撮影日記 2006年5月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2006.5.31(水) 図鑑

 生き物の名前を自分で調べようとしてみると、紙に刷られた図鑑はやがて消える運命にあるのかな?と思えてくる。
 もちろん携帯性の問題などで紙に刷られた図鑑が完全に消滅するとは思わないが、図鑑は、WEBの独断場になっていくように思う。

 植物なら、花の色、時期、地域を入力すれば、トンボなら、識別のポイントになる部分の特徴を選び、「検索」というボタンを押せば、該当する種類の画像が表示される。
 さらに、拡大ボタンを押せば、画像がぐんぐん大きくなり、識別のポイントを大きく、明快にみることができる。
 写真は、新しくて、より分かりやすいものが撮られると、どんどん差し替えられていく。
 いずれ、そんな時代がくるような気がする。

 もしもそのようなものができるとしたら、それはプロではなくて、アマチュアのマニアやオタクと呼ばれている連中の力でできるように思う。
 プロは、生活をするために幅広くいろいろな生き物にカメラを向けなければならない。その点、アマチュアなら、何か1つの生き物を徹底的に追及することができる。
 その結果、プロは、もっと別のところで仕事をすることになるだろうと思う。それは図鑑の世界に限った話ではなく、そのつもりで準備をしておかなければ、アマチュアと同じ領域で同じようなことをやって、そこで張り合おうとしたら、プロは、やがて先の見通しがたたなくなってしまうような気がする。
 上のトンボは、29日のトンボとよく似ているが別の種類である。そのような小さな差異の種類を分類しようとすると、アマチュアの自作図鑑が実にわかりやすい。

 こちらは26日のトンボと同じ、アオモンイトトンボだが、このトンボのメスには幾つかの型があり、26日の画像のようなオレンジ色のものや、今日の画像(下)のように地味な茶色っぽいものなどが見られる。
 僕は、仮にYさんとしておくが、アマチュアの方が作った自作図鑑を見てイトトンボの名前を調べる。Yさんの図鑑には、そうした細かい色のバリエーションがすべて網羅されているし、写真も、見せ方も実に明快!なぜ市販の図鑑がYさんの図鑑と同じような形式を取っていないのか、それが一瞬不思議に思えてしまうほどだ。
 だが、もしも同じようなものを作って販売しても、間違いなく売れないだろうと思う。
 やっぱり、アマチュアの世界なのだ。
 (CanonEOS5D TAMRON90ミリ ストロボ)

 

 2006.5.30(火) 休み

 時には休むことも必要ではないか?と思うが、どうしても、休むことができない。
 時間のことを言っているのではない。ただの休みの日なら作ろうと思えば作ることはできるが、何もかも忘れて過ごす心の休みが欲しいのである。
「あ〜、休むことができたらなぁ。」
 と思う。
 最近、どんなに時間の上で休日を設定しても、結局それは仕事のことを考える時間になる。
 少なくとも、休んでいる日には売上は上がらないわけだし、その不安は常に付きまとうし、恐らくその苦しみは一生続くのだろうが、何の身の保証もない、しかも職業として完全に確立されているわけでもないフリーの自然写真家の宿命なのかもしれない。
 仕事が嫌なわけではないし、考えたくないわけでもないが、山登りだって、時々休憩を入れたほうが、トータルとして早く山頂にたどり着けることはよくある。
 同じことが、少なくとも僕の場合、自然写真の仕事にも当てはまると確信を持って思うわけだが、それが難しい。
 
 ここのところ早起きが続いていたのだが、今朝は寝坊をして、目を覚ましたら7時半を過ぎて8時が近い。早朝の撮影に出かけるには少し遅くなってしまったし、何となく顔色が悪く体もだるいので、思いきって丸一日休日にすることを決めたが、結局生き物の世話をしたり、写真の整理をしたりと、休日というよりは、中途半端でだらけ気味の仕事の日に終わる。
「あ〜なんて無駄な時間を過ごしてしまったんだ!休むのなら、心の底から休まないと!」
 と、今日に限らず元々そんなこと出来もしないくせに悔いていたら、写真の貸し出しの依頼の電話があり、カタツムリの殻について、テレビで紹介したいのだと言う。
 そこで適当に写真を見繕って電子メールで送信すると、すぐに返事があり、イメージが違うのだそうだ。
 詳しく話を聞いてみると、それはかなり特殊な写真で、カタツムリに関する知識で僕が知らないことが含まれていたし、当然それを説明できるような手持ちの写真もない。
 恐らく、日本中のどこを捜しても、それを満たす写真はないだろうと思われたし、ちょうど事務所をあとにして帰宅しようか?というような遅い時間であり、さらに写真を使って番組を収録するのは明日だと言うから時間的なゆとりもない。
「30分待ってもらえますか?今から撮影します。」
「え〜そんなこと出来ますか?」
「家にある機材でやれる範囲でやってみます。」
「是非お願いします。」
と、写真を撮ってみると、それなりのものが撮れた
 ギャラは特撮料金を含めても激安だったが、
「無駄な休み方をした!」
 と悔いていたくらいなので、何だか救われたような気がする。
 今日のところは、それで良しとしようではないか! 

 

 2006.5.29(月) 撮影機材の話

(撮影機材の話)
 フルサイズのイメージセンサーを搭載したデジタルカメラでさえも、その画質は、いまだに35ミリ判のフィルムに敵わないような気がする。
 ただしこれは、フィルムのポテンシャルをフルに引き出した場合の話であり、現実には、現像してみなければ結果がわからないフィルムの力をコンスタントに引き出すことは、たとえプロであっても難しい。
 したがって、フィルムで撮影した場合、出来がいいこともあれば悪いこともあり、100点満点で言うのなら、平均で70点くらいの成果をあげている感じだったと思う。
 デジタルカメラの場合は、その場で画像を見ることができるから、修正を加えていくことで、技術的により完成度が高い写真に仕上げることができる。平均点にすれば、常に90点以上の写真を撮ることだってできる。
 75点のフィルムと90点のデジタルカメラとでは、90点のデジタルカメラの方に、やや分があるのかな・・・と、僕の場合は感じている。

 撮影したその場で画像を確認できる。一度それを知ってしまうと、それが出来なかったフィルム時代は、いかに目検討で写真を撮っていたのかがよく分かる。
 例えば、レンズの絞りが1/3絞り違うだけで、状況によっては、背景の描写がそれなりに影響を受けるが、フィルム時代には、いちいち絞込みをして、そこまでの細かさで被写界深度を調整することなど、少なくとも僕の場合はあり得ないことだった。
 それから、昆虫の撮影の場合、ストロボが不可欠になるが、自然光とストロボ光のバランスも実に微妙なものであり、完璧を期すのであれば、デジタルでなければ不可能ではないか?とさえ思えてくることがある。
 特に水の中の被写体が絡むと、非常に難しかったのである。

 デジタルカメラになって以降、僕は純正のオートストロボを使うようになった。もちろん、その使い方はマニュアル発光ではなくて、オート+露出補正である。
 それにハイスピードシンクロを併用することで、大変にシャッターチャンスに強くなった。
 少しでも被写界深度を稼ぎたいときは、カメラをシャッター優先に設定し、ブレを防ぐことができるギリギリのシャッター速度を選ぶ。絞りは、シャッター優先であるからカメラ任せになるが、その絞りに対して、カメラとストロボが適正露出になるように勝手に発光量を調整してくれる。
 また、飛翔中のトンボの撮影には、ハイスピードシンクロが威力を発揮する。ハイスピードシンクロを使えば、ストロボの同調速度を気にする必要がないのだから、思いっきり絞りをあけ、シャッター速度を早くして、自然光によるブレを可能な限り抑える。
(CanonEOS5D TAMRON90ミリ ストロボ トリミング)

 

