撮影日記 2005年12月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
  

 2005.12.31(土) 更新

今月の水辺を更新しました。

 

 2005.12.30(金) 打ち合わせ

 来年の4月に発行される本の打ち合わせで、今日は、東京から担当者がお越しになった。東京からと言っても担当者は北九州出身であり、里帰りをしたついでに、うちの事務所によってくださったのだ。
 僕は大学〜大学院時代に6年間山口で過ごしたが、山口から福岡に帰った際に、
「やはり北九州の人の方が波長が合うなぁ。」
 と、しみじみ感じたことがある。
 男性はそうでもないが、特に女性に対しては、そう感じることが多い。その違いが何かは分らないが、とにかく、よりリラックスできる傾向にある。
 方言を気にしなくてもいいからだろうか?
 今日も、初対面の方だったが、そもそも非常に精神力が弱く疲れやすい僕が、ずっと世間話をしていてもいいと思えるほどの気楽さがあった。

 

 2005.12.29(木) 宮崎で

 写真業界は今、デジタル化への道を突き進んでいる。
 業界で長く自然写真を取り扱ってこられたある方が、
「ちょうど今の日本の状況が、4年前私が視察に行ったヨーロッパの状況と同じくらいですよ。」
 と先日話をしてくださったが、今やヨーロッパでは、デジタル画像の取り扱いが、フィルムの取り扱い量を追い越そうかという勢いなのだそうだ。
「写真業界と言っても色々ありますが、私どもの業界の場合、ヨーロッパではWEBを使って画像をやり取りした売り上げが、全体の売り上げの3〜4割くらいだと言われています。あと数年で日本も同じ状況になりますよ。これからはWEBですよ!」
 と。
 WEBで写真を流通させるとなると、フィルムよりもデジタルカメラが圧倒的に便利だ。フィルムをスキャナーでスキャンすればいいと考えている人もおられるだろうが、やってみれば分かる。スキャンはあまりに時間と手間が掛かる。一部の傑作写真を除いて、デジタルカメラで写真を撮り直しした方が断然に早い。
 そうしたフィルムからデジタルへの変化にぶち当たってしまったことを、運が悪かったと嘆く人もおられるが、僕は、そこにチャンスであると思う。
 例えば、フィルムの場合は、ベテランの写真家が撮った写真がもう十分な数揃っている状態であり、そこに自分の写真を食い込ませることは、なかなか骨の折れる作業だ。
 だが、写真がフィルムからデジタル化することで、それが一度ほぼ横一線に並んだという側面もある。フィルムであれば、すでに同じようなカットが多数流通しており売れにくいシーンが、デジタルなら、まだ品不足ですんなり流通ルートの先端に乗るということが、最近時々ある。

 さて、宮崎で何を撮ろうか?
 野鳥を撮ることはあらかじめ決めておいたが、昨日教わった場所を見てまわり、僕はやはり宮崎の自然の豊かさを感じた。本当にいい場所がたくさんあり、ごく普通にいるはずの鳥が、ごく普通に、自然な感じで見られる。
 ならば、それを撮ろうではないか。
 山沿いの小さな沼に行けば、マガモの大群が見られる。
 まず、それにレンズを向けてみる。
 それから、カモと言えば、オスメスの色が異なる。それらが、ビシッと一枚の画面におさまった写真は撮ってみればなかなか難しいが、是非、抑えておきたいところだ。

(撮影機材の話)
 多くのデジタルカメラのファインダーは、フィルムカメラよりも小さいし、ファインダー内の像が見難いが、それを拡大するアクセサリーがあり、僕は、ニコンのD2Xに取り付けている。
 ところが、それを取り付けると画面は大きくなるが、余分なレンズが入る分、ファインダー内の像の切れは若干悪くなる。
 超望遠レンズと使用する場合は、むしろ、アクセサリーを取り付けない方が、ピントの山が掴みやすいということが今回よく分った。
(ニコンD2X+600ミリ)

 

 2005.12.28(水) 宮崎へ

  僕が所属する日本自然科学写真協会の仕事で、宮崎県の博物館に出かけることになった。来年の1月5日〜30日まで、協会の写真展SSP展が、宮崎で開催される。
 九州では、福岡と宮崎で開催される写真展だが、福岡での展示は僕が、宮崎県での展示は、宮崎県の高千穂在住の写真家・栗原智昭氏が中心になり、準備を整えることになっている。

 旅費と日当は、協会から出してもらえることになっているし、展示の前日にあらかじめ宮崎まで移動しておき宿泊してもいいと協会の方から提案してくださったのだが、何分あまりお金がない協会なので、宿泊はやめにして、準備当日は午前中に間に合うように朝の5時台に自宅を出て、宮崎へと向かった。
 交通費は、高速道路の料金だけを出してもらうことにして、作業終了後の当日は宮崎県のどこかで車内泊をし、翌日は何か一枚でも売れそうな写真を撮り、ガソリン代その他、宮崎行きに掛かる費用を写真で稼ぎだすことにした。
 幸い、出かける先は博物館である。一緒に展示作業に携わる学芸員の方に、良さそうな撮影場所を教わることができる。

 宮崎まで出かけたついでに、鹿児島に住む知人に会いに行くことになった。
 知り合った頃は10代だった知人も、あと少しで30になろうかという年齢になり、もうかなりおばさんに近い。
 10代の頃は夢ばかり語っていた知人の、今の何よりもの幸せは、1歳になる子供と過ごす時間なのだそうだ。
「朝から晩まで、ずっと子供の世話を?」
「そりゃそうよ。」
「学校は?」
「6ヶ月から保育園に預けられるけど、私は保育園にはやらん。」
「一緒にいたいから?」
「そう。それに、今は保育園でも何が起きるかわからんやろう?」
「確かにね。」
「うちの市はね、5歳からの幼稚園は義務なんよ。」
「なら、それまでは自分の手元にずっと置いておくつもり?」
「そうよ。かわいいんよ。」

 自然写真は楽しいし、写真業界のような弱肉強食的な要素のある不安定な業界で勝負をすることは、多分、僕の性格には向いているのだろうと思う。また、毎日は充実しているし、楽しいが、無心に子供を思う知人を目にしたような時、好きなことばかりやっている自分が、何だか恥ずかしくなる。
(ニコン・COOLPIX5400)
 
 

 2005.12.26〜7(月〜火) 酷評

 知人がニコンの最新の機材を貸してくださるというので、先日借りて帰った。存分にテストをして、昨日それを返しに行き、そこで、最近滅多に目を通さなくなった写真雑誌を読んだ。以前は写真雑誌をよく手にしたが、近頃は自然関係の本には目を通しても、写真雑誌にはほとんど目を通さなくなっている。

 パラパラっとページをめくると、モノクロ写真のコンテストのページがたまたま開き、コンテストの選者が書いた選評が目に飛び込んできた。
 コンテストであるから本に掲載されている写真は優秀な入賞作だが、なんとその評価が実に厳しいのである。
「写真の世界は基本的には何でもありだ!」
 と腹をくくっている僕が読んでも、
「これはすごいね!」
 と驚きを感じた。
 中には酷評を通り過ぎているものもあった。
 ある撮影会での一枚だと思われるが、一人の男性を中心に、その両側にモデルさんだと思われる女性が座った写真が入賞していた。
 真ん中の男性は、撮影会に参加したカメラマンであろう。カメラマン特有のファッションに身を包み、ニコンの一眼レフカメラをぶら下げている。
 選評を要約するとこうだ。
「写真に写っているおっさんは、ファッション、髪型、表情・・・カメラマン独特のいや〜な雰囲気を実によく醸し出している。」
 確かに、撮影会に参加するアマチュアカメラマンには、威張り腐った嫌な人間が決して少なくないと聞く。その入賞作も、2人の女性の真ん中に写っているカメラマンの手元が実にいやらしく、それがいかにも、カメラマンがモデルさんに命じて座らせたセクハラまがいであるかのような雰囲気が漂ってくる。
 確かに選者が書いた印象はまさにその通り!
 がしかし・・・モデルになっている男性を傷つけるようなことを書いていいのだろうか・・・?
 僕は、それに対する答えを持ち合わせていないが、選者が、自己責任で、本気で本音をぶつけてきたその迫力には圧倒された。たかがアマチュア写真のコンテストの選評が、半ば死に物狂いで書かれているのである。
 選評のまとめの欄がまた厳しい。
 みなさん、そんなに褒めて欲しいですか?と投げ掛けてあった。
 コンテストだから勝負ですよと。学芸会ではないのですよと。当たり障りなく褒められたいのであれば、仲間内で写真の見せ合いでもやっていればいいと。
 恐らく、酷評をされたアマチュアカメラマンから、抗議が寄せられ、それに答えたものだろうと思う。
 久しぶりに、これは凄い!と感じるものを読んだ。

