撮影日記 2007年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2007.3.30(金) カスミサンショウウオ 

 冬の北海道へと撮影に出かけた結果、カスミサンショウウオの産卵シーンを撮り逃してしまった。カスミサンショウウオは、他の生き物が冬眠から覚める前の、まだ寒い時期に産卵を始めるのである。仕方がないから、また来年チャレンジしようと思うのだが、今年のうちに撮影可能なシーンだけは、できる限り撮影しておきたい。
 そこで今日は、卵の水中撮影を試みた。

 浅い水辺での水中撮影の難しさは、水の中に立ち入った際に泥を巻き上げてしまう点にあることは前回も書いた。だから今日の画像は、まずなるべくそっと足をつき、泥が卵の位置までやってくる前にすばやくカメラを水中に沈め撮影したものだが、今日はわずか3枚しか撮影する時間がなかった。
 この場所の場合、一度水が濁ると数時間は元に戻らない。だから、今日のような方法では、産卵のようにその場で待たなければならないシーンは撮影することができないし、何か工夫を考え出さなければならない。
 そうした工夫は頭で考えていてもなかなか思い浮かばないから、僕の場合は、現場で、何かを試しながらいいアイディアが閃くのを待つことが多い。
 その何かでさえも思い浮かばないときは、上手くいかないとわかりきっている方法でもいいから、とにかく体を動かすことが多い。水が濁るとわかりきっていても、水の中に立ち入ってみる。 
 大掛かりなことをしようと思えば、今日の場所はそれほどに広い場所ではないので、木材やその他で橋を掛ける手もあるのだが・・・
 
 

2007.3.28〜29(水〜木) したたか 

 洞窟の天井にスズメバチの巣のような形状の岩の出っ張りがあり、そこから水が滴り落ちてくる。
 その水の行き先、つまり洞窟の床になる部分にも、軽自動車一台分くらいの大きさの岩のこぶがある。
 これらの岩のこぶは、岩石がいったん雨水に溶かされ、それが再度固まったもので、最終的には、洞窟の天井にあるこぶと、床にできたこぶは繋がり、一本の柱のような構造になるという。

 一方、そうして岩の成分が雨水によって溶かされ、流れ出しているということは、あたりに広がっている巨大な岩盤のどこかに、その分の空洞が出来ているということになる。
 その空洞がさらに広がり、また幾つかの空洞が繋がったり、そこをたくさんの地下水が流れるようになった際の水流や岩盤の崩落などによって空間がさらに広がったものを鍾乳洞という。
 今日の画像の洞窟も、そうして作られたものだ。

 洞窟の天井から滴り落ちてくる水滴の中に含まれていた成分によって洞窟の床の部分に形成された岩の塊の中で、今日はタゴガエルの声を聞いた。
 岩を良く見てみると小さな穴があり、その中から声は聞こえる。
 タゴガエルは異性を呼ぶために声を出しているのだから、恐らく天井から垂れてくる水分がその穴に流れ込み、穴の中に小さなプールを形成し、そこに卵を産んでいるのだろう。
 僕は以前、タゴガエルの卵を飼育したことがあるが、オタマジャクシは一切何も食べることなしに変態し、カエルの姿になった。つまり、タゴガエルの場合、卵を産みつける場所には、水さえあればいいのだから、こんな場所だって、繁殖に使うことが出来る。
 したたかなものだなぁ。
 それにしても、水辺って面白い。
 
 こちらは、洞窟の天井に出来て間もない岩の塊だ。
 この構造は内部が空洞になっていて、ストローと呼ばれていて、ストロー内部を通ってきた水分に含まれる岩石の成分が、下へ下へと伸びながら固まる。
 ストローの内部はやがてつまり、水滴がこの構造物の外を流れるようになると、今度はつららのような形状の岩石が太くなっていくという。
 
 タゴガエルの他に今日見つけた動物と言えば、オオゲジと蛾だ。
 いずれも、完全に光が届かない場所。蛾は、もしかしたら迷い込んで出られなくなった可能性もあるが、オオゲジは、間違いなくそこにすんでいるのだと思う。
(CanonEOS5D 17-40mm、100mm+1.4テレコン、ストロボ)

 

2007.3.27(火) 更新 

 今月の水辺を更新しました。

 

2007.3.26(月) ヤブヤンマ 

 僕は、絵になりそうな、いかにも!というような場所で撮影をするよりも、何でもない平凡な自然にカメラを向けるのが好きだ。
 今日の場合は、水溜りの中のヤブヤンマのヤゴである。
 すると、そんな姿は、人には理解されにくいようで、
「いったい何を撮影しているのですか?」
 とよくたずねられる。
 だが、それもごく普通にカメラを構える間の話であり、水中を撮影する時には、怪しい奴としか人目に映らないのだろう。もう滅多に誰も声を掛けられることはない。
 みんな怪訝な顔をして、遠巻きに見下ろし、
「何しよるんやろうか?」
 と、僕にギリギリ届く程度の声でしゃべる。
 こうして撮影すると深く見えるこの水辺は、実際には人の足首くらいの深さしかない。そんな場所にしゃがみ込み、顔を水面ギリギリまで近づけてモゾモゾしているのだから、無理もないことだ。
 本来ならそうして怪訝な目で見ておられる方に説明をすればいいのだろうが、この手の撮影の場合、そんなゆとりはない。
 浅い止水での撮影は、水中についた手やカメラが巻き上げる泥が撮影を非常に難しいものにする。流水なら、仮に水中を濁らせてもしばらく待てば澄んでくるが、止水の場合は、場所によっては一度水が濁ると数時間おかなければ元には戻らないから撮影をなるべく短時間に終らせたいのである。
(CanonEOS5D 21mm)

 

2007.3.25(日) 同窓会 

 学生時代の研究室の仲間と恩師を訪ねた際に、
「最近子供の間で理科の人気がないって言いますけど、それは理科離れであっても、自然離れではないんです。」
 と、先生が話してくださったのを、昨日ふと思い出した。
「世の中には、ある一定程度、自然命というタイプの子供がいるんです。彼らは、贅沢な暮らしよりも自然が好きなんです。どんな時代にもそんな子供が一定程度いて、理学部にはそんなタイプの価値観の学生が多いんです。」

