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2007.5.31(水) あっという間

昨日産み落とされたアマガエルの卵は、たった一晩であっという間に生き物らしい形になった。
今日の卵の撮影は、産卵の撮影のついでであり、今年特にその写真を必要としているわけではないのだが、いったい、なんてスピードだろう!と、アマガエルの卵を撮影するたびに驚かされる。
産卵の瞬間にカメラを向けたのは、確か今年で3度目だと思うが、今回3度目にしてやっと、写真が撮れた!という実感があった。
一度目は、仕事を依頼され、気合で我武者羅に写真を撮った。
二度目は、特に仕事の依頼があったわけではないが、一度目の反省を踏まえて、こうすればもっといい写真が撮れるぞ!と、期待があったからカメラを向けた。
だが、結果は一度目よりも悪かった。
今になってその理由を考えてみると、こうすればもっといい写真が撮れる!という期待感が、僕を必要以上に自信過剰に、強引にさせてしまったように思う。頭で写真を撮ろうとした嫌いがある。
写真は、頭で撮るものではなくて、体にしみ込ませた技術で撮るものだと僕は感じる。
アマガエルの写真は定番中の定番だから、すでにありふれている。そして僕の場合は、最初はお金を稼ぎたいという理由から、その定番にカメラを向けた。
それらの写真は、それなりにお金を稼がせてくれたのだが、それ以上に大きかったのは、一つの被写体を細かく、しつこく、次から次へと撮影し、その写真をどんどん使ってもらうことで、写真撮影を体で覚えられた点にある。
その経験は、間違いなく僕の写真の基礎になった。
定番にカメラを向けるなんて、つまらないという考え方がある。確かに、定番しか撮らないのなら、それはその通りだと思う。
だが、色々な被写体にカメラを向け、やがて自分ならばでの独自の世界を築きたいと思うなら、定番にカメラを向けることは決して無駄ではないし、むしろ近道ではないだろうか?
それは、体操競技で言うなら規定の演技。
空手で言うなら、型のようなものだと僕は受け止めている。
(EOS5D 65mm ストロボ)
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2007.5.30(水) ある物質
昔、脳内革命という本が大ヒットしたことがあり、僕は、
「つまらない本じゃないか?」
と感想を書いたことがある。
脳内革命の内容を簡単に言うと、人は笑ったり楽しいことをすると脳内にある物質が放出され、その物質は健康やその他、人の生活をよくすることに結びつくというもので、
「だから、楽しく生きましょう!」
という本の趣旨には賛同するのだが、一方で読者の側のことを考えたときに、脳内にそんな物質があろうが、なかろうが、科学者が証明してくれようがくれまいが、そもそも人は楽しい方がいいに決まっているじゃないか!と僕は感じた。
なんでそんな本をありがたがるのだろう?人は、笑ったり、楽しむことにまで、科学者から「いいことですよ。」と、お墨付きを与えてもらわなければならないのだろうか?
僕は、そんな本が大ヒットすることに何か気持ち悪さを感じた。体内にこんな物質があると、物質レベルで一般の人が物事を考えることに、そんなに意味があるのだろうか?
最近では、人の態度が物質レベルで解明されることがある。
例えば、世間からだらしないとか怠けていると見られていた人について詳しく調べてみた結果、脳の中に物質レベルでの異常が見つかったりすることがある。
その結果、
「ああ、病気だったんだ。さあ〜大変だ!俺は病気なんだよ。」
ということになるわけだが、よくよく考えてみると脳の中はすべて化学反応や電気信号なのだから、あらゆる人の態度は化学物質やその他に制御されているに決まっているじゃないかと僕は思う。
科学者にとっては、その物質やメカニズムがいかなるものなのかは非常に重要なことだ。
だが、一般の人にとっては、それが物質レベルで解明されることが、そんなにセンセーショナルなことなのだろうか?病気だと嘆かなければならないことなのだろうか?
それが物質レベルで解明されようがされまいが、人はどっち道なるべくよく生きていくことしかできないのだし、もしもその人が今、社会の中で最低限生きていけているのなら、それは社会人としての役割を果たしていることを意味するのだから、科学的な知識に振り回されて病気だと心配するよりも、ちゃんと生きていると、胸を張ればいいような気がする。

僕は科学出身だから、物質にも興味がある。物質レベルの研究から分かったことに振り回せるのは本末転倒だと思うが、知りたいと思う好奇心はある。
例えば、人の体内でおきる化学変化は体内時計によって制御されていて、夜間にだけ多く放出される物質があるという。
その物質は、人の精神にも影響を与える物質であり、つまり、人は昼間と夜とでは、ある意味、体の中味が違うということになる。
そう言えば、僕は夜間の撮影がとても苦手だが、夜は何だかとても弱気になり、昼間の僕とは明らかに違う、もう一人の自分が存在するように思えることがある。
昨晩遅く〜今日は、アマガエルの産卵にカメラを向けた。

夜間でも、いったんカメラを向けて写真を撮り始めると、あっという間にそれまでの弱気は吹き飛んでしまうのだが、それまでの腰の重いこと、重いこと。
深夜にいたる撮影では、取り組む前にほぼ100%、明日に延期しようか?と検討する瞬間がある。 (EOS5D 100mm ストロボ)
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2007.5.28〜29(月〜火) 上陸

