影ができないのだ。
 その点、コンパクトカメラなら、グッと撮影の幅が広がるはずだ。
 今日の画像も水深10センチ程度だから、一眼レフではほぼお手上げ。コンパクトカメラにしか出来ないこともあるのだ。

 

2007.6.15(金) モリアオガエルの産卵 

 夜の間に中国山地のある場所へと移動し、早朝のまだ薄暗いうちにモリアオガエルの産卵シーンを探す生活が続いていた。
 だが、ここ数日は連日外れ。
 モリアオガエルは雨の日の夜に産卵をすることが多いが、中には午前8時くらいまで卵を産み続けるものがいるから、僕はそうしたチャンスを狙う。

 大半は夜に卵を産むのだから、ストロボを使って夜らしく撮影するのがモリアオガエルを正しく伝えられる写真なのだろうが、やっぱり自然の光が美しいから、自然光で撮りたくなる。
 そして今朝は1組だけ産卵中のモリアオガエルがいて、ようやく撮影ができた。
 他にも、昨晩〜今朝にかけての新しい卵が10個くらい見つかったが、それらはいずれも夜の間に産み落とされたものだったし、その1組がいなければ、今朝も撮影ができなかったことを思うと、ありがたいなぁと感謝の気持ちが込み上げてくる。

 ただ、池は周囲を木で覆われた窪地にあって、光が差し込む場所が限られる。そして、その1組は非常に光線の具合が悪い位置にして、写真が撮りにくい。
 具体的には、カエルにだけは光が当たり、背景の森には光が当たらず、その結果、カエルだけが真っ暗な背景の中に浮かび上がった写真が撮れてしまう。それでは森の雰囲気が分からないから、面白くない。
 そこで、カメラのアングルを色々と変える。例えば、下から見上げるように撮影して、少しでも明るい森の空に近い部分を背景に入れる。
 だが下から見上げると、今度はカエルの顔が写らないから、さらに角度を微調整する。
 また、レンズを次々と交換して、いろいろな道具を試す。
 今日の画像は、そうして試行錯誤しながら写真を撮っていく過程の初期に撮影した一枚だ。つまり、試作品である。
 今日は、この写真を撮影してから1時間ほど試行錯誤した結果、やっとそれなりに見られる写真が撮れた。
(CanonEOS5D 24〜105mm)

 

2007.6.14(木) 道具 

 お金がたくさんあったらなぁと思う。こんな道具、あんな道具と、試してみたいものが僕には多くある。
 でも、どんなにあがいたって僕が持っているお金はたかが知れているので、まず何を買うべきか、自分にとっての優先度を考えることになる。
 そしてここ最近は、その道具でしか撮れないものがあるかどうかに、僕はこだわる。

 今僕が欲しいなぁと思っているのは、キヤノンの手ブレ補正機構付きのズームレンズ。具体的には70-200ミリのf4。
 だがよくよく検討してみると、手ブレ補正付きのレンズがあったからと言って、今まで撮れなかったものが撮れるようになるほど劇的な変化があるわけではないだろう。
 ところが、水中にカメラを沈められるアクセサリーや道具があれば、水の中という普通では撮影できにくい場所の撮影ができる。

 例えば、手ブレ補正付きの70-200ミリのf4レンズを誰かに手渡され、
「これで見たこともないような自然写真を撮ってみてくれ!」
 と言われてもそれは非常に難しいが、淡水の水辺で使いやすいような水中カメラを渡されて同じことを言われれば、淡水の水の中には、まだ誰もカメラを向けていないようなシーンが山ほどあって、新しい世界が切り開ける可能性が十分にある。
 今日は、自宅に新しい、ちょっと特殊なカメラが届く予定になっているのだが、さらにその特殊なカメラ専用のアクセサリーを作ることで、今まで撮影がほぼ不可能だった場所を撮影できるようになる。
 ただ一方で、その道具さえあれば撮影できる写真というのも、また面白くない。
 それは道具の効果の面白さであり、自然の面白さではない。
 僕の場合、ある道具があって、それによって自然の新たな面白さが伝えられることが重要なのだ。

