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2007.1.31(水) 苫小牧へ
八戸から北海道の苫小牧へとフェリーで渡った。明日から、しばらく北海道で写真を撮る。
今朝の8時台のフェリーへと乗り込み、夕刻少し前に北海道へと到着し、その後は、ひたすらに北海道東部(右の方)に向かって車を走らせる。
本来の予定では釧路まで移動するつもりでいたのだが、路面状況が悪くて、それよりも遥か手前で眠ることになった。その結果、明日の朝の撮影の予定がこなせなくなり、撮影ができる日が一日短くなってしまうが、事故を起こしては元も子もないから仕方がない。
「冬の北海道へ行く!」というと寒さを心配してくださる方が多いが、一番危ないのは、間違いなく車の事故だろうと思う。
寒さは意外に大したことがないのである。何と言っても、公衆便所には暖房が効いていて快適その物であり、避難ができる場所も多い。その点、島根県や鳥取県あたりの山陰や新潟県あたりの方が設備がなくて辛い。
その車の運転だが、過去に冬の北海道で撮影をした際に、運転でヒヤッとしたことがなかった年は一度もないのだが、今年は、ヒヤッのレベルのこともゼロにしたいと望んでいる。
今年は、北海道でも信じられないくらいに雪が少なくて暖かいが、車の運転に関して言うと、寒くて雪が多い年よりも、今年のような年の方が危なく感じられることが多くなるように思う。特に、夜間の気温が0度前後の日は、道がツルツルに凍ってしまうから危ない。
今日はまさにそんな状態であり、やさしめにブレーキを踏んでも、車のABS装置が働き、タイヤが滑っていることを実感する機会が多かった。
途中で広場に車を止めて道路を自分の足で歩いてみると、路面はまさにスケートリンクのようであり、これは危ないな!と実感。
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2007.1.30(火) オリエントの文明

青森県の八戸には有名なウミネコの島がある。今日の画像は、その島の周辺で撮影したもので、右上と左上の背景には、工場から立ち上る煙が見える。
「八戸って、工業地帯だったかなぁ。」
僕は何と言っても、子供の頃に学校で授業を真剣に聴いた記憶がない。これは、決して謙遜や大げさを書いているのではない。授業中はいつも好きなことを考えて、ノートをとった記憶もほとんどない。
ある時、社会の先生がついに痺れを切らした。
「おい、武田!お前はいつも授業に参加していないが、何を考えているんだ。」
「・・・・・・・・・・・」
「ちょっとノートを持ってきなさい。」
それは3学期になってからの出来事である。僕が仕方なく先生に提出したノートの最初のページは最後のページでもあった。そこには、教科書の冒頭にある『オリエントの文明』という言葉だけが書かれていた。
つまり僕は、一学期の冒頭にオリエントの文明と書いて以来、ノートをとっていなかったことになる。
だが、先生の言葉は愛情に溢れていた。
「お前は、みんなが一時間で終えるオリエントの文明について、3学期間考え続けたんやから、なかなか深く勉強しよるんやな。」
と、僕を傷つけないように注意してくださった。
僕はそんな風だったから、日本のどこに大きな工業地帯があるのかなど、ほとんど覚えていないのである。
今日の最初の画像は、有名なウミネコの生息地と工業地帯の煙の組み合わせで、世間に何か物を申したいのではない。
僕は、生まれ変わるなら、父が過ごした時代に生まれてみたいと思う。
実は父の年齢を僕は知らない。僕の父は、誕生日などくだらないと主張していたし、
「年は、誕生日の日に、ある日急に取るものではない。毎日少しずつ取るものだから、誕生日などくだらないし、日々努力をしなさい。」
と何度か言われたことがある。
だから僕だけでなく僕の兄弟も、誕生日というイメージをあまり持たないように思う。
だがもしも父が、僕らが子供の頃に誕生日を祝ってくれたなら・・・
恐らく、最近の父の誕生日には、父を祝うために大人になった僕ら兄弟が集まり、食事をするなど、今の父にとって極めて幸せで支えになる時間が、そこにあったのではないか?と思う。
それを、父は自ら絶ってしまったのではないか?と思うのだが、風習って、その時はくだらないと思っても、最低限それを大切にしておいた方がいいんだな!と最近感じる。
ともあれ、僕は父の年齢を憶えていない。確か戦時中に小学生だったと聞いたことがある。
父の世代の人は、戦後間もない何もない時代から、急速な経済発展を遂げた時期、そして光化学スモッグなどという言葉が生まれ自然がひどく打ちのめされた時期を一通り経験したことになるが、僕は、それを一通り見られた人を、戦争や公害の良し悪しは別にして、羨ましいと思う。
自分の目で、そうした、あらゆる人の営みを見てみたい気がする。

ウミネコのほかにも、辺りにはシノリガモという、九州に住む僕にとっては、憧れの存在である海に棲むカモが見られる。
僕にとってこのカモのイメージは、海辺の波がザブ〜ンとかかるような岩場で見られ、その山のような波の先端に数羽のシノリガモが、まるでサーフィンでもしているかのように乗っている姿だが、なかなか自分のイメージ通りの写真を撮影できる機会がない。

