撮影日記 2005年11月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 
  

 2005.11.30(水) 脱走

「さあ、撮影しよう!」
 と、昨晩スタジオの照明の下に設置しておいた水槽を覗き込んでみると、肝心のアメリカザリガニの姿がない。ちょっと油断をしたばかりに脱走されてしまったようだ。
 気温が低い今の時期であれば、一晩くらいなら生きていることが多い。急いで探せば、撮影用のモデルとして見事なプロポーションを持ち合わせた特大のアメリカザリガニを死なせずに済む。
 そこで机や椅子や家具の隙間をざっと探してみたが、見当たらない。
 これは、半端な探し方をしてもむしろ時間の無駄になると判断し、数日後に予定していた大掃除を今日に繰り上げ、掃除機をかけつつ、雑巾で隅々までもを磨きながらアメリカザリガニを探すことにした。
 家の事務所には部屋が6つと、およそ1部屋分の広さのスタジオと、トイレと風呂と洗濯場と炊事場とがある。
 6つの部屋のうちの3つは2階にあるが、痛みがひどく、とても人が住める状態ではないので空箱置き場になっている。1階と使っていない2階の間には風が吹き抜けないように扉があり、どんなにザリガニが頑張っても、2階へ上ることはできない。
 一階の3つの部屋は、昨日は、すべて入り口のドアを閉めて帰った。トイレと風呂の入り口も閉めておいた。
 残るは、スタジオと洗濯場と、あとは廊下になるが、狭い場所に物を詰め込んでいるので、それらを一度取り除き、掃除をするのはなかなか骨が折れる。
 結局半日がかりで掃除をし、最後に、一番奥にある洗濯場のさらにその奥で、アメリカザリガニの姿を発見することができた。やれやれ。
 アメリカザリガニの本には、実に器用に脱走をすることと、脱走を防止するための策を記載しなければならないだろう。

 

 2005.11.29(火) 横着と工夫

 横着と工夫の違いは、時に紙一重である。
 工夫をしているつもりが、いつの間にか、ただの怠慢に終わっていたり、逆に、地道に仕事をしているつもりが、実は工夫をすることから逃げているケースは稀ではないように思う。
 今日は、これが工夫に繋がればいいと思うのだが、先日購入したビデオカメラをパソコンへと接続してみた。
 今日の画像は、左側に僕の事務用のパソコンが写っている。右は画像処理用のパソコンであり、ちょうど今、その画面に映し出されているのは、数メートル離れたスタジオに置いてあるザリガニ用の水槽だ。
 ザリガニは、ちょうどこの時分、水槽の右側に隠れ家として入れてあるレンガの下に隠れている。そして夕刻になると姿を現し、水槽の中央付近で体のクリーニングを始める。
 そうした日々の行動を、パソコンで仕事をしながら横目で細かに観察し、面白い行動が見られるときには、すかさず写真に撮ろうと思う。
 これは一見ただの横着に思えるかもしれないが、事務的な仕事に追われる日でも、チラチラ、チラチラ、四六時中観察できるのだから、横着を通り越し、非常に細かく生き物の様子を知ることができる、いい方法ではないか?と、そんな気がしている。

 

 2005.11.28(月) 色見本

 この冬、ひと月くらい、北日本へ野鳥の撮影に出かけてみようか?
 と、以前に一度書いた。
 そのためには、スタジオでの小動物の撮影や、事務的な仕事や生き物の世話など、幾つかクリアーしなければならない問題があり、出かける前後には、それらがまとめて負担として押し寄せ、日頃のペースは乱れ、体力的にも精神的にもきつい日々が待っていることは明らかである。
 がしかしペースを守ることに終始していると、現状維持はできても前進はし難い。むしろ、現状維持のためにジワリジワリとエネルギーを消費し、気付いた時には、情熱が枯渇し、そこから這い上がれなくなってしまうことが恐ろしい。
 できれば平穏に暮らしたいとも思うが、人はしばしば、何か負担がかかり追い込まれた時に新しいことができるようになるのであり、混乱もまた必要なのだと感じる。
 僕は、社会があまりに
「癒し!癒し!」
 と言うことに違和感を感じる。それによって、自分に負担がかかった状態を悪い状態だと思い込み、それだけパニックになる人が少なくないように感じる。負担が掛かった時にヒステリーを起こすのではなく、むしろ自分が前進しているのだからと、安心すればいいと思うのである。

 さて、現状維持をするのであれば、日々の生活の中で特に工夫は必要ない。が、そこからはみ出ようとすると、何か新しい工夫が必要になる。今日は、スタジオ撮影をより効率化するために、新しい道具を一つ持ち込んでみた。
 上の画像の色見本がその新しい道具で、これを被写体と一緒に写真に撮影し、その色見本を見ながら、まず色見本がパソコン上で忠実な色に再現されるように調整し、その調整の際の処理をパソコンに記憶させておく。
 今度は、色見本を含まない被写体のみを撮影し、あらかじめパソコンに記憶させた色を忠実にするための処理を実行すれば、機械任せで、一瞬にして正しい色の写真に仕上がる。
 教科書を読みつつ初めて試してみたが、実に正確で効率的でよろしい。
 
 実行前
 実行後

【詳細】
 まず、色見本の最下段のグレーを使用して、グレーバランスを取る。グレーは濃度が異なるものが色見本の中に4種類あるが、4種類のグレーすべてでRGBの数値が同じになるように調整する。
 次に、色見本の下から2段目を見る。2段目は、左から、B、G、R、Y、M、Cの順に並んでいるが、パソコンの中の色見本と現物とを見比べ、一致しない色に関しては、フォトショップで色相を操作し、色を一致させる。
 今日の画像はキヤノンの5Dで撮影したが、5Dの場合は、グレーバランスが取れていても、シアンの色が現物とはかなり異なることに驚かされた。シアンに関しては、モニターの色の再現性の問題もあるのかもしれないが、どんなに色を操作しても、やや違和感が残った。
 シアンの次には、ブルーの再現性が悪かった。
 ただ、全体としては、色見本を使うことによって、実に見事に、色が忠実に再現される。
 ただしこれは、キャリブレートされた、一定以上の性能を持ったモニターでのみ通用する方法である。

