撮影日記 2006年11月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
 

2006.11.30(木) 切捨て

 昨年の秋〜冬にかけて、知人が遠方から九州へと何度かやってきて、長い間滞在したことがあった。取材の際の僕と同じように、主に車に寝泊りする生活だったようだが、ふと考えてみると、そうしたスタイルの生活は、さまざまな技術革新のお陰で大変楽になった。
 ただ、唯一、ここ5年くらいで全く改善されないのが、携帯電話を使用してのインターネットへの接続である。
 ドコモの場合は、フォーマという高速で通信できる携帯電話があるが、山間部では電波が届かない場所が多いようで、未だにフォーマ以前の古いタイプの携帯電話を使用しなければならない。
 九州での長期間の滞在用にと、フォーマを購入してやってきた知人だったが、
「山間部では全く使い物にならないよ・・・、悪いけど高速回線を使わせてよ」
 と、うちの事務所に時には毎日のようにやってきた。
 その話を聞いた僕は、未だにフォーマへと切り替えていないのだが、古いタイプの電話の通信速度は大変に遅く、ホームページの日記用に小さな画像を送るだけでも相当な時間を要する。
 さらに困ったことに、ドコモの古いタイプの携帯電話用のアクセサリーが最近めっきり少なくなった。
 先日、携帯電話をパソコンへと接続するためのコードを購入しようとしたら、フォーマ用はたくさんあっても、僕が持っているタイプの電話用は店に置かれていないだけでなく、そもそもそういう製品自体ほとんど存在しないことが分った。
 いろいろと調べたあげく、たった1つだけ、今僕が使用している電話が使えるコードを見つけることができ、それを慌てて購入したのである。
 
(撮影機材の話)

 撮影機材も、古いものが次々と切り捨てられつつある。
 例えば、最近のカメラには、ケーブルレリーズを使用するためのネジが切られていないし、もうしばらくすると、
「ケーブルレリーズって何?」
 というような時代がくるだろう。
 また、10倍くらいの高倍率な撮影ができる道具もない。だから、フィルム時代の古い製品を、色々なアダプターを介して、最新のデジタルカメラに取り付けて使用することになる。
 今日の画像は、S字状に並んだ一番上が、ベローズ用のダブルケーブルレリーズである。マミヤの製品だ。その次が、ケーブルレリーズを電気信号へと変換してEOS−1Nなどのカメラをレリーズするためのケーブルで、これをEOS1Nに取り付けると、ケーブルレリーズを使用できる。
 さらに3番目が、EOS−1Nなどに採用されている古いソケットを、EOS5Dなどの新しいカメラ用のソケットへと変える変換コードだ。
 これらの3つの道具は、つなぎ合わせて、以前に紹介したオリンパス製のベローズに拡大専用20ミリレンズを取り付けて、EOS5Dで使用する際に用いる。
 2本のキヤノンの変換コードは、いずれも在庫が少ないとホームページに記載されているが、先日注文してたいものが、やっと届いたのである。
 
 

2006.11.28〜29(火〜水) 人の縁

 もう、10年以上僕の写真を見続けてくださっている業界のある方から、
「武田さんはほんとうに写真が上手くなったね。風景のような大きなものから特殊な小さなものまで、ちゃんと撮れるだけの力を蓄えることが出来ている。」
 と、つい先日、褒めてもらった。
 その方からのお墨付きをもらうのは、僕が当面設定した目標の1つでもあり、僕は、写真家は作家である前に優れた技術者でもなければならないと以前から考えてきたし、とにかく、その方に十分に評価してもらえるまでは、ひたすらに技術を磨こうと心に決めていた。

 その技術で今度は何を伝えるのか?僕は最近それをよく考える。
 市場の需要に応える形で撮影する写真がある。僕の場合なら、アマガエルやカタツムリやアメリカザリガニの写真はそれに相当する。
 一方で、需要の有無とは無関係に、たとえ儲からなくても、自分が自然を見て感じたことを伝えていくことも、また大切なのだと思う。それは、作家であることと言い換えてもいいのかもしれないが、今度は、その部分を磨きたいのである。
 ただ、それをやろうとしても、現実には、なかなか思い通りに時間を作ることが出来ない。
 まずは生活費を稼がなければならないから、今まで通り、市場の需要に応える写真も技術者として撮影しなければならない。
 とにかく、今まで通りのやり方やリズムでは、それを両立させることは難しいようだ。

 そこで、色々な作戦を考えているのだが、例えば・・・
 僕が撮影したカタツムリの写真を使って、物語を作り、そこに文章をつけ、本の体裁を整えて、写真をすぐに売り込めるような状態に整えることができるような人が身近にいないものか?と、探してみる。
 もちろん非常に特殊な作業だから、誰であろうがいきなり仕事ができるはずがないし、子供向けの本をたくさん見たり、撮影の現場を見たり、とにかく写真を取り扱う作業をしてみるなど経験をつまなければならないだろうが、その修行期間を、楽しいと思って趣味のようにやれる人がいないものだろうかと。
 今は、1から10まで、僕がすべて自分でやっていことの中から、比較的型にはまった部分を誰かに任せ、その分の空いた時間で、今度は作家性の部分を重視した写真を撮ってみるなどできないものだろうか?と。

 また、植物の撮影などでは、シャッターを一日に一度、ただ押せばいいのに近い撮影もある。
 タイマーを使用して完全に自動化できるほど単純な作業ではないけどれども、最初に僕が照明器具などを設置すれば、あとはある程度の知識さえあれば、写真を撮影するのは誰でもいいというようなケースだ。
 現状では、一日にたった一度のシャッターを押すために、僕が2週間だとか、ひと月だとか、スタジオを離れられないことがあるが、そんな部分を任せられる人がいたらなぁなどと考えてみる。

 本当にそれを試みるかどうかは、また別の話だが、そんなことが念頭にあると、身のまわりの人が今までとは違って見えることがある。
 例えば、生き物が好きな人がいて、
「生き物の本を作ってみたいなぁ。」
 などと言われても、今までなら、
「ふ〜ん。」
 としか感じなかったのが、
「どんな本を?」
 とか、
「何をきっかけに、そんな風に感じるようになった?」
 などと、つい反応してしまう。

 洞窟とコウモリが好きで、
「コウモリの本を作りたい。」
 という方がおられ、昨日は、その方と一緒に山口県は秋吉台の博物館の学芸員の方をたずねた。応対してくださった学芸員の方は、僕と同じ、山口大学の生物学出身の、僕よりも一世代年下のお姉さんだ。
 僕が在学時からおられる先生の話、退官された先生、変わった部分の話など、目的だったコウモリの話に限らず、博物館に行ってみて良かったと思う。
 例え自然にカメラを向けるのだったとしても、自分が所属したことがある社会や、さらに身の回りの人や人間社会に興味がもてなければ、自然馬鹿では、本当に優れた自然写真は撮れないのではないか?と、僕は最近感じる。
 人の縁って、やっぱり何よりも大切なんだなと思う。

 

2006.11.27(月) アングルファインダー

(撮影機材の話)
 アングルファインダーを使用すると、余分な光学系が入る分ファインダーが見難くなる。
 だから、以前はアングルファインダーを使うよりも、自分が腹ばいになることが多かったのだが、トンボの写真を多く撮影するようになってからは、アングルファインダーをよく使用するようになった。
 トンボの撮影の際には、胸までの長さの長靴を履き、水の中に立ち込んでいることも少なくない。だから、陸上で撮影する時のように、腹ばいになろうにもなれないことが多いのである。

