撮影日記 2007年4月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2007.4.28〜30(土〜月) 山口へ 

(秋吉台)
 北九州の平尾台には洞窟が多いが、洞窟の本場は山口県の秋吉台である。
 だが、カメラを向ける面白さという点では、平尾台が上。
 その理由はあまり観光化されていないことと、調べられていないから。特に生き物に関しては、平尾台ではほとんど何も調べられていないのに等しい。
 ただ、洞窟の中の生き物を調べるのは特殊な環境ゆえに非常に難しいから、平尾台で探す前に、まず山口県内のよく調べられている場所で解説を受け、多少なりとも目を養っておきたいところだ。
 そこで一昨日は、山口県内の研究用の洞窟に案内してもらい、幾種類かの洞窟性の生き物について教わった。
 僕をガイドしてくれたのは村上君という山口大学の生物学の学生さん、つまり僕の後輩になる。僕はてっきり、洞窟性の生き物について大学で研究をしているのかと思ったのだが、村上君の話を聞いてみると、研究のテーマはゾウリムシという微生物で、洞窟は趣味なのだそうだ。
 研究用の洞窟から出ると、今度は観光洞窟にも入洞して、例年コウモリが繁殖する場所を確認。
 ついでに、秋吉台エコ・ミュージアムという博物館に入館してみると、自然解説指導員の田原さんがなかなか詳しくコウモリの状況について教えてくださった。
 僕が大学〜大学院の6年間を山口市で過ごしたから、山口は僕にとって北九州の次に馴染みのある場所だし、そこで、
「実は僕は山口大学の卒業なんですよ。」
 と口にするのは、何だか嬉しい。

(恩師の元へ)
 秋吉台を見た翌日は、大学時代の恩師の元をたずねた。
 僕の恩師・千葉喜彦先生は昆虫の体内時計の研究の第一人者だが、すでに退官され、最近は毎日のように、元々好きだった絵画を描いておられるのだという。
 先生の自宅をたずねると住居の隣に立派なアトリエが増築してあり、ちょうどご夫婦で100号の絵を描いておられるところだった。
 千葉先生は、一言でいえば一匹狼タイプ。先生が大学を退官されてもう10年以上がたつのだが、その点に関しては今でも僕が在学中と全く同じ。 
 常に、「俺はこう思う!」という自分の意見を貫き、大衆が何と言おうが、自分は自分という姿を見せてくださる。
「ここ最近は洞窟の取材をしているのですが、つい先日はコウモリの写真を撮影しました。」
 と先生に話してみると、
「洞窟といえばコウモリは定番だし、面白くないんじゃない?」
 と、非常に鋭い意見が返ってくる。
 先生は、定番だからそうするというような振る舞いを非常に嫌う。
 山口県には蛍の名所が多いが、
「何でもかんでも蛍って言うのは、本当につまらないと思いますね。蛍はもうつまらないから、オヤニラミが普通にたくさん見られる川を目指したらどうだ!」
 と、つい先日も提案してこられたのだそうだ。
 オヤニラミというのは山陽に比較的多くみられるスズキの仲間の淡水魚で、山口では田んぼの水路などにも数多く見られていたものが、近年はめっきり少なくなった。
 ともあれ、僕も一人の時間を要求するタイプだし、だいたい一匹狼タイプの人が好きだから、時々無性に先生の話が聞きたくなるのである。

(水路へ)

 今日は、事務所の近くにある、例の汚いのにやたらに魚が多い水路にカメラを向けた。
 この場所では40〜60センチくらいの雷魚が点々と見つかるが、藻の上ではなかなか見事な保護色になっている。

 前回この場所を撮影した際に、水中にも獣道のようなものがあると書いたが、水中の獣道は大小いろいろな魚が通るから、こうして2種類の魚が鉢合わせになることもある。
(CanonEOS5D 70〜200mm)

 

2007.4.26〜27(木〜金) ゴミ問題 

 サンショウウオの幼生が生息している水溜りに出かける予定だったのだが、どうも天候が思わしくない。
 そこで、ここのところ溜め込みがちだった画像の整理に励む。
 僕は、撮影後の画像をほぼその日のうちに整理して、あとはメディアに焼き付ければいつでも、どこにでも貸し出しができるような状態の整えるのだが、今シーズンに限って言うと、撮影に追われて、そのための時間が不足しがちになっている。
 整理とは、まず多量に撮影した画像の中から必要なものを選び出し、色や明暗を整え、生き物の名前やその他必要事項を画像ファイルの中に埋め込み、最後に、生き物の種類ごとに分類して、貸し出し用の画像だけを記録したハードディスクに保存する作業である。
 これから1〜2ヶ月はもっとも撮影が忙しい季節だから、それらはもっと暇な時期に後回しにする手もある。
 だが、僕のような未だ発展途上の人間は、未熟さからくるミスやその他が多いし、画像を一枚一枚丁寧に見て、処理をすることによって反省し、憶えることも少なくない。
 だから、やっぱりどんなに忙しくても、日々、画像を整理する時間を確保したいのである。