港の中に入ると、一転して波が穏やかで、スズガモが多く休んでいる。
よく、野鳥を撮影する人が、
「なかなか鳥が止まってくれないから、撮影が出来ない。」
と言うが、僕は全く逆に思う。
動いてくれた方が躍動感のある写真が撮り易いので、撮影は優しい。とは言え、時には港の中でのんびりとカメラを向けるのも楽しい。
それにしても、環境によって、水の表情のなんと異なることか。それは、僕が最もこだわる部分でもある。
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2007.1.29(月) 青森県へ
今日の宮城県は天気が悪いという予報だったので、昨晩のうちに、今日を移動日にすることを決めて、青森県へと入った。
行きの場合は、どうせ帰りの道のりで同じ場所を撮影することができるから、とにかく天候を優先して、天気が悪い場合はそこを飛ばして先へと進むことにしている。
ところが、高速道路にのってすぐにお日様が顔を出し、青空が広がり始めた。写真撮影は、必ずしも晴れの日がいいわけではないが、開けた淡水の水辺に関して言うと、圧倒気に晴れの日が撮影しやすい。
絶好の撮影日和のなか、ひたすらに高速道を走るのは実に空しい。
明日は、天気がいいというので、八戸周辺の海辺で、カモの姿を探してみようと思う。
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2007.1.28(日) オートフォーカス

(撮影機材の話)
昨年の北日本取材の際にはニコンのデジタルカメラを使用したが、今年は、600ミリレンズに関してはニコンを使っているものの、300ミリ以下のレンズに関しては、キヤノンの製品を使用している。
もちろん、ニコンもキヤノンも一長一短ありではあるが、野鳥の撮影に限定して言うと、今や完全にキヤノンが上。
今後、益々ニコンを使用するユーザーは少なくなるだろうし、それでも野鳥の撮影にあえてニコンを使用する人は、よほどのマゾか、頭がガチガチな人なのではないか?とさえ思えてくる。
一番の違いはオートフォーカスの性能の差であり、ニコンの性能が悪いというよりは、キヤノンのカメラが非常に良く出来ている。実際にキヤノンのカメラのオートフォーカスを使用してみると、衝撃が走るくらいに差があり、特に、EOS5Dのオートフォーカスの性能が、思いの他、優れていることには驚かされている。「ここのピントが合って欲しいなぁ。」などと言った人の意思を、不思議なくらいによく汲み取るように感じられる。

例えば、水浴びのシーンなどがいい例だが、ニコンのカメラでは水滴の方にピントが合ってしまうことが多いのに対して、キヤノンのカメラは、水しぶきにあまり惑わされることなく、しっかりと野鳥の体にピントが合うことが多い。
そう言えば、昨年も、雪がチラチラ降り始めると、ニコンのカメラは雪に惑わされて、なかなかピントが合わなくなる現象が起きた。
つまり、ニコンのカメラのオートフォーカスは、雪や水滴など、小さな物体を拾ってしまう傾向があるようだ。
ところが、飛翔中の野鳥にカメラを向けてみると、今度は、ニコンのカメラのオートフォーカスが、雪や水滴よりもずっと大きな野鳥を全く検出できないことが、しばしばある。
ニコンとキヤノンとどっちが好きか?と言われれば、今でもニコンが好きな僕だが、このままではいずれすべての道具をキヤノンに置き換えなければならない日が来てしまうだろう。
ただし、昆虫の撮影のように滅多にオートフォーカスを使用しないのであれば、ニコンにはニコンの良さがあるのだから、惑わされる必要はないだろう。だが、野鳥を撮影している人で、キヤノンを使ったことがない人は、一度キヤノンを体験してみるのがいいと思う。
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2007.1.27(土) 移動日
昨年の北日本取材に比べると、今年は調子の上がり方が悪い。やや体調が悪いし、気持ちの上でも、ピリッとしない部分がある。
昨年の末から考え事をしていることも、或いは関係があるのかもしれない。
そんな時は、どんな被写体でもいいから、一日中シャッターを押し続けるのがいい。考えてしまうと益々悪い流れになってしまうことが多いから、考える時間を徹底して排除するのがいい。
そこで、本来の予定よりも早く北陸を経ち、今日は丸一日を移動日にして、東北の太平洋側へと動いてみることにした。
北陸はどうしても曇りの日が多いし、晴れるにしても天気が安定しないし、天気予報が当たる確率もとても低い。だから、写真が撮れる時間が限られるし、そうなるとつい考えてしまう。
その点、太平洋側では天気が安定するから、写真撮影に没頭出来やすい。
それにしても、恐ろしいほど雪が少ない。雪の中で撮影したかった幾つかのシーンは、諦めなければならないだろう。
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2007.1.26(金) 餌付け