 僕が進学した理学部の生物学科は、そこを卒業してもこれと言った就職先もないし、将来の展望は、一般的な価値観で言うと決して明るくない。
 だが、昨晩僕は大学時代の同窓会に参加してきたのだが、同窓生たちの様子を見ていても、誰一人、そんな進路を選んだことを悔いているような者はいなかったように思う。
 程度の差こそあれ、みんなどこか能天気。少なくとも、どこかの大企業に就職するために、そのステップとして大学に進学したものはゼロだろう。
 学生時代にはそんな連中とばかり接していたのだから、それを特に意識をしたこともなかったが、社会人になってしばらくすると、同じようなタイプの人は世の中にはそう多くないことに気付かされた。
 むしろ、学生時代には、バラエティーに飛んだ色々なタイプが集まっているような気がしていたのに、今になって改めて考えてみると、結局同じ穴のムジナ。 久しぶりに顔をあわせてみると、そのそれほど世の中に多くないタイプの者ばかりなのだから、理学部という場の面白さを改めて思い知らされる。
 
 これと言った就職先がないので進路はバラバラ。だから、仕事に関して共通の話は出来にくいが、ちょうど子供ができたばかり〜小学生くらいの子供がいる者が多く、家庭や子育てなどの話が実に面白い。
 山口大学の生物学の場合は、当時入学時の定員が42名。そこから退学する者が出て、最終的には一学年が30人を少し切るくらいの人数になる。
 そんな少人数で、どこか似たタイプの者が集まり学ぶからだろうか。僕にとって生物学の同級生はやはり特別な存在であるように感じる。子育ての話1つ聞いても、社会人になって知り合った知人から聞く話よりも、心にすんなりと入ってくる感じがする。
 中には、生物学の同級生どうしで結ばれた夫婦がいるから、
「そんなに長い期間一緒にいてさ、目移りしたり、飽きんの?他の人と結婚してたら・・・って考えたくなることはない?」
 と聞いてみると、
「晋一君はさ、お父さんやお母さんのこと、飽きたりせんやろう?それと同じやん。特に子供ができたらそうなるよ。」
 と、実に説得力のある答えが返ってくる。
 また、中には、もうじきはじめての子供が生まれる者もいるから、
「男も、子供が生まれる前から親になれるものなん?僕なんかの感覚ではね、男の場合は、子供が生まれてしばらく世話をするうちに情が湧いて、親になれるような気がするんだけど・・・」
 とたずねてみると、
「いや、親になれるよ。まず自分がしっかりしないとって思うもん。」
 と返ってきた。
 それらの答えは、恐らく専門のカウンセラーが語っても説得力がわるわけではないような気がする。学生時代の多感な時期から知っている誰かが語るから、説得力があるような気がする。

 

2007.3.24(土) 小さな被写体 

「そのうちフィルムがほどんどなくなり、大半はデジタルになるのだ!」
 と言われ始めて間もなかった頃、僕は、お金を持っている人が圧倒的に有利な時代がくるのではないか?と心配していた。
 フィルムカメラの場合はカメラはただの箱だから、高価なものを使おうが、安価なものを使おうが基本的にその画質に差はなく、写真の出来栄えは、フィルムとレンズの性能によって決まった。
 だからもしも経済的な理由からコストを抑えようと思えば、多少耐久性などには不安を感じることがあったとしても、安いカメラを買えば良かった。
 ところがデジタルカメラになってからは、フィルムの代わりにイメージセンサーがカメラ内部に内蔵され、そのセンサーが光を記録するのだから、高価なセンサーを搭載した高級なカメラの方が有利になるのではないか?と考えたのだ。
 実際には、デジタルカメラになったからと言って、そのようなことはほとんどなく、カメラの規格が同じであれば、高価デジカメでも、安価なデジカメでも、だいたい同じような画質が得られる。
 僕の心配は結局杞憂に終った。
 だが今でも、持っている道具の差で最初から自分が不利であるような勝負をするのはアホらしいと感じることには違いはない。
 僕は日頃ガチガチに損得ばかり考えているつもりはないが、そんな時にふと、自分が合理主義者であることに気付かされ、セコイところがあるなぁと苦笑いさせられる。
 それは道具に限った話ではない。最初から自分が物理的に不利な状況で勝負する気には、僕はなかなかなれない。
 
 さて、顕微鏡レベルに近いような小さな被写体を撮影するのは、陸上のものはまだしも、水中の生き物の場合は非常に難しい。細かな作業になるのだから、ちょっとした体勢の良し悪しで、撮影の難易度が大きく変わる。
 そこで、ここのところは効率よく小さな被写体を撮影するにはどうしたらいいのかを考えていたのだが、試行錯誤の結果ようやくそれなりに納得できるやり方を確率できた。
 今僕の事務所には大小合わせて4つのスタジオがあり、1つは、田んぼの中に生息する生き物専用、そして2つ目はザリガニの撮影専用、3つ目は一般的なすべての撮影に対応できるスタジオ、そして4つ目をこの小さな被写体を撮影する専用スタジオにして、あとはそれらの場所に被写体を置くだけで、次々と写真を量産できるようにしておく。
 昔僕の事務所の建物を見た僕のいとこから、
「晋ちゃんかわいそう。」
 といわれたことがある。かわいそうな理由は建物がボロいからだったが、僕は少しも悲しくないし、むしろボロでもその分広いスペースを気に入り、とても重宝している。
 それは、いちいち道具を組み立てているようでは、あらかじめ道具をセットしたまま置いている人にはなかなか敵わないからである。
(CanonEOS5D 17〜40mm)

 

2007.3.23(金) 観光洞窟 

 九州〜山陰・山陽あたりでキツツキの仲間を撮影するのは、よほどに運が良くなければ難しい。唯一コゲラというキツツキだけはそれなりに撮影の機会があるのだが、その他のアオゲラやオオアカゲラやアカゲラを撮影できる機会はほとんどない。
 ところが野鳥図鑑を見ると、多くのプロが実に見事なキツツキの写真を撮影しているのだから、僕は以前は、それらのプロが野鳥を見つけ出す能力は神業に近いのではないか?と受け止めていた。
 ところが、学生時代に初めて冬の北海道に行った際に、北海道では場所によってはキツツキの仲間がほとんど撮り放題と言ってもいいくらいに簡単に撮影できることを知り、ようやく納得できた。
 なるほどなぁ。みんなこんな場所でキツツキの写真を撮ってるんだ!
 そして、一度そうして満足いくまでキツツキを撮影すると、今度は不思議なことに、九州や山陰・山陽でもたまにはキツツキを撮影できそうな機会に恵まれるようになった。
 以前は、キツツキを撮影したい!と心がガチガチになっていたのが、北海道で一度存分にキツツキにカメラを向けた結果ゆとりが生まれ、また経験を積んだことによっても周囲の自然がよく見えるようになったのだと思う。
 生き物の分布の具合は地域によって異なる。例えば、ツキノワグマのように九州では一説には絶滅したと言われていても、他の地域にはたくさん生息するような生き物が存在するが、仮にそれを九州で撮影したいと思ったとしても、まずその前に、その生き物が多く生息する地域で目を養うのは有効な手順だと僕は感じる。
 