 

 2005.11.27(日) 比較

 10月末から11月中旬にかけて撮影したフィルムを先日現像に送っておいたが、今日は、ようやくそれらに落ち着いて目を通す時間が取れた。
 現像済みのフィルムを受け取った日に、すでにざっと目は通してあるので、今日は、同時にデジタルカメラで撮影した画像と見比べる、フィルムとデジタルとの比較である。
 結果を一言でいれば、画質に関しては、改めてフィルムの凄さを感じる。主に超望遠レンズで撮影した野鳥の写真を比べたが、色の深み、立体感、質感に関しては、まだまだデジタルの及ぶところではない。
 フィルムとの比較に関しては、写真家によって意見が異なり、戸惑っておられる方も少なくないだろう。恐らく、戸惑いつつも、デジタルの便利さを知ってしまった今、結局フィルムは使わなく、いや使えなく?なったという人が、多いように感じる。
 写真家によって感じ方が違う理由は幾つかあると思うが、その中の一部をちょっと書いてみようと思う。
 まず、使用するフィルムの種類がある。僕は、フィルムで撮影する場合、ほとんどフジのRVP(2/3増感)だけを使用する。粒状性の良さと、雨の日の発色の良さがRVPを使う理由である。
 したがって、僕がフィルムとデジタルを比較する時は、フィルムと言っても現存する最高画質のRVPと比べていることになる。これが、RVPよりも粒状性の悪いフィルムを使用していた人の評価は、また違ってくるに違いない。

【訂正】
 さて、25日の日記の中に、
「リコーのカメラは初めて手にするが、その魅力は、小さな生き物を撮影する人にはすでに十分に知られており、某掲示板などは、まるでリコーの回し者の集会のような賑わいであるから、・・・・」
と書いたら、『リコーの回し者』という言葉が誤解を招く表現ではないか?と指摘を受けました。
 リコーのカメラを高く評価する写真家は非常に多く、その半端ではないほれ込み具合は、まるでリコーの社員が自社の思い入れのある製品を賞賛しているかのようなレベルであるという意味で使った言葉ですが、実際には回し者ではありませんので、訂正します。

 

 2005.11.26(土) 本当の自分

 水中に棲む生き物の性質を事細かに写し撮るために、僕はしばしば水槽撮影と呼ばれる手法を用いる。水槽の中に自然を再現する一種のスタジオ撮影である。
 今日の画像は、その準備の段階で照明器具の明るさを調整するために一枚シャッターを押した際のものだ。 
 もしも僕にとって写真が仕事ではないのなら、恐らくほぼ100%、水槽内の生き物にカメラを向けることはないと、以前に何度か書いたことがあるが、スタジオ撮影は、生き物の写真撮影を仕事として成立させるために取り組んでいるのであり、僕の心の中には、できれば野外で写真を撮りたいと思う気持ちがある。

 ならば、野外で写真を撮りたい僕が、本音で正直な本当の自分で、スタジオ撮影に取り組む僕は、生活のために仕方なしに自分を抑え込んだ、偽者の自分なのだろうか?
 最近の若者にはそう考える人が多いように感じるが、僕はそうは思わない。
 もしもどうしてもスタジオ撮影がイヤなら、それをやらなければいいだけの話だ。一見、生活のために仕方なくスタジオ撮影に取り組んでいるように、自分でも時に思えてしまうのだが、実は、スタジオ撮影を選ぶのも選ばないのも僕に選択権があり、僕は自分の意志でそれを選んでいるに過ぎない。
 不満を感じていることでも、よく考えれば、実はそれを自分の意志で選んでいるケースが、日常生活の中には意外に多いように思う。
 (EOS5D・90マクロ)
 
 

 2005.11.25(金) 新しいカメラ

 新しいカメラ、リコーのカプリオGXが到着した。新しいは『新製品』ではなく、新たに買い足したという意味だ。
 物は中古なので、2万円台で購入できる。
 リコーのカメラは初めて手にするが、その魅力は、小さな生き物を撮影する人にはすでに十分に知られており、某掲示板などは、まるでリコーの回し者の集会のような賑わいであるから、ここではわざわざ触れずにおこうと思う。
 僕の撮り方や、日頃撮影している被写体を想定した場合、例えば、野外でカタツムリの図鑑的な写真を撮影する時には、一眼レフタイプのデジタルカメラよりもこのカメラの方が有利である可能性もある。

 本当を言うと、同じリコーのキャプリオR3やGRデジタルが欲しかった。
 だが、思ったよりも高かったことと、元々僕は、他の多くの虫や小動物の写真家よりも画質重視であり、コンパクトタイプのデジタルカメラにはあまり興味がない。だから買っても気に入らない可能性もあり、古い機種の中古で辛抱することにした。
 僕のカバンのポケットには、キヤノンのパワーショットG2というコンパクトデジタルカメラが収められていたが、これでG2は引退することになる。

 

