撮影日記 2006年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

2006.3.31(金) 噛み合う

「図鑑を作りたいので、トンボの写真を貸してもらえませんか?」
 と、以前に声が掛かったことがある。
 よく話を聞けば、使いたいのは僕の写真ではなく、一緒に営業用のホームページを作っている知人の写真だった。
 僕らに声が掛かったのには訳があり、一言で言えば、経済的な理由だ。
「たくさん写真を使う代わりに、とにかく安くして欲しい!」
 という事情があったようだ。
 結局、企画は成立せず、図鑑も出ていない。だが、そのうち新しいチャンスが、何度か巡ってくるだろうと思う。
 また、その話しに関して依頼者と多少のやり取りがあったが、知人の写真だけでは難しい面があることが分った。
 知人はアマチュアで、好きなようにしか写真を撮らないから、一冊本を作るとなるとやはり足りない部分がある。例えば、トンボ好きの人がカメラを向けるトンボは、どうしてもマニアックな種類であり、身近なトンボの一生をつぶさに撮影したような写真がない。
 それを、これから3〜4年の間に僕が撮影しようと思う。
 逆に、プロの写真家にとっては、滅多に写真が売れない特殊な種類のトンボを探して、わざわざカメラを向けることができる時間はあまりない。
 つまり、アマチュアの写真と、プロの写真とが上手く噛み合うのではないか?と、ずっと以前から密かに期待していたのだ。 

 もちろん、ただ、それだけでは面白くないので、僕も、多少マニアックなトンボの撮影も楽しみたい。今日は、一人でムカシトンボという渓流に生息するトンボを探しに行ってみたが、まだその姿は見られなかった。
 知人と一緒にトンボを探して歩く際に、知人がトンボの生息環境に本格的にカメラを向けるのを僕は見たことがないが、趣味でトンボが好きでなのだから、「生息環境の環境写真も大切!」などと、堅苦しいことは言わずに、ひたすらにトンボの写真を楽しめばいいのだと思う。
 僕は風景にカメラを向けても楽しいのだから、代表的なトンボに関しては、その生息環境も、しっかりと撮影しておけばいい。
 人と自分との違いを上手く噛み合わせることが出来るように心掛ければいいのだと思う。
 (CanonEOS5D 17-40ミリ)(CanonEOS5D 100ミリ)

 

2006.3.30(木) 新しい道具-1

 アメリカザリガニの水槽撮影のような、野外では撮影が難しいシーンを室内に再現してカメラを向けるスタジオ撮影は、もしも僕の写真が趣味だったなら、取り組むこことはなかっただろうと思う。
 いや、時間が無限にあればそれでも取り組むかもしれないし、それはそれなりの面白さがある。
 だが、限られた時間の中で何をするか?となった時に、やはり野外での撮影が面白くて、スタジオ撮影には、生活のためという側面が付きまとうことは否定できない。
 逆に、スタジオ撮影をやるからには、それでそこそこ生活が潤わなければ、さらにフリーの写真家として、写真で生計を立てるつもりがなければ、意味がない。
 フリーで仕事をしていくということを前提にして、そこからすべてを逆算してゆくことになる。
 例えば、フリーで仕事をすることにはリスクがある。
 だが、フリーの写真家として生きていくつもりなら、そのリスクは必ず取らなければならない。ならば、その手の心配には何の意味もないし、心配することに割くエネルギーがあるのなら、早くリスクを取って、稼ぐことに回した方がいい。人生にはたくさんの選択肢があるが、その中には、逆算してゆけば、おのずと決まることもある。
 ともあれ、スタジオ撮影は、特に生き物の撮影の場合は、ほとんどプロだけに求められる技術だと言ってもいい。
 したがって入門書もなければ、非常に特殊なジャンルなのである。
 特殊なジャンルだからこそ、誰にでも出来ることではないし、仕事としては成立し易い。
 写真が売れる売れない、需要のあるなしは別にしても、プロは、誰にでも出来ることに取り組んでも仕方がないのだから、僕の撮影は、ここ数年、次第に特殊な方向へ向かう傾向にある。
 特に淡水の水中撮影は、特殊の中の特殊だと言ってもいい。
 日本国中を探しても、その経験者は数えるくらいしかいないはずである。非常に疲れ、また苦労が多い撮影ではあるが、だから、僕は水中撮影を切り捨てないのだ。
 ただ、根性だけでそれに立ち向かうのは無謀だと言える。写真は我慢大会ではないから、いい道具は、進んで導入しなければならない。

 先日、水中用の新しいスーツが届いたので、早速着用してみたが、抜群の着易いさ。これはいい!
 水中用のスーツには水が入るウエットスーツと、水が入らないドライスーツがある。
 水温が低い渓流に潜る僕の場合、ドライスーツを使用するが、その脱ぎ着は、特に撮影後の疲労が重なると、一人では涙が出るくらいに辛いことがあるのは、先日も書いた。
 恥ずかしい話しだが、それを着たまま、自宅まで帰ろうかと考えたことが何度もある。
 そこで、今まで使用したいたものと、全く違うタイプのドライスーツを買ってみた。上の画像の右が従来のもので、左が新しいものだ。
 従来のものは、ゴムのような素材で出来ているが、新しいものは、シェルタイプと言って、ゴツイ雨具のような感じだ。
 僕の父はダイビングに詳しいので、聞いてみると、ヨーロッパでは、シェルを使う人が多いようだが、日本ではほとんど見かけないという。
 究極のところでの泳ぎやすさは、多分、サメの肌のような感じの従来の物が優れていると思うが、淡水の水中撮影の場合、泳ぐのではなくて、川の底を歩くのだから、泳ぎやすいさよりも、着易さではないか?と期待している。とにかく、着脱が楽だというだけで、潜るぞ〜という気になる。
 (NikonD70・12-24)

 

2006.3.28(火) 教えてください。
 
 僕は生物学を専攻したが、生き物の不思議に興味はあっても、学問の世界の細かさには馴染めず、勉学にはあまり興味が湧かなかった。
 数字で出てくるデータというヤツも、どうしても好きになれなかった。
 もちろん、それでも普通の人よりはこだわりがあるとは思う。だが、例えば、正確過ぎるほど正確な知識や、生き物の名前を正確に言い当てることにもあまり執着はない。
 僕にはルーズなところがあり、正確無比を要求する人と接すると大変に疲れるし、身の回りの人のことを思い浮かべてみても、多少ルーズな人が好みにあう。
 それでも、ふと学生時代のことを思い出し、研究に思いをめぐらせることはある。
 昨日更新した今月の水辺のタイトルである体内時計は、僕の恩師の長年の研究テーマであり、したがって僕もほんのわずか3年間ではあるが、その研究を齧った。
 それはそれでいい思い出だと感じる。だが思い出の大半は、研究とはかけ離れたところにあり、例えば恩師にひどく怒られたことだ。