 

2007.6.12〜13(火〜水) 場所 

 以前、カスミサンショウウオやアカガエルの卵を撮影した水溜りに行ってみたら、ここのところ久しく雨が降らなかった影響で、水が涸れ果てていた。水溜りの中の両生類の幼生の多くは、干からびて死んでしまったに違いない。
 魚もすめないような浅い水辺に生息する生き物は、魚に食べられる危険がない代わりに、そうしたちょっとした気象の影響を受けやすい。

 涸れ果てた水溜りの跡地にはイノシシが歩いた痕があった。きっと泥浴びをしたのだろう。
 それならば、その様子をこの夏でにも撮影したいが、動物にシャッターをきらせる自動撮影装置を使うか、それとも少し離れたところまで車を入れ、車の中から観察しながらリモコンでカメラを遠隔地操作をするのか、どちらかの方法を選ぶことになる。
 そこには車止めがあり、本来は車を乗り入れられないのだが、
「誰も人が来ない夜の間だけ」
 と役所にお願いをすれば、許可が得られるかもしれないし、そうなると、自分の目でイノシシの動きを見ながらのリモコン撮影が可能になる。
 その場合、役所はコネが物を言うところだから、誰かコネがきく人にお願いしなければならない。
 イノシシがカメラや車の中の僕の存在を嫌がる可能性もあるが、その場所の場合、昼間に山ほど人が通る場所だから、恐らく、撮影できるのではないだろうか?
 
 小さな、たった1つの水溜りでの撮影だが、水中撮影〜自動撮影まで、生き物の種類ではなくて場所をテーマにすると、幅広い技術が要求される。
 日本では、虫の写真家や鳥の写真家といった感じで生き物の種類にテーマを絞っている人が評価されやすく、逆に、生き物の種類に関係なく、いろいろな被写体にカメラを向ける人が評価されにくい傾向があると言われている
 それは確かにその通りなのだが、いろいろな被写体にカメラを向ける人の場合、その結果、広く浅くになる嫌いがあり、こんな生き物がいるだとか、あんな生き物がいるといったことの羅列で撮影が終り、しっかりとした物語をえがけていない人が多いように僕には感じられる。
 そこさえクリアーできれば、場所にテーマを絞ったってもっと評価されるはずだし、まだまだ色々な自然写真家のスタイルがあり得るように思える。

 

2007.6.11(月) 外国の生き物 

 事務所から車で五分ほどの距離にある、街の中だというのにやらたに魚が多い水路に出かけてみたら、水路の壁には赤い物体がたくさんこびりついていた。
 これはスクミリンゴガイという巻貝の卵で、スクミリンゴガイは外国から日本にやってきて、日本にすみついた生き物だ。ジャンボタニシとも呼ばれる。

 こちらは、やはり外来種でオオカナダモの花。
 この花を撮影中には、水路の向かいにある工場からおじさんが出てきて、
「何を撮影しとると?」
 とたずねられた。
「水草の花ですよ。」
「ほ〜。またなんで水草なんかを・・・」
「この水草は外国から日本にやってきた水草なんです。」
「と言うことは、珍しいんだ!」
 とおじさんは実に嬉しそう。
 でも、実はそうではないから、
「いやいや、逆に外国の植物が日本で増えまくって、場所によっては問題がおきているんです。だから写真を・・・」
 と答えたら、ちょっとがっかりした様子。