 今日の画像の左はニコンの古いアングルファインダーで、それをキヤノンのカメラに使用できるようにアダプターを取り付けてある。
 真ん中は、現行のキヤノンの製品で、その右側は、古いキヤノンの製品だ。
 実はちょっと訳があって、これらの製品の性能の違いを厳密に比較する機会があったのだが、その結果、思いの他、見え方が異なるのには驚かされた。
 像が見やすいのは、現行のキヤノンの製品だ。圧倒的に見やすいと書いても書き過ぎではない。
 だが、この製品には問題もある。キヤノンのカメラのファインダーの覗き窓には2種類あり、僕が所有するキヤノンの中にもその2種類の覗き窓が混在するが、このアングルファインダーは、部品を取り替えることで、その両方に対応できるようになっている。
 ところが、それによって構造が複雑になる分、急いで取り付けようとした時などにその部品が外れてしまったり、部品と部品の間にがたが生じやすいなど、操作性が悪い。
 その点、キャノンの古い製品やニコンの製品はシンプルであり、扱いやすい。特にニコンは、視度を調整したのち、その状態で固定をするためのネジが設けられているのがありがたい。
 だが、見え方は、キヤノンの現行商品には敵わない。
 キヤノンの現行商品が見易い理由は倍率にある。他社が1倍であるのに対して、1.2倍になっているのである。しかも、全視野がけられなく見える。

「それならペンタックスはどうだ?」
 と調べてみると、なぜか異常に値段が高い。
「では、オリンパスは?」
 とホームページを開いたが、
「ウソやろう?」
 というくらいにホームページの説明が不親切で、詳しいことが分らない。
 その代わりに、プロの写真家の画像を集めたギャラリーがなかなかいいので、つい見入ってしまった。
特に、K.K.Kuoさんの野鳥のギャラリーは、僕が見たことがない野鳥がたくさん紹介してあること、その写真の雰囲気が日本人のものとは異なること、それからクオリティーが非常に高いこともあり、なかなか楽しめた。
(CanonEOS5D 50mm ストロボ)

 

2006.11.26(日) 共食い

 
 孵化してしばらくの間、アメリカザリガニの子供たちは、親に襲われることはない。
 本物の親だけがそうなのか?
 或いは、実母以外の他のメスも、小さな子供を襲うことはないのか?さらには、オスも同じように子供を襲わないのかについては、いずれ機会があれば調べてみたい。
 ともあれ、そこには、子供が親に襲われないようにするための何らかの仕組みが存在するに違いない。

 兄弟たちの間にも、生まれてしばらくの間は共食いがない。それが数回脱皮をして、ある一定の大きさになると、やがて共食いが始まる。
 小さなアメリカザリガニたちの間にも、親子の間と同じように、何か共食いをしないようにするための仕組みがあるのだろう。
 僕が丁度今撮影をしているザリガニの兄弟たちの間でも、ついに共食いが始まりつつあるが、そうした様子にカメラを向けていると、ここのところよく報道される、学校内での子供たちのいじめをつい彷彿してしまう。

「虐めは、虐める方が100%悪い。」
 だとか、東京都知事の
「文部大臣に虐めを止めさせるように手紙を書いた奴は甘ったれている。立ち向かいなさい。」
 といった内容の発言など、中学生の自殺をきっかけに、虐めに関する発言を多く耳にするようになった。
 僕は、その中では、
「虐めは、虐める方が100%悪い。」
 という発言にどこか抵抗を感じる。発言そのものは正しいと思うのだが、正しいことを言えば、それで大人の役割が果たせるのだろうか?と、疑問を感じるのである。
 例えば、泥棒に入られた時に、
「それは盗みに入った側の泥棒が悪い。」
 と言っても、何の解決にもならないだろう。
 正しいことの基準は必要だとしても、それよりも、どうしたら泥棒に入られないですむのか、それを大人が子供によく教えてあげることが必要ではないだろうか?
 虐めも同じではないか?と、感じることがある。
 もっと、物事の損得を、お金には換算できにくい損得を、大人が子供に教えてあげるべきではないか?と思う。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.11.25(土) オートフォーカス

 北海道には何人かの知人がいて、前回北海道に出かけた時、それから前々回に出かけた際には、自然写真家の門間敬行君と合流して写真を撮った。
 門間君は、ファウラという自然雑誌に、写真と詩の組み合わせで連載を持っているのだが、その連載にはなんとも言えない味わいがある。
 写真だけではダメ。詩だけでもダメ。また、門間君の写真に誰かの文章をくっ付けるのではダメ。それから、誰かの写真に門間君の文章をくっ付けるのでもダメ。
 写真と詩と、最初から最後までセンスのある一人の人間が一つの思いで完結させてこそ、初めて作品として成立する、そんな内容になっている。 
 何らかの思いが託された写真は、決して少なくない。だが、それが独りよがりになっていない作品には滅多にお目にかかることができない。
 恐らく彼の場合は、才能で生きていくタイプであり、僕と違って、一つ一つ積み上げていく努力など、する必要はないのだろうと思う。
 僕とは全く違ったタイプだから、一緒に撮影すると驚かされることや、疑問に感じることなどが多くて、なかなか楽しい。

 また、北海道には、福岡県から移住した知人もいて、昨年は、声をかけて数日同行した。
 その知人から、野鳥撮影用の望遠レンズを買ったとの連絡があった。中古品だが、およそ70万円したという。
 昨年は、時々、僕のレンズを時々貸したら、野鳥の撮影がとても楽しくて、とうとう我慢できなくなったようだ。
 先日、試し撮りをした際の画像がメールに添付されて送られてきたのだが、
「飛んでいる白鳥をオートフォーカスで撮影したのですが、なかなか白鳥の目にピントが合いません。」
 と、そこには書かれていた。
 この冬、また一緒に撮影する時間が楽しみだ。

(撮影機材の話)
 僕の知人に限らず、
「オートフォーカスで撮影したら、なかなかピントが合わない。」
 と言う人が少なくないので、ピント合わせについて、ちょっと書いてみようと思う。
 まず、動体を撮影する場合には、ニコンのカメラの場合であればCのコンティニアス、キヤノンのカメラの場合であればAIサーボなど、被写体の動きに合わせて、常にピントを自動的に合わせ続けるモードを選ぶこと。
 それから、オートフォーカスを使い、カメラにピント合わせを任せている場合でも、被写体をよく見ることである。
 今や動体にピントを合わせる続ける場合のオートフォーカスの性能は、はるかに人の手を超えているのだが、それでも完璧ではない。
 例えば、生き物の撮影の場合は目にピントを合わせるのが基本だが、オートフォーカスによって飛んでいる野鳥のどこかにピントが合っても、確実に目にピントを合わせることまではできない。
 そこで、闇雲にシャッターを押すのではなく、オートフォーカスで飛翔中の野鳥の姿を捉え続け、その中で、目にピントが合っている時を選んでシャッターを押すのがいい。

 