もしも写真が仕事ではないのなら、僕が人物にカメラを向けることはほとんどないだろうと思う。
時々、
「すいません、シャッターと押してもらえませんか?」
と取材現場でお願いされることがあるが、断れる状況、例えば自分がまさに撮影の真っ最中であり、その状況でお構いなしに強引に声をかけられた時などは、僕はお断りすることが多い。
以前は、自分では写真撮影が好きなつもりでいたのだが、最近は、僕が好きなのはあくまでも自然であり、写真撮影そのものにはあまり興味がないのかな・・・と、感じることが多くなってきた。
ただそれでも、もしも人物にカメラを向けるなら、仕事だからと割り切るのではなく、やっぱりジーンとくるような、その人の内面が多少は写っているような写真が撮りたいなぁと思う。
さて、生き物が絶滅することは、なぜいけないことなのだろう?僕は生き物が好きだから、生き物に絶滅して欲しくないのだが、なぜそれがいけないことか?と、善悪を問われると、答えに困る部分もある。
なぜなら、人類が誕生する以前にも、大昔にはたくさんの生き物が絶滅した時期があるというし、時には、地球上の9割以上の生き物が絶滅したことさえあると言われている。どんな生き物でもいずれは絶滅する運命にある。
どうも、人がダメと言っているのは、生物の絶滅と言っても、人間の影響で生き物が絶滅してしまうケースのようで、人は、人の営みの結果、地球が変化することを悪とみなす傾向があるように思う。
生き物に餌付けをすることを嫌う自然愛好家は多いが、そこにも、人間が野生の生物の生活を変えることを悪とみなす、似た心理が働いているように思える。
では、なぜそれが悪いことなの?とたずねても、誰も答えてくれる人はいないのである。
人の働きかけの結果自然が変化することは、なぜ悪いことなのだろう?一番分かり易い現実的な答えは、それが人に跳ね返ってきて人が不自由をするというもので、言い換えるなら、他人に迷惑をかけないでということになる。
餌付けをしたサルが厚かましくなって今度は人に危害を加えるようになるなどの例があるが、そうした明確な理由があるケース以外でも、なぜか、人は自然に手を加えることを直感的に嫌う傾向があるように感じる。
餌付けに関して言うと、僕は、程度の問題だと思う。餌付け場所で小さな子供が興味を持って、生き物を間近に見られるのなら、それはそれでいいじゃないかと思う。
その子供が、
「ああ、面白い。」
と感じる機会があることは、大人が考えているよりも、ずっと尊いような気がするからだ。

さて、暖冬だからだろうか?カモの数が恐ろしく少ない。
もしも暖冬だから、本来南下してくるはずのカモが北にとどまっているのなら、北日本に行けばカモの数が増えてくるのかもしれない。
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2007.1.25(木) 昆陽池

兵庫県の昆陽池は、幼稚園の小さな子供たちや、家族連れや、散歩をする人で、いつもにぎわっている。
神戸に近いからか、ここで見かける小さな子供連れの若い女性には、都会的でおしゃれな感じの人が多いように思う。
一方、男性に関しては、若い人の姿はほとんどなく、おじさんが圧倒的に多い。
ここで見かけるおじさんたちは、女性とは逆に、言葉は悪いがお洒落とは程遠く、何だか小汚い感じのする人が多くて、またカメラを手にした人の割合が高い。
カメラを持ったおじさんたちの狙いは上の画像のユリカモメだ。誰かが投げ上げたパンをキャッチしようと、どっと集まってきたユリカモメを撮影するのである。

子供たちの人気は、ヌートリアという、巨大なネズミのような感じの帰化生物だ。
僕は子供の頃、仮面ライダーショーを見に行き、友達がショッカーと呼ばれる悪役にさらわれた際には、
「仮面ライダー〜」
と大きな声で叫んだものだが、ほとんどそんな感じで、
「ヌートリアー〜」
という子供たちの声が辺りに響く。
帰化生物であるヌートリアは分布を広げることが心配されているが、子供たちにはそんなことは全く関係ないし、そこが、帰化生物の問題の非常に難しいところだと思う。
すでに完全に帰化してしまった生き物はともかく、これからは、これ以上新しい帰化生物を増やさない工夫や法整備や努力は不可欠だろうし、その中には、子供たちに対する教育もあるだろう。
だが一方で、帰化生物だとか、希少な生物だといった、その生き物のプロフィールに関係なく、生き物を興味を持って見つめることは、非常に大切なことだと僕は感じる。
それが養われていない子供に、「帰化生物は問題をはらんでいる生き物だ。駆除しなければならない。」と教えることは、何だか非常に恐ろしい結果につながるような気がする。
帰化生物といっても、色々な存在がある。
今まさに、分布を広げつつあるものもいれば、すでに完全に帰化してしまい、安定して、日本の自然の一員になってしまっているものもある。
それぞれのケースがあるのであり、感じることや考えることを放棄して、機械のように取り除けばいいというものではないだろう。
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2007.1.24(水) マガン

マガンは、なかなか近づくことが出来ない、意外に撮影が難しい鳥だ。
しかも、同じように近づくことが難しいワシやタカほどは絵にならないので、必死に近づいてやっと大きく写しても、何だか報われない感じがすることが多い。
だが、島根県の宍道湖の周辺では、かなりの近距離で撮影できる。
上の画像は、ニコンのD2Xに600ミリレンズを取り付けて撮影したもので、時間さえ費やせば、もっと大きく撮影することもできる。
もちろん、宍道湖ではマガンに近づきやすいと言っても、元々神経質な鳥だから多少はコツがあり、例えば、僕は車で近づき車の中から撮影しているのだが、車を10メートル進めては、しばらく立ち止まり、また進めるというようなやり方はよくない。
ちょうど農家の人が辺りを車で走る時くらいの速度でさっと近づき、適当な距離にためらいもなく、当たり前のように車を止め、窓からレンズを出してすばやく撮影するのがいい。
マガンが見慣れている農家の人の車を真似るのである。