 2005.11.24(木) ブログ

 ブログの登場で、最近は、今までなら知り得なかった、個人が発するメッセージを見聞きすることが可能になった。ブログとは、インターネット上の日記のようなものだ。匿名が多い点が特徴だと思う。
 匿名になると、それはどんな結果になるのだろうか?
 当然、名前を明かしては語れないことが多く語られる。
 果たしてそれはいいことなのか?悪いことなのか?
 もちろんケース バイ ケースであり、いい面もあれば、悪い面もある。だが僕は、匿名のブログにのめり込む多くの人が考えているよりも、マイナス面がはるかに大きいように感じる。
 人の本音は、しばしば見苦しい。その見苦しい面を正直に吐き出し、そこに賛同者が賞賛の書き込みをすれば、その場は救われたような気がすると思われる。
 だが、ブログは所詮ネット上のバーチャルな世界だ。そこで物事を解決しても、実社会では何も解決したことにはならない。例えるなら、それはアルコール中毒の人にとってのお酒のようなものではないか?と思う。

 例えば、ブログには、さまざまな機能がある。ブログの主催者が選んだ人しか見ることができない隠しページを設定できる。そこで、さらに仲間内にしか書けないことを書き、中には、個人的に受け取ったメールをそこで晒し、みんなに意見を求めているような人までも存在する。
 それを、時には僕が見せてもらっておきながら書くのもなんだが、本人は、その結果、色々な人の意見や本音が聞けると思っている点が恐ろしい。
 がしかし、所詮匿名のバーチャルな世界であるから、自分がページの閲覧を許可したその相手が誰なのかは実は分らないし、その中にスパイが紛れ込み、第三者を装っているのかもしれない。
「このメールの内容はおかしいよ。あなたの方が正しいよ。」
 と応援メッセージを送っているまさにその人が、本当はそのメールを書いた本人である可能性もある。
 人の意見は、それを発する人が責任を持ってこそ意味があるような気がする。
 仮にブログ上のやり取りで、信頼でき、気が合う人が存在したとする。その人と、もしも実際に付き合ってみたならば・・・
 バーチャルな世界で仮に気が合っても、実態のある世界でどうなるかは全く分らないし、神のみぞ知るところだ。バーチャルな世界は、所詮、バーチャルなのだと思う。
 匿名でどんなに激しく僕を支持し、癒してくれる意見よりも、実態がある知人が、僕を批判する意見の方が、僕にとっては何倍も価値がある。

 悩みを相談したら、答えてくれるソフトがあったとする。それに悩みを相談して、果たして人は救われるのだろうか?
 僕は、虚し過ぎると思う。
「当たり前でしょう。だって、それは機械だもん。」
 と大抵の人は考える。
 だが、ソフトに何をしゃべらせるかを決めるのは人間なのだから、本当は、ソフトが声を中継するだけで、実は人の意見が返ってきていることになる。
 だが、それでも虚しい。
「ソフトは、パターンに当てはめて答えを導き出すから、虚しいのよ。」
 と言う人もおられるだろう。
 確かに、人の悩みはパターンには当てはめることでは解決しにくい。だが、たまには当たるだろうし、その結果、ソフトから誰かの心に響く答えが返ってきたとする。
 でも、僕はやっぱり虚しい。
 自分に賛同してくれようが、賛同してくれまいが、顔形や声のわかる実態を持った生身の人間と、僕は付き合いたい。
 匿名のブログの中でのやり取りは、僕には、ほとんどソフトに悩みを相談するのに近いように感じられる。そして、匿名の半端に生身の人間を相手にしているだけに、その虚しさに気付きにくいことが恐ろしい。バーチャルであることに気付けない犠牲者が、これからたくさん出現するような気がする。
 
 さて、昨日、本来は不得手な撮影が楽しかったことを書いた。
 日々の生活は、楽しいこともあれば、そうでないこともある。が、それはそこに実態がある証拠である。僕は、もがくのであれば、実態のあるところでもがきたい。それこそが、前に進むために何よりも大切なのだと僕は信じる。
 
 

 2005.11.23(水) 不得手

「こんな写真を撮ってください。」
 と、ファックスで絵柄が送られてきたり、メールに類似の作品が添付されてきたりした時に、その中に苦手なジャンルの撮影が含まれていることがある。
 僕の場合は、例えばカエルのジャンプの瞬間をスタジオに撮影セットを作って写し止める俗に瞬間写真と呼ばれている撮影や、子供の撮影などがそれに相当する。
 もしも本のページにして30ページ分写真を撮影するのであれば、大抵1〜2枚は、そんな写真が含まれている。
 恥ずかしい話ではあるが、そのシーンのさらに細かい内容によっては、そうした撮影が後に待っていると思っただけでひと月前くらいから毎日が憂鬱になり、一週間前になると、他の仕事もほとんど手がつかなくなることがある。
 いや、今までの訓練の成果で手についているのかもしれないけど、手についているという実感が無くなる。

「どうしても気が乗らないシーンがあれば、そこだけ他の人に依頼して撮ってもらうようなやり方でも構いませんよ。」
 と、気を遣い、声をかけてくださる担当者もおられ、その一言で、ずっと気持ちが楽になる。
 が、僕はほぼ100%、他の人にお願いすることなく自分で撮影してきた。
 好き嫌いは必ずあるのだから、
「これが好き、これが嫌い」
 と自分の好みを人に伝えてみることはあるが、不満は言わないと決めている。
 昨日(23日)は、そんな不得手な撮影の予定があらかじめ組まれていた。そしていつもの通り、その日が近づくに連れて、食欲が落ち、憂鬱に取り付かれた。
 が、しかし、昨日は一日が終わってみたら、結局いつもよりも楽しい時間になった。不得手な撮影を100回こなし、その中に一度でもそんな意外な日があったらいいと、僕は、どんな撮影でも引き受けることにしているのだが、その番が巡ってきたようだ。
 僕は、その一度の持つ意味は、計り知れないように感じている。
 
 

