撮影日記 2006年08月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

2006.8.30〜31(水〜木)
 ストレス 

 生き物の撮影って、難しいなぁと思う。
 昨年山ほど撮影したアメリカザリガニだが、その時に、撮影用のモデルを大量に飼育をするための飼い方も、撮影の方法もそれなりに確立できているつもりでいたのに、今年も、やっぱり難しいと感じる。
 今日は、アメリカザリガニの体のパーツを撮影していたら、ザリガニが頭を掻き始めたので撮影してみた。
 飼育をしているとそういうシーンをよく見かけるが、いざ撮影しようと思うが案外難しくて、水槽の前に延々と座っていも、体の掃除が始まらないことの方が多い。
 ところが何かのついでに、こうして簡単に撮影できることもある。生き物の撮影は大抵そんなものなので、特殊な行動を狙って撮影するのは、しばしば非常に難しい。
 
 以前は、仕事の依頼がくると、嬉しい反面、どうやって依頼されたシーンを撮ろうか?と不安で、仕事の依頼は大きなストレスでもあった。それが、ある程度方法を確立した今でもやっぱり難しいと感じるのだから、当時の僕が不安になったのも無理はないなぁと今更ながら思う。
 最近は、
「生き物の撮影って誰が撮影しても難しいんだ!全力で仕事に取り組んで、それでも撮れない時はどうしようもないのだから謝ろう!」
 と多少は開き直れるようになった。依頼されたシーンを何とかして撮影するために、色々と頭を使い、観察し、試すことには今でも疲れるが、それ以外の部分で、不安で疲れるなどという状況には、滅多に陥らなくなった。

 仕事の依頼をひどく不安に感じていた時の僕は、まるで自分だけが特別な困難に直面しているかのような気持ちだった。僕にとっての特別な困難とは何だったのかは、近いうちに書いてみようと思う。
 それが先輩方の話を聞いたり、さらにさまざまな職種の人と話をしてみると、僕が気楽な仕事だと思い込んでいた職業に携わる人でも、誰でもストレスを抱え、苦心しながら仕事に取り組んでいることがよく分かった。楽に仕事をこなしている人など、ほとんどいないと言っても言い過ぎではない。
 自分だけが苦しんでいる訳ではないことを思い知らされた時、僕は少しだけ仕事の依頼が怖くなくなった。
 人と会う時間はやっぱり大切なんだなぁ〜と最近感じる。
 人と会っているその時間は間違いなく仕事をしていないのだが、そこで感じたこと、得られることが、より健全に仕事をするためには不可欠なのだと思う。
 それがないと、なんだか被害妄想になってしまったり、逆に、井の中の蛙状態に陥ってしまう。さらに、被害妄想と井の中の蛙が混在した、たちの悪い孤独に苛まることもある。人と会うことをわずらわしいと避ける人には、そんな症状に陥っている人を多く見かけるように感じる。
 昨日は、知人が家族でやってきた。
(CanonEOS5D 100ミリ ストロボ)
  
 

2006.8.29(火)
 愛情 

 先日、撮影用のアメリカザリガニをオスメス一匹ずつ水槽に入れておいた。今シーズンの秋は、主にアメリカザリガニの繁殖に関するシーンを撮影する予定だ。
 それぞれが隠れられるように、1つの水槽の中に隠れ家を2箇所作っておいたら、今朝は、1つの隠れ家の中に2匹のザリガニが篭っている水槽があった。
 アメリカザリガニは喧嘩っ早い生き物だが、ある時期、そうしてオスとメスが行動を共にすることがある。

 動物のそうした繁殖行動は、人間の愛情とは全く違うものなので同一視してはならないという人がいる。
 僕も、日ごろはその通りだと思うが、ふとした時には、
「そう大きくは違わないんじゃないか?」
 と感じる瞬間があり、二匹のアメリカザリガニの間に、まるで愛情のような何かが存在するかのように思える瞬間がある。
 ただし、多くの人が動物の繁殖行動と人の愛情とを同一視する時、それは大抵の場合、動物の繁殖行動を人の愛情のようなものだと考えるのだが、僕はその逆で、人が愛情だと言っているものが、実は、動物の繁殖行動とそう大きくは違わないのではないか?と時に感じる。
 ともあれ、アメリカザリガニには、じっくり飼育をしてみると、意外に人間っぽいところが多い。

 アメリカザリガニは、昆虫と同じ節足動物に分類され、ザリガニと昆虫とは、お互いにかなり近い関係にあると考えておいていい。
 だが僕は、アメリカザリガニの方が相当程度頭がいいように感じる。
 例えば、長い間飼い続けると、やがて餌をもらうことを覚え、水槽の前を通っただけで、餌をねだるようなしぐさをするようになる。
 昆虫があまり学習しないのに対して、ザリガニはよく学習するように思う。

(撮影機材の話)
 アメリカザリガニの体色は、条件によっては非常に写真に写りにくい、撮影が難しい素材である。
 背景が暗い場合には、簡単にきれいに撮れるが、背景が明るいと、赤が黒っぽくつぶれてしまったり、逆にあの重々しい感じが失われ、スカスカな感じに写ったりする。
 そうした撮影が難しい素材にカメラを向ける場合には、カメラの画質が顕著に反映されるが、イオス5Dの画質はやっぱり凄い!
 今日の画像と同じような写真は昨年もたくさん写したから、その時の画像を新たな仕事に流用してもいいのだが、当時はまだイオス5Dが発売されておらず、APSサイズのセンサーを搭載したカメラを撮影に使用した。
 その結果、撮影した画像は及第点ではあるが、画質にはやや満足できない部分もあって、今回の仕事は新しいカメラで撮り直しをすることにした。 
(CanonEOS5D 100ミリ ストロボ)

 

2006.8.28(月)
 夢の実現 

 僕は比較的目線が低い写真が好きだから、水槽撮影でも目線を下げることが多い。
 僕が構えたカメラは、アメリカザリガニの目の高さよりも低い位置にあることが多い。
 目線を下げると、生き物が生き生きした感じに写る。
 だが同時に、今日の画像のように、アメリカザリガニの大きなハサミの先端が砂利の影になり、体の一部がどこか見えなくなることが多い。
 こうした写真を貸し出すと、
「ハサミが一部隠れているから・・・」
 と敬遠されることがあるが、そんな目で、過去に出版されたアメリカザリガニの本に目を通してみると、確かに、大きなハサミがよく見える写真が多い。
 生き物の息遣いが聞こえてきそうな雰囲気よりも、よく説明できている写真が選ばれている傾向にある。
 それでも僕は、目線が低い写真が好きだから、目線を下げる。目線を下げて撮影したアメリカザリガニの姿こそが、僕が子供の頃に見ていたアメリカザリガニだからだ。
 もちろん、時と場合によって、例えば、ハサミがテーマの本を作るのであれば、僕とて目線を上げるだろうと思うが。
 
 僕の写真の目線の低さからくる雰囲気がいい!と、好んで写真を使ってくださる編集者もおられるが、目線が低い写真を好む人には、生き物好きが多く、
「私は編集者よりも、自然写真家になりたかったなぁ〜。生まれ変わるなら今度は写真家だ!」
 などとおっしゃる方が多いように思う。
 僕としては、生まれ変わられては困る。写真家が増え、ライバルが増えるからではなくて、生き物の息遣いが感じられるような写真を選ぶ目を持っておられる方が出版業界からいなくなっては困るからである。
 最近僕は、写真家も、編集やデザインのことを多少は知らなければならないと思う。
 だがそれ以上に、本作りに携わる編集者が、単なる編集をする人間ではなくて、同時に作家志向を持っていなければならないような気がする。時々自らが本を書いたり、絵を描いたり、創作活動をしておられる編集者がおられるが、そんなタイプの編集者にはワクワクした気持ちで写真を預けることができる。
 自然写真家などという存在は、恐らく放っておいても次々と出てくるだろうだから、極論を言えば、写真家なんてどうでもよくて、むしろ、自分も写真家になりたかったという編集者の方が、いい本を作るためには貴重な存在ではないか?などと思う。