 少なくともここ最近は、生き物にある程度興味を持つ人にとって、外来の生き物は紛れもなくいかがわしい存在だろう。
 だが、特に生き物に興味があるわけではない人にとって、外国の生き物と言えば、むしろ逆に珍しいと人を喜ばせる存在であることが多い。
 そこに、帰化生物の問題の難しいところがある。
 ただ僕は、生き物通の感覚、つまり外来種は良くない、外来種を放してはならないという感覚を、それが日本の自然を考える上で正しいからといって、一般の人に押し付け過ぎるのは好きではない。
 押し付けすぎるとは、例えば、
「飼いきれなくなった外来種のペットは、外に放すくらいなら殺せ。」
 と主張する人が結構おられ、僕も日本の生き物を守りたいと思う一人としてそうして欲しいとは思うが、飼いきれなくなった生き物を、生物学をある程度知る人ならともかく、一般の人までもが殺してしまう、そんな理屈通りに動く社会もまた恐ろしい。
 人の生活には、正しいかどうかだけでは成り立たない部分がたくさんあるように思う。
 例えば、タバコが有害であっても吸いたい人は吸うのだし、ゴルフ場に大量の農薬が使用されるとしてもゴルフ禁止にはならないし、僕はタバコもゴルフもやらないからそれらが全部禁止になっても少しも構わないのだが、もしも何もかもが本当にそうなってしまうような社会があったら、今よりよっぽど怖い社会だなぁと思う。

 外国の生き物を放していいと言いたいのではない。
 が、外来の生き物が輸入されてきた時点で、どんなに丁寧に飼育をしたところで時には逃げられることもあるのだから、幾ばくかの種類は日本に帰化することはもう決まったも同然。どっち道、時間の問題だったはず。
 だから、何かの生き物が帰化されることがそんなに致命的で重大な問題なら、特別な許可が得られた場合以外はすべて輸入禁止にすべきだし、また逆に、リスクを分かった上で、それでも外国の生き物を飼う楽しさの方を日本の社会が選ぶ選択肢だってあるはず。
 そういう選択肢があることを、自然保護原理主義者はちゃんと考えるべきではないだろうか?
 他にも、
「野鳥が好きなら、野鳥の写真なんて撮るべきではない。だって、どんなに遠くから撮影したって、少なくとも野鳥は喜ばないし、多少は鳥のストレスになるでしょう?そこには野鳥への愛情がない。」
などという主張する方が時々おられる。
 僕はいろいろな自然保護の主張を聞いたことがあるが、まるで数学の証明問題でも解くかのように、「理屈ではこれが正しいはず。」と突き進む人は、一番恐ろしい。
 僕は、そこには、「俺が正しい!」という自己顕示欲みたいなものしか感じられない。
(CanonEOS5D 21mm 90mm)

 

2007.6.10(日) 雨の影響 

 水辺の生き物には、雨の影響を受けて活動をはじめるものが少なくない。例えば、モリアオガエルは、産卵期である初夏の中でも雨の日に卵を産むことが多く、僕は雨の降り始めを楽しみに待つことになる。
 ところが今年の九州〜山陰・山陽は雨が少なくて、そのモリアオガエルの産卵シーンがまだ撮影できていない。

 この時期に雨が降らないといったいどうなるのか?と言えば、通常なら雨降りの日に一斉に産卵をはじめるモリアオガエルたちが、ポツリポツリとまるで気まぐれのように少しずつ卵を産むことになる。だから、もしもこのまま空梅雨に終れば、場所によっては、モリアオガエルの産卵の撮影ならこの日!というような決定的な一日を迎えないまま、産卵の時期が終る可能性もある。
 そうなると、下手をすると絶好の一日を待っているうちに写真が撮れずに終る危険性があるから、仕方なく、産卵の可能性が低い日にもとにかく現場に出向かなければならない。
 今朝は、モリアオガエルの産卵を撮影するために中国山地のある場所で目を覚ましたのだが、結局産卵は確認できず、徒労に終った。
 そこで、高速道路を使い大急ぎで北九州へと引き返し、晴れの日に撮影すべきシーンにカメラを向けた。
 本当なら、短期間で行ったり来たりというようなスケジュールは組みたくないし、できるだけ移動距離を少なくしてじっくりと撮影したいのだが、この先、モリアオガエルの産卵の撮影でかなり無駄な時間がでそうだから、他の撮影を前倒ししてどんどん片付けなければならない。
 今シーズン中にどうしても撮影しておきたいモリアオガエルの産卵シーンは、天候の影響で、どうも非常に泥臭い撮影になりそうだ。