 その酷評が分るような気がするし、分からないような気もする。
 僕は、写真そのものには、良し悪しなどというものは存在しないと考える。だがコンテストは、それにあえて勝ち負けをつける勝負である。
 それから、プロの写真家の世界も、やはり勝負だと思う。市場の規模はあらかじめ大体決まっているのであり、その中で、限られた何人しか飯を食うことができないのである。
 もちろん、プロの世界が友好的であってもいいと思うが、
「勝負だ!」
 とそこまで覚悟を決めて臨む人がいてもいいし、それも許されるのがプロの世界だと思う。

 

 2005.12.24(土) 生き物屋さんと美術屋さん

 生き物の写真家といっても、ざまざまなタイプが存在する。だが多少強引ではあるが、大雑把に言うと、2つのタイプに分けることができ、1つは、まるで生物学者が生き物の研究するかのようにカメラを向けるタイプであり、あとの1つは、まるで画家が生き物を題材に絵を描くかのようにカメラを向けるタイプだ。
 例えるなら、前者が「生き物屋さん」だとすれば、後者は「美術屋さん」だと言ってもいいのかもしれない。
 これは必ずしも、そのどちらかに分けられるというものではないし、むしろ、多くの自然写真家の心の中には、その両方の要素が混在するのが普通であろう。
 だがプロの写真家の場合、主にどんな写真を売ってお金を稼いでいるか?という経済的な立脚点に注目してみれば、ほどんどすべてのプロは、生き物屋さんなのか、美術屋さんなのか、そのどちらかに分けることができるだろうと思う。
 例えば、自然写真家の中には、カレンダーや広告や写真雑誌などに主に写真を発表する写真家も存在する。彼らは主に、自然写真が持つ美術的な要素を売っている美術屋さんだ。
 僕の場合は、生物学的な要素と美術術な要素を両立させることに大変に大きなエネルギーを注いでいるが、経済的な立脚点は?と言われれば、僕の写真はほぼ100%自然科学関係の本の中で使用されているのだから、僕は生き物屋さんになるだろう。
 どこが違うのか?と言えば、例えばアマガエルにカメラを向けるとする。
 アマガエルと言えばジャンプをする姿やオタマジャクシからカエルへと変態する姿が最もそれらしい姿になるが、それらの写真は野外で撮影することが難しい。ジャンプの撮影は、スタジオ撮影でなければほぼ100%不可能だし、変態の細かな様子の撮影は、水槽撮影でなければ難しい。
 僕は生き物屋さんなので、余すところなくアマガエルの生態をカメラに収めようとする。そのためにはスタジオ撮影も試みるし、水槽撮影もお手の物だ。だが、美術屋さんは、スタジオ撮影や水槽撮影に取り組むようなことはしない。あくまでも、自然の中で絵作りを楽しむ。
 
 僕が写真を始めた頃は、自然写真家と言えば、生き物屋さんが圧倒的に主流だった。だが、最近は、美術屋さんタイプが多くなった。
 上京すると、写真業界のさまざまな人と話をする機会があるが、どうも、生き物屋さんタイプの自然写真家の場合、僕と同世代が一番若い年齢層になり、その下はいないようである。最近、子供の理科離れがよく言われるが、自然写真家も、どうも理科離れしているようだ。
 だがその分、僕は、どこに顔を出してもよく話を聞いてもらうことができるし、時にはVIP待遇を受け、美味しいものをたらふく食べることもできる。
 数少ない生き物屋さんとして、とても大切にしてもらっているように感じる。
 今の僕の目標は、生き物屋さんの世界を広げつつ、同時に、美術屋さんとしてもお金を稼げる写真家になることである。

 

 2005.12.23(金) 生き物たちの世話

 事務所を数日空けた後には生き物たちの世話が待っている。
 ちょうど今は、魚やアメリカザリガニやカタツムリを飼育しているが、一番厄介なのはカタツムリであり、特に生まれて間もない子供はまめに面倒を見なければ死んでしまうことが多い。
 もちろん、カタツムリといっても町中で見られるようなたくましい種類から、山地にひっそりと暮らすような奥ゆかしいものまで様々な種類が存在するが、カタツムリの子供の飼育は概して難しい。
 ただ、僕がこれまで飼育した種類の中では、今日の画像のオオケマイマイは例外であり、その卵から生まれた子供は実に順調に育っている。何もしなくても、ほとんど勝手に成長していくと言ってもいいくらい、快調である。
 オオケマイマイは、図鑑によると渓流沿いに多いと書いてある。少なくとも、町の生き物ではない。 そんな生き物の飼育は難しいのではないか?という気がするが、実際にはそうではない。
 では、町に多く棲むカタツムリの飼育が易しいか?と言えば、これが不思議なことに意外に難しいのである。町に棲む種類は、増える時にはドバッと増え、大きくなる時にはあっという間に大きくなるが、病気の流行だろうか?ふとした拍子にバタバタ死んでしまうようなケースが多く、何だかその生き方は大雑把な感じがする。
(キヤノン・イオス5D+90ミリ)

 

 2005.12.22(木) 帰宅

 東京から、昨晩帰宅した。
 真冬に上京したのは、確か、初めてだと思う。以前はいつも8月に上京することに決めていたのだが夏の東京の暑さは半端ではないし、上京するなら冬がいいと、今回よく分った。
 今回は、寒波の到来で東京の気温も低かったのだろうが、それでも、僕の感覚では暖かくて過ごしやすいし、街路樹の黄葉も、福岡に比べれば一月くらい遅い印象を受けた。
 出発初日は、
「いったい何の因果で、寒波の到来に合わせたかのように上京することになったのだろう?」
 と、思わないでもなかったが、結局、いつもに比べると、半分くらいの疲れですんだ感じがする。

 

 2005.12.21(水) 中古のカメラ

 昨日、中古のカメラを購入したことを書いたが、カメラ業界では中古を取り扱うシステムが大変によく発達している。ある程度以上の性能を持った機種で、故障さえなければ、どんなに古いカメラにも商品価値があると思って構わない。
 車のようにまだ動くものを廃棄することは、カメラの世界では滅多にないことだろうと思う。中古のカメラを買い取ることを専門にしているお店もあるし、ほとんど中古しか売っていないようなお店も存在する。
 僕は、とにかく中古が大好きで、新製品のように中古がまだ出まわっていないものを買う場合を除いて、10中8、9、中古を探して買おうとする。
 今の時代、お金さえ出せば高性能なものが買えるのは当たり前であり、それはそれで満足感はあるが、どこか味気ない。
 また、新品の場合、買って嬉しい!という気持ちと、お金がたくさんなくなって寂しいという気持ちの折り合いを、時にはカメラを買った後につけなければならない。だが、中古で掘り出し物を見つけると大変に得をした気分になり、そのカメラを使い込んでいくと、下手に新品を買ったとき以上の愛着が、僕の場合は湧いてくる。
 今回購入したカメラも不思議なくらいにピカピカで、販売時にカメラ本体に張られていたシールの類もすべてそのままの、まさに新品同様のものだった。

(撮影機材の話)
 元々中古大好きの僕だが、今回は、中古のカメラを探したのには別の理由もあった。
 一昨日購入したNikonのCOOLPIX5400というカメラは、かなり以前に発売されたコンパクトタイプのデジタルカメラではあるが、コンパクトタイプのカメラとは思えないほど贅沢な作りであり、一眼レフにも匹敵する贅沢な作りになっている。
 最短撮影距離が短くて、小さな生き物を撮影しようと思えば、レンズの前1センチまで近づいて撮影することができるし、オートフォーカスで撮影する際には、距離を測る点が一眼レフのように5つあり、その5つの中のどこにピントを合わせるのかをセレクターで選ぶこともできる。
 つまり、実に高級なコンパクト・デジタルカメラである。発売時の価格も、これがコンパクトタイプのカメラか?と、疑いたくなるくらいに高価であったように記憶している。
 最近は、本格的な一眼レフタイプのデジタルカメラの価格が下がり、とうとう10万円以下で買えるようになった。かつては数十万円していたのだから、信じられないほど身近になった。
 その結果、下手に高級コンパクトデジタルカメラを買うよりも本格的な一眼レフを買った方がいいという流れがあるし、各社から発売されていた高級コンパクトデジタルカメラは、一部の商品をのぞき、軒並み姿を消してしまった。
 高級なコンパクトタイプのデジタルカメラに関しては、一昔前の商品に、いい物が多いのだ。

