撮影日記 2006年6月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2006.6.29〜30(木〜金) 写欲

 僕は同じ本を何度も何度も読むことができる。
 悪く解釈すれば、物分りが悪くて何度も読まなければ理解できないと言えるが、ある人から、
「あなたは、同じ事を長く考え続けることができるから凄い!」
 と、ある時、ある機会に誉めてもらったことがあり、
「そんな解釈もあるんだなぁ。」
 と、それ以来、それを本を読むことにも当てはめ、何度も読むことができると受け止めることになった。
 ふと考えてみると、僕は理解が早い人と話をするよりも、理解に時間がかかる人と話をする方が楽しい事が多い。
 理解が早い人が相手の場合、これは頭がいい女性に多いように思うのだが、自分が本当に伝えたいことが伝わる前に、相手が分かった!と、それ以上考えることを放棄してしまうので、大まかには伝わるが本当の意味では伝わらないし、楽しくないのである。
 喩えるなら、ほどほどに美味しいチェーン店の料理のようなもので、味わいが足りないのだ。
 僕は女性はすこしドンクサイくらいが好きだ。

 さて、ここ数日は、以前にも何度も読んだことがある写真の照明に関する本を引っ張り出し、また読み返している。
 すると不思議なことに、十分過ぎるくらいに理解しているつもりの本でも、毎回、新しく得られるものがある。
 新しく得られるものがあると、試したくなる。
 そこで、その照明の方法で、オオケマイマイを撮影してみることにした。

 今シーズンは、スタジオでの撮影がなかなか手に付かなかったことは、以前にも書いたことがある。撮るぞ!という写欲が湧かなかった訳だが、方法が変わると突然に撮影が楽しくなる。
 オオケマイマイの標本的な写真は、同じような写真が、すでに手元には山ほどあり、しかもここ数日は仕事が多くて非常に忙しいというのに、そんなこと関係無しに、写欲が抑えられなくなる。

(かがくらんど7月号 やあ!ザリガニくん 世界分化社 全27ページ)
 常に新しいことを試すのと、あと1つ、プレッシャーの中で撮影をすることも大切ではないか?と僕は思う。
 プレッシャーと無縁で、自分のスケジュールに負担をかけないようにして写真が撮れればなぁと望むこともある。だが、実際にそんな時間が得られても、結局、何か張合いが不足してしまう。
 昨年から、デジタルカメラを使って本格的な撮影に取り組んでいるアメリカザリガニも、やはりそうだった。
 最初は自分のスケジュールではじめた撮影だが、全27ページの本1冊分の撮影を担当することになるとやはり気合が入るし、そうして考えてみると、現場で仕事をするチャンスを与えてもらい導いてもらわなければ、なかなか自分一人では成長できないものだなぁと思う。
 (CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.6.27〜28(火〜水) 思い出

 人のつながりって、ありがたいことだなぁとしみじみ思う。
 この1〜2月に北海道に取材に出かけた際に、北海道在住のエゾリスの写真家・Kさんから声をかけてもらい、北見のフィールドを案内してもらったことがあるが、そのKさんが、赤旗新聞に掲載された昆虫写真家・海野先生の記事をファックスで送ってくださった。
 先生の子供時代の思い出を記事にしたもので、僕が今までに読んだことがある記事の中で最も面白く感じた記事だった。

 生き物の写真家と言えども、写真家になりたいと思った動機は人それぞれで、例えば、汚れた環境を目にした時に、何か訴えたくてカメラを手にしたような方がおられる。
 僕の場合は、物心ついた頃からただ生き物が好き。生き物と接しつつ生きていくすべが欲しい。これに尽きる。
「自然写真を撮るのに科学の知識は要らない!」
 と主張するのは、日本人で最も世界的に高く評価された自然写真家・岩合光昭さんだが、確かにそうかもしれないなぁと思う。きっと、それは正しいのだと思う。
 だが僕は、それでも自然科学出身の写真家が好きだ。
 科学出身である海野先生の写真を見て写真家になりたいと思った。それから、海外の写真家では、やっぱり科学者肌のマイケル・フォグデンの写真が好みに合う。
 ところが、僕は一方で自然科学にこだわりたくないと内心考えている。もちろん自然科学写真を捨てるつもりはないが、できれば、将来は、そこからちょっと反れた自然にカメラを向け、それで生活ができればなぁと考えることがある。
 なのに自然科学出身の写真家が好きなのは、学生時代に科学を専攻した人は、恐らく四六時中生き物のことを考えて過してきた人だからではないか?と思う。
 僕が子供の頃、生き物が好きで一緒に自然の中で遊んだ仲間達の中に、僕以外に生物学に進んだ者はいない。
 多くの人にとって好きなことと進路はまた別問題で、経済学やその他に進学した者が多い。
 ところが僕は、好きなことと進路を切り離すことができなかった。それを切り離すなんて、あり得なかったし、彼らに、何で生物学に進まないの?と聞いてみたいような気もする。
 同じようなタイプの人が撮る写真が、好きなのかもしれないなぁと思う。

 さて、僕がはじめてカブトエビを目にしたのは、小学生の時だ。
 誰だったか、友人が、
「近くの田んぼにカブトエビがいるよ。」
 と教えてくれたのがきっかけだったように記憶している。
 生き物を見て、込み上げてくる思いを抑えられなくなったことは、これまでにも数知れずあるが、はじめてカブトエビを目にした時の感動は、その中でもベスト3に入るだろう。
 なんてカッコイイ生き物なんだ!

 僕は写真の技術に拘るが、それは、大好きな生き物のあの質感を、余すところなく伝えたいからだ。 
 写真の技術その物が好きなわけではない。
 少しでもリアルに生き物を写し取るために、拘るのである。
 今日は、カタツムリにカメラを向ける際に、いつもとは違う照明を試してみた。いつもは、被写体を平均的に照らす最も手堅い方法を選んできたが、今回は、ある程度明暗をつける手法を選んでみた。
 (CanonEOS5D 20mm)
 (CanonEOS5D 100mm ストロボ)
 (CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.6.26(月) フリーデルマイマイ

 梅雨の雨が本格的に降り始めると、僕は、うちで生まれたカタツムリの子供を、その親を採集した元の場所へと放しにいく。
 その際には、なるべく雨の日を選ぶ。
 カタツムリは雨の日に活発に活動するが、僕はその理由を、乾燥に弱いというだけでなく、むしろ昆虫を避けているのではないか?と思っていて、生まれて間もない小さなカタツムリが虫にやられてしまわないための配慮である。
 今日はそのついでに、雨の中、傘をさしてカタツムリを撮影してかえることにした。

 いつもは、ツクシマイマイという大型の種類を主に探すが、今日は別の種類を見てみようと、過去にあまり足を運んだことがない場所を選んでみた。
 上の画像は、神社の森と通路を隔てる竹で作られた垣根だ。この場所ではフリーデルマイマイを多く見かけた。
「なるほどなぁ〜。日頃は、この垣根の裏の森の中に隠れているんだな!」
 と写真を撮りつつ、
「と言うことは、この垣根の裏面の森に面している側には、もっとたくさんのフリーデルマイマイがへばりついているに違いない!」
 と、裏に回ってみると、まったくその姿がない。
「そうか、そうか!カタツムリは垣根の苔を食べているのだから、苔が多く生えている日当たりがいい通路側の面が好きなんだ!」
 つまり、垣根をはさんで日陰側に隠れ、雨の日に日向側で苔を食べる。森の中の比較的暗い場所を選んでいるように見える種類でも、ただ暗いだけでなく、日向と日陰の境目の日陰が理想の環境ではないだろうか?

