撮影日記 2006年09月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

2006.9.30(土) ガムシ

 黒い昆虫が裏返しになって落ちていたので拾い上げてみると、近年数を減らしているガムシだった。
 子供の頃は、大型の水生昆虫の中では色が美しいゲンゴロウが圧倒的な憧れの的であり、一方ガムシは小汚い虫だと感じていたのに、今見てみると、ガムシにはガムシの魅力がある。
 何だかとても嬉しくて、一万円くらいのお金を拾ったような気分になった。

 水槽に入れて撮影をしていると、枯れた植物の茎をムシャムシャと食べ始めた。
 大雑把な形や生息場所はゲンゴロウに似てても、食べるものや動き方や、細かい体の作りはかなり違った生き物であり、昆虫の多様性はほんとうに面白いと思う。

 こうした撮影用の水槽は、撮影の際に準備をしようと思っても遅い。水槽の中が自然な感じに落ち着くには、水槽に土を入れてから最低でも2週間くらいの時間は必要だし、僕の水槽は、この春に準備をしてアマガエルのオタマジャクシなどを撮影した際のものだ。
 そしていったいどこから進入するのか、水槽の中には訳の分からない生き物がいつの間にか住み着いている。
 水槽のガラス面を良く見ると、この生き物が土の中を移動したあとが見られる。
 そのほかにも、水槽内には、そうして進入した生き物のさまざまな痕跡があり、
「これって何のあとだ?」
 と、時に不思議に感じる。
 水槽内に敷く土は、はじめはスコップでザクッと適当に入れるのでデコボコしていて、まるで耕したばかりの田んぼに水を入れたような状態になる。そしてやがて、こうした小さな生き物たちの力で少しずつ耕されて、平らになっていく。

 さて、数日取材に出掛けて帰宅すると、撮影用のモデルとして飼育している生き物の世話や、その他雑用があまりに忙しいので参る。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.9.28〜29(木〜金) 気配り

 先日、まったく照明設備がない洞窟の中で、はじめて写真を撮った。
 当初は、一応写っているという程度の写真しか撮れないのではないか?と予測していたが、それが意外にもよく写る事がわかり、本格的な撮影に取り組もうと決意をすることになった。
 今回は、前回撮影時の感触を手がかりに、幾つか撮影のための機材に工夫を凝らして、再度同じ洞窟で撮影してみた。洞窟内の風景に関しては、自然の光が入らない場所でいかに立体感を表現するか、それに尽きるのではないかと思う。
 あと何度か試行錯誤を重ねれば、それなりに見ごたえのある写真をコンスタントに撮れる、そんなシステムが整うだろうと思う。

 特殊な環境下で写真を撮るのはやはり難しいし、撮ってみて、経験を積まなければ分からないという側面がある。つまり多少試行錯誤する時間が必要になる。洞窟内に生息するコウモリに関しては、イメージ通りの写真が撮れる方法を確立するためには、風景よりも多少時間がかかりそうだ。
 コウモリは思っていたよりもずっと臆病な生き物のようで、あまりに長時間いろいろなことを試すと過度のストレスを与えてしまう危険性があることが分かった。風景なら、一日であらゆることを試せても、コウモリではそれができないのである。
 今日は、どんな状況で撮影した時に質的にいい写真が撮れるのか、その一点に的を絞り、いろいろな角度からコウモリを撮影してみた。
 すると、洞窟内でも物がよく写る条件が分かってくるが、それが分かれば、今度はその条件に当てはまる位置に止まっているコウモリだけにカメラを向けるようにして、その他大部分のコウモリには、いっさい接触を持たないようにする。
 それから、コウモリにはかなりの距離にまで近づくことができるが、たとえ近づけたとしても、コウモリが怖がらない距離を取らなければならないと感じた。それに合わせて、機材を工夫する必要が生じる。
 これは何もコウモリに限った話ではなくて、つい先日撮影したトンボなどでも、撮影や観察の際には付近の植物が踏み潰されてしまう。
 また池の中に入り込んで撮影をする場合などは、中に入っても水辺の植物があまり大きなダメージを受けずやがて簡単に回復するタイプの池と、そうではない池があることが、経験的に分かってきた。
 つまり、踏んでも大丈夫な場所と踏んではならない場所がある。
 カメラを持てば僕はいつの間にか夢中になるし、実は恥ずかしながら、自分が撮影した跡をみて反省させられることも多々あり、そうしたダメージを最小限にとどめる気配りを、特に意識しないでもできるように身に着けることを、僕は今大きなテーマにの1つしている。
 
 先日、カメラを持っているだけでマークされてしまう、管理が厳しいある湿原について書いた。自然に自由を求める僕は、余分に疑われることを実に不愉快だと思う。
 だが、その湿原を歩いてみて教えられるものもあった。水辺のコケや植物の繁茂の具合が、実に凄かったのである。
「ああ、人が踏まなければ、これだけの植物が増えるのか!」
 と、あるタイプの湿地において、立ち入りを規制することの意味を痛感させられもした。
 立ち入りの規制にはいろいろな意味があり、例えば、危険だから入ってはならない場所もあるし、弱い植物が踏まれないために規制されている場所もある。そして褒められたことではないが、危険だから入ってはならない場所にカメラマンが自己責任で入るのは多少理解できる。
 だが、環境を守るための規制は、進んで厳守しなければならないとしみじみ感じた。
 そして、規制がない場所であっても、自分で規制をしなければならないし、そうした配慮がない写真は、もしかしたら見るに値しないのではないか?と、そんな風に感じた。
 何かひとつのことにしか注目しない写真マニア、生き物マニア・・・、マニアと呼ばれる人たちが嫌われる理由が、その湿原を眺めていると、よく分かる気がした。僕はマニアックな要素は嫌いではないが、マニアになってはらならないと、そう感じた。
(CanonEOS5D 17〜40mm)
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)

 

2006.9.27(水) 渓流釣り

 テレビのインタビューで、
「モンゴル出身の力士の強さの秘密はいったい何ですか?」
 とたずねられた横綱・朝青龍が、
「家族の絆でしょう。」
 と答えた。
「おいおい、それは関係ないだろう・・・」
 とチャンネルを変えようとしたら、話は、
「稽古が辛い時にお母さんの顔が思い浮かび、逃げてはダメだと頑張れます。」
 と続く。
 もちろんそれだけが強さの秘密ではないと思うが、そう言われてみれば、確かにそれも大きいのかもしれないなぁと思い直した。
 その朝青龍が、やはりテレビのインタビューで、勝負の前の緊張について語ったことがある。
 やはり取り組みの直前には、大変なプレッシャーがかかるらしいが、朝青龍は、
「どんなに緊張したって、どうせあと数分で終わるじゃないか。」
 と開き直るそうだ。
 僕は、撮影が辛い時には、その話を思い出すことが多い。

 さて、今日は一年に一度だけと決めている渓流釣りを楽しんだ。
 渓流魚はしたたかでかつ警戒心が強いから、だいたい一度釣り針を投げ込んでも釣れない時には、何度釣り針を送り込んでも釣れないことが多い。ある1つのポイントでの勝負は、ほんの数秒でけりがつく。
 したがって、渓流釣りは、次々と場所を変えていく釣りである。魚は大抵餌が流れてくる上流を向いているから、魚に気付かれないように、一般的には下流から上流に向かってどんどん歩きながら釣る。
 そして今回僕が選んだ沢は、釣り上る際の過程が大変に厳しくて、困難な沢だ。だが、困難な分、釣り氏が敬遠するため、魚がスレていない良さがある。
 今日は、およそ4時間ほど釣り上ったところで、淵の中に新鮮な鹿の死体があることに気付き、写真を撮るためにカメラを取りに戻ることにした。
 実は、数年前に、まったく同じ場所で、やはり新鮮な鹿の死体を見つけたことある。おそらく、たまたま鹿が死んでいたのではなくて、何か理由があるのだと思う。それならば、やはりカメラを向けるべきだろう。
 例えば、付近に獣道があり、その獣道の一箇所に大変に足を滑らせやすい箇所があるとは考えられないだろうか?
 車までの往復はかなり困難になりそうなことは、すぐに分かった。実は、前回見かけた時には、体力の限界で、結局撮影機材を取りに戻ることができなかったのだ。
 今回は、釣りの途中で何箇所か岩をよじ登った箇所があったので、そこを三脚その他の機材を持ってよじ登れるかどうか判断しながら下ること30分、車にたどり着き645判のカメラを準備してまた上ること1時間強。
 散々に釣りをした後だったから、最後は足が動かなくなりはじめたが、朝青龍の言葉を思い出した。
 今はきついけど、せいぜいあと2〜3時間もすれば撮影は終わっているじゃないかと。
 頑張っても、頑張らなくても同じように明日は来るし、明日は疲れが残ったとしても2〜3日もすればどっちにしても同じになる。どうせ同じになるのなら、写真が残った方がいい。
 ただ疲れで集中を欠き、怪我をしては話にならない。それだけ気をつけながら、とにかく歩いた。
(CanonEOS5D 17〜40mm)