 

 2005.12.20(火) 写真術

 あるアマチュア自然写真家のホームページの中の日記のページに、娘さんの写真が掲載されていた。生まれてまだ間もない頃から時々写真が載せられてはいたが、今や大きくなり、笑顔あり、涙あり、表情が実に豊か。
「いい写真だな!写真が撮れるっていいな。」
 と、無条件に心を打たれた。
 僕は、時々、そうして他人の写真を見た際に、その誰かが写真術を持っていることをうらやむことがある。
 僕にも技術はある。だがそんな時は、あたかもアマチュアがプロの写真を見つめハァとため息をつき、こんな風に撮れたらなぁと切望する時のような気持ちになる。

 この7月には、日本自然科学写真協会(SSP)の総会に出席した際に、地震雲の話題になった。
「ほら、地震雲ってあるでしょう。」
「地震の直前に見られるって言われているあの雲ですよね。確か科学的にはちゃんと証明されていなかったような・・・」
「そうそう。それをね、携帯電話のカメラで撮ってさ。その後でもしも本当に地震が来たら、これが地震雲だって言って週刊誌に売り込もうと思うんだよ。」
 誰が切り出した話だったのか忘れてしまったが、
「すごいなぁ!これがカメラマンなんだ!そこまで狙って撮る写真もあるんだ」
 と、写真を撮るという行為があたかも僕には無縁であるかのような驚きを感じた。
 恐らく、僕が知らないカメラの使い道や、知らない写真の世界や、写真の面白さや素晴らしさがそこにあるのだと思う。そんなことが年に何度かある。

 僕は日頃、一日に一枚写真が撮れればいいと思う。シャッターを押す前からしっかりとイメージを固め、そのイメージ通りの写真を狙う。
 僕は一球入魂型である。
 例えば、被写体に対する光の当たり方を何よりも優先する。森の中を流れる渓流を、木漏れ日の光で撮りたいと思えば、そんな写真が撮れる時間帯を待つし、この被写体は曇りの日に撮りたい!と思えば、思い通りの天候の日を待つ。
 どこどこで、何月何日何時頃、どんな道具を持ってその場に立っているのかが先にある。
 だが、それはあくまでも僕の好みであり、写真はそれがすべてではない。考え抜いて写真を撮るのではなく、ほとんど反射神経で写し撮るような世界もあり、それでなければ撮れないものがある。
 例えば、同じように自らの子供にカメラを向けた写真でも、最初から発表する前提で撮られている写真は実に嫌らしい。いや、それはそれで面白いが、え!そこまで見せちゃうの?といったエロ・グロ・ナンセンスに近い興味であり、ほんの少しでもカメラマンの側に計算があると台無しになってしまう世界が間違いなくある。
 一昨日上京する際には、飛行機の中から、コンパクトタイプのデジタルカメラで何気に写真を撮ってみて、撮影って面白い!と思ったが、僕は、最近、コンパクトカメラでいいから常に身近にカメラを準備し、一球入魂ではない、狙いすました写真ではないスナップのような写真を楽しんでみようと考えている。

(撮影機材の話)
 飛行機からの写真は買ったばかりのRICOH Caplilo GXで撮影したものだが、ちょっとタイプの違うコンパクトデジタルカメラが欲しくなり、昨日は新宿のカメラ屋さんにでかけ、NikonのCOOLPIX5400という中古でほぼ未使用(多分展示品)のカメラを購入した。これは痺れるくらいいいカメラだ!

 

 2005.12.18〜19(土〜日) 筑豊本線

 今日から3泊、東京に滞在する。
 東京へは飛行機を利用するが、日頃は、空港への利便性を考え、自宅がある直方市から北九州市の事務所へと向かい、そこからJRの鹿児島本線に乗り、福岡空港を目指す。鹿児島本線は大動脈であり、長い時間待たずとも電車に乗ることができるからだ。
 だが今日は、自宅からJRの筑豊本線というローカルな路線を使い、福岡空港を目指すことにした。
 僕は直方市に自宅があると言っても、ほとんど寝るだけであり、直方に滞在する時間は極めて短い。そんな生活だから、JRの筑豊本線にも20年以上乗っていないだろうと思う。

 東京では、小学生が電車に乗って通学していることにいつも驚かされる。また、逆に田舎では、やはり子供がバスに乗って通学する姿を見かける。極端な都会か田舎では、子供がそうして公共の乗り物にのり、義務教育を受けに行く姿を多く見かける。
 僕の場合は、そのどちらでもなく、これまで一度も公の乗り物を利用してどこかに通った経験がない。だから、僕がまともにバスやJRに乗れるようになったのは、ここ10年くらいの話だ。
 その僕が、20年以上も昔に、なんのためにJRの筑豊本線に乗ったのかというと、その目的は魚釣りだった。電車に数十分揺られ、桂川(けいせん)という駅で下車して、久保白ダムという貯水池を目指し、そこでブラックバスを釣った。
 今や、生態系を破壊すると大変に迷惑な外来魚になってしまったブラックバスだが、当時はまだ珍しくて、限られた場所でしか釣れなかったし、釣り好きの子供にとっては憧れの存在であり、僕もその一人だった。
 ブラックバスは岸辺に生息する魚だ。そして、どちらかというと陸の方向に頭を向けていることが多い。
 したがって、陸から釣ろうとして湖岸に近づくと、それは岸辺にすむブラックバスからは丸見えであり、魚をただ脅し、警戒させることになる。
 そこで、ボートに乗り、沖から岸辺を釣ると釣果があがりやすい。当時、まだ中学生だった僕も、釣り用のゴムボートを手に入れ、折畳んでも特大の旅行用スーツケースよりも大きな荷物を抱えて釣りにでかけた。
 桂川駅で下車をした後は、とにかく歩く。ゴムボートが重くて、5分に一度くらいすべて荷物を肩から下ろし休まなければならなかったので、1時間くらい歩かなければ、久保白ダムには到着できなかった。
 魚が釣れた時は、それを容器にいれ、多量の水と一緒に生かしたまま持ち帰った。
 今考えれば、大変な努力である。

 最近は、ブラックバスが日本の水辺の生態系に与える害が叫ばれるようになった。写真家のなかでも、秋月岩魚さんが、
「ブラックバスは駆除すべきだ。」
 と立ち上がり、戦っておられる。秋月岩魚さんは、釣り雑誌で長く仕事をしておられた方なので、その人が釣り業界を敵に回し、ブラックバスを排除する運動の中心になることは大変なことだと推測できる。
 僕も、ブラックバスは可能な限り駆除すべきだと思うし、これだけ生態系への悪影響が叫ばれるなか、今、ブラックバスを、ただ釣りがしたいがためにゲリラ的に放流する輩を許したくない。
 ただ、僕が子供の頃の、みなのあの憧れを思い出すと、当時魚を放流した人たちを責める気持ちにはならない。誰も、こうなることを予測できなかっただろうと思う。
(RICOH Caplilo GX)

 

 2005.12.17(土) 体色

 アメリカザリガニは赤い体色のイメージが強いが、子供は茶色い。
 それから大人でも、脱皮直後には茶色くなり、体が固まり時間が経つにつれて赤い色がついてくる。
 また遺伝や体質もあるように感じるし、食べ物によっても、体色は赤〜茶色や黒っぽい色に変化し、時には青や白にもなる。
 さらに、ここ数日大きなアメリカザリガニの脱皮が続いたと先日書いたばかりだが、それらは、脱皮後に、元の色よりもずっと茶色くなる傾向がある。今日の画像のアメリカザリガニも、脱皮後の色の付き具合から判断すると、これから多少は赤くなるとは思うが、画面左側に写っている抜け殻ほどもは赤くならないだろうと予測される。
 もしかしたら、冬季に脱皮をすると、その後の体色は茶色に近い色合いになるのかもしれない。
 そう言えば、春先に越冬から覚めたばかりのアメリカザリガニを採集すると、本来であれば、真っ赤な体色をしているはずの十分に成熟した大きなものの体色が茶色いことがある。そららは、或いは、越冬中に脱皮をした個体なのかもしれない。
 春先に採集できる、越冬から覚めたばかりの大きくて茶色い個体は、飼育を続けると間もなく脱皮をして真っ赤になる。
 もちろん、春先にも大きくて赤いものが捕まるから、すべてが越冬中に脱皮をするわけではないと思う。だが、先日、アメリカザリガニは越冬中に脱皮をするのでは?と書いたが、それはそれで間違えないような気がしてきた。