 ここのところは、画像処理をする際に、カメラの内部に侵入したゴミに少しだけ悩まされている。
 デジタルカメラの内部には画像を記録するセンサーがあるが、そのセンサーに付着したゴミは、当然画像に映り込んでしまう。
 そこで、多くの写真家は、ゴミが入り込まないように注意を払うし、僕の場合は、カメラのレンズを着脱する際に、必ず目に見えるゴミを取る。そうしておけば、カメラ内部に入り込むゴミにどうしようもなく悩まされることはほとんどない。
 唯一、カメラを購入直後は、新しい機械が最初に動く際に部品と部品とが擦れたりしてカメラの内部からしばらくゴミがでるが、その後は、そんなにひどくゴミが気になることはない。
 ところがここ最近、掃除をしても掃除をしてもカメラ内部にゴミがでるのだが、恐らく、今度はカメラの内部が劣化したことによって、そこからゴミが出ているのではないか?と思う。

 

2007.4.24〜25(火〜水) 物語 

 僕の最近、絵的に見てどんなに写欲をそそるいい景色であっても、そこに自分なりの物語がイメージできなければ、カメラを向けないことも珍しくない。
 例えば、虹は僕が主なテーマにしている水に関連がある現象ではあるが、虹の写真ばかりを集めたきれいな写真集を作りたいとは思わない。もしも今、僕が本格的に虹にカメラを向けるのなら、何か物語の中の一枚として、その写真を撮りたいと思う。
 そして、その物語はある日急に思い浮かぶのではなくて、しばしば、幾つかの小さな出来事が伏線となり、それらの点と点がつながり一本の線になった時に出来上がる。
 ここ2〜3年は、心の中にそうして生まれた物語が幾つか準備されつつあったのだが、今年は、それらを一気に形にするために全エネルギーを注ぎ込んでいる。

 さて、数年前のことになるが、「カタツムリがたくさんいる場所を見つけたら教えてください」と、ホームページの中で募集をしたら、北九州在住のトンボの写真家・西本晋也さんが、ある場所を教えてくださった。
 そこには沢もあり、その沢は洞窟の中から突然にはじまる不思議な沢なのだとその時についでに教わったように記憶している。
 それから数年後、その沢に珍しいムカシトンボが生息することをつきとめた西本さんが、今度はムカシトンボの撮影に誘ってくださった。
 僕はムカシトンボを撮影しつつ、その洞窟からはじまる沢が気になりだした。そこに、何か物語が出来そうだと、直感的に感じたのである。
 そしてその直感は、昨年から何度か紹介している洞窟の撮影へと結びつき、さらにコウモリやその他、洞窟内に生息する生き物にも僕は興味を持った。
 自分が興味を持っている点と点とが結びつきはじめた。
 さらに全く同じような環境が他にも付近にあることを先日知り、今回はその場所にカメラ向けてみた。

 以前、西本さんに教わった洞窟から始まる川は、残念ながら、穴がとても小さくて中に入ることができない。
 だが、地下の川を紹介するのであれば、地下の川の中から見た外の景色の写真が欲しい。
 それに対して今回撮影した場所の場合、洞窟の穴がそれなりの大きくて、洞窟内で沢は非常に深くなっていて、頑張れば、洞窟内の水中から洞窟の出口を撮影することもできる。
 それを撮影することによって、地下を流れる川の物語が完成する。
 北九州の平尾台にはたくさんの洞窟があるが、そのような撮影が可能なのは、唯一この場所だけだろう。
 たった一箇所でも、そうした場所があれば物語が完成するし、なければ未完になる。
 たった一箇所ではあるが、それが撮影可能な場所があったということは、何か導かれている感じがする。
(CanonEOS5D 17〜40mm)

 

2007.4.23(月) 手足 

 スタジオで飼育中のカスミサンショウオに手足が生え揃った。
 カエルのオタマジャクシの場合、まず足が生え、次に手が出るのだが、同じ両生類のカスミサンショウウオでは、先に手が生え、次に足が出る。
 明日は、このカスミサンショウウオの卵を採集した水溜りを見に行ってみようと思う。
 前回その水溜りに出かけた時には、しばらく雨が降らなかったため、水溜りの水が涸れそうになっていたのだが、ここ数日の雨で水位は回復しているはずだ。

 それにしても、しばらく雨が降らなかっただけで涸れてしまうような環境に卵を産むなんて、なんてきわどい生き方をする生き物なのだろう!と感じることがあるのだが、その代わりに、そうした環境には魚がすまないので、魚から食べられることがない。
 だから、それはそれなりに意味のある場所が選ばれていることになる。
 ただそうした浅い水辺は、人の活動の影響を受けやすい。
 例えば、工事などでほんのちょっと湧き水の流れが変わってしまっただけで、その水辺がなくなってしまう可能性があるし、その程度の小さな湧き水などは、人が何か手を加える際にはほとんど考慮されないに違いない。
 事実、その水溜りは人の散歩コースの横にあり、恐らく少なくとも一日平均30人以上の人がそば通りかかっているはずだが、そこにサンショウウオの卵やアカガエルの卵があることを知る人は少ない。
 そこは水辺というよりもただの水溜りであり、多くの人はその場所を生き物がすむ場所としては見ていない。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2007.4.21〜22(土〜日) 平尾台 