 人は誰しも夢の実現を望むが、世間で貴重なのは、意外にもそれが叶わなかった人の中にいるような気がして、ハッとさせられることが最近多い。
(CanonEOS5D 100ミリ ストロボ)
 
 

2006.8.24〜25(木〜金)
 アオハダトンボ 

 僕は、あれやこれやと、一日にたくさんの種類の生き物の写真を撮りたいタイプではない。
 これぞ!と決めた一種類に的を絞り、徹底してカメラを向けることが多い。
 この日はアオハダトンボに決めた。
 アオハダトンボはハグロトンボとよく似ているが、胴体の青く輝く部分がハグロトンボよりも広いのが、その名前の由来なのだそうだ。

「怪しからんな!」
 とまず思った。
 アオハダトンボの実物を見ると、ハグロトンボとは胴体の輝き方が明らかに違うような印象を受けるが、トンボの図鑑を見ても、アオハダトンボとハグロトンボの違いがしっかりと感じられる写真は皆無なのである。
「あんな紛らわしい写真を載せられては、調べようと思った人に、難しい!という印象を与えるだけでは終わってしまうのではないか?よし、今日は、ハグロトンボとの違いが素人にもよく分かるアオハダトンボの写真を撮ろう!」
 と、いつもにも増して気合が入る。
 ところが、撮っても撮っても、それが写らないのである。とうとう納得できる写真が撮れないまま、目の前にたくさんのアオハダトンボがいるにもかかわらずギブアップ。
「なるほどなぁ〜」
 金属光沢のある微妙な色合いを写真で表現するのは、なかなか難しいようである。
 
 アオハダトンボの撮影を切り上げて、鴨の炭火焼を食べることにした。
 1パック500円。
 地鶏に近い濃厚な味だが、ずっと柔らかい。こいつは美味い!
 がしかし、食べ過ぎて後で腹が痛くなる運命が待っていようとは・・・
 しかも昼食に肉しか食べなかったからだろう、腹が痛くなっただけでなく、力が入らなくなった。
 僕は、日ごろ食事の際に、栄養!栄養!とあまりこだわられるのは好きではない。食べ物はおいしいのが一番だと思う。だが、やっぱり炭水化物を摂取しなければ、燃料切れを起こしてしまうようだ。

 さて、腹が痛い!しかも力も出なくて撮影どころではない。
 かと言って、横になって過ごすのもなんだし、横着だが一番疲れない方法で写真を撮ることにした。
 その方法とは、300ミリの望遠レンズに一脚を取り付けて、遠くからトンボを撮影する方法だ。300ミリレンズで撮影すれば、トンボに逃げられることもないし、適当にどこかに座り、近くに止まるトンボにカメラを向けて撮影してもいい。
 望遠レンズのボケ効果で、簡単に画面が整理できてしまう。
 
 キヤノンの300ミリF4の場合、一番被写体に近づいた状態で、上の画像程度の大きさにトンボが写る。
 ただしこれはイオス5Dで撮影した場合の話なので、APSサイズのセンサーを搭載したカメラならもっと大きく写ることになる。
 僕は以前に、
「200マクロってどうよ?」
 と、何度か知人から相談を持ちかけられたことがあるが、その際には、被写体にもよるが300ミリを勧めた。
 その結果300ミリを購入した連中からは、
「いや〜あんたのアドバイス聞いて良かったよ!300ミリで小動物を撮影したら、簡単に絵になるね。」
 と感謝をされたが、こんな写真が簡単に撮れるのである。
 因みに、一番最初のアオハダトンボの画像も300ミリである。
 こちらは、アオハダトンボの光沢を写し取るためにはどうしたらいいのか?300ミリレンズから魚眼レンズまで、手持ちのすべての機材を試した中の一枚だった。望遠レンズのボケ効果を使うと、光沢も比較的よく表現できる。

 まるで僕の腹具合のように、ゴロゴロと雷が鳴り続いた一日だった。
 ふと、黒い雷雲の上に、面白い形の雲を見つけたのでカメラを向けてみた。車を安全な路肩に止め、カメラを取り出す間にかなり形が変わってしまったのだが、黒い雲の上から人が上半身を出し、
「お〜い」
 と叫んでいるように見えた。
(CanonEOS5D 300ミリ ストロボ)
(CanonEOS5D 15ミリ ストロボ)
(CanonEOS5D 300ミリ ストロボ)
(CanonEOS5D 300ミリ ストロボ)
(CanonEOS5D 70〜200ミリ)

 

2006.8.22〜23(火〜水)
 好きであり続ける 

 僕は将棋というゲームに、子供の頃に夢中になり、結構な影響を受けた。今では全く将棋を指すことはないけれども、棋士がテレビの番組に出演していたらよく見るし、雑誌などの中で文章を書いているのを見つけたら、大抵読む。
 先日は、羽生さんがテレビに出演しているのを見たが、プロの棋士が将棋を好きであり続けることは、とても難しいのだそうだ。
 将棋が強い弱いとは別に、プロになり四六時中将棋のことを考えていても、まだ将棋を好きであり続けることができる人は、ある意味、才能があるのではないか?と、本当にしみじみ語っておられた。
  
 それは写真にも、かなりの部分、当てはまることだろうと思う。
 どんなに自然や写真が好きでプロを志したとしても、同じ事をしていたら必ず飽きるし、常に自分の方が変化し、自分をワクワクさせてくれる何を見つけていかなければならない。
 先生と呼ばれているような人の写真でも、僕の目から見て、この人飽きているな!と感じさせる人は決して少なくない。
「この人のようになりたい!」
 と、僕がプロを志すきっかけになった昆虫写真の海野先生は、年を取れば取るほどに生き生きしているように見え、僕もそうなりたいものだなぁと思う。だが、その海野先生が、
「30〜40代の時間って貴重だよ!いいなぁ、若いって。最近やっぱり疲れを感じるんだ。」
 という。
 だが僕の目から見れば、
「それは、あれだけエネルギッシュに仕事すれば、疲れて当たり前だと思うのですが・・・・」
 の一言。むしろ、自分も含めて、僕の身の回りの同世代の写真仲間が、海野先生の馬力に敵う気がしない。
 
 以前にも、ちらりと書いたことがある。
 誰よりも生き生きした写真を見せてくださるある先輩が、
「やっぱり飽きるよ。」
 と、何気に話してくださったことがある。
 僕の目には、誰よりもエネルギッシュに映る人や、誰よりも楽しそうに写真を撮っている人がそう言うのだから、何にせよ、嬉々として続けるのは、なかなか難しいことのようだ。
 僕は写真の技術のことを教えてもらうよりも、そうした体験を聞かせてもらえることの方がさらにありがたいと感じることが多い。
 
 さて、この冬も北海道で野鳥の写真を撮ろう!と思った途端に、
「ヨッシャー、張り切って仕事して、時間作るぞ!」
 と、なんだか楽しくなってきた。
 今日は、そのつもりでこの夏の終わり〜秋にかけての計画を練り直した。
 とにかくこの秋のアメリカザリガニの撮影を順調に進めることが肝心。
 臭い言葉だが、がんばろうと思う。

 