 

2006.9.26(火) 赤トンボ

 赤トンボと言えば、アキアカネである。
 だが暑さが苦手なアキアカネは、九州ではそれほど多く見られるトンボではなく、この秋の赤トンボの撮影に関しては、島根県あたりに出かけてみようと計画している。
 アキアカネの面白いところは季節によって移動をする点にあり、里で生まれるこのトンボは、夏を涼しい山地で過ごし、また秋になると里に下り、里で卵を産むことが知られている。
 秋の里への移動の際には時には大群を形成し、トンボの群れがまるで雲のように延々と続くこともあると言う。そんな壮大なシーンを是非見てみたいものだと思う。
 残念ながら、元々アキアカネが少ない九州では大きな群れが見られることはなく、また比較的涼しい場所で一生を過ごし、季節による大きな移動もないのではないか?という説もあるようだ。
 ただ九州でも、それなりに自分で探してみる努力だけは欠かしてはならないと思い、今回は、昨年の夏にアキアカネが比較的多く見られた高原の周辺をじっくりと探してみた。
 するとアキアカネの姿はほとんどなく、夏の間に多く見られたトンボたちは、やはりどこか里へと下っているようだ。


(撮影テクニックの話)
 魚眼レンズを使用してナツアカネを撮影した写真を一旦今日の画面にはめ込んでみたのだが、結局写真を差し替えることにした。
 魚眼レンズや広角レンズを昆虫などの撮影に用いると、風景の中にド〜ンと昆虫が居座った迫力のある写真が撮れる。俗に、広角接写と呼ばれる手法である。
 ただ、元々は大変に個性的な表現だった広角接写だが、今ではそうした撮り方が普及し、むしろ虫好きの人が撮る写真に限定すると、広角接写の方が没個性的にさえ感じられるようにもなった。
 そこで、逆にオーソドックスなマクロレンズをもっと使いこなし、個性的な写真が撮れるように頑張ってみようと最近考えるようになった。
 マクロレンズのいいところは、広角接写とは逆に背景が省略できる点にある。つまり取捨選択という要素がそこに入り込んでくることになるが、それによって何か一点に注目させたり、昆虫そのものをより浮き上がられる効果がある。昆虫の質感や緊張感にこだわりたい時にはマクロレンズの方が有効なこともある。
 しばらく、そこにこだわった撮り方を試してみようと思うのである。
 もちろん、広角接写のテクニックを使わないというのではない。広角接写は今や確立された技術であり、それを有効に使わない手はない。
 だが、広角レンズを使えば、それだけでいい写真になるというような風潮がどこかあるような気がして、僕は何か違う!と感じるのである。
(CanonEOS5D 90mm)

 

2006.9.25(月) オオルリの群れ

 中村宏治さんという大変に優れた海の写真家がおられるが、その中村さんが、『あざらしのカンニングペーパー』という著書の中で、写真が上手いね!と他人から評価してもらうコツは、失敗作を見せないことだと書いておられるのを読んだことがある。
 山ほど撮影して、その中からほんの数カットだけを選び出し、その挙句に、まるでその一枚の写真だけを狙って撮ったかのように見せるのがプロの極意なのだそうだ。
 それを読んで以降、僕も中村さんの教えを忠実に実践してきたし、だから僕が未完成の写真を見せることは滅多にない。
 また、生き物の珍しいシーンを目にしても、とにかく証拠写真を!といった撮り方をすることもほとんどない。 
 プロの写真家は見せるに値する写真を撮ってなんぼであり、証拠写真程度にしか撮れない時は、何も見なかったのに等しいのだと僕は考える。
 だが、今日は大変に興味深いシーンを目にしたので、ちょっとその禁を破ってみることにした。





 今日は、オオルリの群れに出くわした。
 オオルリと言えば、縄張りを作り、単独かつがいで暮らす鳥のイメージがある。だが、そのオオルリが20〜30羽くらいの群れを形成し、一本の木に集っているところを見つけたのである。
 これからオオルリは冬に備えて南の島へと渡る。恐らく渡る時は群れで渡るのだろうと思うが、その渡りのための群れが形成されていたのだろう。
 写真は、すべてイオス20Dに300ミリレンズを取り付けて使用し、ノートリミングだから、35ミリ判のフィルムカメラに換算すると500ミリ弱相当のレンズで撮影したことになる。
 一番上の画像は見事なオスの成鳥、その下は背中だけが青い若鳥、一番下はメスで、一般的な鳥の撮影のように身を隠さなくても、こんなに大きく撮影できる位置に立ち替り入れ替り次々と止まる。
 来年は本格的な野鳥撮影用の道具を持って、同じ時期にこの場所へと来てみようと思う。 
 


 イワナの塩焼きが売られていたので、食べてみることにした。
 上は塩イワナといってイワナを数日塩漬けにしたものを干したもの。下は塩焼きである。
 今日はある湧水池で写真を撮ったが、その水を利用してイワナが飼育されていた。
 イワナが一切生息しない九州で、川から直接水を引いてイワナを飼うことには、僕は抵抗を感じる。なぜなら、生簀が大水の際などに壊れ魚が逃げ出せば、本来存在しない魚が居ついてしまうことになるからだ。
 現に、熊本県の五家荘では、水に潜ってみると多量のイワナが棲み付いていて、場所によっては、本来生息するはずのヤマメよりもイワナの方が多くみられるほどだ。
 本州では、イワナとヤマメが共存しているのだから、イワナにはブラックバスのような脅威はないのだろうが・・・
 その前に、元々九州にも生息するヤマメの方が、一般的にはイワナよりも美味だとされているのだから、いったいなぜわざわざイワナを?と、疑問を感じ、おじさんに聞いてみることにした。
 するとまず、
「よそとは違ったことがしたい。」
 というのがその動機で、さらにおじさんは、
「イワナの方が美味い。」
 と言う。
 そう言えば僕も、山陰に限定して生息するゴギという名のイワナは、ヤマメよりも美味だといつも感じるので、大変に興味を持って口にしてみたが、やっぱりヤマメの方が上だと感じた。
(CanonEOS20D 300mm)
(CanonEOS5D 17〜40mm)

 

2006.9.23〜24(土〜日) 自由の象徴

 こういう仕事をしていると、時々、
「案内しますから、撮影してみませんか?」
 と、一般の人が立ち入ることができない、保護区のような特別な場所へと招待されることがある。
 それを役得だと思って撮影を存分に楽しめばいいのかもしれないが、大抵の場合、僕はなぜか心の底からは撮影を楽しむことが出来ない。
 生き物と接することは僕にとって自由の象徴であり、私有地ならともかく、そこへ立ち入るのに誰かの許可が必要であることが、その自由の象徴と相反するから楽しくないのだろうと、自分では受け止めている。
 そうした保護区でも、保護に携わる人と、そこにコネがある一部の人が、しばしばその特別な自然を楽しんでいるという現実がある。
 人間の社会はそんなものなのかもしれないが、それがまるで既得権みたいに思えることがあり、何か抵抗を感じるのである。
「入っていいよ。」
 と許可を与える側の人は、与えられる側の人とはいったい何が違うのだろう?
 人格が優れているのだろうか?それとも知識があるのだろうか?そう考えると益々分からなくなるが、もしもたくさん人が訪れることで自然が荒れてしまうのであれば、人数を制限する代わりに、誰でも予約と順番待ちをすれば、ルールに従った上でそこに立ち入れるような公平さがあって欲しいと思うことがある。
 