 つい先日、カタツムリの殻には、拡大すると凹凸があり、それは汚れを付きにくくするためという説があることを紹介したばかりだが、フリーデルマイマイの殻には独特の質感があり、拡大するまでもなく殻に明らかなデコボコが見られる。
 このデコボコにも、汚れを付きにくくする役割があるかどうかは不明。
 
 フリーデルマイマイの殻のデコボコは、水にぬらすと、よりはっきりと浮き出てくる。
 (CanonEOS5D 20mm)
 (CanonEOS5D 90mm ストロボ)
 (CanonEOS5D 65mm ストロボ)

 

 2006.6.25(日) 更新

今月の水辺を更新しました。

 

 2006.6.23(金) 好奇心

 養老猛さんと言えば、バカの壁のヒットで有名になった、本職は解剖学者だが、昆虫採集の大家でもある。僕は、日頃あまり読書をする方ではないし、バカの壁を読んだことはない。だが、昆虫に関して書かれたものには、やはり好んで目を通す。
 そして、養老さんの本を読んでみて、しみじみ感じるのは、自信である。
 何に対する自信か?と言えば、それは、研究という行為に対する自信だ。

 昆虫を採集すると、昆虫を殺すことになる。
 中には残酷だ!と言う人がいる。
 やさしくない!という人もおられる。
 だがそんなもんじゃないんだ!好奇心を持ち、それを満たそうとするのが人間であり、人が好奇心を満たそうとすることは、動物が食事をしてお腹を満たそうとするのと同じことなのだと。
 ただ人にとっての研究と、動物にとっての食事が異なる点は、食事は食べなければ死んでしまうが、研究はしなくても死んでしまうことはない点ではないだろうか?
 それから、人によって、ある研究に興味を感じる人もいれば、そうではない人もいるだろうという点である。
 例えば、昆虫に興味がない人にとって、昆虫採取は、ただのオタクによるわがままな殺戮行為に映るのかもしれない。
 それに対して、「そうじゃない(養老さんが本当にそう思っているかどうかはもちろん不明)。」という絶対的な自信のような何かが、養老さんの文章からはビンビン伝わってくるように僕には感じられる。
 
 研究に興味を感じる人と、そうではない人がその点で分かり合うことは、恐らく不可能ではないか?と、僕は思う。
 そう言えば、これは出所を思い出せないのだが、内容からすると、自然保護関係の本か何かではないか?と思う。どなたかが、
「研究者が人の病気を解明するために、動物を殺すことがあるが、それなら理解できるし、その研究者の熱意に頭が下がる。でも、ただの好奇心のための研究で動物が殺されるのは許せない。」
 といったことを書いておられた。
 きっとその方は、やさしさからそうお書きになったのだと思う。だが僕は、その人のやさしさとは裏腹に、それを読んで非常に悲しい気持ちになった。
 人の役に立つ学問しか認められないような社会は、つまらない社会のような気がするからである。

 好奇心が理解できない人が、その理解できない自分に当てはめて、その人なりに研究者を解釈すれば、残酷という結論が導き出せるのかもしれない。
 だが、果たして本当に残酷という切り口で切れるものなのだろうか?
 ならば、食事は残酷ではないのだろうか?
 食事は必須だから、生き物を殺しても許される?
 それなら、もしも将来食べ物が人工的に合成できるようになり、他の動物を殺さなくても人が命を維持できるようになれば、それを食べておけばいいのだろうか?
 恐らく多くの人の答えはNOだろう。食事は、一見命を維持するために食べているような気がするし、入り口と出口だけを見て理屈を言えば全くその通りだが、僕は食事は大部分は美味しいから食べるのではないか?と思う。
 その、おしいい!という感覚こそが人が生きている証しではないだろうか?
 それがないのは生ける屍ではないか?
 好奇心も同じではないだろうか?そこに残酷という切り口を安易に持ち込むことに、僕は違和感を感じる。
 もちろん、残酷かどうか?という視点を忘れてはならないとも思うが。

 さて、今日は昨日のアマガエルが一日でどれくらい変化するかを見せたかったのだが、WEB用の画像を準備する前に、うっかり画像処理用のパソコンを終了させてしまったので、画像は無しにして、日頃感じていたことを書いてみた。

 

 2006.6.22(木) 変態

 学生時代に、学校で笑ってはならない真面目な状況なのに、笑いが堪えられなくなり困った経験が何度かある。
 そんな時、僕は笑いを収めるためになるべく面白くないことをわざわざ思い出したものだ。
 例えば、数学の解の公式を思い出してみる。2a分のマイナスb、プラスマイナス、ルートb二乗マイナス4acなどと心の中で唱えてみるのである。
 遺伝の学習の際に、ホモとヘテロという言葉が出てきた時もそうだった。ホモって・・・シモネタやん!と、おかしくてたまらなくなった。
 それから、変態という言葉をはじめて習ったときも、やっぱりおかしかった。
 しかも変態には完全変態と不完全変態がある・・・などと続くものだから、完全な変態って、一体誰だ!などと考え出すと、もうどうにも止まらなくなった思い出がある。
 
 さて、アマガエルのオタマジャクシが変態の時期にさしかかろうとしている。
 オタマジャクシに生えてくる手足は、陸に上がってから役に立つものかと思えば、意外にも水中で実に上手く手足を使う。
 オタマジャクシの段階での水中での手足の使い方は種類によっても若干異なるようだが、ヌマガエルのオタマジャクシは、足が生えてくると、その足を使って水中を歩くように移動する。
 アマガエルの場合は、あまりそうした行動を目にすることはないが、手が生えてくると、その手で物を掴むようになる。

 足は、最初は非常に小さなものが生え、それが次第に大きくなっていくが、手は、表皮の内側である程度大きくなり、それが突然、表皮を突き破るのか、或いは、手が出てくるための穴があいているのか、ポロッと生えてくる感じがする。 
 それから、オタマジャクシと言えば、手が生え、足が生えることばかりが取り上げられるが、顔は、口元が特に大きく変化する。
 上陸をはじめると、やがてオタマジャクシのおちょぼ口から、カエルのガマ口になわけだが、同時に尾っぽがグングン短くなる。
 (CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.6.21(水) トンボ写真のスタンダード