2006.8.21(月)
 秋の撮影の準備 

 今シーズンは、すこぶる快調という訳ではないのに、結果だけは、どこで撮影しても比較的よくついてくる。よく考えてみれば集中を維持できない時間も結構長いが、ここぞ!という状況になると、それまでの自分が嘘みたいに、すんなりと、うまく集中でき、比較的よく物が見えるのである。
 それをなぜだろう?と考えてみると、この1〜2月に約ひと月、北日本〜北海道へと水鳥の撮影にでかけたことが大きいように思う。それが具体的にどう作用したのか?と言われれば困るが、その車内に寝泊りしたひと月の間に、少しだけ何かが吹っ切れて、心が自由になれたような気がする。
 車の中だからインターネットに接続できる高速回線もないし、仕事の依頼にこたえることもできない。エンジンを切れば真っ暗で本を読むこともできず、早く寝て、早く起きて、あとは写真を撮るだけ。 
 そんな単純な時間が、とにかく心にいい作用を与えてくれたような気がする。
 ひと月留守をする直前と帰宅直後の忙しさには、相当に参ったが、来年も何とかして時間を作り、また冬鳥の取材に、北日本へと出掛けようと目論んでいる。
 きっとそんな時間も、長い目で見ると不可欠なのだと思う。
 目先の仕事のことばかり考え過ぎるのではなくて、10年先、20年先の自分のために、もっといろいろな物を見る機会を、時には思い切って作っていこうと思う。
 
 そのためには、この秋〜冬に予定している撮影を確実にこなさなければならない。すると、もうこの時期に、秋の撮影の準備に取り掛からなければならない。
 今シーズンの秋は、スタジオでは、アメリカザリガニの繁殖に関するシーンを徹底して撮影するつもりでいる。
 野外では、まず赤とんぼの仲間にカメラを向ける。
 そして、山陰地方にすむゴギという岩魚の仲間の産卵行動を撮影したいのだが、こちらは一筋縄ではいかない可能性が高い。まずその場所は、比較的よくツキノワグマが出没するポイントなので、その対策を考えなければならないだろう。それから、水中で繰り広げられるシーンを数時間待って撮影するのだから、機材の問題もある。

 

2006.8.20(日)
 うまく使い分ける 

(撮影機材の話-2)
 今日は訳あって、博多の町へと出掛け、ほんの数枚だがクマゼミの写真を撮った。
 その訳については、いずれ書く日がくるだろうと思う。
 クマゼミは2004年にたくさん撮影してすでに本になっているが、その時に、今日の撮影に使用したようなフルサイズのイメージセンサーを搭載したデジタルカメラが手元にあったらなぁとしみじみ感じた。
 広角レンズを使用した撮影の場合、APSサイズのセンサーのカメラと、35ミリ判フルサイズのセンサーのカメラとで結構な画質の差を感じるのである。
 
 一方で望遠レンズの場合は、その差をほとんど感じなくなる。
 今日は、博多から帰宅後に、600ミリレンズにニコンのD2Xとキヤノンのイオス5Dを取り付け、その画質を改めて比較してみた。ただしD2Xとイオス5Dとでは画角が異なるので、5Dの方には1.4倍のテレコンバーターを使った。
 結果は、全く互角。
 画質に差がないのなら、テレコンバーターを使わずに済み、明るいf値が使えるD2Xの方が、僕の場合は都合がいい。
 だが、もしもイオス5Dにテレコンバーターを使用せずに、代わりにD2Xと同じ大きさに写る距離まで近づいて撮影すれば、これはイオス5Dの方に軍配が降りることになるだろう。
 つまり、楽に近づける被写体の場合は、35ミリ判フルサイズのセンサーのカメラがいい。
 だが、近づけない被写体の場合は、APSサイズのセンサーのカメラがいい。
 拡大撮影の場合にも、似たような結果が得られたことは昨日書いた。
 どうも、うまく使い分けることが肝心なようだ。

 ついでに、昨日買ってきたオリンパスのレンズを試してみたら、思ったよりもよく写ることが分かった。
 唯一の難は周辺光量落ちで、フルサイズのイメージセンサーを搭載したカメラで使用すると相当に目立つ。
 だが、このレンズは水中撮影で小動物を撮影する際にのみ使用する予定で、風景写真のような厳密な描写が求められる状況で使うつもりはない。
 周辺部だけをソフト的に明るくすれば、問題はないだろうと思う。
(CanonEOS5D ストロボ)
(CanonEOS5D 21o)

 

2006.8.19(土)
 21ミリf2 

(撮影機材の話-1)
 どちらがついでなのか、自分でもよく分からないのだが、昨日山口県の公衆便所でアマガエルを採集するついでに、下関で高速道路を降り、知人が勤める大手カメラ屋に立ち寄って、中古のレンズを一本購入してきた。
 今回購入したのは、古いオリンパスの21ミリf2というレンズで、21ミリでありながら20センチまで被写体に近づけるという特徴を持つ。それを水中撮影に使用して、田んぼのオタマジャクシや浅い水辺のヤゴなどの撮影に使用してみようと思う。
 水中撮影と言えばだいたい大掛かりになるが、それを気楽に撮影できるシステムも整えてあるし、来年のオタマジャクシのシーズンが今から待ち遠しい。
 シグマ社からも近いスペックのレンズが発売されているが、こちらは馬鹿でかくて、今回の僕の撮影には使いにくい。
 また同じオリンパスの21ミリf3.5というレンズを知人が持っていて、貸してくださるというので、それらも使ってみて、どちらがより良い描写をするのか試してみたい。

 撮影に使用するカメラはキヤノンのイオス5Dだ。
 僕は時々ニコンのレンズをイオス5Dに取り付けて使用するが、キヤノンのカメラには、オリンパスのレンズも取り付けることが出来る。
 イオス5Dは30万円以上したけれども、買って本当に正解だった。昨年僕が下したあらゆる判断の中で、もっともいい判断だったのではないか?とさえ思う。
 他社のレンズを取り付けられること。フルサイズセンサーの画質の良さ。キヤノンのAFの使いやすさ。そして5Dくらいの画質が得られれば、新しい機種が発売されてもそう簡単に古くなってしまうこともない。
 もちろん、5Dとて万能ではない。先日、トンボの孵化の様子を撮影したが、その際には、キヤノンのイオス20Dを使用してみた。すると拡大倍率が高い場合は、必ずしもフルサイズセンサーのカメラの画質がいいとは限らないことが分かった。その撮影に関しては、5Dよりも20Dの方が画質が良かった。
 そんなこともあるだろうとは思うが、その際にも、自社でイメージセンサーを開発しているキヤノンの場合、5Dと20Dの発色や画質が似通っているので、実に扱い易い。
 レンズにしても、F値が暗くて価格は安いが、作りが高級で高画質なズームレンズが17ミリ〜200ミリまでそろっていて、他社の半分くらいの金額で、最高の画質のレンズを購入することが出来る。
 もちろん、他社のカメラにもそれなりの良さがあるが、システムとして完成されているキヤノンのカメラを使うのが、結局一番安上がりだという結論に僕は達した。

 ただ、よくインターネット上でよく叫ばれる、「キヤノンのカメラの画質がいい」という点には、一部の特殊な条件を除いて、僕はあまり賛同していない。
 その特殊な条件とは高感度撮影だが、一般的な撮影で、カメラのセンサーのサイズがほぼ同じであれば、ニコンやペンタックスのカメラが、少しでもキヤノンのEOS20Dあたりよりも劣るとは思わない。
 僕がキヤノンを主に使用するようになった理由は、システムとしての完成度なのである。

 

2006.8.17〜18(金)
 掴んだ! 