 さて、今日は山口県内の観光洞窟を歩いてみた。目的はコウモリの観察だ。
 僕は今、北九州市内の洞窟でコウモリを撮影しようと試みているのだが、山口県内の洞窟の方がよく調べられていて、コウモリに関する情報も多い。そこでまず先に山口県の洞窟でコウモリを見て、コウモリを見る目や、コウモリの生息環境を見る目を養おうと考えた。
 つまり急がば回れの発想だ。
 先日、昆虫の写真家になりたいと考えている若者がいること書いたが、そうして自然写真の仕事に興味を持っている人に対して仮に僕が後押しする言葉を送るとしたら、それは、自然や自然写真が熱烈に好きな人はたくさんいるけれども、本当の意味で地道に努力をする人にはほとんどお目にかかれないということだ。
 大抵は、俺には俺の流儀があると言ったことをカッコ良く主張しつつ、実は面倒なことや不得手なことや地道な努力から逃げている人が少なくないように思う。
 そして、長く自然写真業界で生き延びている人や、それなりに順調に仕事をしている人は、やはりみな地道なのである。
(CanonEOS5D 17〜40mm)

 

2007.3.22(木) 所変われば 

 僕が趣味で写真を撮っていたころによく見ていた本と言えば、当時たくさん出版されていた動物の写真集や平凡社の雑誌・アニマだった。そればかりを見ていたのだから、それらの写真が僕が知る自然写真のすべてであり、同じような写真を撮れば自然写真の仕事ができるに違いないと僕は思い込んでいた。
 だが、今になってそれらの本を改めて見てみると、写真集に掲載される写真にしても、アニマに掲載されていた写真にしても、自然写真の需要全体から言えばむしろ特殊な部類に入ると感じる。だから、その手の写真で生活を成り立たせることは、僕が考えていたのとは逆に、極めて難しいことだったように思う。
 雑誌アニマが無くなることが決まった時に、多く写真家が貴重な発表の場が失われると嘆いたのだが、なるほどなぁ!と、その嘆きの意味が今更ながらよく分かる。当時アニマにたくさん掲載されていたような写真の多くが、アニマがなくなって以来ほとんど需要がなくなり、使われないまま写真家の手元に眠っているに違いない。
 所変われば品変わるというが、例えば、雑誌アニマに載せるに相応しかった写真と、児童書に載せるに相応しい写真とはしばしば異なるし、それをよく理解しておかなければ、自然写真の世界で仕事をすることは難しいに違いない。
 僕の場合は、ほとんど写真集とアニマばかり見ていたのだから、自然写真業界で仕事をしようとするとき、それらに掲載されていた写真からの呪縛を解くにのに大変なエネルギーを要した。

 ただ逆に言うと、今自分が知っている世界で売れない写真であっても、所変われば需要があることだって、大いにあり得る。
 実は、撮影したものの、その内容からすると恐らく発表の場はないのではないか?と思っていた、だが僕にとって思い入れのある写真の一枚を、「この場に相応しい」と大変に気に入ってもらった上で発表できる可能性が出てきた。
 写真に添える原稿を書くのに、と言ってもいつも通りに文章を書くのだが、妙に力が入った。

 

2007.3.20(火) え!嘘でしょう? 

「え!嘘でしょう?」
 洞窟の中を撮影するために照明器具とカメラをセットして、照明の電源を入れようとしたら、電池がなくなっていることに気が付いた。
 僕はうっかりが多いから、いざ撮影しようとしたら電池が切れているなど日常茶飯事ではあるが、今回に関しては、昨日電池の充電の具合を点検したばかりだった。
 なんと、昨日点検した際に電源を切り忘れてしまったのだ。
 本来であれば、予備の充電池を持つべきである。がしかし、特殊な撮影機材の専用電池だから結構高い。
 特に今シーズンは、比較的お金になりやすい撮影をグッと減らし、その代わりに新しい撮影にチャレンジするつもりだから最後は財布の残高との競争にある可能性だってあるし、とにかく倹約しなければならない。
 だから予備の電池を買うことを見送ったら、さっそく悪影響がでる。難しいものだなぁ。
 ああ、時間が勿体ない。
 がしかし、今回うっかりがなかったとしても、同じ機材を使用する限り、いずれ別の機会に同様のトラブルに見舞われたはずだし、それが、ここぞ!という状況だったならと考えてみると・・・今日の出来事は、結果的に早めに必要な勉強させてもらったことになり、得をしたのかもしれない。

 

2007.3.19(月) 美味しそう 

「もしも生まれ変わるとしても、あいつの家だけには絶対に生まれたくない!」
 と、子供の頃に仲間たちが口をそろえて言ったのが、1つは武田家であり、あとの1つは幼馴染のKちゃんのところだ。
 武田家の場合は父が超スパルタだったから、同級生たちはみな恐れをなしていた。
 一方Kちゃんのところは、会社の社長をつとめるお父さんが一癖ある人物で、大変に広い土地を所有しているにもかかわらず、自宅は小さくて、その代わりに自宅と変わらないくらいの広さの鶏小屋があり、残りの土地は鶏の運動場を兼ねた畑だった。
 Kちゃんは男3人兄弟の長男だったが、社長の息子だというのに、子供たちに求められるのは勉強ではない。鶏の世話である。そして鶏が食べごろになると、まだ小学生だったKちゃんが鶏の首をギュッとしめて殺し、首を切り落として逆さまにしてぶら下げて血を抜き、全身の羽毛をむしりとる。
 多くの同級生が例えば野鳥を見て、カワイイだとか、きれいだとか、カッコイイだといった感想を持っていたのに対して、Kちゃんだけは美味しそうと見ているようなところがあったのだが、今になって思い追い返してみると、なるほどなぁと思う。
 すごい教育だなぁと思う。
 