 

 2005.12.16(金) 無事

 昨日脱皮の気配を見せていたアメリカザリガニは、今日、無事脱皮を終えた。その一部始終を撮影できたわけではないが、今日は、その途中に間に合い、途中からではあるが撮影することができた。
 実は先日、今日と同じように脱皮のシーンを撮影した際に、そのアメリカザリガニが途中で脱皮を失敗してしまい、後半だけが上手く撮れなかったことがあった。その際に撮影した脱皮の前半と、今日撮影した後半とをつなぎ合わせれば脱皮の一連の流れが良く分る。
 それらの画像は、間違いなく将来どこかで使う機会があるだろうと思う。

(撮影機材の話)
 ニコンからD200という新しいカメラが発売された。今のところ購入する予定はないし、以前にもそう書いたことがあるが、やはり実際に発売されると欲しくなってしまう。
 D200を購入しない理由は、この秋に購入したキヤノンのイオス5Dの存在が大きい。5Dは、フルサイズのイメージセンサーを搭載したカメラであり、やはり画質がいい。僕は画質にもこだわる方だから、フルサイズのイメージセンサーを搭載したカメラの画質を知ってしまうと、どうもAPSサイズのイメージセンサーを搭載したカメラを使う気がしない。
 今日、アメリカザリガニの脱皮を撮影する際にもイオス5Dを使用したが、以前にニコンのD2Xやキヤノンのイオス20Dで撮影した同等のシーンの画像と比較をすると、イオス5Dで撮影した画像の切れの良さは一目瞭然だ。
 イオス5Dは、フルサイズのセンサーを搭載し、しかも30万円台というそれまでの常識では考えられないような価格で発売されたのだから、発売されたこと自体が大変にセンセーショナルだったし、様々なレビューを見かける。だが、そうしたレビューの中に、その画質の良さについて触れられた物が不思議なくらいに少ない。大抵のレビューは、35ミリ判のフィルムカメラと同じ感覚で撮影できる点が5Dの一番の売りであると書かれていて、中には、APSサイズのセンサーを搭載したカメラと画質は極端に大きくは違わないと書いている方もおられる。
 僕には、どうもその点が解せなくて、レビューを書いておられる方々は、こんな大きな画質の差が分らないのだろうか?と不思議な気持ちになる。
 では、なぜD200が欲しくなるのか?と言えば、キヤノンのカメラはよく写るが、手触りがあまりに平凡で不思議なくらいに愛着が湧かないからだ。愛機というよりは、道具という感じがする。
 
 

 2005.12.15(木) 脱皮

 飼育中のアメリカザリガニの中でも大きな物が、ここ数日で次々と脱皮した。
 今日の画像は、一昨日に撮影したものだが、今も、新たに一匹のアメリカザリガニが脱皮をはじめそうな気配を見せている。
 はじめは、僕が事務所にいる間に暖房を効かせている場所で飼育しているザリガニが脱皮をしたので、その温度が脱皮に適した温度になっているのだろうと思った。僕が観察した脱皮は、野外でのアメリカザリガニの生態とは別のものだと思った。
 だがしばらくすると、今度は一切暖房を効かせていない、ほぼ屋外といってもいいようなプレハブの飼育室の中のザリガニが続けて脱皮をした。
 今の時期、日本に生息しているアメリカザリガニは、じっとして冬篭りをしているはずだが、もしかしたら、その最中に脱皮をする性質を持っているのかもしれない。
 小さなアメリカザリガニの場合は、生まれてしばらくは急激に大きくなるので季節や気温に関係なく、一定の時間が経てば、どんどん脱皮を繰り返す。だが大きなものは、例えば春先であったり、ある程度環境に合わせて脱皮するようである。

 暖かい時期の脱皮と違う点は、脱皮の気配から実際に脱皮を終えるまでに大変に時間がかかる点である。
 気配が見えてから、実際にいつ脱皮をはじめるのかは、全く予測をすることができない。
 したがって待っていてもきりがないので、今日はこれから帰宅をする。明日、僕が事務所にいる時間帯にたまたまその脱皮の時間が重なれば、撮影しようと思う。

 

 2005.12.14(水) 整理
 
 今年撮影した写真は今年のうちに整理を終えておこうと、先日から取り組んでいる。フィルムがデジタルになり、整理が面倒になったという人もおられるが、僕は断然楽になったと感じる。

(画像整理の話)
 僕は、デジタル一眼レフカメラを使用する時には、ほぼ100%RAWで撮影する。JPGで撮影した経験は皆無に等しい。したがって、まずはRAW現像ソフトで、気に入った画像だけをTIFFに展開する。
 そして、フォトショップのファイル情報という項目を使用して、画像の中に写っている生き物の名前やその他、必要な情報を書き込んだものを画像に埋め込んでおく。
 それらの画像は、生き物の種類ごとに分類する。つまり、気に入った写真を集めた生き物の種類ごとのカタログを作る。
 大抵の仕事は、そのカタログに納めた画像で間に合う。

 また、気に入らなかった残りのカットを含めて、撮影した画像は、日付をつけて撮影日ごとに同じフォルダーの中にひとまとめにする。今日撮影した画像は、051214cというフォルダーにおさめた。
 cはCANONのcであり、NIKONの場合はn、PENTAXの場合はpと打つ。僕は、JPGを使わない代わりに、RAW現像は必ずメーカーの純正ソフトを使う。そのためには、ある日作成したフォルダーの中の画像が、どのメーカーのカメラで撮影したのかを一目で分るようにしておきたいのだ。
 そして、それらを当面、未保存という名前のフォルダーにおさめておく。
 未保存のフォルダーの中に4G以上の画像が貯まると、2枚のDVDへと焼き付ける。DVDのうちの一枚は、事務所の火災に備え、自宅に保存する。
 未保存のフォルダーからDVDへと焼き付けた画像は、その後、外付けのハードディスへ移動させる。つまり、DVD2枚、ハードディスク1枚の合計3箇所に画像を保存する。

 未保存と名付けたフォルダーに収めた画像は、もしもDVDに焼き付ける前に装置にトラブルがあると失われてしまうので、未保存のフォルダーは、丸ごと別のディスクへとバックアップを取る。このバックアップは、バックアップソフトを使用して自動的に行われるようにしている。
 また、種類ごとにお気に入りの画像をまとめたカタログを保存したハードディスクも、同様にバックアップソフトで自動的にあと1つ同じものを作る。 

 

 2005.12.11〜12(日〜月) 地元意識
 
 僕は、主に、九州〜山陰・山陽をフィールドにしている。そこでなければならない理由はないし、そこにこだわっている訳でもない。
 だが、時間をかけてじっくりと自然を撮影しようと思うと何度も通わなければならないから、必然的に近い場所になる。
 時間のことだけを言えば、近畿くらいまでは足を伸ばすことが可能だし、奈良県や和歌山県あたりの水辺を見てみたい気持ちはある。だが、そのためには神戸や大阪や京都あたりの、ゴミゴミした場所を通らなければならないので、それが嫌で、結局、鳥取県か兵庫県の人口密度の低い地域で足が止まる。
 九州〜山陰・山陽を、僕が撮影地に選ぶのは、そこに特別な思い入れがあるわけではなく、そうした地理的な理由であり、僕には、あまり地元意識というものはない。
 以前に、僕の自宅がある直方市の、ある市議会議員さんから、
「あなたが写真家として売れても、ぜひ直方市に住民票を置いてよね!直方出身でいい仕事をしている人は、みんな都会に出て行ってしまうのよ。」
 と言われたことがある。その議員さんを中心に人が集まり、地元を盛り上げるためのさまざまな催しを企画しておられたし、誘われたこともある。
 だが、僕にはそうした活動が全く理解できなかった。理解できないというのは、そうした活動を否定しているのではなく、それをいいことがと思うのだが、僕の側にそうした頭がなく、僕に理解力がないのだ。

 と思いきや、時々、自分でも思いがけない地元意識が頭をもたげてきて、驚かされることもある。僕は、大学〜大学院と6年間通った自分の出身大学に対しては、ほとんど何も特別な思い入れはない。が、地元の出身高校や中学や小学校に対しては、やはり何だかんだいって思い入れがある。
 また、福岡県は、福岡・北九州・筑豊・筑後の4つに分けられるが、僕の自宅のある直方市は筑豊地区に含まれる。そして、筑豊地区に対する思い入れも、時々頭をもたげてくる。
 