ヤブヤンマのヤゴを探しながら水溜りの中をじっと見つめていると、足元の落ち葉の間に、上陸して間もないカスミサンショウオが隠れているのが見えた。
まず先にカメラを構え、それからサンショウウオに被さっていた落ち葉をそっと取り除き、急ぎピントを合わせて数枚写真を撮り、デジタルカメラのモニターで仕上がりの具合を確認して、もう少し構図やアングルを修正した写真を撮ろうと再度カメラをのぞきこむと、もうそこにはサンショウウオの姿はない。
どうせ近くに隠れているのだろうと、あたりの落ち葉をめくってみたが見つからない。
今日の画像のサンショウウオよりも手前の部分は、僕が這いつくばるようにしてカメラを構えているから、ひじや膝をついた場所がグチャグチャにぬかるんでいて水が濁っている。恐らく、そのぬかるみの中に隠れてしまったに違いない。
(撮影機材の話)
上の画像を撮影したレンズは、ここのところ僕が大変に気に入って使っているカールツアイスの広角レンズだが、一体そのレンズのどこが気に入ったのだろう?と、注意を払いながら写真を撮った。
まずシャープさだが、画面中央では問題ないものの、端っこに近い部分の写りはあまりシャープとは言えないし、像の流れも目立つ。意外にも、少なくとも、僕がこれまで使ってきたニコンやキヤノンやシグマのレンズよりも劣るように感じる。
それから、像の歪み具合に関しては、試しに四角の物体を撮ったわけではないが、嫌な感じがない。シグマの広角レンズはマクロレンズ的に被写体に近づける特徴を持つが、近づけば近づくほど歪みが気になり、どうしても好きになれない面があったが、その点、カールツァイスはピタリと僕の視覚に合うようだ。
画像の色に関しては この日一緒に試してみたシグマのレンズと比較すると、カールツァイスが圧倒的にいい。こんなに違うの?というくらいに色がよく乗る感じがする。
ただしそれには条件があって、直接太陽の光が当たる開けた場所に関しては違いを感じないのだが、木陰になっている部分では、シグマがシアン〜グリーンに色かぶりをして、像が平坦になるのに、カールツァイスのレンズは色にコクがあり質感がいい。
僕は、開けた場所よりも、木漏れ日が感じられるような薄暗い場所で、しかも自然光でしっとりした感じに仕上げるのが好みだが、そんな撮影に、カールツアイスのレンズが合っていたのだろう。
(EOS5D)
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2007.5.26〜27(土〜日) 更新
今月の水辺を更新しました。
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2007.5.24〜25(木〜金) 科学写真(1)

僕が所属する日本自然科学写真協会の写真展・SSP展がそろそろはじまる。写真展は各地を巡回し、年に一度開催される。
写真展に合わせて、出品される作品を冊子にまとめたものが毎年準備されるが、今年はそれが冊子ではなくて本になっていて、さすがに印刷がいいし、1点1点の写真が大きいから見応えがあって楽しい。
日本自然科学写真協会(SSP)は、『自然』と「科学』を写真でつなぐことを目的として設立された写真団体だ。だからSSP展に出品される作品は、基本的に、ただ美しいだけでなく、そこに写っている現象が科学の目で見たときに興味深い現象でなければならない。
その点が、ひたすらに写真の美しさを追求する他の多くの自然に関する写真展とは異なるところであり、SSPの存在価値はそこにある。
ただ、SSP展や、SSP以外でも科学系の本や雑誌に掲載される写真の選び方に関して、
「美しい写真よりも、科学的に価値がある写真を・・・」
とおっしゃる方が少なくないのだが、僕はそれを、間違いではないか?と考えている。
写真の美しさにはさまざまなタイプがある。そして、目の前で繰り広げられている現象が的確に、きちんと説明できている写真は、不思議なことに、それを見る人に「美しい」と感じさせる力があるものだ。
例えば、ただ白い紙の上に生き物を置いて撮影しただけの写真でも、プロが撮影する写真は、
「うわっ」
と、見る人に何かを感じさせるオーラを放っているものだ。
美しい写真とは、絵画的に美しい写真だけではないはずだと思う。写真は、科学写真だからと言って、ただ写っていればいい訳ではなく、本物の科学写真は美しいものだと思う。
近年、自然写真の中でも科学写真はあまり人気がない存在になりつつあるが、そのもっとも大きな原因の1つが、
「美しい写真よりも、科学的に価値がある写真を・・・」
という発想にあるような気がする。
「美しい写真よりも、科学的に価値がある写真を・・・」
と主張する人には、真面目な人が多いように思う。
それは、質実剛健のつもりなのかもしれないが、実は、ただアイディアに乏しいだけの写真であるような気がしてならない。
僕は子供の頃に
「努力をしなさい。」
と周囲の大人によく言われたが、その努力とは、ただ真面目にすることではなくて、自分のアンテナをしっかりとたてた上で何かアイディアを生み出そうと頭を使うことではないだろうか?
ただ真面目であることや我慢することは、むしろ、考えることを放棄した、究極の怠慢の1つであるような気がする。
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2007.5.23(水) スタジオらしい写真

昨日、湿原の中を流れる小川にカメラを沈めて、コオイムシの写真を撮ったが、一般的には、水中に生息する昆虫を野外で撮影することは非常に難しいから、大抵の場合は水槽の中に自然の水辺を再現し、それにカメラを向けることになる。
だが機材に工夫を施し、あとは撮影時の条件さえ整えば、水中の昆虫を自然条件下で撮影できることもある。
とは言え、どんなに工夫を施しても、水の中を撮影するとなると機材がそれなりに大げさになったり、いろいろと制限もあるから、そうした撮影は面倒な作業の部類に入るだろうと思う。
ところが、それで撮影できる写真は水槽とは比較にならないほど生き生きしており、やがて少しずつ要領をおぼえるにつれて、僕はいつの間にか面倒だという気持ちよりも、とにかく水中をカメラで覗いてみたいという気持ちの方が上回るようになってきた。
それと同時に、これまで散々試みてきた水槽での撮影が、実にあほらしく感じられるようになってしまった。