 確か星野道夫さんの写真だったと思う。アラスカの老婆が、口の周りを真っ赤に血で染めながら野生動物の生肉に噛り付いている写真があった。
 多くの日本人にとって、その写真は目を背けたくなるなオゾマシイ写真に違いない。撮影者の意図が理解できない人の中には、その一枚の写真を、ホラーだと受け止める方もおられるだろう。
 だがその老婆は、食べ物を口にしてただただ美味しいと感じているに違いないし、食べ物を見て美味しそうと感じるのは、当たり前の話だ。撮影者は、恐らく人の本来の姿を写し取ろうとしたのだと思われる。
 もしも小学生の子供が誰かの目の前で鶏の首をしめて殺し、首を切り落としてしまったとしたら・・・ 恐らく多くの日本人が目を背けたくなるのだろうが、本当は、そこで目を背けたくなる方が異常であり、
「こんな愛らしい生き物を殺して食べるなんて!」
 という人が時々おられるが、その人が口にする鶏肉だって誰か代わりの人が殺しているに過ぎないのだから、なんて卑怯な言い分なのだろうと思う。
 
 実は僕も現代人であり、魚くらいまでは美味しそうと思えるのだが、それ以上の生き物になると、かわいそうという感情に支配される。つまり、それだけ誰か代わりの人の手で生き物を殺してもらっていることになる。
 僕が魚をおいしいそうと思え、特別な感情なしに殺すことが出来るのは、釣りをするからだ。それを思うと、もしも環境が許すのなら、小学校の授業の中に狩猟、狩猟が無理なら、釣り〜調理などという授業があってもいいような気がする。
 昔、ある先生が、学校で生徒たちに生き物を飼育させ、自分たちで殺して食べてしまう授業をするのをテレビで見たことがあるが、ぼくはKちゃんのことを思い出した。
 現実的に考えると、この時代に、学校と言う場でそうした試みをすることには疑問も感じる。そもそも子供たちが育ってきた時代背景が時代背景なのだから、中にはその授業がどうしてもホラーにしか感じられない子供も存在するのではないか?と気がかりだからである。
 がしかし、言わんとすることは紛れもなく正しいように思う。

 さて、先日湾内にマッコウクジラが迷い込んだと言うニュースが流れた。
 同様のニュースは年間に何度か、大抵はクジラを救い出す美談として報道されるが、僕はいつも食べてしまえばいいのではないか?と思う。

 

2007.3.18(日) 勝負所 

 今シーズンは、過去に経験がないくらいに忙しい年になるだろうと思う。
 しかも、その撮影の結果は、僕の将来をそれなりに大きく左右するような予感がしている。
 今僕の心の中には、「こんな世界を表現してみたい!」というかなり具体的なイメージがあり、それを形に現わし、自分なりの物の見方を自然写真の世界で確立できるかどうか、その勝負所がここ1〜2年くらいにあるような気がする。
 いつもなら、僕はそうした自分の思いをこの場に表すことが多いが、今回は勝負なのだから、まだ書くことはできない。

 ただ、そこで新しい取り組みをして勝負するのと同時に、これまでこなしてきた従来の仕事も両立させなければならないから難しいことは、以前にも何度か書いたことがある。
 ここのところは、今シーズン勝負をするために機材に工夫を加えたり、新しい物を購入したりと、その準備に多くの時間を費やしてきたが、同時に、早くもチラホラと従来の仕事が舞い込んできて、今日はアマガエルにカメラを向けた。
 従来の仕事をこなしつつ、新しいことに取り組むことの難しさをさっそく実感させられるのである。

「頑張ってね!」
 とエールが送られてくることがある。ところが、その全く逆で、
「頑張り過ぎないようにね!」
 と声を掛けてもらうこともある。
 だから人の言葉に耳を傾け過ぎると、どうにも身動きが取れなくなってしまうし、結局最後はその時の自分の意志に従うしかないのだと僕は信じる。
 ただそれでも、勝負所や頑張り所があることだけは確かであるように思うし、いつがその勝負所なのかは直感を信じる他ない。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2007.3.15〜16(木〜金) 工作の類 

 僕はそもそも横着なタイプだし面倒なことが大嫌いだから、工作の類はあまり好きではない。
 ところがここ1〜2年くらいは、そんな僕が工作しては撮影し、また工作しては撮影するという毎日を送っている。
 特に、生き物の活動がまだあまり活発ではない今の時期には、そうして工作をしたり、または、まだ行ったことがない場所を下見をして過ごすことが年々多くなってきた。
 昨日は、福岡県内の湧水が多い地域を下見し、今日は、今シーズンのコウモリを撮影するための機材を準備した。
 市販の道具をそのまま使用して撮影できるようなシーンやそのレベルの写真は、大抵はすでに誰かが撮影済みだし、それらの写真と同じレベルのものを撮影しても仕方がないから、自ずとそうなってしまうのである。
 
(撮影機材の話)
 さて、以前に一度、パッテリー駆動のストロボを紹介したことがあるが、このストロボは、スタジオで使用されているものに近い性能(600w/s)を持ちながら、コンセントが不要で、比較的軽いバッテリーで光らせることができる。
 ただ開発者は、恐らく生き物の撮影に使用されるとは、全く考えなかったのだろう。その証拠に、このストロボを使用する際の光の拡散にはアンブレラを使う作りになっている。
 が、場所を取り、バランスが悪いアンブレラでは、風に吹かれて倒れたり、狭いスペースに設置しにくかったりと、野外では使いにくい。
 そこで今日は、アンブレラの代わりに、小型のディフューザーを取り付けられるように手を加えてみた。

 ディフューザーは、以前スタジオで使用していたもので、現在は全く使わなくなったものを材料にして、多少の手を加えた。
 600w/sという光量は正直に言うと大き過ぎ、むしろ300w/sのモデルを買うべきだったと思う。夜間にフクロウなどの遠くの野鳥を撮影するには600w/sが頼もしいが、逆に近くの小さな生き物の撮影には、発光量を最小にまで絞っても強すぎる。
 特に僕が使用しているキヤノンのEOS5Dは高感度での撮影に強いのだから、ストロボの光量を大きくするのではなくて、カメラの側の感度を上げることで対応すべきだった。
 そこで、上の画像からは分からないのだが、同じディフューザーを2枚重ねて光量を落とすことにした。そしてディフューザーを使用すると、光の色が若干悪くなってしまうから、その2枚のディフューザーの間に舞台照明用のフィルターを入れ、色温を整えてある。
 
