撮影日記 2006年4月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2006.4.30(日) 身近な場所

 今年は、可能な限り、身近な場所で撮影したいと以前に書いた。
 事務的な仕事の日やスタジオ撮影の日にも、とにかく少しでもいいから、野外で生き物たちを観察したい。
 きっかけは、自然関係のホームページの中で、プロを名乗る人が、自然について、「ああだ、こうだ」と自分の考え方を書いてはいるのだが、意外に野外をしっかりと歩いている人が少ないと感じたことである。
 中には現場主義を掲げているのに、滅多に現場に出ない方もおられるようだ。
 僕自身も、スタジオ撮影に追われ、その時間の方が長くなる傾向にある。それではダメだ!と強く感じたのである。
 そして4月の上旬から、それに取り組んでいるのだが、最初はとても上手くいった。
 野外での生き物の観察だけでなく、事務的な仕事やスタジオ撮影まで、それ以前よりもはかどるようになった。
 丸々一日、事務作業やスタジオ撮影の時間を取ると、そのゆとりから、「まだまだ時間はある」とだらけ、無駄に時間を消耗してしまう傾向があったが、それも改善された。
 ところが、いつの間にか短時間のつもりの野外での撮影に夢中になってしまい、長居をして、今度はひどく事務的な仕事やスタジオ撮影が滞り、リズムが悪くなってきた。
 そこで今日は、「12時まで」と時間を決めて、渓流に出かけてみた。
 ちょうど今月の初めに羽化の様子を撮影したムカシトンボが産卵をしているようすを撮影することができた。
 もっと時間をかけて撮りたかったのだが・・・。
 また明日にでもトライしてみようと思う。
(CanonEOS5D 100ミリ ストロボ トリミング)

 

 2006.4.29(土) 飼育

 僕がスタジオ撮影用に飼育しているカタツムリ、アマガエル、アメリカザリガニの中で、一番手が掛からないのはアマガエルである。
 時々餌を入れてやるだけで、ほぼ放っておいても飼い続けることができる。
 アメリカザリガニとカタツムリは、いずれも飼育は易しいとされているが、本当にいいコンディションで飼い続けるためには、相当なエネルギーが必要だ。
 アメリカザリガニの場合は、水槽のサイズが重要で、幅90センチ、奥行き45センチの90センチ水槽と呼ばれているかなり大きな水槽が欲しい。しかも、たった一匹を飼育するために。
 それより水槽が小さくなると、死にはしないが、ただ生かしているという感じになる。
 が、現実問題としては、撮影用のモデルは数匹欲しいし、大きな90センチ水槽を幾つも準備することなどなかなか出来るものではない。
 アメリカザリガニの場合は、撮影直前に、野外から状態がいい物をドサッと採集し、撮影後はまた放してしまうのがベストなのかな?と感じている。
 カタツムリは逆に、殻に傷が少なくてきれいなものを、野外で自在に採集することが難しい。例えば、ツクシマイマイの直径1センチくらいの殻のものをモデルにしたいと思っても、急には採集できないのである。
 そこで養殖をすることになるが、難関は生まれたてのものがある程度のサイズに成長するまでの間で、ある一定のサイズよりも大きくなると、滅多に死んでしまうことはないのだが、それまでが難しいし、飼育に手間が掛かる。
 ところが、全くの偶然から、その小さなカタツムリを、ほとんど手間をかけることなしに成長させるノーハウを昨年掴んだ。
 つまり、今年はその分生き物の飼育から開放されることになるので、野外で生き物たちにカメラを向けることができる時間が多くなるに違いない。
 僕の場合は、生き物たちを愛玩するわけではないので、飼育は、まず何よりも手間とお金がかからない方法を確立することが重要だ。
 そして、そのために、毎年のように新しい方法を考え出すことになる。
 さて、今日は飼育室の大掃除と飼育方法の改善だ。
 これに予想以上の時間がかかり、昼食抜きで夕方まで作業となり、なかなか辛い作業ではあったが、最初にいい方法を確立しておくと、結局長い目で見ると得をする。
(NikonD70 12.〜24ミリ)

 

 2006.4.28(金) 画像処理

 デジタルカメラが普及して以降、それ以前には好きだった写真家の作品が、必ずしも好きではなくなった。
 フィルムを使用していた頃にはあんなにいい色を出していた人が、デジタルになってからは、なんでこんなに薄っぺらな質感の写真を量産しているのだろう?と、がっかりさせられることがある。
 その人の作風とデジタルカメラの相性が悪いのか、あるいは、撮影後の画像処理が良くないのだろうか?
 逆に、フィルム時代には名前も知らなかった人がデジタルカメラで撮影した作品に、関心させられることもある。
 この人のデジタル画像は、いつも見てもクオリティーが高いなぁ。ここまできれいに印刷できるのなら、もうデジタルだとか、フィルムだと論じることは、ほとんど無意味に近いなと。
 デジタルカメラは便利な道具ではあるが、撮影後の画像処理という過程が増えたことによって、フィルムとは違った難しさがあることだけは確かなようである。
 
(撮影テクニックの話)
 この人のデジタル画像はきれいに印刷されているなぁと、いつも関心させられているあるデジタルカメラの達人が、
「私は、撮影段階からシャープに撮影します。後で画像処理でシャープ処理を施さなくても十分に見られるだけのシャープさに最初から撮ります。」
 と、ある本の中に書いておられた。
 僕も、全く同感である。
 撮影段階でしっかりとピントを合わせ、ブレを防ぎ、被写体がシャープに見える光を選べば、画像処理に頼らなくても相当にシャープな像が得られるし、中には、シャープ、シャープ、シャープ、シャープと、まるでノイローゼのようにシャープ処理に取り付かれている方も少なくないのだが、僕はそれに対して、なぜ?と日頃感じていた。
 ところが今日、レンゲ畑の画像を処理してみて驚いた。シャープ処理を施さなければ、画像が甘くて、ほとんど見られないのである。
 レンゲ畑のように細々とした被写体の撮影には、いつもは645判のフィルムカメラを使用するが、昨年購入したキヤノンのEOS5Dがあまりによく写るので、ここ最近はデジタルカメラでも、そうした被写体にカメラを向けるようになった。
 すると、被写体の絵柄によって必要な画像処理がかなり異なるようであり、細々とした絵柄の場合は、相当に強いシャープ処理が必要になるようである。
 そう言えば、
「私は、まずシャープに撮影します。画像処理でシャープ処理を施さなくても十分に見られるだけのシャープさに撮ります。」
 と書いておられた達人の作品の中には、細々とした絵柄の被写体はなかった。
 とにかく画像処理は一律ではなくて、本を読んで、丸ごと真似をすればいい訳ではなく、そこに1つ難しさがあるようだ。
(CanonEOS5D 70〜200ミリ)

 

 2006.4.28(水) オオルリ

 昨日は、鮎がおよそ1万匹のぼったのではないか?という。
 特に鮎が多くのぼる日がおよそ10万匹というから、是非そんな日を体験してみたいが、今日は天気が崩れて光が弱く、写真のメカニズム上、遡上する鮎のように早く動くものを撮影することができない。
 そこで、山へ移動して、オオルリを探してみることにした。

 昨年もちょうど同じ頃にオオルリにカメラを向け、その写真を日記で紹介したら、
「たった一日で結果を出すのだから、凄いものですね!」
 とメールが届いた。
 種明かしをすれば、この場所なら数時間あればほぼ確実にオオルリの写真が撮れるというとっておきの場所を、宮崎県内に一箇所知っていて、ほぼ毎年、そこで写真を撮っているに過ぎない。
 だから、その場所がなくなってしまえば、とてもとてもふらりと出かけ、数時間で確実に結果を出すことなど不可能だろうと思う。
 果たして、いつまで、そこで写真を撮ることができるのだろうか?
 ところが今日は、そのいつもの場所でオオルリを見ることが出来ない。しばらく待ったが気配がない。
 環境が変わったわけではないので原因は不明。
 しかたなく諦めて帰宅をすることに決めたが、すると今度は、いつもは高い場所で鳴いていることが多いオオルリが、比較的低い位置へ降りてきていて、頻繁に車の前を横切る。
 どうも道沿いの木の中に発生している昆虫を食べているようである。
 そこで、機材を手元に準備しておき、オオルリを見つけたらそっと車を止め、車中から数枚写真を撮ってみた。
 (EOS5D 600ミリ 1.4テレコン トリミング)