 シオカラトンボという名前は、多くの人に知れ渡っているだろうと思う。
 だが、シオカラトンボが正確にわかる人は、自然ファンの中でも意外に少ないのではないか?と思う。
 シオカラトンボと言われてその姿がある程度思い浮かぶ人でも、実際は、シオヤトンボやコフキトンボやオオシオカラトンボやハラビロトンボあたりも含めて、シオカラトンボだと思い込んでいる人が大半だろうと思う。
 そう言えば、子供頃、シオカラトンボの青いオスの中にも、かっこいい奴とそうでない奴がいて、どうせ捕まえるのなら、ゴツくて青色が濃い、かっこいいシオカラトンボを捕まえたいと必死に網を振り回した記憶があるが、今考えてみると、かっこいいシオカラトンボは、実はオオシオカラトンボだったに違いない。
 それでも、つまり多くの人にはほとんど区別がつかなかったとしても、トンボ写真のスタンダードはやはり名前が知れ渡っているシオカラトンボであり、プロならば、あらゆるトンボの中でも一番多くカメラを向けてもいいトンボと言ってもいいのかもしれない。
 が、カメラを向けてみると、不思議なくらいに絵にならず、写欲をそそらないトンボが、またシオカラトンボなのだ。
 今日も、シオカラトンボを撮影するつもりで出かけたのに、気付くと、オオシオカラトンボの撮影に夢中になっていた。
 絵になりにくい被写体の撮影は実に難しい。
 シオカラトンボの撮影は、また明日にでもやり直したい。
 (CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.6.19〜20(月〜火) 開き直り

 この日記の中に時々登場するトンボの写真家・西本晋也さんは、写真店を切り盛りしているが、お互いに自営であるという共通点があり、僕にとって西本さんの言葉には学ぶべきことが多い。
 西本さんの方がやや年上であり、先輩のようなものである。だから話が聞きやすいということもあるだろうと思う。
 その西本さんが、ある時、 
「一人で仕事をするには、鉄の意志が必要ですよね!」
 と、おっしゃったことがあるのだが、僕から見た西本先輩は余裕で仕事をしているようにも見えていたので、ちょっとばかり驚かされた。
 
 ちょうどその頃、僕は自分で自分を管理することの難しさを感じることが多く、なんでこんなに自己管理に疲れなければならないんだ!とイライラする時間が長かった。
 だが、西本さんのその一言に、
「な〜んだ、誰もそうなんだ!あんなに余裕でやっているように見える人でも同じなんだ。」
 と、妙に安心させられた。
 だからといって、先輩の一言で自己管理が楽にできるようになるわけではないし、何か自分の生活が楽になったわけではない。だが、うまく自分がコントロールできない時に、「誰もが通る道なのだから、慌てず、じっくり対応しましょう。」と、多少開き直ることができるようになったように思う。
 自分には何かができるという自信も大切だが、できなくてもいいじゃない!すべてが上手くいかなくてもいいじゃない!という開き直りも、僕はまた大切だと感じる。
 そして、正しく開き直ることは実は難しいのではないか?と思う。なぜなら、しばしば、『開き直る』つもりが『諦める』になりがちなのである。
 開き直ることは、別の言葉を使えば受け入れることなのかな?と思うが、僕は自信がある人よりも、むしろ開き直れる人を怖いと感じることが多い。
 
 さて、ようやく体調が戻りつつある。まだ、やや腹具合が悪い感じが残っていて、付近にトイレがない場所には行きたくないが、昨日の午後くらいから、外出もままならないという状況は抜け出したようだ。
 ただ僕の場合、ひどく具合を悪くした後は生活のリズムの乱れから、実は具合は良くなっているのに、頭痛がしたり、寒気がしたり、吐き気がすることがある。
 そして以前はそんな時に、「何とかしなければ!」と必死に自分に鞭を入れたものだが、最近は、「まあ、腰を据えていこう!」と多少は受け入れることができるようになってきた。
 鞭を入れるよりも、僕の場合は、飼育中の生き物の世話をして容器を洗う、餌の野菜を切るなどといった単純な作業をすることが、そこから抜け出すためのいい助走台になることが多い。
 それから、人と話をするのもいい。
 今日は、北九州の平尾台というカルスト台地の観察ガイドさん達をたずねてみたが、実に面白い話を聞かせてもらった。
 もう完全復調したのではないか?と思う。

 

 2006.6.16〜18(金〜日) 食中毒

 何が悪かったのか、ひどい食中毒にかかってしまった。
 一昨日の昼間くらいから、具合がおかしいなぁと感じてはいたのだが、その夜は仲間と食事をする約束になっていて、楽しみな集まりだったこともあり思う存分夕食を食べたら、深夜になって激痛が襲ってきた。
 夜は数十分おきに目が覚め、いったい何度トイレにかけ込んだことだろう?
 症状は昨日も治まる気配がなく、30秒以内にトイレにかけ込める位置から離れることができない。そこで、寝て過すよりはマシだろうと、水槽の中の生き物たちにカメラを向けて過すことにした。

 どうせ他に何もできない状態だったから、日頃、ゆっくり時間をかけて撮ってみたいなぁと感じていながら、なかなかその時間が取れなかったカブトエビを撮影してみることにした。
 お腹は痛いが、他にやることがないと、目の前の生き物に集中することができ、それはそれなりに良い。撮影が非常に面白くて、生き物ってやっぱり面白いと改めて感じる。
 逆に、日頃は伸び伸び撮っているつもりだったのに、あれをやらなければならない!とか、売らなければならない!と、やっぱり縮こまっているのかな?
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.6.15(木) カタツムリ

 先日、昆虫写真家の新開孝さんのホームページの日記にカタツムリの画像がUPされていたが、実に面白く、いい写真だなぁと感じた。
 カタツムリが胴体をピヨ〜ンと伸ばし植物の茎を登っていくその姿、その緊張感が実に良かった。
 カタツムリと言えば、恐らく今の時点で、日本で一番たくさん撮影しているのは僕だと思うが、僕が撮ったことがない写真である。
 ふと、なぜ僕に撮れないものが、日頃主に昆虫を撮影している新開さんには撮れるのだろう?と考えてみる。
 才能や感性の違いといった理由が最も分かりやすいが、それで片付けるのは卑怯な気がするし、すると思い当たるのが、僕が被写体を選び過ぎているのではないか?ということだ。
 カタツムリは気持ち悪いとかわいいの境目にいる生き物だから、僕は気持ち悪いと受け止められないように、なるべくかわいい種類を選んで撮影してきた。
 かわいいとは、具体的には殻に対して胴体が小さな種類で僕はツクシマイマイをよく撮影するが、新開さんが撮影した種類は、逆に殻に対して胴体が大きな種類で、極端に説明すれば、ナメクジの背中に小さな貝殻が乗っかっているようなイメージだ。
 その分、胴体の部分の動きの面白さが写真の中で際立っていたように思う。
 新開さんは、わざわざそんな種類を選んだわけではないだろう。
 面白いと感じたものに素直にカメラを向けたのだと思う。
 そこに、かわいい種類を選ぶなどいうフィルターがないから、それにカメラが向くのではないか?そんなことを考えてみた。
 ともあれ、すごい先輩に写真で打ちのめされるのは、実に気持ちがいい。