2006.11.24(金) 愛情

 節足動物と言うと、昆虫がその代表格になるが、多くの昆虫は、生まれてきた子供を守るなどして面倒を見ることはない。
 それに対して同じ節足動物のアメリカザリガニは、しばらく子供を身の回りに置く習性を持つ。しかも特徴的なのは、子供が一旦親の尾っぽから離れても、当分の間は、また元の位置に戻ってくることである。
 時には、親が尾っぽの裏側の腹脚と呼ばれるヒラヒラをユラユラと揺することで子供を呼び寄せるように見えるが、少なくとも、ただ子供を抱えているだけではない。
 サワガニも、親が子供を抱えるけどれも、一旦親の体を離れた子供がまた元の位置に戻るようなことがあるのだろうか?以前サワガニの親子を撮影した時には、一度親元を離れたサワガニの子供は、二度と親元には戻らなかったように感じられた。
 サワガニの場合は、僕の目には、ただ子供を抱えているだけに見え、アメリカザリガニの方が、より子供を守る行動が発達しているように感じられるのだが、次回、サワガニを撮影する際には、よく注意して観察したい。
 それを、「子供を守る」と表現するのが適切かどうかは置いておき、ここでは守ると書いておこう。いったい、どんないきさつがあって、どんな進化の道のりをたどった結果、そうして子供を守るような性質を発達したのだろう?
 素直に考えると、最初は、子供をただ抱えているだけだったはずだ。そして、その延長線上に、アメリカザリガニのようなスタイルが存在するに違いない。
 
 子育てをする生き物と一言で言っても、それは一律ではなく、まるで機械のように子育てをする生物もいれば、人のように、そこに愛情などという感情が介在する生き物も存在する。
 一体、人の親が子供を思う愛情などという感情は、人の祖先をたどると、いつ頃、どのようにして発生したものなのだろうか?
 大部分の節足動物が子供を守らない中で、アメリカザリガニが子供を守る行動を見ると、ふと気が付けば、
「人の愛情ってどうやって生まれたものなのだろう?」
「愛情ってなんだ?感情ってなんだ?」
 と、僕は考えをめぐらせる。
 そんな思いを人と共感できるような写真が撮れればなぁと思う。だが、それは、自然写真のテーマとしては難しすぎて、独りよがりであるに違いない。

 親の背中に子供がたくさん乗っかっている写真は、まだ撮れていないのだが、今日は親が尾っぽを高く上げ、背中に出てくるように子供に促しているように見える。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.11.23(木) 再現できない

 自然を考える時には2つ大切なことがあり、1つは知識や科学の目であり、あとの1つは生き物に対する畏敬の念ではないだろうか?
 アメリカザリガニの場合は、理屈を言うと帰化生物だから、これをうかつに移動させたり、放すと、日本固有の自然を破壊する可能性がある。生物学の世界には生態系という概念があるが、帰化生物の影響で、このままではその生態系に悪影響があると判断される場合には、時には、駆除だって必要になる。  
 だが、もしもカメラを向けるのなら、僕はそんなことを抜きにして、この生き物の不思議を無心で写し撮りたい。
 それはアメリカザリガニの存在を擁護するためではない。帰化生物であれ、日本固有の生き物であれ、
「やっぱり命は凄い!不思議で面白い。」
 と感じるからだ。自然写真家は、そうした面も伝えなければならないのではないか?と感じる。もちろん、そうした面だけではダメであることは、言うまでもない。。
 
 さて、今日の写真は、もう数年前に645判のフィルムで撮影したものだが、今シーズンは、これと同一のシーンをデジタルカメラを使って撮影したい。
 ところが、なかなかこのシーンが再現できない。
 親の背中に子供が乗るためには、まず親が安心して長時間、じっとしていられる環境作りが必要になる。そして、そこまでは、問題なく整えることができている。
 ところが、それだけでは、なかなか子供たちが親の背中に登ってこない。数年前の何となくの印象でしかないが、親が子供に対して、全身の力を抜いて、
「安全だよ。出ておいで!」
 と、合図を送るように僕には思えたのだ、果たして真相はいかに?何とかして、同じ状況をもう一度じっくりと見てみたいのだが・・・
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.11.22(水) テスト撮影

 ここのところ、2〜3日に一度日記を更新する日が続いたが、忙しい訳ではない。僕の場合は、むしろ暇な時にそうなる傾向にある。ある日はせっせと撮影し、その翌日はだらけ、翌々日は、これはいかん!と気合が入る。その結果が、一日おきの日記の更新になる。
 それを何とかして修正しようとすることもあるが、今はあえて、だらけておくか!と、身を任せることにしている。いつもいつも気持ちが乗っているなんてあり得ないことだし、この冬の北日本取材に向けて、あえてそうしてだらけた時間をあらかじめ体験しておき、張り詰めた気持ちを一度緩めておくのもいいかなと思うのである。

  NikonD2X 300mm

  Canon EOS5D 300mm 1.4X

(撮影機材の話)
 さて、その北日本取材だが、どんな機材を持って水鳥たちの撮影に出かけようか?
 まず、ニコンの600ミリレンズにD2Xの組み合わせが主な機材になる。暗くなってきて、どうしても高感度撮影の必要に迫られた時には、アダプターを介して、ニコンの600ミリにキヤノンのEOS5Dを使う。
 それから、近づくことができる被写体の撮影用には、300ミリ〜400ミリクラスのレンズが欲しいが、ニコンのD2Xに300ミリレンズの組み合わせにするのか、キヤノンのイオス5Dに300ミリ+1.4倍のテレコンバータの組み合わせでいくのか。
 そこで今日は、テスト撮影を試みた。
 先に結果を書くと、どちらでも同じだろうと感じた。
 テスト撮影では三脚を使用し、同じ場所からぬいぐるみを撮影する。雑誌の場合は、そうした比較をする場合に、画像処理やカメラの設定などの条件を揃えることが多いが、僕のテストでは、そうして条件を揃えることはしない。ニコンならニコンのベストな状態で、キヤノンならキヤノンのベストな状態でそれぞれ撮影し、可能な限りポテンシャルを引き出した状態で比較する。
 もちろん、小さな差はあるが、ちょっとした画像処理の塩梅で入れ替わってしまう程度の差でしかない。
 レンズの焦点距離が短く、テレコンバーターを使用する必要がない場合は、EOS5Dのようなフルサイズセンサーのカメラと、D2xのようなAPSサイズのセンサーのカメラとでは、明らかな画質の差を僕は感じる。だが、テレコンバーターを取り付けるとなると、無理をしてフルサイズセンサーのカメラにテレコンバーターを使用するくらいなら、APSサイズのセンサーのカメラが捨てがたい。

 

2006.11.20〜21(月〜火) 出来すぎた絵

 「こんな写真を撮ってください。」
 と依頼されて、生き物たちにカメラを向けることがある。
 ファックスが動き出し、絵柄が送られてくることになるが、中には、
「あり得ないだろう!」
 と苦笑いしたくなるほど、出来すぎた絵が描かれていることもあり、仕方がないから、それが科学の本ではなくて写真絵本だった場合には、
「それは不可能なので、切抜きができる写真を選びますから、合成しませんか?」
 と、お勧めすることになる。
 ところが、何か依頼をされたわけでもなく、ただ適当に生き物にカメラを向けているにも関わらず、そうした出来すぎた絵の一種とも言えるような写真が撮れてしまう事もある。
「アメリカザリガニの小さな兄弟が、遠くを見ながら、会話をしているような写真を・・・」
 などともしも依頼されたなら、もちろん可能な限りチャレンジはしてみるが、第一感としては、
「不可能だな。」
 と僕なら感じることだろう。
「写真を作れ!」
 と依頼されて作るのは、時には無理をせざるを得なくなり辛いこともあるし、そこまでして作ることの意義を考えさせられる。
 だが、何も手を加えない状況の中で、コミカルな写真が撮れてしまうと、擬人化し過ぎたり、物語を作り過ぎることに抵抗を感じている僕でも嬉しい。
 児童書の中で物語を作る時には、写真本位であって欲しいなぁと感じる。先に絵柄があり、それにあわせて写真を撮るのではなくて、編集者がたくさん写真を見る習慣を付けておき、その中で先にユーモアのある写真を見つけ出し、そこに言葉を当てはめてくれたらなぁと思う。
 そこに、やらせなのか、ユーモアなのかくらいの違いがあるように思う。