(撮影機材の話)
 いつもは超望遠レンズでの撮影の際にはニコンを使うが、今日は、試しにキヤノンを使用してみた。
 ニコンの方はAPSサイズのセンサーを搭載したD2X、キヤノンは35ミリ判フルサイズセンサーの5Dである。
 結論を言うと、超望遠レンズでの撮影に関しては、僕にはニコンの方が好みに合う。
 キヤノンの画像は、「ノイズが少なくてきれいだが平面的」とよく指摘され、僕もその指摘は当たっているように日頃感じている。キヤノンの絵作りは、いかにもデジタル的で、僕の好みには合わないのである。
 だが、キヤノンのフルサイズセンサーの解像感は、それを補って、まだお釣りがくるくらいの凄さがあり、特に、レンズがワイドになればなるほど、フルサイズセンサーとAPSサイズのセンサーの画質の差を感じる。
 したがって僕はEOS5Dを好んで使うが、超望遠レンズになると、その解像感の差がさほど感じられなくなり、メカとしての完成度が高いニコンが実に捨てがたい。
 ただし、鳥を風景的に小さく撮る場合は、超望遠レンズでの撮影でも、フルサイズセンサーのカメラがいい。

 

 2006.4.27(火) アユ

 昨日、たまたま横を通りかかった道沿いの滝にしばらくカメラを向けたことを書いたが、その間、時間にして2時間弱、33枚撮りのフィルムで6本分のシャッターを押した。
 微妙な斜光が射し込むような状況は、わずかな太陽の位置の違いや、太陽の光を遮る木々の配置によって、写真の良し悪しがかなり左右される。
 そうした太陽の位置による被写体の見え方の変化は、人が頭で考えて計算できるような単純なものではなく、光が滝に差し込み始めてから、やがて日陰になるまでその場に居続けて、最後まで見てみなければ、いつがベストのタイミングだったのか、なかなか分からるものではない。
 僕は、どうせ写真を撮るのならベストの瞬間にシャッターを押したいと思うから、逃げもしない風景の撮影ではあるが、時間がかかるし、多くのフィルムが必要になる。

 昨日は、その結果、昼食を食べ損ねた。
 弁当を買っておけば良かったのだが、弁当よりも、作り立てをお店で食べた方がやはり美味しいので、山の中に入る際には、食事を準備するのか、或いは昼までには撮影を終え、下って食べるのか、いつも迷う。
 滝の撮影を終え、山から下りて、午後3時j頃に遅い昼食のようなものを食べたら、今度は夕食が食べられなくなって、本来夕食を食べるつもりでいた人吉という町を素通りすることになった。
 するとその後は田舎道であり、なかなか食事を食べられる場所がなくて、結局夜になってから、数十キロ離れた八代の町でようやく食事にありつくことができた。
 それからホームページを更新して、時計の針が12時を過ぎることにようやく眠ることができた。田舎での取材は、ちょっと歯車が狂うと面倒なことになり、のんびりどころか、慌しくなってしまう。

 さて、今日はアユがのぼった。
 午前中の間に、撮影がすべて終わった。
 ならば場所を変え、他の被写体にカメラを向けたくなるところだが、昨晩が遅かったので、今日に限ってはゆとりが欲しい。
 そこで、昼間の間にホームページを更新して、あとは夕刻に漁協の方々がアユを採集する様子を取材させてもらうことにした。
 自然写真だけでなく、そうした取材も上手くなりたいといつも思うが、日頃はそれだけの時間がないので、今日のような日に練習してみようと思う。
 できれば、ナショナルジオグラフィックのカメラマンみたいに、ネイチャーフォトも取材も何でも楽しんで撮れるようになりたいのである。
 何にカメラを向けている時が楽しいか?は、もちろん好みの問題だが、上手くなれば、大抵のことは面白くなるし、それを言葉に表現すると、自信と表せるのかもしれない。
 あれが好き、これが好きと自分の先入観で語る前に、まずやってみて、とにかく身に付くまで続けることが大切だと思う。
(NikonD2X 600ミリ)

 

 2006.4.25(月) 球磨川

「今朝は鮎はのぼりそうですか?」
「いや〜ダメそうやね。ほら、鳥が遠くにおるやろう。鮎がのぼる時には鳥も近くに寄ってくるからね。」
 熊本県の球磨川には何箇所か堰がある。
 鮎はその堰をのぼることができないから、河口付近で遡上してくる鮎の稚魚を捕まえ、車で堰の上まで運ぶことになっている。
「遠くから来たんやろう。近くなら、鮎が来た時に携帯にでも電話してあげるんだけどね。」
 毎年その作業に携わっている漁協の方々にも、いつ鮎がのぼるのかは、なかなか分からないのだそうだ。
 のぼる時には大挙して押し寄せ、多い日には、鮎が通る魚道の底が見えなくなるほどの群れがやってくるという。
 今日は残念ながら、その日ではなかったため、山の方に移動をして、まだ一度も走ったことがない道を運転してみた。途中に一箇所大きな吊橋と滝があり、まずはその滝を目指したが、僕の好みの風景ではなくて、カメラを持ち出すことなく引き返した。
 ならばと、球磨川の源流を目指して移動の途中で、たまたま光の具合がいい滝の横を通りかかったので、しばらくカメラを向けてみた。

 球磨川の源流付近は、しばしば崩落がおこり、元々荒れ気味の場所ではあるが、それにしても山がひどく荒れているなぁと、今日は車を走らせながら、しみじみ感じた。
 だいたい、植林の跡地や林道の付近から崩れていることが多いが、果たして、こんな場所に、こんな大きな道路が必要なのだろうか?と、疑問を投げかけたくなるような立派な道が付けられている。
 きっと、そんな道路が日本各地にたくさん存在するのだろうが、それよりも、もっと山を本質的に大切に出来ないものだろうか?人が踏み込む必要がない場所には、なるべく手を加えず、そっとしておけないものだろうか?
  一方で、例えば鯨が浜に打ち上げられたら、それを沖へ返そうと一生懸命にがんばる人がいてニュースが美談として取り上げ、また、どこかの県でサルが家の中にまで入ってきて悪さをするというので駆除の方針を打ち出したら、それに抗議の電話が殺到する。
 鯨は、打ち上げられたとしても食べてはならない決まりになっているなどと、どこかで聞いたような気もするが、浜に鯨が打ち上げられたら、天の恵みだ!と、感謝して食べてしまえばいいのではないか?と僕は感じる。
 また、家の中にまで入ってくるようになったサルは、かわいそうではあるが、駆除をすればいいような気がする。人が危害を加えられるのでは?と恐怖を感じつつ、つまり攻め込んでこられてもまだ辛抱して暮らすことが、果たして命を大切にするや自然を愛することなのだろうか?
 そのような状況のもとで、それでもサルを駆除するな!と抗議する人は、蚊に刺されそうになったら、潰さずにそっと息でも吹きかけて追い払い、ゴキブリが家の中に出没したら、殺虫剤を持ち出すのではなく、補注網で捉え、屋外に話してやるのが筋ではないだろうか?
 それよりも、どうせ抗議するのなら、山の中に必要以上に道を作るな!と声をあげるべきだと思うのである。
(CanonEOS5D 70〜200ミリ)(CanonEOS5D 14〜40ミリ)

 

 2006.4.23(日) 移動日

 ここのところ天候の変化がめまぐるしくて、撮影計画を立てるのが難しい日が続いている。
 今日もちょっとばかり迷ったが、今回は、鮎の遡上が見られればと考え、熊本県の人吉へと車を走らせてみた。
 鮎の遡上自体は何度も見たことがあるが、写真を撮るとなると水量や堰を飛び跳ねて上る鮎の数が重要であり、僕はまだ本当にいい条件の日を体験したことがない。
 明日は、僕の計算によると、10時頃、鮎がカメラの前を通過する予定になっているが、果たして思い通りの成果が得られるだろうか?
 正直に言うと、あまり自信がない。
 それでも出て行かなければ何も始まらないので、今回は明日、明後日、明々後日と3日ほど、鮎の撮影のためだけに時間を取っている。
 今年は身近な場所で撮影する時間を大幅に増やす予定だが、その分、遠出をした際には、身近な場所では撮れない被写体に徹底してカメラを向けるつもりだ。また、たくさんの場所を巡るのではなく、一箇所での撮影に贅沢に時間を費やしたい。

 

 2006.4.22(土) ベニシジミ

「やっぱりフィルムの描写っていいなぁ。」
 と言う声をよく耳にする。
 今でもフィルムしか使わないという保守的な人からだけでなく、しっかりとデジタルカメラにのめり込んでいる人からも。
 僕も全く同感であり、フィルムとデジタルのどちらの描写が好きか?と問われれば、迷いもなくフィルムと答える。
 昨日も、知人とちょっとばかり、そんな話をした。
 僕の場合は、仕事用の写真にはデジタルカメラを使うが、この写真は仕事ではなくて、個人的な思いをまとめた写真集に仕上げたいなぁと思うケースではフィルムを使用する。
 一体何の差なのだろう?あの奥行きの違いは。
 フィルムの中でも特にフジのベルビアは、雨の日の発色が素晴らしくて、まさに僕が見ている通りの色や質感を写し撮ることが出来るから、その結果、僕は雨の中での撮影が好きになった面がある。
 デジタルカメラでも、カメラの設定で色合いを操作すると、やはり雨の中でも鮮やかな発色が得られるが、何か僕が見ている色や質感とは違うのである。