今日は、主に動きのあるシーンを撮影したかったのだが、気象条件やマガンの群れが降り立つ場所が、動きのあるシーンを撮影するには向かず、結局思うような撮影ができなかった。

そこで、付近にある小さな博物館(確か、ゴビウスという名前だったと思う)を見物してみることにしたら、実に展示がいいので驚かされた。
魚を下から見上げるように観察できる設備があったり、見ごたえのある大きな水槽が多数あり、また生き物の種類も非常に多くて、しかもあくまでも宍道湖や中海の生き物にこだわってあり、外国の熱帯魚などが泳いでいない点もいい。水辺の生き物に興味がある人なら、そうとうに楽しめるのではないかと思う。

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2007.1.23(火) 旅

頻繁に、好んで旅にでかけるくせに、出発の直前になると、出かけることが煩わしく感じられるという人が時々おられるが、僕もその一人だ。
出かけしばらくすると文句なしに楽しくなり、旅っていいなぁとニヤニヤして過ごすようになるのだが、ちょうど出かけるときに、何だか心の中にハードルのようなものが横たわっている感じがする。
もちろん、旅は義務ではないから煩わしいのなら取りやめればいい。だが、そのハードルさえ越えれば、旅は潤いを与えてくれるし、取りやめてしまうのもまた勿体無い。
僕の場合は、ハードルに引っかからないようにするために自分なりの幾つかの工夫があり、例えば、準備や荷造りには凝り過ぎないようにすること。それから、こうでなければならないとスケジュールを決め過ぎないこと。
荷物は完璧に整理する必要などどこにもないし、防寒具などは、適当に車の中に山積みにしておく。そのうち時間が経てば、使用する頻度やタイミングなどによって、それらの荷物は自然といい位置に落ち着いてくるし、そうして自然と落ち着いた荷物の行き先は、実は旅に出かける前に頭で考えた必死に考えた物の整理の具合よりも、大抵の場合、ずっといい。