 さて、シチュエーションを選び過ぎていることを随所で修正しなければならないと感じたわけだが、習慣になっている部分もあるし、少しずつ改善していこうと思う。
 いつもなら、水槽撮影の際には、被写体をクリアーに写すために水を汚さないように砂や砂利を敷くのだが、それもやはり作り過ぎなのかもしれない。
 土の上にすむ生き物の撮影には土を敷こう。
 今回は、被写体をクリアーに写すことをあまり気にせずに撮影してみようと思う。
 その土の中にヤゴが紛れていて、今日は、オタマジャクシの撮影中に脱皮をはじめた。

 ヤゴが脱皮を終えると、オタマジャクシがやってきて、抜け殻を食べてしまった。

 カブトエビは、泥の中の食べ物をあさるのだろう、柔らかい土を敷いた水槽に入れると、泥を巻き上げ、水槽があっという間に濁ってしまうが、それはそれでいいと受け入れてみることにした。
 今回、オタマジャクシやヤゴやカブトエビを撮影した水槽は、撮影のために特注した奥行きが55センチもある特別なものだが、できれば今の状態で数年間維持してみたい。
 その間に、少しずつ土の表面が硬くなり、植物が根を伸ばし、やがて泥を巻き上げなくなっていくに違いない。
 最初は今回撮影した生き物たちのように、田んぼのような環境にすむものを撮影し、やがて土が硬くなってきたら、メダカやアメリカザリガニの撮影が可能になるのではないか?と思う。スタジオ撮影だからと言って、何でも強引に作り上げてしまうのではなく、ある程度、時間に身を任せてやってみようかなと思う。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.6.14(水) 才能

 時々、僕に写真や芸術の才能があったらなぁと考えることがある。
 才能に恵まれている人の世界を目の当たりにして、羨ましいなぁとあこがれることがある。
 だが、才能があったらあったで、また大変なのかな・・・と勝手に納得してみる。
 才能に恵まれている人は、恐らく、その才能を活かさなければならないのだろうし、その結果、今の僕のように、このシーンが売れるからなどという短絡的な理由で写真を撮ることはできないのかもしれない。
 ちょうどプロ野球のバッターの中で遠くに飛ばす才能がある人には、バットを短くもち、引っ張るのではなく反対方向に流し打つなどいう打ち方が許されないように。

 さて、自然写真の世界には定番のシーンがあり、僕がよく撮影するものの中では、雨にアジサイの組み合わせや、アジサイにアマガエルの組み合わせなどが、それにあたる。
 そうした定番には毎年コンスタントに需要があり、自分が望む望まないに関わらず写真の注文がくる。
 そして、残念ながらというか幸いにもというか、僕には特別な才能がないので、それを撮影することになり、その結果、多少生活が潤う。
 ただ、たとえ自分に特別な才能がなかったとしても、毎年同じシーンを同じように撮影するのはあまりに能がないように思えるから、自分で自分に一応の課題を課す。
 今年の場合は、雨、アジサイ、2匹のアマガエル、鳴くの4つの条件を一枚の写真に写し込んだ写真を狙ってみた。その中でも4つ目の鳴くは非常に難しくて、今日は諦めかけたころに一枚だけ撮影することができた。
 ただ理想を言うと、背景のアジサイの花を、もうちょっとアジサイだとはっきり分かるように撮りたかったし、左側のカエルの左目と右側のカエルの左目にピントを合わせなければならないところが、右側のカエルの右目にピントが合ってしまい、写真は完璧なイメージ通りではない。
 
 ついでに、アマガエルのオタマジャクシも撮影してみた。
 オタマジャクシが最もオタマジャクシらしく見えるのは背中から見たときで、また意外に愛らしいのが口元である。
 それらが同時に収まった写真をとカメラを向け、これもたった一枚だけ写真が撮れた。
(CanonEOS5D Tamron90mm)
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.6.12〜13(月〜火) バイオミミクリ-

 バイオミミクリ-という考え方があるのだそうだ。
 バイオミミクリ-とは、生き物を人間が積極的に真似ることで、例えば、カタツムリの殻の表面を拡大してみると、殻には細かい模様があり、汚れが付きにくくなっているらしい。それを、人が何かを作る際に取り入れるのである。
 先日、このホームページの中にあるカタツムリ募集の呼びかけに応える形で、一匹のカタツムリが送られてきた。
 送られてきたカタツムリは、これが野生か?と、驚かされるほどに殻に傷一つなく、大変に美しい。そこで、せっかくだから標本的な写真を撮影した後で、殻を拡大して、その殻の表面の細かい模様を撮影してみることにした。

 さて、上京の疲れで、昨日はカタツムリの写真を数十枚撮影しただけ。今日は、ビデオ撮影のためのアクセサリーを買いに出かけただけ。それ以外の時間は、ほとんど丸一日寝て過した。
 僕は人ごみと騒音が苦手だから、都会に出かけると自分でも情けなくなるくらいに疲れ果て、毎度のことではあるが、帰宅後は1週間くらい、寝ても、寝ても、まだ眠たくなる日々が続く。
 実は、上京して、先輩方や友人、出版に携わっておられる方々と楽しく話をして、さまざまな刺激を受け、書くことは山ほどあるのだが、都会で受けたダメージがあまりに大きく、全く気力が湧いてこない。
 客観的に言うと僕が弱過ぎるのだろうが、自分中心に考えると、東京に住んでいる人は毎日あの中で生活しているのだから凄い!
 これは冗談ではなくて、もしも都会の企業などに勤めていたら、僕はほぼ間違いなく、適応できずに引き篭もっているような気がする。
(CanonEOS5D 65mm ストロボ)
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.6.10〜11(土〜日) 愛国心