今年は、これまでのところスタジオで撮影した写真をほとんど見せていないが、その理由は、スタジオがサンショウウオを撮影するための水槽で占領されており、その他のスタジオ撮影が出来なくなってきたからだ。
今年は、野外でカスミサンショウウオの撮影を進めているから、それと並行して水槽を使用した撮影もこなし、野外では撮影不可能なカスミサンショウウオに関する細かな部分を写真におさめておこうと考えた。
だが、野外の水溜りにカメラを沈めるようになってからは、どうしても水槽での撮影が面白くない。どんなに水槽の中で凝ってみたところで、それは所詮、自然の中で撮影された写真の足元にも及ばないのである。
明日にしよう、明日にしよう、と水槽での撮影が次々と先送りになってしまう。
だから今日は、一層のこと水槽は片付けてしまおう!と決意し、スタジオではもっと別なスタジオらしい写真を撮影することに改めた。
(EOS5D 100mm ストロボ)
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2007.5.22(火) 良すぎるポイント

僕は、渓流釣りに夢中になった時期があることは、以前にも何度か書いたことがある。
渓流と言えば、ヤマメやイワナを狙って釣り糸を垂れるわけだが、どんな場所での釣りが難しいか?と言えば、魚がたくさん潜んでいそうな、スケールが大きくて良すぎるポイントでの釣りが難しい。
いい場所がたくさんあると、その中でベストのポイントはどこなのか、的が絞りにくいのである。
逆に、あまり大したことがないポイントでは、この辺りで魚が釣れるとしたらもうここしかないよね!と大半の場所が消去法で消されてしまうから一点に的を絞れるし、釣りは易しくなる。
生き物の写真撮影にも、それと似たようなところがあると思う。スケールが大きくていい環境で写真を撮る場合、しばしば的が絞れなくて、なにやら非常に撮影が難しく感じられる。
今日は、これまでにも何度か紹介した、山の上の湿原に登ってみた。雄大なこの場所では、いつも何に的を絞ればいいのかと、頭を悩ませることになる。

この場所にはほとんど人が訪れないから、今にも倒れそうな危険な倒木でも、片付けられることなしに放ってある。
ある年、何かの具合で倒れそうになった樹木は、大抵の場合、いきなりズドーンと倒れて枯れてしまうのではなくて、最初は他の木に寄りかかるように倒れ、少しずつその倒れかかった角度が増し、その翌年、翌々年と新しい葉っぱを出しながらも、少しずつ弱り、やがてある年に枯れ果てる。
高度な神経系を持つ動物の場合は、大きなダメージを受けると、ごく短時間のうちに死んでしまうことが多いが、植物の場合は、人間のような生き物とは違う死に方をするのだと、そうした様子を目の当たりにして、僕は感じた。
そうした人間の尺度では測りにくい存在を表現してみたい!と感じたのが、この湿地へと通うようになったきっかけだった。

何度も何度も同じ場所へと通うと、やがて少しずつ物が見えてくる。
最初は気にも止まらなかった場所が、何度も通ううちに、この湿地を語る上で、それなりに意味を持つ場所だったことに気付かされることもある。
この湿原は、元々は渓谷だった谷が、火山の噴火の際に堰き止められて出来た湿原だ。だから、今でも火山の噴火の際に転がってきた岩がむき出しになっている場所がある。

元々この場所にあった沢は、今でもまだ流れている。
だが、湿原の端っこで沢は途切れていて、画面手前側の石の辺りに小さな穴があり、水はそこから地下へと流れ込む。

今日の目的は2つ。
1つは、この時期この湿原で点々と見つかるコオイムシの撮影。あとの1つは、サンショウウオの幼生の撮影だ。
(EOS5D 17〜40mm 70〜200mm 25mm)
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2007.5.20〜21(日〜月) いいこと