 2005.11.22(火) ダイナミックなシーン

 昨日から今日にかけて、アメリカザリガニの、動きのある、ダイナミックなシーンの撮影をあらかじめ予定していた。激しく動く被写体の撮影は、言うまでもなく難しい。
 いつもなら、スタジオ撮影の時は、まず撮影をして、画像をパソコンへと取り込み、ちょっと間を取るためにメールの返信を書いたり、何となくインターネットに接続してみたり・・・という日が多いが、昨日、今日は、久しぶりに、丸々一日シャッターを押し続けた。
 昨日は、試行錯誤。今日は、ようやく午後になり、こうすれば撮れそうだ!と目処が立ち、夕刻近くに数枚の写真が撮れた。難しい撮影であるから、当面、仰せつかっている仕事用に、欲張らず、一枚写真が撮れればいいと思っていたが、数枚バリエーションを撮影できた。
 夕刻までパソコンに手を触れなかったような日は、スタジオ撮影では本当に久方ぶりである。

 それくらい難しい撮影が1〜2日でできてしまうのは、デジタルカメラのお陰だ。フィルムなら4日は要したと思う。
 多くの撮影は、一度コツさえ掴めば、フィルムでも、デジタルカメラでも大差なく撮影できるが、初めてのシーンの撮影の場合は、すぐに画像を見て、問題点を習性可能なデジタルは実にありがたい。

 ただ、フィルムを使用していた頃は、撮影中に無闇にパソコンに触れる時間はほとんど無かったように記憶している。それがデジタルカメラになり、パソコンが不可欠になったことに付随して、パソコンで画像を確認したついでに何となくパソコンに向かう時間が増えたことも、また確かである。
 便利になった分、どこか集中しない撮影になっているのかもしれないと気付かされた今回の撮影でもあった。

 

 2005.11.21(月) 一応

 やっぱり、と言ってはならないのだろうが、今日は、一応一通りの仕事をこなしたに過ぎない一日に終わった。今日からまたしばらくスタジオでの撮影に取り組むが、いきなりエンジン全開とはいかないのは、今日に限ったことではない。
 ただ、以前と違うのは、自分はそんなものだと分っている点だ。調子が上がらなくても、続けてさえいれば、僕の場合はやがて乗ってくるのだ。
 以前は、そんな時しばしばパニックになり、自己嫌悪にもなった。自分の習性が、多少は分ってきた。

 

 2005.11.20(日) 
二度と笑顔にはなれそうもない

 10月末から11月上旬にかけて紅葉を撮影したフィルムを、一昨日、現像所に送った。
 明日からは、一旦中止していたアメリカザリガニのスタジオ撮影を再開することになっているが、仕事の内容がガラリと変わる時は、まあ、なんと腰が重たいのだろう。

 野外での撮影からスタジオ撮影へと切り替わる時は、特に意味もなくダラダラとパソコンの前に座る時間が長くなる。これは学生時代の試験前に、やたらに部屋の掃除がしたくなる現象と同じようなものだろうと思う。今は、インターネットなどという、なんとなく時間を潰すのには最適のアイテムが身近にあるので、そこに走ってしまうのだろう。
 逆に、スタジオから野外へと切り替わる時は、車を運転して出かけてた初日はそうでもないが、特に2日目が辛い。
「これでもか?」
 というくらいにやたらに体はだるく、昏昏と眠ることが多い。
 僕は、朝早い時間帯に撮影することが多いが、必死の早起きで早朝に撮影をしてから昼まで眠り、昼食を食べると今度は、
「取材をやめて帰ろうかな・・・」
 などという気持ちに取り付かれ、写真を撮影することはもちろんのこと、
「生きていることって、ただきついなぁ」
 と感じつつ、車の中でゴロゴロして過ごす。
「これはいかん!」
 とひたすら耐えていると、中島みゆきさん作曲の『時代』が、加藤登紀子さんの声で
   そんな時代もあったねと
   いつか話せる日が来るわ
   あんな時代もあったねと
   きっと笑って話せるわ

 と、何度も何度も心の中で繰り返し、いつの間にか気付けば深い眠りに落ち、今度は夕方まで眠ると、夕食を食べ温泉に入り、またいつも通りに眠るのだ。
 がしかし、翌朝からは全くの別人になる。
 自然の中を歩くことが楽しくて楽しくて、抑えられなくなる。無理して早起きしなくても勝手に目が覚める。今度は、

   もう二度と笑顔にはなれそうもないけど

 ではなくて、

   
もう二度とスタジオ撮影にはもどれそうもない
 なのだ。
 恐らく野外での撮影の2日目に、体にたまった疲れを吐き出しているのだと思うが、あの疲れは一体なんの疲れなのだろうか?
 スタジオ撮影なのか?それとも、高度にIT化された社会の疲れなのだろうか?

 

 2005.11.19(土) 画質

 プロの写真家の中には、さまざまなメーカーのカメラを使い分ける人もいれば、これ!と決めたメーカーの製品しか使わない人もいる。
 自然写真業界では昆虫写真家の海野和男先生が前者の代表格だろうが、その海野先生に、
「しかし武田君もいろいろなカメラを使ってるよなぁ」
 と、この7月だったか、上京した際に笑われてしまったのだから、僕もその類に属するのだろう。気付けば、ひっかえとっかえ、各社のデジタルカメラを使用している。
 しかし、その熱がどうもおさまりそうな気がしてきた。デジタルカメラは、総合的な画質に関しては、まだフィルムには及ばないなぁと、納得したと言ったらいいのだろうか、或いは、諦めたと言った方がいいのだろうか。
 新しい物を試すよりも、どうしても高画質な写真を撮りたい時は、フィルムを使おう。
 もちろん全く興味を失ったわけではなく、例えば、近々発売されるニコンのD200にはそれなりに興味はある。だが、買うぞ!というところまでは行き着かなくなった。10月上旬に、キヤノンのイオス5Dという新製品のデジタルカメラを購入したが、
「デジカメは、これでいいや!」
 と、自分の中で落ち着いた。