 先日、アマガエルの泳ぎの写真を野外で撮影したが、今度はスタジオで撮ってみた。
 前回は、真上から、そして足を伸ばしたり縮めたりす様子をまるで細かく分析するかのように写真に撮った。
 今回は、少しでも雰囲気のある写真に仕上げることを心がけた。
 何枚かの写真を組み合わせてアマガエルの泳ぎを解説するのではなくて、一枚で見せようとする写真だ。

 昨日もアマガエルの動きのあるシーンにカメラを向けたが、昨日〜今日は、昨年までは考えもしなかったテクニックを使用したみた。
 結果は上出来。
掴んだ!
 という実感が得られた。
 アマガエルの泳ぎに関しては、過去に何度もスタジオ内でカメラを向けた経験があるが、どうしても納得できる写真が撮れずに、結局それらの写真はすべてお蔵入りさせた。
 仕方がないから、代わりに、野外で撮影した写真を使ってきた。
 だがそれを、たった1つのテクニックで解決することができた。 
 写真はたくさん撮影するうちに、少しずつ上達することが多く、何かを掴んだ!というような劇的な感触が得られることは、一年に一度もないような気がする。
 
 さて、せっかく要領をつかめたのだから、山ほど泳ぎのシーンを撮影したいところだが、アマガエルは非常にデリケートで、ストレスがかかると体色が悪くなってしまう。
 今日は午前中に、以前から飼育してきたアマガエルをモデルにして泳ぎのシーンを撮影してみたが、昨日からいろいろと撮影で手に触れてきたためか何だから体色がすぐれない。
 そこで、別のカエルを採集するために山口県へとでかけた。
 場所は、ある公衆便所。
 そのトイレでは、照明に集まる虫を食べるためにアマガエルがいつも数匹、中に入り込んでいる。
 トイレの壁はベージュ。するとアマガエルの反応は2つあり、1つはベージュっぽい色合いになり、あとの1つはそれでも鮮やかな緑色になる。
 アマガエルと言えば、出版物の中でのイメージは黄緑色であろう。だから、僕はそこで鮮やかな緑色のものを捕まえてかえる。
 ベージュの壁の上でも緑色を維持するアマガエルは、緑色になることが好きなカエルであり、飼育下や撮影の最中でも鮮やかな緑色を維持する傾向がある。
 そうでないものを捕まえて帰ると、飼育ケースでしばらく買うと、常に茶色っぽい色合いを維持するようになったり、撮影中にだんだん色がくすんしまうのである。
 個体によっては、5分と撮影できないものもいる。
 その点、僕が某トイレから捕まえてかえるものは、1時間くらいは撮影できる。
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)

 

2006.8.16(水)
 自然写真家 

 僕が写真を覚えた頃は、自然写真家と言えば、生き物の生き様を紹介する写真を撮る人が多かったのだが、最近は、情緒的な目で自然にカメラを向ける人が増えた。
 もちろん、一人の写真家の中に、科学の目もあれば詩人の目もあり、誰かを生態派、情緒派と分けることはできないが、それでもやっぱり生態派と情緒派とがある。
 例えば、アマガエルにカメラを向ける。
 すると、スタジオでなければどうしても撮れないシーンがある。例をあげるのなら、卵の発生の様子を野外で撮影することは、まず不可能だろう。
 ある人は、アマガエルの卵をスタジオに持ち込む。
 またある人は、そこまでして撮りたいとは思わないと言う。
 スタジオ撮影ではなくても、例えば地中の生き物に興味を持つ。
 ある人は、穴を掘って、その生き物の写真を撮る。
 またある人は、そこまでしては撮らないと言う。
 そんな時に、その人が生態派なのか、情緒派なのかがはっきりするように思う。
 僕と同世代の写真家には、圧倒的に情緒派が多く、このまま行けば、科学的な、生き物の細かい生き様の写真を撮れる人は、やがてほとんどいなくなてしまうだろう。
 
 さて、昨晩〜今日は、トンボの孵化を撮影した。

 トンボは、孵化をして幼虫が卵から出てくると、すぐに脱皮を始める。

 卵から出てきたばかりの幼虫は、手足を閉じているが、孵化をした直後に最初の脱皮をすると、手足が開き、多くの人がイメージするヤゴの形になる。

 自然写真家の傾向が変わった理由は、いったいどこにあるのだろう?
 科学離れなのだろうか?それとも、情緒的な写真の需要が増したのだろうか?
 ただ、生き物の生き様を中心に撮影してみると、やっぱりそれが自然写真の王道であり、情緒的なだけの写真を撮る写真家は、将来バサッとリストラされる日がくるような気がする。
 なぜなら、自然について本当に一生懸命に考え、語ろうとすると、手段を問わず、生き物のライフサイクルを余すところなく見つめようとしなければ、本当の意味では何も語れないような気がするからだ。
 
 さて、一昨年、博多の町でクマゼミの写真を撮ったが、その取材の様子はテレビの30分番組になった。
 昨年は、そのクマゼミについて幾つかの問い合わせがあり、新聞にも載った。
 今年もやっぱり同じで問い合わせが多い。数日うちに、セミを解説するためにまた町へと出掛けることになった。
 僕の場合、カタツムリに関する問い合わせも少なくない。
 解説してもお金がもらえる訳ではないケースが圧倒的に多いが、興味を持ってもらえることは、お金うんぬん以前に嬉しいと思う。
 情緒的な写真を撮り、それが誰かのプライベートな世界で人を癒すのも悪くない。だが、社会から興味を持ってもらうことができ、自分の仕事が社会との接点を持つことは、やはり職業人としては格別の喜びだと感じる。
 今僕が出来ることの中には、人から教わらなくても自分で身につけることができたであろうと思われる事柄も多くある。だが一方で、先輩方から導いてもらわなかったら恐らく知りえなかった事象もあり、何人かの先輩が言い続けている「社会との接点を持とうとしなさい」という教えは、その1つなのだ。

 ・今月の水辺を更新しました。

(CanonEOS20D 65mm ストロボ)

 

2006.8.15(火)
 水路 

 生き物の写真は、大抵の場合、一発で撮れるものではない。
 あるシーンをイメージして、何度も何度もカメラを向けているうちに、ようやくイメージ通りの写真が撮れるケースが多い。
 それを執念深く撮るという意味に受け止める方もおられるが、必ずしもそうではなく、写真は撮ってみなければ、それがどう写るのかなかなか分からないのである。
 最初は、僕が下手糞だからそうなるのだと思った。だが、いろいろな人と話をしてみると、誰もそう大きくは違わないことが分かってきた。
 僕は、その中でも、どちらかというと時間をかける方だろうが、日ごろは、その過程で撮影した写真を見せることは滅多にない。だが今日は、初めてカメラを向けた場所での画像を、あえて載せてみることにした。
 最初の日は、ただの説明写真でいいから、まず写真を撮る。その具合を見て、次の一手を考える。 
 世の中にはやはり才能に恵まれた人も多くて、おそらく僕と一緒にこの場所で撮影をしたならば、アマチュアの人でも、僕よりもうまく撮る人は、たくさんおられるだろうと思う。
 でも、自分のボロイところを見せるのも、また面白いと思ったのである。
 
 この場所は、町のど真ん中を流れる水路だが、非常に魚が多い。画像は雷魚の子供で、同じ場所で数十センチある大人も見られる。数は相当に多い。

 こちらはコイ。50センチくらいだろうか。

 これはフナの群れで、小さな水路なのに、非常に数が多い。あたりの水草の中には、フナの子供やメダカが無数に見られる。
 最近は、水路で遊ぶ子供など滅多に見かけなくなったが、僕が子供の頃なら、みんなで網を持って掬いに行ったにちがいない。

 水路には、オオカナダモという水草がほぼ切れ目なく、びっしり繁茂している。オオカナダモは、細胞の観察に使用される有名な実験材料なので、高校で生物を勉強した人なら、一度は覚えた名前だろうと思う。
 水槽で水草を育てた経験がある人なら誰でも分かるだろうが、水草を水槽内で長い期間維持することは非常に難しい。
 ところが、数種類の水草に限って言うと、恐ろしいほどに丈夫で、水槽の中でもほとんど際限なく増える。その非常に丈夫な水草の代表格がこのオオカナダモで、今や日本の水辺を代表する水草だが、帰化生物である。
 僕は帰化生物は増やさないように注意を払う必要があると、基本的には考えている。
 だが、この場所を見て歩くと、本来はドブのようになっていてもおかしくない場所の水が意外にもきれいで、魚が多い。
 そこには、小魚たちの隠れ家としてのオオカナダモの役割や、水の浄化力が、間違いなく影響しているだろう。
 今や、帰化生物を考える時に、嫌うだけではなくて、そこまで考えなければならないのではないか?と、今日は、思いがけず考えさせられた一日になった。