 学生時代、恩師に向かって研究室の態勢に関して批判めいた発言をして、ひどく怒られたことがある。
 当時の僕は全く何の実績もない学生だったのだから、イロハのイも分からない状況であり、その何も分らない者が、ちゃんと結果を出している人に向かって批判できることは何もなかったはずだ。
 また、そんなに自分に自信があるのなら、研究室に入り、「教えてください、私を指導してください。」と教えを請うのではなく、独力で、自分の流儀で結果を出し、その結果を持って、「研究はこうあるべきだ」と語るのが筋だっただろう。
 今考えれば当たり前のことが、当時の僕には、その程度のことが分らなかった。
 ともあれ、人に何かを教わることは、大変に難しいことだと思う。
 僕には、自然写真業界の先輩方から多くのことを教わる機会があったが、学校の場合、教わる側が授業料を支払うので、教わる側にも、「こういう風に教えて欲しい!」などと求める権利があるだろう。
 だが日常生活の中で、先輩や身近な人から何かを教わる場合はどうだろうか?
 僕は先輩方に授業料を支払ったことはない。僕が、「教えてください。」と誰かに求めることは、僕が相手の生活の中に一方的に踏み込んでいくことを意味し、踏み込んでいくのだから、それはそれなりの礼儀がある。
 ところが、教わるということは、同時に自分を傷つけることでもある。
 例えば、僕の場合、日頃死に物狂いで写真を撮るし、最善と思える方法を常に選択する。
 だが、僕よりももっと上手い、もっといい結果を出している人が間違いなく存在し、つまり、それは自分が正しいと信じ込んでいることの中に何か間違いがあることを意味する。
 教わるということは、「あなたは間違えていますよ。」と、その間違いを指摘してもらうことであり、その指摘は誰にとってもつらい。
 それなりの覚悟が必要であり、その覚悟のことを、世間では謙虚さというのかもしれないが、それを受け入れることはなかなかに難しい。
 さらに、他人からのアドバイスのすべてが自分に合うわけでもない。
 その結果、自分から教えを乞い、他人の生活の中に自分から踏み込んでおきながら、「あなたの意見は押し付けで、あなたは頑固で、偏見が強い」などと、教わる側が腹を立てるようなおかしなケースをしばしば見かける。
 が、実は、そんなに自信があるのなら独力で結果を出せばいい。ただそれだけの簡単な話である。
 教わる側がお金を支払う学校と日常生活の中で何かを教わることは、多少は違うのだろうが、学生時代の自分の振る舞いを思い出し、あの時の先生の迫力を思い浮かべ、今の僕がその事情を考えると、
「何て厚かましい態度を取ってしまったのだろう!」
 と、冷や汗が出る。
 先生に怒られたと先程は書いたが、先生が本気で立ち向かってきたと表現した方が正確だろうと思う。
 そうして本気で立ち向かってきてもらったことには、感謝しなければならないと、最近思う。その本気さこそが、結果の世界で生き残り、稼いできた者のプライドであり、妥協しないという意地だからである。
 また、そうして接してもらわなければ分らないこともある。
 僕がそうして厚かましい態度を取れた背景には、すべてを捨ててでも研究者になりたいと思ってはいなかったことがあると思う。
 僕は、すべてを捨ててでも自然写真の世界の中で今後も仕事を続けたいから、耳が痛くても、自然写真業界の先輩方のアドバイスはありがたい。
 だが、軽い気持ちとまでは言わないが、半端な気持ちでは、様々なアドバイスに素直に耳を傾けることが出来ないだろうと思う。
 誰かが本気で接してくれなければ、自分の本気度も分らないのである。

 

2006.3.27(月) 更新
 
 今月の水辺を更新しました。 

 

2006.3.26(日) ようやく
 
 ようやく、1〜2月の北日本取材の際に撮影した画像の処理が終了した。取材期間がひと月なら、画像の整理にもひと月かかった。
 すべての画像の整理を終えてみると、それでようやく取材が終わったという開放感が訪れた。実は、何か北日本取材から開放されないものを感じていたのである。
 画像の整理は、一日中そればかりをやっているわけではない。事務所で仕事をする日に、一日あたりせいぜい1〜2時間の作業に留めている。
 パソコン上で画像を調整するのは大変に目が疲れる作業であり、長時間集中してそれに取り組めるものでもないし、少しずつ、日々コツコツとやっておく方がいい。
 それから、画像処理はやっぱり難しい作業だと思う。日常的にトレーニングを積んでおかなければ、ある時、まとめてやろうとしても、急に上手くなるものではないように思う。
 特に、僕のようにRAWでしか撮影しない者の場合、それによって、相当に結果の良し悪しが左右される。僕はこのひと月で、改めて、画像処理の大切さを感じた。

(撮影テクニックの話)
 ニコンの画像の場合、僕はまずニコンキャプチャーで画像を開く。
 それから、露出補正を調整して、ぱっと見、画面に最も色がのる状態へ整える。露出補正のクリックを+側に1度押すと+0.17、さらに押すと+0.33の補正がなされるが、数値を入力すれば、その間の値も適用できる。クリックを押すことによって大まかに調整した後は、数値を少しずつ変化させ、微調整する。
 加えて、ホワイトバランスを整える。
 さらに、トーンカーブといっしょに表示されるヒストグラムのハイライト、シャドー、中間調の位置を決める。
 デジカメ画像は暗部の再現性に優れているが、暗部が見えすぎる写真はノッペリとした印象を与えるので、僕はあまり好きではない。そこで、ヒストグラムのシャドーの位置をヒストグラム上で右側へと動かし、暗部を多少黒く潰す。
 逆に、デジカメ画像の場合、ハイライトに近い部分の再現性は元々あまりよくない。そこで、ハイライトは白飛びし過ぎないように、やや控えめに調整する。
 ハイライトとシャドーの位置を変えると、それによってコントラストが変化する。その結果、画像の立体感が変わってくるが、僕はハイライトがどれくらい白いか?或いはシャドーがどれくらい暗いかよりも、トータルとして感じられるその立体感を最も重視する。
 その画像を16ビットで保存し、今度はフォトショップで開く。
 フォトショップではもう一度ヒストグラムを調整する。それならば、ニコンキャプチャーはなくて、初めからフォトショップでやった方がいいと主張する人もおられるようだが、二度に分けたほうが微調整ができる。その理屈の説明は長くなってしまうので省略するが、自分で試してみれば分るだろうと思う。
 さらに、画面の中の不要な物、例えば、今日の画像の場合であれば、右下に他の鳥の頭が少し写ってしまったので、そうした不要物を消しておく。
 最後に、画像を8ビットで保存する。本当は16ビットで持っておいた方がいいのだろうが、ハードディスクがあっとう間に満タンになってしまうから、ある時から、すべての処理を終えた上で8ビットへと変換して保存することにした。 

 

2006.3.25(土) 自由
 
 先日、外国産のザリガニ図鑑を見て、その色や形にノックアウトされたことを書いたが、僕の生き物好きは、父方の祖母似である。
 父は?と言うと、むしろ生き物や自然嫌いであり、自分を自然現象から切り離すことに実に熱心だ。
 室内に外の空気が入らないように、外の光が漏れてこないように、生き物が入ってこないように・・・ 
 家の中は完璧に空調を効かせ、季節により除湿機、加湿器とせわしない。
 当然僕が生き物と接することも、子供の頃は許されず、採集してくる生き物は理由をこじつけて捨てられる運命にあり、代わりに、机について勉強をすることが求められた。
 唯一、父が大好きな学問と生き物が結びつき生物学になった時にだけ、生き物を好きであることが許され、
「観察記録をつけるのであれば、生き物を飼うことを考えてやってもいい。」
 と言われたことがある。
 とにかく、全く好みが違うのだから、僕の子供時代は、父との戦いだったと言ってもいいのかもしれない。
 初めは僕が間違えているのだと思っていた。
 だが、ある時、そうではないのでは?と、幼心に感じる出来事があった。
 父は、祖母が散歩に出た際に植物を摘んでくるのが嫌いだったようで、
「せっかくそこに花が咲いているのに、おばあちゃんが切ってしまうから、わしは好かんかったぁ。時にはね、よその庭に咲いているものも、ねだってもらってくることもあったんよ。」
 と、思い出話を切り出した時である。
 僕は、何かが違うと感じた。
 せっかく咲いている花をそこに咲かせておいて欲しいには共感するが、花に興味がない人がそれを言うのはおかしいと。それは例えるなら、魚を見るのも嫌な人が、釣り師に対して、「魚をいじめて残酷だ!」と言うようなものではないか?本当は、自分が魚に興味がないことが最大の理由なのに、それよりも先にモラルと言う大義名分が持ち出されているかのように感じたのである。
 
 さて、ほとんどすべての外国産のザリガニが、帰化生物の増加を防ぐために外来生物法によって、一切飼育できなくなったことは先日書いた。
 ザリガニに興味を感じない人にとっては、当たり前過ぎる法律だろうと思う。またそれを好きな僕でも、これだけ外国産の生物が日本にすみつき、さまざまな影響を与えている今、生き物を安易に輸入してはならないと思う。
 だが、生き物に興味がない人から、
「そんなもの輸入するなよ!」
 とは言われたくない。
 車に全く興味がない僕が、
「F1なんて、環境を汚すだけだから止めちまえ!」
 と言うのは、正論かもしれないが、間違えだと思う。
 必要最低限のものしか認められない社会になんて、僕は住みたくない。

 僕は以前に、野鳥を網で捕獲して脚輪を取り付けるバンディングと呼ばれる調査について、何度か意見を書いたことがあるが、僕の身の回りにも、それに関わっているか、その問題に巻き込まれたか、関わっている人と親しくしている知人が存在する。
 僕は、そうした知人のうちの数人に自分の意見をぶつけ、相手からの返事を待ったことがあるが、中には、ひどくへそを曲げてしまった方もおられる。
 あ〜触れなければ良かったと後悔しつつ、ちょっと意見をぶつけ質問しただけなのに、何でそこまで腹を立てるの?と不思議にも感じた。
 だが、よく考えて見ると、僕はそうして野鳥を捕獲することに全く興味がない。鳥を触って調べたいとは思わないのだから、その全く興味がない相手に、何か意見をされることが不愉快だったのかもしれない。
「あなたが興味を感じないだけでしょう?」
 と。ザリガニの外来生物法への指定について考えていると、ふと、そんな思いが浮かび上がってきた。
 
