撮影日記 2006年07月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2006.7.30(日) 300ミリ

(撮影機材の話-2)
 先日、キヤノンの300ミリを購入した。
 f4の手ぶれ防止付きの中古を12万円弱で手に入れたが、過去に購入したキヤノンの中で、もっとも気に入ったレンズになった。
 うちにはニコンの300ミリf4もあり、この手のレンズは絞りを絞って使うレンズではないからアダプターを介してキヤノンに取り付けて使用してきたが、突然にキヤノンも欲しくなってしまったのだ。
 僕は中古大好き人間で、最近は撮影機材はもちろん、本からCDまで可能な限り中古を探すが、そんな僕が珍しく、これなら新品で買ってもよかったなぁなどと感じた。

 ニコンの300ミリf4は、切れ味が凄い!と、その描写が大変に評判のいいレンズだ。
 一方で今回購入したキヤノンは、描写云々よりも、手に持った感じがニコンよりも断然に軽く感じるのと、ピントリングの具合が実にいい。
 昆虫は背景に溶け込むように体ができているものが多く、いかに優れたキヤノンのオートフォーカスと言えども、さすがに飛翔中のトンボを捉えることはできないが、このレンズなら手動でトンボにピントを合わせるのもそう難しくない。また、イオス5Dは、フォーカシングスクリーンを、やや暗いがピントの山がつかみ易いものに交換することができる点もいい。
 突然現れたマルタンヤンマも、ご覧の通り、しっかりと捉えることができた。
 トンボの飛翔の撮影には、APSサイズのセンサーを搭載したデジタルカメラの方が、より扱いが楽な短いレンズで対応できるため有利なのではないか?と僕は考えていたが、試してみると、フルサイズのカメラの方が、ファインダーが大きい分、どうもやり易い感じがする。
 
 マルタンヤンマは、やがて植物の合間に降り、産卵を始めた。
 雲がかかり、やや手ブレが心配な状況ではあったが、手ぶれ補正のおかげでシャープに撮影することができた。
 こいつは便利なレンズだ!
(CanonEOS5D 300mm)

 

 2006.7.29(土) オートフォーカス

(撮影機材の話-1)
 僕は最近、キヤノンのカメラを主に使用するようになった。
 以前は、ペンタックスやニコンを主に使ってきたが、それをキヤノンに変えた理由は2つ。まずオートフォーカスの性能の良さと、35ミリ判フルサイズの大きさを持つイメージセンサーの圧倒的な画質にある。

 オートフォーカスの性能そのものはニコンが優れているとも言われていて、大きな的にピントを合わせてみると精度が高いらしいが、それを駆動させるコンピューターの味付けが、自然写真にはキヤノンの方が断然に合うように感じる。
 例えば、飛翔中の野鳥を撮影してみると、ニコンはしばしば背景にピントを持っていかれ、状況によっては全く使い物にならないのに対して、キヤノンは実によく被写体を捉え続ける。
 おそらくニコンは、人物だとか自動車だとか、画面の中で比較的大きな面積を占めるような被写体を想定しているのではないだろうか?
 オートフォーカスのセンサーの位置も、そう考えなければ納得できない位置にあり、野鳥にニコンのカメラを向けると、ピントを合わせたい位置にはセンサーがないケースが圧倒的に多くて、実にもどかしい。
 単純な性能の差は、今の時代抜きつ抜かれつが当たり前で、いちいち買い換えていてはきりがないが、考え方の違いはどうにもならないことが多い。その結果、僕は、キヤノンを使う機会が多くなってきた。
 
 また、高感度撮影時のノイズの少なさもキヤノンのカメラの魅力だが、一方で、AFや高感度撮影やフルサイズセンサーのカメラに用がない場合は、キヤノンのデジタルカメラはイマイチだなぁと思う。
 まず液晶が非常に見にくい。晴れの日には全く見えないのに近いことがある。それから、機械としての完成度は、ニコンに比べるとずっと低い。
 つまり、簡単に写るを取るか、気持ちいいを取るかの選択で、僕はデジタルカメラには簡単に写るを求めたことにある。日進月歩のデジカメの場合、どうしてもある程度使い捨て的になってしまうから、カメラはただの道具と、ある程度割り切らざるを得なくなってきたのである。
 
 さて、ちょっとばかり休みが欲しくて、今日はそのつもりでいたのだが、写真協会の仕事で休みが消えてしまった。作業の合間に、ふと事務所の片隅の小さな池をのぞいてみたら、ホウネンエビが発生していたので、気分転換もかねて水槽の中で撮影してみた。
 実は、水槽の中で、泳ぎ回る半透明の被写体にピントを合わせるのは、ピントが見えにくくてなかなか難しい。被写体のスピードと半透明の度合いによっては、絶望的に難しいように感じられることもあるが、キヤノンのオートフォーカスを使えば、この手の被写体は100発100中。非常に楽になった。
 ただそれでも、オートフォーカスで追い回してはダメ。まず距離を決め、ピントを動かさずに追いかけ、大まかにカメラで被写体を捉えたところでオートフォーカスを駆動させ、あとはカメラ任せでピントを追随させながらシャッターを押せばいい。
 同様なケースで意外に健闘するのが、ペンタックスのデジタルカメラで、レンズの構造の関係で、オートフォーカスの性能はキヤノンには及ばないが、センサーの配置が良くて、以前に泳いでいるメダカの顔のUPを撮影する際に大活躍したことがある。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.7.28(金) 巻貝

 シオカラトンボを撮影しようと思い、朝早い時間に家を出たが、今日は全く集中できず、ほとんど何も撮影しないまま帰宅した。
 ここのところ、ちょっと考え事があり、そんな状態が続いている。
 僕の場合、集中を欠くと、生き物への近づき方が雑になり、撮影可能な距離にまでなかなか近づけなくなってしまう。
 そこで、仕方がないから、今日は、スタジオで写真を撮ることにした。
 タニシの仲間には、殻の入り口に蓋がある。
 同じ巻貝でも、蓋を持たないカタツムリの場合は、撮影で何度も触っているとやがて慣れ、触られても胴体を引っ込ませなくなるが、蓋を持つ貝はとても臆病で、何度触れても、蓋をして殻に閉じ篭り、殻から出てくるまでしばらくしばらく待たなければならない。
 だから撮影には結構な時間がかかる。
 通称ジャンボタニシの場合、閉じ篭った状態から再度胴体が出す前に、潜望鏡のような役割ではないかと思うが、管を出して、周囲の様子を偵察しているようにも見える。 

 蓋は良く見ると、二枚貝の貝殻に似た形にも見える。
 だからもしかしたら、巻貝の部分と蓋が変形して二枚貝に進化した、或いは、二枚貝が進化して、二枚の貝殻のうちの一方が巻貝の部分に、一方が蓋になるのかな・・・とも思えてくるのだが、確か、巻貝と二枚貝の関係はそうではない。
 どちらがどちらに進化したというようなものではなく、イカあたりに近い共通の祖先から、一方が巻貝、一方が二枚貝になったとどこかで読んだことがある。
 そうしたことを体系的に調べていく学問が分類学だが、生き物の分類を勉強し、生き物の進化の道筋を想像すると、何だか胸がわくわくしている。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.7.26(水) 自然科学の裏側

 僕の祖父が、孤児院でのボランティア活動に励んでいたことを以前に書いたことがある。
 すると、作家さんであり編集者でもある方がそれを読み、僕に一冊の本を貸してくださった。
 仮にNさんとしておくが、Nさんは、「へびいちごをめしあがれ」に衝撃を受け、著者の元へと押しかけた。