 ・今月の水辺を更新しました。

(CanonEOS5D 17-40mm PLフィルター)
(CanonEOS5D 70-200mm)
(CanonEOS5D 300mm)

 

2006.8.14(月)
 スタジオの中には空はない 

 小動物の性質を紹介する写真を撮る場合、スタジオでなければ撮影が難しいシーンが多い。
 だが中には、逆にスタジオでは難しいシーンもあって、水辺で繰り広げられるシーンの中にはその手のものが少なくない。
 それを無理にスタジオで撮ると、何かおかしい!と、違和感を与える写真になる。

 スティーブン・ダルトンという非常に優れた写真家がイギリスにおられ、トカゲの仲間が水面を走るシーンをみごとに写しとめているが、スタジオで撮影されたその一枚の写真は、見れば見るほどに凄い!
 トカゲの躍動感。それから背景に横たわる木の枝の雰囲気。
 そして、その木の枝が水面に落とす影の暗さと、水面に映った空の明るさの明暗。
 でもちょっと待てよ?
 スタジオの中には空はないわけだから、スタジオ写真で、水面に空が写るはずがない。
 その一枚の写真は、水面に写り込む空までもを人工的に作ってしまったことになる。おそらく、大変に大掛かりな撮影セットだっただろうと推測される。
 つまり、水は周囲のものを映すから、たとえ水面だけを撮影しても、周囲にあるものが写ってしまうのである。多くの人は、そこまではの知識はないが、人の感覚は非常に優れていて、知識がなくても何かおかしい?と感じる直感を持ち合わせていることが多い。
 その違和感を全く感じさせないレベルにまでスタジオで作り上げるのは、並大抵のことではないし、僕らに与えられるお金ではちょっと難しいというのが現実的なところだ。
 ただそれでも、何か工夫して、少しでもいいものを撮りたいと思う。

 今日は、スタジオではなくて、屋外でアマガエルの泳ぎのシーンを撮影してみた。
 屋外では、スタジオ写真が感じさせるような違和感は生じにくいから、気楽に写真が撮れる。
 だが、このシーンを、絵としても雰囲気のある写真に仕上げようとすると、具体的には光をもっと柔らかく撮りたいのだが、それにはさまざまな物理的な制約が付きまとい、屋外では難しい。
 そこでスタジオへということになるが、水辺の場合は、先に書いたような水特有の難しさに悩まされることになる。
 そんな場合は、完璧ではなくてもいいから、並でいいから、
「アマガエルの泳ぎのシーンの写真を貸してください。」
 と言われて貸し出しができる写真を、まず撮っておくことが僕にとって大切なので、今日はまず屋外で写真を撮った。
 生物学の学生時代に、恩師からよく怒られた。
「君たちは、理想ばかり唱えて、結局何もやらない。できることを積み上げなさい」
 と。
 僕は、自分の人生をかけて仕事をしてみて、その意味が初めて理解できた。
(CanonEOS5D 100mm)
 
 

2006.8.12(土)
 特殊な撮影 

 水中写真といえば、僕は大抵の場合、カメラを専用のケースに収め、水に沈めて使用する。
 ところが水中ケースはどれも、大きくて、重たくて、大掛かりだから、荷物を持って歩く距離が長い場合には適さず、9日の水中写真は、それとは異なる別の、まったく安上がりな方法を試した結果だ。
 カメラはキヤノンのデジタルカメラだけれども、レンズはニコンの古いタイプのものをアダプターを介して使った。
 それは特殊な撮影だから、機材の側にさまざまな制約がかかり、その制約をクリアーできる道具が今のキヤノンにはなかったのである。
 まず最近のレンズは、以前のものに比べて口径が大きくなったのだが、特にそれが問題になった。古いニコンの場合でも、28ミリは全く問題がないが、でも20ミリではやや不具合が生じる。
 そこで、キヤノンに取り付けられる別のメーカーのレンズを検討してみたら、すでに製造されていないオリンパスの21ミリがスペック上は実にいい。
 ところが、あらゆる中古カメラ店を調べてみても、手ごろな21ミリの在庫がない。
 大抵の場合、カビの痕があるとか、傷があるとか、古くてモノコートタイプだとか・・・それでも、3万5千円から4万円程度の高値がついているから、欲しいという人が多いのだろう。
 結局、納得できる中古を見つけることができなかったし、短焦点のレンズに関しては、以前に比べてずっと製品の数が少なくなってしまった。

 その数日前には、顕微鏡と共通のマウントを持つ写真用のレンズを探した。
 これは、トンボの卵の発生をUPで、顕微鏡写真的に撮影するのに使いたかったのだが、現在ではその手のレンズはすべて製造中止になっていて、あらゆるメーカーのものを探したが、やっぱり見つけることが出来なかった。
 カメラが進歩して、写真が簡単になった反面、失われてしまったものも少なくないと、しみじみ感じた。

 トンボの卵のUPをなぜ撮影したくなったのか?と言えば、ある方が、僕にメダカの本を紹介してくださったのがきっかけだった。
「新しく出たメダカの本、見ました?」
「いや、まだ見ていないけど・・・なんで?」
「なかなかすごいですよ。特に卵の発生が」
 そこで早速本を取り寄せてみたら、確かにすごい。
 実に細密で、科学写真だけれども、その細密が単なる科学写真を芸術品に見せてしまうのである。
 それは顕微鏡写真なのかな?とも思うが、僕の経験から言うと、おそらく10倍程度の倍率だ。そして、僕が所属するSSPの会長でもある竹村さんの本を読んでみたら、10倍程度であれば顕微鏡ではない方がいいと書いてあり、幾つかの写真用の特殊レンズが紹介されていた。
 そのレンズの名前でインターネットで検索すると、海野先生のホームページがヒットした。
 先輩方が、いろいろなものを試してきたその様が目に浮かぶような気がした。
  
 

2006.8.10(木)
 資料 

 昨日、沼で撮影をした帰りに、町の役場に立ち寄ってみた。
 沼のほとりには自然歩道に関して解説をした看板がある。その看板の中に、役場の商工課に行けば沼の自然に関する資料が準備してあると一文かかれていて、その資料が欲しくなったのである。

「あの〜、沼に関する資料はありますか?」
「自然歩道のガイドしかありませんが、これでいいですか?」
「いえいえ、沼の看板に、詳しい資料があると書かれていたものですから・・・」
「ああ!ちょっと探しみます。時間がかかりそうだから、かけてお待ちください。」
 しばらくすると、
「コピーしかなくて申し訳ありませんが」
 と、10枚くらいの紙を手渡されたが、それがあまりにすばらしい内容で、僕は嬉しくなってしまった。
 元々はしっかり印刷されたパンフレットのようなものだったのだろうと思う。そしてすべて配布してしまい、その後は資料を欲しがる人も滅多になく、追加して刷りなおすことをしなかったのだろうと思う。
 昭和50年台の半ばに作られたもので、地元の中学校の先生がお書きになったものだった。
 おそらく得意分野は植物。植物については非常に細かく網羅されている。
 次が爬虫類、両生類。そして獣。
 獣ついては、イノシシのぬた場に関してかかれていたが、僕は昨日全くの偶然にその付近で写真を撮り、イノシシと鉢合わせをした。
 イノシシの姿を目にする以前から、獣のにおいがプンプン。どこかで嗅いだことがあるにおいだと思ったら、熊牧場の匂いだ。そして時々、森の中を落石が転げ落ちるような音が聞こえるが、実は落石ではなくて、イノシシが駆け回る音だ。
 虫と鳥には、あまり詳しくはなかったのではないだろうかと感じる。トンボは、ニシカワトンボとオオカワトンボの群生地だという点。それから、グンバイトンボが多産するという点だけが書かれていた。
 昨日画像を載せたヒメカイエビに関しては一切触れられていない。
 がしかし、一人でカバーできる生き物の種類には限界があるし、一人の人間が書いた内容としては驚きの一言。
 その資料には、何度でもそこに行ってみたい!と、僕を掻き立てる何かがあった。
 それから、イノシシのぬた場も、グンバイトンボも、沼の植物も、昭和50年台のまま。おそらく全く変化していないと思う。
 本当に心を打たれる。ああ凄い! 