 僕が子供の頃、武田家に自由がなかったか?と言えば、そうではない。
 父がおかしいと思うのなら、意見して、やつければいい。その自由は、しっかりと確保されていたのである。
 また、自分の意見が通らないと、すぐに
「私は口下手だから、思いを伝えられない。」
 となど言い出す輩は多いが、ちゃんと意見を言える人は、それだけたくさん日頃から考えているのである。意見と意見のぶつかり合いは裁判ではないし、伝えるテクニックの問題ではないはずだ。
 自由とは、黙って相手が言うことを聞いてくれることだと勘違いした勘違い野郎がなんと多いことだろう。自由は、勝ち取るものだと思う。

 

 2006.3.24(金) 畜生
 
 僕はなるべく努力をすることにしているが、それが正しいと思っているわけではない。
 努力が一番手っ取り早くて、簡単だからそうするのであり、もしも僕が才能に恵まれていたのなら、頑張らないというのも、きっと面白いだろうなぁと思う。
 ただ、そう決めてはいても、時には根負けすることもある。
畜生、もうちょっと頑張っていたらなぁ〜」
 と、帰宅後に写真を整理する際に感じることがある。
 今日の画像は、この2月に、北海道で是非撮影したかった瞬間だが、思い通りの写真が最後まで撮れなかったシーンである。
 これはホオジロガモの水面を走りながら飛び立つ様子にカメラを向けたもので、僕の狙いは、カモの足が前後に最も伸びきった瞬間であり、同時に、カモが水面を蹴ったあとの水飛沫を2つ写し込むことだった。
 水飛沫を3つ写そうとすると、カモの姿が小さくなり、生き物の写真というよりは、鳥のいる風景になってしまう。かといって水飛沫が1つでは、カモが水面を走り、移動した距離感が伝わらない。
 そのギリギリのところを狙うと、どうしても顔が切れたり、2つ目の水飛沫が画面からはみ出してしまう。
 このカットの場合は、技術の問題ではなくて、鳥とカメラとの距離の問題であり、鳥が偶然もう少し遠くで離陸してくれれば、または、より望遠ではないレンズを使用していたなら、狙い通りに写ったはずだ。
 がしかし、このシーンを狙っていても、そうそう丁度いい場所を鳥が走ってくれるわけではないので、撮っても撮っても外ればかりになる。そして、他にも撮りたいシーンがあり、後回しになるのである。
 僕が北海道に住んでいれば、他の被写体には目もくれず、狙った瞬間だけを追い続けるのだが・・・。旅行者が短時間で撮れるものには、やはり限界がある。
 (NikonD2X・600)

 

 2006.3.23(木) 外来生物法

「アメリカザリガニの写真を撮るぞ!」
 と日記に書いたら、
「それならついでに・・・」
 と幾つかの撮影の依頼があったことは以前にも書いたが、その中の1つに、
「外国産の主なザリガニの写真を撮って置いてくださいよ。」
 というものがあった。
 そこで先日、ペットショップでザリガニを数種類買おうと調べてみると、そのほとんどすべてが、外来生物法の対象に指定され、この2月からは販売も飼育も出来なくなったことが分った。
 正直に言うと、ホッとした。いや、正確に書くと、その時はホッとした。
 僕は、外国産の生き物を飼いたいが、買いたくはないのである。
 業者が、どこかの川からごっそりと特定の生き物を採集する様は、想像をすると、胸が苦しくなる。
 個人が、ある限られた日にだけ採集するのなら、むしろそれを存分に楽しめばいいと思うが、商売に結びつくとなると、やはり相当の数が採集されるのではないだろうか?
 販売は、せめて繁殖方法が確立された生き物で、養殖物であった欲しい。
 だが、ザリガニについて調べるために、世界のザリガニ図鑑を購入したら、これが実に面白い。
 様々な色、形、・・・・。まさに一目惚れ。
 その胸の高まりで、これは大げさではなくて、気が狂いそうなほどの衝動が込み上げてきて、あ〜とでも大声でも出したくなり、とにかく次々と押し寄せてくる思いが抑えられない。
 もしも、外来生物法の施行よりも前に、その本に目を通しておけば!
 希少な種類は我慢すればいいし、養殖物が出回っている種類だけでも撮影できたではないか!
 それを自分の手に取って見ることが出来たし、今後、それらの生き物が国内で飼えなくなるということは、誰も新しい写真を撮影できなくなることを意味し、もしもそれらの生き物の写真を持っていれば、かなり長い期間、僕の写真を流通させることが出来き、仕事としても見事に成立させることが出来たはずだ。
 がしかし、たとえ養殖物であっても、他にも問題がある。
 外来の生物が次々と日本に帰化するような現在の状況は、やっぱり一日でも早く止めなければならず、外来生物法の趣旨もそこにある。
 それらの生き物が日本国内で買えなくなることは、歓迎すべきことなのである。

 

 2006.3.22(水) 白鳥の湖

 「プロの自然写真家になりたい!」
 と、学生時代に昆虫写真家の海野和男先生の元をたずねたことは、過去に何度か書いたことがある。
 その時、海野先生は、プロとしてやっていくために幾つかのアドバイスを送ってくださったが、その中の1つを今日は書いてみようと思う。
 まず、自然写真の世界では、ある日急に食えるようにはなることはあり得ないので、短期間で勝負をつけようとしてはならないことを、先生は教えてくださった。 
 例えば、アルバイトをしてお金をため、そのお金を持ち、1〜2年間北海道を旅しながら写真を撮ったとしても、それでは全く何も出来ないし、最低でも10年間写真を続けられる態勢を整えなければならないことを。
 それは、今の僕が考えれば当たり前のことである。
 だが、意外にそれが分らない人は多く、そうしてほんの1〜2年間適当に撮っただけの、まだまだお粗末で見せられる段階に到達していない写真を、それで何かが出来ると勘違いして、恥ずかしくも売り込もうとする人は珍しくないようだ。
 かと言って、どこかの会社に完全に就職してしまうと、勤め人のリズム、勤め人の考え方になってしまい、プロにはなれないことが多く、そこのところをよく考えなければならないとも教えてくださった。
 確かに、同級生や友人と集まると、勤め人からは、
「そんな考え方は、うちの会社では通用しないよ。そんなことしたら始末書ものだよ。」
 といった言い方がよく出てくるが、安定した職場に勤め、それが長くなると、自分の会社の論理が、その人の中で常識になってしまうのだと思う。
「いやいや、フリーで仕事をする人の論理は、会社とは違うのだよ。」
 と内心感じるのである。
 ともあれ、お金のために写真を撮るわけではないが、ある程度、経済的な立脚点がしっかりしていなければ長期戦には耐えられないし、逆に、完全に安定させ、その安心感になれてしまってもダメ。その点を指摘してもらえたことは、当時の僕にとって大変に有難かった。
 
 撮影に出かければ、とにかく売れそうな写真が撮れるに越したことはない。そこでお金が得られれば、そのお金でまた新しいことができるからだ。
 今の僕は、その規模を少しずつ大きくしている段階なのである。じれったいが、少しずつしか大きくならない。
 僕はちょうど今、今シーズンの撮影の計画を細かく決めている段階だが、ここのところは、その自分の財布と相談をして、それらの撮影に必要なアイテムを次々と買い込んでいる。
 先日は、車に積み込めるサイズのバイクを注文しに行った。
 今日は、水中撮影の際に使用する、脱ぎ着しやすいドライスーツを注文した。
 いずれも安くはないし、やっぱりお金が必要である。
 もちろん、売れる売れないに関係なく撮りたい写真があることは言うまでもないが。
 
 さて、買い物に出かける前に、北日本取材の際に撮影したコハクチョウの画像を整理したが、その中の一枚に、ハクチョウが踊っているように見えるカットがあった。
 ハクチョウが凍りついた湖の上で踊っているように見えるのだから、まさに白鳥の湖であり、これは売れるのではないだろうか?
 (NikonD2X・600)