 先日ハイビジョンのビデオカメラを買おうかと書いたが、僕は、どうしてもビデオがやってみたいという、抑えられないほどの衝動を今のところ持っていない。
 だが、ほとんど興味を感じないことでも、時々そうして身の回りにある物事を試し、自分の世界を広げるきっかけ作りをしてみることとは、自然写真業界などという不安定な世界で長い間生きていくためには大切なことだと思う。
 そこで、ちょうどデジタルカメラに対する物欲がおさまっている今、ビデオを試してみようと思い立った訳である。ビデオカメラは、明後日落手できる予定になっている。
 ビデオカメラの当面の使い道は先日書いたばかりだが、どうせ買うのなら、少しでも有効に使いたいではないか。写真だけでなく、ビデオでも仕事ができる一歩手前のところまでは、技術と知識を詰めておきたいものだ。

 さて、僕が求める写真の画質とは何か?
 今僕が主な仕事にしている児童書の場合、極端に高品位な印刷をするわけではない。したがってある程度以上写真の画質にこだわっても、印刷の方がそれに付いて来ることができず、児童書の場合は、大抵の場合デジタルカメラの画質で十分に事足りるだろう。
 そうした児童書の仕事とは別に、美術書的な写真集を作ってみたいという思いが、常に僕の頭の中にある。僕が求める画質とは、そうした美術書的な本に十分過ぎるくらい対応できる質を想定してのものである。

 

 2005.11.17(木) ハイビジョン

 僕の車にはカーナビが積んであるが、時々GPSからの電波が受信できなくなる異常がおきる。症状が全くでない日もあれば、頻繁な日もある。頻繁な日には、ナビが使い物にならないほどひどいこともある。
 ナビがあれば道に迷うことをほとんど考えずに済む。余計に頭を使う必要がないので撮影に集中できていい。現地に到着する時刻もおおまかに予想できる。
 だがナビに任せて車を走らせ、そして急にナビに異常が生じて使い物にならなくなると、地図を読みながら運転している時とは異なり、自分が今どこにいるのかがさっぱり分からなくなってしまうからたいそう困る。
 特に、山の中の辺鄙な道では。
 修理に出そうかと思うのだが、いつでもその異常が現れるわけではなく、以前に修理に送った際には、
「異常が確認できませんでした。」
 と、そのまま返却されてきた。いっそう壊れるのであれば、完全に壊れてくれたほうがありがたい。最近の複雑な電気製品は何でも同じだろうが、中途半端な故障が実にやっかいである。
 
 そこでビデオカメラでまず異常な状態の画面を撮影してみようと思いついた。そして、映像つきでナビを送れば、詳しい症状を伝えることができるし、メーカーも真剣に調べてくれるのではないだろうか?
 僕はビデオを持たないが、1つ手元にあれば他にも色々と使い回すことができそうだ。
 例えば、孵化直前のカタツムリの卵に向けてビデオを設定し、事務所に複数あるパソコンの1つに接続しておけば、隣のパソコンでパソコン仕事をしながら、卵の孵化のタイミングをうかがうことができるだろう。
 さらに携帯電話で高速回線が使用できるようにさえなれば、ビデオカメラをライブカメラのように使い、野外での取材中に、スタジオにおいてある生き物の様子を見ることも可能になる。
 カタツムリの卵の色の変化をライブカメラで見ながら、
「明日あたりに孵化しそうだな。」
 などと、最適な頃合を見計らって帰宅すればいい。

 さて、どんなビデオカメラを買おうか?当初の案は、中古で5万円以下のものをイメージしていたが、ビデオに詳しいトンボの写真家・西本晋也さんにたずねてみたら、
「いっそうのこと、ハイビジョンを買いませんか?」
 と勧められた。
「高いでしょう?」
「いえいえ、13万円くらいですよ。」
「え、そんな価格でハイビジョンが?」
「ほら、この、一緒にトンボの写真を撮りに行ったときに使ったビデオがそうですよ。」
「あの小さいヤツ?」
 ライブカメラとしての用途の他にも、車に積んでおけば、生き物の面白い生態を記録できるかもしれないし、それが仕事に結びつく可能性もあるだろう。何かと役に立ちそうなので、そのハイビジョンを買ってみようかな・・・と、ちょっとばかり心が揺らいでいる。

 

 2005.11.15(火) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

 2005.11.14(月) 再発

 どうも10月末からの体調不良が再発の方向へと向かいつつあるような気がして、今回は取材を切り上げ、急ぎ帰宅をすることにした。
 僕は体調が悪くても構わず撮影に出かけることが多く、むしろ、そんな時の方が気付けばより集中できているケースも稀ではない。僕にとって自然の中で過ごすことは何よりであり、気持ちの張りの問題だと思うが、安静にしているよりも、その方が早く体調も回復するように思う。
 だが、一度治りかかった不具合が再度悪化の方向へと向かうような時は、謙虚に気をつけなければならないだろう。
 ほぼ完治していると思っていたが、車の中が乾燥し過ぎるからかなぁ。またも喉が痛くなり、咳がひどくなりつつある。
 それから、風邪の具合だけでなく昨晩から腹具合も悪いが、こちらは原因は分かっていて、落花生の食べすぎだろう。僕は、トンコツラーメンか落花生を食べると、ほぼ100%腹が痛くなるのだが、いずれも大好物なので、実にせつない。
 昨日は、早々に取材を取り止めにして帰宅することを決めた。そこで、どうせ家の中で安静にしているのなら、この際、腹を壊してもいいではないか!日頃節制している好きなものを腹いっぱい食べようと、落花生を昼食代わりに一袋食べたのだった。