 親の尾っぽにしがみついていていたアメリカザリガニの子供が、そこから離れ、盛んに歩き回るようになった。
 一番撮影したいシーンがまだ撮れていないので、もうしばらく気が抜けない日が続くことになるだろう。

 アメリカザリガニの子供の一通りの撮影が終わるまで、遠出をすることができない。
 その代わりに、北九州市内で、本格的なコウモリの撮影に取り掛かるためのテスト撮影を試みてきた。
 問題は、「影」をどうきれいに見せるか、この一点に尽きる。
 洞窟の中では照明器具を使用して撮影することになるが、照明器具を使用すると、自然光で撮影する場合に比べると、「陰」や「影」が見苦しくなる場合が多い。
 陰と影の違いについては、昨年、2005年の6月6日に解説したことがある。「陰」は、照明器具を被写体から遠ざけることで弱め、きれいに見せることができるが、逆に影は、照明器具を遠ざけると強くなり、見苦しくなる。
 インターネット上の記事を読んでいると、照明器具を被写体から遠ざければ、影が自然な写真が撮れると思い込んでいる人が実に多いが、実はそうではない。また、それはほんの少し試してみればすぐに分ることなのだから、そうした記載を読めば、それを書いた人が本物かエセかが判断できるだろう。
 陰が気になるのなら照明を遠ざければいいが、影が気になる場合は、照明を近づけなければならない。
 ただ、野生動物の場合は、近づけないケースやポジションやアングルの問題もあり、理想的な照明をすることは難しい。そこに工夫やテスト撮影の余地がある。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)
(NikonD2X 70〜200mm ストロボ)

 

2006.11.18〜19(土〜日) ベローズ

 撮影機材の話を書く時には、いつも気がとがめる。
 時々、全く写真を撮らない人からメールが届くことがあり、読者の中にはそんな方もおられるのだと気付かされるが、写真を撮らない人にとっては、機材の話は面白くないだろうなぁと思うのである。
 だから、日頃は写真家にとっては当たり前過ぎることを解説することもあるし、例えば、ストロボのことを照明と書いてみたりする。
 写真を撮らない人の中には、ストロボという言葉が分らない人が意外に多いのである。
 カメラマン以外にはどうしても伝えることができない文章を書く場合には、「撮影機材の話」とあらかじめ断った上で書くこととが多い。
 それが気になるということは、逆に僕は、写真ファンよりも、むしろ一般の人に向かって書きたい願望を持っているということになる。

(撮影機材の話)
 オリンパス製の20ミリ拡大専用レンズと専用の接写リングの組み合わせは、キヤノンのカメラに取り付けても威力を発揮することは、以前に一度書いたことがある。
 ただ、自動絞りが作動しないので、もしもf8で撮影するのならf8に絞り込んだ状態で被写体を見なければならないが、拡大倍率が高く、例えば10倍でf8なら、ファインダー内はほとんど真っ暗闇でピント合わせどころではない。
 f4でも厳しい。開放のf2でやっと使えるかなという感じになる。
 したがってまず開放でピント合わせをして、撮影直前に絞りこみ、ファインダー内には何も見えないような状態でシャッターを押すことになるが、10倍と言えば非常にデリケートで、絞りリングを操作するわずかな力でピントがずれることもある。
 まして、ゆっくりでも動く被写体の撮影は不可能だ。

 そこで、オリンパス製のベローズを購入してみた。もちろん、今は売られていないものだから中古である。
 ベローズの場合は、ケーブルレリーズを差し込む穴があり、そこを機械的にレリーズすることでレンズの絞りを絞ることができるから、絞りリングを回すよりも、ずっと操作性がいい。
 さらに、ダブルレリーズを使用すればなおいい。ダブルレリーズは、1つのボタンを押すと、同時に二箇所をレリーズできる道具で、大抵の場合、その二箇所は時間差で操作できるようになっている。
 だから、先にレリーズされる方をベローズに接続し、レンズの絞りを絞る役割を持たせ、後からレリーズされる方をカメラに接続すれば、今度はシャッターが切れる。
 ところが、イオス5Dをレリーズできるダブルレリーズは存在しない。
 そこで、キヤノンから市販されている2つのアクセサリーをつなぎ合わせることになるが、それらの部品の在庫が少ないということなので、急ぎ注文することになった。
 
 

2006.11.16〜17(木〜金) 水中ハウジング

 水中の生き物を撮影する場合には、アメリカザリガニの撮影のように水槽を使用する場合もあるが、野外で、カメラを水に沈めて撮影する場合もある。その場合、中には水中専用のカメラもあるが、大抵の場合、陸上で使用するカメラを、水中ハウジングと呼ばれる専用のケースに収めて使う。
 ただ、市販されている水中ハウジングは、海の中で使うことを前提に作られていて、淡水の水辺で小さな生き物を撮影する場合にはとても使いにくい。そこで、淡水の水辺専用の水中ハウジングを特注しようと、ここのところ、いろいろと考えをめぐらせている。
 水中ハウジングは高価だから、単発で、何か水中の生き物を撮影する場合は、水中ハウジング以外にも安上がりに撮影できる工夫はあり、例えば8月9日の画像は、水中ハウジングを使用せずに、格安に撮影したものだ。
 だが、頻繁に水の中を撮ろうとすると、やはり道具がそろっている方がいい。
 
 僕はこれまでアンティスというメーカーの水中ハウジングを使用してきた。
 中に収めるカメラは、フィルム用のニコンのF90Xという機種である。
 水中ハウジングは、外から中のカメラを操作するのだから、カメラの機種ごとに専用のものでなければならない。
 そして、デジタルカメラの時代になったのだから、今度作る水中ハウジングはデジタルカメラ用のものだ。それで、僕の撮影のすべての部分のデジタル化が完了することになる。

 水中写真のデジタル化を先延ばしにしてきたことには理由がある。
 それは、デジタルカメラが日進月歩の道具であり、次々とより高性能で新しいものが出てくることである。
 そのたびにカメラを買い替え、新しい水中ハウジングを購入していると、あまりにお金がかかり過ぎてしまう。
 だが、特注なら、先に作ったハウジングに手を加え、新しく発売された別のカメラ用に作り変えることも可能であり、現にそうして丁寧な対応をしてくださるところもある。
 今回はじっくりと考えて、本当に使いやすいものを作りたい。
 
 

2006.11.14〜15(火〜水) 自信

 写真家が撮りたいものと売れるものとの間には、しばしば隔たりがある。
 その結果、僕がよくカメラを向ける被写体の中には、それなりに写真の需要がありながら、自然写真家の間では全く人気がなくて、日本中でそれを今たくさん撮影しているのは僕だけというような状況も、数は少ないがある。
 僕の場合、最初は生活費を稼ぐためという不純な動機でそうした売れる被写体にカメラを向けたのだが、結果的にはそこから学んだものがあまりに多くて、今では少なくとも、生活のためだけとは言い切ることは出来ない。