 この本は、ある男の子が、自分の家庭に孤児院から引き取られてきた女の子について、自らの内面を素朴に語った本だと思う。
 女の子が大変にかわいい子であったこと。だが、それはまるでペットに対して可愛いと感じられる時のそれに似てなくもない。
 それから、一般家庭で特に不自由なく育った者にとって、女の子には理解できにくい部分があったこと。そして、女の子のことを受け入れ難くなり、やがてその子にきつくあたる。
 人の心の中にある差別する心が、ごく自然に、だが決して教条的ではなく表現されているように、僕には感じられた。

 さて、植物の尺度で生き物の命を語ってみたいと、以前に書いた。
 がしかし、現実問題として、どうやってそれを表現しようか?
 すると、ふと、「モチモチの木」が思い出されたので買ってみることにした。モチモチの木の中では、子供の心のうちが、木の形を借りることで表現されている部分がある。

 へびいちごをめしあがれは、明るい本ではないし、モチモチの木だってそう。
 生き物の本の場合、子供向けと言えば、「明るくなければ売れないから・・・」と、ひたすらに明るいイメージが求められるが、自然写真を離れると、子供向けの本の中には、暗くても人に受け入れられた名作が数多く存在する。
 だから、明るくなければ売れないというのは嘘なのだと思う。
 意味がない暗さは、避けるのが正解ではないだろうか?
 だが、暗さによって初めて伝えられるものがあるように思う。

 例えば、自然が、人の理解をはるかに超えた存在であること。
 自然への畏敬の念。
 僕は自然写真の中でも、ポエム的な自然写真には全く興味がないが、ガチガチの自然科学写真ではないところで、生きていければなぁと思う。
 自然科学の世界では現象を理解しようとするが、理解しようとすると、その産物として、理解できない部分があることに気付かされる。自然科学の裏側とでも言おうか。
 そこを何とかして表現できたらなぁと思う。
 最近、当たり前の写真術を身に付けることから、一歩前に出てみたいと思うことがある。どちらの方向へ足を踏み出すのか、道はいろいろとあるに違いないが、そんな方向に向かってみようかな・・・と思う。
 ヤンキー先生と呼ばれている義家弘介さんが、あるところで、
「教育には質のいいストレスが必要。」
 と書いておられたが、質のいいストレスになるような、でも決して教条的ではない本を作ってみたい。

 

 2006.7.25(火) スタジオ

 生き物の撮影の中でも、スタジオ内での撮影は、他人がどのような方法で写真を撮っているのか、それを目にする機会は少ない。
 携わる人の数が少ないから、入門書もない。
 同じスタジオ撮影でも、コマーシャル関係の商品撮影なら、それは実用の写真であり、需要が多くて携わる人の数も多く、入門書が数多く出版されている。また師匠と助手というようなシステムがよく確立されていてるし、そのテクニックは、確実に先輩から後輩へと引き継がれていくだろうと思う。
 生き物のスタジオ撮影の場合、そうしたコマーシャルの世界のテクニックを応用することになるが、生き物には生き物の事情があり、独自の方法を編みださなければならない部分も多い。。
 僕は、写真を見れば、他の人がどうやって撮っているのかは大体分かるが、それでも、それは所詮想像であり、実際のところは分からないのだ。
 
 さて、
「この人のスタジオ写真って、何でこんなにきれいなのだろう?」
 と、僕がいつも感じていた先輩がおられる。
 スタジオ写真の命は照明だから、何か照明に工夫があることだけは分かるのだが、なかなか真似が出来ない。
 ところが、ある時、そのノーハウの一部が分かった。
 スタジオ撮影での照明は、特殊なシーンではない限り、一般に光を発する部分が大きければ大きいほど写真がきれいに撮れると言われていて、僕の場合は、60センチかけ60センチの正方形が光を発するようになっている。
 ところが、その先輩の場合、それが畳一畳ほどもの大きさほどもあるのだそうだ。
 それを知り、なるほど、こりゃ敵うはずがない!と、僕はしばらくスタジオ撮影に気合を入れて取り組む気が失せていた。
 ようやく最近になって、照明の基礎の本に目を通し直し、一から勉強し直すことで、やっと気力が湧いてきたところである。
 スタジオ撮影は、取り組んで見ると、簡単そうで難しい。
 お手本になるような写真と大体同じものは撮れるが、残りのわずかな差が、小さいようで実はなかなか大きいし、野外での撮影と異なりまぐれの要素が小さいから、技術に差があれば、常にそれだけの差が写真についてしまうことになる。
(CanonEOS5D 17〜40mm ストロボ)

 

 2006.7.24(月) ヤゴ

 一昨日、山上の沼でヤゴを見つけたので、採集して帰った。
 それをうちの水槽に入れておいたら、ヤゴは上陸して、今朝、ノシメトンボが出てきた。

 ヤゴの段階で、図鑑をみて名前を調べる練習をしておこうと思い、それで持ち帰ったのだが、図鑑を広げると、どこどこに毛が何本などといった感じで、あまりにも細かい。
 細かい事が大嫌いな僕は、あっという間にギブアップしてしまった。
 今朝は成虫になったから名前がわかったし、再度本を開いてみたが、答えを知っていても、それでも、ヤゴの段階では僕には名前が分かりそうもない。
 そういえば、高校時代に、友人は自力で数学の問題を解いたが、僕は解答を見てもなおその解き方が理解ができないことがしばしばあった。まさに、つける薬もない状態だったのである。

 僕は生き物が好きだが、調査や研究向きではないなぁと感じることがある。
 調査や研究を仕事にするためには、どこかオタクな部分が必要だと思うが、今回のヤゴの名前調べもそう。僕には、イマイチそうしたセンスが欠けているように思う。
 でも、オタクなところがある人は大好きで、まさにオタク道まっしぐらな人の話を聞くのは非常に楽しく、特に、自分自身を「オタクだ!」と言って笑い飛ばしてしまう人の話がいい。
 オタクという言葉は、しばしば悪口でもあるから、何かコンプレックスを抱えている人にそう言うと、時には逆鱗に触れてしまう。オタクが好きと言っても、その手のオタクは遠慮したい。
 逆に、オタクを笑い飛ばせる能天気な人は、それなりに、何か自分に自信を持っている人ではないだろうか?
 僕の身の回りの人は、嘆いたり、悲しんだり、憂う話、つまり傷を舐めあう癒しあう会話を好む人と、能天気な話を好む人に分かれるが、僕は、高尚ではないと言われても、能天気な話が好きだ。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.7.23(日) NG

「お前の日付や曜日の間違えはひどすぎるぞ!」
 と時々お叱りのメールが届く。全くその通りだから返す言葉もないが、日頃僕は曜日や日付を意識して暮らす必要にあまり迫られてないのでそうなる。
 だが、まさに仕事が詰めの段階を迎え、やり取りの真っ最中にある時だけは別。
 出版社は土曜日や日曜日が休みだから、土日になるとやはりホッとするし、安心して撮影に出かけることができる。
 先日、アメリカザリガニの撮影で何度も撮り直しをしていることを書いたが、またまたNG。月曜日から一部やり直しを試みることになった。
 
 そうしたNGに対して、正直に言うと、いつもすべての内容に納得ができるわけではない。例えば、「この写真は気持ちが悪い」というNGが付いた時に、それが捕食のシーンなど、そもそも気持ちが悪いシーンの場合には、
「それは違うでしょう?そこまで読者に媚びるのは間違えている。」
 と思うこともある。
 だが僕は、違うと思っても思わなくても、まず先に撮り直しをして相手を納得させる写真を撮ろうと試みることだけだけは、あらかじめ決めているし、これは当分変えるつもりはない。
 出版社に媚びたいわけではない。
 カメラマンがNGに対して、
「それは違うでしょう!」
 と感じる時には、1つはそうした考え方の相違もあるが、あと一つ、撮り直しが面倒だという逃げの気持ちも、それは無意識であるが、多少は含まれていることが多いからである。