 

 2005.11.12(土) 九州

 九州は温暖であるせいか、比較的山奥にまで人が生活していて取材の際の食事や車の燃料などをほとんど心配する必要がない。
 その分、物足りない部分もあり、僕は最近山陰に出かけることの方が多くなっているが、今日は、久々に九州での取材となった。
 あらかじめ予定していた撮影があり、明日〜明後日くらいまでそれに費やす予定でいたが、意外にすんなりと片付き、自由に撮影できる時間が出来た。今日は、その帰り道に岩場の紅葉にカメラを向けてみた。
 (EOS5D・17〜40)

  

 2005.11.11(金) 不調

 実は先月末あたりにインフルエンザか性質の悪い風をひいてしまったようで、取材中に体調が悪くなった。
 まず喉に軽く違和感を覚え、山道を歩くと、体が異常を伝えようとしているのだろう、後頭部がガンガン痛くて、さらに歩き続けると強烈な吐き気が襲ってきた。
 翌日は喉が焼けるように痛くなった。腹具合も悪い。
 それがおさまると今度は咳が止まらなくなり、ようやく咳が治まると、体の倦怠感は感じなくなったものの、次は鼻水が絶えることなく流れ落ちた。
 たかが鼻水と思っていたら、山道を歩くと呼吸が辛くて困った。いつもの倍ほど疲れる感じがする。
 夜は、眠りに就く直前におさまったはずの咳がなぜかひどくなり、寝つけなくて参った。
 ちょうど今の時期は車内泊での取材が最も気持ちのいい時期である。また、もう涼しくなった山道を一日歩いたあとの食事は格別であり、温泉も気持ちがいい。
 その時間が台無しになってしまい、何だかひどく損をした気がする。
 昨晩あたりから、ようやくすんなりと寝付けるようになった。
 せめてもの救いは、予定していた取材をすべて順調にこなすことができたことくらいだろうか。
 参った参った。
 
 

 2005.11.10(木) 別格

 僕は、子供の頃に連れて行ってもらった渓流釣りをきっかけに、渓流の水辺を好きになった。僕を連れて行ってくれたのは父ではなく、武田家に仕事の関係で出入りしておられた釣り好きのTさんである。
 恐らく、今後の僕の人生の中でどんなに僕が写真家として評価され、持ち上げられたとしても、あの瞬間の幸せを越えることはできないような気がする。Tさんに連れられて歩いた渓流の水のキラメキ、ヤマメの瑞々しさ、また釣りに使用する疑似餌であるルアーの輝きから受け取った幸福感以上のものは、僕にとってあり得ないように思える。
 中でも熊本県の五家荘での釣りは格別で、五木の子守唄にうたわれた場所であったことから、Tさんはそこをいつきと呼んだ。
「おい、今度五木に行こうか!」
 と誘われると、僕は一月以上前から興奮で寝付きが悪くなった。これは、決して大げさを書いているのではない。
 渓流といえば樹木に覆われた細流を思い浮かべる人が多いが、五木は開けていて、川の上を覆うものは少ない。
 足元は岩よりも砂利が多く、広い河原の中を水がゴウゴウと流れ、川幅は渓流といっても広い場所では50M近くある。
 が、水質はまさに渓流そのものであり、クラッとしそうになるほど深い淵の底に泳ぐヤマメのを目でみることができた。
 ただ、健脚者でなければ危険が伴う厳しい場所であり、僕を五木に連れて行ってくださったTさんも年を取り、おそらく10年以上五木には出かけていないのではなかろうか。
 
 昨日の画像の滝の周辺には、その五木に迫るほどの素晴らしい渓谷が流れている。こちらは足場がよくて、安全に釣りを楽しむことができるだろう。
 今シーズン、僕はTさんをその場所へと案内したいと思っていたし、声も掛けておいた。ところが、山登りで張り切りすぎたTさんがひどく足腰を痛め、それもできなくなった。
 以前は、ただ連れて行ってもらうだけであったから、今度は僕が運転して、釣りだけを堪能してもらいたいと予定していたのだ。
 子供頃は、どこを釣ったらいいのかまでTさんに定めてもらったが、Tさんは、
「おい、ここで釣れんかったら君の腕が悪いぞ。」
 と、軽くプレッシャーをかけることも決して忘れなかった。
 しかるに僕も一度くらい、
「ここで釣れんかったら、それは腕の問題ですよ。」
 と、送り出してみたいのである。
 ともあれ、僕にとって渓流は別格なのだ。

 昨日は、滝の撮影を終えたあと一時間ほど車で走り、山を越えた反対側の渓谷へと向かった。
 目的は、ゴギという絶滅に瀕しているイワナの仲間の産卵行動の観察だ。
 そこに、ほとんど僕だけが知る小さな細流があり、もう15年以上前に何気に釣り針を投げ込んだら次々とゴギが掛かったことから、ゴギの集まる沢であることを知った。
 そして昨日は、初めて本格的な産卵行動を観察できた。
 来年の紅葉の時期は、ゴギの産卵を撮影してみようと思う。敏感な渓流魚を撮影するのだから、遠隔地操作で撮影することになるだろうが、夏の間に機材を準備したい。
 少なくとも一週間から十日くらいは時間がかかるだろうから、来年は、紅葉の風景の撮影はできそうもない。
 心配は、そこが頻繁に熊が出没する場所であることだ。
 
 