撮影は、まず何でもいいから撮ってみること。
ここに行かなければならないとか、これを撮らなければならないなどとは、決して考えない。今日はまずタゲリを撮影してみた。
最初は、なるべく大きく、シャープに撮った。その次は、小さなテーマを決めて撮った。今回は、食べているシーンと決めて、しかもただ頭をさげて食べていることが分かる写真ではなくて、くちばしが地面についているところが見えることと、なるべく足が先端まで見えること。
野球の選手が、まず短い距離のキャッチボールから始め、やがて遠投へと距離を伸ばしていくようなものである。
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2007.1.21(日) 詰め
僕はだいたい詰めが甘い。やらなければならないことが9割がた終わると、あとは全くヤル気になれないことが多くて、残りの一割は、そのまま手をつけずにさらりと流してしまう。
撮影でもそう。事務的な仕事でもそう。
さて、北日本取材にでかけるまでに片付けておくべきことを多数リストアップしていたのだが、どうしてもどうしても必要なことだけを片付けて、結局残りは手付かずのままになった。
明日、まずは島根県へと出発する。
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2007.1.18(木) 準備
北日本取材のための準備で、慌しくなってきた。
撮影の準備そのものは30分もあれば済むのだが、撮影用に飼育している生き物たちの世話やその他は、やはりひと月の取材の準備となると骨が折れる。
昨年は、帰宅後に、取材期間中にたまった領収書の整理に泣かされたから、今回は取材用のパソコンに会計ソフトをインストールして、毎晩、車内泊の車の中で領収書はまめに整理しておこうと思う。
理想を言えば、写真の貸し出し業務までを、僕の代わりにできる人がいればいいのだが・・・こればっかりは写真を見る目を持っている人でなければならないから、なかなか適当な人が見つからない。
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2007.1.16(火) 原稿
僕は字が下手糞だし、文字を書くことが大の苦手だ。字の上手い下手以外にも、そもそも間違えがとても多いタイプだから、ほんの短い文章でも、どんなに気をつけていても書き間違えをしてしまうし、子供の頃から何度も何度も書き直しをしなければならないケースが多くて、とにかく、字を書くことが煩わしくて煩わしてく、たまらないのである。
だから、封書に宛名を書くだけの作業が、その日の忙しさや、心の中のコンディションによっては、不思議なくらいに苦痛に感じられることがある。手紙を投函する準備を整えたものの、宛名を書く気になれなくて、1週間くらい机の上においてあるようなことも、決して珍しいことではないし、ついに、最後まで投函しなかったことさえもある。
けれども、文章を作ること自体は、もの凄く好きという訳ではないが、僕の場合、何か出てくるから、全く苦にならない。
だから、この日記が続くのだろうと思う。
ただ、それでも、同じような内容の文章を書く作業が重なると、日記の更新が多少苦痛に感じられるようだ。ここ数日は、原稿を書く作業に没頭していたのだが、すると、毎日日記を更新することができなくなってしまう。
僕は、定番の売れ筋の写真を撮って、それを一枚でもたくさん売ることに、これまで、そうとうなエネルギーを注いできた。
そういう方法を選んだ理由としては、まずある程度のお金を稼がなければ話にならないと思ったこともあるけれども、他にもあと1つ、これまでまだ日記に書いたことがない理由があった。
その理由というのは、自分に正直になって考えてみた時に、型にはまった定番の写真でさえ、コンスタントに撮影できる自信がなかったからだ。
定番のものを撮影するなんて、志が低いなどと言う人がいるが、僕のレベルはもっと低いと思ったし、それは決して間違えではなかったと思う。
仮に僕が、
「定番の写真なんて、つまらない。」
と発言したとして、誰かから、
「その前に、あんた、その定番の写真でも撮れるだけの力量がある?」
と突っ込まれ、
「例えば、これと同じシーンを、同等のレベルに撮ってみてよ。」
などと、先輩写真家が撮影した写真を突きつけられたら・・・
僕は、それが怖かった。だから、まず、一枚の商品価値のある写真を撮れる技術力を身につけることを重視した。
それから、今度は、一枚の定番写真を撮るのではなくて、一冊の定番の本を作ることを考えるようになった。写真の撮り方の次は、本作りのための写真の撮り方を憶えようと考えた。
僕は今、次の目標として、定番ではない、自分の本を作れるようになりたいと思う。そして、それができるチャンスが、少しずつ巡って来つつあるように感じる。
ここ数日、同じような内容の文章を書く作業が重なると、日記の更新が多少苦痛に感じられるなぁと感じていることにしても、僕がWEBを使って日々発信している自分の思いを、出版の場でも述べられるチャンスが巡ってきつつあることのあらわれなのだから、ありがたいことだと歓迎しなければならないだろう。
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2007.1.14(日) 言葉-2
3年くらい前のことだったと思う。大学時代の恩師のもとを、研究室に所属していた頃の仲間と一緒に訪ねた際に、何の話からだったか、
「人間っていうのは、物を考える時に言葉で考えるんだよな。言葉って大切なんだ。言葉を失ったら、人は物を考えられなくなるんだ。」
と恩師がおっしゃった。
何だか、分かるような、よく分からないような気がしていたのだが、今でも、同じ状態が僕の中で続いている。
恩師がおっしゃった言葉とは、いわゆる音声としての言葉ではないことは、まず明らかだ。なぜなら、障害があり、音声としての言葉が話せない人だって、物をちゃんと考えることができるからだ。
だが、言葉が話せない人でも、代わりの手段として手話などで会話ができるのだから、仮に音声を発することが出来なくても、その人の脳の中にはちゃんと言葉が存在する。
恩師がおっしゃったのは、そうした意味での脳の中の言葉ではないか?と思うし、恐らく、物事を考えるという行為は、脳の中で言葉を組み立てることなんだと、恩師はおっしゃったのではないだろうか?
もう少し自分で考えてみて、恩師がおっしゃったことの意味が、あと少し分かるような気がしてきたら、一度、それをたずねるために、恩師に会いに行ってみようと思う。
先日僕は、写真を撮影することと、文章を書くことは、根本は同じではないのだろうか?などと書いた。
もちろん、人によって写真の撮り方は異なるから、すべての写真家に当てはまるとは思っていないのだが、僕の場合、例えば、「こういう風に文章を書いたら、誤解されて受け止められる可能性があるなぁ。」とか、「言いたいことがストレートに伝わらなくなるなぁ。」などと、一文一文を瞬間的に吟味しながら文章を書くのだが、写真を撮影する際にも全く同じことを考える。
多分、脳の中の共通の部分を使っているのではないか?と感じる。
被写体をカメラのファインダーの中で捉え、「このままシャッターを押してしまうと、僕が何を伝えようとしているのかが、見えにくくなるなぁ。」とか、「おや、こういう風な構図にすると、より言いたいことが明確になるな。」などと考えるのである。
それこそが、まさに、恩師が言う、
「人間っていうのは、物を考える時に言葉で考えるんだよな。」
ということなのだろうか?
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2007.1.12(金) 言葉
先日、
「言葉がいらない写真ですね!」
と書かれたメールが届いた。それは多くの写真家にとって、もっとも嬉しい評価の一つではないかと思う。
もちろん、僕もそれを目指して写真を撮影しているのだし、それを目指すことこそが写真の技術を磨くことだと思っているから、とても嬉しく思った。
だがそれと同時に、やっぱり言葉って大切だなぁと、最近感じる機会が多い。
言葉が大切というのは、写真に、文字による説明を入れた方がいいという意味ではない。
僕は、写真撮影の過程と文章を書く行為は似ているなぁと、日頃感じることが多い。いや、似ているというよりも、写真撮影という行為は、写真機を使って文字を書く行為であり、根本は同じなのかな?と実は思う。
もちろん、写真と文字とで、得意不得意があるから、写真に加えて文字による説明が必要なケースは多々あることも、紛れもない事実である。
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2007.1.10(水) 事務作業
1月22日から北日本へと出発する。期間はひと月ほどで、その間は水鳥たちにカメラを向ける。
昨年も同じように出かけたが、昨年が完全な趣味の撮影だったのに対して、今回は1つ仕事を取ってきた。やはり、撮影の際には、その写真が使われるという張り合いがあった方が間違いなく気合が入る。
もちろん、昨年の撮影旅行が趣味といっても、そこで撮影した写真を使うこともあるし、多くの人がイメージする趣味とはかなり違った時間であったことは言っておかなければならないだろう。
僕の場合は、一応の目安として、取材費と、ひと月の取材ならひと月分の程度のギャラに相当するお金がもらえれば仕事である。
今年の北日本取材のように仕事をするとなると、ある程度、撮影を手堅く進めなければならない。
たとえば、目的地に到着したものの天候不順などという事態も考えられるから、ここぞ!という場所、仕事の上でどうしても外せない場所に関しては、計画を立てる際に予備日を設けるなど備えておく必要がある。
すると、趣味ならば10箇所を回れる計画が立てられるところが、仕事なら、計画段階では5箇所しか回れないことになるなど、どうしても窮屈になってくる。
また趣味なら、取材の行き帰りに、ちょっとあの人のところに寄ってみようかな・・・・などと撮影以外の時間を設けることができるが、仕事をする場合は、そうした時間から削っていくことになる。
それから、僕は事務作業と呼んでいるのだが、単なる生き物の撮影を仕事として成立させるためには、生き物の写真に何か1つプラスアルファーを加えて、企画として成り立たせる作業が必要になる。
たとえば、ただの水鳥の写真をまとまった量発表できる場所など、今の日本の出版業界にはほとんどないが、そこに、水鳥と水鳥に餌を与える子供たちなどという要素が加わってくると、その結果、仕事が成立する確率が高くなる。
そうした作業は、やり過ぎては元も子もないし、自分を曲げてまで、事務作業をする必要はない。
自分を曲げるのではなくて、ちょっと視野を広げ、「あっ、面白いな。」と感じることを、生き物以外に、その生き物に関わる人間の社会にも見出し、自分の写真と社会との間に接点を持たせる作業だ。
それは、肩の力を抜いてリラックスすることでもないし、生き物に夢中な自分の傍に、あたりを客観的に見つめるマネージャーの役割をする自分をあと一人同居させる作業である。
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2007.1.9(月〜火) 利き手