 2006.5.28(日) 植物

 最近、植物の名前を調べる努力をしていることは、先日も書いた。
 名前を知らない植物を見つけた際には、まず写真を撮り、帰宅後に図鑑を広げて、同じものを探す。
 すると、植物図鑑の記載は、多くの動物の図鑑よりもずっと正確であるような気がしてくる。
 例えば、湿った森の中で撮影した植物の解説には、そのような環境に見られると、確かに書いてあるケースが多いのである。
 動物図鑑の場合は、そんなにピシャリ図鑑の記載が実際に目にするものに当てはまるという印象を持ったことはないのだが、そこが移動能力を持つ動物と移動ができない植物の違いなのかもしれない。動物は、山に住む生き物が、里に下りてくることだってある。

 とは言え、あまりに名前を知らない植物の方が多いので、すべて写真に収めて帰るのは不可能だ。
 そこで、まず水辺の周辺で目にしたものに的を絞り、さらに見頃で、特に状態がいい花を咲かせているものや、実の形などが被写体として面白いものから撮影することにしている。
 いずれも一つの植物を3カット撮影する。
 周囲の環境を入れた写真、葉っぱと花を同時に上手く見せられる写真、花のアップ、だいたいそんな感じに写すことが多い。
 いずれにしても、美術的に優れた写真にする意識ではなくて、明快に撮ることに徹している。
(CanonEOS5D TAMRON90ミリ)

 

 2006.5.27(土) 自然

 大学時代の恩師の言葉の受け売りだが、自然と言う言葉には2つの意味があるという。
 1つは、人がいっさい手を加えないありのままの状態であり、日本人が自然という時には、こちらの意味の自然が使われることが多い。
 例えば、「野鳥を餌付けして撮影すると、それはすでに自然ではない」という意見は、この自然感の現れだと言えよう。
 あとの1つは、身の回りに起きる現象の中に存在する法則性や典型を自然と見なす考え方であり、欧米人が自然という時には、こちらの意味が多いのだそうだ。
 例えば、魚を食べるカワセミが満開の桜の枝にとまっている写真があったとする。
 欧米人には、それがたとえヤラセではなくても、そのような写真は不自然だと考える人が多いのだそうだ。
 なぜなら、カワセミは花の蜜を吸うわけではないし、そのような写真はカワセミの写真としては典型的ではないからである。つまり自然界に法則性を見出し、典型を抜き出し、その典型にあてはまるものが自然、そうではないものを不自然と考える。
 法則性=自然という考え方は、科学の世界でいう自然でもあるが、そこから、実験という発想が生まれてくる。
 例えば、光が植物に与える影響を調べたいとすると、実験室に植物を持ちこみさまざまな人工の光をあててみる。
 人工の光と自然の光は成分も強さも異なるわけだから、日本人的な自然観から言うと、そこで間違いを犯していることになるのだが、それでも、光の対して植物が反応するその法則性の部分は、基本的に同じであり、実験室でも分かることがあり、それこそが重要だと考える。
 また、野鳥に餌付けをして撮影しても、餌は人が置いたものかもしれないが、鳥が餌を食べる振る舞い自体は、人が手を加えない状態と同じだと考えるわけである。
 僕の身の回りで、自然に対して人がどう振舞うべきか、そこに論争が巻き起こるとき、そこにはほぼ間違いなく2つの自然観の対立があり、むしろ、それがほとんどすべてだと言っても言い過ぎではないように感じる。
 それはどれだけ論争してもけりがつくものではない。なぜなら、どちらも正しいのだから。
 
 さて、今日はガラスにとまったカエルを撮影した。
 もちろん、このカエルは僕がとまらせたものだから、もしも、カエルのありのままの振る舞いとしてこの写真が掲載されると、それはヤラセになってしまう。
 だがこの写真は、カエルはガラス面にもとまる能力がありますよと、カエルの能力を伝える写真であり、カエルのありのままの振る舞いを見せたい写真ではない。
 実験的な写真を撮る場合は、撮影者や写真を使う側の立場の人が、そこのところをよく理解している必要があると思う。

 ところで、カエルは結構頭がいい。
 長い間飼育をしていると、人を恐れなくなるし、慌てて物影に逃げようとすることもなくなり、実に扱いやすくなる。
 ガラスにカエルをとまらせると、最初は上に登ろうとするのでその間に写真を撮る。
 だがやがて付近に飛びつきやすそうな木の枝や葉っぱを一旦見つけると、その位置を覚え、最後にはガラスにとまらせた途端に、そこに飛び移ろうとする。
 そうなると、もう撮影はできない。
 頭がいい奴は、扱いにくくもある。
(CanonEOS5D TAMRON90ミリ ストロボ)

 

 2006.5.26(金) システム化

 ヨットスクールの戸塚さんが出所してきて、
「体罰は教育だ!」
 とテレビで主張するのを見た。
 僕は、父に叩かれて育ったが、その父の主張と戸塚さんの主張には、よく似たところも多くあり、なかなか考えさせられることが多い。
 僕の父は、
「小学生までの小さな子供は犬や猫と一緒。叩いて教えればいい。」
 と考えていたようだが、僕は犬や猫と同じではないと思う。が、仮に同じであったとして、犬や猫を叩くことでしつけようとすると、動物はすねるだけで、上手くしつけることはできないに違いない。犬や猫と同じであっても、叩けばいいというものでもないだろう。
 
 確かに、体罰には一定の効果があると思う。
 その点は、僕は否定したくない。
 だから、体罰は百害あって一利なしで、絶対に間違えていると主張する人にも共感することはできないし、体罰は絶対に必要だと主張する人にも共感できない。
 仮に体罰が下されるのだとしたら、それはそれなりの理由があり、心の底から思わず手が出たときだと思うが、少なくとも、叩けば直るというようなパターンに当てはめて、システムとして確立し、テクニックとして駆使されるべきものではないように感じる。
 僕は戸塚さんが主張する教育論がすべて嘘だとは思わない。
 恐らく、最初はヨットに問題児を乗せてみたら、あまりにだらしがないので、しっかりせぇ!と思わず手が出る。すると、その子が目がさめたかのように変わり、問題行動がおさまる。
 そんなことが、本当に何度もあったのだと思う。
  
 僕は写真の技術にこだわるが、そうした技術も、大抵の場合、それと同じだと考えている。
 例えば、昨日、トンボを識別するためにやや上から見下ろすように撮影した写真を載せたが、同時に、親近感が感じられる写真を撮ろうと思えば、目線を下げた方がいいと書いた。
 そして今日は、過去にそうして撮影した写真を選んでみた。
 だが、そうすれば親近感が感じられる写真が撮れる!と、パターンに当てはめ、テクニックで親近感を演出することを考え過ぎるようになると、つまりシステム化されるとつまらないのである。
 システム化やテクニックの前に、生き物って面白いなぁ〜と、撮影者がしみじみ感じていることが肝心であり、その場で生き物に一期一会で対峙して、撮影アングルを探すことこそが大切だと信じる。
 テクニックや知識は、そうして自分が馳走して毎回探し出したものに、理論的な裏づけを与える程度の役割がふさわしいと考える。

 叩かれて育つと、またその人も暴力を振るうとしばしば言われる。統計を取れば間違いなくそうだろうが、そこにも型に当てはめようとする考え方がある。
 また猟奇的な事件がおきると、その人の過去を振り返り、何とかして型にあてはめようとする。
 システム化すると作業は簡単になるが、僕は考えることや感じることを放棄したくない。システム化にこだわりすぎることが、大嫌いである。
 (NikonD70 105ミリ ストロボ)

 

 2006.5.25(木) 名前

「シオカラトンボの写真を撮ってくださいよ!新しい写真が全くないんですよ。」
 と何度も声をかけられるので、今シーズンは、そこそこまとまった量の写真を撮りたいと思う。
 厳密に言うと新しい写真が市場に全くないとは思わないのだが、撮り方が中途半端だったり、ツボがよく抑えられている写真がないのだろう。
 いつだったか、他の写真に紛れて何気に見てもらったトンボの写真を、安心して使える!とある方から誉めてもらったことがある。
 その時に、ここがいい!と具体的に説明してもらったのだが、逆に言うと、多くの人がそのように撮っていないことが分かる。
 やっぱり、そんなツボがあるのだと思う。