 日本自然科学写真協会の総会に出席するために、できて間もない北九州空港から飛行機に乗り、羽田へと向かった。
 福岡県には福岡空港という都心に近くて便利と評価の高い空港があるが、僕の自宅からは距離があり、行きはいいが、都会の人ごみに溺れそうになりクタクタになって帰宅する帰りの、空港から自宅までの道のりがきつい。
 その点、北九州空港なら近いし、おまけに駐車場が一日400円と激安だから、車を4〜5日でも放置しておくことができ、JRやバスに乗らずに、すぐに帰宅できる点もいい。
 福岡空港の付近にも、車を預かってくれる場所はあるが、確か一泊2000円くらいかかったと思う。2000円は払えない額ではないが、物にはふさわしい価格があるような気がして、どうしても納得できず、福岡空港を利用する際には、JRに乗って空港まで向かっていたのである。

 さて、飛行機が羽田に近づき、空から都会の町並みを眺めると、
「文明って凄いなぁ。」
 と、人の営みに対する一種の尊敬の念がこみ上げてきた。
 その中に入り込んでしまうと、例えば、それまで生き物たちを見つめていたいいフィールがコンクリートで塗り固められ、やがてそこから生き物の姿がなくなっていく時に、
「畜生、こんなことしやがって!」
 と怒りや悲しみを感じることが多い。ところが、高いところから見下ろしてみると、全く別の思いが込み上げてくるのである。
 ふと、小学校の見学旅行が思い出された。
 どこかの洗剤工場に出かけ、オートメーション化されつつあった設備を見学し、翌日は授業でベルトコンベア-などという言葉をはじめて学び、日本のすぐれた工業力について、先生が、本当に嬉しそうに、誇らしげに話してくださった。
 今は徹底して悪役になったダムだってそうだった。
 先生が職員旅行で近所の畑のダムを見学して帰った翌日には、いかに日本の土木建築の技術水準が高くて、誇れることなのかを熱心に語ってくださった。
 飛行機が着陸態勢に入り、空港に降り立つまでの間、そうした機会に先生が見せてくれた誇らしげな表情が、まるでつい最近のことのように次々と思い出された。
 最近教育の現場に愛国心という言葉を取り入れるかどうかの議論があり、それは戦争や国防に絡んで議論があるわけだが、僕は、子供の頃に先生がそうして見せてくれた日本って凄いんだよという表情こそが愛国心だったのだと思う。
 僕が子供の頃お世話になった先生方には、愛国心があったように思うし、やっぱりそれは大切なものであるような気がする。
 同時に、ちょっとした焦りがこみ上げてくるし、多少冷や汗がでる思いがする。
 僕は自然や生き物が好きだし、つい環境の変化や文明を否定したくなる。
 そして変えることが悪、自然を残すことが善という構図を作りたくなるが、やっぱり文明や人のすることに敬意を払うことも忘れなければならないと。

 

 2006.6.9(金) 飼育

 明日は、写真協会の集まりで上京し、明後日は、ちょっとばかり仕事に関係する話をして、その後福岡に帰る予定である。たとえ一日でも、事務所を空けるとなると飼育中の生き物たちのことが気になり、その前日には時間を掛けて世話をすることが多い。
  
 さて飼育と言えば、昨年ふとしたことがきっかけになり、生まれて間もないカタツムリを上手く育てる方法を編み出した。正確に言うと編み出したというほどのものではないが、ちょっとしたコツを掴み、それまでは念入りに時間をかけて飼育していたところが、ほぼ放っておくことが可能になった。
 1つの生き物を長く扱うと、時々そうした小さな発見があり、それが何か1つのことを継続する面白さでもある。
 さらに、今年になって、大人のカタツムリをより上手く飼育する要領を掴んだような気がする。
 これはまだよく確認していないのだが、普段は滅多に死ぬことがない大人のカタツムリでも、時々、病気でも流行っているのかな?と疑いたくなるような死に方をすることがある。
 ところが、飼育容器にある処置を施すことで、そうしたトラブルに見舞われなくなった。
 まさにオタク道まっしぐらな話ではあるが、それはただ単に生き物を上手く飼うことができ仕事に都合がいいということだけでなく、そもそも、そうした病気のような現象がなぜ起きるのか、その一端をうかがい知ることができる点が面白い。
 撮影のために生き物を飼育することが、結果として、実験をすることと同じ役割を果たすことがある。
 動物の行動を調べる学問などは、実験という手法が取り入れられたことで大きく発展してきたわけだが、野外で生き物を観察することは大変に面白いが、やはり限界がある。
 生物学を少しでもかじったことがある人には言うまでもないことだが、実験には実験の面白さや役割がある。

 生き物の研究の難しいところは、相手が生き物であることだ。
 生き物に関するデータには大きなバラツキがあるし、そのバラツキを多く含むデータの中から、「こんな法則性がありますよ。」と、何がしかの規則性や法則性を抜き出すことは、なかなか骨が折れる作業である。
 中には、高い評価を受けた研究でも、
「このデータから、こんなことが本当に言えるの?」
 とつい疑問を感じてしまうほど、データの解釈が難しいこともあるし、ましてそうした作業に携わったことがない人にとっては、生物学がこじ付けや捏造の世界に感じられるのではないか?と、時に僕は感じることがある。
 逆に、一般的には科学の世界では、たくさんのデータを取って、そこから何か物を言うわけだが、生物学の場合は、たった一つのデータが大きな意味を持つこともある。
 とにかく、ファジーな要素を多分に含んだ、科学としてはスキッときれいに割り切れない学問であることだけは確かだと思う。
 特に、野外で観察するだけでは、「これが結論です。」と言い切れるところまでは、なかなか到達できないことが多い。証拠が付きつけられないのである。
 僕の恩師は、野外での研究の経験者だったにも関わらず、学生が野外で研究することを多少嫌っていた側面があった。
 その理由は、野外での研究ではなかなか証拠が付きつけられないから、結局作文レベルに終わることが多いという理由であった。

 

 2006.6.8(木) 生き物が好き

 何のために自然写真の仕事をするのか?は、人によって様々である。先日、ある先輩とやり取りをしていたら、その先輩は、「本を作ることだ」とおっしゃったが、僕の場合は、生き物と接して生きていきたい。これが何よりも大きい。
 最近、立て続けに、
「自分が作ったものが形になって残ることが羨ましいなぁ。我々には何も残らないからね。」
 と言われたのだが、何かを残したいというのは、本を作りたいに近い発想だと思う。
 だが、僕自身は、何かを残したいという気持ちはあまりない。
 僕の場合は、単純に、生き物が好きである。