 また、NGを出してもらえることは実は非常にありがたい。
 今僕は、人を追いかける立場にあり、
「まず、あの先輩のシェアーを奪って、代わりに僕の地位を築くぞ!」
 などと、人様の本を徹底分析して、時には具体的にターゲットを定めてカメラを手にすることさえある。
「シビアだなぁ。君はキツイな!」
 と言う人もいるだろうが、やがて僕も追われる立場になる。
 その時に何が物を言うか?と考えてみれば、現場で揉まれた経験だろうと思う。
 技術などと言うものは己の世界であり、上手い人はたくさんいて、あっという間に追いつかれるに違いない。
 でも、現場でNGを出され、ああでもない、こうでもないともがき苦しんだ中で時間をかけて身に付け感覚だけは、簡単に追い付かれないはずだし、逆に、そこで逃げている人は、やがて若くて元気のいい後輩が出現した時に、意外にも簡単に食われてしまうのではないだろうか?
「ずばり言うわよ。」
 と、はっきりと意見を言ってもらい、NGを出してもられることはありがたいし、僕はMっ毛があるタイプではないと思うが、NGに対して密かにニヤリとするのである。そのNGの内容が、納得いかなければいかないほど、それは放っておけば自分には身に付けにくいことなのだから、なおさらありがたい。
 NGに対して理不尽だと、腹を立てる写真家も少なくない。その腹立ちを、プライドや自分の世界に対するこだわりだと説明する人がいる。俺には俺の世界があるのだと。
 だが、本当に自分の世界を持っている人は、そんなことで腹は立たないのだと思う。
 腹を立てるというのは、その人の世界が揺さぶられているからで、そんなに簡単に揺さぶられるようなものを俺の世界と言ってはならないような気がする。
 昆虫写真家の海野和男先生は昆虫のエグさにカメラを向け、それを人に分からせ、それでウケた唯一の写真家だと思うが、昔先生の事務所で写真を見せてもらった時に、それとは逆の写真、つまり人のリクエストに忠実に応えた穏やかな写真が山ほど出てきたことには驚かされた。
 やっぱり、先生はすべて試しているのである。そうして自分で試した人が、
「リクエストに応えるだけじゃダメ。きれいなだけの写真ではダメ。」
 と言うと、初めて説得力があるのではないだろうか?

 さてさて、日曜日は自由だから、昨日山上の沼で撮影した後一泊して、今日は麓の田んぼを歩いてみた。
 トノサマガエルが非常に多くて、飛び出してくる数から想定すると、一枚の田んぼに2〜3000匹はいるのではないか?と思う。
 いや〜楽しい!
(CanonEOS5D 90mm 自然光)

 

 2006.7.22(土) 動物と植物の命

 僕は、大学〜大学院時代の指導教官の言葉には多大な影響を受けた。
 だが学生時代を通してもっとも印象に残った先生方の言葉は、意外にもその恩師のものではなく、むしろあまり好きではなかった植物学のA先生の言葉である。
 A先生は、諸般の事情で学科内で浮いた存在であり、一言で言えば立場は窓際族だった。
 それでも、学生と話をする時は嬉々として、しばしば難しい理屈をこねた。
 ある日、A先生が、
「動物と植物は違うんです。」
 と切り出した。
「今の生物学は、動物の祖先と植物の祖先を共通だと考えていますね。でも動物と植物の命は全く概念が違うんです。みなさん考えてみてください。例えば地中でつながっている竹の子の地下茎をプツンと切断すると、その瞬間から一匹の竹の子が二匹になる。一匹と概念、つまりそれは命の概念ですが、それほどに違うんですよ。」
 と。話は、
「動物と植物の祖先は、現在信じられている説を覆し、別物である可能性が高いのではないでしょうか?」
 と続くわけが、最終的には、
「誤った仮定の上に成り立っている生物学の研究を続けたって意味がないのではありませんか?」
 と、研究をしないことに結びつくところが、僕がA先生を好きではなかった理由だった。
 論客タイプの人を僕は嫌いではないし、むしろ好きだけれども、こねた理屈が、何もしないことにつながるようなマイナス志向な理屈のこね方はおかしいと思うのである。
 僕の恩師は、それに対して、
「動物と植物は似てますね。擬態ってあるでしょう。昆虫が植物そっくりになりますね。なぜあそこまで似ることができるのでしょうか?やっぱり動物と植物の祖先は共通だからではないでしょうか?」
 と切り替えした。

 どちらが正しいかはさておき、植物と動物の命は相当に違うというA先生の言葉には、今でも時々ハッとさせられる。
 まず、植物は動物と違って、生きているのか死んでいるのかが分かりにくい。
 樹木などは、ここからが生で、ここからが死という境目が存在しないようにも思える。
 草本では、例えば、陸上の植物が水没してすべての葉っぱが枯れ、その姿がなくなってしまった後に、残った根っこから、突然に全く形状の葉っぱ(水中葉)が生えてきて、陸上で暮らしていた植物が水草として蘇るような現象もある。
 残忍な事件が起きた時などに、多くの人が言い出す「命の大切さ」という言葉は、ポックリとある瞬間から突然に死んでしまう動物の命をイメージしているように思うが、植物を見ていると、確かに、それとは異なる命がある。

 僕は、季節によって沼になったり湿地になる山上の水辺に通っているが、そこで植物的な命を何とかして写真で表現してみたいと思う。
 湿地の木が、雨で増水した沼に沈みかけている。動物的に解釈すれば、「苦しいよ。助けて。」となるのかもしれないが、植物をよ〜く見ていると、そうではないように思う。
 人はしばしば、自分に相手を当てはめて物事を考える。そのような手法で考えることを、思いやるという。
 だが、自然を見つめようとする時には、それだけでは足りないものがあるように思う。
 ちなみに、沈んだハンノキの手前に浮いている白い粉のようなものは、ハンノキの花?から飛んでくる綿毛である。
(CanonEOS5D 70〜200mm)

 

 2006.7.21(金) 更新

 今月の水辺を更新しました。画像の中で被写体が小さくて見にくいのですが、壁紙用の画像をダウンロードすると、それなりの大きさにみることができます。

 

 2006.7.19(水) 原点

 北九州のある高校に魚部という部活動がある。
 呼んで字のごとく、魚を中心に水辺の生き物に関わることが活動であり、福岡県下で過去に数例しか記録がない水棲昆虫を次々と見つけ出すなど、とにかく凄い。
 その詳細はブログの中で知ることができる。

 生き物を調べる部活動なら他にもきっとたくさんあるに違いないが、魚部は、網を入れて生き物を捕獲し、捕獲を楽しむことに重点がおかれている点を、僕は非常に面白いと思う。
 そこに自然写真の原点に通じる何かを感じ、時々魚部のブログをのぞく。

 生き物の写真を撮る人の中には、異常なほどに、人のあり方や道徳やマナーにこだわる人がいる。
 もちろん、それらが大切であることは言う間でもないが、何かその手の問題を訴えることが目的で、生き物の写真はその材料でしかないような自然写真を、僕は極めてつまらないと思う。
 魚部の活動の中にも環境問題に触れるものもあり、例えば、外来生物ばかりを狙って採集に出かけているケースもある。
 だが、それはあくまでも、色々な生き物を楽しんで採集した結果、自然とこみ上げてきた思いを表現しようとしたものであり、先に、何かを問題として取り上げることが目的としてあるわけではない。
 僕は、それが、自然を見つめる時の正しい順序ではないか?と思う。
 自然写真でも、同じではないか?と感じる。