 昨年から何度か、地下を流れる川やその洞窟に生息する生き物を紹介したことがあるが、今日の画像はそれらの洞窟の地上部分だ。
 あたりは平尾台と呼ばれ岩石が露出しているのだが、それらの岩は石灰岩と呼ばれる種類で、地球の活動の結果地面が動き、南の海から北九州まで運ばれてきた。
 そうした地球の地面が移動するような現象は今でも続いており、時に日本の近辺でおきる特大の地震は、それらの地面の運動が原因となっている。
 石灰岩の材料は、元々南の海に存在したサンゴや貝殻だと考えられている。そして、石灰岩は雨水に溶けやすい性質を持ち、その結果、地下に洞窟ができ、今度はそこを利用する生き物がでてくることになる。
 また、今日の画像の真ん中あたりの木が生えている部分は、例えるなら地面がロートのような形状になっていて、そこに雨水がたまり、ロートの底の穴から地下へと水が浸入するのだという。
 つまり、地下を流れる川の入り口だ。
 平尾台は岩石でできているから、大きな木は生えにくい。
 だが、そうして水脈がある部分には、木が生えるのだという。
(CanonEOS5D 17〜40mm)

 

2007.4.20(木〜金) 水槽の前で 

 僕は一時期、熱帯魚と水草の育成に夢中になったことがある。
 その時には、あまりに夢中になりすぎて、しばしば撮影が疎かになったし、一体そんなことでこの先、自然写真の仕事をやっていけるのだろうか?と、我ながら大変に不安にもなった。
 熱帯魚に夢中になったと言っても、何か手を動かして作業をするのが忙しかったわけではない。
 もちろん水換えやその他の時間が多少は必要にはなるが、それは大した時間ではないし、僕の場合は、ただ水槽の前に座り、魚たちを眺めるだけ。
 それが忙しかったのである。
 そんな他愛のない時間が、人をわざわざ楽しませるように作られているテレビやゲームやその他の娯楽よりもずっと楽しくて、ぐんぐん時間が過ぎ去っていった。
 
 さて、今シーズンは、ニホンアカガエルとカスミサンショウウオを同じ水槽の中で飼育している。
 水槽は、昨年の秋に土を入れ、屋外に放置して自然に草を生やしたもの。
 昨年以前は、水槽で撮影をする際には、とにかく効率よく、手短に終らせることを重視していたのだが、ふと、昔熱帯魚の飼育に夢中になった時のことを思い出し、今シーズンは、まるで趣味で生き物を飼うかのように、それらの生き物をじっくりと飼い込んでいる。
 水槽の前で、あのシーンを写真に撮らなければならない!などと力むこともしない。
 せっかく水槽を設置したのだから、その作業を無駄にしないように、ちゃんと写真を撮らなければならないなどとも考えない。
 あくまでも野外での撮影を優先し、水槽での撮影は、ちょっとした時間ができたときや、他の作業の息抜きをしたい時にただただ無心で生き物たちの姿を眺め、あっと思った時にだけシャッターを押すことにしている。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2007.4.18(水) 狩猟本能 

 以前は、晴れの青空のもとでの撮影を期待している日に雨が降ると、「畜生〜!」というような気持ちになった。
 だが、水辺の生き物にテーマを絞って撮影するようになってからは雨の重要性を痛感し、雨の影響で撮影の予定が狂ってしまったとしても、雨を心地いいと感じるようになった。
 例えば今の季節なら、うちの近所の里山にある水溜りのような湿地にはカスミサンショウウオの幼生が生息している。そのカスミサンショウウオの幼生は手足が生えそろうと水辺を離れ、山の中で過ごすようになるのだが、それまでの期間は水がなくては生きていけない。
 カスミサンショウオの幼生が生息するような浅い水辺は涸れやすいし、適当な間隔で雨が降ることが必要なのである。 

 さて、雨が降って野外で撮影ができないのであれば、そんな日はスタジオで写真を撮るのがいい。ちょうど、飼育下のカスミサンショウウオに手が生えてきた。
 手が生えるようになると、首を動かすことができるようになり、そうなると、魚というよりは獣のような印象になる。
 水中の生き物の場合、なんと言っても相手は水の中にいるのだから、そうした細かいことは、屋外での観察ではなかなか見ることが出来ないし、飼育してみない限り分からないことが多い。
 そこが、陸上の生き物とはしばしば異なる。
 また、時には採集だって必要になる。なぜなら、水中の場合、網を入れてみなければそこに何か棲んでいるのかが分からないからだ。
 ところが、僕はあまり採集が好きではない。どうも僕の場合、狩猟本能があまり強くないようで、採集をしていても、楽しくないのである。
 時々、人と一緒にフィールドを歩くことがあるが、動物を見つけるのが上手い人には、何か共通する一種の狩猟本能のようなものを感じることが多い。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)
 
 

2007.4.17(火) 目を持たない生き物 

 最近、差別用語が使用されている生き物の名前を改めようという動きがある。例えば、洞窟内には目を持たない動物が生息し、上の画像のシコクヨコエビもそんな生き物の例になるのだが、目を持たない動物の名前にしばしば使用される「めくら」という言葉は差別用語なのだそうだ。
 僕は、自分と同世代の人が、めくらという言葉を人に対して投げかけるのを聞いたことがない。
 だから僕にとってめくらという言葉は、ほとんど動物に対してのみ使用されるような言葉であり、例えるならオスだとかメスというような言葉に近く、差別用語だと言われてもどこかピンとこない感じもする。だがもしかしたら、世代によっては、この言葉を、誰かを差別をするためにわざわざ使用したようなこともあったのかもしれない。