 シオカラトンボについて多少勉強してみると、良く似た種類のトンボが数種存在し、恐らく、多くの人がシオカラトンボだと思っているものの中には、相当数、そうではないものが含まれているに違いない。
 そこで、それらについても、見かけたら必ず撮影するようにして、確実に区別をする練習に取り組んでいる。トンボは成熟といって、しばしば色が少しずつ変化するのだが、それがまた区別を難しくする。
 今日の画像のトンボは先週撮影したものだが、昨日の画像とは種類が異なり、お互いに区別をつけるポイントがある。
 
 こちらは、そのメスである。
 昆虫の場合、下手をすると同じ種類のオスとメスよりも、異なる種類のオスどうしやメスどうしの方が似ていることがあり、生き物は必ずしも、同じ種類であれば似ているとは限らないことに気付かされる。
 例えば、人間でも、男女であろうが同じ人なのだから必ず分かり合えるなどという発想や、行き過ぎた男女平等の概念は、もしかしたら幻想かもしれないと一瞬考えさせられる。
 もちろん、だからと言って開き直るのは論外だろう。そんなことを真顔で主張する人がいれば、それは大抵の場合、男性社会の中で強い立場に立っている男性だろうと思うが、
「それならあなたは人間をやめて昆虫になれば!」
 とでも言い放っておけばよろしい。
 このトンボの場合も、メスにはメスの区別するポイントがあり、上の画像はその識別点が写るような、やや上からのアングルで撮影を試みている。
 一方で、種類を区別するのではなくて、親近感が感じられるように撮ろうと思うのなら、もっとアングルを下げて、トンボと同じ目線から写真を撮った方がいい。
 すると、トンボに対する愛情が感じられる写真に仕上がりやすい。
 がしかし、種類を区別しようとする心も、またトンボに対する愛情の現れである。そして、トンボマニアの連中が撮影したトンボの写真には、その識別点がよく写っている。
 ただこちらの愛情は、その識別点を理解できる者にしか伝わらないわけだが、それが分かる人がみれば、それらの写真の丁寧さや被写体に対する思い入れや愛情の深さがよく伝わってくるし、むしろそれを知ろうとしない人の方に、愛情の欠如を感じることさえある。
 例えば、通りすがりではない学校の先生は、自分が担当する生徒の名前を覚えようとするのではないだろうか?
 優しそうなイメージの写真だけが優しい写真だというのは大間違えなのだ。
 イメージに頼りすぎると、大切なことを見落としやすい。
 (CanonEOS5D TAMRON90ミリ ストロボ)

 

 2006.5.24(水) 次のステップへ

 今シーズンは、なるべく野外での撮影の時間を増やす努力を試みているが、1つ大きな不安があり、それは、スタジオでの撮影がまだ全く手についていないことだ。
 スタジオでの撮影と比較すると、やはり野外での時間の方が面白いから、ついついそこに没頭してしまう。
 だが、僕の写真の売上の額から言えば、断然にスタジオで撮影した写真の割合が高く、つまり、それはいずれ金欠としてはね返ってくる危険性がある。
 やはり、お金を稼げる写真を撮ることと、好きな場所で好きなように写真を撮ることは、なかなか両立せさるのが難しいようだ。
 そこで今日は、自宅から15分以内で行ける場所に的を絞り、時間は9時30分までと制限を設け、その中の1つの池の周囲を歩いてみた。その程度の時間であれば、帰宅後に、スタジオで撮影するための時間も十分確保できるが、自分のやり方を確立するまでには、もうしばらく時間がかかるだろうと思う。
 僕はこれまで、お金を稼げる写真を撮ることに圧倒的にウエイトを置いてきたのだが、今、次のステップへと進もうとしているのである。
(CanonEOS5D TAMRON90ミリ ストロボ)

 

 2006.5.22(月) 楽しむ

 先週、島根県の山中にある沼のほとりで見つけた植物は、この辺りではかなり珍しい植物だとが分かった。
 僕は、珍しいということには基本的にはほとんど興味がないが、それはそれなりに楽しむことができた方が、やはり得だと思う。
 だから、今日はその珍しい植物の花をバッチリ写してやろう!と、また同じ山道を歩くことになった。
 先週は、まだ花の咲き始めだったから、完全に開花した姿を写すことができなかったのである。
 その場所まで一般の人の足で一時間半、体力がない人の場合は二時間かかる。しかも、途中の道のりは風通しが悪く、とても蒸し暑い。
 体にまとわりつく不快昆虫も多くて、なかなか苦労させられる場所ではあるが、ただそこに行ってみるのではなく、何であるにせよ動機があれば、苦労は半減する。
 花を撮影するだけでなく、途中の道のりにもカメラを向けてみる。ただカメラを向けるだけでなく、沼へ向かう際のワクワクする思い、それから、まるで沼に呼び寄せられるかのように進む足どりを、木漏れ日によって表現することを思いつき、それができそうな場所を探しながら歩く。
 帰りは、道端に多くみられるカワトンボを撮影する。
 とにかく、行き〜帰りまで、すべて楽しむ
 カメラっていい道具だなぁと、思う。

(CanonEOS5D 17〜40ミリ)(CanonEOS5D TAMRON90ミリ)

 

 2006.5.21(日) 計算

 小動物を撮影していると、色々や野鳥が出没する。
 今日は、サンコウチョウの声がよく聞こえたし、また、アオヤンマというトンボを探して草むらを掻き分けていると、ホオジロが中から飛び出してきた。
 きっと、そのあたりに巣を構えているに違いない。
 だから、少し離れた場所から鳥の出入りを観察すれば、巣の位置を突き止めることができるだろう。
 付近の池ではカワセミの声が聞こえる。魚を咥えて飛び回っているところを見ると、やはりどこかに巣があるのだろうと思う。
 野鳥専門の写真家になろう!と思っていた以前に必死に探し出そうとしていたものが、最近は、他のものの撮影中に、特別に意識することなしに、自然と目に飛び込んでくるようになった。
 いい被写体って幾らでもあるんだなぁ〜と、最近つくづく感じる。

 以前の自分をかえりみて、1つ2つ反省するとしたら、それは、車の中から野鳥を探す時間が長かったことである。
 野鳥は車をあまり恐れないので、車にのって鳥を探すのはいい方法ではあるが、同時にやっぱり横着でもあり、自分の足で歩かなければならなかったように思う。
 それから、計算できるものばかりを撮ろうとしていたことも、反省しなければならない。
 自然を知り、しっかりと計算した上で写真を撮るのは基本的には正しいと思うが、一方で、もっと自然を知り、視野を広げることも不可欠であり、つまり計算できないものも大切なのだ。
 それが僕には欠けていたので、やがて、自分がよく知るものを一通り撮り終えると、その時点でどうしても撮りたいと感じる被写体が無くなり、ワクワクした気持で自然を見つめられなくなっていたように思う。
 僕の身の回りの写真仲間には、自然や写真にどんどんのめり込み、フィールドを歩く時間が次第に長くなる人と、逆に、少しずつ情熱を失いつつある人がおられるが、その差は、その一点にあるような気がする。
 きっと人の計算力なんて、たかが知れているのだと思う。
 考えてばかりいないで、やってみることが大切であり、計算や理屈は、そこで何かに出会ったときに初めて必要になるのではないだろうか?
(CanonEOS5D TAMRON90ミリ)
 
 

 2006.5.20(土) イメージ

 雨で川が増水すると、魚たちが流れを遡り、堰を超えようとする。
 その魚を狙ってサギが集まり、そのサギを狙い、僕がカメラを持って出かける。
 今日は、主にアオサギにカメラを向けてみた。
 魚から見たサギは、きっととても恐ろしい存在だろうなぁなどと考えていたら、ふと、昨年、昆虫写真家・海野和男先生のWEB日記である小諸日記に、ヤマガラの写真が紹介していたことが思い出された。
 鳥はしばしば虫を食べてしまうから、昆虫の写真家には、鳥に対してあまり好印象を持たない人が多いと聞くが、海野先生の小諸のスタジオには、先生のアシスタント兼パートナーである高嶋君が設置した餌台がある。
 写真は、その餌台に集まるヤマガラに、特殊なレンズを取り付けたカメラを向けたもので、それは昆虫の視点から見た捕食者・鳥の姿であり、小さなヤマガラが恐ろしげに写っているものだった。
 