 さて、今日は、ある湿原へと出かけてみることにした。
 僕の自宅からは、早起きをすれば、日帰りでも十分に楽しめる距離にあるその場所だが、実はそこへ行くのは今日がはじめてである。
 今まで敬遠してきた理由は、カメラを持ってそこへ行くと、保護に携わる方々からマークされてしまい、監視されるという噂を何度か耳にしたことがあったからだ。湿原には柵が設けてあるのだが、そこから三脚の先っちょがちょっと出ただけ苦情を言われるなどという話も聞いたことがある。
 果たして、やっぱり僕も窮屈すぎる印象を受け、カメラを取り出すこともなく、場所を移動することにした。
 ただ、現実には保護が必要な場所もあるのだから、難しいところだ。
 僕は、無理をしてまで特別なものを写したいとはあまり思わないし、僕がカメラを向ける対象は何でもない平凡なものでいいから、むしろ自由でありたい。

 高速道路にのり、大分県まで一気に車を走らせた。
 大分の高原で、鴨肉の炭火焼と団子を食べたら、また腹が痛くなった。
 またと書いたのは、前回も同じ場所で同じものを食べて腹を壊したから。トラウマと書くと大げさだろうが、そんなイメージが鴨肉に染み付いてしまったのかもしれない。
 
 腹が痛い時は、虫にそっと近づく集中力と気力が失せるので、望遠レンズで横着をして遠くから撮影するのがいい。
(CanonEOS5D 17〜40mm)
(CanonEOS5D 300mm ストロボ)

 

2006.9.21〜22(木〜金) 洞窟

 日本の自然写真家には、生き物の種類にテーマを絞る人が伝統的に多く、例えば昆虫写真家や、野鳥写真家などというジャンルが自然写真界の中に存在する。
 そして、時にはそうした人たちのことを昆虫オタクや野鳥オタクなどと呼び、視野が狭い人間だと見る向きもある。だが僕は、そうしてある特定の生き物に的を絞ることは、決して間違えではないと思う。
 自然をよく知ろうとすれば生物学の知識は不可欠であり、その生物学の基礎である分類学を無視することはできないからである。
 僕自身は水辺というテーマを設定し、生き物の種類に的を絞ってはいないが、内心は僕のようなやり方の方が、筋が悪いのだと受け止めている。
 ただ、それでしか出来ないこともあるから、やがてそうした部分に手をつけ、筋の悪さを消していくつもりではあるが、例えば、ある特殊な水辺の環境に的を絞り、植物から動物までさまざまな生き物たちを通してその環境を語るようなやり方があるように思う。
 その1つとして、いずれ鍾乳洞に関する本を作ってみたいのだが、今日は、ちょっとばかり試し撮りをするために、北九州の平尾台にある洞窟の1つに入ってみた。
 今日の目的は、洞窟という一歩奥に踏み込めば全く光がない環境下で、写真がどの程度撮れるものなのか、それを試すことにあった。

 まず最初に感じたことは、観光洞窟はともかく、そうではない洞窟はとても危ないということだ。ほんのわずか2〜3分入り口から中に入っただけの場所でも、もしもすべての照明器具を失えば、恐らくそこから生きて出ることはできないのではないか?と感じた。
 また懐中電灯を持っていたとしても、洞窟の中では方向感覚を失い易い。今日は、詳しい方に案内をしてもらったのだが、今後も一人でそこに入ってはならないだろう。
 ただ写真に関しては、工夫さえすれば、予想以上に見たままの感じで撮れることが分かった。
 
 今日目にした生き物は、コウモリとカマドウマだ。
 コウモリの写真を洞窟の感じを損ねないまま撮ろうとすると、照明器具に何か一工夫しなければならないようだ。
(CanonEOS5D 17〜40mm)
(CanonEOS5D 90mm)

 

2006.9.20(水) 絶命

「自分は駆け出しだから、たとえ売れなくても本を出さなければならない!」
 と、誰だったか?どのような場だったのかも思い出せないのだが、誰かがそう語るのを聞いたことがある。
 また、その気持ちが良く分かるような気がする。

 ところが実際には、それは逆ではないか?と僕は感じる。
 なぜなら、赤字になる危険性が高い売れない本を出すには、敷居がとても高くて、もしも著名な写真家であれば、売れない類の本でも知名度である程度の数が出るだろうから出版ができても、そうではない写真家は門算払いされてしまい、そもそも本を出すことができないからである。
 逆に有名な人の写真は、たまたまその写真がイマイチな写真であっても、世間が有難がって使っているような面もあるように思う。
 写真は必ずしもいいものが使われるわけではないように感じる。
 知名度の他にも、写真を流通させる立場にある人が、誰の写真を使いたいと考えているか、それもまた大きくて、例えば、九州関係の写真はとにかく武田に任せるなどと誰かがあらかじめ決めているようなケースもあるだろうと思う。
 さて、
「普賢岳の写真を撮ってきてよ。」
 などと声がかかった時には、大抵の場合、それほど凝った写真を撮る必要はない。
 独自の撮影ポジションを見つけることや、独特な撮り方をする必要もない。それよりもよく知られた撮影ポイントでもいいから、手堅く写真を撮ってくれば、その写真を相手が使う意思がある場合に、そういった頼まれ方をすることが多い。
 だから今回の撮影は、普賢岳に関してはチョチョイノチョイと終わらせて、その後は、トンボの撮影を楽しむつもりで自宅を発った。
 ところが、僕の性格のいいところでもあり、また悪いところでもあるが、いったんカメラを向けると何でも楽しくなってしまい、のめり込んでしまう。結局今日も、午前中の一番いい時間帯は、普賢岳がよく見える撮影ポジションを探して車を走らせることになった。

 昨日、山肌の火砕流のあとに根を下ろした植物を見て、
「植物ってすごいなぁ。」
 としみじみ感じたので、今日は、噴火のあとの生々しさと、そこにうっすらと根を下ろした新しい植物と、噴火の影響を受けなかった植物たちが効果的に画面に収まる場所を探してみた。
 それにしても、植物が広がろうとする力のなんと凄いことか!
 人の尺度でみると、植物は静物に近い存在だと思うが、ちょっと尺度を変えてみると、もの凄い勢いとエネルギーで広がる生き物だと思う。
 水辺ではないが、このあとの経過を3〜5年周期くらいで撮ってみようと思う。

 昨日のうちに目をつけておいた池に行ってみた。池の広さは、早足で歩くと5分以内くらいで一周できる大きさである。
 今朝は、その池一面に赤とんぼの仲間が見られ、1000匹はいなかったと思うが、500匹は下らなかったのではないか?と思う。
 ただ、トンボたちが産卵している場所が岸辺からは遠くて、集団で産卵する様子の写真が撮れなかった。

 ついさっきまで何事もないかのように飛んでいたギンヤンマが、突然ポトリと水に落ち、やがて絶命した。
 秋という季節と一抹の寂しさに反射的にカメラを向けてつもりだったのだが、カメラのファインダーに写しだされたトンボに全うした凄さのような何かを感じ、小さな虫にも生き様とでもしか言いようがないものが存在するのだと感じた。
(CanonEOS5D 70〜200mm)

 

2006.9.19(火) 普賢岳

「普賢岳の写真を撮っておいてよ。」
 と声がかかったので、ちょっと下心もあって、長崎へと出かけることになった。
 普賢岳と言えば、10数年前突然噴火をして、その際には火山の研究者も含めて犠牲者が出た活火山である。
 同じ九州といっても、長崎県は他の県とは何かが違っていて、僕は長崎県の人に対して同じ九州人という感じがしない。大学時代にも長崎県出身の同級生がいたのだが、気質も、言葉も、僕らとはそうとうに違うようにいつも感じた。
 場所的にも奥まった場所にあって行きにくいし、よく考えてみれば、これまで長崎で写真を撮ったのは、10年くらい昔に、数えられる程度の回数だろうと思う。
 今では、活発な噴火はすでに収まっているのだが、昭和新山と呼ばれている噴火の際に出来た頂から、海に向かって溶岩が流れ出した痕跡がわかる。
 
 望遠レンズで尾根を拡大してみると、そのうち崩れ落ちるのではないか?と、心配ななるような形状の巨大な岩が見え、付近からは噴煙が上がっている。
 そしてよく目を凝らせば、噴火の際に焼き尽くされた山肌に、薄っすら植物が生えているのが見える。
 熊本県の阿蘇よりも、普賢岳の方がずっと生々しい感じがする。
 それにしても、地球って凄いなぁ。
 いや、人間ってちっぽけだなと言った方がいいのかもしれない。