 そうした差別用語を生き物の名前から外すことは、結構なことだと思う。
 だがそれでも、目を持たない生き物には、目を持たないという意味の言葉がやっぱり入っていて欲しいように感じる。
 地底や洞窟内に生息する生き物だからといって、必ずしも目を持たないわけではなく、地上と共通の種類も少なくないのである。

 目をもたないシコクヨコエビが生息する場所には、目を持っているヨコエビも生息する
 
 先日、洞窟の生き物に詳しい方から、洞窟の中にはメナシグモと呼ばれるクモが生息することを教わった。
 メナシグモというのはどうも正式な名称ではないようだ。それらのクモは一切洞窟の外に出ることはなく、洞窟内に生息するクモの場合、ほとんどその地域ごとや洞窟ごとに違った種類のクモが見られ、よく調べられてないものも多くて正式な名前を突き止めるのは非常に難しいようだ。
 ところで、メナシという言葉は差別用語になるのだろうか?あるクモをメナシグモと呼んだとすると、それは人を差別していることになるのだろうか?
 そうして考えていくと明らかな差別用語は論外として、差別というのはそんな何かの言葉を使うとか使わないと言った問題なのか?という疑問も感じる。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)
 
 

2007.4.16(月) たった一匹 
 
 僕は学生時代に蚊の体内時計の研究にかかわったから、その影響で、野鳥の渡りについても興味を持っていた。
 蚊の体内時計と野鳥の渡りに何の関係があるの?と疑問をお持ちの方が大半だろうが、動物の体の中には何種類かの体内時計が存在し、朝目をさましたり夜になると眠るような一日のリズムを作り出す時計の他に、一年のリズムを生み出す体内時計の存在が知られており、ある種の野鳥の渡りは、その一年の長さの体内時計に支配されていることが知られている。
 野鳥は春になると北へと渡り、秋になると南に渡るのではなく、そうした季節の変化を一切感じさせないようにした実験室の環境下でも、一年の周期で、本来渡る方向を向いたり、バタバタと籠の中で落ち着きがなくなるのだという。
 つまり、野鳥の渡りは、やはり体内時計の研究なのである。

 野鳥の渡りに関しては、ホシムクドリやヒタキの仲間を材料にした優れた論文を学生時代に多少読んだことがあるし、また、体内時計の研究の権威であった恩師の授業の中ででも、それらの研究が紹介されたことがある。
 ただ、昆虫の研究としばしば異なる点は、昆虫の研究がたくさんの数のデータから導き出されることが多いのにたいして、野鳥の研究の場合、ほんの数匹のデータから導きだされた結論が多かった。
 科学の世界では、同じような研究を何度も何度も繰り返し、たくさんのデータをとり、その平均値で物を言うのが常識だ。
 だが僕の恩師は、授業の中でそれらの渡り鳥の研究に触れる際にこう言った。
「この論文を読んで、データの数が少ないから意味がないとか、まだ現段階では何も言えないなどと批判をする人が時々いますが、その人は科学を良く勉強していない人です。」
 と。
 実は、恩師は統計学が大好きであり、学生はいつも統計的に物を見ることを求められたし、生物統計学の授業を持っていたくらいだから、僕はその言葉には大変に驚かされた。
「生き物の研究には、他の自然科学とは異なる面があります。例えば、野鳥の渡りや鮭の回帰などの研究の場合、たくさんデータを取ろうとしてもムチャクチャに難しいのだから、物理的に限界がありますね。そんな時は、統計にこだわらなくてもいいんです。」
 と、話は続く。
「たった一匹でも、日本で標識をされた野鳥が遥か離れた他国で採集されたというニュースを聞いて、みなさんは心を打たれませんか?私は、抑えられないほどの感動を感じます。そこでデータの数が少ないから研究には意味がないという人は、生物学に興味がない人だと私は思います。たった一匹から得られたデータが意味を持つことがあるんです。」
 先日、コウモリの調査ではあったが、久しぶりに大学の研究者が仕事をする様子を目にして、学生時代に教わったことやその他、いろいろと考えさせられることがあった。

 生き物の研究や調査は、最終的には個人技の世界だなぁと感じた。
 通常の日常生活では、原理原則が守られ、みなが平等であることはとても大切なことだが、生き物の研究のような特殊な、個人技の世界では、特定の誰かに特権が与えられることも、時には必要だと感じた。

 

2007.4.14〜15(土〜日) 詳しいのは誰か? 
 