善意というやつは、時に恐ろしいものだと感じる。自分はいいことをしていると考えている人は、下手をすると、むしろやっかいな存在になり得るように思う。
だから僕は、「自分たちはいいことをしている。」とか、「正義だ!」という人からは、一定の距離をとることが多い。
いつかも書いたことがある。
「こんな場所で何を撮影しとるんですか?」
「サンショウウオの卵があるんです。」
「えええ!何でこんな場所に・・・」
「ここには魚がすんでいないからサンショウウオの子供が食べられないし、こんな落ち葉がたまった水溜りがサンショウウオにとってはいい環境なんです。」
「そうか・・・、私は魚でもいた方がいいと思って、ここに魚を放したことがあるし、水草をたくさん植えたこともあるんだけど、そんなことはしない方がいいんだね。」
「きっとそうだと思います。」
「昔、何度か水草を入れたことがあるけど、すぐに誰かが採ってかえっちゃうんですよ。だから怪しからんなぁと思っていたのだけど、放っておくのが一番か・・・」
北九州の山中のある水溜りでサンショウウオの撮影中に、通りがかりのおじさんから声をかけられ、そんな会話を交わしたことがある。
そのおじさんとはそれ以降も時々顔を合わせる。だが、また新たに会話を交わす時には、
「せっかく私が水草を植えたのに、怪しからんことに誰かがとってかえっちゃうんだよなぁ。」
という話にまた逆戻りしている。
この水辺を利用する生き物からすれば、水溜りが水草に占領されてしまっては困るし、おじさんがせっかく入れた水草ではあるが、誰かがとって帰った方が望ましいだろう。或いは、この水辺の自然に興味を持っている誰かがあえて水草を処分した可能性もあるだろう。
ともあれ、そのおじさんにとっては、水草を入れることはいい行いであり、その感覚がどうしても取れないのだろうと思う。
今問題になっている外来魚のブラックバスだって、
「ブラックバスが身近な池にすんでいたら、楽しい釣りができてみんなが喜ぶだろう。それは素晴らしいことだ!」
と、元々は善意に近い気持ちから放流されたものだ。
「それだって釣り師のエゴだ!」
と感じる方もおられるだろうが、数十年前の古い釣り雑誌などに目を通し、当時、外来魚を放した人たちの記事を読むと、そうした善意の思いが、熱く、熱く、伝わってくる記事を見かけることがある。
ブラックバスと同様に問題視されているブルーギルだって、確か、その当時の皇太子さまが、何かの記念である水辺に放流したものが全国に広がったのだという記事を読んだことがある。
当時は、外来魚の放流が問題を引き起こしうるなどという意識を持っている人が少なかったのだろう。やっぱり、それだって、いいことだったのだ。
だから、ブルーギルやブラックバスを最初に放流した人を責めるのは酷だと僕は感じる。誰も悪くないとも言えるし、だからこそ、善意って怖いなぁと思うのである。
もしも、当時、外来魚を放すことには問題があると指摘をする人がいたなら、放流を進めていた人たちは何と答えただろう?
善意からそう振舞っている人は、大抵、
「新しいことをする人は、最初は絶対に受け入れられないものだ。」
と答えるし、こうなるともう会話が成立せず、相手が善意であればあるほど聞く耳を持たないので、どうにも手が付けられなくなる。
新しいことをするのは悪くないと思うが、新しいことをする人は、よっぽどによく物事を勉強する必要があると、僕は思う。

今日は、その水溜りで、サンショウウオの幼生にカメラを向けたが、浅い水中での撮影はやはり非常に難しくて、結局今日は一枚も納得できる写真が撮れずに終わった。
(EOS5D 25mm)
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2007.5.19(土) オオルリの巣

洞窟の中を流れる川を取材する関係で、化石を探そうとしてある岩場に近づいたら、オオルリのメスが飛び出してきた。思いがけないところで、オオルリの巣を見つけた。
洞窟にもいろいろな種類があるようだが、現在僕が取材している洞窟は鍾乳洞と呼ばれるタイプの洞窟だ。
鍾乳洞は、石灰岩という岩が、水によって溶かされた結果形成された穴である。
なぜ、石灰岩が水に溶けるのかは省略するが、石灰岩は、大昔に貝やサンゴだったものが変化してできたと考えられている。だから、石灰岩の地質を探すと、化石が見つかることがある。
オオルリの巣は、まさに目線の高さに作られている。すぐ目の前には、二台の車が離合できないような細い道路があり、その道路の反対側には十分なスペースがあるから、この巣の撮影を続けようと思えば容易いのだが、今年は残念ながらいそがしてく、そのゆとりがない。
ただ、恐らくこの場所には毎年のように巣を作っているはずだから、いずれ時間をかけて撮影してみたい。

肝心な化石の方は、僕が思い描いていたようなものをみつけることが出来ず、仕方なく予定を変更して洞窟内部の撮影に向かっていたら、エビネが花を咲かせていることに気が付いた。