 僕は資料を見る前に、先に沼の撮影をはじめた。
 最初は得意な生き物を見ていたのだが、次第に沼全体の環境が見えてきて、沼の中の自然のつながり、そしてさらに、沼の生い立ちに興味が湧いてきた。
 資料によると、沼の下(つまり土の中)は溶岩でできていて、非常に水を通しやすい構造になっているのだそうだ。
 したがって、沼の水は地中に染み込み、あたりにはそれが湧き出してくる湧き水が多いと書かれている。
 うん、確かにその通り。あたりを流れる何でもない水流が実に冷たくて、手を触れた瞬間にそれが湧き水であることが分かる。
 資料をすべて読み終えると、自分の足で歩き、目でみて知っていた部分が半分、でも気付かなかったことが半分ほどあった。
 もしも、この沼の写真が本にまとまる日がきたら、資料の著者に会いに行ってみたいと思う。
 それから、梅雨明け直後の一番水が多い時期に、是非空撮を試みてみたい。
 
 

2006.8.9(水)
 フラフラ 

 先月の22日に、ほとんど先端の付近まで水没した木を紹介したが、ここは元々沢だった場所が火山の噴火によって堰き止められ、雨の時期には沼に、それ以外の時期には湿原へと変化する特殊な環境である。
 今回は、僕がポイントに定めたこの木の周囲からはすっかり水が引き、写真は草原のように見えるが、まだそうとうに水気を含んでいて、木の根元の草をかきわけると、モリアオガエルのオタマジャクシが大量に見つかる。
 
 場所によっては、まだ大人も腰くらいの深さまで水が溜まっていて、梅雨の雨が降る以前はそこは草原だったから、本来は陸上で見られる植物が水に沈んだ状態で見られる。
 もうひと月くらい水没しているのだから、植物の適応力には、とにかく驚かされる。

 以前に、この場所から採集して持ちかえったヒメカイエビを紹介したことがあるが、今日は、カメラを水中に沈めて自然条件下で撮影してみた。難しいだろうとは思っていたが、予想以上。
 これぞ!という写真は、とうとう一枚も撮れずに終わった。ヒメカイエビをただシャープに写すだけで精一杯だったのである。

 さて、この場所へたどり着くには、登山道を1時間30分〜2時間程度歩かなければならないことは以前に書いたことがある。しかも、体にまとわり付く不快昆虫がやたらに多くて、登山道はジメッとして蒸し暑く、その道のりは時間以上にきつい。
 だけど、だから全くの手付かずで人が姿がないし、この場所で写真を撮る人にはまだ一人も出会ってない。
 初めてこの場所を訪れた時には、非常にいい場所を見つけた喜びと、だが、そこが半端ではなくきつい場所であるという恐れから、どうしよう?と、何とも言えない気持ちになった。
 だが色々と考えた結果、僕はこの場所の自然を紹介することをテーマとして定め、数え切れないくらい通うことに決めた。僕は才能に恵まれているタイプではなし、そもそも自然写真は志願した者だけが集まっているのだからやらされているのではないし、キツイと面倒くさいだけは、少なくとも撮影前には絶対に言わないようにしようと心に決めたのである。

 正直に言うと、初めは、続かない可能性もあると思った。
 それにはまず荷物の問題があった。この場所ではツキノワグマの写真が撮れる可能性があるが、すると300ミリレンズは常備しておきたいし、今日のように水中にも対応できるようにしたい。すると、荷物は絶対に軽くはならないから、まだ朝薄暗いうちに山へと入り、数時間写真を撮って下山をすると、半端ではない疲労が体に残る。
 行きと撮影中はいい。まだエネルギーが残っているから、
「きついくらいが充実感がある!」
 と毎回そう思う。
 だが、すべてのエネルギーを使い果たしたあとの帰りが・・・。
 恐らく僕の姿は遭難してフラフラになってしまった人のそれに近いのではないだろうか?まず三脚を、それからカメラを全部捨ててしまいたいような気持ちになるし、帰りの姿は、恥ずかしくて、人には見せられないなぁと思う。
 だが数日すると、また行ってもいいかなと、そんな気持ちになる。とにかく、それだけは分かったし、大変な自信になった。 
(CanonEOS5D 17-40mm PLフィルター)
(CanonEOS5D 20mm)
(CanonEOS5D 28mm)

 

2006.8.7(月)
 デジタルカメラの画質 

デジタルカメラの画質って、どうよ?」
 と、今でも時々たずねられるが、実は僕の方がそれを知りたいと思っている部分がある。
 僕は、最近、フィルムで撮影した写真を持っているケースでも、あえてデジタル画像を貸し出すし、すでに数百枚のデジタル画像を仕事で使用して印刷したが、僕が写真を提供する多くの媒体は印刷にものすごく拘るわけではないし、紙の質もあまり良いものではないケースが大半だから、デジタルカメラの真の実力が、まだ把握しきれてないのである。

「デジカメ雑誌を見れば分かるじゃないか?」
 という人もおられるだろう。だが、雑誌はいろいろな人の写真を掲載するし、人によって画像処理が異なり印刷のために十分な画像処理を施したデータを渡す人から、あまり処理をしない状態のデータを渡す人までさまざまなはずだ。
 それらを一斉に一冊の本の中に掲載されても、果たしてどこまでがデジカメの実力で、どこまでが画像処理の違いなのか?さらに、どこまでが撮影条件の良し悪しなのかなどが分からないし、むしろ見れば見るほど分からなくなる面がある。
 そこで、発売されたばかりの「デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真」という本をさっそく手に入れてみたが、僕と同じような疑問を持っている人には最適な本ではないだろうか?
 この本はタイトルからは想像できにくいが、一言で言えば教本ではなくて写真集だと思う。ただ昆虫について伝えるのではなくて、見ごたえのある写真を見せるということが意識されているので、デジタルデータを印刷した際の写真の画質についても、参考になるだろう。

 本を一通りみてまず最初に感じたことは、ニコンのD1Xの画質が大変に自然で見やすいことだ。悪い意味でのデジタルっぽさがない。D1Xは、相当に古いデジタルカメラだから、これにはとても驚かされた。
 それからニコンのD2Xは細密で色もいい。これいいじゃない!と思った写真には、D2Xにシグマの150ミリで撮影されたものが多かった。
 数枚キヤノンで撮影されたものも含まれていたが、キヤノンはきれいだけれども、色が浅い印象をやっぱり受ける。オリンパスは、色は力強いが、全体に荒いっぽいと感じる。
 しかし、いずれのカメラでも、紙や印刷の質が悪くなければ、デジタルだとかフィルムだと論じるのがアホらしくなるほど、十分すぎる画質が得られる。これは、僕が思っていた以上のクオリティーが得られることが分かった。
 ただ、ワイドレンズで撮影された画像は、やっぱりフィルムには及ばないと感じた。ワイドレンズをデジタルで使用して、フィルムに負けない画質を求めるのなら、35ミリ判フルサイズのイメージセンサーを搭載したカメラを使う他はなさそうだ。
 