 生き物について一番詳しいのは誰か?というような議論がある。
 ある人は、
「やっぱり研究者でしょう。」
 と答え、またある人は、
「いや、研究者は机の上で考えてばかりだから、実際の野生生物については詳しくないよ。詳しいのは漁師さんだよ。」
 と答える。また中には、
「いや、漁師さんは相手を捕まえることに目的があるのだから、それに結びつかないことにはあまり興味を示さないし、生き物をよく知っているのは動物の写真家だ。」
 と考える方もおられるのかもしれない。
 だが、実際のところはそれぞれが違った視点が自然を見ているのだから、誰が詳しいのか、比較はできないし、研究者には研究者の視点が、漁師さんには漁師さんの、写真家には写真家の視点がある。
 いや、そんなことはない!と感じる人がいたなら、試してみればいいと思う。
 船に乗り大海原へと漕ぎ出した際に魚がいる場所を一番よく知っているのは、間違いなく研究者ではなくて、漁師さんだろう。
 でも、その一方で研究者にしか分からないレベルのこともある。
 例えば、多くの人は夜眠り、朝になると目を覚まし24時間の周期で暮らすが、これはなぜだろう?地球の一日が24時間だから、人もそれに反応をして24時間の周期で暮らしているのだろうか?などと考え、どんなに人を外から観察しても、その答えは永遠にでることはない。
 その場合は、人を一切時間が分からない環境においてみて、その際の人の行動を外部から記録してみるなどの実験が必要になる。
 そうした実験を試みると、人は一切時間が分からない環境下でも約24時間の周期で生活することが知られているが、つまり体の中に約24時間で一回りする時計が存在するのである。
 そうなると今度は、人の体の中のどこにその時計があるのかを調べなければならない。人で調べることは難しいだろうから、まずネズミに色々な手術を施す実験が始まることだろ。
 これは完全に研究者の領域だ。
 また、漁師さんに、生き物の遺伝子レベルのことをたずねても、まず答えが返ってくることはないだろう。期待されるのは、せいぜい、
「あちらの沢とこちらの沢とでは、イワナの模様が違うよ。」
 と言った程度のことであり、そのレベルでは、学問の世界では通用しないし、何か物を言うのであれば遺伝的な解析が必要になる。
 逆に言うと、生き物が好きだという人が、生物学を勉強すれば必ずしも満たされるわけではなく、いろいろな視点があるのだから、ある人は獣医になった方が満たされるかもしれないし、ペットショップを経営した方が満たされるかもしれないし、猟師や漁師になるのがいいのかもしれない。
 僕のように写真家になることで満たされるのかもしれない。
 
 さて、昨日(14日)は、僕の母校である山口大学からコウモリの研究者がお越しになり、その調査の様子を見せてもらった。
 僕は、ちょうど今準備をしている本の中でコウモリの生態を多少紹介したいと考えている。きっかけは、昨年から取材している洞窟の中を流れる川の取材の過程で、本の共同制作者である洞窟のガイドさんから、
「コウモリは近づいてもあまり逃げないよ。」
 と聞き、
「それなら密着してみよう!」
 と考えたのだが、山口大学の松村先生がお書きになった本を読むと、繁殖の時期は非常に神経質であり、人が一度入っただけで子育ての場所を変えてしまうという記述がある。それを読む限りでは、僕が多少撮影の経験がある野鳥の子育てなどは比較にならないほどの神経質さだから、撮影がコウモリの生態に悪影響を与える可能性が高いと感じ、直接、そうしたことを聞いてみたいと感じたのだ。
 僕が山口大学に在学中には松村先生は他学部に属しておられ、全く面識はなかったのだが、今回の洞窟の本の共同制作者が、そのつてをたどり連絡を取ってくれ、当初は2人で山口へと話を聞きに行く予定だったのが、平尾台でのコウモリの調査を兼ねて先生の方が北九州へと来てくださった。
 先生の話をきいた結果、生き物の生態に致命的な悪影響を与えないという視点にたった場合、観光化された洞窟で子育てをする人慣れしたコウモリ以外は、ほぼ子育ての撮影は不可能だと分かった。
 正直に言うと、観光化された場所で撮影するのは面白味にかけるし、出来れば、どこか人が知らないコウモリの繁殖地を見つけ出そうと考えていたのだが、その目論見は諦めることにした。

 生き物の生態に悪影響を与える可能性があるからといって、僕は絶対にカメラを向けてはならないとは考えていない。
 なぜなら、誰かがそこに住む生き物を見つけ、調べ、記録を残さなければ、その場所でのその生き物の存在や生活が知られないまま、やがていなくなってしまう可能性もあるからだ。
 ただ今回の場合、本を作る期限の問題があり、十分に時間をかけることができない。時間をかけられないということは、よく注意を払えないということだから、やっぱり自制せざるを得ない。

(お知らせ)
 お知らせが遅れてしまいましたが、サンケイ・エクスプレスという新聞で連載が始まりました。昨日・14日がその第一回目。昨日は新聞を見たという方から何通かのメールをいただきました。感想のメール、ありがとうございます。
 登場する写真家は僕の他に吉野雄輔さんや田中達也さんや伊藤健次さんと聞いています。順番に、週に一度800字程度の記事と写真が掲載される予定なので、次の僕の順番は5月の何れかの土曜日になるはずです。記載の大きさは、新聞の一面いっぱいなので、見応えがあるのでは?と思います。
 次回は前もってお知らせします。ただし、新聞が販売されるのは、首都圏と京阪神地区のみです。関西地区では、駅での一部売り・70円もあるようです。

 

2007.4.11(水) 15000円 

 カスミサンショウオやニホンアカガエルが卵を産みつける水溜りに行ってみたら、アメンボウの類やマツモムシなど、昆虫の姿を多く見かけるようになった。

 ニホンアカガエルはすでにオタマジャクシになっていたから、それを水中撮影しようと試みるのだが、水溜りの水位が以前よりもさらに低くなっていて、いよいよ浅いことに加えて、オタマジャクシは敏感ですぐに逃げ去ってしまうから撮影が難しい。
 結局まともな写真は、一枚も撮れずに終った。
 そこで陸上から撮影することに切り替え、水面に地上の景色を写し込むことで可能な限りの臨場感を求めてみたら、撮影はなかなか楽しい。
 思い描いていた水中のシーンが撮れなかったにもかかわらず、代わりのテーマをその場で設定することで撮影は充実。
 と、ここまでは良かったのが、速度違反で警察に捕まり15000円の出費。
 福岡県警の場合はホームページ取締りの箇所を明らかにしているで、今日から毎日チェックをした上で取材に出かけることにしよう。