 

 2006.3.21(火) 武器

 僕の知人には、武器が大好きという者が数人存在する。
 ある者はその趣味が高じて自衛隊へと入隊し、またある者は戦闘機の写真を一生懸命撮っている。
 僕の父にもそんなところがあり、昔父の本棚には、「名機、名艦、名戦車」という本が並んでいたし、僕もそれを読んだことがあるが、ゼロ戦や隼や紫電改といった戦時中に日本が世界に誇った戦闘機や戦艦が紹介されていたことを今でもよく憶えている。
 また一方で、武器と聞いただけで、顔をしかめ、相手を否定したがる教育ママも、世の中には存在するようだ。
 そして、そのような方々とも多少は接したことがあるが、武器を徹底して否定するクソ真面目なおば様方が、むしろ意外にも無闇に攻撃的であることに驚かされた経験が何度かある。
 例えば、武器好きの誰かを、それだけの理由で、まるで悪人であるかのように否定し、非難する人が多いのである。
 確かに、武器への興味が他人を傷つけることへと結びついた場合、それは危ない。だが、僕の身の回りの武器好きは、むしろ大変に平和を好み、そしてなぜか自然を愛するものが多い。
 ふと、生き物の世界にも目を向けてみると、武器を持つ生き物は、子供たちに大変に人気があるし、よく知られている。
 カブトムシやクワガタは言うまでもないが、カマキリという名前を知らない者は、たとえ都会育ちでも、ほとんどいないだろう。
 アメリカザリガニも、やはり武器を持ち、それゆえに人気があると言える。
 そうした子供たちは、果たして危ない傾向を持った、矯正を必要とした子供なのだろうか?
 僕はむしろ、そうしてきれいなものばかりを押し付ける方々や、そんな世の中の方が恐ろしいように思う。
 人にとって、戦うということには、どうも特別な意味があるようで、スポーツの試合にしても、国際大会で国と国の威信をかけて戦うことになると、みな大変に熱くなる。
 僕もついテレビに噛付いてしまう。
 そうした人の性質のすべてが戦争に結びつくのではないし、人の持つそのような性質をすべて理屈で押さえつけようとするクソ真面目さは、大変に恐ろしいような気がする。

 さて、昨日アメリカザリガニの卵を紹介したが、交尾から約10日で産卵に至った。
 昨日画像を掲載したメスの他にも、あと2匹コンディションがいいものがいて、それらを時間差で交尾させ、確実に写真が撮れるようなバックアップ態勢をとる。
 今日の画像は、その際に撮影した交尾の画像で、面白いのは、アメリカザリガニは、自らが危険な武器を持っていることをよく自覚している点だ。
 だから、メスはオスと出会うと、ハサミを下ろし、相手を傷つけないように振舞うし、オスは、交尾の際にはメスのハサミをしっかりと掴んでいる。
(CanonEOS5D・90マクロ・ストロボ)
 
 

 2006.3.20(月) 後手

 昨年、
「今年はアメリカザリガニを徹底して撮影するぞ!」
 と日記に書いたら、それを読んだ出版関係者から、
「それならついでに」
 と、ザリガニに関する撮影の依頼が幾つかあった。
 仕事の手堅さから言うと、歓迎すべきことである。
 たかがアメリカザリガニの撮影でも、水槽を特注したり、さまざまな飼育器具を試したり、工作をしたり、それなりにお金をつぎ込むことになるし、写真を撮る前から、ギャラが入ってくることが見込めた方がいいに決まっている。
 だが・・・。
 先に仕事を受けると、仕事には締め切りがあるので、それに合わせるために無理が生じる。
 その結果、大きな目で見れば、無駄が生まれる。
 例えば、本当は後回しにした方が効率がいい撮影を、締め切りの関係で、先に持ってこなければならないことが多々ある。
 つまり、締め切りに追われ後手に回ってしまうのだが、ここ2〜3年は、とにかく後手に回るケースが大変に多い。
 そもそも、元々アメリカザリガニの撮影を思いついたのは、何か依頼があったわけではない。
 そうして後手に回った状態から脱却するために、時間に縛られず、腰を据えて仕事を進めるために計画した撮影だった。
 ところが、たまたま新しい写真を求めている人が多かったため、結局、そららの依頼に応えるための、やっぱり後手に回った撮影になった。
 そしてようやく、それらの仕事をすべて片付けた。
 これからの撮影には、締め切りその他、しがらみは一切ない。

 さて、先日、アメリカザリガニの交尾の様子を撮影したが、そのメスが卵を産んだ。この卵を上手く育て、ザリガニの繁殖の様子をじっくりと撮影しようと思う。
 アメリカザリガニは、児童書の世界に登場する生き物としては定番だが、そうした定番の被写体は、すでに撮り尽くされているのだから、仮に新しく撮影するなら、すでに市場にある写真をすべての面で上回らなければ面白くないし、この撮影に使用した水槽には、そのための工夫がたくさん施されている。
 水槽撮影というのは意外に難しくて、毎回毎回工夫を施し、改良を加えているが、今回のやり方は完璧に近いと感じている。
(CanonEOS5D・90マクロ・ストロボ)

 

 2006.3.18(土) 自分を知る

 カモメの仲間はあまり逃げないので、シャッターチャンスが多い。
 その結果、写真を整理しようとしたら同じようなカットが多く出てきて、その中からどれを選ぶべきか迷うことになる。
 ただ、連続して撮影したほとん同一の写真でも、わずかな違いで、こちらは気に入るが、あちらは気に入らないというケースもあるし、一枚一枚すべてに目を通す。
 基本的には、その一枚一枚を時間をかけてまじまじと見ることはしない。そうしなければ自分でも分らないような小さな違いは、人には伝わらないし、自分の目で見てパッとみて、「うん、何となくこれが好き」と感じる写真を選ぶ。
 だが、たまに分析してみることはある。
 気に入る写真は、いったいどこが違うのだろうと。
 今日は北海道で撮影したカモメの写真を整理したが、シロカモメのほとんど同一カットのうち、1枚は気に入り、あとの一枚は気に入らなかった。その差はカモメの目線にあり、僕が気に入った方は、カモメの視線が感じられない写真だった。
 一般的には、目線が感じられる写真を好む人が多いと思うが、なぜ、僕はそうではなかったかと言うと、そこに僕が写っているからである。
 カモメは僕を見てるのであり、僕の姿はなくても、そこに僕の存在が写ってしまった。
 もちろん、僕だって視線が感じられる写真を選ぶこともあるが、この絵柄の場合、ほんのわずかなカモメの僕に対する目線が、写真を見る人に、無意識のうちに、カモメのそばでカメラを構えた武田晋一の姿を想像させてしまうのである。
 もっとも、シロカモメは非常にオタクな鳥なので写真の需要はほとんどないだろうし、僕が引退する日までを考えても、その写真が印刷物上に掲載されることはまずないだろう。
 つまり、最初から取り越し苦労だよと言われれば、返す言葉はない。

 ただ、そんな時はじめて自分で自分を知る
 僕が写したいのは、自然写真家・武田晋一の活動ではなくて、生き物そのものであると。そうして自分を知ることは、きっと役に立つはずだ。
 昔、ある先輩写真家が、
「私の写真を見て、若い女性が昆虫を受け入れてくれたのです。」
 とおっしゃったが、僕は、そうではないと感じたので、
「虫が受け入れられたのではなくて、あなたの着眼や視点の面白さが受け入れられたのではないでしょうか?」
 と意見を述べてみたことがある。つまり、そうして虫の写真を撮っている人の存在も含めて,、その若い女性は面白がっているのではないかと。
 同じように生き物にカメラを向けても、実は生き物の姿を借りて自分を見せたい人もおられるだろう。
(NikonD2X・70〜200)

 