 さて、昨日は、珍しく丸一日休みを取った。
「ステンドグラスの展示をするので、気が向いたら見に来てくださいね。」
 と声を掛けられたので、顔を出してみた。ステンドグラスを作っているのは、筑豊地区在住の若い作家さんである。
 
【展示の詳細】
筑豊地区の若者を応援したい!という方がおられましたら、是非、のぞいてみてください。住所と地図は下記にありますが、国道200号線沿い・焼肉のウエストと同じ敷地にあります。MOCO VIVOというおしゃれな雑貨屋さんの一角です。特に日曜日は、17時までは、確実にご本人さんがおられます。
 嘉穂郡穂波町枝国216-4  電話0948-26-1101
 MOCO VIVO 内(お店に入って左側の奥)
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 2005.12.10(土) 嘘つき
 
 知人が、
「私は嘘つきです。」
 という。
 詳しく話を聞いてみれば、その方は、周囲の人との間に波風を立てないように日頃いつも笑顔で優しく振舞っているのだけれども、内心は不満だらけなのだそうだ。人間関係のしがらみの中で嘘をついているのだそうだ。
 僕は、その話を聞いて、一見筋が通っているようでいて、でも、どこかおかしいと感じる。
 その方は、心の中に相反する2つの思いを持っている。1つは、知人との間に波風を立てたくないという気配りの思いであり、あとの1つは不満だ。
 今のところ気配りの思いが勝っていて、そちらが表に出ている。そして、その次にくる思いとして不満がある。
 心の中に相反する思いが同時にあるときに、しばしば、そうして表に表現されない2番目にくる思いの方が、本音と表現される。
 だが、ならば不満の方を口にすれば、それが本当であり、本物のその人なのだろうか?
 仲間に優しくしたいという思いと同時に不満があり、でも、優しくいたいという思いの方が勝っているというのが、本当のその人なのでいいのではないだろうか?
 僕はその方を、優しい人だと思う。
 口先だけ周囲の人に優しくして、実際には隠れて意地悪をしているのなら、意地悪い気持ちの方を本当と言ってもいいのかもしれないが、そうではないのだから。
 人はしばしば相反する意見を心の中に持つが、それらが統合された時の自分を、本物の自分と言ってもいいのではないだろうか?人の心を分解することに、何か意味があるのだろうか?
 或いは、周囲の人の影響を排除した時の自分の意見を、本音というのかもしれない。
 だが、周囲の人の影響を排除すると言っても、人が生きている限り、実際にはそのような状況はあり得ないのであり、もしも他人の影響がなかったなら?という仮想空間の中での意見を、その人の本当の意見と言ってもいいのだろうか?
 昨日日記の中に書いた科学の実験なら、話は別だ。例えば、蚊が朝と夕方に活動するが、それは、もしかしたら明暗の変化に反応しているのかもしれないし、温度の変化に反応しているのかもしれない。
 それを調べるために、実験室の中で温度を一定にして、光だけが変化するような仮想空間を作り、純粋な光の影響だけを調べることにも意味があると思う。光の影響や温度の影響をバラバラにして理解してもいいと思う。
 だが、それは調べようとする対象が反応に近い現象だからであり、人の思いを仮想空間の中で考えることには無理があるような気がする。科学的な手法を当てはめることができない物事もあると思う。
 
 さて、僕は自然が好きだが、一方で、大変な自然破壊魔でもある。
 自然が好きの方が今更説明する必要もないだろう。
 大変な自然破壊魔の方は、例えば、僕は、どんどん新しい撮影機材が欲しくなり、実際に手にしているし、フィルムを使えば湯水のように消費する。取材先では、時にはデジタルカメラの電池を充電するために車のエンジンをかけっ放しにもする。それで一体どれほど自然が破壊されることになるのだろう?
 僕は、どちらか片一方だけを指し、それを本当の自分だとは思わない。
 
 

 2005.12.9(金) 蚊の研究
 
 一昨日、僕は学生時代に携わっていた蚊の研究について書いた。蚊が、いつ何時に活動するのかと、その制御の仕組みを調べていたわけだが、
「蚊が活動する時間帯って、どうやって記録をするのですか?」
 とたずねられたので、少しだけ答えてみたい。
 蚊の活動は、すべて実験条件下で、機械を使って記録する。
 まず、蚊を一匹ずつ、一辺4センチの透明の立方体の中にいれる。そこに、餌として砂糖水を与えておく。
 蚊は通常は、ケースのどこかに止まり、じっとしている。だが、やがて活動の時間が訪れると、蚊はそのケースの中を飛び回る。
 ケースには、赤外線センサーが仕掛けられていて、飛翔中の蚊がそこを横切ると、その信号がコンピュータに入力される。
 それらのシステムは、外からの光が入らない箱の中に納められていて、箱の中の温度は常に25度である。
 1つの箱の中には、蚊をおさめた透明のケースが数十個セットできるようになっているので、一度に数十匹分の蚊の活動が記録されることになる。上手く蚊のコンディションを整えてやると、最長で、40日くらい蚊は生き延び、記録できていたように思う。
 照明は蛍光灯で、昼の時間と夜の時間はタイマーによって自動的に管理される。僕が学生の頃は、昼が16時間、夜が8時間(合計24時間)の時に、蚊がどんな活動をするのかを主に調べていた。

 さて、何かおかしいと感じる人はおられないだろうか?
 蚊の活動の記録と言っても、それは実験室の中であり、野外での蚊の活動とは別のものではないか?という疑問である。例えば、野外では常に25度であることなどあり得ないし、晴れの日もあれば曇りの日もある。一日の中の昼の長さにしても少しずつ変わっていくではないか。
 野外ではあり得ない条件で生き物を調べて、それに何の意味があるのか?と感じる方もおられるだろう。
 だが、科学の実験と言うのはそれでいいのである。
 蚊が活動する時間帯は、僕が実験に使用していた蚊の場合は朝と夕方に盛んになる。つまり、昼と夜の変化に合わせて活動がおきるのであり、光の変化の影響を強く受ける。
 だが、その他にも、昼間は暑く、夜は多少涼しい温度の影響も受けるだろうし、一日の中の湿度の変化の影響も受けるのかもしれない。
 それをすべて同時に理解することは不可能であるから、科学の世界で物事を調べる時は、何か1つだけにターゲットを絞る。僕が学生時代は光の影響だけを調べていたのだが、そのために、温度変化の影響を受けないようにするために、温度は一定に固定していた。

 そうして何か1つにターゲットを絞り、それだけについて調べる考え方は、科学の世界ではイロハのイであるが、それに馴染めるかどうかで、科学が好きかどうかがほとんど決まるように思う。
 科学に馴染めない人は、恐らく、先程書いた、
「野外ではあり得ない条件で生き物を調べて、それに何の意味があるのか?」
 という気持ちになるだろう。その気持ちは、それはそれで間違えではないし、非常に正しい。
 僕の恩師は、それに対して、
「宇宙の中で地球がどのような運動をしているのかを調べる時は、学者は、地球を球だと考えるのですよ。」
 と、まずおっしゃった。
「でも、実際には、地表にはデコボコがあるのだから球ではありませんね。でも、地球を球だと仮定しても、そこから分ることがたくさんあるんです。それだけでも、私は十分な意味があると思います。」
 と、話は続いた。
 それもまた正しいと僕は思う。
 
 

 2005.12.8(木) なぜ?
 