 例えば、写真家にも、主役と脇役がある。
 何か本を作る時に、本を作る側の人や写真を動かす立場にある人が、
「この人の写真中心にいきたいね!」
 とイメージする主役と、
「でも、その人の写真で足りない部分は、あの人たちの写真で補いましょう。」
 という脇役である。
 主役と脇役は、写真家の側が考えているよりも、もっときっちり色分けされているように思う。そしてもちろん、主役にならなければまとまった量のお金を稼ぐことは出来にくい。
 さらに主役は、まず最初に声を掛けられるわけだから、自分の写真の中のどの写真が相手の目に留まり、さらに自分が写真を持たなかった部分については他の人の写真が使われるのだから、写真を選ぶ側の人が何を優先し、どう考えたのか、その過程を多少なりとも知り得る立場に立つことができる。
 とにかく、どんな被写体でもいいから主役になってみなければ分らないことが非常に多いと僕は感じるのだが、ライバルが存在しない場合は、ど素人がいきなり主役に抜擢されることもあり得るし、僕の場合は、そうして育ててもらった部分が大きいように思う。
 昔の写真を見ると、
「よくぞ、こんなひどい写真を使ってもらったなぁ。」
 と、冷や汗が出てくるものが少なくないのである。
 それでもライバルがいなかったという理由だけで主役になれた部分に関しては、お粗末でもお金ももらえた。
 お金をもらいながら経験を積むことが出来たのは、例えるなら、生徒として学校に通っているのに、給料をもらっているようなものだったのだ。

 中でも、アメリカザリガニの写真がもっともその傾向が強くて、フィルムを引っ張り出してきてみると、見るも無残!無残の一言では片付けることができないほどひどい。
 ああ、一刻も早く撮り直しをしたい・・・
 だから、今僕が撮影しているアメリカザリガニの写真は、ほぼすべて、過去に撮影したことがあるシーンである。
 ところで、前回撮影した時にはあんなに難しかった撮影が、今回は、何て簡単なのだろう!
 今回に限って、相手が思い通りに動いてくれる訳ではない。ただ、ああすれば、こうなると、僕の側に多少先が見えているだけだ。
 言い換えれば自信の有無の差になるのだろうが、自信という形がないものが、いかに最終的な形に影響を及ぼすのか、それを教えられる思いがする。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.11.12〜13(日〜月) イワナ

 僕が写真を始めた頃は、アマチュアの方の写真を見る機会はほとんどなかった。
 だが、今ならインターネットがある。そして、リンクをたどり、アマチュアのいろいろなホームページを見て回ると、
「写真がうまい人なんて幾らでもいるんだな!」
 と、しみじみと思い知らされる。
 今日は、イワナがアマゴを咥えている写真を見た。
 陸の上から水中を撮影したものだったが、イワナの紋様がはっきりと見て取ることができ、咥えられているアマゴの模様もかろうじてみえる。痺れるような凄い瞬間が写っているだけでなく、雰囲気も、水の色も大変に素晴らしい一枚だった。
 撮ろうと思って撮れる写真ではない。そんなシーンだけを狙って川のほとりでひたすら10年間待っても、撮れない確率の方がはるかに高いのではないだろうか?
 プロの世界には確実性が求められ、そうした計算できない世界をアマチュアの世界だと言う人がおられるが、そうではないと思う。プロかアマかの問題ではなく、自然の中を歩くことが楽しくて、たくさん歩いているかどうかなのだと僕は考える。
 ただ、上手い人がたくさん存在し、その結果時には自分がちっぽけで情けなく思え、この先大丈夫か?と一瞬不安になるようなことがあっても、プロの世界で通用する人はやっぱり少ないのである。
 そこにはまず、気ままに写真を撮ることと、依頼に応えることの違いがあるし、何よりも山あり谷ありとなった時に、情熱が長続きする人は意外に少ないように思う。
 長続きするかどうかには、もちろん性格もあるだろうが、間違いなくコツもある。
 
 さて、先日、イワナの産卵の撮影を予定していたが、アメリカザリガニの親子の撮影と重なり、結局、写真の需要が多いザリガニの方を選んだことを書いた。
 だが、本当は、何とかして両方とも撮影すべきだったと思う。撮影は重なったが、絶対に両立できないような重なり方ではなかったし、そんなことを言って中止にしていると、同じようにして取り止めなければならない撮影だらけになる。
 なのに、それでも取り止めることになったのは、イワナの撮影のための機材の準備ができていなかったからだ。
 水中にうまくカメラを固定し、リモコンを使って遠隔地操作をして、高価なデジタルカメラだから絶対に水没させないようにして、ストロボは・・・・しかも熊の出没が多い水辺で、場合によっては夜間になるかもしれない。
 それらをあり合わせの道具でクリアーするつもりではあったが、あまりに撮影がややこしくて、そこにさらに他の撮影が重なり、頭がいっぱいになってしまったのだと思う。
 本当を言うと、夏の間に工夫を施した専用のカメラを準備しておくべきだった。
 だが、それを怠った。いやいや、色々と考えたのだが、水中撮影用の機材はフィルムからデジタルへの変化、それから水中撮影のジャンルで圧倒的に強かったニコンが、キヤノンへと取って代わられる過渡期にあり、道具が非常に選びにくくなっていて、後回しにしてしまった。
 そんな後回しを繰り返していると、その人はしばしば情熱を失う結果になる。僕は今回、非常に筋の悪い、長い目で見れば危険なやり方をしてしまったようだ。早めに芽を摘んでおかなければならないだろう。
 実は、後回しにしたくなるようなところに、自分だけの世界や面白い撮影が待っていることが多い。それをクリアーするたびに益々写真が楽しくなりのめり込む。そんな、いい循環になっていくことが多いのである。

 

2006.11.11(土) 雨

 前回の冬は、水鳥を撮影するために、ひと月ほど北日本へと出かけた。
 次の冬も、また同じように水鳥の撮影に出かけたいと思うが、昨年あたりから、自分が行きたい場所へと出かけるゆとりが、少しずつではあるが生まれつつある。
 例えば、以前なら1週間かかっていた撮影を、最近では1日で終えることができるようになるなど、昔に比べると撮影の効率がぐっと上がるようになり、依頼された仕事にこたえるだけで精一杯でどうにもならないほどひどい自転車操業状態だけは抜け出しつつある。
 
 さて、今日はイワナの産卵行動の撮影に出かけたかったのだが、アメリカザリガニの親子の撮影が重なった。
 どうしようか?と迷っていたらが降ったこともあり、今回は、スタジオでのザリガニの撮影を選んだ。
 写真の需要があるのは、間違いなくアメリカザリガニである。
 だが、撮ってみたいのはイワナの方だ。
 売り上げを取るか、好きなこと取るかの選択だが、アメリカザリガニの撮影には飼育その他、すでに二ヶ月ほど下準備に手間をかけてきたのだから、半端に取り組むよりも、この機会に徹底して撮影しておいた方が、恐らく後々たくさんの自由な時間につながるだろう。
 
 ついでに、久しぶりのまとまった量の雨でもあるし、午前中は、カタツムリの観察にでかけた。
 本来なら、もう少し気温が高い先月の間に出かけたかったが、待っても待ってもカタツムリを活発にさせる雨が降らず、先月はとうとう一度もカタツムリの撮影には出かけることができなかった。
 