エビネの撮影を終え、洞窟に入ろうとすると、今度はカタツムリを発見。これは、恐らく、世の中で北九州のある狭い地域のみに生息するナカヤママイマイではないか?と思う。
ただ、あまりに珍しい存在なので、生きているナカヤママイマイの画像が図鑑はおろか、インターネット上で検索してみても見つからないし、これがそうであると断定することができない。カタツムリマニアと言っても差し障りがないような人でも、ナカヤママイマイを見たことがある人は、ほとんどいないのではないか?と思う。
いやいや、ナカヤママイマイという名前さえ、マニアでも知らない可能性だって十分にある。
肝心な洞窟の中の撮影は、化石どうように、これまた思い描いていたように進めることができず、結局今日は、何も仕事を進めることができなかった。
(EOS5D 300mm)
(EOS5D 100mm)
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2007.5.17〜18(木〜金) 雰囲気
北九州のある山中で進めていたカスミサンショウウオの撮影が、だいたい山を越えたように思う。その撮影の中の一番難しいシーンに関して、ほぼ納得できる写真を撮影できた。
難しいシーンと一言で書いたが、写真撮影には様々な類の難しさがあり、一概ではない。
例えば、オタマジャクシを撮影して欲しいと依頼され、それを写真に収めることは易しいだろうが、絵にすることは非常に難しい。
一方で、カワセミの捕食の瞬間を撮影して欲しいと求められたとして、それを撮影することにはそれなりの困難がつきまとうかもしれないが、絵にすることはそんなに難しくないだろう。元々様になるシーンなのだから、撮影さえできればごく自然に絵になる。
カワセミの撮影は、例えるなら日本の大学に入学するようなもので、入り口は難関かもしれないが、いったん入ることができれば、あとは易しい。
カスミサンショウウオなどという絵になりにくく、写真の被写体として退屈な相手を題材にして、それを魅せる写真に仕上げるのは非常に難しい。
まず、地味な被写体だけに、こんな写真を撮ろう!というイメージが頭の中に湧いてこないし、だから現場に出かけて同じようなシーンに何度も何度もカメラを向け、その結果、たまたま何か条件が整い、様になる一枚が撮影できるまで待たなければならないのだ。
とにかく、今回僕が目指している本は、写真の魅力でみせる、写真が語りだすような本なのだ。
そうした、ただ撮影するだけなら易しい被写体にカメラを向ける場合、被写体が写真に写っているかどうかではなくて写真の雰囲気が問われるわけだが、雰囲気というやつは客観的な評価が非常に難しくて、果たして自分が自分を納得させられる写真が撮れているのかどうか、それが分からないことが多い。
そのような状況に答えを出すには、とくにかくたくさん写真を撮ってみて、その結果、
「あっ、やっぱりこの写真がいいな。」
と、心が自然に落ち着く、落とし所を見出すほかないような気がする。
ところが本作りに携わる編集者は、しばしば自らが写真撮影の訓練を積み、たくさんの写真を撮影しているわけでもないのに、目の前にある写真の雰囲気の良し悪しを実に見事に感じ取るのは、一体どうしたことなのだろう?
写真家は写真術を身につけることで、理屈っぽくなったり、その分どこかが盲目になり、雰囲気を感じ取る能力が失われているのかもしれない。
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2007.5.15〜16(火〜水) 環境について語る本
昆虫写真家の海野和男先生と共著で作った本、偕成社の「都会にすみついたセミたち」は、クマゼミやミンミンゼミなど都会で増えているセミを中心にとらえた本で、僕はその中で、クマゼミの写真を撮った。
そして、もしも僕がクマゼミに関して必要な写真をすべて撮影することができなかった場合は、代わりに海野先生がすでに撮影済みのニイニイゼミを多少取り上げようかということになっていた。
実際には、クマゼミの生活環を1シーズンで、卵〜孵化〜地中での様子〜羽化〜交尾〜産卵とすべて撮影できたから、ニイニイゼミのページはなくなってしまったのだが、うまく撮影できなかった時に備えてあらかじめ考えてもらっていたので、僕は気楽に撮影ができた。
ある期間で、絶対に写真を撮らなければならない!となるとやはりプレッシャーがかかるし、僕は日頃、多少足がすくむような思いがすることもあった。その点、「都会にすみついたセミたち」では、あまりプレーシャーを感じる必要がない状況で伸び伸びと撮影させてもらうことができたし、その結果、自分で思っているよりももっとたくさんの量の写真が撮れるものだなぁと僕は感じた。
仕事を受けるときには、決められた期間の間にそれらの撮影をすべてこなすことができるかな?などとあまりに考えすぎるよりも、覚悟を決めて仕事を受け、我武者羅に撮影すればいいと思うようになった。
一言でいえば、自信をつけさせてもらったのだろう。
他にも、この一冊の本を作った結果、学んだことが幾つかある。
例えば、「都会にすみついたセミたち」は、虫を通して環境について語る本だったのだが、今になって眺めてみると、やはり虫の本になっているように思う。
そこから逆算していくと、ならば環境について語るためにはどうしたらいいのだろう?と考えるきっかけを与えてくれた。
そして、それを僕のテーマである水辺でチャレンジしてみようと、昨年から幾つかの場所を設定し、同時進行で撮影を進めている。
どうしたら、いわゆる生き物の本に終らない環境について語れる本ができるのだろう?
僕はこれまでに、すでに撮影済みの写真をパソコン上で本の形にして、何度も何度も眺め考えてきた。そして、ここ数日も、新たに撮影した写真をまたパソコン上で本のページの中に組み込んでいるのだが、前回、
「これで行ける!」
と思った部分にまた修正を加えることになるなど、考えても考えても、まだ考えることがある。
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2007.5.14(月) 生態系

過去に何度か紹介したことがある事務所の近所の水路を、見下ろすようなアングルから撮影してみた。
上の写真に写っている範囲が、僕が日頃魚たちの写真を撮っている水路の区間になる。車の大きさから大体の距離が想像できると思うが、徒歩でもあっという間に端から端まで歩けるくらいのごく狭い範囲で僕は取材を進めている。
以前にも書いたが、ここ昔は田んぼだった場所であり、水路は元々田んぼに水をひくためのものだ。今では、田んぼだったと言われなければ分からないくらいに、住宅が立ち並んでいる。

今日は、大きなコイの姿を多く見かけたが、これまでにこの水路の生き物として紹介したのは、雷魚、カダヤシ、ミシシッピーアカミミガメ、フナ、アオモンイトトンボ、オオカナダモ。そして、まだ日記の中で画像を見せたことがないのが、アメリカザリガニやスクミリンゴガイなどだ。
この水路では、日本に従来から住んでいた生き物と帰化生物とが入り混じっており、それはそれなりにバランスが取れている。
最近、
「放流されたブラックバスの影響で生態系が破壊されている。」
などという言い方をよく耳にするが、僕は間違いだと思う。
なぜなら、生態系が破壊されてしまうと、ブラックバスだって生きていくことができないはずだし、ブラックバスがたくさん生存できるということは、どこかで食べられる側の生き物との間で調和が取れているはずだからだ。
帰化生物が棲みつくと生態系が破壊されるのではなくて、今までとは違った、また新しい生態系へと変化するのだと思う。
人の手で何らかの生き物が放された結果、生態系がそれまでになく急激な速度で変化をすることの是非はいったん置いておき、仮にブラックバスのような帰化生物が放たれることがなくても、僕は、生態系とは元々常に変化する存在ではないか?と感じる。
ところが自然は人が手を加えない限り永遠だというイメージがあったり、永遠であって欲しいという願望が人の心の中にあり、自然は変わらないはずというように見ているから、生態系に何らかの変化が見られたときに、それを破壊と呼んでしまっているような印象を受ける。
でも実際には破壊ではないから、そのうちブラックバスだって日本の魚の一員になり、あと100年もたたないうちに、「ブラックバスには問題がある!」などとは、誰も言わなくなるような気がする。
僕はブラックバスの存在を認めたくないし、駆除できるのならそうした方がいいとは思うのだが、外国から持ち込まれた生き物が日本の生態系の中に居場所を見つけ、安定してしまってからではもう手遅れだし、それよりも新しい生き物が簡単に海外から持ち込めないように、みんなで声をあげることができないものだろうか?
(EOS5D 70〜200mm)
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2007.5.13(日) 小ささ