 この照明は、第一に洞窟内でのコウモリの撮影に使用するが、他にも、カタツムリの撮影や、誰かアシストしてくれる人がいれば、夜のアマガエルの撮影などにも使用できるだろう。
 さらに、つい先日、
「カブト・クワガタも撮影してくださいよ。武田さんが撮影した写真が見たいなぁ。」
 などとリクエストがあったのだが、樹液にそれらの昆虫が集まっているシーンなどにも、この照明器具は大活躍してくれそうな予感がする。
 僕は、大抵自作をする時には、何か1つの目的のために工作をするのではなくて、3つくらいの目的に流用できるように考えて作る。
(NikonD70 28-75mm ストロボ)
 
 

2007.3.14(水) 役に立った道具-6 

携帯電話というやつは、こちらが何をしていてもお構いなしでかかってくるから、実に怪しからんと思う。
 だが、どんなに怪しからんと思っても、そんな時代になってしまったのだから仕方がない。
 僕は以前は、車の運転中にまで通話はしたくないと思っていたのだが、それでも仕事の電話はやはり気になるものだし、先日北日本取材の際にハンズフリーマイクを購入してみたら、これが実にいい。
 購入する前は、どの程度音が聞き取れて、どの程度相手に声が届くのかが多少気になった。
 だが、相手に聞こえ具合を確認してみると、マイクを取り付けずに普通に話している時よりも、むしろクリアーに聞こえるという。また、僕の車はディーゼル車だからエンジン音がうるさいのだが、イヤーホーンがあれば相手の声がより聞き取りやすい。
 価格だって、そんな高いものではないし、これはとても便利な道具だと思う。
(NikonD70 28-75mm ストロボ)

 

2007.3.12〜13(月〜火) 自然関係の仕事 

 どうしても自然関係の仕事に就きたいと望んでいる若者から、
「後期の試験を受けてきました。」
 と報告があった。後期の試験とは大学入試のことだ。
 彼が思い浮かべる自然関係の仕事の中には、昆虫写真家が含まれているのだが、現在の時点では、研究者やその他、他にも色々な進路について検討を重ねているようだ。
 ふと、自分自身の受験を思い出してみると、高校3年生の時にはあまりに成績が悪くて、手も足も出なかった。
 母は、クラス担任との面談の際に、
「武田君が国立大学の理科系に入学するのは3年浪人しても無理です!」
 と宣告され、大変にがっかりさせられたそうだ。
 何と言っても僕は、1学年360人の生徒の中で常に300番台をキープしていたのだから、クラス担任の言うことはあながち嘘ではなかったし、むしろリアリティーがあった。
 国立大学の理科系にこだわっていた訳ではないが、文系に関しては全く興味が湧かず、文系に進むくらいなら就職したいと思った。
 理科系なら、自然が好きだったから興味を持てたのだが、農学部や工学部のような実用に近いの学問の世界よりも、理学部のような基礎学問の世界へ進みたいという希望があった。そして、理学部はほとんど国立大学だけにしか設置されてなくて、私立という選択肢がなったのである。
 僕の高校3年時の受験は、あっけなく終わった。

 僕は予備校へと進んだのだが、翌年の受験には決して失敗できない特別な事情があった。
 当時僕が交際していた女性は一学年年下で、「同じ大学へ行こうね。」と彼女と約束を交わしていたのである。そして僕は、受験勉強が辛くなると、ある1つのシーンを思い浮かべた。
 それは、その年の受験で僕が不合格に、彼女は見事に合格して離れ離れになり、そして盛りのついた悪い大学生どもが集うコンパの場で、彼女が狼のような目をした悪者どもに口説かれるシーンである。
 それを思うと僕には気合が入ったし、勉強がはかどった。
 おかげで、その年僕は国立大学の理学部を2校受験し、共に合格することができた。彼女の方は同じ2校を受験したのだが、2人で第一希望に選らんだ九州の伝統校には不合格になり、山口大学だけが残った。
 僕は、第一志望の大学を迷わず捨て、彼女と山口大学に進学することを選らんだ。
 母校に出かけ、
「山口大学に進学します」
 と報告すると、
「なぜ、第一志望の学校の方に進まんのか?」
 と問い詰めれた。僕が選ばなかった第一志望の方の大学は九州では人気があり、受験の際のレベルも一ランク上だった。
 そこで僕が、
「山口の方が環境が気に入ったんですよね。」
 と答えると、すべてお見通しだった先生からは、
「そうか・・・、お前上手いこと言うね。それも確かに環境やな。」
 と答えが帰ってきた。
 
 今になって思うと、大学へと進学するのに、不真面目だなぁと思う。
 だが、どこの大学に行くのかでそんなに大きく人生が変わるとは思えなかったし、もちろん、今でもそんな風には思っていない。それよりも、僕には好きな人の方が大切だった。
 それと全く同じ論理で、好きな物事を優先させ、僕は自然写真を選んだ。
 もしも人生がやり直せるとしても、その点に関しては僕はまた同じ選択をするような気がするし、今後も、多分変わらないような気がする。不真面目であり続けるつもりである。

 

2007.3.10〜11(土〜日) 更新 

 2007年1〜2月分の今月の水辺を更新しました。。 

 

2007.3.9(金) 水面の存在 

 昨年の秋に採卵しておいたアキアカネの卵が、続々と孵化を始めた。
 そこで今日はさっそくカメラを向けてみたのだが、どうも思うような写真を撮ることが出来ない。像がどこか甘くて、締まりがないのである。
 日記に掲載した画像は、画像処理ソフトを使用してある程度見られるように手を加えたものだが、僕は、できれば画像処理なしで最初からビシッと決まった写真を撮りたい。
 実は、昨年もシオカラトンボの小さなヤゴを撮影したが、その際にも同じような症状に見舞われた。
 恐らく原因は、カメラとヤゴの間に水があることで、特に水面の存在が画質に悪影響を与えていると思われる。
 被写体が小さくて、撮影の際の拡大倍率が高くなると、ほんのちょっとした水面の具合が画質に大きな影響を与えるのである。
 そこで、水中の微小な生物を撮影するための、特別な水槽を製作してみようかと考えている。
 そうした特殊な撮影に関しては、ほとんど教本と言えるようなものがないし、思うように写真が撮れない原因を自分で解明して、その対策を自分で考え出さなければならない。
 水の中にすむ生き物の撮影は特に難しいから、頭を悩ませる機会が多くなるが、そこに水辺の生き物の撮影の面白さがある。
 自分で考える力が求められる。
「自然写真家になるためには、どんな準備をしたらいいのですか?」
 と、もしもたずねられたなら、僕は、
「自分で考える力を養うことが大切!」
 と答えたい。