 さて、この夏、ある写真展の会場で、その普賢岳をテーマにした写真集のページを何気なく広げてみたら、何と!産卵のために水辺を訪れている赤トンボの仲間が一画面に40匹弱写っている写真があり、驚かされた。
 場所がどこなのかは触れられてなかったが、トンボの写真家のネットワークで調べてもらったら、その可能性が高いダム湖の名前が分かった。
 今日は、普賢岳の撮影を終えたあとで、その場所へと見に行ってみることにした。
 がしかし、僕の見た感じでは、写真の場所は、そのダム湖ではない。
 そこで辺りを適当に車で走りながら、カーナビに表示される付近の小さな池を1つずつ見て回ったら、ここかな?と思える池に行き当たった。
 明日は、その池の周囲をゆっくり歩いてみようと思う。それが、冒頭に書いた下心である。 
(CanonEOS5D 17〜40mm)
(CanonEOS5D 300mm)

 

2006.9.18(月) 更新

(I撮影機材の話)
 今日更新した『今月の水辺』の中で、レンズの性能について触れたので、その実例を1つ示しておこうと思う。

 今月の水辺の中では、撮影機材の話として、特殊な使い方をした際の、具体的には絞りを絞らずに遠景を撮影した際のレンズのシャープさについて書いた。
 そのシャープさの他にも、条件によってレンズの性能の差が歴然と現れることがあるが、例えば、星を撮影すると、レンズによっては左の画像のように星が彗星のように尾を引いて写ることがある。
 これは、流れ星ではない。
 恐らくレンズの収差の1種だろうと思う。
 この撮影に使用したのは、オリンパス製の古い21ミリf2という大口径レンズだが、これだけ収差がひどいと、せっかくの明るいレンズではあるが、星の撮影には使いづらい。
 ただ、絞り開放でありながら、とてもシャープに写っているから、そうした収差があることを非常に惜しいと思う。

シグマ社製の20ミリf1.8というレンズを試したこともあるが、こちらは最低でも絞りを4.5よりも絞らなければ、遠景ではピントがどこにも合わない。恐らく、絞りを開けて遠景を撮ることを全く想定していないのだろうと思う。
 ただし、近くにあるものはとてもよく写る。絞りをあけて、ポートレートに使用している方もおられるから、中間的な距離でも問題なく写るのだろう。
 トキナー社製の17ミリも試したことがあるが、絞りを開けると遠景の写りが極端に悪いのはシグマの20ミリとよく似ていると感じた。
 昔、シグマ社から近接撮影に強い300ミリが発売されていたが、そのレンズも近くは写るが、遠景が写らなかった。
 トキナーにしてもシグマにしても、レンズの価格が安いのだが、もしかしたら絞りを開けても遠景がシャープに写るようにするためには、コストがかかるのかもしれない。

今月の水辺を更新しました。

 

2006.9.16〜17(土〜日) 連日連日雨

 連日連日雨が降り、おまけに台風まで直撃しそうだが、その分、天候に左右されないスタジオでの仕事がはかどっている
 おかげで9月中旬から10月は、野外で撮影する時間を多く取れそうだ。
 これからアメリカザリガニの繁殖の撮影が始まるが、こちらは、スタジオにぴったり張り付いてマークしておかなければならないシーン、例えば脱皮の撮影などを昨年のうちに終えているし、その分、かなり時間の自由がきくだろう。

 さて、カタツムリにキュウリを食べさせた際の糞を撮影した。
 濃い緑が皮で、薄い緑が果肉だが、その両方が上手く含まれている糞をさせるのに、ちょっとばかり時間がかかった。
 何か理由があるのだろうと思うが、ここ最近、うちのカタツムリは、キュウリを与えるとほとんど皮だけを好んで食べるのである。アメリカザリガニにも、季節的な偏食傾向があり、やたらに植物質のものを食べる時期がある。
 
 今日は、ナメクジの活動も盛んだったから、ちょっとカメラを向けてみた。
 カタツムリを撮影するうちにいつの間にかナメクジも、見たいと思う生き物、撮影して楽しいと感じる生き物になってきた。

 (撮影機材の話)
 ニコンのD80を買おうかな。それからアドビRGBに対応したモニターが、何と!16万円前後というこれまでの常識では考えられない価格で発売されるようなので、その2つを買おうと計画していた。
 ニコンのD80は、野鳥の撮影の際に使用するD2Xの予備である。つまり一般的な撮影にはキヤノンのフルサイズセンサーのカメラを、超望遠レンズを使用した野鳥の撮影にはAPSセンサーのニコンを使う。
 すべてキヤノンにしてしまった方がすっきり、しかも長い目で見ると安上がりだろうとは思う。だが、両方使うという贅沢もまた捨てがたい。
 ただ、次に買う機材は、今後当面僕が使用するメーカーを決めてしまう機材になりそうなので、ちょっと慎重になっている。

 これはネット上の噂でしかないが、キヤノンからこれまた何と!25万円前後でフルサイズセンサーのカメラ、イオス7Dが発売されるという。25万円と言えば、D80+購入を計画しているアドビRGBのモニターとほぼ同額だから、その7Dの方を買う選択肢もある。
 そしてそれを買えば5Dとの2台体制で、一番仕事が効率よくできるだろうと思う。その場合には、やがてキヤノンの500ミリレンズあたりを購入し、すべての機材をキヤノンで統一することになるような気がする。だが、まじめ過ぎて面白味には欠ける。

 また、D80の購入を止め、フジの新製品を待ってみるという選択肢もある。
 フジのデジタル一眼レフカメラは、ニコンのレンズを使用することになっているから、フジをD2Xの予備にする。
 その場合、フジのデジタルカメラは他社の製品とは違う性質を持っているので、単なる予備ではなくて、代打の切り札的な使い方が出来る可能性がある。
 具体的には、センサーの構造が異なり、明部〜暗部まで圧倒的に広い明暗を写すことができるフジのカメラなので、その点に関しては、キヤノンのフルサイズセンサーのカメラよりも画質がいいことだってあり得る。 
 フジを買い、フジが気に入れば、おのずとニコンのカメラも使うことになる。
 これは、ニコンマウントとキヤノンの一番美味しいところを摘み食いする、最高の贅沢の一種だろうと思う。
 この贅沢は、一度体験してみたいものだなぁ〜。
 (CanonEOS5D 90mm ストロボ)
 (CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.9.15(金) 撮影機材の話

(撮影機材の話)
 先日、昆虫写真家・新開孝さんのホームページに、夜間の撮影の際に虫を照らすためのライトが紹介されていて、僕も、同じようなものが欲しくなった。
 僕の場合は、主にカエルの撮影に使う。
 新開さんのものは自作だが、僕のは市販の物をただ買ってきただけ。
 このライトは防水であり水中に沈めることもできるから、いずれ夜の川に潜って水中撮影をする際にも活躍するだろうと思う。
 
 ライトとライトの角度を変える部品とそれをストロボのシューに取り付けるための部品はすべて市販で、セットとして売られているものだが、そのセットを保持している銀色の金具は、工場に発注して作ってもらったもので、本来はツインフラッシュの発光部を取り付ける場所だ。
 ツインフラッシュを取り付ける部品ならメーカーからも純正のものが発売されているが、使用できるレンズが数本のマクロレンズに制限されるので使いづらい。その点、この金具なら、魚眼レンズからマクロレンズまで使用できる。
 夜間の撮影の場合は、ツインフラッシュを使うと光が回りすぎて夜の感じが損なわれてしまうので、僕はカメラのホットシューからのディフューズした一灯ストロボで撮影することが多い。そこで、ツインフラッシュ用の自作シューにカエルを照らしてピント合わせをするためのライトを持たせてみた。
 ちょっと重たいが、水中撮影用のライトなのでライトの角度を調整する部分なども、頑丈さは抜群!僕は元々、ほとんどすべての仕事を645判のカメラでこなしていたくらいだから、重さはさほど気にならないのである。
(CanonEOS20D 90mm ストロボ)

 

2006.9.14(木) 両立

 こう撮れば写真が売れやすくなるというコツのようなものがある。
 だが、それに媚びるのはつまらないと思う。
 がしかし、それを知ろうとしないのも、また同様に、つまらないような気がする。