 幼児が殺害されるような事件がおきると、世間は、主に2つの見方で事件を見つめようとする。
 1つは、「犯人は誰か?」である。これは事件をおさめようとする現実的な対応だ。
 あとの1つは、一体いかなる動機でそのような犯罪がおきるかであり、こちらは、「なぜ?」という視点である。物事を善悪という基準で見るのではなく、何が引き金になり、そのような犯人が生まれてしまうのかを探る試みだ。
 例えば、今までに逮捕された犯人の過去を分析し、誰かの身の回りに起きた過去のできごとが、どのような人格の形成に結びついたのかを紐解いてみたりする。
 そのなぜ?を追求しても、それが直接的に犯罪を減らすことに寄与することは滅多にない。だが人間にとって、なぜ?は非常に大切な視点である。
 例えば、悲しい過去を背負っている人が、一体どんないきさつで自分がそんな悲しい過去を背負うようになったのか、そのなぜ?を追求し、自分探しを試みる。それによって過去を消せるわけではないのに、時には、悲しみを受け入れるための道筋を、心につけることができる。
 善悪という考え方を捨て、なぜ?という見方をすることによって、人の心は時に癒されたり、また解き放たれる。
 善悪は、恐らく社会の中で生まれ、社会のために必要とされている概念ではないかと思う。したがって善悪という考え方を捨て、なぜ?という視点で物事を見るその考え方は、社会のさまざまなしがらみから自分を隔離して物を見つめる行為なのかもしれない。
 ただ、社会から完全に切り離されて生きていける人はいないのではないだろうか?いや、正確に言えば獣のように生きられなくもないのだろうが、引きこもっていたり、社会に適応することに苦しんでいる人でも、その生きる道を選んだという人を、僕はまだ聞いたことがない。
 人は社会から離れることによって癒されるくせに、一方で社会の中に属したい、二面性を持った生き物のようである。したがって、なぜ?を追求したい人でも、なぜ?の追求だけに徹してしまっては、心の底から安らぎは得られないような気がする。
 そのなぜ?というその物の見方が生き物に向かえば生物学になるし、物質に向かえば化学になる。したがって、善悪という現実的な物の考え方を捨て、なぜ?を追求する学者は世間離れしていると言われるが、日常生活を送れる程度の社会性があれば、それでいいのだろう。
 
 生物学者は、基本的にはなぜ?という視点で生き物を見つめ、心理を探求しようとする。
 だが、現実的には、その研究費をしばしば社会が出しているのだから、社会と自分とを完全に切り離してなぜ?に徹することは難しい。
 真理の探求だけでは研究は成り立ちにくいし、例えば、渡り鳥が渡りをする際のコースについてただ真理を知りたかったとしても、野鳥の保護に結びつけるなどして、何か社会と接点を持つための大義名分を立てる。
 ちょっと汚い言葉を使えば、一種の本音と建前なのかもしれないが、世間が建前をあまりに間に受け、野鳥の保護のために研究しろ!となると、実に味気ない研究になるだろう。
 だが研究者が、
「俺たちの行為は真理の探究だ!」
 とあぐらをかいたり、威張りだしたり、一見穏やかな対応でも聞く耳を持たなくなると、これは気分が悪い。
 昨日、一昨日と、僕は野鳥の標識調査について書いたが、そんなことを考えながらパソコンに向かった。

 

 2005.12.7(水) 無駄
 
 僕は、子供の頃に野鳥図鑑の中で、確か、新潟県で脚環を取り付けられたスズメが九州で見つかりましたという記事を読み、大変に感激したことを今でもよく覚えている。野鳥をいつも眺めている人にとっては特別なことではないのかしれないが、当時の僕には、大きな感動だった。
 その事実を知るために何匹のスズメが捕獲され、脚輪を取り付けられたのだろう?それについて、僕は全く知識がない。
 もしかしたら数え切れないほどのスズメが、捕獲や脚輪の取り付けなどのひどい目を見て、中には捕獲の際にショック死するものまでも含まれ、その結果たった一匹のスズメの移動が確認されたのかもしれない。
 人によってはそれを、捕獲や脚輪の取り付けなどの際に野鳥に与えたダメージの大きさに対して、得られた結果がほとんどない無駄であると判断するかもしれない。
 だが中には、当時の僕のように、そのたった一匹のデータから非常にたくさんのものが得られたと感じる者もいるだろう。
 科学の研究というのは、一般的にはたくさんのデータを取り、統計的に現象を見て、その中から物を言う。だが、たった1つのデータが非常に大きな意味を持つことも珍しくない。
 昨日僕は、野鳥の標識調査について書いたが、現在行われている標識調査では、脚輪を取り付けた野鳥が再び捕獲され、どこからどこへ移動したのかが判明する、つまり結果がでる率が非常に低い。
 その事実を受け、野鳥は捕獲される際にそれなりのダメージを受けるのだから効率の悪い研究にはあまりに無駄が多く、やめるべきであると見る向きもある。が、何が無駄かについては、もう少し考えなければならないのではないだろうか?

 研究のために何でも犠牲にされていいわけではないが、それは当然のこととして一旦置いておく。
 また研究や調査と称して、野鳥を網で捕獲してただ触ることを目的にしている人たちを、僕は許しがたいと思う。さらに、そうしたエセ調査を生み出さないように、もっと調査の内情をガラス張りにするべきだという意見には100%共感する。
 だが、効率という視点でもって、調査や研究が無駄かどうかを判断することに対しては、無駄とはもっと別のことではないか?と僕は感じる。
 そもそも生物学は、大変に効率が悪く、泥臭い学問だ。
 僕は大学〜大学院時代に、蚊を研究テーマにしていた。蚊は、僕の恩師である千葉喜彦先生の長年の研究材料であり、その一連の研究の中の一部を担当していた。
 中でもアカイエカは、通常は朝と夕方に活動するが、交尾を終えたメスは夜中にも活動し、それが民家に侵入し人の血を吸う。つまり、交尾の際にオスからメスへと受け渡される物質の中に、生き物の活動の時間帯を変えてしまう不思議な成分が含まれていることになる。
 その成分が、オスの生殖付属腺(金玉)と呼ばれる器官の中に入っていることは、僕の在学時にはすでに分っていて、その物質を特定しようとする試みもなされていた。
 そのためには、まずオスを解剖し金玉を取り出し、内部の液体を精製し、自作の、蚊専用の注射器でメスに注射する。そしてそのメスの活動を記録し、どの成分をメスに与えれば、メスが夜行性に変わるのかを調べる。
 一度の実験に、確か数千匹分のオスの金玉が必要であったように記憶している。蚊の金玉を、担当の研究者が、連日朝から晩まで顕微鏡下でひたすらに取り出す。なかなか細かい作業であり、数千という数も相まって、頭がクラッとなりそうな程の作業だが、担当者は、黙々とこなしていたし、むしろ、気が遠くなるほど効率が悪く泥臭いからこそ、やる意味があるという側面もあったように思う。
 すぐに分らないからこそ意味があると。
 正直に言うと、学生時代の僕は、そうして得られたデータを、どこか些細なデータだと感じていた。世の中をひっくり返すほどの事実でもないと。
 だが、僕の恩師は、ほんの少しでも新しいことが分った時に、大変にその結果を大切にしておられたし、その姿は、今でもつい先日の出来事のように思い浮かんでくる。
 僕は最近になり、心の中に刻まれていた恩師のその姿勢に、ようやく心を打たれるようになった。
 ある研究結果が自分にとって意味がないからといって、それを無駄である言い切ってもいいのだろうか?
 
 

 2005.12.6(火) 割り切れないもの

 人の態度の中には理屈では割り切れないものがある。例えば、人が人を好きになることは、理屈で割り切ることはできない。
 それでも無理やりに理屈を言うと、立場上、許される恋愛と許されないものとがあるのは事実だが、それは最終的には建前であり、現実には、それをしばしば乗り越えていってしまうのが、生身の人間の恋愛である。
 許されない恋、たとえば、不倫は文化だ!などというつもりはないし、奨励するつもりもなければ、僕が不倫にはまっているわけでもないが、人が人を好きになることは、元々多分にわがままな要素を含んでいるのであり、そのわがままは、最後の最後には、社会の規範よりも大切なものなのかもしれないと、僕は思う。
 それを、もしも理屈で、筋論で制御しようとする人がいたならば、僕はその人に対して、
「人は、あなたの思い通りに制御できるロボットではありませんよ!」
 と声をあげるに違いない。
 人には好き嫌いや感じ方の違いがある。世の中には、一度も人を愛したことがないという人がおられるだろうし、また、恋愛よりも常に仕事が大切だったという人もおられるに違いない。
 僕は、それはそれで尊重するが、恋愛が理解できない人の感覚を基準にして恋愛を語り、例えば、ある恋愛を許すだとか、許さないと判定することには違和感を感じる。
 それは結局、恋や愛という理屈を越えた存在を、無理やりに理屈で語っているに過ぎないからだ。