 昔、ある方から、
「あそこの街路樹の葉っぱは枯れているけど、車の排気ガスが原因ですよね?非常に問題ですよね?」
 とたずねられたことがあるが、それはただの落葉樹の季節的な落葉だった。
 その方は、そうして世の中の問題点ばかりを取り上げたがる人で、そんな見方をすれば、なんだって問題にこじつけることはできる。僕は、その手のゲリラ的な問題提示には、心がこもっていないように感じる。
 例えば、近年、町の付近で多くの野生生物が見られるようになった。
 それを、山の自然が失われ、生き物が山に住めなくなり、町まで出てきたと思い込むこともできる。生き物が可哀想と言うこともできるが、生き物が人工物をしたたかに利用するようになったと見ることもできる。
 どちらが正しいかは、生き物に興味をもち、その興味を楽しみ、楽しみつつじっくり観察してみなければ分からないのである。
 自然を愛する人が、自然の中で遊び、時間をかけて自然を丁寧に見つめ、その中から提示される問題に、僕は耳を傾けたい。
 真面目さや、やさしさだけの問題提示や、やたらに自然を道徳教育にしてしまいたがる傾向には、何か違和感を感じる。


 さて今日は、北九州市の平尾台自然観察センターで開催中の自らの写真展に出かけ、ついでに付近の森でカタツムリの仲間を探してみた。
 今回の写真展は、野村芳宏さん、西本晋也さんと、僕の3人での展示だが、自然観察を楽しめる場所にテーマを絞り、野村さんが北九州の野鳥の、西本さんが北九州付近のトンボの、僕が北九州から足を伸ばせば行けるちょっと遠い水辺を紹介することである (実際には僕の伝達が悪くて、そうなってない)
 写真展というと、しばしば、「命の大切さを訴える」と人は言いたがるが、
それは、写真を見る人が自分の意思で感じることであり、写真を見せる側が直接的に提示するものではないような気がする。
(CanonEOS5D 90mm 自然光)

 

 2006.7.18(火) 大口径の単焦点レンズ

 昨年、あまりに仕事を頑張りすぎて、お金を使っても使ってもまだなくならないので、仕方なく、先日ヤナセに行って、ベンツを注文してきた。
 そして新しい車が届いたので、カメラを向けてみたが、Aクラスではなくて、Cクラスにしておくべきだったかなと後悔する。
 がしかし、Cクラスも追加して買えばいいじゃなか!と、気を取り直す。
 もちろん、これはすべて嘘で、そんなことがあるはずがないし、自然写真は、そんなに儲かる仕事ではない。
 僕の知人で写真家を志している者の中には、そうした現実を全く知ろうとせず、話をしていると、一桁くらい余計に稼げると思い込んでいる者もいるが、そうして間違えてしまうのも、分からないでもないと思うことがある。
 
(撮影機材の話)
 さて、お金が余るどころか、新しい道具を購入するために、先日使用していないデジタルカメラをオークションへ出品した。
 さらに、ニコンのデジタルカメラ専用12〜24ミリズームレンズも出品することになった。それから、ニコンの200ミリ等倍マクロレンズを出品しようと思うが、一部レバーが壊れているので、まずは修理と今日メーカーへ送った。
 さらに不要なものはないか?と防湿庫を眺めてみると、AF85ミリF1.4Dという高額で売れそうなレンズがある。しかも、僕はこのレンズを使った記憶は、過去5年を振り返ってみても、遊びで一度しかない。
 つまり全く不必要なレンズである。だが、明るいレンズが持つオーラとでも言おうか、何となく手放したくない。
 そこで、このレンズを、アダプターを介してキヤノンのデジタルカメラ・イオス5Dに取り付け、駐車場にとめてある他人様のベンツを試し撮りし、果たしてそれでも持ち続けたいと思うか、それとも売り払ってもいい感じるのか、自分を試してみることにした。
 F1.4のレンズなのだから、もちろん絞りは開放。かなり薄暗くなった夕刻だったが、十分に手持ちで撮影することができる。
 そして、大口径の単焦点レンズの描写はやっぱり素晴らしく、売り払うどころか、防湿庫に収めておくのではなくて、用がなくてもカメラバックに収めておこうと思い直すはめに。
 同様の理由でいつも持ち歩いているレンズに、ニコンのAF28ミリF1.4Dというレンズがあるが、これも滅多に使わないにも関わらず、持つ喜びを強く感じる。
 フィルムからデジタルカメラになり、カメラは使い捨てに近くなってしまったが、その分、今後は個性のあるいいレンズを持とう!
 そんな気持ちにさせられた、楽しい試し撮りだった。
(CanonEOS5D 85mm)

 

 2006.7.17(月) 水の事故−2

 人が何かをやり遂げようとする時に、何をすべきかを考えて、アイディアを積み重ねていく方法もあれば、逆に消去法で何をすべきではないか?を考え、不要な選択肢を消してしまう考え方もある。
 例えば、僕は自然写真家という職業を目指す時に、いかにしてカメラマンになるか?よりも、カメラマンにならない選択肢が自分にあるかどうかを考えた。
 そして、僕にはカメラマンになりたいと思う気持ちを消去することができなかったから、写真家を志すことになった。
 かと言って、カメラマンになれる道筋が見えていたわけではない。だから、そんな僕のことを、
「あなたは見切り発車をしたのですね。」
 と言う人や、
「あなたは勝負に出たのですね。」
 と言う人もおられる。
 だが僕は見切り発車をしたわけではなくて、消去法で自分の考えをしっかりと詰めた上でスタートを切った。それが見切り発車に思える人は、きっと消去法で物事を考えることをしない人ではないか?と思う。
 時には、消去法で考える以外に選択肢がないこともあるように思う。例えば、自然写真家というリスクの大きい職業を目指す場合、自然写真家への道筋を見極めた上でスタートを切ることなどあり得ないだろう。だからそれを見極めようとすることは、写真家を目指すことではなくて、むしろ諦めるのに等しいのではないか?と思う。
 さて、自然の中で人が命を落とすような事故をいかに減らすか?
 それをあまりに真っ直ぐ考えると結論は1つになり、水辺なら、徹底的に治水をして、あらゆる場所にフェンスを張り巡らせて、人を近づけないようにするしかないだろう。
 だが僕は、そこで消去法で考えることも必要ではないか?と思う。
 水辺は、やっぱり子供達の遊び場であるべきであり、それを消去することなどあってはならないように感じる。水辺に近づかせないのではなくて、いかに上手に近づくのかを教えるべきではないだろうか?
 