撮影用の水槽の中からアメリカザリガニの子供たちを取り出した。
網を入れて次々と掬いだしてみると、どれも喧嘩をして、ハサミが取れているか、ヒゲが切れている。
さて、この水槽のボスはどれだ?と、探してみれば、ひときわ大きくて、全く傷を負っていないものが一匹だけ見つかった。
ザリガニたちを上から眺めてみると、ハサミが取れてしまった個体のうち、右のハサミが残っているものが72%、左のハサミが残っているもの28%だから、どうもアメリカザリガニにも利き手がありそうな印象を受ける。
北日本取材に出かけるひと月の間、撮影用に飼育している生き物たちの世話は、人にお願いすることになる。今年は、どうやら科学の専門家に頼むことができそうだから、安心して出かけられる。
ただ、それでも可能な限り備えておかなければ、どんなアクシデントに見舞われるかは分からない。
たとえば、水槽に投入しているヒーターなどは、なるべく電源を切っておいたほうがいいだろう。水温が低い方が水の蒸発量が少なくなるから、足し水をしてもらう機会が減るし、電気的なトラブルからくる火災なども避けられる。
今日は、撮影用の水槽の中からアメリカザリガニの子供たちを取り出して、水槽には水草だけを残しておくことにした。
動物を入れると餌を与える必要が生じ、餌を与えると、今度は、水槽の中の養分が豊富になりすぎて、苔がはえ易くなる。そして、一度苔が大発生すると、その水槽を元に戻すのは、中味を入れ替えない限り、ほぼ不可能だ。
だから、撮影用の水槽に関しては、撮影時以外は、なるべく動物を入れずにおきたいのである。
(CanonEOS5D 100mm)
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2007.1.6〜7(土〜日) はじめての洞窟
「ここにも洞窟がありますけど、行ってみますか?」
と教えてもらい、
「どうしようかなぁ・・・・うん!行きます。とにかく見てみようかな。」
と、昨日ははじめての洞窟に案内してもらったら、大変に美しい場所だった。
昨日はカメラを持たずに洞窟に入ったが、これは是非撮影したいと感じた。一瞬でも、どうしようかな?と考えた自分が拙かったことに気付かされ、少し恥ずかしくなった。
やっぱり、何事も可能な限り自分の目で見てみなければならないなぁと、改めてそう感じた。
僕の毎日や仕事は、ほとんどがその繰り返しであるような気がする。
何か思いつく。その時に、どんなに小さな思い付きでも、とにかく試してみる。
どうせダメだろうという気持ちでただ試しても、それは試したことにはならないし、逆に、これはいけるに違いない!と根拠のない自信で自分をごまかした上で試しても、やっぱり試したことにはならないことが多い。
自分が自分自身をよく客観視できている中で、冷静な目でもって自然を見つめる。何でもないことだけど、これが実に難しくて、ここ2〜3年は、とにかく試してみること、やってみることがやっと身に付きつつあるように思う。
多少なりとも自分にそんな習慣が身についてくると、逆に、非常に多くの人が、実際に試してみることなしに物を言っていることに気付かされる。
自然写真界で優れた仕事をしている先輩方の多くが、
「とにかくやってみろよ!やってみて物を言えよ」
と力説することの意味が、ヒシヒシと分かるようになってきた。
以前は、
「やってみて物を言えよ」
と言われても、それは精神論だと思っていたのだが、そうではなかったことが多少わかってきた。
やっている人から見れば、やっていない人の写真や発言は隙だらけであり、多分一目瞭然なのだろう。
昔、野鳥専門の写真家を志していた頃は、野鳥って、なかなかシャッターが押せるチャンスがないなぁと感じていた。
とにかくどんな鳥でもいいから、そこそこの大きさに写すことができて、それが最低限絵になるような機会は、ほとんどないような気がしていた。
だが最近は、野鳥を探したりカメラを向けること自体はずっと少なくなったけれども、洞窟への行き道に簡単に撮れるような距離にタカが止まっていたり、適当な木の実があり小鳥が集まっているなど、シャッターチャンスってたくさんあるんだなぁと、出かければほとんど毎日のように何か見つける機会がある。
つまり、以前の僕は見てなかったし、本当の意味では探していなかったし、試していなかったことになる。
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2007.1.5(金) 水路