 先日、洞窟で撮影をするために、ヘルメットとヘルメットに取り付け可能な懐中電灯を注文した。観光洞窟ではない洞窟に入る場合、ヘルメットの装着が求められるのである。
 ヘルメットは、洞窟に入ることを申請する際にそこで借りることができるが、貸し出されるヘルメットはダサい。さらに、ちゃんと洗ってはあるようだが、若干クサイとの噂もある。
 そこで、
「そんなダサくて、クサイものを身に付けられるか!」
 と、イタリア製のヘルメットを注文することにしたら、およそ5000円の製品と8000円の製品とがあり、軽くて非常にカッコイイ8000円の方が欲しかったのだが、その差額の3000円のために散々迷った結果、倹約して5000円の方を注文。
 懐中電灯もブラックダイヤモンド社製の7000円のものが欲しかったが、同じ型でランクが落ちる5000円の方を注文。
 ヘルメットも懐中電灯も仮に一番欲しいものを買ったとしても、プラス5000円の出費ですむのだから、今日の15000円は・・・・なんとも勿体ないことをした。
(CanonEOS5D 70〜200mm)

 

2007.4.9〜10(月〜火) 水中の獣道 
 
 先日、アカミミガメを撮影した事務所の近所の水路は、ジャンプをすればギリギリ対岸にまで渡れそうな小さな水路だというのに、60〜70センチくらいの雷魚と、50〜60センチくらいのコイが数匹棲みついている。
 小さな水路だから僕との距離も近いし、魚はそれなりに警戒心が強くて、近づくと、さっと藻の中に隠れる。

  魚が隠れこむ藻の群落を良く見ると、藻の中には魚が通るための道がある。水中にも獣道のようなものが存在する。

 水中の獣道は、例えば、コイが藻を食べることによってできる。
 また、雷魚が好んで隠れる場所を見ていると、その藻のなくなり具合から判断して、これは僕の印象でしかないが、自分である程度藻を取り除いて、隠れ家を作っているのではないか?と感じる。雷魚は、産卵の際には巣を作る魚だから、その可能性は十分にあると思う。
 この水路に生えているオオカナダモは、多くの小魚たちの隠れ家になっているけどれども、もしもそれが水路を完全に覆ってしまうと、逆に魚たちには暮らしにくい場所になる。
 コイや雷魚の存在は、そうなってしまうことを防いでいるようだ。

 カメは、爪さえ引っかかれば、意外にもブロック塀だって数十センチ程度なら、上手に登る。だが、この場所では壁の高さがありすぎて、恐らくこのカメは極端な増水でもなければこの水路からでることが出来ないだろう。
 ミドリガメを飼う時には、必ず陸を作りましょうと大抵の本に書き記されているが、ミシシッピーアカミミガメはよく陸にあがるカメだから、水路のような陸が少ない場所には向かないのではないか?と思う。
 でも、ゴミがあれば大丈夫。ゴミだって、生き物の役に立つことがある。
 ミシシッピーアカミミガメは帰化生物だが、日本の生き物の中にも同じようにしたたかにゴミを利用しているものだっているだろう。
 もちろん、ゴミを捨ててもいいと言いたいのではない。
 だが、生き物たちをただ人間の感覚に当てはめて、
「ゴミまみれだから可哀想。」
 と解釈しているだけでは、何かが足りないと僕は感じるのである。
(CanonEOS5D 17〜40mm 70〜200mm 300mm)

 

2007.4.7〜8(土〜日) ちょっと下見 

 ここ2〜3年は、「今日はちょっと下見をしておこう」という程度の軽い気持ちで出かけた日でも、現場に出てみると撮りたいものがたくさんあり、その分撮影が短時間では済まなくなり、あっという間に3〜4時間時間が過ぎ去るようになってきた。
 僕は昨年、短時間でもいいからとにかく毎日野外で写真を撮ることを試みたのだが、短時間が短時間では終らずに丸一日が潰れてしまうから、一時期、スタジオでの撮影やその他の仕事がひどく滞った。
 だから今年は、同じ失敗をしないように、違った計画の立て方をしなければならないだろう。

 さて、今日は、昨年から時々カメラを向けている事務所の近所の水路に出かけてみた。
 実は、本格的にこの水路を撮影するのは夏になってからと思っていたし、今日は他にもスケジュールが詰まっていたから、ただの下見のつもり。
 ところが、例によって撮影が長くなる。
 この水路は、町のど真ん中にあり、上の画像のゴミを見れば分かるように汚れ放題。だが、やたらに生き物が多い。
 そこでこの水路をたどってみると、1つのため池にたどり着く。
 ため池は元々は水田に水を引くためのものであり、このあたりは以前は水田だったことがわかった。
 僕の頭の中には、この水路を中心に、周囲に田んぼが広がっている一昔前の景色が思い浮かんできた。
 つまり、今の中に、昔の水路だけが取り残されているのである。 