 僕が子供の頃、幼馴染のKちゃんの自宅の前を流れる農業用の水路は子供達の遊び場で、僕は、よくそこで魚を捕まえた。
 子供の膝くらいの水深しかなかったけれど、山ほど魚を捕まえることができたし、水の怖さも、少しずつそこで学んだ。
 水路は大きな遠賀川につながっていて、時にはナマズがのぼってきたが、ナマズを見つけるとみんなで大きな網をもって追い掛け回して捕まえた記憶がある。ナマズは滅多に捕まえることができなかったから、今でもナマズを見ると、その時の胸のワクワクが若干よみがえる。
 今日は、ナマズの顔を撮影したら、背中〜顔にかけて、針で突いたような小さな穴がたくさんあいていることに気がついた。
 これは多分、側線と呼ばれる感覚器官だと思うが、側線は多くの魚では、体側にほぼ一列に並ぶのに対して、ナマズの場合は、体側はもちろんのこと、背中〜頭の付近まで、体中に広く分布しているようだ。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)
 
 

 2006.7.16(日) 水の事故−1

 四万十川でキャンプをしていた夫婦と子供二人のうち、子供のお父さんが、溺れて亡くなったというニュースを耳にした。
 痛ましい事故だと思う。一家の主を水の事故で失った遺族にとって、水辺は今後、永遠に忌まわしい場所になってしまうのだろうか?
 水辺の生き物を主な撮影のテーマにしている僕にとって、そうした水の事故のニュースには他人事ではない。何と言っても、将来、僕が撮影を担当した本を読んで水辺に興味を持った子供が、事故にあう可能性がないとは言い切れないからである。

 では、どうしたらいいのだろうか?
 うちの付近でも、先日子供が貯め池で命を落としたが、新聞紙上で、池の管理者の責任を問うような声があった。
 注意を促す看板は設置されているのか?それから、池の周りに柵がちゃんと作ってあるのか?
 そんなことが問われているようだったが、もしも子供の事故を可能な限り防ごうとするのなら、池の周囲に立ち入ることができないように、徹底して柵を作るしかないだろうと思う。
 だが、事故を防ぐために、一切の水辺の自然を、子供の遊び場所ではなくしてしまうことも、またおかしな処置だと感じる。
 むかし、ムツゴロウさんこと作家の畑正憲さんが、北海道でのヒグマの事故について触れ、
「いいじゃないですか!ちょっとくらい。年に多くても一人か二人でしょう?そんなことより、いったい自動車の事故で何人死にますか?」
 と、自らの意見を語るのを聞いたことがあるが、勇気がある人だなぁと思う。
 確かに、生き物を愛しましょう!という人が、一方で車をぶっ飛ばし、東京から九州までを、たった何時間で走りぬいた!などと自慢をするような話を、僕も何度か聞いたことがある。だが、そんなに命の尊さを声高に主張するのであれば、まず自分が他人にやさしい安全運転や環境にやさしい経済的な運転をするのが筋だろう。
 ただ、僕には、
「一人や二人くらいいいじゃない!」
 と言う勇気はないのである。

 

 2006.7.15(土) ジャンボタニシ

 以前は、大雨が降り、川が増水し、やがてその水の濁りが取れる頃になると、近所の遠賀川にある堰をのぼろうとする魚を食べにやってくるサギの仲間にカメラを向けた。
 ところが最近は、やたらに釣り人が増えて、鳥の撮影どころではなくなった。
 ほとんどすべての釣り師の狙いはブラックバスである。
 今や遠賀川はブラックバス釣りのメッカとなり、僕の自宅がある直方市から事務所がある北九州までの道のりの途中、多分20キロ弱の距離だと思うが、川沿いを車で走ると、多い日には50隻以上の釣り用のボートを見かける。
 ご丁寧に、土手にはRV車を水際まで乗り入れ、車で牽引してきたボートを川に下ろすための場所と、100台以上の車を止めることができる駐車場が完備されている。
 川の土手を行政以外の誰かが勝手に扱えるとは思えないので、恐らく行政がお金をかけてそうした場所を整備したのだろう。
 市民が広く利用できる施設なら、行政がお金を使うのも分かる。
 だが、エンジン付きのボートやそれを牽引できる車を持っている人だけのための場所で、しかも、それで釣っているのは問題を多く抱えたブラックバスなのだから、なぜ行政がそんなことのためにお金を使うのか、僕には理解不能で、嘘でしょう?と驚きさえ感じる。
 ともあれ、ブラックバスという魚、いよいよ手がつけられなくなってきた感じがする。

 さて、今日は、昨日と同じ、付近の田んぼでトンボにカメラを向けた。
 昨日は暑さのために集中を欠き、よく試すことができなかった新しいレンズシステムを試したが、非常に気に入った。
 シオカラトンボの仲間には、青空が似合う。
 早朝に田んぼのあぜ道を歩くと、田んぼの中からヒラヒラと、羽化をしたばかりのウスバキトンボが飛びだしてくるので、羽化の最中のものが見つからないか?と注視していたら、俗にジャンボタニシと呼ばれている帰化生物が、まさに稲を食い荒らしているのを見つけた。
 所々には、ジャンボタニシの卵が付着している。


 ところで、ジャンボタニシは確かに大きいが、ジャンボというほどではないという人も時々おられる。
 だが、それはその人が見たことがないだけで、北九州の町中を流れる水路に生息するものは、サザエじゃないか?という程の大きさがある。いずれ、そうした姿も紹介してみたいと思う。
 僕は、日頃日記の中であまり環境問題や、自然保護と呼ばれている行為については触れないようにしている。
 そこには2つ理由があり、1つは道徳っぽい内容にしたくないからであり、あとの1つは、僕ごときの知識や経験では触れられないと考えているからだ。だが、帰化生物の問題については、いずれ、僕のテーマの一つとしてチャンレジし、発信してみたいと思う。 
(CanonEOS5D 15mm ストロボ)
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)

 

 2006.7.13〜14(木〜金) テスト撮影

 ニコンとペンタックスのカメラを主に使用してきた僕だが、いつの間にか、キヤノンユーザーになってしまった感がある。
 今でも扱っていて楽しいのはニコンやペンタックスで、キヤノンの道具にはあまり持つ喜びを感じていないのだが、何だかんだ言いながら実際に使う道具はキヤノンになる。
 キヤノンというメーカーは、うちの道具はこう使え!とやや押しつけてくる印象を僕は持っている。そう使わなければならないように、道具が出来ているように感じる。それゆえに、自分なりに道具に改造を加えるような使い方にはあまり向かない面があると思う。
 だが、道具を改造するのではなくキヤノンが市販しているものを購入し、自分の好みなど主張せずに、キヤノンが指示する通りにカメラに任せてシャッターを押してみると、これが簡単に、実によく写る。
 なんだか味気ないような気もするが、これでいいや、キヤノンでいいや!と、最近感じるようになった。
 そこで、現在手持ちの道具を幾分処分して、もう少しキヤノンのシステムを充実させようと思うが、今日は、キヤノンのカメラ用の新しいレンズシステムを試してみた。
 今日の画像は、ピント合わせも、ストロボの発光量の調整も、すべてカメラ任せで撮ってみた。

 僕は日頃、道具を試すためだけの撮影をすることは、滅多にない。
 だいたい、考えるよりもやってみるタイプであり、まめに準備をするよりも、本番の中で様々なことを身に付けてい方なのだと思う。
 だが今日は、比較的朝早い時間に出かけたにも関わらず、とにかく暑くて、本番の撮影をする時の集中がどうしてもできず、ただのテスト撮影に終わった。
(CanonEOS5D 15mm ストロボ)

 

 2006.7.11〜12(火〜水) 新しいカメラ

(撮影機材の話)
 やっぱりフィルムもしっかりと活用しようと思い、ペンタックスの645判フィルムカメラとキヤノンのデジタルカメラを1つのバッグの中に入れようとしたが、量が多くて収まらない。
 特に、妙に場所を取るのが、645判で小動物を撮影する際のストロボである。
 何といっても、合計3つもある。なぜ3つも必要かを正確に説明すれば長くなるので略するが、水辺は陸上に比べると照明がややこしいとだけを書いておこうと思う。