 2005.11.9(水) 習慣

 習慣とは恐ろしいもので、僕にとって風景の撮影は趣味であり、したがって感じるままにカメラを向けたいと望んでいても、つい、
「こう撮っておけば売れるかもしれないなぁ」
 などと、気付けば、好きな写真ではなくて売れそうな写真を撮ることが心の中の大半を支配してしまう。
 風景写真の場合は、写真がよく売れる定番の構図がしばしば存在し、いつの間にか、その定番に心が支配されてしまう。
 自由に振舞うためには自らを放っておけば良さそうなものだが、然に非ず。むしろ、
「今日は、売れそうな定番の構図の写真は絶対に撮らない!
 と、逆にあらかじめ決め事を作っておく必要さえ感じる。
 今日の画像の場所は有名な滝で、ポスター等で定番の構図があり、つい同じように構えてしまいたくなるが、今日は、また違ったアングルを探し、そしてシャッターを押してみた。
 さて、今シーズン中に見て回りたかったすべての場所で、どうも紅葉がピークを過ぎたようだ。
(EOS5D・17〜40)

 

 2005.11.8(火) あんたは可哀想

 僕の祖母は二人とも他界してもうこの世にはいない。
 母方の祖母とは元々あまり接する機会がなく、これといった思い出がない。父方の方は、インテリでなかなか癖の強い人で、一緒に住んでいたこともあり、良くも悪くもさまざまな思い出がある。
 僕の父はその祖母に、つまり自分の母親から
あんたは可哀想。」
 とよく言われていたようだ。そしてその可哀想の原因は僕の成績にあった。祖母にとって、孫である僕の学校での成績は到底納得できない程度であり、そんな子供を持ってしまった父を、祖母は、かわいそうと感じていたようだ。
 僕の父も割と成績偏重な面がある。武田家では、とにかく学問に打ち込むことが何よりも重視された。

 それに対する反発であろうか?あるいは生まれ持った僕の好みであろうか?僕は、あまりに学問学問と主張する人や、品行方正なものばかりを好む人が好きではない。
 学問は面白いし学問好きであってもいいが、同時に下世話でくだらない世間の風俗を馬鹿にしない、幅の広い本物の好奇心の持ち主が好きだ。
 高尚な物事を好む人はしばしばそうでないものを見下す傾向がある。
 例えば、クラッシック好きがアイドルの歌謡曲を馬鹿にしたり、読書好きが少年ジャンプをけなしてみたり、まじめなおばさまが少女たちのささやかなおしゃれをくだらんと見下し、嘆いてみせる。
 僕は、そうして極端に見下している人たちは、逃避しているのではないか?と感じる。
 周囲の人の輪に溶け込むことができず愉快に暮らせない人が、例えば学問の世界に逃げ込み、そこから、
「お前ら、一般市民はくだらんのぉ。」
 と人を見下すことで自己満足を得ているように感じられるのだ。本物の学問好きは、そんな人を小馬鹿にするような態度を取らないような気がするのである。
 いや、それこそ、高尚ではない人間の下世話な詮索なのだろうか?
「近頃の子供は本を読まない!」
 と嘆く大人がいるが、僕は、その言葉にも違和感を感じる。そこには本を読むことは立派なことであり、本を読まなければならないといったニュアンスが含まれているように感じられるが、僕は、本は読みたい人が読みたいから読むものではないか?と思う。
 本を好きな人が偉いわけではないと思うのである。
 
 さて、僕の思考はそのレベルであるから、僕が読んだ本と言えばひたすらに漫画だ。最も僕を夢中にさせたのは、多分、週刊少年ジャンプに掲載されていたサーキットの狼か、月刊ジャンプに掲載されていた白い戦士ヤマトあたりであろう。
 それから、作者別では白土三平さんの作品が好きだ。
 白土さんの作品には、しばしば物語の隅々に生き物の描写があり、イワナクマタカやオオカミなどが登場する。その生態は必ずしも正確ではないが、雰囲気の正確さは秀逸だと感じる。
 サルもよく現れるが、
「おや、誰かいるのかな?なんだ、サルか。」
 といった感じの描写が多い。 
 今日は水辺の歩道を歩いているとサルたちが休んでいるところに出くわしたのだが、その場の空気は、まさに白土さんの漫画に描かれているものと同じであり、思わずカメラを向けたくなった。
(EOS5D・17〜40)

 

 2005.11.7(月) カタツムリ

 目的の滝を目の前にしてイメージ通りの天候になるのを待っている最中に、カタツムリを探してみた。
 今日の画像のカタツムリは、多分、ダイセンニシキマイマイの子供ではないか?と思う。
 枯れて黒っぽくなったコケをひたむきに食べる様子を一時間ほど眺めていると、まさに僕が待ち望んだ気象条件なってくれた。
 風景写真の場合は、天候が非常に大きく写真の出来を左右する。かと言って、天気は思い通りになるものではないし、闇雲に待ってもくたびれもうけで終わることも少なくない。待ったからといって何の保証もない。
 そこで、待ち時間に生き物にカメラを向けると、これが実にいい。
 カタツムリの食事はいろいろと事情があって野外で撮影するよりもスタジオで撮ることが多いし、スタジオで撮影した写真の方が断然によく売れる。したがって野外でカタツムリの食事に長々とカメラを向けることは少ないが、どっち道待ち時間でる。日頃あまり時間を費やすことができないシーンに、存分に時間をかけて、楽しむことができる。
(EOS5D・90マクロ)

 

 2005.11.6(日) 雨の中

 先週から、ある地域の紅葉を見て回っている。天気や葉っぱの状態を見ながら、撮影のチャンスをうかがう。
 条件がそろわずに手持ち無沙汰の日は、野鳥や洞窟内の水路にカメラを向けた。
 そしてようやく葉っぱが本格的に色づき始め、今日の画像の場所は、あと数日で見頃を迎えるに違いない。