 自分はこう撮りたい!と決して曲げたくない部分が僕の心の中にはあるが、かと言って僕が撮る写真の一から十まですべてが、そうした譲れない部分だけで固められているわけでないし、僕にとってどうでもいい部分、ルーズな部分だって、僕の写真の画面の中にはある。
 そうした特にこだわりがないルーズな部分で、もしも可能なら売れる撮り方を取り込めばいいし、売れる写真に特に媚びなくても、何でもなく自分の撮り方と売れる写真とを両立できる要素だって、たくさんある。
 むしろ、『売れる写真』という言葉を持ち出されたときに、
「いや、俺は媚びない。」
 と強く主張する人の写真ほど、意外にそうしたルーズな部分が多く見受けられ隙だらけである傾向が強いような気もする。それは、媚びないのではなくて、ただの無知や努力不足ではないか?と感じる。
 
 さて、ある時、昆虫写真の海野先生の事務所を訪ねた際に、
「武田君の文章は面白いが、写真が面白くないぞ!」
 と、感想を聞かせてもらった。
 そこで、海野先生がおっしゃる面白い写真とは何か、それを時々考えるようになった。
 闇雲に考えていても仕方がないから、時には、あえていつもと違う流儀で撮影して記事を書いてみると、
「8月15日の日記の内容や写真がなかなか良かったぞ。」
 と先生から褒めてもらった。
 なるほどなぁと、少し分かったような気がする。僕は写真を見せるものとして日ごろ撮っているけれども、写真には、読ませるものという側面もある。
 海野先生がおっしゃる面白い写真とは、読ませることができる写真なのではないか?と。
 もちろん、見せる写真が好きな人も世の中には少なくはないし、僕は、見せる写真を好む傾向にある。また僕の写真が好きだという人の中には、8月15日の写真を少しもいいとは思わないと感じる方もおられるに違いない。
 だから必ずしも写真を読ませなければならないとは思わないのだが、写真を見せつつ、同時に読ませる要素を取り込むことができるルーズな部分だって、僕の中にはあるだろうし、それを意識していれば、それなりに両立可能なのではないか?と思う。
 そういえば、僕は海野先生の写真を時に読み、時に見る。
 何か一つのことに秀でるのは、情熱さえあれば意識をしなくてもできることが多いような気がする。だが二つ以上のことを両立させるには、それなりの意識が必要な気がするのである。
 
 アマチュアの人の場合であれば、写真のコンテストなどに同じようなことが言えるはずだと思う。
 コンテストに投稿する際に、傾向と対策をして、すべてそれに合わせるのは愚。だが、傾向と対策をしないことも、また面白くないような気がする。
 まずは研究してみて、何でもなく取り込める部分を取り込んでみたらいいのではないだろうか?

 

2006.9.13(水) 本作り

 「自然写真はきれいなだけではダメ。」
 と、主張する自然写真家がおられる。
 どちらかと言うと、1950年前後の生まれの現在の自然写真家という職業の基礎を築き上げた先輩方に、そんな意見の持ち主が多いように思う。
 少なくとも、僕の同世代の写真家の間では、あまりそういった話は出ないし、今はとにかく、きれいな写真や、または完成度が高い写真が求められる時代なのだろう。
 
 ところが僕は、最近、先輩方がそう主張することの意味が、ひしひしとわかるようになってきた。
 たとえば、何か生き物について詳しく知りたいと思う。
 そこで、いろいろな本に目を通してみる。
 すると、最近の本は楽しかったりきれいではあるが、生き物について詳しく知る事に関しては、あまり役にも立たないものが多く、どちらかというと読むものではなくて、一度きり、眺めるものなのかな?という感じを受ける。
 ところが、今は絶版になっているような古い本を広げてみると、実に内容が充実しており、その内容に思わずニヤリとさせられるような本がある。それらの本は、眺めるべきものではなくて、明らかに何度も読むものなのである。
 僕はきれいな写真が好きだ。だがそんな僕も、手堅く、楽しく、きれいにまとまっている本には、何か1つ物足りなさを感じていることに、最近になって気付かされた。
 自分で何度も何度も広げる本は、きれいな写真の本ではないのである。
 写真を撮ることだけではなく、本作りを勉強してみたいと、感じるようになってきた。
 
 さて、ある時、ある知人が、
「すごい方がおられるので、会ってみませんか?」
 と薦めてくださった。
 それが縁で、今回、自分で写真を選び簡単な文章をつけた本の卵を見てもらったら、意見を寄せてくださり、そこには本作りに関してたくさん勉強すべきことが書かれていて、掻き立てられるものがあった。
 写真にしても、本作りにしても、先輩方からいろいろなものを吸収させてもらおう!と、そんな気持ちにさせられた。

 本格的に本作りを勉強してみよう!と思うようになったきっかけには、仕事として生き物の写真を撮ることに、ある程度目処が立ちつつあることが挙げられる。
 たとえば、以前なら撮影に一週間かかっていたシーンの多くが、最近では数時間で撮れるようになるなど、他のことを考えるゆとりが生まれてきたのだ。
 いい仕事をするためには、仕事の中のある部分はまるで流れ作業のように効率的にこなし、時間を生み出さなければならない。今日の画像のような標本的な写真の場合は、凝り過ぎてもほとんど何の意味もないのだから、なるべく効率を上げたいが、ようやくそれができるようになってきた。
 まず、水の中で、こうした白バックの標本写真を撮るためには、そのための水槽を準備しておく必要がある。水槽は、大き過ぎると水を入れる作業などが大掛かりになるから、撮影に差し障りない範囲で小さい方がいいし、他にも短時間で撮影するためには、いくつかのコツがある。
 技術的に言うと、白の背景で白い被写体を撮影するのは最も難しいが、逆に言うと、それが簡単に撮影できる照明その他の体制を整えておけば、他の被写体は、大抵容易く撮れることになる。
 今日は、色変わりのザリガニにカメラを向けた。 

 こちらは、オレンジザリガニと呼ばれている、アメリカザリガニの中の色変わりだ。
 
 これはフロリダブルーと呼ばれているザリガニで、アメリカザリガニに近い種類だと思うが、別種である。その他、ほとんどすべてのザリガニは、外来生物を規制する法律によって、今では入手できなくなった。
 もしも購入できるのなら、カメラを向けてみたい魅力的なザリガニがかつては輸入されていたのだが、帰化生物の問題を考えると、規制は望ましいと思う。 
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.9.12(火) 癖

「写真家の方って、みんながあって、付き合いにくいところがありますね。」
 と、出版に携わる方から、僕は過去に何度か聞かされたことがある。
 そして、癖が強かったり、多少のトラブルを引き起こしてしまう面を大目に見てもらい、それが許されている部分もあるし、またそんな性格でなければフリーの写真家などという職業は成り立ちにくいだろうと思うが、人間社会の中では、そんなタイプの人もある程度の数求められているのだろう。
 いわゆるお勤め人がイメージする礼儀正しくて、品行方正でまじめな人間であることよりも、どこか崩れていて普通ではない分、強烈なエネルギーを持っていて、人にはできない仕事ができることが望まれる面が間違いなくある。

 だが、そんな世界の中で日々過ごしていると、普通であるということの素晴らしさが逆に身に染みて分かるような気もする。
 自然写真家と言えば大変に個性的な職業に違いないが、僕は、むしろ、人は何も個性的であったり、特殊な仕事ができる必要などないと思う。たまたま個性的に生まれついてしまった人は、そういう風に生きてもいいとは思うが、そうではない人までが無理をして個性を主張することなど、実にアホらしくて、馬鹿らしい。
 僕が子供のころは、「個性を伸ばす」などということを、あまり聞いたことがなかった。むしろ、「協調性」の方が、圧倒的に重視されていたように思う。
 ところが今では、協調性という言葉に、むしろ個性に欠けるというようなネガティブなイメージを持つ人も少なくないように思う。
 だが僕は、協調性があるというのは、やっぱり素晴らしいことではないか?と感じる。

 昔、ある数学者が、一芸に秀でた学生が、その個性を伸ばすために高校2年生の時点で大学を受験できる飛び級制度に関して、下らん!と主張するのを聞いたことがある。
 個性や才能というのは、周囲が押さえつけようとしても頭をもたげてくるくらいの強さを持ったもののことであり、社会の制度によって守ってもらわなければ伸びてこないようなものを、個性とは言わないというのがその根拠だったが、僕もその意見に共感を感じる。
 少なくとも、
「大人が、先生が、社会が俺の個性を台無しにした。」
 などと主張する人は、仮にどんなに恵まれた環境下に置かれたとしてもおそらく不満だらけで、たいした結果は残せないような気がするのである。
 社会が個性的な誰かを理解するのではなくて、個性的に生きたい人が、社会に自分を分からせるように努力をするのが筋ではないだろうか。 