 2006.3.16〜17(木〜金) ユーモア

 ここ数年、僕が仕事として最も力を入れている幼児向けの児童書の世界で、写真に何が求められるか?といえば、1にユーモアではないだろうか?
 逆に、芸術家肌の人が好む「わびさび」は全く通用しないと言ってもいい。
 それから、
「俺が自然について教えてやる!」
 という教条的な態度が滲み出た写真も歓迎されないように思う。
 そこに登場する生き物の種類は限られていて、良くも悪くもワンパターンである。
 そして、そうした状況を
「いつも同じ被写体ばかりで、かわいい写真一辺倒だ。」
 と批判する写真家は少なくない。
 が、口で批判をするのは易しいが、実際に仕事をしてみると、その難しさを痛感させられる。予備知識を持たない幼児に、全く何の説明なしに、感覚的に生き物について伝えられる写真を撮るのはなかなかに難しいからである。
 大人と違って幼児は写真を読もうとはしてくれないから、パッとみて、その生き物の動きや、形や、何やらが伝わる写真でなければならない。例えば、予備知識を持つ人が見て、生き物が歩いている写真を撮るのは難しくないが、それを持たない人に、歩いている感じを伝えられる写真を撮るのは難しい。
 その結果、それが可能な被写体を選び、それが可能な調子で写真を撮ることになる。
 一言でいえば、徹底して分りやすい写真が求められる。
 以前は、そんな写真を意識して撮ったが、最近では、きっと身に付いたのだろう。特に考えなくても、勝手にそんな写真が撮れるようになりつつあるし、そのうち、それが僕の作風になるのかもしれない。
 幼児向けの児童書の中に野鳥が登場することは滅多にない。だから、野鳥にカメラを向ける時には児童書の仕事は忘れていると言ってもいいが、この冬に撮影した水鳥の写真を整理してみると、何となく児童書調のユーモアの写真が多い。

 昨年は、その児童書向けに、水辺以外にも色々な生き物にカメラを向けた。
 ひかりのくにという出版社の「がくしゅうひかりのくに」4月号では、アゲハチョウ、ミツバチ、ナナホシテントウ、ダンゴムシ〜蟻んこまで撮った。大きく掲載された虫の写真をめくると、その中では、より詳しい生態が紹介されていて、左右のページの昆虫を比較するようになっている。
 この撮影にはニコンのD2Xを使用したが、大変に綺麗に印刷されている。昆虫のような質感のものには恐らくデジタルカメラが合うのだろう。虫の写真に関しては、デジタルカメラが実にいい描写をする。
 僕は、生き物の丸みや形や毛のフサフサ具合がよく再現された、立体感と質感描写のいい写真が好みだが、 ただの白い紙の上に虫を置き、それをごく普通に撮影しても、写真家ごとの個性が滲み出るのは非常に面白いと思う。
 同じ虫を見ていても、人それぞれ違って見えているのである。
(NikonD2X・600)

 

 2006.3.15(水) 淡水の水中撮影

 淡水の水中撮影というのは、ある部分、大変に辛い撮影である。
 恐らくあらゆるジャンルの撮影の中で最も多くの機材や準備が必要で、巨大な写真機材、水中用の三脚、水中用のスーツ、空気のボンベ、体を沈めるためのおもり・・・こうして列挙し、それを一人で水辺まで運び、準備することを考えるだけで、「やれやれ」と重たい気分になる。
 それらはすべて海で使用するために作られた機材である。そして、海では原則として単独行動はない。
 まず、ダイバーはアクシデントに備えて複数で潜ることになっているし、空気のボンベ1つにしても、それを充填できる施設が必要であり、ボンベに空気を満たし、ダイビングスポットまで運んでくれるダイバー以外の人も、ダイバーをスポットまで運ぶ船も存在する。
 そんな前提で道具が作られている。
 水中用のスーツにしても、一人では着用できないものも少なくない。仲間にジッパーを閉めてもらわなければならない構造のものが多いし、一人で着用できるものでも、体にピタッとくっつくように作られているのだから、一人ではなかなか脱ぎ着が大変だ。
 ちょっと誰かに助けてもらいたいのである。
 水中では非常に体力を消耗するが、そうしてクタクタになった時には、どうかすると、スーツを脱ぐのに10分以上もの時間がかかることもある。
 その間、う〜んと、スーツの生地を引っ張り伸ばし、もがき、何とかしてそれを脱ごうとしているのだから、傍から見れば滑稽な姿に違いない。
 さらに長時間冷たい水の中で水中撮影をした後はトイレが近くなっていることが多いが、それをもじもじしながら我慢して、必死にスーツを脱ごうともがく様は間抜けと言ってもいいだろう。
 身に付けているものを脱ぎ捨てる行為という点では昆虫の脱皮に似ているが、脱皮のようにスムーズにはいかない。何に近いかと言えば、地力をふり絞る、動物のお産に近いような気がする。
 
 以前は、その苦痛よりも気合の方が勝っていて、それで何とかこなしてきた。また、水中撮影は、毎日毎日繰り返すのではなく、この日!と決めた1日に全エネルギーを注いでやってきた。
 だが、それではやはり限界がある。本当にいい仕事をするためには数をこなさなければならず、数がこなせるシステムを確立する必要がある。
 一方で初めからいいシステムが確立できるはずもなく、我武者羅にもがいている中で、一種の事故のようにいい写真が撮れる時期も必要である。
 今日は、僕の水中撮影のやり方が、ちょうどその切り替えの時期に来ていると感じ、予定を2日早めに切り上げて帰宅をすることにした。
 今までのやり方を一旦すべて捨て、一から検討し直すことにした。

 

 2006.3.14(火) 水中風景

 明日はどうも天気がいいようなので、水中撮影が出来そうだ。
 以前にも書いたことがあるが、湧き水の池を取材する。
 湧き水なので、池は年間を通して水温は約20度と一定であり、真冬でも水泳をする人がいる反面、真夏でも長時間その水に浸かるのは辛い。
 したがって、そこで見られる水中風景も独特のものとなるが、一言で言えば、年間を通して同じ景色が見られる。
 一方で、変わらないその場所にも現代の変化の波は押し寄せている。
 例えば、そこに生える水草は外来種のオオカナダモであり、オオカナダモ自体は他の地域にも帰化しているが、よそでは見たことがないほど見事に繁茂している。
 恐らく約20度という水温がオオカナダモに適しているのだろう。安定した環境であり、厳しい冬がないからこそ、そんな結末になることもあるのだろうと思う。
 そうした変わらない様と、変わらないからこそ受けてしまう変化にカメラを向けていく。
 それとあと1つ、そんな理屈はすべて抜きにして、澄み切った湧き水の風景は圧倒的であり、それを見て心を動かされなければ嘘だと思う。その驚異を何とかして写し撮りたい。
 池は半分プールになっていて、夏になると付近の子供たちがたくさん泳ぎにやってくるが、あの水の青色は、人工のプールでは体験できない。
 だからこそ池は楽しいし、楽しいからその場所が大切にされ、もしも池が少しでも汚れて少なくとも水泳に適さなくなれば、恐らく忘れさられ、粗末にされるのではないだろうか?
 そこに、1つの自然との付き合い方のモデルがあるように、僕は思う。

(撮影機材の話)
 池にまつわる理屈の部分だけを写し、教条的に説明するのであれば、写真の画質にこだわる必要はない。現象がちゃんと写ってさえいれば、それで事足りる。
 だが、そこを訪れる人たちが池の水中風景から受け取る感動や、その感動があるからこそ池が子供たちにとって貴重な場所であり、大切にされていることまでもを写し撮ろうとすると、写真の画質にもこだわらなければならない。
 デジタルカメラなら、APSサイズのセンサーを搭載したカメラでは物足りない。35ミリ判フルサイズの画質が欲しいところが、来月には、キヤノンのイオス5D用の水中ハウジングがアンティス社から発売される予定になっているので、早々に手に入れたい。
 フィルム交換が出来ない水中撮影では、たくさんの枚数撮影できるデジタルカメラには大きなアドバンテージがあるに違いない。
 ただ水中はやはり暗くて、自然光で撮影し、泳ぎ回る魚たちのことまでを考えると、シャッター速度の関係でレンズの絞りはどうしても開放に近くなる。そして、絞りが開放に近いと、フルサイズのイメージセンサーを搭載したデジタルカメラでは、広角レンズを取り付けた場合の周辺光量落ちがひどい。
 そこでワイドレンズに関してはフィルムを使った今のシステムを使い続けることになる可能性もある。

 