 ただ、生き物が好きが写真を撮る動機であっても、それだけで仕事として自然写真を続けていくのは難しいと思う。
 なぜなら、そんな僕でも、常に生き物が好きなわけではないからだ。
 例えば、山道を早朝から夕方まで歩いてクタクタになったところで、日頃出会いたいと望んでいた何かの生き物に出会えたとしても反応できないことがある。
 また、病気で体調がひどく思わしくない時には、生き物どころではないこともある。
 生き物が好きという僕の思いは絶対的なものではなくて、体力や体調や、身の回りの人間関係なども含めて、多くのことに影響される。
 したがって、もしも生き物が好きだけで自然写真の仕事をやり遂げようとすると、何かその気になれない事情が重なった時に、情熱が失われ、下手をすると破綻してしまう。
 そこで僕は、生き物が好き以外にも自然写真の仕事の中にやりがいを見つけ、幾つかの動機によって仕事が支えられているような、そんな状態を作るように心がけている。
 時には、何かを残したいや尊敬されたいが、原動力になったっていい。
 いつもそうだと困るが、お金が欲しいが仕事の原動力になってもいいと思う。
 組織が嫌いという性格は、一般的にはあまりよくないことだとされ、特に子供のころは学校や家庭でそれを修正される傾向にあるが、組織が嫌いなことだって、自然写真の仕事を支える大きな原動力になる。
 会社勤めなんて耐えられないだろうから、自然写真を頑張ろうと。そんな日だって、あっていいのだと思うし、逆に会社に勤められてしまう人は、むしろ自由業の世界で生きていくには向かない性格かもしれない。

 お金持ちになりたいとはあまり思わないが、お金が振りこまれたときに喜ぶ。
 それから何か残したいとは思わないが、写真が形になったときにも喜ぶ。
 特に尊敬されたいとも思わないが、自然写真家として敬意を払ってもらい、それなりの扱いを受けたときにも喜ぶ。
 喜べることが、大切だと思うのである。
 誰しも一度くらい、学校や家庭で、
「感謝の心を持ちなさい!」
 と言われたことがあるのではないだろうか?
 感謝の心は持とうと思って持てるものではないし、そんなことを求める人に対して、正直に言うと、
「馬鹿じゃないの?」
 と僕は感じないでもない。
 だが、良く考えてみれば、知らず知らずのうちの感謝していることがあり、それは、喜んでいるときである。
 例えば、いい写真が撮れて喜んでいるときには、そこに導いてくれた方々に感謝し、写ってくれた自然にも、またそこに自分が存在できたことにも無意識のうちに感謝しているように思う。
 感謝するって、喜ぶことなのかな?と、最近考えるのである。  

 

 2006.6.7(水) イメージ

 昨日のカイエビ、しみじみ面白い生き物だなぁと思う。
 惚れた!
 今日もまた、朝からそのカイエビの写真を撮った。せっかく、一日早く野外での撮影を切り上げ、カイエビを持ちかえったのだから、どうせなら少しでもいい写真を撮っておきたかったのである。

 昨日の画像は、水槽の中で撮影したものだが、いつもは水槽撮影を「苦痛だなぁ」と感じることが多い。
 水槽撮影にはさまざまな制約が付きまとい、その制約の中で写真を撮ると、誰が撮影しても同じような写真になり、それが面白くないのだ。
 だが、これが撮りたい!と思う被写体があると、やっぱり撮影は面白くて、日頃から水槽撮影の技術を身に付けておいて、本当に良かった。
 なるほどなぁと思う。
 野外での撮影と自然を室内に持ち込んでのスタジオ撮影が、こんな感じで噛合えばいいのか!と、自分の中で、1つイメージが出来あがったような気がする。
 そうしてイメージを持っておけば、はじめは多少意識しなければならないかもしれないが、やがて自然と自分の行動が、そのイメージにピシャリ当てはまるようになってくることが多い。
 イメージが大切なのである。

 ただ、イメージは非常に大切なものではあるが、経験に基づかず、勝手に頭の中で作り上げられたイメージは、むしろ有害であるような気がする。それは正確には、イメージではなくて妄想であろう。
 一生懸命物事を考えているのに、何をやってもなかなか上手くいかないという人には、妄想癖がある人が多いように感じる。
 そうではなくて、まず先に体験があり、その体験の中に偶然の小さな成功があり、イメージはその中から生まれてくるべきものだと思う。
 自然の中を歩いてみる。
 写真を撮ってみる。
 プロの写真家を志す人なら、ああだ、こうだと理想や気難しいことを言わず、写真を売ってみる。
 たとえ理論派でも、どんな頭がいい人でも、最初は下手の鉄砲数打ちゃ当たるが必要なのだ思う。
 やってみることが大切なのだと感じる。
 
 さて、次回、カイエビを採集した沼を訪れる際には、水中撮影の道具を持っていく予定だ。
 ただ、山上の沼まで本格的な水中撮影の機材は持ち運べないから、簡易的な方法を取らなければならない。
 水槽の中でカイエビにカメラを向けてみると、ユラユラとした動きや、半透明の透けて見える体のせいで大変にピント合わせが難しくて、水槽の中でさえ、撮影がかなり難しい。
 それを本格的な水中撮影の道具なしに、簡易的な手法で、自然の水溜りの中で撮影するのは相当に難しいことが予測されるが、とにかくやってみようと思う。

 

 2006.6.6(火) 神秘的

 自然を相手にしていると、
神秘的だなぁ。」
 と感じる機会がある。
 僕の場合、少なくとも、
「なるほど!」
 と感じるよりも、
「神秘的なぁ。」
 と感じることの方が多いが、「なるほど!」と感じるときは、その現象がよく理解できている時で、「神秘的」と感じるときは、その現象が自分の理解を超えていている時である。

 例えば、ショウジョウバエの突然変異に、触覚の代わりに足が生えてくるものがある。
 僕は生物学の出身だし、本を読めば理屈はわかる。だが、その写真を見ると、やっぱり、「不思議だなぁ」と思う。
 つまり理論は知ることができても、理解はできていないことになる。なぜなら、もしもちゃんと理解できているのなら、「不思議だな」ではなくて、「当たり前だ」と感じるはずだからである。
 昆虫の擬態だってそうだ。見事に擬態した昆虫を見ると、「なるほど!」というよりは、「神秘だ!不思議だ!」と僕は感じる。
  
「自然って、こんなものですよ。」
 と伝えることができる写真、つまり自然をよく理解した上で撮影された写真もいいと思う。
「俺が自然について教えてやる!みんな知らな過ぎる。」
 という写真もいいと思う。
 だが僕は、
「自然って神秘的ですね!」
 と、自然が僕の理解を遥かに超えた存在であることを正直に伝えたいと思う。それを、「知識に拘りたくない」と、僕はたまに書くことがある。
 僕は尊敬されたいとはあまり思わないし、権威になりたいわけでもないし、知ったかぶりや分かるふりをしたくないのである。
  
 4日にハッチョウトンボを撮影した湿原にまた立ち寄るつもりでいたのだが、昨日、カイエビの仲間を山上の沼で採集し、今日は急ぎそれを持ちかえり、水槽撮影するなった。
 実を言うと正式な名前がわからないのだが、多分、ヒメカイエビではないか?と思う。
 カイエビの仲間は主に田んぼで見られ、決して珍しい生き物ではないはずだが、僕はその沼以外で、カイエビの仲間を見たことがない。
 初めてカイエビを見たときには、一応そういう生き物の存在を知っていたにも関わらず、まるで透き通った二枚貝のような生き物がフワフワと水中を泳ぐのだから、我が目を疑い、その不思議な姿に釘付けになった。
 しかもそこは、閉ざされた山上の沼だ。
(CanonEOS5D 100mm ストロボ)