 今日は、この場所では初めて、アカミミガメを見た。
 アカミミガメは、外国からやってきた帰化生物であり、ミドリガメが大きくなったものだ。

 それから、おや?メダカかな?と思ったら、こちらはカダヤシというやはり帰化生物の群れ。
 カダヤシは、蚊絶やしであり、蚊の幼虫のボウフラを駆除するために放されたと言われている。

 それから昆虫ではアオモンイトトンボを見た。
 水の中に入って撮影しようとすると、魚は逃げ去ってしまうから陸上から撮影をせざるを得ないが、虫なら大丈夫だろうと水の中に入ってみると、なんと浅く見えるが胸までの深さがあり、藻が絡まってきてやや危ないので断念。
 今年の夏は、この水路に木材で橋をかけ、水面を飛ぶカワセミのアングルで魚の群れを撮影してみたい。
 それなりの長さの木材が必要になるが、水路の幅から考えると、この水路に通すことができる木材は、僕の車にギリギリ載せることができそうだ。
(CanonEOS5D 17〜40mm 300mm)

 

2007.4.5〜6(木〜金) 雰囲気 

 カスミサンショウウオが孵化をした。
 と言っても、これは飼育下のもので、うちのスタジオの温度はこの卵を採集した場所よりもかなり高いから、野外での孵化はもう少し先になるはずだっただろう。
 理想を言えば、こうした写真も池にカメラを沈めて撮影するのがいいのだが、野外で1センチにも満たない、しかも細くて目立ちにくい色で、地面にいるサンショウウオの幼生を見つけることは非常に難しいし、仮に見つけ出したとしても、その過程で池の底からは泥が巻き上がってしまい、水が濁り、撮影どころではない。
 そこで仕方なく水槽を使用して飼育下のものを撮影するのだが、今回は、スタジオでありながら野外で撮影したような雰囲気にこだわって写してみた。

 僕は、水槽撮影の際には、野外で撮影したように見える写真には仕上げない方がいいのかな?と考えることがある。ある程度、水槽っぽさが分かるように撮影した方がいいのかな?と思うのである。
 その理由は、水槽はあくまでも水槽であり本物の池ではないから、「これは水槽ですよ」と分かる人には分かる程度に写すのが正直であるような気がするからだ。
 でも、写真を見るときにはロマンだって大切だから、見るからに「水槽ですよ」では、まるで実験の際の記録写真のようで味気ないし、そこをほどほどにリアルに見えるようにしてきた。
 ところが、そうして撮影した写真は、野外で撮影した写真と組み合わせて使うとやっぱり雰囲気が違いすぎ、妙な違和感を与えてしまう。
 そして、僕はそろそろ我武者羅に、色々なことを試しながら次々を写真を撮影するよりも、写真全体の雰囲気を統一するように気を配らなければならない時期に来ているのではないか?と最近感じていたため、今回は野外風に撮影してみた。
 まず、自然の光っぽい照明のあて方をすることと、カメラの絞りの設定を、もしもこのシーンを僕が野外で撮影するならば、その時に選んだであろう設定にした。

 小動物をスタジオで撮影する際には、被写体を自然っぽく見せるよりも、ドラマチックに見せるような照明のあて方がなされることが多い。
 それらの照明の使い方は、元々は宝石などの商品撮影の際などによく使われるテクニックであり、そうした技術を生き物の写真家が応用したものだ。
 だからそれは基本的に物を撮影するための照明であり、仮に生き物にそうした照明を当てるのなら、その時には生き物を物としてカメラの中で捉えなければ照明の効果が発揮されないし、むしろ妙な違和感を与える。
 例えば、昆虫などの体の形の面白さに注目した場合、つまりそれは生き物をまるで物のように見ているのだが、その際にはスタジオの凝った照明が有効だ。
 逆に、生き物をUPなどではなくて、小さめに写して、ごく普通の構図で撮影する場合などは、その手の照明はだいたい百害あって一利なし。
 スタジオ撮影の照明が上手いと言われている生き物の写真家は、みなそこのところが非常に巧みで、照明のあて方の前に、構図やフレーミングが上手いのである。
 生き物の写真を撮影する場合、スタジオでの照明は馬鹿の一つ憶えのように凝った照明をすればいい訳ではない。生き物をどのように見て、その照明で、一体何を見せようとしているのかが大切なのだと僕は感じる。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2007.4.4(水) 特注 

 水中の写真を撮る時には、陸上で使用するカメラを防水ケースに収めて水中に沈めるが、そのための防水ケースが今ではたくさん市販されている。
 だが、それらの道具は基本的に海で使用するように作られていて、淡水では使いにくいし、特に、水深が30センチにも満たないような浅い水辺では、全く使いものにならないと言ってもいい。
 そこで僕は水中ケースを特注することにしたのだが、とてもいい作り手を見つけることができ、先月から打ち合わせを重ねてきた。
 その打ち合わせもようやく最終段階に達しつつある。あと数日うちにカメラ他一式を送り、製作に取りかかってもらうことができるだろう。
 ああでもない、こうでもないと、頭の中でいろいろと構想を練るのは楽しいことだ。
 だが、それなりに頭が疲れることも思い知らされたし、そろそろそこから開放され、あとはひたむきに自然にカメラを向けたい。

 