(撮影機材の話)
 今月号の写真雑誌を見ていたら、
「お!これはフィルムっぽい、奥行きのある発色だなぁ。」
 と関心させられるページがあり、データを見てみたら、オリンパスで撮影されたものだった。
 今回に限らず、過去に何度か同じような経験があり、オリンパスの絵作りはなかなか素晴らしいと思う。
 一方で、イメージセンサーの小ささが原因と思われる粗を感じるのもオリンパスであり、例えば、高感度撮影時のノイズなど、
「おい、これはないだろう・・・。」
 と絶句させられてしまうような写真が雑誌に掲載されていることもある。
 僕は、現在、キヤノンのイオス5Dを主に使用しているが、その理由は、現在発売されているすべてのデジタルカメラの中で、最も粗がなく、画質まで含めて考えた場合、最もコストパフォーマンスに優れたカメラだと思うからである。

 今朝はカタツムリを撮影して、次にカエルにカメラを向け、カエルの撮影の途中であまりに雨がひどくなってきたので、機材をしまい、忘れ物はないか?とあたりを見回したら、ベニシジミの姿が目に飛び込んできた。
 ちょうどこの場所での羽化の時期に重なったのだろうか?一平方メートルくらいのスペースに6匹のベニシジミがまとまって見られ、中には写真を撮ってくださいと言わんばかりの絶好の位置に止まっているものがいる。
 そこで、また機材を引っ張り出し、雨具を身に付け、昆虫の雨宿りの撮影のはじまりである。
 少し蝶の向きが悪かったので、指で突付いたら逃げてしまうかな?と思ったが、試してみると動きが鈍く、飛び立ってしまうようなことはなかった。
 (CanonEOS5D TAMRON90ミリマクロ)

 

 2006.4.21(金) 計算
 
 鮎の遡上を撮影したいなぁと思う。
 鮎の遡上は潮の干満の影響を受けるので、潮の高さと満潮の時間を確認し、ここぞ!と思う日を設定した。
 その間、事務所を留守にすることになるので、今日は、生き物たちを念入りに世話し、また出かける前に終わらせなければならない撮影を明日の間にスムーズに片付けられるように準備を整えた。
 鮎の撮影に限らず、この日と、条件を考え、計算した上で撮影に出かけることは珍しいことではない。
 むしろ、何も考えずに出かけることなど滅多にないが、考え過ぎると写真が理屈っぽくなる。確かに、思い描いたシーンは撮れてはいるが、それが人の心を打つ訳ではないという、そのレベルの写真に終わってしまうことが多い。
 例えば、桜の花とオオルリの組み合わせで写真を撮りたいと考える。そこで、それが可能な場所に出かけ、確かにそんな瞬間を写真に収めて帰る。
 写真や自然がわからない人は、狙って出かけたその写真を見て、
「わ〜、いい瞬間ですね。」
 と褒めてくれるのだが、写真が分る人や、自好きは、むしろ何でもない青葉の枝に止まったオオルリの写真を気に入ってくれるのである。
 きっと、写真が理屈っぽくなっているのだろうと思う。

 僕は、ある程度計算をするが、それは撮影に出かけるための動機に過ぎない。
 だから、取材先に到着すると、一旦出発前の自分の計算を忘れ、そのときの自分の目で一から被写体探しを始めることが多い。
 
 

 2006.4.20(木) 風の日
 
 僕はかつて野鳥専門の写真家を志していたことは、過去に何度か書いたことがあるが、その際に学んだことは、小動物を主に撮影するようになった今でも生きている。
 一番大きな点は、自然の光の使い方である。
 野鳥の場合、滅多に人工の照明(ストロボ)を使用することはないので、いかに自然の光がよく理解できているのかが、写真の出来を大きく左右する。
 小動物の撮影の場合は、ストロボを使用することが多く、逆にストロボの使いこなしが写真の出来を左右する。ただ、ストロボを使わずに、自然光だけで撮影しても上手く撮れる人にしか、ストロボは本当の意味では使いこなせないような気がする。
 そして、小動物を撮影する人には、プロでも、自然光がほとんど理解できていないのでは?と、疑いたくなるような方もおられるが、写真が上手いかどうかは、ほとんど自然光を理解しているかどうかで決まると言ってもいい。例え、ストロボを使用していても。
 
 その後僕は、渓流での風景の撮影にのめり込んだ時期があるが、渓流のような谷底の場合、影と日向がはっきりし、晴れた日には明暗が強く付き過ぎてしまう難しさがある。
 その明暗が、光の差し込む向きや岩の配置や時間帯によっては、一枚の写真を見事に絵にすることもあり、渓流の有名な撮影スポットは、大抵の場合、そうした偶然が重なった場所だ。
 だが、基本的には、晴れの日の渓流は、ほとんど撮影にならないと考えておいていい。
 そこで、今度は曇りの日に出かけてみるのだが、それではあまりにオーソドックスなので、やがて僕は、小雨が降るような日に、好んで渓流の風景にカメラを向けるようになった。
 水に濡れた葉っぱや岩の質感を楽しむのである。
 さらにその後、雨の日に活動するカタツムリの撮影の仕事を引き受けたことで、僕は益々雨の日好きになるが、撮影を通して、一般的には嫌われるような気象条件でも、楽しむことができるようになっていく面があるように思う。

 逆に、嫌いになった気象条件もある。
 それは、風である。
 風は、小さな生き物を撮影するものにとっては、天敵以外の何者でもない。
 被写体がゆらゆらして、ピントを合わせることもできなければ、ぶれてしまい、まともな写真が撮れない。
 風が強い日には、文句なしに部屋に引き篭もりたくなるのである。
 ただ、この1〜2月の北日本取材で、水鳥の撮影には風という条件が大変に面白いことに気付かされた。
 例えば、海辺であれば、風の日には波を表現しやすい。ベタ凪の海の写真は、やっぱり面白くないのである。
 それから、頭にとさかのような羽毛を持つ鳥や尾っぽが長い鳥の場合、風でそれらの羽毛があおられて、とても見やすくなる点が楽しい。
 もちろん、それでも僕は小動物にカメラを向けている時間が長いのだから、ほとんど反射的に風に嫌悪感を感じ、それは一種の職業病だと思うが、基本的には、晴耕雨読というのも、自然写真の世界では面白くないような気がする。
 雨の日には雨の日に活動する生き物がいて、またその趣があり、風の日には風の日の良さがある。いつか、小動物を撮影しつつ、風を堪能できるくらいの心の余裕が欲しいと思う。

 

 2006.4.19(水) 身近な場所
 
 先日、
「自宅付近の身近な場所では意外にカメラを持ち出す機会が少ない。」
 と書いたところ、八重山をテーマにしている写真家の黒柳昌樹さんから、
「その気持、分るような気がします。私の場合、八重山に引っ越してしまわない理由の1つは、そこにあります。」
 とメールが届いた。
 あまりに身近すぎる場所の場合、いつでも写真が撮れるという錯覚に陥り、遠出をした時のように嬉々としてカメラを向けることが出来にくくなる側面は確かにあるように思う。
 だが、先輩方の中には、都会の住宅街の中の身近な自然をつぶさに撮影し、それによって大自然を見せてくださる方もおられる。
 もちろん、何にカメラを向けたいか?には好みがあるし、その人の置かれている状況も考慮しなければならないだろう。例えば、都会のど真ん中に住んでいたとしたら、毎朝渓流に出かけてムカシトンボを探すなどということはできないだろうし、諦めて投げやりになるか、身近なところをつぶさにという選択肢しか残されていないのかもしれない。
 それに対して、僕の場合は、自宅から早朝であれば車で30分走れば、ムカシトンボの生息地にも到着するのである。
 だが、恵まれた環境に住んでいることによって、大雑把になってしまっていることも事実であり、丁寧でつぶさな自然観察眼を時間をかけて養うことは不可欠だとここ数年感じていた。
 そこで今年は、事務所で仕事をする日にも、短時間でいいから、なるべく野外で撮影する時間を作ろうと思う。

 今日は、そのための場所を設定するために車を走らせた。
 渓流は、先日ムカシトンボ撮影した場所。北九州市の平尾台というカルスト台地の麓。湿原は、平尾台を2〜30分歩いた場所にある広谷湿原。平尾台には広谷湿原の他にも小さな水場があり、観察センターの方と一緒に歩く約束をしているので、そうした小さな場所にも案内してもらおうと思う。
 池は、その平尾台を、僕の自宅とは逆方向にくだった場所にある小さなため池に決めた。かなり以前のことだが、そこでガガブタという植物を撮影して、茎を5〜6本採集して帰ったことがある。その時採集したガガブタは、今でも毎年家の庭のスイレン鉢の中で花を咲かせる。
 川は、その池から流出する小さな河川に決め、暇さえあれば同じ場所に何度も何度も通うつもりだ。