 ヤマガラと言えば、一般的には愛らしいイメージの鳥だ。
 だから、そうした可愛らしい小鳥を可愛らしく撮った写真を見て、多くの人が、
「かわいい!」
 と感嘆の声をあげ、癒され、そこに生き物のやさしさや、撮影者のやさしさや、もっと踏み込んで言うと人のやさしさを求めたがる傾向にある。
 だが、食べられる立場の生き物から見れば、恐らく小鳥は実におぞましい存在に違いない。少なくとも、やさしさや癒しとは程遠いだろう。
 小鳥=かわいいとイメージは、人が小鳥に対して絶対的に強い立場にあり、優位であることの現われでもあり、僕はそこに強い立場の者の目線の高さとでも言おうか、若干のおごりのようなものを感じないでもない。強い立場にいるから、そんなことが言えるのだと。

 それでも人はやっぱり人であり、人の立場からしか物を言うことはできないし、それはそれでいいのだと思うが、やさしさや癒しって、結構手前勝手なものだなぁと、感じることがある。
 僕の場合は、むしろ、そうした人の感情を排除した科学の目に、つまり偏りのない目に、誰かの自然に対する本物の優しさを感じることが多い。
 それは、一般的には、クールな目だと思われているのだが。
(NikonD2X 600ミリ)
 
 

 2006.5.19(金) 考え方の相違

 ちょっとばかり前の話だが、出産費用を国が出すことを検討しているとニュースで知り、
「そんなことをしたら、無責任に子供を産む人が増えて、孤児が増えるだろうなぁ。」
 と口に出したら、
「昔、家にも孤児を引き取っていてね。」
 と母に言われて驚いた。僕は全く知らなかったのである。
 と言っても、それは武田家の話ではなくて、母が子供の頃のことだ。

 僕の母方の祖父は、町の開業医だったが、かなり左に偏った思想の持ち主で、
「人は全員平等でなければならない!」
 としばしば主張したそうだ。
 家の中には住みこみの従業員も抱えていたようだが、家族も含めて全員が同じ場所で同じように食事をとる決まりになっていて、たとえ家族と言えども、自分専用の食器を持つことなど、特別な振るまいは許されなかった。
 貧しい人が病院にかかった際には、しばしば無料で当時高価だった抗生物質を処方し、それが時には家計を苦しくさせるほどだったと聞かされた。
 そんな祖父は、やがて一人の孤児を引き取ることになる。それが事の次第である。
 祖父は、さらに乳飲み子を一人引き取ると言い出す。
 が、それには、あまりに家族の負担が大き過ぎると、祖母も母も、母の兄弟たちも全員が反対し、家庭が崩壊寸前までもめることになる。叔父に聞いてみると、いつもは穏やかな叔父が、当時のことを話す際にはひどく顔をしかめるので、よほどに激しくもめたのだろう。
 そして、ようやく祖父は、乳飲み子を引き取ることを諦める。
 祖父は、北九州の某所にある孤児院に出入りし、ボランティアに励んでいたようだ。
 子供が生まれない夫婦が孤児を引き取るというのは、子供を得る手段として、分からないでもないが、4人も子供がいた祖父が、家庭を崩壊寸前にまで追い込んで、さらに孤児を引き取るというのだから、祖父のボランティア精神の強さ、人は全員平等でなければならないという思いの強さは、半端なものではなかったのだろう。

 WEB上で様々な記事を探してみると、中には、ボランティアには感謝できなかったと主張する孤児院の出身者もおらる。どうも、孤児院の子供達には、一方的にボランティアを施され、それに対して感謝をしたふりをしてひたすらに感謝状を書かなければならない現状があるようだ。
 また、そうした孤児たちの主張を支えたいという方々が、
「その手のボランティアなんて、子供達の気持ちなど理解もせずに、一方的に自己満足するだけよ!」
 とまくし立てる書き込みもあり、ボランティアの方が悪役になっていることもある。
 もちろん、ボランティアに感謝していると主張する方もおられるが、僕ももしも自分がその立場なら、だいたい気難しい性格でもあるし、ボランティアには感謝できないような気がする。
 だから、気持ちが理解できるような気がする。
 そんなの自己満足が目的だ!と、やっぱり憤りさえ感じているような気がする。
 ところが、それが自分の祖父の話であり、身内のこととなると、ようやく多少はその精神が理解できるのである。
 ともあれ、たとえ善意や熱い思いであっても、必ずしも相手に伝わるわけではないし、時にはそれを悪意のように受け止められることさえも、決して珍しくはないのだろうなぁと思う。
 
 さて、人が自然に対してどう接するか、そこにもさまざまな意見があり、対立がある。
 いつだったか、ある場所でオオサンショウウオを撮影した際に、案内をしてくださった博物館の学芸員の方が、
「毎年夏になると、ここでオオサンショウウオを網で掬い、子供達に見せてあげています・・・・・。でも本当は天然記念物ですから、触ることも許されないんですよね。」
 と、話してくださったことがあるが、きっと賛否両論あるに違いない。
 僕は、たいした問題ではないと感じるが、触ってもならないというのはルールだ!と主張する方もおられるだろう。
 また、科学的な物の見方を重視する人から見れば、そうではない人々は、感情でしか動かない狂信的な自然保護団体のように思えてしまいがちだし、逆の立場から言えば、生き物を材料にして実験をしている科学者なんて、時には殺戮マシーンのように思えるだろう。
 お互いに、相手がとても意地悪い奴らだと思えてしまう。
 やっぱり、考え方の相違としか言いようがないものが、人の世界にはあるのだろう。
 ただ僕は、本当の意味で、事態を前進させたいと思う人は、心の内面は別にして、相手を悪役にすることで、自分を正当化するような態度は決してとらないような気がする。
 僕は、相手の本気度をそこでみる。
 
 

 2006.5.18(木) 餌付けの是非

 生き物を餌付けして撮影することに関しては、人によってそれを是とする人もいれば、否とする人もおられる。
 僕の場合は、是でもなければ、否でもない。時と場合によって異なると考えているが、少しだけ僕の思いを書いてみようと思う。

 餌付けをされた生き物は、すでに自然ではないから、そのような状況で撮影された写真はダメだと言う人がおられるが、これは明らかな間違えである。
 例えば、生き物の研究をする際にも、野外で観察する方法と、実験室内で調べる方法とがあり、野外でなければ分からないこともあれば、実験でなければ調べられないこともある。
 実験室内での生き物の振る舞いは、自然状況下とは異なる可能性はもちろん常にあるが、それでも実験から分かることが山ほどあるという事実は、すでに多くの人が知るところである。
「いや、それでも野外での観察だ!」
 と主張する人がいてもいいと思う。
 だが、たとえそう主張する人であっても、その人の知識の中には、誰かの実験によって得られたもの含まれていて、そう主張する人でさえも、そうした知識に支えられていることは、決して否定できないのではないだろうか?
 ちょうどその実験のような感覚で、カワセミを餌付けして、その捕食の瞬間を見せたいという人がいてもいいと思う。
 生き物の写真といっても、自然さを見せるだけが能ではないし、ちょうど風船が割れる瞬間の写真のように、生き物の瞬間を捉えるのもありだと思う。

 ところで、もしも地球上に自分以外の人間が存在しなかったとしたら、そこで、生き物に餌付けをして撮影をすることに何か問題があるだろうか?
 そのような状況はあり得ないわけだが、大半の人は、問題なしと考えるのではなかろうか?
 つまり、餌付けの是非は、他の人間の存在抜きには考えられない問題である。
 例えば、どんなに実験だ!と称しても、多くの人が野鳥観察に訪れるような場所で野鳥に餌付けをして、鳥を独占することは許されないように思う。
 生き物に危害を与えてしまうような餌付けは論外として、僕は、餌付けの是非を、そんな問題なのだと考えている。
 