 さて、2日に、野鳥の標識調査について書いた。野鳥を死なせてしまう危険性をはらんだ標識調査(バンディング)に対して、NOを突きつける活動が立ち上がり、僕はその活動に大変に共感する反面、違和感も感じると。
 それらの活動に共感する部分については、以前に何度も書いたことがあり、違和感を感じる部分について書いてみようと思ったのが前回の記事だ。そして、今日はその続きを書いてみたい。
 その活動に携わっておられる方々は、立場も考え方も人それぞれ違う。だがお互いに相手を変に束縛し合うような、狂信的で了見の狭い方々では決してない。むしろ、その逆である。
 ただ、1つだけみんなに共通していることがあり、それは基本的に科学があまり好きではない人が集まっておられる点だ。科学の研究が好きで好きでたまらず、どこまでも打ち込んでいるという人は、少なくとも一人もおられないようだ。
 科学が好きではない人が、科学について語ったなら、その結果がどうなるかは、あえて書く必要もないだろう。愛が理解できない人が、愛について語り合っても本当の意味での説得力を持たないことに近いものを感じる。
「いや、科学を否定しているのではありません。その中の、無駄に生き物を死なせてしまっている部分を否定しているのです。」
 と感じるかたもおられるだろうと思う。
 が、その無駄とは一体何だろうか?
 例えば、実験の結果、一匹の動物が死に、その代償として何かがわかったり、分らなかったりする。その事実に関して、ある科学者は値打ちを見出し、またある自然愛好家は、ほとんど意味もない無駄死にだと切り捨てる。
 何が無駄かは、立場によって異なるのである。ある自然愛好家にとっての無駄は、科学者にとって有用なデータかもしれないのだ。本当は、そんなに簡単に、無駄かどうかを語れないのである。
 そこに、非常に大きな溝があるように思う。

 だれか一人でもいい。その活動に、現役の科学の研究者が参加してくれないものだろうか。科学に強い興味を持ち、今でもそれに携わり何らかの責任を持っている人が、科学のことも、命のことも配慮した上で、何かメッセージを発信してくださらないだろうか。
 科学に興味も責任もない人が、
「科学はこうあるべきだ!こういう風に調査すべきだ」
 と細かい方法論にまで言及し、何が無駄かを語っても・・・・。
 科学に対して愛情がある現役の人が、
「調査をこう変えようよ!」
 と、何か声をあげて欲しい。

 

 2005.12.5(月) 講演

 先日、
「講演を・・・」
 と依頼されたが、遠回しに断った。完全に断らなかったのは、
「どうしても!」
 と言われればやってもいいと思っているからであり、つまり、決定的にイヤではないものの、気が乗らないのだ。僕は、相場に合わないお金をもらうことは好きではないが、そんな時だけは、山ほどお金をふっかけてみたりもする。

 なぜ、講演に気が乗らないかだが、単純に生き物の話をすればいいのなら、講演もいいと思う。生き物のことを少しでも知ってもらいたいと思うし、自然写真家には、仕事を抜きにしてその責任があると思う。
 だが、講演を依頼される時は、大抵の場合、生き物の話よりも僕の生き方を語ることが求められている。例えば、その依頼者から、
「あなたは頑固にこだわっていて素晴らしい!」
 などと褒められたりすることがあるが、僕は、頑固であることやこだわることが、そんなに立派なことだとは思っていない。頑固な人と付き合ってみればよく分るが、大変付き合いにくいに違いない。それよりも、こだわらずに普通に暮らすことができれば、それがより良いと思うし、穏やかであることの方が、ずっと優れていると思う。
 僕はなぜかそんな頑固な性格であり、仕方なく、頑固にこだわることが許される職業を選んだ結果が生き物の写真だったに過ぎない。
 写真家には、そんなタイプの人が多いのではないか?と思う。どんなに穏便なタイプの写真家も、生身も相手とじっくり付き合ってみると、驚くほど気難しい側面を持っているものだ。でなければ、自然写真のような仕事は成立しないだろうと思う。
 主催者が僕に求めるこだわりと、僕のこだわることに対する考え方に開きがある。自分でそう思っているのだから、講演の話は、すんなり引いてもらえれば断ることにしている。
 以前に、植樹祭で話をすることを依頼された蝶好きで有名なある国会議員が、その植樹祭の場で、
「自然の木を切り、そこに針葉樹を植樹をするなんてケシカラン!」
 と、主催者をけなす挨拶をして話題になったことがある。その議員さんは確信犯だったのだろうが、僕は、一応、主催者に僕の思いを知ってもらい、納得してもらった上で話をしたいと思う。その時は、好き嫌いを抜きにして、修行だと思って全力で取り組むことにしている。

 さて、僕は、外見が頑固に見えないようであり、勘違いされることが多い。中には、押せば、何でも言うことを聞いてくれるタイプに違いないと思い違いをして近づいてくる人もおられる。
 そして、実際の僕がそんなタイプとは程遠いことを知り、
「いや〜あなたは頑固だ!」
 と驚かれる。
 驚かれる分は全く構わないし、それがお互いをよく知り合うきっかけになり、そこから親しい付き合いが始まることもある。また、人は必ずイメージを作るものである。
 だが、イメージと違うからといって、嘆いたり、腹を立てる人が存在するのには困る。
 誰かが勝手に僕のイメージを空想の世界で作り上げ、勝手にそれに期待して近づき、そして、そのイメージとの違いを感じた時に、冷たくされたり、裏切られた気にでもなるのだろうか?
「あなたなら分ってくれると思ったのに・・・」
 などと手前勝手なことを言い出す人もおられるし、
「冷たい!」
 となじられたこともあるが、そんな風に利用されたくないと僕は感じる。
 不思議なことに、不真面目な感じの人や、強引に近づいてくる人よりも、真面目で、極端に腰を低くして近づいてくる人ほど意外に厚かましくて、その傾向が強い。

 

 2005.12.4(日) 見本のプリント

 主に使用するカメラを、フィルムカメラからデジタルカメラへと変えて以降、時々、
「え?」
 と絶句してしまうくらい印刷が悪いことがある。多くの印刷所は、フィルムからの印刷に関しては技術の蓄積があるが、デジタルデータからの印刷に関しては、まだ発展途上であり、デジタルデータを印刷した場合、特に、色が悪いことが多い。
 そこで、今までであれば、ただフィルムを渡せばそれで事足りたところが、最近は、カメラマンも印刷の側の事情に多少は詳しくなる必要が生じてきた。さらに、印刷所をどのように使うかは出版社によって異なるのだから、出版社ごとの事情も知らなければならない。また、同じ出版社の中でもケースバイケースであり、一概には言えないようでもある。
 僕は今年になって、出版社にお勤めの方の中で、特に印刷の事情に強い方からその社の事情を教り、時には印刷所に勤める知人に尋ね実験に付き合ってもらい、色々と試行錯誤してきた。
 例えば、先日は、デジタルデータを渡す際に、僕が作った見本のプリントを添付し、
「見本に近くなるように!」
 とお願いしておいたのだが、そうすると見事に見本と一致した印刷物が僕の手元に届いた。
 ならば、色見本をつければそれがいいのか?と言えば、そうは単純ではない。
 印刷所によって異なるのだろうが、例えば、色見本に色を合わせる場合、そのための料金が必要になる場合もあるようだ。
 色見本に合わせるという作業が、基本料金の中に含まれず、別にオプションとして設定されているわけだが、デジタルデータからの印刷が増えるにつれ、今後は、そうして事細かにオプションが設定されてくるのかもしれない。印刷所も商売であり、よく考えてみれば、これは当たり前のことである。
 
 以前に、色見本をつけたにも関わらず、印刷された写真がそれとは程遠かったことが何度かある。
 それらはもしかしたら、デジタルカメラの登場で印刷所の仕事の内容が変わり、どの作業が誰の仕事であり、それが果たして有料なのか無料なのかさえもまだ決まらない混沌とした状況の中での作業であったからか、或いは、出版社側の予算の都合等で、そうしたオプションがあっても、選択できなかったのかもしれない。
「見本のプリントを付けられると迷惑だ。」
 という関係者も少なくないのだが、
「なるほど・・・」
 と、思う。

 

 2005.12.3(土) 後回し

 何となく、撮影を後回しにしてしまうシーンがある。
 生き物の写真は、しばしば撮ってみなければ、撮影が容易いのか難しいのか分らないものだが、どう考えてみても決定的に難しい訳ではないのに、どこか億劫で、後回しになるシーンがある。
 今シーズンは、アメリカザリガニが色々な食べ物を食べるシーンを撮影することになっているが、撮ろう、撮ろうと思いつつ、とうとう12月になった。なぜか、この撮影が億劫だったのだ。
 暖かい時期なら特別な飼育器具は必要ではないが、さすがに12月に餌をモリモリ食べさせようとすると、水槽にヒーターを設置して保温をしなければならない。結局、余分な手間もかかる。
 アメリカザリガニが食べ物を食べるシーンは、今までにも何度も撮影したことがあるが、今回は、
「はさみの使い方が良く分る写真を。」
 という注文がつき、そんな目で今まで撮影した分の写真を探して見ると、どれもこれもハサミの使い方がイマイチ分かり難い。そして、改めてカメラを向けてみると、なるほど、食べ物を隠す意味があるのだろうか?食べ物を食べるアメリカザリガニの口元は、大抵の場合、見難いようだ。
 しかたなく、棒でちょっとザリガニの向きを変えてみたり、口元を隠している大きなハサミを動かしてみたりと手を加えることになるが、当然ザリガニは怒ったり、また逃げてしまったりと、スマートではない泥臭い撮影になる。
 また、飼育水槽の中ではよく食べ物を食べるアメリカザリガニが撮影用の水槽に移したとたんに食が細くなり、数日、撮影用の水槽に慣らすための時間が必要になったりと、何となく億劫な撮影には、大抵そんな思いがけない試行錯誤が付きまとう。明らかに難しい撮影の場合はあらかじめ覚悟ができているが、その覚悟がない撮影に手間取ると自信を喪失したり、カッカしたりして、どうも落ち着かない。