 これは、実際にやってみると意見が変わる可能性もあるが、頻繁に同じ場所に通う場合、ただの写真の羅列にならないように、何にカメラを向けるつもりなのかが大切ではないか?と漠然と考えている。なぜなら、何度も通うことで飽きてしまう可能性もあるように思うのである。
 例えば、しつこく通うことで、偶然では捉えにくい、撮影が難しい生き物の生態を写真におさめるというようなやり方があるだろう。
 僕は、今のところ、変化に着目するつもりでいる。
 今年初めて、この場所でアジアイトトンボを見た。アジアイトトンボの産卵を見た・・・。といった感じで続けられるといいなぁと考えている。
 絵になる写真を何としても撮ろうとするのではなくて、淡々と変化を写真におさめ、絵になる写真は、偶然の産物として後からそれについてくればいいと考えている。
 (CanonEOS5D 100ミリマクロ ストロボ)

 

 2006.4.18(火) 練習と準備

 ここのところ、スタジオ撮影の日やその他の日にも早朝に時間を取り、ほとんど毎日キヤノンのMP−E65ミリを使いこなす練習に取り組んである。
 拡大撮影で、最初に何が難しいか?と言えば、被写体がどこにあるのか、カメラで捉えることが出来にくい点であり、初めて、それにチャレンジした際には難しいは難しいでも、絶望的に難しいように感じられた。
 スタジオ内ならともかく、高倍率の拡大用のレンズは野外では使える道具ではないように感じた。
 高倍率の拡大撮影の場合、三脚を使わなければ、自然光でシャープな写真を撮るのはほぼ不可能である。ところが三脚を使用すると、手でカメラを持って撮影するのと違い、柔軟にカメラを動かして被写体の位置にカメラをセットすることが出来なくなるので難易度が上がる。
 だが、かなり上手くなった。だいたい、どんな倍率の撮影でも、30秒以内に被写体を捉えた上で三脚に固定できるようになった。
 それから、キヤノンのMP−E65ミリは、自然光で、きらきらするものを撮影する際にはかなり描写に癖があり、使い方が制限されることがよく分った。

 ここ数年、春〜秋にかけては、渓流や湿原で撮影することが多い。
 まず、北に行くのか、南に行くのかを決め、北は鳥取県まで、南は宮崎県までの好きな場所を数箇所ピックアップして歩き、カメラを向けてきた。
 今年は、その中でも撮影スポットとしては全く無名の2箇所を選び、徹底して、水中〜可能であれば空撮まで予定しているが、そのために今、様々な準備を整えている。
 まだ、あと少し準備に時間が必要で、撮影開始は5月のゴールデンウイーク明けになりそうだが、例えば、空撮のためにヘリを飛ばしてくれる会社を調べてみたり、水中用の機材を注文したり、また車に簡単に積み込むことができる二輪車を手に入れることになった。
 当初は、ボロボロの中古のスクーターを諸経費こみで6〜7万円で買おうと思い、近所の中古ショップに出かけてみた。
 そこで、
「ホンダのスカッシュが小さいのでお勧めですよ。」
 と勧められ、ほぼそれを買うことを心に決めたうえで帰宅する途中、日頃はまず気にすることもないバイク屋さんの店頭に、銀色でピカピカの限定車が展示されているのに気付き、
「か、かっこいい・・・」
 と欲しくなり、ホンダのモンキーを買うことになった。
 銀色の限定車は無意味に高価なので、そうではないものを買うことにして調べてみると20万円以上のお金がかかる。
 そこで、一部機材を手放すことになり、オークションに、ニコンの17ミリ〜55ミリのズームレンズを出品したら、まあ、そこそこいい値段が付き、足しになった。
 ニコンの17ミリ〜55ミリのズームレンズは、僕にはあまり使い道がないレンズだったが、実に素晴らしい描写をし、しかもデザインも洒落ていてお気に入りの道具であり、できれば、誰か知人が欲しいと言い出した際に、お友達価格で引き取ってもらい、大切にしてもらいたいと、手元に残しておいた道具の1つだった。
 (CanonEOS5D 65ミリマクロ)(CanonEOS5D 17-40ミリ)

 

 2006.4.17(月) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

 2006.4.16(日) 観察テクニック

 ようやく晴れた。
 今日は、昨日からの予定通り、ムカシトンボの羽化を探しに出かけた。
 が、結果は一匹も見つけることができず、恐らく、この場所での羽化の時期を過ぎてしまったのだろう。
 
 さて、ムカシトンボの羽化と言ってもオタク過ぎて、大半の人にはあまり興味が湧かないテーマではないか?と思う。
 それでも僕は今年になってから、数回その場所に通ったが、その理由は、トンボの観察テクニックを身に付けるためだ。
 その場所でのムカシトンボの発見者である西本晋也さんが、どういうポイントをチェックしていくのかを把握して、それを他のトンボや水辺の生き物の観察に応用するのである。
 例えば、昨年の4月29日の日記の中で、僕はムカシトンボの産卵を紹介したが、羽化をしたメスはおよそひと月かけて体を成熟させ、やがて産卵に至ることが知られている。
 つまり、4月29日に産卵したメスが羽化をしたのは、恐らく3月末であろうことが想像でき、今年西本さんが動き出したのも、その時期だった。
 西本さんの場合は、特に羽化を見つけることに熱心だと僕は見ているのだが、産卵や羽化と言ったイベントを確実に把握した上で、この場所に絶対にトンボがくるはずだ!と自信を持ち、集中して探す。
 その要領を、見せてもらえることがありがたいのである。
 その後は、トンボ好きの人たちの観察中心の撮影と、僕に要求される撮影とではかなり質が異なり、見せてもらったものを応用して、自分で極めなければならない。
 そして、ほんのちょっと最初に見せてもらうことで、スタートダッシュが出来るか出来ないかくらいの差が生じる。
 ただ、生き物を見つけ出すと言うと、経験や根気や知識が物を言うように思えるが、僕は西本さんの姿を見て、才能が大きいと感じている。
 何かを見つけ出すことが上手い人が世の中には存在し、彼らはとても楽しそうに探すし、ただ探すことにも幸せを感じているように見える。
 そんな人には絶対に敵わない部分があるから、探すことに深入りしてはならない。
 もちろん、自然写真の世界は探すこととは無縁ではいられないのだが、あまりに探すことに大きなウエイトがある、宝探し的な撮影は、その才能がない人は敬遠した方がいいと。
 方や、「あ〜楽しい。川に行きたい。山に行きたい。」と、疲れ知らず野山を駆け巡り、方や、「何とかして探さないかん。」では、結果は最初から目に見えているのである。

 今日は、トンボの羽化を探しながら、時々水生昆虫にもカメラを向けてみた。
 目的は、新しく購入したばかりのキヤノンのツインフラッシュの使いこなしであり、ストロボで照明しながら、まるで自然の光のような素直な立体感を被写体に与えることだ。
 だいぶ上手くなってきた。 
(CanonEOS5D 100ミリマクロ ストロボ)

 

 2006.4.15(土) 水滴

 またムカシトンボを見に行きたいなぁと思うのだが、ここ数日、連日雨が降り、どうにもならない。
 日曜日には、ようやく晴れるというので、明日はトンボの撮影に出かける予定を組んでいる。

 今日は、雨の中で水滴にカメラを向けてみた。
 ほんの数枚撮影する予定で、しばらく雨に濡れながら撮影していたら、次第に本気になってしまい、まず雨具の上着を着て、しばらくしてから雨具のズボンを身に付け、結局数時間撮影することになった。
 今年は、キヤノンの拡大専用65ミリマクロレンズをいつも持ち歩くようにしようと思う。
 スタジオではすでに、メダカやカタツムリの卵の撮影に、頻繁に使用してきたレンズだが、今度は、野外で自然光で使いこなしてみたい。
(CanonEOS5D 65ミリマクロ)

 

 2006.4.14(金) 撮影機材の話

 先日、一緒にムカシトンボを撮影したトンボの写真家・西本晋也さんは、日頃、それほど写真の画質にこだわる方ではないが、僕のイオス5Dをお貸しして、その画像を自分のパソコンで見た際には、あまりの画質の違いに驚かされたようである。
「あの画質の良さって、一体何ですか!」
「5Dの画質、凄いでしょう?」
「あれって、フルサイズセンサーの凄さなんですか?それとも、キヤノンのカメラの画質がいいんですか?」
「少なくともAPSサイズのセンサーを搭載した20Dでは、ニコンとの歴然とした差はないから、やっぱりフルサイズセンサーの威力でしょう。」
「私は今ニコンを使っているから、キヤノンの5Dを買おうとは思わないのですが、もしもキヤノンの20Dあたりを使っていたのなら、すぐにでも5Dを注文したでしょうね。」
「僕がフルサイズセンサーのカメラ以外は、もう買わないというのが分るでしょう?使っているカメラの違いであれだけの差が出るのは馬鹿らしいですよね。」
「その気持ち、よく分りました。自分がキヤノンユーザーなら月賦ででも買うでしょうね!」
 と、先日そんな会話を交わした。
 