学生時代に、友人が「タヌキの写真を撮った!」と言うから見せてもらったら、どこにそのタヌキが写っているのか、なかなか気づくことが出来なかった経験がある。
「え?どこ?」
「えっ、見えないの?そこに写ってるじゃない!」
そのタヌキが、写真の中で米粒のように小さく写っていたわけではない。むしろ逆に、画面いっぱいに顔のUPが写っていて、背景とタヌキとの対比ができにくい写真だったから、写っているタヌキに気付けなかったのだ。
写真を撮影する際には、なるべく主要な被写体に存在感を持たせたいものだが、だからと言って被写体を大きく撮れば、それで必ずしも存在感が増すわけではないし、むしろ被写体が小さく写っていても、その小さな被写体に見る人の目をパッと釘付けにさせるのが写真家の技術の1つであるとも言える。
僕が最近非常にこだわっていることの1つだ。
被写体を闇雲に大きく撮影するのは、ある意味、安易であるような気もする。
なぜなら、被写体を大きく撮影すればそれによって失われるものもあり、例えば、被写体の小ささは伝わりにくくなるし、現に、昆虫の小ささを感じさせる写真は、なかなか見かけない。
物の大きさに関する情報が、切り捨てられてしまうのである。
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2007.5.11〜12(金〜土) 大家族制度

僕は最近、日本従来の大家族制度を見直したい気持ちになっている。
例えば、時々父が購入した本を勝手に読んでみることがあるが、それらの本の大半は、僕が父と同居していなければほぼ100%知りえなかった本だろうと思う。
最近では臨床心理学の第一人者・河合隼雄さんの著作を読んだが、その中で禅について触れられた部分には大変に興味をひかれた。
禅の老師が杖を見せて、これは何か?と問いかける。
「杖です。」
と答えると喝が入り、今度は、
「杖ではありません。」
と答えると、また喝が入る。
杖でもダメ。杖ではないでもダメ。いったいどう答えればいいのだろう?
河合さんによると、その禅の老師の振る舞いは、家庭内暴力を振るう子供の振る舞いと良く似ているのだと言う。
子供が暴力を振るいながら、
「何で俺を産んだんだ。俺に謝れ。」
と親に求め、
「申し訳ありませんでした。」
と親が謝ると、今度は、
「何で謝るんだと。」
とさらに腹を立てる。
謝らなくてもダメ。謝ってもダメ。そこでその子供が求めている答えは、人はどこから来て、どこに行くのか?人っていったい何なのだ?という人の存在に関する問いかけであり、河合さんには、それが禅問答に通じるような気がするのだそうだ。
家庭内暴力ではなくても、誰でもが程度の差や次元の差こそあれ、同じようなことを体験するのではないだろうか?
例えば僕の場合は、毎年6月になると、児童書の中でカタツムリやアマガエルとアジサイの組み合わせの写真をたくさん使用してもらう。それが定番なのである。
ところが、自分も含め、真剣に出版に携わる多くの人が、
「またアマガエルとアジサイか・・・、何か新しい物はないのか?」
と実は頭を悩ませている。
そこで、
「じゃあ、今度はトノサマガエルで行きますか!」
と提案しても、それは表面的な変化でしかなく、しばしば本質的な解決にはならない。アマガエルでもダメ。アマガエルじゃなくてもダメ。
そうして思うと、河合さんの家庭内暴力に関する話は僕の悩みでもあり、自分が何にどういう風にカメラを向ければいいのかを考えるきっかけにもなる。
ともあれ、僕はだいたい勉強が嫌いだから、身近な場所に父が存在しなければ、本を読むこと自体、滅多にないだろう。
ただ、子供の頃に父が読ませようとして買ってくれた本を、僕は読んだ記憶はない。多分、その手の本は手をつけられないまま、どこかに処分されてしまったに違いない。
親が子供に、この本を読ませようと買い与える場合、そこには親の意思があるわけだが、親の意志や志や教育や努力があれば、それが必ずしも何かに結びつくわけではないし、逆に、そんな意思などなくても、家族がただそばに存在するだけで、それがそれなりの役割を果たすこともある。
もちろん親の意思も大切だと思うが、それ以外にも大切なものがあるような気がしているのである。
さて、昨年撮影した写真が全27ページの本になって届けられた。
この本の撮影の中で僕は自動車屋さんを経営する知人にお願いして、お孫さんにモデルになってもらって撮影した写真があるのだが、お父さんやお母さんが仕事に出て留守をしていていも、おじいちゃんがおばあちゃんが店いて、そうした大家族的な環境の中でみんなの手で育てられている子供の健全さのような何かを、僕はその撮影の際に感じた。
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2007.5.10(木) お知らせ
以前に一度お知らせしましたサンケイ・エクスプレスでの連載、毎週土曜日に自然写真家が登場して新聞の一面いっぱいに写真および記事が掲載されるのですが、僕の次に伊藤健次さん、田中達也さん、吉野雄輔さんと続き、明後日12日の土曜日に、また僕の順番が回ってきます。
新聞が販売されるのは、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)と京阪神地区、奈良、和歌山市のみですが、特に関西地区では駅での一部売り・70円もあるようなので、是非ご覧ください。
自分の記事はさておき、新聞全体に読む場所が多く、電車などでちょっとした移動をする際にも、退屈しのぎの週刊誌を買うよりもずっと安くて、読み応えがあるのではないか?と思います。
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2007.5.9(水) 挨拶