 今日の画像の左側の山は、僕はいつもカスミサンショウウオを撮影する山で、右側の町は北九州市である。
 その山と町とを同時に撮影できるポジションが先日からなかなか見つけることができず、延べで10時間くらいは北九州の町をうろうろしたのではないかと思う。
 ただ単に町と山とが一緒に写っている写真を撮ることは実に容易いが、それを臨場感が感じられる雰囲気のある写真に仕上げようとすると、生き物の生息環境を見せるための写真撮影は非常に難しい。
「いや、生息環境を説明するための写真なんだから、それさえちゃんと分かればどんな写真だっていいじゃないか!」
 という意見もあるだろうと思う。
 だが僕は、分かればいいという発想は、やっぱりつまらないなぁと思う。
(CanonEOS5D 17-40mm)

 

2007.6.9(土) 動物ってかしこい 

 先日、おたまじゃくしを撮影中に、
動物ってかしこいねぇ。」
 と、通りがかりのおじさんから声をかけられた。
「カエルたちは誰に習ったわけでもないのに、季節がくるとちゃんとここに卵を産むんだよな。」
 と。
 そのおじさんの言う通り、人間が誰かに何かを教わらなければほとんど何もできないのに対して、多くの動物、特に小動物は、ほとんど野性の感覚だけで、体に染み付いているものを頼りにして生きていると理解しておいてほぼ間違いない。
 おじさんは、その野性の感覚のことを、かしこいと言う言葉で表したのだろうと思う。

 人は知能を発達させ、文明を発達させた代わりに、野性の感覚の多くを失い、その分、子供たちは学校に行って知識や理屈や生き方を学ばなければならない。子供に限らず、人の場合、そうして頭で生きている部分が他の動物よりもずっと多く、体で生きる部分が少なくなっている。
 さらに同じ人間でも、文明が発達すればするほど、都会に行け行くほど、その傾向が強くなるように思う。
 先日、テレビでバッグなどの偽ブランドについて取り上げた番組を見たのだが、熟練の人が見なければ、いや熟練の人でもなかなか区別できないような精巧な偽物が存在するとのこと。
 つまり、偽物と言えども、実質的には本物とほぼ同じなのだから、ブランドに全く興味がない僕などは、本物に大金をつぎ込んでいる人の方が狂っているようにも思える。
 別に、模造品を量産している国を擁護する気など全くないのだが、
「あなたにはその違いが分かるの?」
 と、ブランドを買い漁っている人に、問いかけてみたいような気がする。
 ブランドを好んで買い求める人は、いったい何にお金をかけているのだろう?と考えてみると、ブランドイメージという実体がなく、人の脳の中のみに存在するバーチャルなものにお金を払っているのだから、まさに頭で生きている大変に都会的な人だと言えるのかもしれないが、一方で、そんなものをまったく信用する気になれない僕は、しみじみ、田舎者なんだなぁと思う。
 田舎の人や途上国の人には、もしかしたら、ブランド品を、原価から考えてとても高い値段で売りつけている正規のメーカーの方が、むしろ理不尽で、詐欺を働いているように見えるのではないだろうか?
 僕は、あまり頭で生きることに偏りたくないのである。

 写真家になりたいという人は、僕の身の回りにも何人か存在するが、たいてい、
「食えなかったらどうしよう?」
 とためらう。
 その、「食えなかったらどうしよう?」という不安はまさに頭の中にあるのだから、そればかりを心配する人は、頭で考えることで写真家になろうとしているように思える。
 だが実際のところは、一線を踏み越えてやってみなければ、つまり体を動かし、体で表現してみなければ、食えるのか、食えないのかについては、ほとんど何も分からない。
 ゴチャゴチャ言わずに、頭でばかり考えるのではなく、覚悟を決めてやってみる。体で表現してみる。これも、極めて大切なことであるような気がする。

(お知らせ)
 以前にもお知らせしましたサンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、今日、9日(土)に僕の順番が回ってきます。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。
 自分の記事はさておき、新聞全体に読む場所が多く、電車などでちょっとした移動をする際にも、退屈しのぎの週刊誌を買うよりもずっと安くて、読み応えがあるのではないか?と思います。

 