 2006.3.13(月) 不安

 ちょうど今準備中のカタツムリの本の見本が、昨日届いた。すでに最終的な形に近く、しっかりとした紙に印刷されている。
 だがその中の図鑑のページに念入りに目を通してみると、ふと、カタツムリの名前が僕の判断通りで本当に正しいのかどうかが不安になった。何と言っても、日本産のカタツムリには似通ったものが大変に多い。
 そこで、その自信のない写真一点を、自信があるものへと急遽差し替えてもらうことにした。
 黙っておこうか・・・とも一瞬考えたが、不安を感じた時は、ごまかすよりも正直になったほうがいい。
 今回の本に関しては、そのままにしておいても多分間違えではなかったと思うし、もしも間違いでも、それを指摘できる人は恐らくゼロだったはずだ。
 だが不安をごまかす習慣を身に付けてしまうことは何よりも恐ろしい。こんな機会に、失敗かな?と不安になった時にいかに振舞うべきかを勉強しておいた方が、長い目で見たら得をすると判断した。そんな訓練も時には必要だろう。
 今日は、午前中に熊本へ向けて出発する予定を組んでいたが、昨日のザリガニの撮影が実は予定よりも大幅に長引いたことに加え、そうした画像の差し替えやその他、カタツムリの本に関する指示を出さなければならず、出発が遅くなってしまった。
  一層のこと、熊本取材を取りやめにしようか?とも思ったが、それをやりだすときりがなくて、何かとフィールドを歩く時間を削り、事務作業に没頭することになりかねない。
 複数の作業を強引にこなしてしまうくらいの馬力も、プロの写真家にはまた必要だと感じる。自然写真業界で長く生き残っている先輩方は例外なく馬力があり、のんびり、マイペースなどと言う人は、やはり食えるようにならないし、それは趣味なのである。
 
 

 2006.3.12(日) 再開

 1月〜2月にかけて撮影した水鳥の画像の整理はまだ終わってないが、整理と並行して、そろそろ新しい撮影を先へ進めようと思う。
 昨シーズンの冬は、元々アメリカザリガニの水槽撮影に力を入れるつもりでいたが、それを途中で放ったまま、ひと月ほど北日本取材にでかけたのだから、その撮影の続きを再開しなければならないのである。
 今日はアメリカザリガニの交尾行動を撮影した。
 アメリカザリガニは、オスとメスとが出会い、オスのはさみがメスに触れると、メスはバンザイをした状態で身を硬くして動かなくなる。
 オスは、そのメスをひっくり返し、お腹とお腹を合わせる形で交尾に至る。
 今日の画像は、身を硬くして動かなくなったメスを、なんとかひっくり返そうとオスが踏ん張っている様子だ。
 オスのハサミが触れた途端に、まるで急死したかのように体を硬くして動かなくなるメスの反応はなかなか面白い。恐らく、オスの攻撃を抑制する行動なのだろう。

 交尾に至るまでの行動は、厳密な実験をしたわけではないが、幾つかの本能行動が連鎖するように連なったものであるように見える。
 交尾の始まりはどちらかというとメスが積極的にオスに近づく。
 そして、オスはそれに返すようにメスに触れる。
 するとメスは動かなり、さらにオスがメスの上に乗っかり、メスをひっくり返そうと試みる。 
 だが初めから動かないメスには、オスはそうした行動を仕掛けようとはしないので、動いていた相手が急に動かなくなることが刺激になり、交尾行動が誘発されるのかもしれない。
 その後の行動にも比較的しっかりとしたパターンがあるが、長くなるので省略したい。

  一方で、オス同士が出会った場合、一方が他方に触れると、他方がハサミを振り上げて、やがて喧嘩が始まる。
 メスがオスに触れられた時の反応と、オスがオスに触れられた時の反応が見事に正反対で、交尾行動を撮影すると、今度は喧嘩を撮影したくなり、今日はついでに喧嘩も撮った。

 アメリカザリガニは脱皮をするが、オスに触れられて身を硬くしたメスのポーズと、脱皮に入る直前のポーズとが良く似ているように僕には見える。
 もしかしたら、脱皮の際に他のオスに襲われないように、オスの攻撃を抑制するような格好で脱皮が始まるのかもしれない。
(CanonEOS5D・90マクロ・ストロボ)

 

 2006.3.11(土) 無関心

 僕は昔野鳥専門の写真家を目指していたが、野鳥写真の需要があまりに少ないことを思い知らされ、やがて他の生き物にもカメラを向けるようになったことは、過去に何度か書いたことがある。
 だから、野鳥の写真を整理すると、どうしてもその当時の自分を思い浮かべることになり、そして今の僕ならもう少し頑張れたはずだ!と思う。
 だが、テーマを変えたことに関して後悔はない。今ならもっとできたのに・・・といっても、それは他の被写体にカメラを向け、出版の現場で多少なりとも仕事をして業界を知ったからであり、あのまま野鳥を撮り続けていたら、イロハのイが分らないまま売り上げが伸びず、間違いなく今頃はジリ貧になっていただろう。
 それとあと1つ、野鳥写真には魔力がある。
 それにはまると、他のものが見えなくなる。
 その結果、時には、野鳥以外の生き物に対して無関心になる傾向があり、例えば、野鳥にのめり込んでいる人と話をすると、その人が他の生き物に関してはひどく無関心であることに驚かされることがよくあるが、当時の僕もそうなりかかっていた。
 それを是とするか、非とするかについては、僕に答えはない。
 何に興味を持つかは個人の自由である。また、盲目になるほどのめり込める何かを持っている人は、それはそれで幸せだと言える。
 
 ただ、自然との付き合い方を論じようとする人は、それでは困る。
 例えば野鳥好きの方の講演を聴きに行くと、自然環境の話題になり、
「世間の人々は、野鳥についてこんな初歩的なことも知らない!」
 と講師が憤る。
 ところがふとした拍子に話が植物へと至ると、もっと初歩的なことをその人が知らないケースがよくある。
 知識がないからダメだと言いたいのではない。すべての生き物に関してエキスパートになれるはずがないが、知識がないというより、一方でオタクで、一方で無関心というタイプの人が意外に多い。
 自然との付き合い方を論じる時に一番恐ろしいのは無関心であり、自然に対して無関心な人には語る資格はないような気がするのだ。
  
 自然を論じたり、自然との付き合い方を論じる立場にあるのに、滅多に自然の中を歩かない人もいるが、これも一種の無関心であろう。
「いや〜調べことが忙しくて・・・。」
 となど言い訳をしても、どこかおかしい。
 それは忙しさの問題ではなくて、興味の問題である。
 他の時間を割いてでも自然の中を歩きたい、生き物を見たいと思えない人が、自然やその周辺にある問題を論じていることは、非常に滑稽に思える。
(NikonD2X・70〜200)

 

 2006.3.10(金) 興味

 同じような被写体にカメラを向けていても、ある人の写真には心を打たれ、またある人の写真には全く心を打たれないというようなことが度々ある。
 例えば、人間社会と野生動物の関係にカメラを向けた宮崎学さんの写真を見て、僕は何度となく唸らされ、ニヤけ、考えさせられ、その宮崎さんが、
「自然写真はきれいなだけではダメ。今、自然の最先端で起きていることにカメラを向けないと!」
 と発言すれば、
「確かにその通り!」
 と納得させられるのに、他の方が同じような被写体にカメラを向けた写真から、そこまでもの感動を感じない。
 その差が一体何なのかは、宮崎さんのどれだけ写真を眺めても答えを導き出すことは出来ないが、究極のところは興味ではないか?と、漠然とではあるが思う。
 恐らく、宮崎さんは、そうした自然の最先端で繰り広げられる現象を、「おもしれぇ〜」と見ているのに対して、他の方々は、「これからの時代は、そうしたものにカメラを向けなければならない。」と見ている。
 つまり興味で撮られた写真と、義務感で撮られた写真の差ではないかと思うのである。
 人の義務感は尊いものだと思うが、究極のところでは、興味には勝てないことが多い。そして自然写真の世界では、やはり究極が求められる。
 また、興味の有無は、どんなに無理をしても写真に滲み出るものだと感じる。

 では、
「お前は何に興味があるんだ?」
 と問われて、それを明快に答えられる人はほとんどいないだろう。もちろん、その場合の興味とはただの興味ではなく、究極のところの興味である。
 それはやっぱり試してみなければ分からないものであり、したがって僕は、色々な被写体にカメラを向け、自分を試してきた。
 そして最近になりようやく少しずつ、これをやろう!と思えるものが明快に見えてきたように感じている。
 以前にも一度書いたことがあるが、
「こんな日本の自然であって欲しい!」
 という僕の思いを、写真にのせて伝えていこうと最近考える。
 それは、ただ単に美しい写真を撮ることではない。多くの美しい写真は、写真家の心の中のファンタジーを表現したポエムであり、現実の自然とは一線を画する。
 僕は美しい自然にこだわるが、僕が見せたいのはファンタジーではなくて、未来の日本の美しい自然のありさまだ。
「こんな日本の自然であって欲しい!」
 と提唱する時には自然の美しさは不可欠であり、だから美しく撮りたいし、どんなによく自然を知っていても知識と経験だけで、美しさが理解できない人には、それは不可能ではないだろうか?
 