  この日記の中では、何度か、野菜を食べた時のカラフルなカタツムリの糞を紹介したことがあるが、自然状態では、上の画像のような黒っぽい糞をすることが多い。

(撮影機材の話)
 写真用の交換レンズには出来不出来があり、名作と評判のいいレンズもあれば、愚作と叩かれるレンズもある。
 さらには人によって180度意見が分かれるようなレンズも存在して、例えば、古いペンタック製の100ミリマクロレンズは、最高!と評価する人と、最悪と評価する人とが存在する。
 また、レンズの評判については、デマや単なる噂も少なくない。
 僕は、最近キヤノン製の300ミリレンズ、f4の手ブレ防止機構付きをとても気に入っているが、今日は木の高い位置にいるカタツムリに、その300ミリレンズを向けてみた。
 このレンズは、過去に僕が所有したことがあるレンズの中でも、最も気に入ったものの一本になりつつあるが、一般的な人の評価はあまり高いレンズないから、結局は道具は自分で使って見なければ分らないのだと思う。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)
(CanonEOS5D 300mm)

 

2006.11.10(金) 強制

 先日、僕の母校が、必須科目を履修させずに代わりに受験対策をしていたことがばれ、新聞にその名が掲載された。
 僕が高校時代は、受験対策どころか、「自主、自由、自立を誇る」という校歌の中の文言をまさに地で行くような、自由で、そして同時に無責任な校風だった学校が、この時代にはそんな悠長なことが通用しなくなったのだろう。

 僕が高校を卒業後、最初に母校を訪れたのは大学4年の時、教員の免許を取得するための教育実習の際だったけれども、すでにその時学校が厳しくなる方向に変わりつつあることは感じ取ることができた。
 以前は、授業始業のチャイムがなり3〜4分経ったころに先生が教室に入り、そしてのんびりと授業が始まるのが当たり前だったのに対して、「ベルと同時に始業」が合言葉になり、徹底されていた。
 昔は、より深く勉強したい人が志願をして受けていた放課後の課外授業も、午前中と午後に、しかも全員強制だった。
 高校時代、古典が大嫌いだった僕は古典の課外授業に申し込んだことがあるが、
「おや?何で古典が嫌いな武田がここにいるんだ?」
「苦手を克服しようと思いました。」
「偉い!君のような考えの持ち主がいるのか!」
 と褒められたこともある。
 課外授業でさえも受験対策ではなかったのである。
 僕はもちろん、2〜3回顔を出して、辛くなりやめてしまったことは言うまでもない。
 そんな自由な校風の中で、高校時代の僕の成績はまるで激流下りのように下がり続けた。元々あまり良くなかった成績だから、入学して半年も経たないうちに、360人の生徒の中で常に350番台をキープできるようになった。

 ところが2年生に進級した際に、そんな僕の生活をわずかでは変えてくださった先生が現れた。
 福岡県内でも厳しいことで有名なH高校から赴任してこられた数学のK先生は、先生からの問いかけに答えられない生徒を強い口調で叱ったし、赤点の生徒には鉄拳制裁をも下した。
 しかたがないから、ある日予習をして授業を受けてみると、自分でもびっくりするほど授業がよく分った。退屈で退屈でたまらなかった一時間が充実し、それはもちろん、K先生の説明も分りやすかったからであることは言うまでもないが、強制力が時には人を楽にすることを生まれて初めて体験した貴重な瞬間だった。
 フリーの写真家の世界は自由だけれども、自由は時に厳しくて、大変に辛いこともある。
 
 鉄拳制裁を推奨しているのではない。
 ちょっと思い浮かべただけで3人の同級生の顔が浮かぶ。中には、それで学校にこれなくなった生徒もいたし、3人は腕白タイプの高校生だったにも関わらず、数学のテストの返却日が近づくと、前日あたりから顔色が悪くなり、気分が優れなくなった。
 あのおびえようは、恐らく、家庭環境の違いだろうと思う。僕は叩かれて育ったが、彼らの家庭には一切体罰がなかったのではないだろうか?そんな家庭で育った者にとって、鉄拳制裁は絶えられない罰だったのではないだろうか?
 最近、以前に比べると先生の立場が弱くなったことを受けて、体罰是か非かという議論が繰り広げられることがあり、
「私は叩いてくれた先生に感謝しています。」
 という肯定派に対して、
「それは、体罰が辛かったから、その苦しみから逃げるために、自分をそう思い込ませているんです。」
 と深層心理のような概念を持ち出して反論される方がおられるが、僕は、そんなものではないと思う。
 むしろ、叩かれても感謝する状況や、そんな気持ちを体験したことがない人、理解できない人、それが何がしかの成功に結びつかなかった人が、何とかして自分の理屈に当てはめようとしているのだと感じる。
 ともあれ、どんなやり方でも、それが合う人もいれば、合わない人もいるだろう。
 自由な中で力を発揮できやすい人もいれば、管理された方が幸せになれる人もいるに違いない。
 フリーの写真家のような職業を志し、それが多少なりとも実を結ぶかどうかは、写真の才能ウンヌンよりも、自己責任の世界が合うかどうかに大きく左右されるように僕は日頃感じる。
 
 イカサマがばれたという不名誉な報道がきっかけではあったが、たまに高校時代のことを思い出してみるのもいいものだな。

 

2006.11.07〜09(火〜木) サンショウウオ

 洞窟の中でコウモリの撮影中に、女の人がひそひそと囁きあうような音が聞こえてくるので、慌てて逃げ出した。
 多分、鍾乳洞の中を流れる川の流れの音だと思う。
 だが、万が一にでも見てはならないものを見てしまったら、恐らくそれ以降は怖くて、車に寝泊りしながら一人で取材をしてまわるような生活が出来なくなってしまうに違いない。それは、ほぼ自然写真家を廃業することを意味する。
 だから、とにかく逃げておくことにした。
 そうでなくても、鍾乳洞の中は下手をすると出られなくなる危険性があるから、詳しい人と一緒に入るのが理想的である。
 だが、いつもいつもお願いするのも申し訳なく思い、一人で、その代わりに洞窟の入り口に近い場所に限定しての撮影だったが、やっぱり心を入れ替えて、次回からは必ずガイドさんに同行をお願いすることに決めた。

 僕も自然の音を録ってみようと思い、録音機を購入し、つい先日マイクを注文した。
 僕も、と書いたのは、同世代の写真家である高嶋清明君がウェッブ上で発表している音が大変に心地よく、その影響を受けたからである。
 もしもそうして録音した音を写真と組み合わせてうまく使うことができれば、今回僕を震え上がらせたような怖い音は、一転して、大変にいいコンテンツになるに違いない。
 いずれ洞窟内の水の音を録音してみたい。