 ナショナルジオグラフィック誌のホームページを見ると、本に掲載されなかった写真の一部を閲覧することができる。また、そこには撮影データが添えてあるが、最近は、デジタルカメラによる作品が多くなってきた。
 そして、それらの画像は、大抵の場合、キヤノンのフルサイズセンサーのカメラで撮影されたものである。やはりプロのスタンダードは、フルサイズセンサーに落ち着くような気がする。
 APSサイズのセンサーで十分!、いやフルサイズがいい!と論争はあるが、APSサイズがいいという人には、実際に最新のフルサイズ機の画質を体験したことがない人も少なくないように思う。
 先日、白の背景の上に白いカタツムリを置いて撮影する機会があったが、APSサイズのセンサーでは、被写体と背景の白の分離が悪くて写らなかったものが、フルサイズセンサーでは楽々写るのである。

 僕が長年愛用してきたニコンは、フルサイズセンサーを研究してはいるが、現在のセンサーでも十分な性能があり、フルサイズセンサーである必要はないとアナウンスしている。
 それがもしも本当なら、いずれ僕もニコンを離れざるを得ないだろうと思う。
 フルサイズでも、トリミングするならAPSと同じになってしまうから、そんな局面では、よりメカとしての完成度が高いニコンのデジタルカメラは重宝するが、それでも厳密に言えば、APSサイズでいっぱいいっぱいにフレーミングするより、フルサイズをトリミングする方が撮影は易しい。
 したがって、例えば、いずれ発売されるニコンのD2Xの後継機を買うか?キヤノンのフルサイズの後継機を買うか?と考えてみると、キヤノンのフルサイズを買っておいた方が使い道が多いという結論になる。

 僕の場合は、キヤノン製の65ミリ拡大マクロレンズを以前から使用していたので、常にキヤノンのカメラを1台以上持ち続けてきた。つまり、メインはニコンだが、部分的にキヤノンを使ってきた。
 そこから1本、2本とレンズが増え、今ではキヤノンのセットを持ち歩くようになったが、キヤノンの道具は面白味こそないものの、実に良く出来ている。
 ここ最近は、生まれて初めて、マクロ撮影にオートフォーカスを使用しているが、イオス5DのAFポイントの位置には、とにかく関心させられている。
 被写体をきれいにフレーミングした際に、ここにAFポイントがあって欲しいなぁと思う位置に、実際にAFポイントが存在し、絶妙過ぎるくらいに絶妙なのである。
 恐らく、プロが撮影した写真とその写真のピントの位置を山ほど分析して、どこにピントの位置があるのか、その統計を取っているのではないだろうか?とにかく緻密としか言いようがない。
 それに対して、ニコンのカメラのAFポイントの位置は、もう少し中央よりが使いやすいだとか、もう少し外側に・・・と言った感じで、何となく配置されているような印象を受ける。

 

 2006.4.13(木) フランス語

 4月4日に紹介したキヤノンのツインフラッシュだが、

「僕が扱った範囲では、マニュアル発光の場合、全体の光量の調節か、左右の発光量のバランスか、そのどちらか一方だけしか調整できないようだ。」

 と書いたら、先日、フランスからメールが届き、
「ニホンジン、セツメイショノヨミカタ、ダメネ。」
 と、正しい使い方を指導してもらった。
 ああ、フランス語の読み方を勉強しておいて良かった!
 キヤノンのツインフラッシュは、TTLオートで使用する場合は、左右の光量比と、トータルの発光量を調節することができる。
 マニュアルで発光させる場合は、左右の光量比+トータルの発光量という形ではなくて、左右それぞれの発光量を別々に調節できることが分った。例えば、右の発光部をフル発光に対して1/16のパワーで発光させ、左の発光部を1/2のパワーで発光させるようなやり方である。左右を、まるで別々のストロボのように扱うことができるようだ。
 つまり一言で書くと、マニュアル発光でも細かな調整ができる。
 本当のことを書くと、フランスの方と言っても、フランス在住の日本人であり、言葉はもちろん日本語だ。

 さて、僕は滅多にストロボの光を直に被写体にあてることはない。
 ストロボの光量が許す限りディフューズするが、ツインフラッシュでも同じである。
 ディフューザーとしては、ケンコーなどから発売されている、白い布製の製品がかさばらないので気に入っているが、発光部の形状によっては、ディフューザーがしっかりと固定できないから、アクリル板を曲げたものを発光部にマジックテープで貼り付け、ディフューザーを引っ掛けるための爪を作る。
 今日の画像の左側に写っている発光部には、その爪が取り付けてある。
 また、ディフューザーを使用すると、ストロボの光の色が若干赤くなるから、ディフューザーを取り付けるための爪の部品には、ちょうど発光部の上に被さる部分にブルー系の色温度変換フィルター(LBフィルター)を貼り、ディフューザーを使用した場合と、しない場合とで、全く同じ色に写るように調整する。
 僕は色温計を持っているが、持たない人は、LBフィルターの中で、ブルー系の一番薄いものを、一枚か、あるいは二枚重ねてはれば、ほぼ100%補正できる。
 
 ストロボの色温度と言えば、僕はキヤノン製のストロボを2つしか持たないので、確実なことは何とも言えないのだが、キヤノンのその2機種は、サンパックやニコンに比べて、メーターで測定すると光が青かった。
 ストロボは多分、ニコンもキヤノンも外注であり、どこのメーカーのものでも同じ工場で作られているのではないか?と思うから、そんなことはあり得ないような気もするのだが・・・
 僕が所有しているキヤノンは、ディフューザーを取り付けた結果、若干赤くなったくらいの状態で、ちょうどきれいな色がでるようだ。
 だから、その場合は補正する必要はないが、ディフューザーを使わない場合と比べた時に色がばらつくのがイヤなので、やっぱり補正することになる。
(NikonD70 12-24 ストロボ)

 

 2006.4.12(水) 一人相撲

 長年の習慣で、カメラを構え、被写体を捉えると、僕は心が穏やかになれる。
 癒されるのではない。
 忙しすぎるのである。
 ファインダーの中に、考えるべきことがたくさん転がっていて、脳みその活動が慌しくなり、その結果、さまざまな雑念を追い払ってくれる。
 だが、年に数日、カメラを構えたものの、全く集中できない日があり、今日がまさにそうだった。ほんの数分撮影してみたものの、何も写らない気がして、撮影を切り上げることにした。
 ところが、帰宅をして、数枚撮影した画像を眺めてみると、どうにもならないほど状況が悪かったわけではない。
 もちろん、適当にシャッターを押して、さあ、これから仕上げるぞ!と、スタート地点に立ったような段階で、「今日はダメ」と帰ってしまったのだから写真は甘いが、もうちょっと頑張れば、少なくともいつも通りのレベルには仕上げることができたはずだ。
 つまり、僕が一方的に弱気になり、一人相撲をとり、自滅してしまったのに過ぎない。
 
 自然と付き合うことは、なかなか難しくて、どんなに難易度が低い撮影でも、余裕で写真が撮れることなど滅多にないと考えておいた方がいい。自然の性質をある程度理解し、自信があり、余裕で写真が撮れているような気がしていても、実はよく考えてみると際どい。
 だから、ほんのちょっとした心のバランスの崩れで、撮影が簡単にも難しくもなるし、心のバランスの崩れを体験した際に、その際どさにヒヤッとさせられる。
 だが、そもそも人が生きていくこと自体が、そのようなものなのかもしれないとも思う。
 人は滅多に事故に巻き込まれることはないが、事故で命を落とす人は少なくない。
 何も対策をしないのは無謀だが、事故、事故、と心配していても何もできない。
 結局、やるべきことをきちんとやる周到さと、その上で諦めることも同じだけ大切ではないだろうか? 諦めと書くと言葉が悪いのなら、受け入れると書いてもいい。
 僕は、
「自然を見つめることで学んだことはなんですか?」
 と、問われれば、
「受け入れることです。」
 と、答えたい。
 やっぱり、人も自然の一部であり、どんなに文明が発達しても、誰の思い通りにはならないし、そうなると思っている人は厚かましいような気がする。
 例えば、人は平等であって欲しいと思うし、そのための努力は不可欠だと思うが、そのためにすべてをストップさせることも愚であり、受け入れて、前に進むことも必要ではないか?と。
(CanonEOS5D 100マクロ トリミング)

 