 

2006.9.11(日〜月) コツ

「カブトムシとクワガタの写真も撮ってくださいよ!」
 と、この夏声を掛けられた。
「武田さんのカブト、クワガタが見てみたいなぁ〜」
 などと上手く乗せられ、それで
「もしも、野外でいい場所を見つけたら撮ります!」
 と答えた。
 カブトムシやクワガタムシの写真は、すでに市場にたくさんあるだろうから急いで写真が欲しいわけではないのだろうが、いつもと違う人が撮影した、これまでとは雰囲気の異なる写真を求めておられるのだろう。
「それなら!」
 と、この夏は、水辺の撮影のついでに所々雑木林を見て回ったら、福岡県では珍しいオオムラサキが、うちのすぐ近所に生息していることが分かり大感激。
 だが肝心のカブト、クワガタは、僕が見て回ったあらゆる雑木林が採集を目的とする大人に目を付けられていて、毎日のように誰かが採集にくる。どうも撮影どころではないと判明した。
 業者が根こそぎ捕っていくわけではない。だから、それでうちの近所の虫が極端に数を減らしたり、自然が失われるとはあまり思えないし、一人一人には罪はないだろう。
 が、やっぱり昆虫が樹液に多数群がる姿が見たいなぁと感じた。そうして眺める権利も、みんなにあるのかな?と。
 僕は昆虫採集が悪いことだとは少しも思わないのだが、今や採集という時代ではなくなってしまったのではないか?と、そんな風に考えを改めさせられた。

 魚釣りも同じである。
 釣りがブームになり、おしゃれで便利な道具がショップにあふれ、山の中の渓流までが込み合うようになった。
 釣りが悪いことだとは、全く思わないのだが・・・
 そこで僕は、一年に1度だけと回数を制限して渓流釣りに時々出掛ける。そして今週は、その予定を組んでいたのだが、ここのとろこの雨で釣りは来週に延期することにして、今日は、本来来週の予定だった撮影を繰り上げて、先に片付けることになった。
 それらの撮影を下手に引き延ばしてしまうと、年にたった一度の釣りの日が、消えてなくなってしまう。
 
 さて、カタツムリの糞の色は、食べ物によって変わるが、今日の画像は、赤ピーマンを食べた際の糞である。
 今シーズンは、一種類でも多くの食べ物を食べさせ、その糞を撮影してみようと思うが、たかがその程度の撮影にもコツがある。
 まず、カタツムリにも好き嫌いがあり、例えば赤ピーマンはあまり好きではないので、それをたくさん食べさせ、大きな糞をさせるためには多少のノーハウが必要になる。 

 糞をする様子だって同じ。延々とカタツムリの前で待っていれば、いつかは糞をするだろうが、そんなことをしていては、とても割りに合わない仕事になる。
 どんな撮影にも、必ずと言っていいくらいコツがある。
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)

 

2006.9.9(土) 雨音

 先日のアマガエルのジャンプの撮影は随分前に予定していたものだが、そこへ優先して撮影しなければならない仕事が幾つか割り込んできて、結局予定よりも2週間ほど遅れてジャンプを撮影することになった。
 その間、大変に忙しくて、お金の勘定など事務的な作業を怠っていたが、昨晩は領収書の束を整理して、すべての預金通帳に目を通し、会計ソフトへの入力が終わったのは、深夜になってからだ。
 ふと気が付くと、物を買い過ぎていて、お金を使い過ぎていることが判明。
 忙しいとそうしたことに気が回らなくなり、ちょっとでも欲しいものがあると、
「えい、注文しとけ!」
 と、買ってしまう傾向にある。
 もしかしたらそんな時は忙しくて気が回らないのではなくて、物を買うことで、さらに突っ込んで言うと買ったものを持って好きな場所へと出かけ、好きなものを好きなように撮っている自分の姿をイメージすることで、忙しさからくるストレスをやわらげているのかもしれないが、すでに買ってしまったものは仕方がない。
 だが、実はさらに追加して買おうと思っていたものがあり、撮影を進めつつ頭の中で色々と構想を練っていた分をすべて取りやめることにした。
 追加して買おうと思っていたものは、今度の冬、野鳥を撮影するために北海道へと出かける際に持って行きたかったレンズやカメラである。

 そう言えば先日、
「そのうち使いたいから、機会があったら雨の写真を撮っておいてください。」
 と、撮影の際の参考にするための画像が添付されたメールが届いた。
 今日は午後から激しい雨が降るというし、お金を使い過ぎたこともあり、稼いだ!という実感が得られる撮影がしたくて、雨が降り出すのを期待して、付近の山へと出かけた。
 イメージ通りの雨を車の中で待っていると、ここ数日の疲れがどっと押し寄せてきた。徹夜があったこともあり、生活のリズムがやや狂っているのもあっただろう。
 結局、車中で、雨音を聞きながら昼寝をすることになってしまったが、雨の音を聞きながら、車の中でうつらうつらする時間は、何とも言えずいい。
 たまには、こんな日もいい。元々、水辺の撮影も兼ねて、渓流釣りに出かける予定だったから、どうせこれだけ雨が降れば釣りどころではないだろう。

 

2006.9.8(金) より難しいシーン

 最近のカメラは、物によっては一秒間に10枚弱の写真を撮れるが、
「高性能なカメラって凄いんですね!連写機能を使えば、動きが早い生き物でも簡単に撮影できるでしょう!」
 と、時々言われる。
 だが、実際には、一秒間に10枚の写真が撮れたとしても、小さな生き物の動きには全くついていかないと言っても言い過ぎではない。
 例えば、昨日のジャンプしているアマガエルの写真と今日の画像との時間差は、およそ1/100秒しかない。
 つまり、一秒間に100枚の写真が撮れるカメラがもしもあれば、一枚目が今日の画像だったとすると、2枚目が昨日の画像ということになる。
 同じペースでシャッターを切っていくと、3枚目はアマガエルが速度を増しジャンプしていく瞬間になるので運がよければ全身がギリギリ写るが、大抵は足しか写らないことになる。
 
 現実には、一秒間に100枚の写真が撮れるカメラなんてないから、それらを別々に写すことになり、まずカメラに接続した赤外線センサーをカエルが上半身を浮かしたら反応するような位置にセットして、一枚目の写真を撮る。
 次に、赤外線センサーの反応速度を調整し、1/100秒遅くシャッターが切れるにようして、昨日のような写真を撮る。
 1/100秒単位で瞬間を切り取るわけだから、とても繊細な作業になるし、細かいことが嫌いな僕には、辛い作業になる。
 僕は、自分の写真に合格基準のようなものを自分なりに設け、たとえ撮影した写真がプロの市場で通用すると思っても、基準を満たさないものは迷わず捨てる。だが、今回のアマガエルのジャンプの写真に関しては基準をずっと下げて、まだ70%くらいの出来ではあったが、合格とすることにした。
 昨日の撮影には、10時間弱の時間を要したが、それが僕の集中力の限界だったのである。
 ただ、また来年、チャレンジしようと思う。来年は、今年撮影をしながら状況を徹底して分析した10時間の上に積み上げることになるので、もっと短い時間で写真が撮れるだろうと思う。不得手な撮影ではあるが、一年に一度のイベントにして、少しずつ慣れていこうと思う。

 さて、今回のアマガエルのジャンプの撮影は、上の画像の透明なケースの中で行った。
 このケースを使用する以前は、ジャンプを終えたアマガエルがあちこち逃げ回り、それを捕まえるために追い回すことでアマガエルに余分なストレスを与えていたので、まずその点を改善しようと考えた。
 ただそれだけではもったいないから、今度はこのケースの中でアマガエルを長期間飼育して、ケースに慣らした上で、より難しいシーンを撮影してみたい。
 例えば、長期間このケースで飼育すれば、ケースの中にアマガエルのお気に入りの場所ができると思う。その上で、その場所でピンセットから餌を食べるように飼いならせば、食べ物を口に収める瞬間の写真などが撮影できる可能性があると思う。
 (CanonEOS20D 90mm ストロボ)
 (CanonEOS5D 20mm)

 

2006.9.7(木) 瞬間写真

 生き物の撮影と言っても、すべてが楽しいわけではない。
 どうしても気が乗らない撮影もあり、たとえば僕の場合は、今日の画像のような、瞬間写真と呼ばれている撮影が楽しくない。
 ただ、大抵の物事は、人は誰しも上手くなれば、ある程度は楽しいと感じるようになるものだから、好き嫌いはそこそこ上達してから口にすべきだと僕は考える。そして瞬間写真に関しても、多少の練習をつみ、最低限のレベルは維持できているつもりだが、それでもやっぱり楽しくないのだから、この苦痛は本物ではないだろうか?