 さて、8月末にキヤノンの新しいデジタルカメラの発表があるとの噂があり、今僕はキヤノンのとニコンとを使用しているが、その新製品を買って、やがてニコンを手放し、すべて機材をキヤノンに統一するのか、それとも併用を続けるのか、思案の真っ最中にある。
 本当は両方を持っておきたいが、両方の新製品を買い足していくと、倍お金がかかるから、そろそろ、お金がかからない体制を整えておきたい。
 そう考えると、キヤノンの方が将来が見通しやすいし、すでに35ミリ判フルサイズのイメージセンサーを搭載したカメラも発売されている。
「それならニコンの望遠レンズとデジタルカメラをセットで売って欲しい!」
 という人が数人おられるから、そっちの方向に心が傾きかけていたが・・・ニコンのカメラの機械としての完成度の高さには、捨てがたい魅力があり、そして今日、写真集に目を通してみて、益々迷うことになった。D2Xって、いいカメラだなぁ〜。

 

2006.8.5〜6(土〜日)
 ページメーカー 

 どこかの高原で赤とんぼの仲間を撮影しようと思い、準備万端に整えておいたら、昨晩遅くにふと目がさめて、
「そう言えば、月曜日に約束が入ってなかったけ?」
 と気が付いた。
 計画帳を開けてみると、本来明日の月曜日の欄に記載しなければならない約束を、間違えてよその欄に書き込んでいることが分かった。明日が忙しいのだから、赤とんぼの撮影のために数日出かけるどころではなかったのである。
 ここのところ撮影のNGが非常に多くて、やり直し、やり直しの連発だったから、計画を入れ替え差し替えして、やり繰りしなければならない機会が多かった。きっとその際に、約束事を別の日付に誤って移動してしまったのだろう。
 だから取材に出かけられなくなった今日は、急遽時間ができた。そこで、先日オークションで落札(7000円)した、ページメーカーというパソコン用のソフトの使い方を勉強してみた。
 ページメーカーは、簡単に言えば、パソコン上で本を作るためのソフトだ。
 
 僕は、今年になってから、ある湿地を本格的に撮影していることは、以前にも何度か書いたことがある。
 そこで撮影した写真は、小学校の低学年向けの本にしたいと思うのだが、さっそくページメーカーでレイアウトしてみると、さすがに専用のソフトだけあって使いやすいし、作業が楽しい。
 最初は、一般的な生き物の本と同じように、横書きで、左側から開いていく本にしてみた。
 すると、何だか僕の写真が中途半端に感じられる。
 何が中途半端なんだろう?と考えて見たら、それが物語なのか、それとも自然科学の知識の本なのかが、どうも分かりにくい。
 僕は、物語のつもりで写真を撮っているのだが、出来上がった見本は自然科学っぽい印象を与える。しかも、僕自身は自然科学の本ではないつもりだから、何だか踏み込み方が足りない、中途半端な自然科学さである。
 そこで、ソフト上で本の体裁を変更し、縦書きの、右側から開いていく本の形に整えて、それに合わせてレイアウトを変更し、さらに自然科学っぽい印象を与える写真を差し替えると、かなり形が現れてきた。まだまだ撮影は道半ばではあるが、そう遠くないうちに、どこかの出版社に持ち込める状態になるのではないか?と思う。
 すると、今度はまた新しいイメージが湧いてくるし気力が生まれる。今日は、思いがけず、大変に有意義な一日になった。

 さて、人によって、撮影に出かける準備の際に幸せを感じる人や、本が出来た時に幸せを感じる人や、本を作る作業の段階に幸せを感じる人などさまざまなようだが、僕の場合は、あまり机上での作業が好きではない。
 僕は生き物と向かい合い写真を撮っている時間が、何よりも幸せというタイプだ。
 だが専用のソフトがあるだけで、本来あまり好きではない類の作業を楽しいと感じることもある。道具なんてどうでもいい!と思うこともあるが、やっぱり道具っていいなぁと感じるjことがある。
 
 

2006.8.3〜4(木〜金)
 ついで 

 僕は、渓谷で撮影する時間が一番楽しい。
 渓谷に行くと、
「こんな写真ばかりとって、暮らしていければなぁ〜。」
 などと、ついつい考えてしまう。
 だが、各地の風景ばかりを撮影している人たちに聞いてみると、それはそれなりの苦しみがあるようで、例えば、写真で生活をするために、桜や富士のような、人気はあるが、ワンパターンで、もう飽き飽きしている被写体を必死になって追いかけなければならないのだそうだ。
 そして、これは小動物の撮影でも同じだが、風景写真でも、やっぱり暗い雰囲気の写真は敬遠され、青空が入っていたり、抜けのいい、スカッとした写真でなければ売れにくいようだ。
 僕が大好きな、ちょっぴり湿っぽい、暗い風景写真では、なかなか商売にはならないようである。

 僕の場合、風景写真は趣味だから、これまでは、無理をして、爽やか系の明るい雰囲気の写真を撮ろとうしたことはない。
 だが、趣味といっても発表しなければ意味がないし、発表の場を手に入れるためには、やっぱり商品価値がありそうな爽やか系の写真も撮らなければ何も始まらないのでは?と、最近は多少考えるようになった。
 ただ、そんな被写体を瞬時に見つける目を今のところ持ち合わせていないので、適当な被写体がなかなか目に飛び込んでこない。何にせよ、やはり練習をしなければ、お話にならないようだ。
 今回は、一枚だけ、これは商品価値があるのでは?と思える、爽やか系の水と緑の写真が撮れた。

 (撮影テクニックの話)
 時々、
「小動物を撮影する人って、なぜあんなにストロボを多用するのですか?」
 とたずねられる。そこにはしばしば、
「自然の光の方が、なだらかで、きれいじゃないですか!」
 と、ストロボを使うことに対する批判の気持ちが込められていることが多いように感じるが、僕の場合は、生き物の色を出すために、十分に明るい時にでもストロボを使用する。被写体の色は、一般にカメラの付近から光を当てた時に強く出るのである。
 スタジオでも、しばしばカメラの付近から被写体に対して光を当てることで色をより強く出し、そのような役割を持たせた照明を確か、色出しのライトなどと呼んでいたような気がするが、色出しのライトは、風景の写真を撮る人の場合であれば、偏光フィルターの役割に近い。
 偏光フィルターは、被写体の反射を消す役割をするが、反射が消えた結果、被写体の色が強く出る。
 つまり、色出しのライトが、カメラ側からの光を強めることで色を出すのに対して、偏光フィルターは、カメラ側からの光以外の光を弱めることで、相対的にカメラ側からの光を強める効果がある。
 ところが、偏光フィルターには、角度によっては、より被写体の反射を強める角度があるような気がする(よくよく確かめた訳ではないので、間違えかも)。
 上の画像では、その効果を使って、偏光フィルターによって水面のギラギラを強め、そのギラギラをスローシャッターで流すことによって、瀬の早い流れを表現してみた。

 さて、昨年、
「金魚が酸欠で口をパクパクさせている写真はありませんか?」
 と問い合わせがあり、手持ちの写真がなくて、リクエストにこたえられなかったことがあった。
 そこで、またいつか同じようなリクエストが来ることだろうと、今年のうちに金魚をあらかじめ撮影しておくことにした。
 そこでさっそくインターネットで調べて、安いお店で金魚を20〜30匹買おうとしたら、かつては子供のお小遣いでも買うことができた金魚が、いまや一部のマニアのためだけの商品になっているようで、どこのお店でも高級なものしか販売されていない。
 最近は、金魚の代わりにコアカと呼ばれているヒブナのような形の魚が熱帯魚の餌にするために大量に安く販売されており、金魚すくいにも、そのコアカが使われていることが多いのである。
 尾っぽがヒラヒラした金魚らしい金魚は、なんと一匹が数百円〜千円単位だった。
 だが金魚の産地に行けば、模様の具合で商品にならない、やがて肥料にされる金魚が安く手に入るに違いないと、昨日渓谷からの帰りに、熊本県の玉名郡にある金魚の産地に立ち寄り、安いものを手に入れてきた。
 金魚なんて、人が作り出したおぞましい生き物だと思っていたのだが、産地でゆっくりと見てみると、やっぱり文化なのだなぁと感じる。そして、高価なものを見てみると、やっぱり模様が美しくて、欲しくなってしまった。
 安物でも、写真に撮ってみると、その赤い色合いはきれいだし、今のように娯楽があまりなかった時代に人気があったことは頷ける気がする。
 実は、渓谷の撮影の方が、そのついででもあった。