 2006.4.11(火) 350シリーズ

 一言で、生き物の写真といっても、色々な撮り方がある。
 僕の場合は、とにかく素材重視。この一点だけは、当分変えるつもりはない。
 まず被写体があり、それを僕が写真に撮ることで、見る人のところまで運ぶ。
 僕は運び屋である。
 だが中には、まず写真家がいて、その人が例えば昆虫の姿を借りて、自らのメッセージを見る人に伝えるような撮り方もある。芸術家タイプと言ってもいいのかもしれないが、それを順に並べると、写真家 ・ 被写体 ・ 見る人という順番になる。
 僕の場合は、写真家は仲介者に過ぎないから、被写体 ・ 写真家 ・ 見る人の順に並ぶ。僕はまず優れた技術者でありたいと、時々書くことがあるが、それも同じ意味だ。
 僕は、生き物ってきれいだなぁと思うから、きれいに撮りたい。がしかし、実際の被写体以上に劇的にきれいであってはならない。
 レンズの特性を利用して、そのように撮ることも可能だが、僕の場合は、ありのままが美しくなければならない。
 日常生活に例えるなら、メイクがバシッと決まっていい女よりも、素肌がきれいな素朴な人が好みなのである。だが、ただありのままでいいのではなく、ダサくてはならない。ありのままでダサい人は、きっとたくさんいるに違いない。そんなところだろう。
  
 以前、あるプロの写真家が、僕の写真を見て、
「さすがプロ、分りやすい。」
 と評価してくださったことがあるが、僕にとって大変に嬉しい褒め言葉であった。
 闇雲に褒められても嬉しくない。
 僕は、社交辞令のような言葉を交わさなければならないことがイヤで、結果の世界であり、一種勝負の世界でもある写真業界を選んだ側面があるのだから、むしろ、お世辞は嫌いだ。
 さて、ある編集者が、
「かたつむりの写真を撮っている人を知りませんか?」
 とたずねられ、
「それなら、この人がいいですよ。写真に、被写体に対する愛情が写っているから。」
 と、僕のことを推薦してくださり、2冊の本の写真を担当することになったのは、昨年の冬だ。
 素敵だなぁと感じたものを、ひねらずに、感じたままにシンプルに撮ってきたことが評価されたのだから、嬉しくないはずがない。僕にとっては、最高の褒め言葉なのである。
  
 それとあと一つ。僕が大切にしていることは、写真を売ること、市場の原理をしっかりと意識してカメラを向けること。
「それは、素直に撮ることと矛盾するのではないか?」
 と指摘したくなる人もおられるだろう。
 だが、そうではない。
 写真が売れなければ、やはり人は心のゆとりを失い、素直にカメラを向けるどころではなくなる傾向にある。やがて、なんとかしてやろう!と安易な策をめぐらせるようになる。
 よほどに強い人間でなければ理想だけで何かを長続きさせることは難しいし、何か現実的な努力をして、小さくてもいいから結果を出し、その自信の上に新しいものを積み上げなければ、凡人には何もできないような気がする。

 ポプラ社 350シリーズ - いきものしゃしんえほん 「かたつむり」 「ざりがに」

 

 2006.4.10(月) 紙とプラスチック

 昨日トンボを撮影した場所は、付近にカルスト台地があり石灰岩で形成されているため、それを殻の材料にするカタツムリの宝庫でもある。
 水辺の森の中を歩けば、おびただしい数のツクシマイマイの死骸が見つかる。
 ツクシマイマイには、さまざまな殻の色のバリエーションが存在するが、その場所では、4月の初めに、他の場所では見たことがなかったタイプのものを採集できた。
 さらに一昨日には、それと同じタイプのものをあと一匹見つけた。
 恐らく、その地域に多く見られる色合いなのだろうと思う。
 長距離を移動して分散することが不得手なカタツムリだから、そうして地域ごとに特徴があり、それがカタツムリの面白さだ。
 昨日は、全く縞模様を持たない、無地のタイプを見つけた。
 これは僕が知り得る範囲での経験則でしかないが、このタイプのツクシマイマイは、比較的どこででも見られるが、どこででも数が少ない。
 恐らく、広く分布する劣勢の遺伝子の組み合わせで生まれてくるのではないか?と、勝手に想像している。
 
 それから、これは偶然かもしれないが、黄土色の無地のタイプは、同じタイプを組み合わせて、飼育下で採卵して、その子供を育てようとしても、なかなか育たないことが多い。弱くて死んでしまうのである。
 なぜ、飼育をして育てようとしたのか?というと、無地なだけに殻が汚れやすく、傷も目立ち、野外で採集するものは、撮影のモデルとしては不適当なものが圧倒的に多いからだ。
 やっと、野外できれいなものを採集できたわけである。

 今日の白バック写真は、雰囲気が違うなぁと感じた人がいたとしたら鋭い。今日は、いつもと撮り方が違う。
 まず、下に敷いてある白の背景が、いつもはだが、今回はプラスチックだ。
 紙の方が、光の反射の具合などの面では扱いやすい。
 だが、紙は汚れるし、水辺のものを撮影する僕の場合、頻繁に交換しなければならないので、資源の無駄という点が気になる。
 一方プラスチックは、耐久性以外では、ツルツルだから拡大しても繊維が見えない点がいい。紙の場合、白の背景は飛ばしてしまうので繊維が見えることはないが、陰の部分には時に繊維が見えて、気になることがある。
 一番の問題点は、プラスチックと紙は、白は白でも色が違う点だ。
 多分、紙の方が自然な白さだと思う。したがって、紙の白でホワイトバランスを取っても問題はないと思われるが、プラスチックの場合は、微妙に被写体の色を変えてしまう危険性がある。
 そこで、まず色見本を撮影しておき、キャノンのRAW現像ソフトにはホワイトバランスを記憶させる機能があるから、まず色見本の白〜グレーを使ってホワイトバランスを取った上で(スポイトツールでクリックするだけ)、それを記憶させておく。
 あとは、カタツムリの画像をRAW現像する際に、それを反映させるだけだ。
 過去には、色も厳密に整えたことがある。だが、生き物の写真の場合、そこまでは不要だと感じた。いや、正確に書くと、厳密に色を合わせてしまうと、とても地味になってしまい、むしろ不自然に感じられた。
 そこは、商品撮影とは事情が異なると思う。
(CanonEOS5D 100マクロ ストロボ)

 

 2006.4.9(日) 自然という言葉

 自然という言葉は、さまざまに使われているのだなぁと、最近しみじみ感じる。
 例えば、桜、ソメイヨシノやエドヒガンを眺めて、
「自然が好き。」
 という人がおられるが、僕には、人が改良したり、或いは持ってきて植えた街路樹のようなものでしょう?と、その花をどれだけ眺めても、自然という気持ちにはなれない。
 だが確かに、人工的に作られた品種や植えられたものでも、ゼロから人が作ったわけではないし、野生のものにちょっとばかり手を加えたに過ぎない。
 だから、間違いなくそれも自然であり、少なくとも人工物ではない。
 また、この冬、どこかのホームページを眺めていたら、
「私は自然が好きです。」
 という人が、同時に、
「寒いのは嫌いだから閉じ篭っています。春が待ち遠しい。自然を満喫したい。」
 と書いているのを読んだことがある。
 だが、寒さも自然の一部である。その人が言う自然って、一体何なのだろう?と、考えさせられたことがあった。
 僕は、自然を分解して、人にとって心地よいものだけを切り出してきて、それが自然だという考えにはどうしても馴染めない。
 逆に、気持ち悪いものばかりを取り上げたり、気持ちいい部分にカメラを向けた写真だけを否定することにも馴染めない。
 それらをバラバラにして、切り離してしまいたくない。
 お花見が盛んな時期になると、毎年そんな風に感じる。
 花見の時期は、なるべくそうした人の会わずにすむ場所で静かに撮影したい。今日は、北九州市内の沢に出かけ、渓流の生き物にカメラを向けた。

 その渓流には、つい先日も画像を掲載したが、ムカシトンボが生息する。今日は、トンボの写真家・西本晋也さんと、そのトンボの師匠・Hさんが一緒だ。
 僕から見れば、西本さんのトンボに関する観察眼は実に大したものだが、Hさんは、やはり神業レベルとしか言いようがない。
「なんでこんな所にいるのを見つけられるの?」
 という言葉しか出てこない。
 何であるにせよ、神業を拝めることは素晴らしい。
(CanonEOS5D 100マクロ ストロボ)

 

 2006.4.7〜8(金〜土) 諦め

 僕は日頃、諦めを、何よりも大切にしている。
 悩んだり、もがいたってどうにもならないことはたくさんあるし、その場合は一秒でも早く諦めるのを良しとしている。
 人からは、
「悩んでも仕方がないことでは悩まない。」
 と言うと、お気楽ですねぇとよく笑われる。
 だが、その代わりに、努力すれば解決できることでは精一杯悩む。無駄に悩むエネルギーがあるのなら、そのエネルギーを現実的な悩みに回した方が得だと考える。
 ここぞ!という局面で努力ができない人は、むしろ淡白な人ではなくて、諦めが悪くて、日頃エネルギーを浪費している人ではないか?と思う。
 それは、単に僕が合理主義者なだけかもしれないが、ただ、そんな僕でも、放って置けば、やはり無駄に悩む方に引っ張られる。
 だから、そんな時は、自分にとって何が得か?を考えるし、それが、冷静になることである。
 いや、そんなものじゃない!人生は損得ではない!という人もおられる。
 だが、そういう人は、大抵の場合、得をして、まず先に幸せを感じることを身を持って知らない人だと思う。その得がどれほど大切なものかを知らない人が、しばしば、そう言いたがるように思う。
 考えることや悩むことは尊いことだと思うが、どこで悩むか、取捨選択することが大切なのだと思う。