 そこで645判用のストロボをすべてバッグから出し、645判は自然光専用にして、ストロボが必要な小動物の撮影には、代わりにキヤノンの35ミリ判のフィルムカメラを一台入れることにした。
 それなら、キヤノンのデジタルカメラ用の各種ストロボやレンズが、そのまま流用できるので荷物が少なくてすむ。
 そこで、今更とも思ったが、新しいフィルムカメラを一台買った。それが、今日の画像のキヤノンのイオス7sだ。
 はじめて体験した視点入力は、なかなか面白いと思う。
 新品は実売価格で7万円くらいだが、僕が手に入れたのは中古で、WEB上の店で元箱付きのものを5万円弱で購入したら、新品と全く区別がつかないピカピカが届いた。
 これを持って、さっそく付近の田んぼにでも出かけたいのだが、ここ数日苦戦中のスタジオでの撮影がまだ終わらないので我慢しなければならない。

 さて、セコイ話だが、カメラを買ったりしてお金を使うと、
「毎日稼がんといかんなぁ。」
 という気持ちになる。
 一日一善ではなくて、最低一日一枚売れる写真をと思う。
 ところが、今日は依頼されているシーンがうまく撮影できず、どうも仕切り直す必要がある。そこで、何か仕事と言える写真を撮っておきたいと、アメリカザリガニがオタマジャクシを食べるシーンを撮影してみることにした。
 ちょうど、うっかり水質を悪くして、死なせたオタマジャクシが取ってある。

 まず、一匹オタマジャクシを与えると、あっという間に噛み砕いてしまい、内蔵がこぼれだして実にグロい。個人的には好きな写真だったが、あまりにグロくて、児童書では使われることはないだろうから、お金を稼いだことにはならない。
 そこであと一匹与えると、今度は口元が大きなはさみに隠れて見えない。
 さらに一匹追加して与えると、もう満腹になってしまったのだろう、今度は食べる様子がない。
 やがて僕も諦め、
「今日は一円も稼げなかったなぁ。一つダメな日は、大体全部だめやなぁ。」
 と、カメラを仕舞おうとしたら、何と、写真を撮ってくださいと言わんばかりに、まるでスローモーションのようにゆっくりと食べ始めた。
 そうか、そうか、満腹に近いからゆっくりと食べてくれたわけだ。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.7.10(月) いい写真

 昔、ある場所へ写真を持ち込み、見てもらった際に、
「これはいい写真ですね。」
 と、ヨシゴイという野鳥のた写真を誉めてもらったことがある。
「なぜなら、この写真は、広告のような媒体にも、図鑑のような媒体にも使用することができるから、使い道が多い。人によって写真の好みは違いますが、使い道が多い写真は、間違いなくいい写真だと思います。」
 と、続けて説明してもらった。

 当時の僕は、何か自分の中に絶対的な判断基準が欲しくて、これがいい写真だ!という定義を求めていたのだが、
「使い道が多い写真は、間違いなくいい写真だと思います。」
 というその言い回しに、僕はその時、いい写真には色々なパターンがあり、いい写真を定義することなんて出来ないことに気付かされた。
 二度と撮れないシーンを写し撮った写真。
 生き物の姿だけでなく、その生息環境までもを写し撮った写真。
 使い道が多い写真。
 いい写真は一つではないのだと。

 何をいい写真と感じるかは、人の好みだけでなく、その人の立場によって異なる。
 写真を撮る側の人間は、一般的には、説明的な写真よりも、雰囲気のある写真を好む傾向があるように思う。
 また、本作りをする立場にある人は、逆に、何となくいい雰囲気の写真よりも、その写真の中に、本の中で説明したいツボがわかり易く写っている写真。つまり説明力のある写真を好むことが多い。
 今日は、たかが静止して横を向いているアメリカザリガニの写真を一枚撮るのに、朝から夕方まで時間をかけても、まだ完璧なものが撮れない。
 数枚写真を撮ってみて、その写真を相手にメールで送ると、
「あそこがもっとはっきりと見える写真は撮れませんか?」
 と、幾つかのリクエストがあり、撮っても、撮っても、そのすべてに応えることができない。
 ただ、写真の仕組み上、その幾つかを同時に満たすのは物理的に不可能という面もあったが、たくさんリクエストを寄せてもらったおかげで、本を作る側の人が、アメリカザリガニの写真に何を求めているのか、それが実に明快に分かった。
 とてもいい勉強になった。一日でこれだけたくさんのことを学べた日は、過去にもないような気がする。恐らく、今後僕が撮影するアメリカザリガニの写真は、今までよりも売れる確率がずっと高くなるだろうと思う。
 撮り直しは辛いが、それでしか覚えることができないものがある。
 一方で、日記に掲載する写真は、そうして仕事の中で身に付けた写真よりも、むしろ微妙にポイントは外れているのだが、何となく自分が好きな雰囲気の写真であることが多い。

 さて、人様の写真を眺めてみると、自然写真業界で長く仕事をしている人の写真には、やはり説明力がある。それはただ生き物を説明しているという次元ではなく、そう撮ることが体に染み付いていると言っても言い過ぎではないほどの力強さを持っていることが多い。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.7.8〜9(土〜日) あてもなく

 親子と言えども、なんでこんなに好みが違うのだろう?と不思議に感じることがある。
 僕の父は何かと計算できるものを好み、僕は逆に計算できるものが好きではない。
 父は高校時代に物理が好きだったそうだが、物理は一度理論をしっかりと身に付けておけば、あとはすべて同じパターンにあてはめて問題が解けるから、それが父にとって楽しいのだそうだ。
 一方、僕は生き物が好きだ。
 生き物の魅力は、計算できない点、理解できない点、つまり神秘的であることに尽きる。

 日常生活の中でも、父は、すっきり割り切れる論理で身の回りのことを解釈するのを好む。
 例えば、
「キリスト教の国はこうだから・・・」
「東大出身の人はこうだから・・・」
「イギリス人はこうだから・・・」
 と、常に公式に当てはめる。
 僕は公式が大嫌いで、むしろ個人の資質に興味がある。
 先日、父と、僕の地元の直方市の町作りに関して話をする機会があったが、父は、アジアのゴチャゴチャした町並みを非常に嫌い、ヨーロッパのようなすっきりとした町を目指すべきだと考えているようだった。
 僕は、日本はアジアなのだから、アジア的であることがいいと感じる。ゴチャゴチャしているのも、また魅力の1つだと思う。
 
 旅行に出かけても、父はきっちりと計画をたて、その計画通りに物事が進むことを好む。と言うよりも、むしろ計画を立て準備をすることの方が主で、実際には、長期間の旅行などは、何だかんだ言って最終的に出かけないことの方が多い。
 僕はあまり計画を立てない。計画を立てることや準備が楽しくないのである。自分の計画よりも、天候やその他によって、その場で何がしたいかを判断することに喜びを感じる。

 さて、今朝は、いつも通り、特にあてもなく付近の田んぼにふらりと出かけてみたら、ウスバキトンボの大群を見かけた。その場の印象では空一面のトンボと言ったところだが、写真に撮ってみるスカスカで、それを信じてもらうことは難しいだろう。
 通い慣れた場所ではあるが、トンボがたくさんいれば大きな群れができるわけでもないようだから、何となく何度も通わなければ、そうしたシーンを目にすることは難しいだろう。
 生き物の撮影では、偶然がなければ撮れないシーンもたくさんあるから、あてもなく自然の中を歩く時間もまた大切だと思う。


 中には、クモの巣にひっかかり、命を落としたものも見かけた。
(CanonEOS5D 17-40mm)
(CanonEOS5D 17-40mm)
(CanonEOS5D 20mm ストロボ)

 