昨日のうちに島根県から北九州まで戻った。今日は、北九州の山中にある水溜りでニホンアカガエルのオタマジャクシにカメラを向けた。
生き物の活動が活発な季節に突入し、同時進行している幾つの撮影が時々重なるようになり、慌しくなりつつある。
今日の場所は、小倉の繁華街から近い場所にあり、それが面白くてカメラを向けているのだが、たくさんの人が散歩に訪れ、大抵の人は、すれ違う時に軽く会釈をするなど、やや遠慮気味に挨拶をしてくださる。
山に登ると、
「こんにちは〜」
と、すれ違う相手と元気良く挨拶を交わす習慣があるが、僕はどうしてもその習慣が好きになれない。中には、挨拶したくてしたくてたまらない方が、遠くからそのタイミングを見計らい、待ち構えているとしか思えないようなことがあり、頼むからやめてくれよ〜とお願いしたくなることもある。
だが、今日の場所で通りかかった方々が挨拶してくださることは、なんだか気持ちがいい。
登山に出かけた際に挨拶が交わされる時には、山ではそうするものだと、それがしばしば形式化されているのに対して、今日の場所では、例えば僕の場合なら三脚やたくさんの撮影機材を持っているから、一種の不審者であり、
「この人何しているんだろう?」
と相手が、興味であれ、警戒心であれ、何らかの思いを持ち、声をかけてくださっているような感じがする。
また、ごく普通に散歩をする方々どうしだって、大抵はリピーターであり、何となく顔なじみでもあり、頻繁にすれ違うから挨拶が必要なのだと思う。
山の中でも、滅多に人と出会わない場所では、僕だって、ごく自然に挨拶の言葉が出る。なぜなら、遠くから足音やその他、何かの気配が伝わってくるとお互いに警戒をするものだし、挨拶をすることでその警戒を解くことができるからだ。
挨拶をすることがマナーだといった理由でマナーを押し付けられるのは、僕はごめんだ。マナーは、法と違って個人個人の感じ方に属するものであり、そうしなければならないとか、守らなければならないから守るのではなく、その人の心が守りたいと主張するから美しいし、マナーを守ることがステイタスであり得るのだと僕は感じる。
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2007.5.8(火) 椿

まだ薄暗いうちに山道へと入り、山中の湿原を目指す。
今日の目的はその湿原そのものではなく、湿原を遠くから見下ろすことができるような撮影ポジションを探すことだ。
山の麓から湿原までは登山道を片道1.8キロ。軽装なら1時間を少しきるくらい。あらゆるシーンに対応するための本格的な機材を背負うと、1時間半くらいの時間をみておかなければならない。
今日は湿原から、さらに片道2キロの登山道を登ってみた。
残念ながら、僕が思い描いたようなシーンを撮影できる場所はなかったのだが、ちょうど椿が花を落とす頃合だったようで、ところどころに椿の赤い花が見事に散りばめられていた。
思い描いていたシーンは撮影できなかったけどれも、その分時間ができたから、代わりにその椿にカメラを向けるゆとりができた。
この場所は特別に絵になるような場所でないが、こうしたシーンを目にする機会に恵まれると、人の手で作られた花の名所が実につまらなく感じられてくる。
僕はやっぱり自然が美しいと思う。
(EOS5D 17〜40mm)
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2007.5.7(月) 青野山