 今日の撮影の場合は、僕はまず複雑な機械をセットして、あとはカエルを葉っぱの上に置いて、ジャンプをするのを待った。
 カエルがジャンプをすると、赤外線センサーがそれを感知して自動的にカメラのシャッターを切る。
 一度カエルがジャンプをしたら、その際に撮影できた画像を確認して、場合によっては多少の修正を加え、またカエルを同じ位置におく。これを何度も何度も延々繰り返す。
 正直に言うと、何度も何度もジャンプさせられるカエルがかわいそうだなと思う。カエルは瞬発力の生き物で、そんなに持久力があるわけではないから、泳ぎにしても、ジャンプにしても、何度も繰り返させると意外になほどすぐに疲れる。また、人の手で触れられることも、大きなストレスになるに違いない。
 だが、
「じゃあ、やめろよ。」
 と言う方もおられるだろうが、僕の写真は小さな子供たちが見るものだから、アマガエルのような身近で代表的な生き物の、代表的な瞬間を写し止めた写真が世の中に存在しないということも、何か欠けているような気がするのである。

 僕は、日ごろ、大人が何でも教育の題材にしてしまうことには抵抗を感じる。
 例えば食育という言葉があるが、食べ物は理屈よりも、おいしいから食べるのではないか?と思う。
 また、「命の大切さを教える」などと称して、自然を道徳教育の題材にしか考えない人も多いが、自然は面白いものであり、それをなぜ堅苦しい教材にしてしまうのだろう?と、思う。
 読書だってそう。だから、僕は、「本を読みなさい!」と大人が子供に強調することがあまり好きではないが、小さな子供が生き物に関する本を読むことは非常にいい事、いや、絶対に健全で素晴らしい機会だと信じるし、やっぱり生き物の本が、誰か手に取りたい人のために、一通り揃っているべきだと思う。
 やっぱり、写真が必要なのである。

 さて、今日は初めて、デジタルカメラを使用して瞬間写真を撮ったが、午前中に撮影をはじめて、終わったのは夕刻。かなり苦戦したが、その結果、デジタルカメラが十分に通用することが分かった。
 (CanonEOS20D 90mm ストロボ)

 

2006.9.6(水) 特殊な撮影方法

 明日は、この画像にカエルがジャンプをする予定になっている。
 俗に、瞬間写真などと呼ばれているが、生き物の動きの瞬間を特殊な機材で写しとめる撮影を予定している。
 カメラ+レンズに、生き物の動きを感知する赤外線センサー、センサーの利き方を調整する遅延装置、センサーに反応して動くレンズシャッターと呼ばれる部品、ストロボが複数、それらを接続するコードが多数・・・それらをすべて接続し、作動を確認するだけで数時間を要した。
 やたらに部品が多いが、現行のデジタルカメラの設計者は、そうした使われ方は全く想定していないだろうから、デジタルカメラで撮影するには、やや工夫を要する。

 工夫を要するなどとえらそうなことを書いたが、自分が思い描く工夫を施した状態でまだ試していないのだから、正直に言うと、明日は思い通りの撮影ができる自信はない。
 その場合は、フィルムを使用せざるを得ないだろう。
 ただ、フィルムの場合は、現像しなければ結果が分からないのである。
 特殊な撮影には、やはり常に苦労がつきまとう。

 (撮影機材の話)
 イメージセンサーにゴミが入り込み、修理に出したイオス5Dの代わりに、借り物の別のイオス5Dを使用してみたら、それはそれでゴミが目立つ。
 そこで、なぜだろう?と考えてみたら、原因が分かった。
 今日の画像は、絞りを14まで絞った上で、バックをシンプルにするために、背景に緑色の紙を当てている。
 つまり、背景が無地に近い絵柄であることと、絞りが絞り込まれていることの、ゴミが目立つ2つの条件が重なってしまっているのである。
 通常ボケを生かした写真を撮る場合、レンズの絞りは開放に近い。したがって、ボケの部分が無地に近い状態になっていても、絞り込まれていないからイメージセンサー上のゴミは目立たなくなる。
 また一般的な撮影でレンズを絞り込めば、ゴミは目立つようになるのだろうが、同時に被写界深度が深くなり、物がはっきりと描写され、ゴミと絵柄とが重なり、大抵のゴミは見えなくなる。
 今回は、デジタルカメラをしっかりとメインテナンスしているにも関わらず、ゴミがどうしても目立ってしまうトラブルに見舞われているわけだが、その原因は、特殊な撮影方法にあったわけである。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.9.5(火) 自分に合ったやり方

 今シーズンは、とにかく毎日短時間でもいいから野外で撮影するつもりでいたのだが、やはり仕事が立て込んできて、それどころではなくなってきた。
 同じ自然写真家でも、人によって請け負っている仕事が違うから、そこのところは自分に合ったやり方を見出すしかないのだろう。
 僕は子供向けの月刊誌の仕事を引き受けることがあるが、例えば、月刊の6月号であれば写真を何月までに納めなければならないと必然的に決まる。そのタイミングは大体どこの出版社でも似たり寄ったりで、したがって各社から多く仕事の依頼が寄せられる時期というのがあり、その時期はやはり忙しくなってしまう。

 自分に合ったやり方と書くと、何か自分に選択権があるような印象を与えるかもしれない。
 だが、現実には僕の場合はそうではなくて、世間が僕にどんな役割を与えようとするのか、それが僕の撮影スタイルをほぼ100%決めていると言ってもいい。
 もっと違った書き方をすれば、流れに身を任せ、流されて、その結果漂着した場所で今の仕事をしているようなものである。
 
 最近は、ひたすらに自分の理想を追いかけることを良しとして、そうして流されることを、つまらないことだと見る向きがある。
 また
「俺には俺のテーマがある!俺にはそんな悠長なことをしている時間はない!」
 と流されることを拒否する写真家志願者も少なくない。
 だがそうして流されることを拒否した連中の多くが、僕の知り得る範囲の話でしかないが、今では写真をほぼ辞めてしまった状態に陥っている。
 そうした有様を目の当たりにして、人はある時期、そうして流されつつ、いろいろな物を見てみる期間が必要なのではないか?と、僕は最近感じるようになった。
 実は僕も、寸分違わぬ理想を追い求めようと考えていた時期がある。だが、そんな僕に、
「まず出来る仕事からやってみたらどうだい?売れやすいシーンというのがあるから、それから撮ってみるのが一番早く写真で食えるようになる方法だよ。」
 とアドバイスをしてくださったのは、昆虫写真の海野和男先生である。そのアドバイスが正しかったのだと、最近しみじみ感じる。
 実は肝心なのはこれからなのではないだろうか?と思う。
 「まず出来ることをやってみる」が、「いつまでも出来ることしかやらない」にならないようにすることこそが、夢を追いかけることではないだろうか?
 そのためにも、自分に合ったやり方を少しずつ見出して行きたい。
 
 さて、一昨日、夕食にラーメンを食べたら、翌日は腹が痛くなった。僕は、とんこつラーメンを食べると、なぜかほぼ100%腹を壊すのである。
 だから、昨日は帰宅をして、ご飯と味噌汁と煮付けなど、体にやさしい食事を食べようと思っていたら、帰宅直前に、今シーズン中に撮らなければならないシーンが目の前で始まり、ほぼ夜を徹して撮影をすることになった。
 帰宅をするつもりだったから、当然食事の調達が出来ていないし、冷蔵庫の中にあるものでしのごうと思ったら、炊事場の窓にヤモリが張り付いているのを見つけた。
(CanonEOS5D 28mm)

 