 2006.7.6〜7(木〜金) 規格

(デジタルカメラに関する話)
 パソコンのモニターの見え方は機種によって異なる。だから僕のパソコン上で画像が正しい色で表示されているからと言って、他人のパソコンでも同様に画像が正しく見える訳ではない。
 そこで、画像のような正確な色再現が要求されるものをパソコン上で閲覧する際には、統一規格のようなものが必要になり、例えば、インターネット上で画像を見せる場合にはs-RGBという規格が自動的に適用される。
 従って、ホームページの中で画像を見せる場合は、その画像はs-RGBの環境下で正しく見えるように調整しておかなければならない。

 ところが人様のホームページを閲覧していると、それを間違えている方が時々おられる。
 具体的には、印刷にまわす際の規格であるAdobe-RGBで調整された画像をWEBにあげてしまっているケースが多い。
 つまり規格を間違えているのだから、当然、色の表示は変になってしまい色が鈍くなる。
 この間違えは、そこそこ知識があるアマチュアの人に多いように思うが、それはある意味当然と言える。
 なぜなら、印刷の際の規格であるAdobe-RGBで画像を調整している人は、印刷を目指している人であり、アマチュアと言えども出版を念頭において写真を撮っている本格派の人だからである。
 
 さて、知識がある人でも間違えを犯してしまうようなややこしい点を抱えたデジタルカメラだが、撮影その物は、その場で結果を見ることができるのだから、フィルムに比べるとずっとやさしい。
 フィルムを現像する時間がかからない点もいい。
 昨日は、仕事の打ち合わせで東京からの来客があったが、今回の仕事は締切日までに時間的なゆとりがなく、短時間で仕上げなければならない。
 そうなると、もうデジタルカメラしかない。
 もしも全く同じ状況でフィルムしか選択肢がなかったなら、今回の仕事は断らなければならなかった可能性もあった。

 カメラに関するライターとでも言ったいいのだろうか?そんな仕事をしている方が世の中には数人おられるようで、僕は、その中でも那和さんのホームページを閲覧する。
 僕とは全く好みが違うし、意見も異なるが、「私はこう思います」とはっきり書いてある点が好きなのである。
 今日は、その那和さんが、「風景写真には、デジタルよりもフィルムがいいような気がする」と書いておられたが、この点に関しては僕も全く同感。フィルムの方がいい理由も全く同じ。
 先ほどはデジタルカメラの便利さを主張しておきながらなんだが、デジタルカメラで風景を撮影すると、写真はシャープだが平坦になるきらいがある。
 僕はそれをバランスが悪いからだと思っているが、具体的には、解像感の高さに対して階調が不足しているからそう見えるような気がする。
 そこで、やっぱり風景はもうしばらくフィルムで撮ろうと思う。ただ、今となってはデジタルカメラを置いていくわけにもいかず、フィルムとデジタルを両方持っていくと、大荷物になる。
 今日は、それらの荷物を取捨選択して、デジタルとフィルム、特に645判のフィルムカメラとを両立できる機材の組み合わせを探してみた。

 

 2006.7.5(水) ナメクジ

 僕は、生き物と接しつつ生きていくすべが欲しくて、自然写真家という道を選んだが、他にも、生き物の研究者になる道も多少は検討したことがある。
 だが研究者の場合はポストの数が限られているから、いいタイミングでそこに空きができる必要があり、そんな運に左右されたくなくてフリーの写真家がいいと考えた。

 だが、現実には、自然写真の世界でも需要はあらかじめほぼ決まっていて、その限られた数の需要を取り合い、人と競争することになる。そして、やっぱりごく一部の人しか仕事にありつけない現実がある。
 もしも自分が志した分野に強力で、そして年齢の近い先駆者がいたら、同じジャンルで生計を立てることは難しいだろうと思う。そういう意味では、そこにポストがあるかないかに左右される研究者と、そうたいして違わないのかもしれない。
 ただ、たとえ強力な先駆者でも年が20以上離れていれば、どうにもならないほど競合することはないように感じているが、年の差が10歳程度で、相手が働き盛りでバリバリに仕事しているような状況があると、そこに食い込むことは非常に難しいように思う。

 僕の元には、あの生き物の写真を撮ってください!と撮影の依頼がくるが、そうして撮影を依頼される生き物は、ほぼ100%、それにカメラを向ける写真家が少なくて、写真の供給が需要に対して追い付いていない生き物である。
 もちろん自分が撮りたい被写体はある。だが、自由業と言えども自由という訳ではなく、仕事として自然写真を成立させるためには、そこで撮影を依頼されたのは運命とある程度流れに身を任せ、依頼に応えなければならない側面もある。

 さて、僕はある時、依頼に応える形で、カタツムリにカメラを向けた。
 ちょうどカタツムリの写真を撮る人がいなかった訳である。
 実は、カタツムリの撮影には、全く気が乗らなかったのだが、撮影しているうちに、少しずつ興味が湧いてきた。
 その一連の流れで、今度はナメクジの写真を撮った。ある編集者の
「コウラ(甲羅)ナメクジという、カタツムリの殻の痕跡が背中に残っているナメクジがいるらしいよ。」
 という言葉で、突然にカメラを向けてみたいような、また向けなければならないような気になった。
 上の画像のナメクジは、チャコウラナメクジと言って、民家の庭などに多い嫌われ者の帰化生物だが、頭部から体の1/3くらいの背中のあたりが多少盛り上がっていて、そこがコウラである。
 
 先日は、島根県の山中で、一匹のナメクジが目に止まった。
 そこで、まず背中に甲羅があるかどうかを見ると、甲羅がある。甲羅ナメクジである。
 だが、うちの庭に多いチャコウラナメクジの縞模様がない。きっと別の種類に違いないと、持ちかえり写真を撮り、画像を並べてみると、かなり違う生き物のように見える。
 こちらは、ノナメクジではないか?と思っているのだが、それはともあれ、まさか自分が多少なりともナメクジに興味を感じるようになるとは・・・
 自分でもあり得ないと思っていたようなことが起きてしまうことがあり、俺はこれを撮りたい!と自分の土俵にこだわるのもいいのだろうが、流れに身を任せてみるのも悪くない。


 さらにあと1つ。
 うちの事務所の片隅でナメクジを探すと、この貝が多く見つかる。
 こいつは要注意だ。
 オオクビキレガイという帰化生物だが、恐らくそう遠くないうちに全国的に分布を広げ、野菜を食い荒らしたり、大きな問題を引き起こすに違いない。コンクリートで塗り固められた、他の生き物がほとんど見られないような環境で、不思議なくらいに大量に見つかる。

 オオクビキレガイは、殻の先端が欠けるのが特徴である。
 そこから殻の内部の水分が失われるのでは?と、先端を覗いてみると、穴があいているわけではない。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)
(CanonEOS5D 65mm ストロボ)

 

 2006.7.4(火) 

 僕が、撮影が難しいと感じる素材の中に土がある。
 土の中でも特に水に濡れた土は、写真に撮ってみると妙な色合いに発色することがあり、水辺を中心に撮影する僕としては要注意である。
  なぜだか理由はよくわからないが、色が妙に赤くなる傾向にある。

 例えば、夜の田んぼで鳴いているアマガエルの写真を撮ると、場所によっては湿った田んぼの土の色がおかしくなる。ただ、すべての田んぼでそうなるわけではないので、土の成分やその他によるのだろうと思う。
 6月の末に、田んぼで撮影したカブトエビの画像を載せたことがあるが、その日の撮影でも同様の現象で、特に、光が強く当たっている時間帯に撮影した画像が、パソコン上で色補正をしても使い物にならないくらいにひどかった。
 ふと思い起こしてみると、付近の田んぼで以前にザリガニとアマガエルを撮影した時にもそうだった。