 

 2006.6.5(月) 湿地

 先月の日記の中に、沼の中に沈んだ木の画像があるが、今日はその場所が沼から湿地へと変貌を遂げていた。
 以前にも書いたことがあるが、この場所は火山の噴火によって川が堰き止められてできた山上の沼であり、流れ込む川の規模は小さく、雨が少ない時期には湿地になる。
 とにかく、訪れるたびに毎回風景が異なる、実に魅力的な場所だ。
 
 アマチュアの人はよく誤解をしているように感じるのだが、プロだからといって、何にカメラを向けても上手く写真が撮れるわけではない。
 過去に一度も撮ったことがないタイプの被写体を撮影することになれば、プロと言えども結果はボロボロと、悲惨な結末に終わることは決して珍しくない。
 例えば、ほとんど昆虫しか撮影しない写真家が撮影した風景写真は、しばしば、初心者カメラマン並みのレベルでしかないし、どうかすると、才能を持ったど素人よりもひどいこともある。
 結局、一つずつ、被写体ごとの撮影方法を体で覚えていくしかない。
  僕は、水中から野鳥まで、さまざまな被写体にカメラを向ける。
 プロの自然写真家の中でも相当に守備範囲が広い方だと思うし、その分、初めての場所へ出かけても、「このタイプの被写体は、過去に一度も撮影したことがないなぁ〜」と戸惑うことは少ない方だろうと思う。
 だが、この沼を訪れると、そんな僕でも初めてのパターンの撮影があまりに多くて、例えば、なかなか構図が決まらなかったり、また車に戻った後でパソコンで画像を大きく拡大してみたら、何気に1〜2枚シャッターを押した画像の中に思いがけずいい写真があって、「へぇ〜、こんな撮り方があるのか」と自分が撮った写真の意外性にビックリさせられることがある。
 とにかく、読めないのである。
 
 川が噴火で堰き止められたというのは、沼の入り口の解説文を読んで知ったのだが、この場所はあまりにスケールが大きく、一旦沼に入ってしまえば僕は非常に小さな存在でしかないし、どこがどう堰き止められ、川は何本あり、今ではどう流れているのかなど、なかなか把握することができない。
 だが、何度か歩いていると、少しずつではあるが、それが自然と理解できてくる。
 僕の友人には、お寺の息子が数人いて、中には跡を継ぎ、お経を唱えることが出来る者もいるが、彼らがお経を覚える際には訳が分からなくてもまず唱えてみるのだと言う。
 そうして理屈ではなくて体で覚えることから入り、やがてそれが少しずつ理解できてくるわけだが、僕は最近、体で覚えたり、感覚で知ることが非常に大切だと感じる。
「分からない。」
 と理屈を求める前に、感覚が育ってくるまで、気長に、黙ってそこに身を置いてみるしかないのだと思う。
 もちろん、教えてもらえることはありがたく教わればいい。だが、それでも教わることができるのは導入の理屈の部分だけであり、その後はやっぱり、感覚や体で把握できるまで体験しなければ、何も始まらないだろうと、そんな気がする。
 ふと考えてみれば、最近はどこに撮影に行くにせよ、大抵の場合、あらかじめ調べようと思えば相当量の情報を集めることができる。その分、早く撮影結果を出すことは出来るが、早く結果が出れば出るほど、逆に深く自然と付き合うことが難しくなってきた。
 その点、ほとんど情報がないこの沼を訪れると、今の自分が情報漬けになっていて、頭で写真を撮ろうとする傾向があることに気付かされ、ハッとさせられる。

 今日は、僕のすぐ近くでアカショウビンが鳴き、また至近距離で比較的ゆっくりホトトギスを見ることが出来た。
 望遠レンズを持っていれば、完璧な写真が撮れたに違いない。
 だが、山上のこの場所まで、一般的な撮影道具に加えて、さらに大きな望遠レンズを運ぶことは容易ではないのだから、もどかしい。
 がしかし、そんな場所だからこそ、それだけの自然が残っているのであり、やっぱり、この場所に望遠レンズはいらない。写真が撮れないこともまた素晴らしいと、今日は感じた。
 (CanonEOS5D 17-40mm PLフィルター)

 

 2006.6.4(日) 出会い

 先月の中頃だっただろうか?仲間たちに誘われて食事に出かけたら、知人の一人が、
出会いがない!」
 と言う。
 すると、また別の知人が、
「うん!出会いがない。」
 と相槌を打った。

 よく考えてみたら、僕の身の回りの人も、出会うべくして出会ったと言うよりは、不思議な、かなり際どい縁で知り合いになった人ばかりで、少なくとも、確かにそこに出会いが待っていた!という感じはない。
 子供の頃は、学校があるから、そこで無理やりに集団にさせられ、集団が楽しいこともあれば、不愉快なこともあるわけだが、たくさんの人と知り合いになった。
 それが誰になるのかは分からないが、放っておいても、知り合いは定期的に勝手に増えていくのが当たり前だった。
 大人になると、そんな機会はめっきり減り、通りすがりの相手は別にして、毎日、ごく限られた人とだけ接する人が大半ではないだろうか?
 そうなってみて初めて、たくさんの人と知り合える学校のような場が、実に貴重な場所であったことに気付かされる。
 僕の知り合いのある先生は、
「クラスメートを家族だと思え!」
 と教えるのだという。
 級友と家族は理屈を言えば全く別の存在であるから、僕はちょっとばかり考えさせられた。
 だが、
「人の出会いは限られたものであり、その出会いを生かすも殺すもその人次第。偶然がもたらす機会を大切にしなさい。」
 と教えたいのかな?と理解してみた。
 その際に、どれくらいに大切にするかのもっと分かり易い例えが、その先生にとって、家族だったのではないか?と。
 時々、そうした話の中の例えの部分に噛み付く人がいるのだが、全員に分かり易い例えなどあり得ないのだし、そこは、自分が好きなものに置き換えればいいのだと思う。
 要は、誰かが本当に言わんとする心根が肝心なのだと思う。