2006.9.4(月) ゴミ問題-2 

 ある時、インターネット上のカメラ関係のスペースに、ある女性の写真家のインタビュー記事が載ったら、たくさんのコメントが付き、中には、その写真家をひどく中傷するものも少なくなかった。
 しばらくしたら、やはり女性写真家で、今度は知人の記事が載ったのだが、またまたひどく中傷されるのではないか?と、余計なお世話ながら僕が心配になった。
 結果は、今度は一転してほとんどコメントが付かず盛り上がらなかったのだが、その方が安心できて、僕には良かった。
 さまざまな意見を述べることができるというのも、また不自由なものだなぁと感じる機会が、明らかに増えた。

 先日、テレビで、野球の王貞治監督が、癌の手術後食事の指導を受けていた病院から一泊だけ外泊することになったと報じられたが、そうして細かなことまで報じられる立場の著名人は、人が簡単に発信できるようになった分、中傷にさらされる機会も、そうとうに多くなっているのではないだろうか?
 その王貞治さんが、福岡へダイエーホークスの監督としてやってきてからもう10年以上が経ったが、僕は最初、「特に気のきいた作戦を用いるわけでもなく、なんて面白くない野球をする人なんだろう!」とつまらなく感じた。
 だが、やがてホークスが強くなった。
 毎年確実に優勝争いをするようになり、そうなるとホークスの試合の中継を見ることも多くなった。王監督の采配が変わったわけではないと思うが、いい選手が多くなり、強くなった。
 試合を眺めていて、
「なるほどなぁ。」
 と、感じることがある。王監督は、気の利いた面白い采配をするのではなくて、一生懸命野球に取り組む選手を育てることで、チームを強くしようとしていたのだなぁと。
 
 僕は、最近、自然写真の世界も、くさい言葉だけれども、腰を据えて一生懸命取り組む、これに尽きるのではないか?と思う。
 自然写真に限らず、僕の身の回りには、何人かプロの写真家を志して活動を続けてきたものが存在するが、一人、また一人と続かなくなってきた。ちょうど今の僕くらいの年齢が、転職をするなら最後のチャンスになるからだろうか?
 だが、続いている仲間たちが、特別に才能に恵まれているわけではないと僕は感じるし、ただ腰を据えて一生懸命写真を撮っているだけなのである。

(撮影機材の話)
 昨日、ゴミ問題と書いたキヤノンのイオス5Dだが、あまりにゴミがひどいのでサービスセンターで掃除をしてもらうことにした。ついでに、キヤノンのセンサークリーニングキットを購入して帰ったが、ニコンとは全く別の方式で、ニコンよりも簡単で良さそうな印象を受ける。
 ただ、肝心なカメラが、どうしても取れないゴミがあるということで、イメージセンサーの交換をするために10日ほど入院することになってしまった。
 話を聞くと、ゴミがローパスフィルターとイメージセンサーの間に入り込むケースがあり、持ち込まれるカメラのうち1割はどうしてもゴミが取れないのだそうだ。決定的に目立つゴミではないが、それらのゴミが増えることはあっても減ることはないだろうし、イメージセンサーは高価な部品だから、保障が利く間に修理しておくことにした。
 どういう使い方をされたカメラが、そうしてゴミが入り込んでしまうのかは、メーカーでもよく分からないのだそうだ。
 僕には、その原因に関して心当たりがないわけではない。だが、想像のレベルの話なので、ここには書かずにおくから、詳しく知りたい方は、メールを送っていただければと思う。
 
 

2006.9.2〜3(土〜日) ゴミ問題-1 

 今日は、定番のシーンの撮影で、撮影を終え、画像を拡大してみたら、画像に小さなゴミがたくさん写りこんでいることが分かった。
 ゴミの正体は、デジタルカメラの内部のセンサーの表面に付着した小さな埃である。
 フィルムの場合は、フィルムを巻き上げると、フィルムの表面に付着するゴミも一緒に移動してしまうからそうした問題は生じなかったのだが、デジタルカメラになってからは、しっかりとした対策が施されているオリンパス以外のカメラを使うユーザーは、ほぼ全員が、このゴミ問題が多少なりとも気になっていると言ってもいいだろうと思う。

 僕は日ごろまめにメインテナンスをするので、実は今まで決定的にそれが気になった経験はなかったのだが、今日は、あまりにひどいので、ちょっと驚いた。カメラ内部の可動部などから、微細なチリのようなものがまとまった量発生したのだろうか?
 そうした場合は、パソコン上で撮影した画像を大きく拡大し、ゴミを一つず、画像処理ソフトで消していく。消せば、相当に大きなゴミでも、きれいに消える。
 だが、時間がかかる。
 おそらく、今日の場合、パソコン上でゴミ取りをするよりも、センサーを掃除したカメラで撮影自体をやり直した方が早いだろうと思った。
 だが・・・
 動きがあるシーンの場合、同じ写真はなかなか撮れないもので、被写体の表情やその他、やはり一期一会だ。どんなに画像処理に時間がかかったとしても、それらの写真を捨てる気にはなれないし、一度自分がOKを出した絵柄の画像に対しては、やっぱり思い入れがある。
 たとえ、それが定番の、型にはまった写真だったとしても。
 定番のシーンは、所詮人まねだから、僕は日ごろ定番のシーンにカメラを向けた場合は、画像は商品と割り切って特別な思い入れを持たないようにしているし、持たないつもりなのに、今日のようなアクシデントの際に、実は結構な思い入れがあることに気づかされる。

 さて、そうしたこともあるだろうから、あと一台、現在メインに使用しているイオス5Dが欲しいと思う。
 だが、イオス5Dは確か34万円くらいで購入し、まだ一年使用していないはずだ。一年あたり34万円はプロのカメラマンのフィルム代に換算すれば高くはないが、それでも、やっぱり手軽に注ぎ込める額ではない。 
 2年使用すれば一年あたり17万円だから、これなら非常に格安だし、恐らく来年は5Dの後継機が発表されるだろう。だから何とか、それまでイオス5D一台体制で踏ん張り、できれば新製品を買い、その結果、現在使用中のものとの2台体制にもって行きたいのだが・・・
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)

 

2006.9.01(金) D80 

 昨日、画像処理の作業中に、突然に画像がハードディスクへと保存できなくなった。
 故障ではない。ハードディスクが満タンになっていただけである。
 慌てて、近くの家電量販店へとハードディスクを買いに出掛けたら、250Gのものが14000円弱だから、安くなったものだと思う。
 250Gあれば、普通の趣味の写真なら、1200万画素のデジタルカメラを使用しても、一年は楽々、おそらく3〜4年は大丈夫なのではないだろうか。仮に、バックアップ用のハードディスクをあと1つ追加したとしても合計30000円弱。
 それを3年で割ると、一年あたり10000円だから、フィルム時代のスライドファイルなどを購入するのに比べても、ほぼ同程度の金額に収まるだろう。
 デジタルカメラの記録メディアも同様。ほんの1〜2年でグングン安くなり、今や2GのCFカードがメーカーを選ばなければ5000円くらいで買える。
 僕は、2GのCFカードを3枚、合計6G持ち歩き、過去にそれで容量が足りなくなったことはないから、安く上げようと思うのなら15000円分CFカードを買っておけばいいことになる。それが繰り返し使用できるのだから、フィルム代に比べると、何と安上がりなことか。
 ただ突然にハードディスクが満タンになると、その時の作業や仕事の内容によっては困るから、あと1つ予備に買っておこうか?と一瞬考えたのだが、こんな勢いで価格が下がっているのだから、予備を持つのではなく、やっぱり必要な時に買おうと考えを改めた。

 カメラも同じ。
 この冬は、北海道に水鳥の撮影に出掛けたい。
 昨年は、野鳥撮影用のカメラは、ニコンのD2X一台だったから、故障などを考えるとやや心もとない面があった。
 だから今年は、D80を一台買って予備として持っていこうかと思うのだが、いやいや、もしもカメラが壊れたら、その時に付近のカメラ屋さんでD80を買えばいいのではないか?という気もしてくる。
 デジタルカメラの場合は、日進月歩だから、なるべく必要なその時に新しいものを買ったほうがいい。
 長期取材の際にはパソコンも予備があと一台欲しいのだが、こちらはソフトをインストールしておかなければならないから、壊れた時に現地調達というわけにはいかないだろう。
 日進月歩になった分、今までの頭を捨てて賢く買い物をしなければ、やたらにお金がかかってしまうことになる。
 と書きつつ、D80が今すぐにでも欲しくて、さてどうしようか・・・
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2006年9月分


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