家の事務所の近所のある水路には、町の中だというのにとても多くの魚がみられる。
だが、辺りを散歩などして通りかかる人たちは、その水路にはほとんど何の興味も示さない。
護岸の高さの関係で、ちょうど水面がコップの底にあるような状態になっていて、さらに、ガードレールが目隠しの役割をして中の生き物たちが目立ちにくいことがその理由ではないかと思う。
僕は、その水路に関して撮影を進めているのだが、水路の中は荒れ放題と言う感じで、場所によってはゴミがひどい。
自然にカメラを向ける際には、ゴミや人工物をよけて撮影することが多いが、この水路に関しては、町中の水路のありのままを写し撮りたいと思うから、今回は、ゴミはあっても構わない。

ところで、なぜ町の中の工場や住宅の間を、縦横にたくさんの水路が走っているのか?と調べてみれば、元々そこらあたりに田んぼがあったことがわかった。
なるほど、町中の水路は、田んぼの水路が取り残されたものと考えれば、分かりやすい。
水路を水源の方向へとたどると、ほんのわずかではあるが、田んぼが残されていた。面積は極めて狭くなってしまったが、それでも田んぼが残っているから、水路が死んでいなかったのだ。
あたりはとても平坦で、この場所で稲作が盛んだった頃には、水はけが悪いことでよく知られていたそうだ。
だから、田んぼに水がない時期にでも水路の水がはけにくく、中に水が残ったままになることが、以前はよく問題になったようだ。
がしかし、その結果、たくさんの魚が住みつくいている。
(CanonEOS5D 17-40mm 偏光フィルター)
(CanonEOS5D 70-200mm)
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2007.1.4(木) 役所
家の事務所の近所に、町の中だというのに、とても魚が多くみられる水路がある。
僕は、なぜそんなに多くの魚がその水路で見られるのか?以前から不思議に感じ、その理由を知りたいと思っていたのだが、昨年の夏はその水路へと何度か出かけ、写真を撮り、この冬に入ってからは、あたりを探索して、周囲の地理について調べを進めている。
ただどうしても分からないことがあるので、今日はかつて役場に勤めていた知人をたずね、幾つか疑問をぶつけてみることにした。
「ちょっと教わりたいことがありまして・・・。」
「なにか私が知っちょることがあればいいけど、さぁ、どうじゃろう。」
「北九州の則松のあたりに水路があるのですが、辺りのことについて知りたいんです。」
「ふむふむ、あの辺りはね・・・」
役所関係の人の知識には、時に圧倒されることがある。
今回も、僕が注目しているローカルな水路が、どこに繋がっていて、あたりでどんな役割を担い、昔はどんな場所で、どんな問題を抱えていたのかなど、どこにも、何にも書かれていないことをつぶさにご存知で、まさに生き字引としか表現しようがない。
「う〜ん信じられない。役所に勤めておられた方なら誰でも、いきなり質問をされて、みんな、こんなに答えられるものなんですか?」
「それは、長い間役所で仕事をしたし、いろいろな事業に関わったきましたから。ただ、今回は、こんなに答えることが出来たのは、たまたま自分が関わった事業が含まれていたという側面もあります。それでも、自分が知らないことでも、知人をたどれば、大抵は誰か詳しい人を紹介できると思いますよ。若い連中には、全く分からないでしょうね。」
今回僕の相談にのってくださった方は、いわゆる天下りなのではないか?と思うのだが、北九州市内のさまざまな施設を、ほぼ1年の周期で転々としておられる。
以前その方がYという市内の公園に所長として勤めておられた頃に、僕がそこで写真展と講演をしたことがあって、その縁で時々相談にのってもらうことがある。
天下りには、さまざまな問題があると思う。
でも、天下りを止めさせて、完全にさよならしてもらえばいいのだとも僕は思わない。地域のことに関して、他では得がたい大変に詳しい人がおられるのだから、そんな人に、ただ職場を転々としてもらうのではなく、その力を発揮してもらい、お金が支払われるのが正しい姿なのではないか?と感じる。
話を伺っている最中に、
「ちょっと武田さん待っててね。挨拶があるから。」
と、しばらく待たされることになったのだが、恐らく、市のお偉いさんだと思うが、数人やってきて新年の挨拶が始まった。
それにしても、お偉いさんは、何であんなに威張っているのだろう?
ところが挨拶終了後に、その施設の若い女性が、実になれなれしく、明らかに年配のお偉いさんに対して口を聞くので驚かされたのだが、よく考えてみれば、恐らく、そのお偉いさんの縁者なのだろう。
お役所に近い仕事場では、お偉いさんが威張っていたり、お偉いさんの縁者がいたり、その他、既得権のようなものがしばしば見え隠れするが、僕はそうした体質がどうも好きになれない。
がしかし、地域の自然に興味を持っていて、その思いを何とかして表現したいと志をもってられる方も、ポツリポツリとおられる。
今日は、役所の人の凄くて尊敬させられる側面と、お役所の嫌いなところを同時に味わった一日になった。
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2007.1.2〜3(火〜水) NO