 さて、コクガンは海辺で水草などを食べる鳥だ。だから僕はコクガンが食べることができる水草が茂っている海辺であって欲しいし、ただ水草を食べているだけでなく、写真には、少しでもいいから水中の水草まで写っていて欲しい。
 また、海に生息するのだから、海だということが分るように、波が写って欲しい。

 あと少しで、一月分の写真の整理が終わる。
(NikonD2X・600)

 

 2006.3.9(木) 才能

 写真の上手い下手には、やはり才能があるように思う。
 努力だけではどうにもならない部分が間違いなくある。
 僕の場合、部分をUPで切り取るような撮影は大変に不得意であり、水鳥の足にカメラを向けても、ただの足しか撮ることができない。
 部分のUPが上手いのは、例えば、昆虫写真家の新開孝さんなどがそうだと思う。新開さんの写真を見ると、昆虫のパーツに対する興味と愛情と、それからやはり幾何学的な模様を切り取る美術的なセンスが優れているとしか、僕のような凡才肌の人間には言いようがない。
 部分のUPの撮影は、生き物のダイナミックな動きを撮影することに比べると、物理的には易しいように思える。だが実際は美術的なセンスが最も問われる、ある意味、その人に才能があるかどうかを浮き彫りにするリトマス試験紙のような撮影だと僕は感じる。
 少なくとも、才能がない者は、のめり込むべきではないジャンルだと思う。
 そう信じているからかもしれないが、写真を整理しながら改めて見ると、水鳥の足に僕の諦めが写っているようにも思える。写真に奥行きがないし、粘りがないし、自信が感じられないのである。
 その新開さんが九州に引っ越してくるというので、習えるものなら習いたいのだが、そんな次元の話ではないに違いない。
 
 写真家は、
「これが俺の写真だ!」
 としばしば口にする。
 だが、ただ人と違う構図の写真を撮れば、それで自分の写真が確立されるわけではない。大雑把だが、写真は結果だから、それで人の心を打って初めて「俺の写真だ」と言える。
 だがオーソドックスに撮ろうと思っても、その技術さえも持たない下手糞ほど、ただ人とは異なる目線で写真を撮っただけで、
「これが俺の写真だ!」
 と言いたがる。
 僕は、せめてそうならないように心掛けるのみだが、やはり時々勘違い野郎に成り下がってしまうことがある。
 それは大抵の場合、何か面白いアイディアが思い浮かんだ時であり、そのアイディアに満足してしまい、それを一枚の完成された写真、つまり人の心を打てる写真に仕立て上げる労働力を惜しんでいる時だ。
 いいアイディアが思い浮かんだ時にこそ、チョロッと頭を使って、それで何とかしてやろうというズルさが、顔をのぞかせるのだと思う。
(NikonD2X・70〜200)
 
 

 2006.3.8(水) コントラスト

(撮影機材の話)
 北日本取材で撮影したフィルムの現像が仕上がってきた。さっそく一通り目を通し、デジタルカメラの結果と比較する。
 すると基本的にはまだフィルムの画質がいいが、中には、このシーンに関してはデジタルが断然上!という場合もある。
 それは、野鳥ならデジタル、風景ならフィルムといった単純なものではなく、多くの人が、使えば使うほどイマイチ分らんというのが正直なところではないだろうか?
 例えば、ある時フィルムを使いその良さを再認識し、それならと今度はフィルムでたくさん撮影してみると思ったほど良くない。そう感じている人は少なくないだろう。
 大まかなことを言えば、確かに風景の撮影では、画質に関してはまだフィルムに分があると僕はほぼ断言するが、それでも100%ではない。風景をたくさん撮影してみると、デジタルの方が画質が良かったケースもある。
 僕の場合、その原因は大抵の場合、コントラストにある。
 フィルムの場合は、コントラストが決まっている。
 それに対して、デジタルカメラでは、コントラストを変えることができる。
 つまり、フィルムが本来持っているコントラストできれいに写る状況にはまれば、野鳥であろうが、風景であろうが、望遠レンズであろうが、広角レンズであろうが、フィルムの画質がいい。
 だが、中には、既存のフィルムのコントラストでは写らない被写体もある。
 昨日画像を掲載したマガモの顔の色合いも、フィルムでは見た目の通りになかなか写りにくく、顔の緑が黒く潰れてしまう傾向がある。もしもマガモ専用のフィルムを作るとするなら、既存のフィルムよりももっと中間調〜暗部が明るく、派手に写るフィルムが必要になるだろう。
 その点、デジタルカメラでは、コントラストを被写体の特性に合わせて変えることができる。
  今日は1月28日に撮影したヒシクイの写真を整理したが、ヒシクイに関しては、デジタルの方が断然結果がいい。フィルムでは、ヒシクイの茶色がほぼ潰れてしまう。
 コントラストの調整といっても、トーンカーブを扱うほどのこともでもなく、レベル補正で暗部や中間調を位置を自分の好みに変えるだけで、かなりの調整ができるように思う。
(NikonD2X・600+1.4テレコン)

 

 2006.3.7(火) 静物なのか、生物なのか

 何でもないように見える、ただのカモの写真でも、そこには多くの情報が含まれている。
 たとえばもしも、カモが水に浮いている写真を見かけたなら、カモの胸元を注意して見て欲しい。
 カモが速度を出して泳いでいる時は胸元で水を切っているはずし、止まっている時には、胸元の水が鏡のように静まっているはずだ。
 僕は、水の上のカモを撮影するなら、胸元で水を切っている写真が撮りたい。それが写っているかどうかだけで、カモが静物なのか、或いは生物なのかくらいの違いが生まれてくる。
 また胸元で水を切っているなら、静物ではなくて生物として撮影するためにも、その水の質感を出来る限りリアルに写し撮りたい。だから僕は写真の画質にこだわるし、解像感ではフィルムを越えたとも言われるデジタルカメラだが、質感の描写には全く満足していない。
 今日は1月の26日に撮影した水鳥の写真を整理した。

 細かい描写のことを言うと、フィルム時代には、
「ニコンのレンズがシャープだ!」
「いやキヤノンの方が色がいい。」
 などと言っても、印刷物上では、どのメーカーの製品で撮影したものかは、ほとんど分らなかった。
 僕にとって唯一、時には区別がついたのはライカだけである。
「あ〜なんていい色だ!この人のテクニックは、いったい何が違うんだ!」
 と惚れ込んだ作品が、実はライカで撮られたものだったというケースが数度あり、今でもライカのフィルムカメラを持ってみたい。
 カメラ自体には全く興味がなく、僕が欲しいライカは人気があるMシリーズではなくRシリーズだが、いずれにしても、ライカは僕のような青二才が持つ持ち物ではないことだけは確かである。
 ところがデジタルカメラになってからは、フィルム時代よりも明確に、メーカーごとの画質の違いが感じられるようになった。
 特に良く分るのがキヤノンのイオス1Dsマーク2で、雑誌の見開きくらいの大きさに印刷されれば、独特の中性的な色合いと線の細やかさがピ〜ンと伝わってくる。
 同じキヤノンの5Dを自分で使ってみると、やはり似た傾向であり、それがキヤノンの絵作りなのだろう。
 僕の場合、正直に言うと1Dsマーク2や5Dの細やかさは好きだが、色合いは好みに合わない。確かにノイズは少ないし、綺麗な絵が出てくるが、処理され過ぎている感じがして、色が浅過ぎると感じる。
 特に、画像の中の暗部や茶色っぽい被写体の描写がどうしても好きになれない。先日、茶色いマガンをイオス5Dで撮影してみたら、シャープだが色にコクが足りない。
 スタジオの場合は照明でカバーできるのでさほど気にはしてないが、暗部の描写に関してはニコンが好みに合う。
 