 さて、今日は、トンボ好きの仲間に誘われて、山口県内の湿地に出かけてみた。
 一人は北九州在住のアマチュア写真家・西本晋也さん、あとの一人は、山口県在住の野田司君である。
 初めて出かけたその湿地は実に素晴らしく、モウセンゴケやハッチョウトンボの写真を撮ることができ、言葉にならないくらいに面白い。
 いや〜本当に楽しかった。
 幸せだなぁと思う。
 二人とも、親の知り合いでもなければ、学友でもない。よく考えてみると、今知り合いであることの方が理解しがたい。
 だが、生き物が好き、写真が好きといったことがきっかけになり、自然とつながりが生まれる。人が生きていくということは、きっと、そんなものなのだろうと思う。
 理屈では割り切れない。
 スケジュールを立てようと思っても立たない。
 もちろん、多少は努力が通用するだろうとは思う。だから、自分が思い描いた人生を生きるために、もがいてみることもいいと思う。
 だが、その大前提として、偶然の出会いを大切にすることが不可欠だと思う。
 もしもその偶然を粗末にしていたら、世間に対して何を主張しても、それがどんなに正しくても通用しないような気がする。
 うっかりしていると、自分の技術や情熱が写真を撮らせているように勘違いしてしまうのだが、実はよく考えてみると、偶然が撮らせている部分の方が圧倒的に多い。
 (CanonEOS5D Tamron90mm ストロボ)

 

 2006.6.3(土) と金の遅早

 スタジオでの撮影が手につかないことが、今シーズンの撮影を苦しいものにしていることを、以前に一度書いたことがある。
 スタジオでの撮影とは、自然を室内に再現する撮影だが、今日の画像のような、土の中のカタツムリの卵の様子など、自然条件下では撮影ができにくい特殊なシーンが多い。
 それらは例えるなら科学の実験のようなものであり、しばしば繊細で、野外で生き物を追いかけるのとは違った難しさがある。
 体力ではなくて、神経を使う。

 さて、いつまでも手につかないと嘆いているわけにもいかず、今日は早朝に野外で撮影することを中止にし、朝からスタジオでの撮影に取り組むことにした。
 たかがこの程度の写真を撮るのに、うまく土の中の断面をつくることができず、2時間ほど時間がかかってしまった。
 写真の撮り方は、人それぞれである。人の数だけ方法論があると思っておいても、あまり問題はない。
 だがその写真を売るとなると、そこには市場の原理があり、それに従わざるを得ないから、売り方に関しては、あまり多くの方法は存在しないように感じる。
 もちろん僕が知らない写真の売り方もあるのだろうが、ある程度以上自然写真で稼いでいる人の方法は、詳しく話を聞く機会があれば、だいたい幾つかのパターンに当てはまり、似たり寄ったりなのだ。
 したがって、写真を売ることに関しては誰かの方法を踏襲することが手堅いし、僕にも、そうしてお手本にする先輩写真家が存在する。
 一見、とても自由奔放に豪快に暮らしているように見える人も、写真を売ることに関しては、実は地道に積み重ねていたり、また、「この人みたいに生きることができたらなぁ〜」と憧れを感じる先輩写真家が、実は奥さんにもたくさんの稼ぎがあり、それで生活が成り立っていたり、貸すことができる土地を持っているなどなど・・・ 
 純粋に自然写真で仕事をしようとすると、世の中なかなか甘くはないようだ。
 結局、一枚ずつ地道に積み重ねることが、もっとも近道なのだという結論にいつも落ち着く。
 仕事が手につかないとき、僕の場合は、地道に積み重ねるのではなくて、まるで飛び級でもするかのように一気に前へ進もうとして、気持ちが先走っていることが多い。
 子供のころ夢中になった将棋の世界に、「と金の遅早」という言葉があり、と金と呼ばれる駒の攻めは、一見緩いように見えて、実は非常に厳しく早いという意味だが、うまい言葉だなぁと思う。
 と金の遅早でいこう!
 僕は囲碁を打ったことはないが、囲碁の格言をWEBで調べてみると、技術に関する言葉が多く、糞まじめな印象を受ける。その点、将棋の言葉には、人生に通じるようなおもむきのものが多く、中学生のころに夢中になった将棋の言葉を、今でも時々思い出すのである。
 (CanonEOS5D Tamron90mm ストロボ)

 

 2006.6.1(木) 好きなことがある

 だいたい僕は人付き合いが悪い。だが、昨日は珍しく酒宴に呼ばれて、参加することにした。
 気分を変えたかったのかもしれない。
 そこで生物学出身の大先輩から、
「いやね、そうして好きなことに打ち込むことができる君は幸せだと思うなぁ。」
 と声を掛けられた。

 確かに、その通りだと思う。
 もっと突き詰めて言うと、それに打ち込める以前に、好きなことがあるという事が、何よりも幸せだと思う。
 そこまで打ち込めるほど好きな何かは、努力して作ろうと思って作れるものではない。
 それからお金で買えるものでもない。
 さらに全員がそれに出会えるわけでもないし、むしろ、ほんの一握りの者しか巡り合うことはできないに違いない。
 性格だってある。それさせあれば他のものは要らない!と平気で思えるほど偏った性格の持ち主でなければ、そこまで一つのことに打ち込むのは難しいし、それは一種の性格異常だと言っても言い過ぎではないと思う。
 もちろん、その性格異常者の中に自分が含まれることは言う間でもないし、そこには、性格異常者どうしにしか理解できない空気や雰囲気があるように思う。
 
 ところが今の社会の風潮は、若者に、「好きなことを見つけましょう!」と呼びかける方向に向かっているように感じる。
 果たして、本当にそれでいいのだろうか?
 好きなものを探せば、その結果大半の人がそれに出合うことができ、それで暮らしていけるのならそれでもいい。だが実際には、そもそも好きな何かに出会える人間は、どんなにもがいたってごくごく一握りでしかあり得ないのである。
 平凡でもいいじゃない!と思う。
 平凡であることが、そんなにつまらないことなのだろうか?
 例えば、僕の同世代には小学生くらいの子供を持つ友人が多いが、彼らが、子供の成長を何よりもの楽しみにして、それが幸せであり、心の大部分を占め、家族を支えるために会社に勤めることを、何よりも尊いことではないか?と僕は感じる。
 僕がどんなに自然写真の世界で努力をしても、彼らに太刀打ちできる気には到底なれないだろうと思う。

 特殊に生きることだけが評価され、何か特殊な好きなものがなければならないと思い込み、振り回される若者を、気の毒だなぁと感じることがある。
「いずれは自然写真の世界で生きていきたい。」
 と言う人に時々出会うことがあるが、話をしてみると、好きであるということを、努力を気合やその他、気持ちで解決しようとする人が案外多くて、
「無理をしているなぁ。」
 と、感じることがある。
 その前に、心の底から、「面白いなぁ〜。」と感じていなければお話にならないような気がする。
 心の底から面白いなぁと感じている人の話と、どこか無理をしている人の話は、やっぱり違うように感じる。
 たまたま、そこまで好きなことがあれば、もちろんそれに打ち込めばいいし、もしも打ち込むことができれば、それは間違いなく幸せだと思うが、好きなことをする世界で、そもそも無理はナンセンスだと思う。
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2006年6月分


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