 さて、この6月にある湿原で湿地の植物を撮影したら、同様の現象で、植物が生えている土の部分が赤くなり、その赤をパソコン上で除こうとすると、今度はその操作に伴って、土以外の部分の色が逆におかしくなるということが起きた。
 そこで、今日は撮り直しをするために同じ湿原に出かけてみたが、撮りたかった植物は、もう盛りを過ぎ、撮影することができない。
 代わりにハッチョウトンボを撮影していたら、付近にランの花が咲いていることに気がついた。

  ハッチョウトンボは、昆虫好きの間では人気がある生き物だが、僕は、トンボの中では、むしろあまり人気がないイトトンボの仲間が好きだ。

(CanonEOS5D 20mm)
(CanonEOS5D 90mm)
(CanonEOS5D 90mm ストロボ)

 

 2006.7.3(月) 見て覚える

 先日、友人と保育園に通う小さな子供をうちに招待した。
 以前メダカの本を作るた時に子供のモデルが必要で、その時に写真に写ってもらったその子が、ちょっと見ない間にとても大きくなっていることに驚かされた。
 僕は、子供が欲しいと思ったことは過去に一度もないが、二人の様子を見ていると、
「なるほどなぁ。子育って、親子ってこんな感じなんだ!子供って可愛いもんだなぁ」
 と、子供が生き甲斐という人の気持ちが、生まれて初めて多少分かるような気がした。
 子供が好き、嫌いに限らず、日頃自分が考えている好き嫌いには、多分に食わず嫌いな要素が含まれているだろうと思う。
 かと言って、何もかも自分で体験することもできないから、いろいろな人と接し、子育てに限らず、周囲の人から見て覚えることがきっと大切なんだろうなぁとしみじみ感じた。
 ふと考えてみると、武田家では父がファンタジーや頭の中の世界や学問が好きで、閉じこもって勉強することを好み、他の家族とはほとんど付き合いがない。時に人がたずねてくるくらいで、父の方から誰かの元に出向くなどというのは、今は恐らく年に一度もないのではないか?と思う。
 ただ僕が小学生の低学年の頃までは、わずかに親戚付き合いがあり、家族でよそを訪ねることもあったが、親戚以外の誰かの家を、家族でそろってたずねた記憶は僕にはほとんどないし、なんでもない日常のことを周囲の人から見て覚える機会は乏しかったように思う。

 またアメリカザリガニの撮影でも、知人のお子さんにモデルをお願いしたが、本が出来上がったので、昨日、山口県の下関に住む知人の元へと届けにいった。
 今日は、そのついでに島根県まで足を伸ばして、山上にある沼まで歩いてみたら、ここのところの大雨で非常に水位が高い。
 沼のほとりに根を下ろしてる大木の横枝が、水に沈みつつある。

 そうした木にはモリアオガエルの卵が多くぶら下がっているが、どれも撮影するにはちょっと時期が遅く、大半は、卵が孵化をしてしまった後だ。
 先週〜先々週がベストだったのだろうが、ちょうど僕が食あたりを起こして、どうにもならなかった時期で、やっぱり健康が一番!
 ふと倒木に目をやると、写真を撮ってくださいと言わんばかりの位置にモリアオガエルが一匹たたずんでいた。
(CanonEOS5D 17-40mm)
(CanonEOS5D 20mm)

 

 2006.7.2(日) 新鮮な気持ち

 自分の撮影パターンをしっかりと確立しておくと、撮影はぐっと楽になる。
 だから、例えば、もしもスタジオで小さな生き物にカメラを向けるのなら、あらかじめ照明器具をいつでも使用できる状態にセットしておき、あとはシャッターさえ押せばいいような状態を整えようとする。
 だが、撮影が型にはまり過ぎると、やはり飽きてしまい、そもそも写真を撮る気になれなくなる。
 そこで、写真の技術の本を読み、新しいテクニックを導入して新鮮な気持ちを取り戻そうとする。
 僕は時々、
「よくそんなに長続きするね!」
 と、身の回りの人から、ずっと自然写真を続けていることを評価してもらうことがあるが、実は長続きしているのではなくて、同じことをやっているように見えても、その中身は年々入れ替わっているのだと思う。

 写真の技術に関する本を読み始めると、とにかく凝りたくなって、完璧を目指したくなる。
 だが、僕はあえて、完璧なやり方を確立することに力を入れ過ぎないように心がけている。
 あまり早い段階で、何もかもマスターしてしまうと、飽きてしまった時に新鮮な気持ちを呼び戻せなくなって困るに違いない!だから少しずつ前進すればいいと開き直るのである。
 それから、特に必要に迫られてなくても、新しい道具を買ってみることがある。
 もう道具を買うことを止め、何かあった時のために、お金を貯めようか?などと考えることもあるが、そうして守りに入ると、やはり撮影に張り合いがなくなり、ジリ貧に陥ってしまう。
 僕はお金持ちになりたいとは思わないのだが、何も心配せずに、その程度に道具を買うくらいのお金はコンスタントに欲しいなぁと思う。
 地方に住んでいると、撮影の小道具がなかなか手に入らないから、通信販売に頼ることになる。
 僕は、セットショップが好きだが、この店は、以前はホームページから注文票をダウンロードして、それに商品名を書き込んでファックスで注文するというちょっと面倒なスタイルになっていた。
 ところが昨日、物を注文しようとホームページを開いてみると、オンラインショップが開設され、非常に便利になった。
 
 さて、昨日の続きでアメリカザリガニを撮影するために水槽の中を覗き込むと、同じ水槽内で飼育していたオタマジャクシがアマガエルになり、ガラスに張り付いていることに気がついた。
 アマガエルの子供は庭に放すことにしているが、その前に標本的な写真を撮っておくことにした。
 身近な生き物は、写真を撮るぞ!と力むのではなく、日ごろからまめに、楽にカメラを向け、その結果、いつの間にかたくさんの写真のストックができ、それで売り上げがあがるというのが僕の理想だ。
 その理想を実現するためには、いつでも写真を撮るぞ!と、新鮮な気持ちで、その気になっていることが重要である。

 

2006.7.1(土)
 写真展 

 今日から、北九州市の
平尾台自然観察センターで写真展が始まる。
 期間は7月いっぱい。僕と、野鳥の写真家・野村芳宏さんと、トンボの写真家・西本晋也さんの写真が展示される。
 野村さんは、北九州の野鳥フィールドとそこで撮影した写真を、西本さんは同様にトンボを、僕は、北九州から少し足を伸ばせば行くことができる、周辺各県の素敵な水辺を紹介する。
 
 ここのところ、その写真展の準備があったことと、新しい撮影の依頼が集中したこともあり、非常に忙しかった。
 そして、新しい撮影の中の一部はなかなか難易度が高く、それを確実に片付けるためには、本来予定していた自由な撮影時間を相当に削らなければならないだろうと思う。
 久しぶりに、「さて、どうしたら撮れるかなぁ」と頭をひねらなければならないような、特殊な撮影の依頼がきた。
 今日は、その中の1つに取り組んだ。今日もしそれが撮影できなければ、明後日〜明々後日にかけて予定している野外での撮影を中止にして、その時間をあてなければならなくなるが、果たして、何とか予定のシーンをカメラに収めることができた。
 今日の画像は、その過程でたまたま、「これ売れるんじゃないか?」と思えるシーンに行き当たったので、ついでにシャッターを押してみたものだ。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)
 
  
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2006年7月分


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