 また、印刷物上で最も好印象をもっているのがオリンパスである。
 オリンパスの絵は粗いがコクがあり、デジタルカメラの中では最もフィルムのテイストに近い自然な見え方をすると僕は感じる。
 ただ、いつも何か1つ許せない欠点を持っているのもオリンパスでもあり、過去にはお金を握りしめてオリンパスのカメラを買いに出かけたこともあるが、量販店で実機をさわり、買わずに引き返した。
 ある時は、思いの他データの書き込み速度が遅くて購入を見送り、次の新製品が出た時には、ファインダーが奇跡のように小さくて、がっかりして帰った。
 ただ懲りずに、そのオリンパスの最新の機種であるE330は実に面白いカメラだと思う。
 水中撮影用に水中ケースと一緒に買おうか・・・と、ちょっと調べてみると、今度は接写が可能な短焦点の広角レンズがない。 
(NikonD2X・600)

 

 2006.3.6(月) 画像処理

 故障していた画像処理用のパソコンが、先日戻ってきた。
 故障をメーカーへと申し出た際には、まず、
「機械の故障か、システムの異常かを確かめたいので、システムを購入時の状態へとリカバリーして欲しい。」
 と指示された。
「どう考えても機械の異常やけどなぁ・・・。本当にリカバリーせんないかんのか?後が面倒やなぁ。」
 と不満を感じつつも、指示に従うしかない。
 したがってまず、出荷された時の状態へと逆戻ってしまったパソコンにソフトその他をインストールし、ようやく北日本取材の画像が処理できる状態が整った。

 その前に・・・
 事務所の照明器具は、故障で、4本のうちの2本しか蛍光灯がつかなくなっていたため、新しい物へと取り替える工事をした。今回廃棄した元からついていた器具は、多分、30年くらい前に取り付けられたものだと思う。
 新しく取り付けた照明器具には電球が付属していたが、それを未使用のまま取り外し、6500Kという写真のプリントなどを眺める際の規格にあったものへと取り替えた。
 そして、その新しい照明の元で、修理から帰ってきたパソコンのモニターを調節する。
 これですべての準備が整ったことになる。

 僕の場合は、撮影した写真の中からまずいい写真を選び、すぐにでも貸し出しできる画像処理を施しておく。
 その画像処理にはなかなか時間がかかり、今回の取材のように丸一日撮りまくった時には、一日の撮影に対して、3〜4時間くらいの処理の時間が必要になる。
 今日から、折をみては、ひと月分の画像を処理していくことになる。 

 

 2006.3.5(日) 感謝

 詰めの段階で苦しんでいた仕事が、ようやく片付いた。
 あ〜苦しかった!
 がしかし、いかなる状態に陥ろうとも、泣き言を言うのはよそうと思い直した。

 1月〜2月にかけて久しぶりに野鳥をまとまった量撮影したが、しばらく野鳥の撮影から離れていたにも関わらず、撮影がずっと上達していたことに、我ながら驚かされた。
 実にリズム良く撮れるし、いいシーンを逃さなくなっていた。
 隣で撮影していた写真家の門間敬行君も、僕のシャッター音を聞き、
「う〜ん、いいタイミングでシャッターを押すねぇ。今のシーン、全部撮っちゃたの?」」
 としみじみ感心してくれたのだが、その理由をよく考えてみると、やはり児童書の世界の方々が、僕にたくさん仕事の機会を与えてくださったことが何よりも大きい。
「まだ撮るの?」
 という程使ってもらい、経験を積むことができたのが、やはり上達に繋がっているのである。
 それは、大変な財産になる。
 泣き言ではなくて、感謝しなければならないようだ。
 小動物の撮影と野鳥の撮影とでは使用する機材が全く異なるし、機材の違いからくる技術の違いもある。だが、ジャンルの違いに関係なく共通する部分も多くある。
 しいて言葉にするのなら、カメラのファインダーを冷静にのぞくことが出来る目と脳を、経験によって養えるとでも言おうか。

 写真はよく考えて撮ることも大切だが、それだけでは、ある所から先は、上達しなくなるケースがが多いように感じる。
 アマチュアの人でも、大体じっくりと考え、構えて撮る人は、あるところまでは確実に上手くなるが、その後はパタリと上達がとまり、むしろ写真の質が落ちてくる。
 そんなじっくり派の人は、そうなると益々考えようとするのだが、そうではなくて、基本も何も一度忘れ去り、バシャバシャ撮ることも大切なのだと僕は感じる。
 
 

 2006.3.4(土) 詰め

 僕はだいたい、詰めが甘い。
 仮に30ページの本を作るとすると、26ページ目あたりまでは、脇目も振らずに打ち込めるが、残りが少なくなり、目処が立ち、
「あ〜大体終わったね!」
 と安心した途端にすべてのヤル気が見事に消え失せ、残りわずか4ページを撮影するのに、大変に苦しむことが多い。
 自分の弱点はそれをよく認識し、1つずつ丁寧に消しているつもりではなるが、この点がなかなか修正できない。
 長期取材から帰宅後がまさにそんな状態であり、「たったこれだけのことがなぜ?」と自分でも不思議に思うが、仕事は時には辛い時もある。

 

 2006.3.1〜3(水〜金) 先輩方

 先日、マガンの群れを目の前にして、
「このままマガンを撮影しようか?それとも場所を変えてウミネコを撮影しようか?」
 と車の中で迷っていたら、目の前をハイイロチュウヒという大変に美しい鷹が横切っていった。
 もしもカメラを構えていたら、多分、その飛翔を撮影できただろうと思う。そんな状況だった。
 アッと思ったが、どうにもならないと瞬時に諦める。
 ところが、鷹は、少し飛んだところでスッと目の前に舞い降りた。
 即座に車のエンジンをかけゆっくりと近づくと、気付いていないのか、数秒待っても逃げる様子はない。
 ならば!と慌ててカメラバックから道具を取り出し、次に鳥の方向を見た時にはもうその姿はなく、飛び去ったあとだった。
 ふと、10年ちょい昔のことを思い出した。
 沖縄で、写真家の湊和雄さんが車に積んだ撮影機材を見せてくださったのだが、エスクードの後部座席の足元から座席の上まで、さまざまな機材がきれいに整理された状態で幾つかのバッグに収められていた。
 それは突然にどんな生き物が出てきても瞬時に対応できるようなシステムであり、シャッターチャンスを確実に物にする極意を湊さんが解説してくださった。
「あ〜これがプロなんだ。」
 と思い知らされた瞬間だった。
 僕は?というと、それから10年以上もたったというのに、未だに、瞬時に対応できる準備ができていない。マガンを観察するのであれば、せめてカメラくらい手元に置いておけばいいのに、僕にはひどくルーズなところがありそれが疎かになる。
 思わず湊さんの顔を思い出し一人で苦笑いする。
 帰宅して、
「あ〜ハイイロチュウヒ惜しかったなぁ」
 と悔いていたら、その湊さんからメールが届いたが、自然写真業界に関する内容だった。

 僕は、写真術そのものは、人に教わるものではないと思う。
 と言っても習えるものは習えばいいのだが、本質は自分で勉強するものであり、強いて言うのなら盗むものだと思う。
 だが写真家としてどうやって生きていくのか、その点に関しては、さまざまな生き方を見せてくださる先輩方がおられることは大変にありがたいと思う。
 5年や10年写真を撮り続ければいいのなら話は別だが、20年、30年とやっていくためには、その間に業界の需要の変化もあるだろうし、予測も出来ないことがたくさんおきるだろうと思う。
 そうした変化に先輩方が対応し、切り開いていく姿には、やはり僕も掻き立てられる。
 また、一昨年だったか、ある先輩は、
「長くやると、やっぱり飽きるよ。」
 と話してくださった。
 それが、マンネリ化したつまらない写真を撮っている人の言葉ならば話はよく分る。だが、誰よりも嬉々として、面白い世界を見せてくださる方の言葉だったのだから、その一言には教えられることが多くあった。
 やはり、大きな目標を持った方がいい。
 あれもやる!これもやる!とたくさん抱え込んだ方がいい。
 僕は、プロを志した当時のように、今後はまた野鳥にも多くカメラを向けるつもりでいるが、水辺の鳥、小動物、昆虫、水中、水辺の風景〜植物までを、最終的には一つながりのものとして見せてみたい。
 幾つもの分野にまたがって写真を撮るのは大変に時間がかかることである。つい、どれかを切り捨てて、当面まとめあげてしまいたくなるが、でもやっぱりやるべきことがありすぎて体が足りないくらいがいい。
 たとえ忙しくて我を失うようなことがあったとしても、その点に関しては、冷静であるより、盲目でありたいと思う。
 何かを達成してしまうよりも、発展途上で終わりたいような気がする。
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2006年3月分


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