2007.6.7(木) お知らせ 

(撮影機材の話)
 僕の場合、35ミリ判のフィルムカメラに関しては、主にニコンを使ってきた。
 ところが、そのニコンが35ミリ判フルサイズセンサーを搭載したデジタルカメラをなかなか発売してくれないから、デジタルカメラを中心に使うようになってからは、いつの間にかキヤノンを使うようになった。
 もちろん、いずれニコンも35ミリ判フルサイズセンサーのカメラを出してくるのだろう。
 だが、素直に考えるなら最初は高級機にフルサイズセンサーを搭載する可能性が高いのだろうし、それが70万円だとか80万円のような高価なカメラになるのなら、僕の場合、とても買う気はおこらない。
 キヤノンでいうところのイオス5Dのようなカメラ、つまりコンパクトでせいぜい30〜40万円程度で買えるフルサイズセンサーのカメラがニコンから発売されるのは、最近開発のスピードが遅いニコンだから、恐らくそうとう先になるのではないだろうか?
 だから、もうこのままキヤノンを使い続けることになるのかな?などと、漠然と思う。
 だが、特殊な撮影を試みると、やっぱりニコンが扱いやすいなぁと感じる機会が多い。キヤノンのカメラは、メーカー純正のアクセサリーを取り付け、メーカーがこう使え!という通りに使う場合は極めて優秀だけれども、それに当てはまらないことをやろうとすると、何だか思い通りにならないところがある。
 フィールドの中で撮影中に、今まで人が試していないような撮影方法をハッと思いつき、さっそくそれを試そうとすると、理論的には問題なく出来そうなことがキヤノンのカメラでは出来ずに、帰宅後に色々とカメラをいじくりまわして、一体キヤノンのカメラの仕組みはどうなっているんだろう?と、調べてみなければ分からないケースがここのところ続いている。

(お知らせ)
 以前にもお知らせしましたサンケイ・エクスプレスでの連載、合計4人の自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、明後日の土曜日に僕の順番が回ってきます。
 新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。
 自分の記事はさておき、新聞全体に読む場所が多く、電車などでちょっとした移動をする際にも、退屈しのぎの週刊誌を買うよりもずっと安くて、読み応えがあるのではないか?と思います。

 

2007.6.4〜6(月〜水) 島根・山口取材 

 創作活動に携わる人なら誰しも、
「人と違うことをやりなさい。」
 とか、
「人がまだやっていないことをやりなさい。」
 と、最低一度は誰かに言われた経験があるのではなかろうか?
 がしかし、人と違うことをするのは、実に難しい。
 例えば、まだ誰も写真を発表していないような場所を探そうと思っても、この情報が溢れる社会の中でそんな未知の場所が果たして見つかるものだろうか?
 いや、未知の場所はたくさんあるのかもしれないが、それが広く一般に通用するようなスケールの景色は、ほとんど見当たらないような気がしてくる。

 ところが、日頃から多く自然の中を歩いていると、まだまだ未知の場所はあることに気付かされる。そして、その未知の場所には、ある一定の傾向がある。
 まず第一に、たくさん歩かなければならない場所には、まだまだ未知で、しかもいい場所が残されているように思う。
 植物や風景のように逃げないものを撮影する人には、歩くことをあまり嫌がらない人が多いのに対して、特に動物の写真を撮る人には、歩くことを嫌う人が非常に多く感じるのだが、動物写真の場合、そんなところにチャンスがあるのかもしれない。
 徹夜だとか、待つことに関しては、みなあまり嫌がらないのに、長時間歩くことを嫌う人がとくにかく多い。

 さて、時々紹介する山上の湿原へと登ってみたが、今回は、荷物が多くて、麓から湿原まで1時間半の時間を要した。
 歩いて1時間半かかる場所では、滅多にカメラマンの姿はない。
 この場所の場合、唯一、上の画像のチョウジソウが花を咲かせる季節だけは、チョウジソウを探す植物観察の人に出会うことがある。