 さて、今日は日本自然科学写真協会(SSP)の仕事で、画像処理の作業に携わった。
 SSPでは、毎年会員から写真を募り、写真展を開催し、また図録を作る。その図録に掲載された写真をホームページに載せる作業に関わっているのだ。
 図録に掲載される写真の中には、餌付けやその他、人の手が加えられたものも含まれている。
 そして、僕がどうしても納得できないのは、そのような人の手が加えられた写真に、あたかも自然条件下で撮影したかのような解説文が寄せられることだ。
 餌付けをしましたと書く必要はないと思うが、自然条件下で撮ったかのように思わせるコメントは、嘘をついていることになる。あまりにせこ過ぎるように思う。
 もしもやましいのであれば、餌付けはすべきではない。
 
 

 2006.5.17(水) 興味の有無

 誰しも、興味の有無は自然と振る舞いに現れてくるに違いない。
 例えば、あまり興味がないことを頑張ろうとしても、なかなか続くものではない。 
 僕は、ここの所、写真を掲載する日には撮影データを記載するように心がけていたが、そもそも機材にあまり興味がない僕は、すっかりそのことを忘れてしまい、ここ数日は、それが滞った。
 今日は、過去の分に遡り、その撮影データを追加した。
「いやいや、よく機材のことを書いているじゃない!」
 と感じた方もおられるだろうが、フィルムからデジタルカメラへと世の中が移行した際に、本当の意味で納得できるデジタルカメラがなくて、あれでもない、これでもないと、ひっかえとっかえした結果、そうなってしまったに過ぎない。
 だから、それなりに気に入る機材が見つかれば、あとは、僕の頭の中には、ほとんど道具のことはない。
 ただ、それに興味がある人は、決して少なくないようなので、紹介してみようと思ったのである。
 それから、僕は、生き物の名前などにも、あまり興味がない方だと思う。
 きっと、緻密なタイプではないのだろう。
 そうしたプロフィールやデータではなくて、直に生き物を見つめ、その際に込み上げてくる思いを、ただひたすらに重視するタイプなのである。
 だが、生き物の名前はやっぱりわかった方が面白い。
 そこで、今まであまり名前を知ろうとはしなかった植物も、水辺のものに的を絞り、可能な限り調べる習慣を身につけようと心がけている。

 今日の植物は、なかなか名前がわからなくて苦心させられた。
 結局大きな図鑑を調べたら、小さな写真が一枚と、ほんの数行だけの解説が見つか、どうも、あまりポピュラーな植物ではないようだ。
 その名前を今度はWEBで検索してみたら、なんと、僕がこの写真を撮ったまさにその場所で、同じ植物の写真を撮り、紹介してあるホームページがあった。しかも、そんなホームページが2つも!
 実は、この植物が見られるのは島根県内ではほとんどそこだけであり、そこまで出向き、やっとこの花にカメラを向けることができた際の感激が、そこには綴られていた。
 この近辺ではかなり珍しい植物なのだろう。
 そんな出来事があると、大体において調べごとが嫌いな僕も、何かを調べる際に多少はワクワクしてくる。

 ついでに・・・
 植物に関していうと、プロの写真を使用した図鑑よりも、アマチュアがWEB上に作った図鑑の方が臨場感があり、断然によく分かるような気がする。
 それから理想を言えば、花の色、時期、地域を入力すれば、可能性がある植物の写真がズラズラと表示されるようなWEB図鑑があったらいいなぁと思う。
 無料というのはあまりに厚かましいので、月に300円くらいの会員制であれば、僕は間違いなく入会するだろう。
(CanonEOS5D TAMRON90ミリ)
 
 

 2006.5.16(火) 夢は諦めなければ

 「夢は諦めなければ、必ずかなう。」
 というのは僕の知人の座右の銘だが、彼の講演会で話を聞いた際に、
「いい言葉だなぁ。」
 と思った。
 ただし、確か2つほど例外があり、それは夢がかなう前に死んでしまった時と、あと一つ、こちらはすっかりと忘れてしまい覚えてない。
「屁理屈だ。」
 と感じる人も、おられるに違いない。
 それはそれで、正しい感覚と思う。
 なぜなら、諦めなければ夢はかなうのだから、逆に言うと諦めるから夢はかなわないことになるが、ならば、どうしたら諦めの心境に至らないで済むのか、人の興味はまさにそこにあり、それに答えない限り、何も言っていないのに近いとも言えるからだ。
 だが、諦めずに夢がかなうにせよ、また諦めて夢がかなわなかったにせよ、どちらにしても、その人が自分で決めていることなのだと主張している点を、僕はいい言葉だと感じる。

 例えば、仕事が長続きしないと嘆く人がいたとする。そして、
「どうしたら長続きするの?」
 と問われる。
 だが、首になるのはともかく、仕事を途中でやめてしまうのはその人自身である。
 だから、
「辞めなければ長続きするよ。」
 という答えは、屁理屈っぽいが、真実であるような気がする。
「どうしたら長続きするの?」
 という言葉からは、どこか、その原因が外にあるかのような印象を受ける。
 だが実は自分が決めているのであり、もしかしたら、社会のせいだ!誰かのせいだ!とほんの少しでも思いたいところに、意外にも長続きしない理由があるような気がする。
 僕も、よく人のせいにしたくなる。
 上手く写真が撮れなかったときは、後で考えれば、よくぞまぁ!と感心させられるくらいに、何かのせいにしたくなる。
 外れた天気予報が怪しからん!道具が使いにくい。車の渋滞が怪しからんから、行政がなっとらん、世間が怪しからん・・・・・
 そして、それをそうではないと受け入れることが出来た時に、ようやく腰をすえた仕事ができる。

 今日は、ミツガシワの群生地に出かけてみたが、時期が遅くて、たった一輪だけ、一応撮影に耐える花があった。
 ベストの時期は五月上旬である。そこ頃は、ゴールデンウイークで高速道路でさえも渋滞してしまうから、足が遠のくし、ゴールデンウイークやみんなが遊びに出かけることが疎ましく感じられてしまう。
 だが、どうしても撮りたければ、それでも撮りたいと出かけるはずだし、やっぱり最後は自分の情熱の問題だ。
(CanonEOS5D TAMRON90ミリ)
 
 

 2006.5.15(月) 甘くない

 人は楽をすることばかり考えていてはならないが、楽をできるのであれば、楽すればいいような気がする。
 僕は、楽をするためにも色々と頭を使う。
 楽をするというと響きが悪いから、工夫するなどと称する。
 今年は、この湿地に大量の撮影機材を運びたくて、ホンダのモンキーを購入したことは以前にも書いた。
 まず645判のセット、デジタルカメラのセット、水中撮影機材、野鳥撮影用の望遠レンズ・・・
 今日は、体中に撮影機材を満載して、そのモンキーにまたがり、湿地への山道を走ってみた。
 が、人生はそう甘くない
 大して険しいようには思えなかった道が、実際にはなかなか険しくて、とてもとても二輪車で登れるような場所ではなかったのである。
 仕方なく一旦車に引き返し、デジタルカメラと35ミリ判の最低限の機材と、胸まである長靴を残して、他のものを車に仕舞い、今度は延々と山道を歩く。
 食べ物も、飲み物も、着るものも、最低限の量に絞り込まなければ、撮影どころか、その前にばててしまう。
 
 麓にいながらにして、湿地の状況が手に取るように分かれば、使用する機材が絞られてくるので、あれも!これも!と山ほど道具を持っていく必要はないが、この場所はほとんど誰も訪れることがない山上付近にあり、しかも、湿地になったり、沼になったりと、環境が激変する。
 とにかく行って見なければ何が必要なのかが判断がつかず、また、行く度に別の風景が待っている。
 そんな場所がいったい日本に何箇所あるだろう?だからこそ面白いが、難しい。
  今年は雨が多いためか、また雪が多かったからか、湿地の水位が高くて、木々は水の中だ。

 自分の足で歩いてみると、それはそれで充実した時間になる。
 まず鳥の声がよく聞こえる。
 キビタキは、麓からこの湿地までの道のりで、ほとんど切れ目なく見られる。
 それからサンコウチョウの声、アカショウビンの声は、ほとんど絶え間なく聞こえてくる。
 また、自分の足で歩き、体を鍛えた方が健康にもいいに決まっている。
 楽を出来ればいいし、楽を出来なくても、それなりにいいことがたくさんある。
(CanonEOS5D 17−40ミリ)(CanonEOS5D 70−200ミリ)
 
 

 2006.5.14(日) 大大発見!