 さて、昨日、ショックキングな出来事が起きた。 
 撮影した画像を、いつの間にか、消してしまっていた。
 岩の上にサワガニを見つけ、それに夢中になり過ぎて、早朝に撮影した他の写真が記録カードに保存されていたことを忘れ、
「よ〜し、たくさん撮るぞ!」
 と、カードを初期化してしまったのだと思う。
 やばい!復旧用のソフトで・・・と、ジタバタしてみたが、その上から別の写真を撮っていたので、どうにもならない状態だった。その消してしまった中には、間違いなく売れそうな写真が数枚・・・。
 悩まないという僕も、さすがに、昨日はがっかりしてホームページを更新する気力も失せ、落ち込み、熱っぽいような気もしたが、今日になってみると、まあ、良かったではないか!と思う。
 人は失敗を一通り経験する生き物であり、昨日失敗しなければ、いずれ別の機会にその順番が巡ってきたに違いない。それが、何よりも重大な局面だったなら・・・と考えると、空恐ろしい。
 よく考えてみれば、早めに勉強する機会があって運が良かったのである。
「だからデジタルは嫌いなんだ!」
 と言い出す人もいるが、それは最悪の悩み方である。
 フィルムだって、現像所のミスやその他のトラブルが一定の割合で起きるのである。嫌いなら、フィルムを使えばいいだけの話だ。

 今朝は、その気持ちをまずなだめようかと、植物にカメラを向けてみたが、植物=安らぎや癒しという構図も、よく考えてみれば、何だか変だなぁと思えてきた。
 僕は動物が好きだから、動物を見ている方が夢中になれるし、その分、邪念を忘れ、癒される。
(CanonEOS5D 100マクロ)

 

 2006.4.6(木) カワニナ

「あなたがよくカメラを向けるカタツムリは、水辺の生き物ではありませんよね?」
 と、僕は時々指摘を受ける。
 事情を書けば、確かにカタツムリは陸産貝類だが、児童書の世界ではしばしば水辺の生き物として扱われている。
 理由は、恐らく貝の仲間だからだと思う。
 ほとんどすべての貝は、水の中にいるのである。
 ただ、僕は水辺に執着している訳ではない。何もかもを撮影することはできないから、自分の好みで優先順位を付け、そうして的を絞っているに過ぎないし、もしも、
「カブトムシの写真を撮って欲しい。」
 と、日頃付き合いのある方から依頼があれば、躊躇わずに仕事を受けるだけの心の準備は出来ている。
 またその場合は、依頼に応えるだけでなく、依頼されたシーン以外のカットも、それなりの時間をかけて撮影することになるだろうし、それを楽しむだろうと思う。
 カブトムシの写真はよく売れるはずだから、そうしてついでに撮った写真は、やがてまた別の企画で使用され、最終的に利潤を生み出してくれるはずだ。
 依頼されたからそれに応えただけの写真は、言うならば、義務か義理のようなものであろう。
 義務は果たして当たり前。
 義理は、サラリーマンの世界では素晴らしいものであり、また義理を果たした当人も、やってあげていると自分に酔えるのかもしれないが、フリーの世界では全く面白くない。
 不義理がいいと言いたいのではない。義理で撮るのではなく、やるからには楽しんでしまうのがフリーの世界の礼儀ではないかと思う。

 先日、ムカシトンボの羽化を撮影した場所には、カワニナが生息している。今日は、そのカワニナにカメラを向けてみた。
 流れがある場所のカワニナは、殻が比較的ずんぐりしている。
 また、カワニナと言えば、水中の生き物のイメージがあるが、上陸しているものも多く見かける。カタツムリも、元はそうして水中ですごしていたものが、少しずつ水辺から離れ、陸の生き物へと分化していったのだろうか?
(CanonEOS5D 100マクロ)

 

 2006.4.5(水) 新しい道具-3

 2つの発行部を持つツインフラッシュは、現在、ニコン、キヤノン、オリンパスから発売されているが、使ってみたい!と興味を持つ人は多いのではないだろうか?
 そうした人にアドバイスをするなら、現在、一般的なストロボを使用してたくさんのマクロ撮影をこなし、その上で、この形でなければならないという要望を持つ人には勧められるが、そうではない人はお勧めしない。
 2つの発光部を使いこなすことは難しくて、ほとんどの人にとって、むしろ使いづらいのではないか?と思う。例えば、しばしば2つの影が出来てしまう。
 これを完璧に使いこなすためには、ある程度スタジオ撮影の経験も必要ではないか?と。
 それよりも、一般的なストロボに工夫を加えた方が断然に、頭を使う必要がないので手堅い。
 
 僕は、つい先日、キヤノン製のマクロレンズを買ったついでに、キヤノンのツインフラッシュを購入した。
 レンズへの発光部の取り付けは、専用の部品を用いるが、マクロレンズにしか付かないので、上の画像のように自作の取り付け器具を作成し、20ミリレンズや魚眼レンズにも使えるようにした。
 また、これはマニュアル発光させるのではなく、オートやハイスピードシンクロを駆使して、便利に使いこなす道具だと感じる。僕は自由に絞り値を選択したいので、購入してみた。
 マニュアル発光させ、他社のカメラに取り付けてみようと言う人もおられるだろうから、参考までに書いておくと、発光部は、一般的なストロボと共通のシューを持ち汎用性がある。したがって、例えば、オリンパスのOMシリーズ用のツインフラッシュを持っているような人は、オリンパスの部品にステップアップリングやステップダウンリングを使い、発光部を他社のレンズにも取り付けられる可能性がある。
 ただ、僕が扱った範囲では、マニュアル発光の場合、全体の光量の調節か、左右の発光量のバランスか、そのどちらか一方だけしか調整できないようだ。

 ツインフラッシュは発光部が2つあり、より考えなければならないことが多い。そこで、ここのところ、暇を見つけてはさまざまなテストを積み重ねている。
 今日は、雨降りなのでカタツムリを見に出かけたが、ツインフラッシュは両側から光る分、水に濡れた被写体ではひどくギラギラしてしまう。やっぱりカタツムリには自然光が似合う。
(NIKON D70 12-24ミリ)(CanonEOS5D 100マクロ)

 

 2006.4.4(火) ユーザーの声

 観察は、自然写真の基本であることは言う間でもないが、昆虫写真の場合は、観察に加えて、事前の勉強が不可欠である。
 昆虫の生き方は実に多種多様だから、誰か一人の目で観察して把握できることはたかが知れているし、文献を読んだり、詳しい人に教わらなければ、なかなか深く入っていくことができないのである。
 時々、他の生き物については滅法詳しいのに、昆虫だけは分らないという人がいるが、恐らく、大抵の場合、フィールドを歩くことは得意だが、文献を読んだり、人様の研究を調べることが不得手な人ではないか?と思う。

 さて、今日は、トンボの写真家・西本晋也さんを誘い、生きた化石とも言われるムカシトンボの撮影に出かけた。
 そうした機会に、トンボの観察のポイントを教わっておくことで、撮影が断然楽しくなるし、気持ちが豊かになれる。
 僕は今年2種類のトンボの撮影を予定しているが、そうした予定を立てることができるのも、西本さんの存在のお陰だ。
 西本さんには、さらにトンボの先生がいて、仮にHさんとしておく。
 Hさんは、5歳の時だったか、小学校の5年生の時だったかは忘れてしまったのだが、すでに日本産のトンボ全種を制覇してしまったというつわものであり、西本さんが言うには、日本で一番トンボに詳しい人の一人である。
 僕の先生である西本さんも、Hさんの前では、
「西本さんもまだまだやねぇ。」
 と、まるで子供扱いだ。

(撮影機材の話)
 昨日のホトケノザ、一昨日のカタツムリ、そして今日のトンボの撮影に使用したレンズは、キヤノン製の100ミリマクロレンズだが、恥ずかしながら、このレンズを購入したのは今回で3度目だ。
 決して何度も紛失したわけではない。
 当時僕はニコンを主に使用していたので、結局キヤノンの100ミリマクロレンズはあまり出番がなく、他の物を購入する際のお金の足しに、下取りに出したのである。
 キヤノンのカメラに使用できるマクロレンズとしては、他にタムロン社製の90ミリを所有しているし、タムロン90ミリの描写は抜群だから、キヤノンの100ミリは僕には不要に思えた。
 なのに、また買うことになった。
 目的は、水中撮影だが、なぜこのレンズでなければならないかは、話が長くなるので省略する。
 それはさておき、100ミリマクロレンズ用のレンズフードを、カメラバックに収めようとした際に、ちょっと驚かされる出来事がおきた。
 70ー200f4用のレンズフードの中に、100ミリマクロ用のフードが、見事に納まるのである。
 僕が写真を始めた当時は、レンズフードと言えばあまりに小さくてお粗末なものが多かったが、最近は、深くてしっかりとしたフードがレンズに付属するになり、それはそれで歓迎すべきことだが、同時に、カメラバックの中でやたらに場所を取るようになった。
 もしも、キヤノンのレンズフードが、なるべくきれいに重なるようにわざわざ作ってあるのなら、さすがキヤノン!と言うより他はない。
 僕はニコンで写真を覚えたし、今でもニコンの良さは良く分っているつもりだし、できればニコンを主に使いたいと思う。
 だが、2つのレンズフードがスポッと重なり合った瞬間に、今のニコンがキヤノンを越えるのは難しいのかな・・・と感じた。もしもそれがメーカーの工夫だとするなら、それはユーザーの声によく耳を傾け、大変によく吸い上げていることを意味するからである。
(CanonEOS5D 100マクロ ストロボ)