 (撮影機材の話)
 デジタルカメラの画素数は、いったいどれくらいがベストなのだろうか?
 それは人によって目的によって異なるだろうが、僕の場合は、1200万画素は欲しい。
 そしてあと1つ、僕がデジタルカメラに求めるものに、白の再現性の良さがある。
 デジタルカメラは、一般に画素数を上げれば上げるほど白とびし易くなるから、白の再現が悪くなると言われているが、35ミリ判フルサイズセンサーなら、1200万画素と白の再現性の良さが相当程度両立できるようだ。
 それが、僕がキヤノンのイオス5Dを使用する大きな理由の1つである。
 例えば、白い背景で白っぽい被写体を撮ってみると、その差が歴然として現れ、APSサイズのセンサーを搭載した多画素のデジタルカメラでは、上の画像の場合、金魚の尾っぽの先端の白の再現が非常に厳しい。
 5Dを手にする以前は、白い被写体の撮影には大変に苦心させられたし、いろいろとライティングを変え、撮影には時間がかかった。その手間が、5Dを使用することによって、大幅に短縮された。
(CanonEOS5D 17-40mm PLフィルター)
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

2006.8.2(水)
 準備 

 ここ数年、毎年撮影の計画を立てながら、実行できていないシーンが幾つかある。
 怠けている訳ではない。
 撮影が難しくて、どうしたら写真が撮れるのか、その手掛かりがつかめないシーンばかりだが、ある程度以上待ってもアイディアが湧いてこない場合は仕方がない。泥臭くなってしまうが、とにかく何でもやってみるしかない。

 今シーズンの場合は、雨の中でアマガエルがアジサイの上で鳴いているシーンを撮った。
 雨の中でアマガエルがアジサイの上に止まっているまでは、そこにカエルを置けばいいのだから難しくはないが、人が手で置いたアマガエルは警戒するし、それを鳴かせることはきわめて難しい。
 いやいや不可能であるような気がしていたのだが、アマガエルを目の届くところで飼育し、一匹一匹の違い、時期による違いなどをつぶさに見て、あるタイミングで、もしかしたらと思う役者を選んで試したら、相当な時間を食ったが、たった一枚だけ写真が撮れた。
 武田写真事務所の商品が一つ増えた!という充実感があった。
 簡単な撮影ばかりをしていたら、どんなにお金を稼ぐことが出来ても、やがて飽きてしまい手が動かなくなるし、逆に難しいことだけを試みても、人は弱いので自信をなくし、不安になるだけで終わる。
 やっぱり、バランスが大切なのだと思う。
 諦めるな!と言うのはやさしい。
 俺はまだ諦めていない!と主張することもやさしいが、実際には死に体というような形式的な頑張りでは話にならない。
 そうならないためにも、簡単なことと難しいことをうまく組み合わせて、うまく自分に鞭を入れて、一歩ずつ前に進むことが、大切ではないか?と思う。
 
 さて、他にも何とかして撮りたいシーンがある。
 例えば、アマガエルが体色変化をさせる様子を、一匹のアマガエルで、連続写真で撮りたい。
 アマガエルは、周囲の環境に合わせて体色を変化させるが、それは機械的に変化するわけではなくて、アマガエルの気持ちにも大きく左右され、実験条件下で、しかも自然な感じで写真が撮れる状況下で、アマガエルに体色変化をさせるのは非常に難しい。
 そこで、大抵の場合、バラバラに撮影したさまざまな体色のアマガエルの写真を矛盾なく組み合わせて、一連の写真のように見せることになる。
 だが、やっぱり本物を撮りたい。それから、来年はアマガエルにビデオカメラを向けてみようと思うのだが、ビデオの場合、その手は通用しないので、いずれ何らかの方法を確立しなければならない。
 そこで、先月、ちょっとした小道具(いや、大道具か?)を設計して工場に注文していたのだが、先日それが届いた。
 今日は、その特注品を使うための準備を整えた。
 果たしてうまく機能してくれるだろうか?

 

2006.8.1(火)
 委員 

 今日から、僕が所属する日本自然科学写真協会の写真展がフジフォトサロン・福岡で始まる。僕は福岡展の委員を担当していて、昨日は福岡へ出掛け、九州のメンバーの方々を中心に、展示作業を終わらせてきた。
 僕をよく知る人は、
「なぜ、お前が写真協会に?」
 と不思議に感じる人もいるだろうと思うが、だいたい僕は団体が大嫌いなので、誘われても話を聞くまでもなく断ってしまうことが多い。
 僕が入会する以前は、協会の副会長である海野和男先生が、準備のために博多にお越しになった年もあり、ある年、
「あなたは会員じゃないけどさ、手伝ってよ。」
 と先生から声がかかり、展示作業に参加した。
「武田君も入会すればいいじゃないか?」
「どうやったら入会できるのですか?」
「あなたのところに、案内状を送ったでしょう?」
「え・・・、あっそう言えば何かきました。でも、封も切らずに捨ててしまいました。」
「・・・・・・・・・・・・・・」
 僕は心当たりのないものは、右から左に何の躊躇もなく捨てることが出来るタイプなのだ。
 その後、再度案内状を送ってもらい、入会することになった。

 さて、写真展の委員を担当したからと言ってお金が貰えるわけではない。完全なボランティアだから、準備も含めて負担に感じる瞬間もある。
 例えば、写真展の際には、展示作品をすべて収録した図録を販売するが、福岡の会場では諸事情で、まず注文を取り、写真展終了後に郵送して、図録と引き換えにお金を振り込んでもらう。
 それらを発送するのは思った以上に面倒だし、さらに、お金を振り込まない人がなんと多いことか!ある時は、地元の写真クラブの会長と称する人物が、
「振込先が分からなくなりました。」
 とか、
「今から行きます。」
 とか、
「あ、忘れてしました。」
 などと言って、3度の催促の電話の結果、ようやくお金が振り込まれたことがある。
 だが全体として考えてみると、やってみて良かったな!と思う。なぜなら、世の中にはお金を払わない人が結構いるということも僕はよく知っておくべきだし、早い段階で、小さな局面で、面倒な目にあっておいた方がいい。特に、今の僕のようにまだまだ修行の身にある者の場合は。
 それから、写真展の準備で、他の会員の方とのやり取りが必要な際に、丁寧な対応をしてくださる方がなんとありがたいことか!
 仕事なら、相手が多少不親切な対応をしたとしても、まあ、こっちがお金を貰う立場なのだから・・・と苦にならないのだが、ボランティアの場合は、こちらが謙る立場にはないので、相手の人柄が実によく見える。
 他人の写真をそんな立場で眺めてみると、そんな機会に丁寧な振る舞いをする人の写真は、例えば、生き物に少しでも負担がかからないような紳士的な態度で撮られていたり、写真の中に嘘がなかったり、どこかゆとりがあるように感じられる。
 写真業界のような世界で生きていくためには、自分中心でなければならないところもあると思う。だからこそ、そうではないものも、よく知っておかなければならないような気がしてくる。自分中心なだけの写真は、やっぱり人の心を打たないのだと思う。
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2006年8月分


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