 何をやっても上手くいかないと嘆く人が時々おられるが、直に接してみると、体を動かすよりも、頭で考えて物事を解決したがる人が多いように思う。
 その結果、何かに取り組む前からマイナス志向なイメージが頭を過ぎり、結局何も出来ずに終わる。
 つまり、自分が成功したり、幸せになれるという保証がなければ動こうとしない人たちである。
 マイナス志向と言えば、臆病で気が弱いイメージがあるが、実は非常に横着なのではないか?と、僕は感じることがある。
 僕は、人生には保障がないという現実に対して、逃げずに立ち向かう姿を見せてくれる人と仲間でいたいし、自分もその姿を常に見せられるようになりたいと思う。
 逆に、助け合いと称して、お互いに保障を求めるような付き合いはしたくない。それは正確には助け合いではなくて、利用に過ぎないような気がするからである。
 時に、
「悩みを打ち明けることができる仲間が欲しい。」
 と主張する人に出会うことがある。
 確かに、それだけ信頼できる仲間がいるとしたら、素晴らしいことだろうと思う。
 だが、最初からそれを目的にして人と接しようとする人がいることには驚かされる。
 つまり、相手が自分を支えられるかどうか、ほとんどその一点にしか興味がない人である。
 悩みを打ち明けられる仲間は、後から付いてくるものではないだろうか?例えば、生き物が好きで一緒に生き物を楽しみ、その過程の中でお互いに心を許せるようになり、やがて自然と悩みを打ち明けられるような気がするのである。
 相手に保障ばかり求め、自分の支えになってくれるかどうか、その値踏みばかりしている人に対しては、
「いいかげんにしないさい。」
 と言いたくなる。
 それは臆病に見せかけた図々しさではないだろうか?
 
 さて、今日は、なんと絶滅に瀕しているベッコウトンボの産地を発見した。
 あるトンボ通によると、ベッコウトンボの新しい産地が見つかる可能性は極めてゼロに近いとのことだから、大大発見!と言ってもいいだろう。
 今日の出来事は明らかに稀な偶然と言える。
 だが、小さな偶然は決して珍しくない。
 たかが自然写真だって、狙ったシーンが狙ったように撮れるケースは、たとえプロでも、稀なのではないだろうか?
 僕の場合は、すべて計算通りに撮れた写真なんて10%にも満たないし、大抵の場合、いい写真は、偶然の出会いの際に心と体が反射的に反応できた時に撮れてしまうのである。
 それを後から解説すれば、まるで計算したかのような印象を与える可能性はある。
 つまり、仮に多く見積もって、厚かましくも10%が僕の狙い通りに撮れたとしても、残りのほとんどすべては偶然であり、小さな偶然なら、アンテナをしっかり立てていれば、ほとんど毎日のように何かしら出会えるものだ。
 ただし、保障を求めてどこかで待っていては、その偶然に気付くことができないだろう。 
「さて、今日は何に出会えるのかな?」
 と出かけるのである。
(CanonEOS5D TAMRON90ミリ ストロボ)

 

 2006.5.13(土) 更新

今月の水辺を更新しました。

 

 2006.5.12(金) 続き

 昨日、僕が高校時代に好きだった人のことを書いた。
 両親に捨てられたという生い立ちから、自立しようという気持が強い人だったが、それ以外の部分では実に穏やかだったその姿が、ふとした拍子に次々と思い出されたのである。
 それは性格なのだと思うが、僕は、他人のプロフィールには、ほとんどこだわらない。
 高校時代からすでにそうだったし、今考えてみれば、両親に捨てられるということは計り知れないほど重たいことではないか?と思うが、当時の僕は、厚かましくも、一切そんな気持を持たずに彼女と過ごした。
 両親がいないから守ってあげなければならないと考えたこともなければ、逆に、両親がいないから彼女には何か足りないと考えたこともない。
 良くも悪くも、特別な接し方をする必要があると考えたことはなかった。
 だから、そうした立場にある彼女の心境を特に問うた記憶もないが、断片的には幾つか憶えている会話があり、離婚後、自分を放って、好きになった男の人と出て行った母親に対して嫌悪感を持っていたようだった。
 それがほとんど唯一彼女の口から出た刺々しい言葉だったと記憶している。

 中には、そうした立場にある人を一生懸命守ろうとする人もいるし、逆に生まれが悪いと差別する人もいるが、僕は守ろうとする優しさと、差別する冷たさは、意外に同根なのではないか?と思うことがある。
 なぜなら、どちらにしても、相手を色分けして特別視していることには違いがないからだ。そして、片方を取れば、必ず他方も付きまとってくるような気がする。
 もちろん、これは善悪を言いたいのではない。差別は悪いに決まっている。
 また、プロフィールには興味がない僕の性格も、そう感じることには多分に影響を与えているだろうと思う。そして、彼女がそれを感じさせなかったことも大きかったと思う。
 彼女の場合は、たまたま、不幸中の幸いとでも言うのか、そうした立場が、前向きに努力をすることに上手く結びついていたのである。

 僕の身の回りには、自立できない知人が数人存在するが、みんな、全く生い立ちが異なるにも関わらず、不思議なくらいに同じことを言う。
「これだけ頑張ったのに、まだ頑張らないといけないの?」
 と。
 だが、頑張りはするが、決して努力しようとしない。
 その点、彼女はいつも努力をしたし、授業態度1つとっても、周囲がおしゃべりしていても、いつも授業に耳を傾けていた。僕はその姿を思い出し、
「おい、お前はちゃんと努力しているか?」
 と最近でも自問することある。
 たかが自然写真だって、ただ自分なりにもがいたって、成功するはずがない。それは自己満足の自慰行為であり、文学的な世界では自慰行為を見せるのもありかもしれないが、現実的な世界では、自慰行為は基本的には人に見せるものではない。
 僕は、高校時代の彼女に、いまだに教わることがあるわけだが、きっと、年齢など全く関係なく、尊敬できる若者が、たくさんいるのだろうなぁ。
 
 

 2006.5.11(木) 事務

 僕が生まれて初めて本当にお付き合いしたと言える女性は、両親から捨てられた立場にあった。その分、自立しよう!という気持が非常に強い人だったと記憶している。
 当時、高校一年生だった僕は、将来の見通しなど全く持たなかったのだが、彼女は、とにかく手に職をつけることか、手堅い仕事に就くことをいつも考えていたように思う。
 手に職をつけるのは資格を取ることで、彼女の場合は、薬学部に進みたいと考えていたようだ。また手堅い職業は、例えば事務職であり、一般的には事務職と言えば地道なイメージなのだろうけど、それをいつも耳にしていた僕には、何だか華やかな職業のように思え、そのイメージは、僕の頭の中につい最近まであった。
 だが今では、書類を作ることなど、僕も事務的な仕事をしなければならないことがあるが、どうも僕には全く向かないようで、非常に辛い。手紙の、たった数行の宛名書きが、不思議なくらい苦痛に感じられる。
 自由に文章を書いて欲しいと言われれば、決して苦痛ではないのだが、型にはまったものや、事務的に文章を書くことは、とにかく大変に苦労させられる。
 まるで試験前の学生のように、先延ばし先延ばしにして、ハ〜とため息を付きつつ、ようやく取り掛かることができる。
 さて、今日は、そんな作業を1つ片付けた。