中国山地の丸くて穏やかな山の形は、まるで「まんが日本昔話」の中に出てくる昔の日本の景色のようで、なんだか心が癒される。特に、山口県〜島根県の県境あたりが僕は好きだ。
今日はその中でも青野山の姿を写したかったのだが、いざカメラを向けようとすると、なかなか納得できる撮影ポジションがない。
青野山がまん丸に見える場所では、手前の目障りな位置に電柱があったり、電柱がない場所では、山の形が丸っこく見えなかったり・・・
一時間ほど散々あたりをうろうろして最終的に一箇所に的を絞ったが、パソコンで画像を拡大してみると、イマイチかなぁとややがっかり。
ひどい写真ではないが、雰囲気があと一歩伝わってこない。良かれと思って手前に入れた茶畑が、むしろ山への視線を邪魔してしまいよくないのかなぁ?
僕の場合、風景の撮影はほとんど遊びレベルなので、風景写真の専門家からは、「違うぞ!」と言われてしまう可能性もあるが、山のように高さがある被写体にカメラを向ける場合は、例えば、向かい側の山の上からカメラを向けるなど自分も高い場所に立つか、或いはわざと山から離れ、遠い場所から望遠レンズで撮影するのが効果的な場合が多い。
ところが、どうしても、それが可能な場所が見つからないのである。
明日は、また別の撮影を予定しているが、その帰りにでも、もう一度青野山の景色の撮影にチャレンジしてみようと思う。 (EOS5D 17〜40mm)
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2007.5.4〜6(金〜日) 上向き
頭痛と鼻水がようやく治まったかと思えば、一昨日〜昨日は腹痛に襲われた。先日、取り付けたばかりのウォッシュレットが、さっそく大活躍することになった。
ただ幸いにも僕の体調だけでなく天気も悪くて、しかも風が強くてなおさら撮影日和ではなかったから、これ!といってどうしても撮影したいものもなかったし、穏やかな気持ちで療養することができた。
今日の調子はかなり上向きだ。
今年のうちに撮影しなければならないシーンは、ここひと月くらいでいろいろと下見をしたり、調べたり、機材を準備したりして、だいたいすべて目処が立った感じがする。
もちろん、実際にカメラを向けてみたら予想よりもずっと撮影が難しかったというようなことは日常茶飯事であり一筋縄ではいかないものだが、ただそれでも、これは最終的には撮れる!という予感のようなものがあって、その予感が、生き物という予定が立てにくい相手を素材にして仕事をすることを可能にする。
今年は、どうも6〜7月に多くの撮影が重なり、それなりの修羅場を迎えるに違いない。
今回の風邪は、実は思いがけずひいたものではなくて、明らかに体調管理が悪くて、油断があった。
だから、もっとも忙しくなるであろう時期よりも前に、あらかじめ風邪をひき油断していることを思い知らされたのも、案外悪くないかもしれない。
ちょっとばかり爺臭いが、やっぱり健康が一番。
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2007.5.2〜3(水〜木) 環境に優しい!
昨年まで、5月の上旬は3年連続してトンボの写真を撮った。トンボの写真家・西本晋也さんに連れられて、トンボマニアにしか分からない世界を体験してきた。
僕自身はマニアックな世界にはあまり興味がないし、そこを目指そうとは思わないのだけど、マニアの世界を「おもろいなぁ〜」と楽しめる程度に知っておけば、それによって自分の視野がずっと広がるからである。
例えば、ムカシヤンマという特殊な生き方をするトンボがいる。
特殊な生き物だけにそのムカシヤンマ生態を見ることは難しいのだが、一昨年はマニアの方々が探し当てた場所で、ムカシヤンマのヤゴから成虫が羽化するシーンを見ることができた。
それを見たからといって、ムカシヤンマのヤゴが生息する場所を自分で探せる域にはなかなか達することができないが、それでも、実際に自分の目で見たことがあるのとないのとでは大違い。
ところが今年は風邪が悪化して、そのトンボの撮影会に参加することができなくなった。ほぼ恒例の行事のようになりつつあったし、非常に楽しみにしていただけに残念だが仕方がない。
1日に急激に悪化した風邪の症状はさらに進み、2日は熱が高くなり、鼻水がとめどなく流れ、頭がガンガン痛くて時に吐き気もする。
かと言って、じっと寝ていると益々気分が沈み込む。
病は気からと言われることがある。もちろん、すべての病が気から始まるとは思わないのだが、気も多分にあると僕は信じるし、じっと寝て、「俺は風邪だ!俺は風邪だ!」と嘆き節になるよりも、むしろ負担にならない程度に何かをする方が気分が紛れて回復が早いといつも感じる。
そこで今回は、事務所のトイレにウォッシュレットを取り付けることにした。
先日、自宅で母から、
「ウォッシュレットを使いなさい。」
と勧められた。
「いや、僕は使わん。」
「痔が悪くなるよ。」
「僕は痔になるほど頑張らないことにしてるから、そんなものには用がないし。」
「いやいや、いつか痔になるからから気を付けておいた方がいい。絶対になるもんなんよ」
「その時は、我慢しないですぐ手術したらいいやん。」
などと答えつつ、全く耳を貸さないのも悪いと思い、先日改築して新しくなった自宅のトイレのウォッシュレットを試しに使ってみると、かなりの量の紙を節約できることに驚かされたのである。
これは環境に優しい!
むかし、家族がTOTOに勤めていて自らをウンコ通と自称する知人に聞いた話によると、便の切れにはかなり個人差があり、知人の場合は非常に切れがよくて、ほとんどお尻を拭く必要がないのだという。
だとすると、僕はあまり切れがよくないから、紙がたくさん無駄になる。
「そんなことってあるの?それって本当?」
「だって、犬なんかはお尻を拭かないでもいいでしょう?」
「確かにそうだねぇ。切れの違いね・・・」
「だから僕の場合は家族がTOTOに勤めているのに、ウォッシュレットの必要がないんですよ。」
ともあれ、近所のホームセンターに行ってみるとウォッシュレット一台2〜4万円台で取り付けられることが分かったし、トイレの中にコンセントさえあれば、大抵の場合、自分で取り付けられるとのことなのでそのまま1つ購入してかえり、早速取り付けてみた。
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2007.5.1(火) 風邪
僕くらいの年齢の人で、
「いや〜最近ふけたなぁ。」
などと真顔で言う人が時々いるから、驚かされる。
野球やサッカーなどのスポーツ選手ならともかく、少なくとも自然写真業界では、僕は若手、その中でもかなり下っ端の方に属する。また、30代〜40代は働き盛りと言われている年齢であり、僕自身も、多少体力は落ちても、それ以上に経験から得られるプラス面の方が断然に大きく、仕事全体を考えると、以前に比べるとずっと効率があがるようになってきた。
ただ、確かに無理が多少きかなくなりつつあると、感じることはある。
例えば、以前はインフルエンザが発病している時にでも必要があれば撮影に出かけたし、それでもカメラを構えている間だけは不思議と体がきつくなくなり、仕事ができた。
その点、最近では体調が悪いとてきめんに仕事の出来栄えに響くようになった。
ここ数日は、やや体が重たいように感じていたのだが、今日は喉が痛くて、くしゃみと鼻水が止まらなくなった。どうも風邪を引いてしまったようだ。とにかく、何を試みても全く集中できないのである。
あ〜時間が勿体ない。
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