 それから、浅い水中など、市販の機材では撮影が難しいシーンに関しては、まだまだ撮影すべきシーンが残されていると思う。

 つまり、人と違うことをやろうと思うのなら、必ずしも「人と違うことをしよう!」などと他人と自分とを比較する必要はないのかもしれない。
 人と同じように写真を撮り、あとは、人がきついから歩くのをやめるところで、自分だけはやめずに歩き続ける。
 また、水辺の野鳥や昆虫などにカメラを向けていると、水中にもカメラを向けてみたくなるのはごく自然なことだろうが、そこで機材がないからとやめないようにする。機材がなければ、工夫をすればいい。
 人と違うかどうかは、自分が自分の道を突き進んだ結果なのかな?などと、最近感じるのである。
 そして、どこまで突き進むことができるのかは、しばしば、その人の情熱の程度によって決まるのではないだろうか?

 湿原の中には、点々と木が生えていて所々に林が形成されているが、あとしばらくして梅雨の雨が降り始めると、それらの木々はひと月ほど水に沈むことになる。
 本当なら、木々を定点撮影したいところだが、水が増えると、恐らく最深部で水深3メートルくらいにはなるはずだし、湿原に近づくことさえできなくなる。
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)

 

2007.6.3(日) 修行 

「あの人は学者肌だから、世間の出来事にはうといんだよ。」
 などと人が言うのを時々耳にすることがあるが、僕はそんなのウソだと思う。仮にそんな学者がいたとしても、その人は、よほどの天才でもない限り、大概は大した学者ではないような気がする。
 どんなことだって、極めようと思えばそのジャンル以外のさまざまな知識が要求されるし、突き詰めれば突き詰めるほど、知識の幅は広くなっていくものではないだろうか?
 生き物の写真撮影をするのに工作の技術が必要になったり、本を作るのに経済のことがある程度分かっている必要があったり・・・・。その前に世間のニーズを把握するためには、世情が多少は見えてなければならないに違いない。
 極めるとは、そんなことだと僕は感じる。

 僕は、自分が好きではない仕事や本位ではない仕事でも、物理的に可能なら、大抵は受けることにしている。
 お金が欲しいからではない。何事もやってみなければ、分からないからである。
 例えば僕の場合、自分が直接人に語りかけることがあまり好きではない。だから、講演や何かに出演するのは僕の好みではない。
 ある映画監督が、
「今回の映画はどんな映画ですか?などという馬鹿な質問をする人がいるんだ。言葉で語れないから映画を作るんだよな。」
 と言うのを聞いたことがあるが、僕の自然写真にもそれに近いものがあり、言葉にするとツマラナイものが、しばしば僕の伝えたいことなのだ。
 とは言え、それでもやってみなければ分からないと、僕は思う。だから何だってやってみる。修行と思って試す。
 その修行が、つまり自分でも納得いかないことや自分でも分からないことをやってみることが、世間が思っているよりもずっと大切なことではないか?と僕は何となく感じるのである。
 今日は、カタツムリを紹介するために、自宅の近所の神社に出かけてみた。

「カタツムリが通ったあとの粘膜の写真を!」
 という依頼を過去に何度か受けたことがあるのだが、今日たまたま見つけたカタツムリは、実によく粘液を放出するカタツムリで、わかり易い写真が撮れた。
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)

 

2007.6.1〜2(金〜土) オタマジャクシ 

 カエルの卵が親になるまでの時間は、温度の影響を受けるので、何日間と言い切ることはできない。だが、今の季節なら、アマガエルの卵の場合、産み落とされた翌々日には孵化をしておたまじゃくしになることが多い。

 孵化をした直後のオタマジャクシは、まだ顔形のようなものがはっきりとせず、中には、「これがオタマジャクシ?」と感じる方もおられるだろう。

 だが、さらにその翌日には、もうオタマジャクシらしい形になる。
 卵が産み落とされてから、今日の3番目の画像の状態になるまで、わずか3日なのである。
 僕はさまざまな生き物の卵を観察したことがあるが、アマガエルの卵の成長(発生)のスピードは驚異的だと思う。
(CanonEOS5D 100mm 65mm ストロボ)
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2007年6月分


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