2007.4.3(火) シャープな写真 

 生まれたばかりのアキアカネの幼虫(ヤゴ)を先月の上旬に撮影したのだが、撮影の拡大倍率が高くなると、水中のヤゴがどうしてもシャープに写らないことに悩まされた。
 厳密に言うと、シャープではないと言っても十分実用の範囲ではある。そして、パソコンで多少の処理を施せば画像は使い物にはなる。
 だが、それではやっぱり気分が悪い。
 そこでシャープな写真が撮れない原因を考え、対策を検討していたら、ふと、実に安上がりで簡単な方法が思い浮かんだ。
 さっそく、理科の実験器具を取り扱う会社から小道具を取り寄せ、今日はその方法を試したら、結果は上々。
 
 さて、本来の予定であれば、今シーズンはシオカラトンボとアキアカネを徹底して撮影するつもりでいたのだが、いろいろと思うところがあり、今年は、ここ数年漠然と思い描いてきた大きなテーマに本気で取り組んでみようと心変わりした。
 その代わりに、トンボの撮影は、来年以降へと先送り。
 ただそれでも、ちょっとした時間が出来た時や、偶然撮影できる機会に恵まれた時には、それらのトンボにもカメラを向けるつもりだ。
 それは、ほんのちょっとでも前もって手をつけ、多少でも経験を積んでおくことで、長い目で見ると、後の撮影がぐっと楽になるケースが珍しくないからである。
 ただ、僕は何か1つのことに取り組もうとすると、他のことには徹底して手をつけたくなくなる。
 だからそれをぐっと堪えて、当面のテーマではなくても今すぐに出来ることをやっておけば、後で結局自分が楽になるのだと自らに強く言い聞かせる。
 そして、とにかく手を動かすのである。
 僕は、自然写真は撮りたいから撮るのであり、基本的には、自らに鞭打ってまで頑張ることではないと日頃考えているのだが、たまには、今日のような日だってある。
 (CanonEOS30D 65mm ストロボ)

 

2007.4.2(月) 浅い水の中 

 浅い水の中の撮影って楽しいなぁと思う。ただ、たとえ浅い水辺であってもこうした撮影はそれなりに大掛かりになるから、もっと手軽に水中写真が撮れる道具があったらいいのになぁと感じる。
 オリンパスのデジタルカメラE−1には、生活防水程度の処理が施されているようだ。
 そして僕の知人はそのE−1を水の中に落としてしまった。
 知人は慌ててカメラを拾いあげた。そして電源を入れてみると、なんとE−1は無事に動いたのだと言う。 
 もちろん、生活防水なのだから、本来は水につけていいはずはないのだが、それをもう少し発展させ、今日の画像程度の水深であれば、水の中でも撮影可能なカメラがあったらいいなぁと思う。
 僕はこれまで、カエルやサンショウウオの卵を撮影する際には、卵を採集してかえり、スタジオで水槽を使用して撮影してきたが、やっぱり自然条件下で撮影した写真には臨場感があっていい。

 こちらは、カスミサンショウウオの卵を水槽を使用して撮影したものだ。さすがにこれくらいの拡大倍率になると、自然の水溜りの中では撮影が難しい。
 さらにこの一匹の体の変化を数日に渡って継続して撮影しようとすると、それは自然条件下では間違いなく不可能だ。
 まず、卵は次第に泥をかぶり中が見えなくなるし、向きが変わったり、降ってくる枯葉に埋もれてしまうこともある。
 つまり、水槽を使用するのは、自然条件下では撮影ができないシーンにカメラを向ける場合だ。
 
 水槽の中に自然を再現して撮影するような撮り方を、「やらせ」の一種だと受けとめる方も中にはおられるようだが、僕は、一体何の目的でそうするのかが大切だと思う。
 ちゃんとした理由があればいいのである。
(CanonEOS5D 21mm 100mm ストロボ)

 

2007.4.1(日) ヒドラ 

 サンショウウオの卵を撮影しようとしたら、ヒドラだと思うが、小さな生き物が付着していることに気付いた。
 ヒドラは、高校の生物の教科書の中では定番だから、名前を知っている人も多いのではないか?と思う。動物の生殖について学ぶ際に、出芽という増え方をする生き物の例として登場する。
 ヒドラの出芽とは、子供が、親の体に生えるようにして増える生殖の方法であり、上の画像の場合、長い触手を伸ばしているのが親の体の本体、その下側にくっ付いた出っ張りのような構造が、今まさに親の体から生えてきつつある子供だと思う。この出っ張りにやがて触手が生え、親と同じような形になったところで親の体から切り離されるのではないか?と思う。

 これを人間に例えてみるとどうだろう?
 ある日、お母さんの体に出っ張りができ、それがどんどん大きくなり、やがて人の体のような形になったところで切り離されて新しい人間ができたとしたら?
 僕なら、それはあり得ないと思うし、もしも何かの拍子にそんな現象を目にしてしまったなら、それをホラーよりも恐ろしいと感じるだろう。
 がしかし、ヒドラにとっては当たり前のことなのだから決してホラーではないし、そうした増え方だって、生き物の増え方の中の1つとしてあり得ないことではないのだろうし、それくらい、生き物には多種多様な生き方があるのである。 

 こちらは、ニホンアカガエルの卵だが、高校の生物の教科書の中で尾芽胚と紹介されている段階だと思う。
(CanonEOS5D 100mm+1.4テレコン 65mm ストロボ)
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2007年4月分


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