 僕の父は、僕が受験のために学習塾に通うことを嫌った。
「塾に行って、手取り足取り教えてもらって志望校に合格できても、何の意味もない!」
 と。僕は子供の頃に釣りに夢中になったが、父はその釣りの例を持ち出し、
「お前は、誰かから釣り針に餌をつけてもらって、それをポイントに投げ込んもらって、魚がかかったところでその釣り竿を渡してもらって釣り上げたら、嬉しいと感じるか?」
 と僕に問いかけた。
「いや、嬉しくない。」
「じゃあ、そうして魚を釣り上げることに何か価値があるか?」
「いや、ない。」
「進学も同じや。受験は合格するだけの学力がつく事に意味があるんじゃなくて、その学力をつけるためにはどうしたらいいのかを、努力をして身につけることに意味があるんじゃ!」
 僕はとにかく堕落した人間だし、そんな立派なことを言わずに俗っぽく普通に、平凡に生きたいと、子供の頃はいつも望んでいたのだが、その父の方針が、今頃になって、自然写真の世界で役に立つことが多い。 
(CanonEOS30D 65mm ストロボ)

 

2007.3.8(木) Distagon 25mm 

 僕の父はケチではないが、質素であることを好む。
 例えば、日頃贅沢なものを口にするようなことは滅多にない。だから、子供の頃はよく遠方に山登りに連れて行ってもらったものだが、父と旅行に行くと食事が実に味気なかった。
 だが、たった一度だけ贅沢な食事をさせてもらったことがあり、和田門という高級フレンチレストランで、満腹になるまで次々と高価な肉料理を注文しては食べた。
 僕は当時食べ盛りだったし、肉料理が一皿5000円以上したのだから、二人分で数万円の料金を支払ったのではないかと思う。
 その際に食べた三色ペッパーのステーキなどは、今でも思い出すとよだれが出る。
 だが、「もう一度同じようなことをしたいか?」とたずねられれば、僕は、「もういい。もう満足した」と答える。僕自身もどこかセコイところがあって、極端な贅沢が好きではないのもあるが、その一度の食事で満たされてしまったのだと思う。
 何事も、時には心行くまで、もういい!と思えるまで存分に味わってみるのも、長い目で見ると悪くないような気がする。
 
 さて、昔、ある方が、
「まずは徹底して、心行くまで人の真似をしてみればいいんだよ!」
 と、僕にアドバイスを送ってくださった。もちろん、写真の話である。
 写真家の世界では、人とは違った写真が求められることは言うまでもない。つまり、何か自分ならばでの新しい世界を切り開かなければならないのだが、その思いが強過ぎて、「人と違うものを!」と考え過ぎると、それが逆に他人を意識することに結びつき、知らず知らずのうちに人の真似になってしまうのだという。
 僕は最近、確かにその通りではないか?と感じる機会が多い。
 僕も存分に人の真似をしてきたし、時には、売れている写真家の作品を徹底研究して、同等の、コピーとも言えるような写真を次々を自分でも撮影してみて、売ってみた。
 そしてここ1〜2年は、そして真似をすることに対して、もういい!と心の底から感じるようになってきた。真似をすることを卒業するタイミングが来ているのだと思う。
 すると今度は、人と違うものを!と無理をして探さなくても、ごく自然に自分ならばでの世界が見えるようになりつつある。だから、次はそれを突き詰めてみたい。
 その自分ならばでの世界の1つに、浅い水辺がある。例えば、田んぼくらいの深さの水辺を、水中写真も含めて徹底的に撮影してみたい。
 意外にもそれは、まだ誰も手をつけていない世界なのだ。

(撮影機材の話)
 ただ、誰も手をつけなかったのにはやはりそれなりの理由があり、現状では、市販の道具の中に、そうした写真が撮影できる機材はない。田んぼくらいの深さの浅い水の中を存分に撮影するためには、良く考えられた特別な機材が必要になる。
 僕は昨年からそれを可能にする道具について検討を重ねてきたのだが、理想のレンズは24ミリ前後。
 水中の場合、水が振動を伝えるからではないか?と思うが、生き物はしばしば陸上の生物よりも敏感であり、特に浅い水辺に棲む生物は常に上空から捕食者に狙われているせいか、なかなかカメラを近づけることができない。
 したがってコンスタントに撮影するためには20ミリレンズでは短すぎるし、かと言って28ミリでは、水中の広がりが表現できにくい。
 そこで、その間をとり24ミリということになるが、市販の24ミリレンズには最短撮影距離が長いものが多い。唯一、シグマ社製の24ミリは最短撮影距離が短いのだが、レンズが大き過ぎて、工夫を施して水中に沈めるには大変に扱いにくい。
 そんなところに、Distagon25mm などというレンズが発売されたので、手に入れてみた。
 このレンズは、なんと17センチまで被写体に近づくことができる。マウントはニコンだが、これをアダプターを介してキヤノンのフルサイズのイメージセンサーを搭載したデジタルカメラに取り付ける。
 同じクラスのレンズにしては高価だが、作りは最高!まだちょっとのぞいてみた程度だが、像の感じは実にいい。
(NikonD70 28-75mm ストロボ)

 

2007.3.7(水) 役に立った道具-5 

 キヤノンのEOS30Dで水鳥を撮影した写真のできが予想以上に良かったことを、先日書いたが、僕は元々ニコンのカメラを使用してきたにもかかわらず、デジタルカメラを主に使用するようになってからは、キヤノンの製品を主に使うようになった。
 平均して言うと、現状ではキヤノンの製品の方が、僕にとっては扱いやすい。
 ただ、それはさまざまな使用状況を平均した場合の話であり、個別に見ると、ニコンが扱いやすい面も多くある。そして、この冬の北日本取材の際にも、あえてニコンのカメラの方を手にするケースも少なくなかった。
 そこで今日は、そのニコンの方が扱いやすい部分について触れてみようと思う。