 洞窟に詳しいガイドさんたち数人と、先日、美味しいという噂の昼食バイキングに出かけたら、その中に
「私サンショウウオを飼っているんです。」
 という女性がおられた。
「ふ〜ん、イモリじゃなくて?」
「本物のサンショウウオですっ!」
「外国の?お店に売っているやつ?」
「おばちゃんが、A山で捕まえたんですよ。」
「ええっ、どれくらいの大きさ?いつから飼っている?」
 最初はまさかと思ったのだが、A山と言えば、北九州では知られたカスミサンショウウオの産地だから、きっと間違えではないだろう。
「おばちゃんは、いっぱい持っていますよ。」
 と言うから、嬉しくなった。
 生き物好きの女性というと、つい豪快な人を思い浮かべる。僕が生物学の学生だった頃の同級生のYさんなどは、農学実習の際に、牧場で一生懸命解説をしておられる先生に気遣うこともなく、いきなり足元の草を引っこ抜いて馬に与えはじめたのだが、そんなイメージがある。
 これは僕の勝手で失礼な想像ではあるが、おならをするにしても、すっと透かすのではなくて、豪快にプッと放ち、ガハハハと笑っていそうなイメージがある。
 ところが、サンショウウオを飼っているその女性は、それとは逆の、癒し系の清楚な雰囲気なのだ。
 ならば、そのおばさんが気になるではないか。
「おばさんって、どこの?」
「親戚のおばちゃんです。」
「餌は?」
「ミミズを入れたらすぐ食べに来ますよ。」
 そうかぁ。身内にそんな人がいると、ワイルドとは程遠い女性がサンショウウオを飼い、しかもミミズまで与えることができるんだ!
 僕は、生き物の写真を撮りながら、どうしたら、みんなに生き物を好きになってもらえるのかをよく考えるが、確かにそんなおばさんが身内に一人いれば、そこから思いがけない人にその思いが伝わることもあり得るだろう。
 自然写真家は、その一人を大切にして、時にはその一人に向けて写真を撮らなければならないのではないだろうか?
 本当は、もっとたくさんサンショウウオについて聞きたかったのだが、相手はお嬢様系ではあるし、こちらが変質者だと思われてはならないので、グッと抑えた。

 バイキングの帰りに立ち寄った道の駅にきれいなハクサイが売られていたので、一つ買って帰り、撮影することにした。

 ついでに、カタツムリに与えてみた。
(NikonD2X 70〜200mm ストロボ)
(CanonEOS5D 17〜40mm ストロボ)
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.11.06(月) リンク

 ちょっと思うところあって、先々月だっただろうか?このホームページの中に、『僕のお勧め』というコーナーを作り、僕が好きな本を紹介して、アマゾンへのリンクをはった。
 そこから本が売れれば、僕に紹介料が振り込まれる仕組みになっていて、
「こんなシステムがあるから試してみろよ!」
 と教えてくださったのは、昆虫写真の海野和男先生である。

 振り込まれる金額はごくわずかだから、僕のようなやり方で思いを込めて紹介文を書いたり、リンクをはると、手間の方が大きいだろう。
 だた手間は掛かるが、僕の紹介文を読んで誰かが本を買ってくれることが、これほどに嬉しいことだとは全くの想定外で、正直に言うと、自分の本が売れた時の少なくとも10倍くらいは嬉しい感じがする。
 出版の世界には編集者という立場の人がいて、自分で文章を書いたり、写真を撮るのではなく、他人様のコンテンツを形にする役割を果たすのだが、なるほど!と感じた。他人を支える編集者の喜びとは、こんな感じなのではないだろうか!と。
 時には、一冊の本が出たことを、著者よりも編集者の方が幸せに感じていることだってありえるに違いない。

 本の紹介文を書いてみて、危機感を感じる部分もあった。
 非常に残念なことに、紹介しようとする多くの本が絶版になっていて紹介できないケースや、かろうじてアマゾンの中の中古市場であるAmazonマーケットプレイスにある本を、ようやく紹介できるといったケースが少なくない。
 なんと勿体ないことだろう!
 ところで、富士フィルムは、デジタルカメラが主流になってもフィルムを作り続けると宣言している。
 ただ以前ほどは数が売れないのだから、かつてのように大量生産をすることによって商品を安く供給するのはすでに不可能であり、新しいテクノロジーを導入して、小ロットでも安く作ることができる仕組み作りに取り組んでいるのだそうだ。
 本でも、同じような取り組みが出来ないものだろうか?
 多くの本が絶版になっているということは、それらの本は短時間で大量に売れたわけではないが、時間をかけてとにかく売り尽くしたことを意味しているのではないだろうか?
 自然関係の本は、少量でいいから絶版にせずに生産して、長い時間をかけて売り切って、長い時間をかけてペイさせて欲しい。

  

2006.11.05(日) 研究

 今日も、ツキノワグマのニュースがテレビで長時間報道された。
 ツキノワグマと言えば、先日僕は、動物写真家・宮崎学さんのツキノワグマに関するブログが大変に興味深いと書いたが、それは一般的な写真撮影のイメージではなくて、むしろ研究だと僕は受け止めた。
 宮崎さんは自らを、「自然界の報道写真家」と位置づけ、多くの自然写真家が永遠の自然の姿を捉えようとするのに対して、自然は常に変化することを主張し、今まさに自然界がどのような状態になっているのか、その最新の状態について発信しておられる。
 だが、これはもしかしたら僕が報道をよく知らないだけの可能性もあるが、報道に携わる人は自分でネタは取っても、データは取らないのが普通だ。ところが宮崎さんが発信しておられることは、ネタというよりは、自分で実験をして取ったデータであり、だから研究なのではないか?と僕は感じたのである。
 
「あなたは科学出身なのに、絵画的な写真も撮られるのですね!意外でした。」
 と僕は時々言われることがあり、
「なるほどなぁ。そんな感じ方もあるのだな。」
 と思う。
 だが僕の場合は、もしも研究にこだわるのなら、そのまま科学を続ければ良かったのだし、むしろ科学が切り捨てる部分を重視することを、ごく自然だと思う。
 もちろん、だからと言って、すべて科学を切り捨ててしまうのは、ただの反発や反動であり、最悪なやり方だろう。針路変更をしたと言っても、元々興味があるから科学を学んだことには違いはないし、凄い研究結果を目にするとしみじみ面白いなぁとやっぱり思う。

 自然写真を撮る人や、それを見る人は、大雑把に言うと、研究者肌の人と、デザインや美術的な部分に重点を置く人とに分かれなかなか相容れないのだが、僕はそれを残念なことだと日頃よく感じる。
 それらを結びつけるような仕事が僕にできたらなぁと思う。
 例えば、生き物の写真って気持ちがいいねと感じた誰かが自然に興味を持ち、それが引き金になり、やがて研究的な仕事にも興味を持てるように、そんな役割を果たせるようになりたいのである。
  
 
 さて、先日、アマガエルの体色変化の様子を紹介したが、その中に一枚だけ、やや照明に難がある写真があり、今日はそれを撮り直すことにした。 
 すると、たまたまユニークなポーズの写真が撮れたのだが、そう言えば、前回は説明することしか考えていなかったことに気付かされた。
 肝心な、僕が重視する、自然を分析する以外の部分が疎かになっていたのである。


 自然にすでに興味を持っている人はともかく、そうではない人に少しでも興味を持ってもらうためには、理屈ではない何かプラスアフファーが効果的であり、それは美しさのこともあるし、ユニークさのこともあれば、また例えば、自然と接することを仕事にする自然写真家の日々の生活を多少知ってもらうことだって、その中の一つだ。

 昨日孵化をはじめたアメリカザリガニのすべての卵が孵化を終えた。
 孵化直後の子供を撮影しようと思えば、その予定日の前後を空けておかなければならないし、そうして僕のスケジュールの多くの部分が埋まり、忙しくなる。
 だが、今日の場合、アメリカザリガニの子供の撮影自体には、そう長い時間はかからないから、暇と言えば暇。
 忙しいようで暇、暇なようで忙しいのだ。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.11.04(土) 納得