 

 2005.12.2(金) 子供たちのために

 野鳥の標識調査(バンディング)について、僕は過去に何度かこの日記の中で書いたことがある。きっかけは、野鳥写真家・和田剛一さんの活動であり、
「野鳥の調査と称して、マニアのような人が、ほとんど何の意味もなく、無闇に野鳥を捕獲しているのではないか?」
 という投げかけだった。
 時を同じくして数人の方が立ち上がった。やはり同様の活動を始め、みなで情報を共有し、無意味と思える標識調査をやめさせるという共通のゴール地点に向かい、実名で堂々と歩んでおられる。
 そららの方々はお互いにチームとして組んでいるわけではないようだ。ゴール地点は同じでも、一人一人の立場や考え方には多少の違いが感じられる。
 僕も、その活動にある部分非常に強く共感させられるものがある。一方で、活動のすべてに賛同するわけでもない。
 たとえ、すべてに共感できなくても、最終的な目的地点を同じくするたくさんの人が活動に参加し、結果的に、無意味な標識調査がなくなればそれでいいのかな?とも思う。
 だが、なぜ標識調査に反対するのか、僕はその中味もやはり大切だと感じる。
 僕は、一方で、素直に参加すればいいのかな?と思いつつ、他方で、どこかためらいを感じ、したがって、今のところ、活動には参加をしていない。
 そこで今日は、僕が、それらの活動に共感しない部分についても書いてみようと思う。これは、標識調査に関する活動に限った話ではなく、自然を守る運動一般に僕が感じていることでもある。

「自然を大切にしよう!」
 と誰かが声をあげるときに、しばしば、子供たちのためにという理由が挙げられる。
 僕は、そうではなくて、
「私は自然が好きなのです。」
 と言ってもらいたい。
「子供たちのために!」
 というのは、どこか逃げているようにも思える。例えば、バスの中で自分の子供が騒いだ時に、
「ダメだよ。あのおじちゃんに怒られるよ。」
 と諭すのに近いものを感じる。この場合、怖いおじちゃんが借り出されているわけだが、子供の純粋さを借り出すのは、果たして正しいのだろうか?という疑問を感じるのだ。
 また、中には、
「いえいえ、私の子供は残酷な生き物の調査の現実を知り、悲しんでいますよ。子供を利用しているのではなく、悲しんでいる子供がいることも事実なのです。」
 と内心感じる方もおられるだろう。
 だが、児童のそうした感じ方は、しばしば親の影響を大きく受けているのであり、ある意味、親の分身だと言っても過言ではないだろう。分身に語らせるのは、何か違うような気がする。

「自然の干潟を埋め立てて土地を作ろう!」
 という人も、昔は子供だったはずだ。
「自然よりも、ゲームが好き」
 という子供も存在するし、存在してもいいのではないだろうか?
 また、子供の中には、全く悪意なくして、野鳥を網で捕獲し脚環を取り付けることに興味を感じる者も少なからずいると思う。
 子供と言っても、いろいろなタイプが存在するのでは?と、僕はいつもそこに疑問を持つのだ。子供は!と抽象的な誰かに語らせるのではなく、私は!と言って欲しいのである。

 小さな子供は、一方で非常に感覚的に物を見抜くのに対して、一方で非常に教育されやすいように思う。大人の思惑や思想があまりに多く含まれている教育に対しては、早すぎるのではないか?と、僕は抵抗を感じる。
 子供は、まず自然を楽しみ、その結果、その中から、
「生き物を大切にしたいよ!」
 という声が自然とあがってくるべきではないか?と僕は思う。
 これは、ここ数年の僕が、児童書の世界で多く仕事をしているから感じる疑問なのかもしれない。
「子供の純粋さを、はかり間違えても利用してはならない!」
 と、僕は日頃児童書の世界で自然写真の仕事をする際に、そう肝に銘じるのである。
「命を大切にしなさい!」
 という教育が、躾としてあることに対しては僕は全く抵抗はないが、自然を守る活動の一翼を担わせることには抵抗があるのだ。

 

 2005.12.1(木) 物忘れ

 昨日、逃げられてしまったアメリカザリガニは、見つけ出し、水の中に戻すと、元気を取り戻し、特に弱った様子はない。明日は、撮影を再開できるだろうと思う。
 水槽に蓋はしておいたが、そこに隙間があることは分っていた。あとで、隙間を埋めなければ・・・と思いつつ、それを忘れて帰宅してしまった結果だった。
 水槽の蓋の件だけでなく、物忘れの激しい一日だった。まず自宅に免許書入りの財布を忘れて、事務所へと出かけた。昨日の僕は免許不携帯に、一文なしだった。
 だがその事実に気付いたのは、夜になり、自宅に帰り着いてからである。本当なら、昼間に買い物を予定していたので、その時に、財布がない!と気付くはずだったが、その買い物に行くことも見事に忘れていた。

 僕の知人に、
「私は病気です。」
 と主張する方がおられる。注意欠乏多動性障害という病気であり、例えば、物忘れがひどいのだそうだ。だが、知人の話を聞くと、それって本当に病気なの?僕も全く同じだけどなぁと、その症状が自分にもよく当てはまる。
 それはいったい何を意味するのか?
 答えは2つあり、実は僕もその病気であるか、知人は本当は病気ではなく、人の一般的な物忘れ等を、拡大解釈して病気だと主張しているかだ。
 他にも症状を書くと、学童に多い症状であり、
・落ち着きがなく、すぐに教室の席を離れてしまう。
・考えなしで行動する。
・カッとなりやすく、反省の心が薄い。

・おしゃべりで人の話を聞かない。
・忘れ物が多い。
・興味のあるものには、すぐ触ったり、手に取らずには居られない。
 ようするに、学校の教室でソワソワして、いつも先生に怒られている生徒の典型的な振る舞いがそれにあたるようだ。
 そして僕も小学生の頃は、そうした程度のひどい問題児として扱われていた。上記はほんの一例であり、他にも病気かどうかを判断するチェックポイントがあるが、それらが僕にもそれが当てはまること、当てはまること!
 この時代に僕が子供だったなら、問題児ではなくて、病気の子供と認識されたのかもしれない。
注意欠乏多動性障害の子供に対しては、叱ってはならないと言われているので、もしかしたら僕は、怒られるどころか、
「いいぞ!いいぞ!」
 と褒められ、認められて育てられたかもしれないのだ。
「私は病気だ。」と自分で主張するその知人に、僕は、自分と共通のものを感じない。多分、子供の頃の僕は、先生方から見ると徹底したマイペースで、どこを見ているのかが分らなかっただろうと思う。また今、僕の身の回りには、僕に子供の頃の自分を彷彿させる若者が存在するが、知人とは何か違うのだ。
 その知人は、いつもまっすぐに相手を見ていて、視線が非常にまともなのだ。

 さて、僕の周囲の写真好きには、僕と似たタイプが多い。写真ファンの中には、
「俺もこれに当てはまるぞ!」
 と感じる人が少なくはないのではなかろうか?
 でなければ、例えば考えて冷静に行動しようと思えば、将来の計算ができないプロの写真家にはよほどの才能の持ち主でなければなれないだろうし、興味のあるものには、すぐ触れ、手に取らずには居られない性格でなければ、写真になんて熱中してはいられないように思う。
 それらの人は、みな病気なのだろうか?
 女児を誘拐して殺害するなどという振る舞いは、どう考えても異常であり、精神の病なのかもしれないが、あまりに狭く普通の範囲を定義し、それから外れた人は、何もかも病気にしてしまう最近の傾向に、僕は一抹の怖さを感じる。
 ある子供が、病気だと診断され、怒られずに済むことと、どちらがいい社会なのだろうか?どちらにしても、原理主義になってしまうことには、僕は不安を感じる。
 
  
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年12月分


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