 自立しようという気持が強かったこと以外は、彼女は大変に穏やかな人で、ヒステリーを起こしたり、ひどく腹を立てたり、取り乱す姿を、僕は、ほとんど見たことがない。
 その穏やかさの中に、大きな心とでも言ったらいいのだろうか、非常に尊敬できる部分があり、もう20年くらい会ってないが、今でも当時の高校生だった彼女を尊敬する思いがある。
 僕は、仕事ができる人よりも、そんな人を尊敬する傾向にあるが、ふと考えてみれば、彼女のいいイメージがそう思わせているような気もしてくる。
 もちろん、最初にたまたま好みの性格の人に出会っただけという可能性もあるだろうとは思う。
 ともあれ、事務的な仕事をすると、彼女のことが思い出される。きっと、幸せに暮らしているような気がする。
 
 

 2006.5.10(水) 性格

 今日は、アマチュアの方が撮影した野鳥の写真を見る機会があったが、写真には、撮影者の性格が現れることがある。
 だがそれは、誰にでも感じ取れるものでもないような気がする。
 やはりそれなりに写真を撮り込んでいて、どういう風にカメラを向けたら、どんな写真になるのかが十分に理解できる人にしか本当のところは分からないのではないか?と、僕は感じている。
 例えば、優しそうなイメージの写真があったとする。だがそれは、あくまでもイメージであり、必ずしも撮影者の優しさが現れたものではないと僕は考える。
 なぜなら、テクニックを持っている人なら、その人の人柄に関係なく、そのようなイメージに写真を撮ることが可能だからである。

 ところが、テクニックが及ばない部分もあり、そこにしばしば撮影者の人柄が見て取れる。
 慎重で保守的な人が写真を撮ろうとすると、慎重に慎重にシャッターを押そうとするから、写真が臆病になり、撮り慣れている人から見ると、
「おいおい、この前後にもっといいシャッターチャンスがあったはずだよ!待ってばかりいないで、バンバンシャッターを押さないとダメだよ。」
 とじれったいし、強引な人がシャッターを押せば、
「あれまぁ、もうちょっと待てば、おのずといいシャッターチャンスが巡ってくるのに、その前に無理やりに撮っちゃっているなぁ。」
 といった感じである。
 また、スタジオ内に自然を再現して撮影する場合に、しばしばカメラマンは間違いを起こす。
 例えば、主な被写体には逆光の光が当たっているのに、背景には順光の光が当たっているような間違いをよく見かける。 
 物に順光の光があたった場合と、逆光の光が当たった場合とでは、色合い、特に彩度が異なるのだが、そうした誤りに気付かない人は、安易にスタジオに自然を持ち込んでいるのだと思う。
 きっとテクニックで、楽に物事を片付けてしまいたいという気持ちが強い、心に自然を楽しむゆとりのない人ではないか?と感じる。
 
 さて、いつまでも体調不良を訴えているわけにはいかないので、今日はスタジオで、先日持って帰ったカタツムリ撮影することにした。
(CanonEOS5D TAMRON90ミリ ストロボ)

 

 2006.5.9(火) 自分だけのために

 僕が初めて本格的にカメラを手にしたのは、大学1年の終わり頃のことだったと思う。
 当時からすでにプロ志向だった僕は、写真を撮るからには幅広く一般の人に見てもらわなければ意味がないと考えていたし、実際にそれを目指して撮影してきた。
 だから僕は、自分のためだけに写真を撮った経験がない。
 最近では、渓流の写真を撮る際などには、それが売れる売れないを全く気にせずに好きなようにカメラを向けると何度か書いたことがあるが、それは本当にいい物を目指した結果、僕だけは赤字になっても構わないということであり、やはり誰かに見てもらうという大前提の下で撮影していることにはなんら違いはない。
 やがてそれを出版する日がくるだろうし、その時には、本は売れてもらわなければ困る。
 そうして何時にも人に見てもらうことを意識することがいい事なのか、あるいは悪いことなのかに関して僕には答えがない。
 だが、常に第三者が見るに値する写真を撮ろうとする習慣は、プロの写真家にとって、いいことではないか?と、今のところは考えている。
 だが今日は、生まれて初めて、自分だけのために写真を撮った。
 先日、「やや具合が悪い」と書いたが、なかなか改善しないので、渓流に出かけ、いい空気を吸い、岩の上に横たわり、木々の合間を太陽が昇ってくるの待ち、お日様が顔を出したところで寝転んだままシャッターを押してみた。
 
 最近、そうした写真が巷に溢れるようになった。
 ブログというWEB上の日記に、本来人に見せるために撮影した訳ではない写真が載せられ、本来人に読んでもらうためではない、純粋な日記のような文章が掲載されることが多くなった。
 最初は誰でもが発表の場を持てることを、いいことだと僕は思った。
 だが、やがて、それがまるで自慰行為をわざわざ見せているようであり、何だか異常なのではないか?と感じるようになってきた。
 自分でその手の写真を撮ってみると、多少はそういう物があってもいいのだと思うが、最近の氾濫のしようを見ると、非常に気色悪いのである。
(CanonEOS5D 17-40ミリ)

 

 2006.5.7(日) ワイド接写

 5月3日にトンボの撮影に出かけて以来、体調が悪い。
 多分、朝の6時頃から夕方日が沈む間際まで、何もさえぎる物がない炎天下でぶっ続けで撮影をした影響だと思う。
 肌の体質の関係でほとんど日焼けをしない僕も、さすがに少しばかり日に焼けた。
 それ以降、体を動かそうとすると、頭痛がして、微熱があるような感じがする。
 ベッコウトンボはご覧の通り真っ黒なトンボだが、多分この黒さは太陽の熱を効率よく受け止めるためだと思う。
 今日の画像はその際に撮影したもので、トンボの背中がややこちら向きに傾いているが、このトンボは常に太陽の光を最もよく受けるように体の向きを実にまめに調整する。
 その熱を受け止め、日差しがある時間帯にはとても活発で敏感であり、レンズが触れるような距離にまで、なかなか近づくことが出来ない。
 そこで、よく止まる場所の手前でカメラを構えて待ち伏せをしたり、そ〜っと近づいてみたり、何度も何度もチャレンジし、結局夕方になってしまった。
 その日は、夕方まで時間をかけて、トンボにレンズが触れたのはただの1度だけだった。
 あまりにむきになっているものだから、体がダメージを受けていることに気付かず、気付けばこの有様だ。

(撮影機材の話)
 ワイド接写を試みた結果、なかなかトンボに近づくことが出来ず、このままでは一枚も写真を撮れずに終わるのではないか?と、その日はやや弱気になった。
 そこで、90ミリの望遠マクロレンズで、まず図鑑的な写真だけを撮っておこうかとカメラを向けてみると、その距離であれば楽に近づけるし、もっと寄れそうな気がする。
 ならば今度は17〜40ミリのズームレンズを取り付け、まずは40ミリ側で図鑑写真を撮り、その後近づきながらレンズを次第にワイドにズームしていく作戦をとってみたら悪くない。
 今日の画像は、その際にレンズの最短撮影距離である28センチ付近で、27ミリ相当で撮影したものだ。
 と言うことは、もっと近づけるワイドズームがあれば、それがワイド接写用の理想のレンズではないか?と調べてみたら、全域で最短撮影距離20センチというシグマ社製の17〜70ミリマクロがある。
 ヨッシャー、コイツを買おう!
 その前に・・・・果たして気軽に買える値段だろうか?
 うん、安い安い。
 待てよ、なんでこんなに安いんだ?
 そっかぁ、このレンズはAPSサイズのセンサー専用なんだ・・・
 僕は望遠レンズの画質に関しては、APSサイズのセンサーのカメラでも一応納得しているのだが、ワイドレンズに関しては全く納得できないのである。
(CanonEOS5D 17-40ミリ)

 