僕がいつも撮影する洞窟の天井を見上げてみると、岩が青いことに気がついた。
その洞窟の名前は青龍窟というのだが、名前の由来に気付き、なんだか楽しくなった。
ただ、肉眼で見ている時の青の美しさがどうしても写真に写らないから、次回は本格的な照明器具を持ち込んで、あの青のキラメキをピシャリ写し取りたい。
僕は、天邪鬼なタイプだから、人からNOを突きつけられると、妙に燃えるところがある。
たとえば洞窟に関して言うと、
「コウモリは気持ちが悪い。」
などと言われると、ついカチンときてしまう。
だが、
「いいや気持ち悪くない。」
「いや、気持ちが悪い。」
と言い争いをしても仕方がないから、黙って必死に写真を撮って、
「いや、コウモリも結構かわいいね!」
とその人に言わせることに精を出すようなところが、僕にはある。
そんな時は、
「いいや気持ち悪くないぞ。」
と反発的な態度で相手に写真を見せるのではなく、とても穏やかなフレンドリーな態度で写真を見せておいて、
「ほら見たことか!お前がよく知らないだけで、本当は、コウモリは気持ち悪いばかりじゃないぞ。よく知らないくせに、知ったようなことを言わんでくれ。」
などと、心の中では多少思っているのだから、僕はなんと人が悪いんだろう。
洞窟内の景色に関しても、何となく湿っぽくて気持ちが悪い場所というイメージを持っている人が多いから、思いつく限りの写真の技法を凝らし、そう考えている人たちを覆したいと思う。
そういう自分を、大人気ないなぁと思うことがしばしばあるが、今は、自分のそんな性格を上手く操り、それが自然写真の世界がいい結果に結びつくようにしていきたい。今の僕には、NO!と突きつけて、燃え上がらせてくれる人が必要なのである。
いつか年を取り、僕に本物の自信が得られた時に、穏やかになれればいいのかなと、今のところは思う。
それにしても、洞窟のような特殊な環境では、なかなか一発では納得できる写真が撮れない。
ある日撮影をすると、その結果を見て手法に改良を加える。それを何度も何度も繰り返すことになる。
だから撮影は遅々として、なかなか進まないが、普段なら決して思い浮かばないような手法が思いつくこともよくあるし、ここのところは、そうして苦心をすることが、一般的な撮影の際にも役立つようになってきている。
勉強すべきことがあるのは、本当に幸せなことだと思う。
(CanonEOS5D 17-40mm 自作照明器具)
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2007.1.1(月) 今年は
恐らく今年は、例年よりも多い数の仕事を並行して進めることになる。過去に体験したことがないくらいにハードな一年になる可能性がある。
その複数の仕事とは、ここ数年僕が多く写真を見せてきたような児童書の世界の定番ではなくて、まだほとんど人に知られていない、でも決してマニアックではなくて、一般の人がそれを見て、自然を感じたり知りたいと思えるような普遍性を持ったテーマではないか?と、僕は密かに予測している。
普段僕は計画を立てすぎることを嫌う。自然は、そもそも予測できない側面があるから面白いのであり、計画を立て過ぎると自分がすでに知っているところばかりに目がいくようになって、自分にとって未知の部分を切り捨ててしまう危険性があるからだ。
だが、今回は仕事の量が多くなるから、そんな悠長なことを言っているゆとりはないし、逆にビシッと計画をたて、狙ったシーンは一撃必写で写し撮りたい。
そんな場合は、計画はなるべく詰めておいた方がいい。もしもできるのなら、本の原型のようなものまで、あらかじめ作り上げておきたい。
そこで、昨年末からパソコン上でその作業に取り組んでいるのだが、一日に本一冊分ずつの準備を進めている。
僕はお金持ちになりたいわけではないし、有名になりたいのでもないが、どうせ同じように自然写真に取り組みからには成功したいと思う。同じように写真を撮るのなら、たくさんの人に見てもらいたいと望む。
そう考えた時に、すでに成功をおさめていると言える一流の写真家の仕事をつらつら眺めてみると、みんなほとんど例外なく、大量に出版している年があり、並みの写真家とはスタミナが違うところを見せ付けるかのようでもある。
ならば、僕もチャレンジしてみようかと思う。
「俺は本物を目指すんだ!」
などと鼻息を荒げる人は少なくないが、実際には、それに伴う苦労や不安を目の当たりにした時に多くの人が意気消沈し、最後は家庭の事情が出てきたり、体調不良が出てきたりするような有様を、僕は何度も目にしてきた。
自分はそうなりたくないと思うのである。
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