 僕は、小さな生き物を接写する場合を除いて、大抵オートフォーカス(AF)を使う。オートフォーカスとは、カメラが自動的にピントを合わせる機能である。
 だが、カメラが自動的にピントを合わせてくれたとしても、もしも、ピントを合わせた後で被写体の方が動いてしまえば、せっかく合わせたピントがずれて、その結果ピンボケ写真になる。
 そこでニコンのカメラの場合はコンティニアス(C)というモードがあり、そのモードにカメラを設定しておけば、被写体が動いても、カメラが常に自動的にピントを合わせ続ける。
 キヤノンの場合も同様の AI SERVO という機能があり、その点では、ニコンもキヤノンも遜色ない。
 ただ、オートフォーカスには弱点もあり、時には手動でピントを合わせたいこともあるのだが、手動でピントを合わせようとすると、ニコンのカメラとキヤノンのカメラとには決定的な違いがあり、ニコンの方が扱いやすい。
 ニコンのカメラの場合、オートフォーカスのコンティニアスモードでピントを合わせをしていても、
「おや、ここは手動でのピント合わせの方がやりやすいぞ!」
 と、ピントリングに少し力を入れた瞬間にオートフォーカスが自動的に解除され、その瞬間から手動でのピントを合わせができる。
 ところが、キヤノンのカメラにはそのような機構がなく、 AI SERVO でピント合わせをしている最中には、常に機械の方が勝手にピントを合わせ続けてしまい、手動でのピント合わせができないのである。
 キヤノンがカメラの徹底した自動化を目指しているのに対して、ニコンは、手動での操作もそれなりに重視する、その考え方の違いがそこに出ているのだろう。
 だから、やっぱり、僕はニコンも手放せないのである。
(NikonD70 28-75mm ストロボ)

 

2007.3.5〜6(月〜火) 湿地 

 今年のカスミサンショウオやニホンアカガエルの産卵は終わってしまったのか?昨晩は雨が降り、条件が整っているように思えたにも関わらず、その姿を見ることが出来なかった。
 長期の北日本取材は楽しいが、それで疎かになる部分もあり、カスミサンショウオやニホンアカガエルの産卵シーンの撮影は、まさにそれにあたる。特にカスミサンショウウオに関しては、僕は今の水辺を語る上で不可欠な存在だとずっと以前から考えていたし、そう遠くないうちに時間をかけてじっくりと撮影したいと思い続けてきた。
 
 サンショウウオというと山の中にすむ生物を思い浮かべる人が多いように感じるが、カスミサンショウオは主に里に生息し、しかも魚がすめないような浅い水辺を利用していることが多い。
 そして、魚が生息できる深さや広さがある里の川や池に関しては、近年は『里山』などという概念が持ち出され、そうした環境を大切にしようとする動きもあるが、魚が棲めないような浅い水辺は、それは湿地と書いた方がいいのかもしれないが、ほとんど誰も興味を示さないまま、無視され、忘れ去られていると言ってもいいだろう。
 それどころか、湿地はほとんど人の役に立たないし、むしろジメジメして蚊の発生源になるなど、嫌われがちな環境でさえある。
 だからカスミサンショウオのような里の湿地の生き物は、次に消え去る確率が非常に高いのではないかと僕は感じている。
 だが、浅い水辺は、実は生き物にとって非常に重要な環境であり、そうした浅い水辺の役割を理解することは、いかなる水辺の環境を考える上でも非常に大切なことだと僕は考える。つまり、カスミサンショウオは、失われつつある浅い水辺を象徴する生物であり、それゆえに是非撮影したいと思う。

 ただ、それでも後回しにしてきたことにも理由がある。
 それは、カスミサンショウウオは非常に地味でマニアックな生物であり、それをどんなに密に撮影しても、一般の人に受け入れてもらうことは難しいと思われることだ。だから、カスミサンショウオを直に紹介するのではなく、何か別の形で、しかも多くの人が知るに値するような情報を盛り込んだ上で紹介する必要がある。そのためには何をどう撮影して、どう語りかければいいのか、これまで僕にはイメージが湧かなかったのである。

 

2007.3.4(日) 雨? 

 今日は夕刻からが降るという。そして、もしもその予報通りになれば、昨日の画像の水溜りにカスミサンショウウオやニホンアカガエルが産卵にやってくるだろうから、是非撮影したい。
 水溜りと書いたが、池というにはあまりに浅くて小さ過ぎるし、季節によっては湧き水が流れ込み流水になることは、すでに書いた。
 それと同じような環境は全国を探せばもちろん他にも見つかるだろう。だがそうした場所はそれほど多くはないはずだし、そのような水辺はフィールドをたくさん歩いている一部の人だけが知っている、かなり特殊な環境であると言ってもいいのではないだろうか?
 
 生き物の本は、出版社の側から、「こんな本を作って欲しい。」と絵柄を渡された上で撮影を依頼されることもあるが、「こんな場所があるから。」とか、「こんな生き物がいるから紹介したい。」と、写真家の側から提示することもある。
 そして今回の水溜りのような環境に関しては、一般的には知られていない特殊な環境なのだから、どんなに待っていても出版社の側から絵柄を渡されて撮影を依頼されることはないだろう。
 まさに現場の最先端にいる写真家が、そこで起きている現象をしっかりと自分の目で見た上で、「こんな場所があるから、これを本にして紹介したい。」と提示しなければ何も始まらないのである。
 北九州にあるこの場所に何度も何度も通うことができ、水中も含めて生き物を撮影する技術があり、本を作ったことがある人は恐らく世の中に僕一人だろうから、この水溜りが仮に一冊の本として紹介される日がくるとしたら、それは僕以外に出来ない仕事ということになる。
 そんな本を一冊でも多く作りたい。
 ただ、この水場は特殊な環境ではあるが、山に降り注いだ雨水がまた湧き出すことで水辺が始まることに関しては、広く人に知られているごくごく普遍的な現象であることが面白いと思うのである。
 
 カスミサンショウウオは、その中で重要なポジションを占めることは言うまでもない。だが僕は、カスミサンショウウオにあまり執着したくない。まず、その水溜りがどうやって成り立っているのかという部分から見ていきたい。
 以前、僕は一本の有名な桜の木を定点撮影したことがあるが、人がその木を見に来るのは花の季節だけであり、唯一、宮嶋康彦さんという著名な写真家が雪が降った日にその木を撮影しに来られたのを除いて、その他の季節には、ほとんど誰もその木に興味を示そうとしなかった。
 生き物の研究者だって、自分が直接テーマにしている部分しか興味を示せない人が時々いる。例えば、ある生き物の繁殖を調べている人が、繁殖以外の季節にその生き物がどのようにして過ごしているのかを全く知らないようなことがある。
 何か自分の興味があることはすばらしいと思うのだが、そこしか見れなくなってしまうことについては、僕は、薄っぺらだなぁと思うのである。

 