 2006.5.5(金) 風景

 昨年は生き物が生息する環境の写真の依頼が多かったのだが、いざ写真を貸し出そうとすると、ただ説明しただけのものが多くて、僕としては面白くない。
 そこで新しい写真を撮りに行こうとすると、天候が思わしくなかったり、季節が悪くて、納得できない写真を貸し出さざるを得ないことが何度かあった。
 今年は、まめに環境写真を撮っておこうと思う。そう思い、先日もベッコウトンボが棲む池にカメラを向けた。
 環境写真なんて、ただ分ればいいじゃない!と考える人もおられるだろと思うが、僕は雰囲気のある写真を提供したい。

 今日は、トンボの撮影のついでに、朝の湿地の風景にカメラを向けてみた。
 この場所にはサラサヤンマというトンボが生息する。
 トンボの幼虫というと、一般的にはヤゴと呼ばれ、水中に生息するが、サラサヤンマの幼虫はちょっと湿り気のある陸上に生息しているのではないか?と教わった。
 この場所も、足を踏み入れれば土が水分を含んでいることが分るが、水はない。
 今日の画像の左手には池があるが、その池から相当に離れた場所ででも、サラサヤンマのヤゴが羽化をした抜け殻が見つかる。
(CanonEOS5D 17-40ミリ)

 

 2006.5.3(水) 教わる

 僕は、独学することにはそこそこ自信があるが、人に教わるのは上手くない。
 だから何事も一人になり、独学しなければ上達するはずがないと長年思い込んできたが、最近になり、それが誤りであることに気付かされた。
 きっかけはトンボの写真家・西本晋也さんに連れられてトンボの撮影に出かけたことであり、西本さんの解説を聞きながら写真を撮ってみると、一人ではなかなか身に付けにくいことが、とにかくたくさんあることを思い知らされた。
 西本さんは、
「やっぱり、習わないとなかなか上達しませんね。」
 と言う。恐らく、西本さんは教わり上手なのだろうと思う。
 そして、西本さんがトンボ仲間たちからトンボに関する知識を吸収する様子を見ていると、
「ああ、こうやって習えばいいのか!」
 と、習うことが下手糞な僕も多少は感じるものがある。
 今日は、その西本さんに連れられて、今や絶滅に瀕しているベッコウトンボの撮影に出かけた。

 人に何かを教わる際には、まず一度自分を捨てることが肝心ではないか?と思う。
 自分の流儀。自分の考え方。俺は俺はという気持ち。プライト。
 それらは大切なものではあるが、教わる際にはない方がいい。それらを一度捨て去り、空っぽで偏見のない心で相手の話に耳を傾けることが大切ではないか?と思う。
 だが、自分を捨てることはなかなかに難しい。
 それは本当の意味での自信を持っている人にしかできにくい。僕も恐らくそれが出来にくいから、習うことが下手糞なのだと思う。
 弱い犬ほどよく吼えると言われるが、自信がないと吼えたくなるものである。
 かと言って、自信は持てと言われて持てるものでもない。
 そこで、僕は、まず考えることを放棄して、しばらく黙って真似をすると決めている。まず最初は西本さんと同じ場所で、同じ被写体にしばらくカメラを向ける。
 そうして真似をしているうちに、次第に自分が撮りたいシーンが自然と固まってくるから、そしたら今度は、自分の流儀で自分の作品を撮る。
 もちろん、独学は独学で大切なことである。
 人に教わると、人はしばしば先生を越えることができない。
 だが、何もかも独学はできないし、習えることは習えばいいのだと思う。
  (CanonEOS5D 17-40ミリ) (CanonEOS5D 20ミリ ストロボ トリミング)

 

 2006.5.2(火) いい写真

 プロの自然写真家になりたいと決意して以来、僕は、さまざまな出版物に目を通し、研究してきた。
 そうしてたくさんの仕事を見ることで、
「なるほどなぁ。」
 と分かったこともあるし、逆に、
「なぜ?」
 と分らなくなったこともある。
 例えば、
「何で、こんな良くない写真を、あえてこの出版社は使ったのだろう?」
 と、首を傾げたくなるほどクオリティーの低い写真が、しばしば本の中に掲載されるが、
「クオリティーの高い写真を撮れば、写真が使われるわけではないのか?」
 と、それを見るたびに、何をどう撮ったらいいのか、分らなくなったものだ。
 だがやがて、そうした疑問の幾つかに答えが出るようになった。
 例えば、僕はここ数年、毎年カタツムリの写真を数多く貸し出しているが、何社かの方が僕の写真を借りにきて、僕は、依頼された順に、いい写真から出していく。カタツムリの写真は、梅雨時の6月に使用されることが多く、みんな同じ頃に写真を借りに来て、つまり先に来た人から順にめぼしい写真を持ち帰り、動きが遅かった社は、残り物のつまらない写真で本を作るハメになる。
 だから、やっぱりいい写真はいい写真であり、いい写真は間違いなく良く売れる。
 
 では、どんな写真がいい写真なのだろうか?
 例えば、分りやすい写真は、間違いなくいい写真だ。
 下手糞が決まって口にするセリフがある。
「俺の写真は技術を売る写真ではなくて、テーマで勝負する写真なんだ!」
 と言う。
 だが、どんなにいいテーマを持っていても、それが伝わらなければ意味がないし、伝えるためには技術が不可欠だ。
 技術を大切にすることとテーマを大切にすることはイコールではないが、何の問題もなく両立できるのである。
 そう言いたがる者の大半は、ほとんどはまともな仕事をする機会さえ得たことがない者だが、実はテーマ主義なのではなくて、ただ単に腕を磨く手間を惜しんでいる、楽をしたいだけの者だと感じる。
 むしろ、テーマを大切にしていないのである。
 
 さて、カタツムリは殻に篭る際に入り口に膜を張り、膜には呼吸をするための穴が開いている。
 何でもないシーンではあるが、
「あ!息してる!」
 と、その感じがわかり易く伝わってくるような膜と穴には、なかなか出会うことが出来ない。
 (CanonEOS5D 100ミリ ストロボ トリミング)

 

 2006.5.1(月) 飛翔写真

 最近のカメラは、オートフォーカスといって、カメラが自動的にピントを合わせてくれる。
 機種によって異なるが、ファインダーを覗くと数点のフォーカスポイントがあり、フォースポイントを被写体に重ねるだけで、そこにピントが合う。
 オートフォーカスは省略してAFと言われるが、かつては、
「それはアバウトフォーカスの略ではないか?」
 と言われるほどに怪しくて、決して頼れる機構ではなかったのだが、今では、特に動きがある被写体にピントを合わせることに関しては、ほとんどのケースで、人の能力をはるかに超えた存在となった。
 中には、非常に頭が硬くて、今でもAFは使えないと主張する人もおられるが、多分、最新のAFを使ったことがない人だろうと思う。
 ところが、その最新のAFと言えども、相手が飛んでいる昆虫となると、ほとんど通用しない。
 いや、散々試してみたが、少なくともトンボには全く通用しない。
 昆虫の飛翔はあまりに不規則で、機械では捕捉することができないようだ。

 そこで、自分の力でピントを合わせることになるが、トンボが動いている間はほぼ不可能なので、空中停止をする瞬間を狙う。
 つまり、空中停止をする種類は、飛翔写真の撮影が可能だが、僕の技術では、トンボが空中で停止する時間が2秒くらい欲しい。
 それよりもゆっくり停止してくれるトンボは楽々撮影できるし、それ以下のトンボは、ピントを合わせる間がない、手強い被写体ということになる。
 ムカシトンボの場合は、大体0.5〜1秒くらい空中停止をするので、撮影が不可能ではないが、なかなか手強い相手だと言える。
 今日は15枚くらい撮影して、3枚、使えそうな写真が撮れ、その中で寸分違わずピントが合っていたのは、わずか一枚だった。
 今日の画像は、苔に卵を産み付けに来るメスを探してパトロール中のムカシトンボのオスだ。
(CanonEOS5D 100ミリ ストロボ)

  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2006年5月分


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