 

 2006.4.3(月) 新しい道具-2

 僕は、三脚が大好きである。もしも三脚を使うことができるのなら、ほぼ100%使用する。
 これは、小さな生き物を撮影する自然写真家としては珍しいのではないか?と思う。
 三脚を使うメリットと言えば、手ぶれのないシャープな写真を撮影できることだが、野外を歩く自然写真家の場合、誰しも身軽になりたいし、手持ち撮影の方がシャッターチャンスを逃がさず、しかも自由な構図が取れる。
 だが、それでも僕は三脚が好きだ。
 僕は、なるべく時間をかけて写真を撮りたい。
 例えば、葉っぱの上の水滴にカメラを向けるなら、日が昇り、その水滴が蒸発して小さくなってしまうまで、見ていたい。
 また田んぼの水路の中のオタマジャクシの塊にカメラを向けるのなら、オタマジャクシが泳ぎ、それにともなって群れの形がさまざまに変化する様子を当分眺め、その中で、群れの様子が分りやすく、しかも一匹一匹のオタマジャクシが良く見え、同時にデザイン的にも美しい瞬間を撮りたい。
 
 ただそれでも、三脚を立てることができない場所もある。
 例えば、幅30センチ程度の田んぼの水路の中に三脚を立てることはできないだろうから、そうした場所ででも三脚を使いたければ、様々な工夫が必要になる。今日の画像は、昨シーズンの終わりごろから使用しているマンフロット社製の三脚用のアクセサリー(雲台はスリック)だが、こうしておけば、三脚の脚一本だけを水路の中に突っ込み、カメラを固定することができる。
 これは恐らく、スタジオ撮影用のアクセサリーだと思うが、野外でも使いやすいし、それ以前に使用していた国産のものよりもしっかりと固定することができる。
 さらに、雲台部分を取り除くと、メーカーから発売されている専用の一脚(LONG LENS CAMERA SUPPORT)を取り付けられるから、超望遠レンズでの撮影の際には、4脚として使用することも出来る。
 僕が使用している三脚は、ローアングルといって、脚を完全に広げてしまって、地面付近にカメラを構えることができるが、植物の撮影の場合、ローアングルに構えると、三本の脚やその他の部分で、時には植物を踏み潰してしまうことがある。
 この方法だとそれがないのもいい。

(CanonEOS5D SIGMA20ミリ)(CanonEOS5D 100マクロ)

 

 2006.4.2(日) 雨の日

 カタツムリの撮影の難しさは、殻に閉じこもっている時は別にして、大抵の場合、ゆっくりではあるが常に動いている点にある。
 遠目に見ると、その動きは小さいが、近づいてある程度大きく写真に写そうとすると意外に早い。僕が愛用していた感度が低いフィルムの場合、自然条件下での撮影では、大抵の場合、カタツムリの動きを止めることが出来なかった。
 そこで、何でもないシーンを撮影するのにも、スタジオに持ち込み、人工の照明の下で撮影することを余儀なくされていた。
 ところが、デジタルカメラなら、特にキヤノンのEOSは、高感度に設定した際の描写がいいから、カタツムリを自然の光で撮影することが可能になった。
 今年は、雨の日には、自然状態でのカタツムリにカメラを向けてみたいと思う。
 
 とは言え、スタジオで撮影した写真の方がやはりきれいだから、どちらが売れるか?と言われれば、100%スタジオ撮影である。
 だが、ここのところ、カタツムリの写真の依頼は僕のところに集中し、僕は信頼を得つつある。そうなると発言できる機会が多くなるから、自分が使いたい写真を、「これがいいよ!」と推すことも、多少は可能になる。
 とにかく、まず売れる写真を撮り、実績を積み、多少の発言権を得て、そこから何かをはじめようとは思っていたが、カタツムリに関しては、やっとスタート地点につけた感じがする。それを、色々な生き物について、広げていきたい。

 カタツムリは、古い木があって、その下に下草が生えていて、木から落ちた枝が枯れ葉をつけたまま残っているような場所に多い。
 だが、そうした環境は、しばしば人に嫌われる。下草は刈られ、枯れ枝や枯葉はきれいに片付けられるし、それがいいことだとされているのだから、どうにもならない。
 多くの人にとっては、何の価値もなくて、むしろ薄汚い場所でも、生き物にとって必要な環境を、ちょっとばかり大らかな気持ちで残して欲しいなぁと思う。
 そのためには、そこを色々な生き物が利用していることを、知ってもらわなければならない。
 大人にそれを知らせても、もう手遅れだから、子供がその対象になるが、命の大切さうんぬんや環境問題の前に、そうしたことを子供たちに知らせる場があればなぁと思う。
 僕がちょっとどこかに行って講演をするようなレベルでは、何も変わらないから、もっと組織的に。
 日本中の自然写真家の力を結集して、いい写真で、最高の教科書を作って。
(CanonEOS5D 100マクロ)(CanonEOS5D 17-40ミリ)
 
 

 2006.4.1(土) 日帰り

 アマチュアの方と撮影に出かけると、彼らが大変に元気がいいことに驚かされることが多い。
 前日の夜まで仕事をしていたはずなのに、その疲れを全く感じさせず、朝はまだ暗いうちに目を覚まし、その後は一日中写真を撮りまくる。時には、撮影を終え、夜になって帰宅して、翌日は早朝からまた仕事に就くのだから、物好きだなぁと恐れ入る。
 週に一度だけの休日。そのワクワク感が、それだけのエネルギーを生み出すのだろうとと思う。

 僕は、いつの間にか、そうして一日だけで結果を出すことが不得手になってしまった。
 特に、自宅から出かけるとダメ。車に寝泊りして、2〜3泊したあたりから、やっと調子があがる。そこには、まだ時間があるという甘さがあるのだと思う。
 ならば、付近で撮影する時にも、あえて車で眠り、緊張感を高めればいいと思うが、不思議なことに、遠出すれば全く苦痛を感じない車内泊が、家の付近だと苦痛なのである。
 安らぐことができて、逃げて帰ることができる場所が付近にあることで、立ち向かう気持ちや創作意欲が萎えるのではないか?と思う。
 ある時、友人が、
「子供が生まれてからはやっぱり家族が恋しくてね・・・。」
 と切り出した。
「去年、アカショウビンを見つけて、あと1〜2日粘れば間違いなく写真が撮れる状況だったのに、子供の顔が見たくて、早く帰りたくなっちゃったんだよ。」
 と話しは続いた。
 それも、同じような心理かもしれない。安らげる場所があれば、そこに浸りたくなるし、甘えられる場所があれば、甘えたくなる。
 それはそれでいいのだと、僕は思う。
 例えば、
「君は、思う存分に写真に打ち込むことができていいなぁ、。私には家族がいるから好きなことができないんだよ!」
 と、僕はこれまでに数え切れないほど言われたことがある。だが、僕に言わせれば、その人は、撮影よりも家族を持つことに価値を見出したのであり、それはそれなりに自分の理想を追求しているのだt思う。
 定職を持っている人にも、
「いいなぁ。自由で、」
 とよく言われるので、
「じゃあ、会社を辞めて、自分で仕事をすればいいじゃない!」
 と答えるが、それを実行に移した人は、まだ僕の身の回りにはいない。そうした話は所詮愚痴であり、やっぱり、今の自分の職業を好んで選んでいるようだ。
 
 ふと気付けば、熊本県〜宮崎県北部、島根県〜鳥取県あたりには、よく知った撮影場所が何箇所もあるのに、家から日帰りで行ける距離には、意外にそうした場所がない。
 今年は、自宅から日帰りで、短時間ででも結果を出せるように、いろいろと自分を試してみようと考えている。
 ちょうど今は、アメリカザリガニの繁殖の様子にカメラを向けているが、そうして、何かのタイミングを待たなければならない撮影があると遠出が出来にくくなる。そんな時間も有効活用したい。
 今朝は、まだ薄暗いうちに出発し、北九州の平尾台というカルスト台地へ行ってみた。平尾台には、何箇所か湿原がある。 
(CanonEOS5D 70-200ミリ)
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2006年4月分


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