「好きなことができていいですね!」
 などと言われることがある。だから、
「あなたも好きなことをすればいいじゃないですか。」
 と返すと、
「いや、僕には今の仕事や生活があるから。」
 などと身の上話になる。
 だが本当のところを書くと、僕が自分の意思で自然写真を選んだように、その人も、今の生活と興味を感じていることやそれに取り組むことで捨てなければならない部分を秤にかけ、やはり自分の意思で今の生活を選んでいることには違いはない。
「好きなことができていいですね!」
 と僕に投げかけられるその言葉は、一種の愚痴のようなものなのだろう。
 少なくとも今の日本では、投獄されているなど特殊な人を除いて、本当は誰でも自由なのではないだろうか?
 愚痴は、究極のところは何かのせいにしたい心理ではないかと思うが、自分が自分の意思で自分の道を選んでいるという事実は、なかなか自分では受け入れにくく、人はしばしば何かのせいにする。


 僕は最近ほんの少しではあるが、自然写真の仕事を続けていく自信が付きつつある。
 自信の源は技術や知識ではない。それは、自分が自分の意思で生きていることが自覚できはじめているところにある。
 面倒な撮影や待たなければならない辛抱を要する撮影だって、実は自分が志願をして取り組んでいるのだし、やりたくなければやめればいいし、やりたければやればいい。
 そこを勘違いすると、悲壮感を漂わせながら涙無くしては語れない撮影に取り組むことになるが、それでは何事も長続きはしないのではないだろうか?
 自分が実は自由であることを自覚するのは、とても大切なことではないか?と、思う。
 
 さて、アメリカザリガニの卵が孵化を始めた。
 卵から出てくる様子をじっくりと見てみたかったので、昨晩からスタジオに泊り込み撮影を試みてきたが、親にストレスを与えないようにするとどうしても制限があり、散々時間をかけた挙句、納得ができるような観察はできなかった。
 だが、うまく撮影できるもよし。撮影できないもよし。成功しても、失敗してもいい。自分がやりたいからやっているんだというその一点に納得があれば、それで十分だと最近は感じるようになってきた。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.11.02〜03(木〜金) 愚痴

 僕は日頃、どうしても写真関係の人と話をする機会が多くなるが、同窓会やその他、たまに違った立場の人と話をすると、新鮮で面白いと思う。
 例えば、お勤め人と話をすると、「愚痴」という種類の会話があることを教えられる。何かに対して耐えられないほどの不満があるような話が実に真剣に繰り広げられるから、
「そんなに嫌だったら辞めればいいじゃない。」
 などと答えようものなら、
「お前は冷たい!」
 と罵られる。つまり、不満を口にする一方で、その不満はすでに受け入れられていて納得済みなのだ。
 どうも愚痴を聞き合う習慣というのは、ほとんど一種の文化のようなものであり、愚痴には愚痴の聞き方があって、それなりの態度と心得でなければならないようだ。
 カメラマンの世界に全く愚痴がないわけではない。だが、写真の世界は
「どうしても!」
 と熱望して志願した者だけが集まっているわけだから、愚痴は成り立ちにくいし、まさに、
「そんなに気に入らないのなら辞めればいいじゃん。」
ということになる。それは決して冷たい訳ではないが、逆に、お勤め人にはそれがなかなか伝わりにくい。
 
 自然写真家と言っても、好きな被写体ばかりを撮影している訳ではないし、生活を成り立たせるためにさまざまな被写体を撮影することになる。僕の場合であれば、アマガエルやカタツムリにはよくカメラを向ける。
 だが、生活を成り立たせるためだからと言って、仕方がなくカメラを向けているのか?と言えば、そうではなくて、そうして仕事ができることをありがたいと思う。
 今日は、アメリカザリガニの撮影の待ち時間に、アマガエルの体色のバリエーションを撮影してみた。

 僕は、以前は野鳥専門の写真家を目指していたことは、過去に何度か書いたことがある。その当時の僕にとって野鳥以外のものを撮影するのは、紛れもなく妥協であり、仕方なくだったのだから、
「俺は自分がテーマと決めた被写体以外には、たとえ売れなくてもカメラを向けない。」
 というタイプの写真家の気持ちは良く分る。
 だがやがて僕は、被写体が何であれ、生き物の写真を撮りつつ暮らしていけることが、どれほどに幸せなことなのか、しみじみと感じるようになってきた。
 写真でお金を稼ぐことの難しさを痛感させられたこともある。
 また、
「売れなくてもいい。」
 と主張して被写体を選んでいる写真家に、やっぱり食えないからだろうか?好きなことをやっているはずなのに、イライラしている人が多いのを目の当たりにしてきたこともある。
 それから、仕事をして社会との接点を持つことの大切さを教えられたのである。

(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.10.31〜11.01(火〜水) 自分の目で 

 さらっと旅人のように、一期一会で自然にカメラを向けるのもいいが、同じ場所に通いつめるのもいい。
 僕は何をするにしても、時間をかけて力を出すタイプだから、おのずと通いつめることの方が多くなる。今年の夏、何度も通った山上の湿地に、また登ってみた。

 初夏から夏にかけて、この湿地への道のりは風通しが悪く、湿度が高くて、おまけに不快昆虫があまりにも多い。それに加えて、ここは大変に素晴らしい自然が味わえる場所であり、撮影機材がおのずと多くなる。小動物用の撮影機材の他に、風景から、野鳥や哺乳動物まで対応できる道具を持つと、その重量によって撮影には苦労が伴う。
 だが、すごしやすい今の季節なら、ちょうど心地が良くて、撮影を終え、麓まで降りても、あと一往復くらいはできそうな感じがする。

 この場所の魅力は、季節によって、草原になったり沼になり、そうした大きく変貌する環境を、生き物達が実に巧みに利用している点にある。
 したがって、最もドラマチックで面白い時期は、梅雨の頃、あたり一帯が水に沈む時期から、やがて水が引き、草原へと変貌する夏だろう。
 だが、それ以外の季節も自分の目でよく見てみなければ、ここを語ることができないだろうから、秋〜冬の間に何度かこの場所にカメラを向けてみたい。
 今回は、上の画像の手前に写っている小さな水溜りを除いて、残りの部分はすべて草原になっていたが、このわずかに残った湿地では、ルリボシヤンマがノシメトンボのつがいに襲いかかり、食べてしまう様子を至近距離で観察できた。

 初夏にモリアオガエルが卵を産みつけた、途中まで水没していた木の枝にカメラを向けてみた。まるでそこが沼であったことが嘘のようだ。

 モリアオガエルの代わりに、今回はニホンアカガエルの姿を見た。
 カエルと言えば水辺だが、アカガエルはむしろ乾いた環境で目にすることの方が多い。そして、繁殖の季節のみ、魚がすまないような浅い水辺にやってきて、卵を産み落とす。
 産卵は信じられないことに真冬から始まり、3月頃まで見られるが、この場所でのその卵は是非撮影してみたい。アカガエルが見られるということは、似た環境に卵を産むカスミサンショウウオなども恐らく見つかるはず。この冬が楽しみになってきた。

 恐らく草を食べに来るのだと思うが、さまざまな動物の糞も見つかる。
 運がよければ、付近の木の枝からクマタカがウサギを狙っているようなシーンを目にすることができるだろう。

 今回最も多く目についた生き物は赤トンボの仲間のリスアカネだ。画像のようにオスメスが連結して主に草地の上を飛びまわり、卵を産み落とす。
 トンボの幼虫といえば水の中にすむヤゴだが、リスアカネの場合、その卵は草地に産み落され、やがてそこが水に沈むことになっているのだから、自然って凄いなぁと思う。
(CanonEOS5D 17〜40mm)
(CanonEOS5D 17〜40mm)
(CanonEOS5D シグマ15mm)
(CanonEOS5D 300mm ストロボ)
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2006年11月分


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