2007.3.2〜3(金〜土) 水溜り 

「いい写真撮れましたか?こんなところで一体何を写してるの?」
「この水溜りにサンショウウオがやってくるんですよ!」
「ええ?どこ?」
「あそこに卵が・・・、親はどこか落ち葉の下に潜っていると思います。」
「じゃあ、私はこの池を時々掃除してたけど、放っておいた方がいいだぁ!魚を放してみたりしたこともあるんだけど、あっと間にカラスが食べちゃった。水草を入れたこともあるけど育たなかったなぁ。でも、サンショウウオがやってくるとは知らんかった。」
「ここで見られるカスミサンショウオやニホンアカガエルは、大抵魚が棲めないような浅い水辺に卵を産むんですよ。魚がいたら、オタマジャクシや幼生がたべられてしまいますから。」
「ああ〜そうか!そんなことがあるなんだね。じゃあ、ここは自然のままがいいんやね。」
 カスミサンショウオが卵を産みにやってくるこの小さな水溜りの周辺は北九州市民の散歩コースになっていて、僕が風景写真を撮ったわずかな時間の間にもさんの人が通りかかった。
「梅雨になると、池の周辺からジャバジャバ水が湧いてくるよ。水量がもう少し増えて、びっくりするくらいに水がきれいにな水が流れるし、辺りの水路はびっしりシジミが見られるよ。」
 どうもこの池は、水溜りになったり、流水になったりと季節によって姿を変え、ただサンショウウオが生息するだけでなく、水辺の環境としても非常に面白そうだ。サンショウウオやカエル以外にも、昆虫だって面白いに違いない。トンボも、マルタンヤンマやヤブヤンマなどが産卵にやってくるだろう。
 とても小さな水溜りだから、仮にトンボが産卵にやってきたとすると、目の前で卵を産み始めることになるし、撮影も容易いはずだ。

 カスミサンショウウオの卵のほかには、ニホンアカガエルの卵がすでに産み付けてあったし、今年は春が早かったから、北日本取材に出かけている間にサンショウウオやカエルの産卵のシーンを撮り損ねた可能性もあるが、それは来年の2〜3月に撮影すればいいし、まずは一年間、この池の様子にひたむきにカメラを向けてみようと思う。
 特に、梅雨時に池の周囲から水が湧いてくるという話は、実に実に興味深い。

「ひと月も時間があれば、いい写真がたくさん撮れるでしょうね。羨ましい。」
 と、僕の北日本取材を羨む人は多い。
 だが、その間たくさんの場所を回るのだから、ひと月の取材と言っても、一箇所一箇所にかけることができる時間は短いし、今回だって、同じ場所に滞在した期間はせいぜい3日に過ぎない。多くの場所では、わずか一日しか撮影してない。
 だが、そのわずか一日だって、新鮮な気持ちで臨み、ちゃんと目を見開き、時間を大切にすれば、結構な量の写真が撮れる。また、そうして旅人の目線で、さらりと生き物たちにカメラを向けることでしか見えにくいものもある。
 身近な場所で撮影をする際には、また明日もこの場所にくることができるという気持ちから、しばしば無意識のうちに集中を切らしてしまっていることが多いのだと、遠征にでかけると気付かされる。
 確かに時間をかければいい写真が撮れるが、それと同時に、やっぱり一期一会ということがあって、時間をかければいい写真が撮れるわけではないのである。
 遠征に出かけると、一期一会の精神で撮影に臨まざるを得ないわけだが、ひと月の間、毎日そうしてシャッターを押すと、それが習慣になり、身に付く感じがして、今度は、身近な場所で撮影する際にも生きてくるように思う。
 また、遠征というスタイルでは、なかなか撮れないシーンがあることも思い知らさせれる。身近な場所だからこそ、撮れるシーンがあることを痛感させられる。
 それらの思いを、この水溜りの撮影にぶつけたい。
(CanonEOS5D 17-40mm)
(CanonEOS5D 100mm)

 

2007.3.1(木) 役に立った道具-4 

「一年で一番寒い時期を、北国で、しかも車の中で過ごすなんて、君も物好きだなぁ。」
 と何度か言われたことがある。
「それが実際にはそんなに寒くないんですよ!」
 といつも答えるが、大抵の場合、相手の目はニヤニヤしていて、まるで僕がやせ我慢をして強がりでも言っているかのような受け止め方をされる。
 決して強がっているつもりはない。ただ、快適に過ごすためのコツが幾つかあることだけは確かであり、それはしばしば日頃の常識を捨て去ることである。
 例えば、日頃は夜就寝の際に布団に入る時は、ほとんどの人が薄着になるが、僕は、冬の北海道で眠る時には、そのまま外に出て撮影ができるくらい着込んで眠る。すると、あとは日頃九州で使用している布団と毛布が一枚ずつあれば事足りる。
「冬山用の暖か〜い羽毛の寝袋を持っていくのですよね!」
 と、過去に何度か言われたことがあるが、意外に蒲団が暖かいことを書いておこうと思う。登山用の寝袋は暖かさだけでなく携帯性が考慮されていて、なるべく軽く小さく作られているのだが、軽くすることやコンパクトにすることは暖かくすることに相反するし、車の中に眠るのであれば軽くてコンパクトである必要はない。

 さて、今日は、この冬の北日本取材で僕が使用した手袋を紹介しようと思う。
 手袋は、日頃の常識を捨て去り、左右の手で別々の物を使ってみた。
 多くのカメラの操作は右手を使うことになっているから右手には薄手のものを、今回使用した手袋はフリーノットの釣り用の製品で、人差し指と中指にはスリットが設けられていて、特に細かい作業が必要な場合は、そこから指を出すこともできる。
 スリットが設けられた手袋は便利ではあるが、言うならば穴が開いているのと同じことだから保温の面では劣ることが多いが、この製品はなかなか作りが良くて、穴から指を出していない時には、外から見るとスリットが設けてあることがわからないくらいにきれいに閉じ、外の空気が入りにくくてスリット付きの手袋としては暖かい。
 左手は、ほとんどカメラの操作に使うことがないから、ノースフェースの飛びっきり暖かいものを選んだ。
 ただ、それでもなるべく操作性に優れているに越したことはない。そこで、この手袋を購入する際には、ショップでMからLLまでのサイズを実際に身に付けてみて、その中でもっともピッタリ合うものを選んだ。
 手袋はフリーサイズであることも多いが、それぞれのサイズのものを実際に身に付けてみると、サイズが合っているかどうかで、かなり扱いやすさに差がでることがわかった。
(NikonD70 28-75mm ストロボ)

   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2007年3月分


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