 今日は結構な量の雨が降ったが、僕は雨の中での撮影が楽しい。
 雨の中を撮影しながら数時間歩けば、すべてがずぶ濡れになる。やがて、カメラをバッグから取り出したら、湿度で即座にレンズが曇るようになり、一旦そうなると、どんなにカメラやレンズを拭いても、拭いた途端にまた新たに曇りが生じ、それ以上撮影を続けることが不可能になる。それが雨の日の撮影終了の合図だ。
 車に戻ると、機材を布で拭き、暖房をかけて一度完全に乾かす。
 多分、僕ほど雨の中で長く撮影する者は少ないだろうと思うが、撮影の際にびしょ濡れになった僕の機材を見たら、多くの人が、
「こんなに濡れて大丈夫?」
 と目を疑うのではないだろうか?
 僕自身、時には、
「すげ〜」
 と驚いてしまうほど、ひどくびしょ濡れの日がある。
 だが、僕の機材は過去に一度しか、濡れてトラブルを起こしたことはない。その一度は、僕の指先にかなり大きな水滴がついていて、シャッターを押した際にスッとその水滴がシャッターボタンの隙間から吸い込まれていった際のトラブルだった。
 その結果カメラが正常に動かなくなったが、翌日、再度カメラの電源を入れてみると、水滴は乾燥してしまったのだろう。カメラは完治していた。
 ただしこれは、ニコンやペンタックス645システムの話である。なかなか丈夫に作られているようだ。
 最近は、何度かキヤノンをびしょ濡れにしたが、まだトラブルはない。
(EOS5D・17〜40)

 

 2005.11.4(金) 研究

 女子高校生が母親に薬物を盛る事件がおきたが、事件を受け、数人の犯罪心理学者が少女の心理を分析し、そのインタビューがテレビで放映されるのを見た。
 僕は、その分析の内容よりも、学者の表情が何よりも気になった。
 学者先生が薄ら笑いを浮かべ、何だか実に嬉しそうに犯罪を犯した少女の心理を語るように、僕の目に映ったのである。
 もちろん科学者は裁判官ではないし物事の良し悪しを論じる立場ではない。第三者の客観的な目でなぜそんな現象がおきるのか、そのメカニズムを冷静に分析する立場にある。
 また僕自身科学出身であり、そのことは重々承知のつもりであるが、やはり何だか事件をただ楽しんでいるように見え、僕はそこに違和感を感じた。
 
 武田家では、僕の両親ともに学問や研究に理解がある。したがって、そんな中で育った僕は、今でも科学や研究や研究者に対して憧れの気持ちがある。
 そして僕は生物学へと進学し、大学〜大学院と「研究すること=努力すること」という構図の世界に身を置いたのだから、それに一切疑いを持ったことはなかった。
 だが、大学院を修了後、自然写真家として活動する過程で、
「科学者なんて大嫌い!」
 という人が、少なからず自然愛好家の中に存在することを知った。時には生き物を切り刻み、そして自分の好奇心を満たそうとする科学者は、人によっては、まるで鬼畜のように感じられるようである。
 また自然愛好家に限らず、科学者なんてゴクツブシだ!と感じている人が世間に決して少なくないことも知った。勉強なんてする暇があるなら、汗水たらして働きなさい!という人が少なくないことを。
 
 いつだったか、大学時代の実習の際に、北日本から西日本にお越しになった先生が、西日本にしか生息しないカエルの名前を間違えていたことを、この日記に書いたことがある。
 実習では、ツチガエルだと先生はおっしゃったのだが、それはヌマガエルだっただろうと僕が書いたら、大学時代の仲間で、現在でも研究者になりたいと挑戦を続けている知人が、
「それって非常にまずいよね。だって、あの先生は、色々なカエルの卵を材料にして・・・・・・・」
 と、その先生の研究の内容から考えて、いかにカエルの名前の間違えが重大なミスであるかを語り始めた。
 だが、ふと考えてみると、そのミスが一体世間にどの程度の影響を与えるのだろうか? 
 たしかに、その研究者個人にとっては重大なことであろうが、例えば日本人の人口比で、一体何人の人が直接的な迷惑を被るのだろうか?
  恐らく多く見積もってほんの数人だろうが、ずっと研究室の中で過ごしてきた知人には、どうもそれが理解できないようであった。
 もちろん、研究はたとえマニアックなジャンルであっても正確に越したことはないが、所詮、その程度のことという現実も一方にはあるのだと思う。
 僕は最近、研究者が嫌い!という人の気持ちが多少分かる気がする。
 もちろん、その一方で研究者に対する強い尊敬の念もある。ただ、研究によって闇雲に好奇心を満たすだけでなく、その前に、謙虚な一人の人間であった欲しいなぁと、研究を志す人たちに対して感じる。
 カメラマンも同じ。たかが自然写真、でも僕にとっては、されど自然写真なのだ。

 

 2005.11.3(木) ここは、アマゴ釣り場です

 最近、渓谷や滝にカメラを向けようとすると、限界を感じることが多い。
 どんなに頑張っても、人と同じ写真しか撮れないのではないか?と、思えてくる。
 例えば菊地渓谷の夏の朝は確かに絵になるが、毎日毎日たくさんのカメラマンがそこにいて、みんなで同じ風景にカメラを向ける。
 あまりに絵になるその場所で確かに傑作は撮れるのかもしれないが、隣にずらりと並んだカメラの列は、類型写真が山ほど存在することを意味する。
 いい場所であればあるほど、その傾向が顕著になり、いい風景を撮れば撮るほど、
「つまらんなぁ〜」
 と僕は感じる。

 もう一度ヤマメ釣りをしてみようかな?と、僕は近頃考える。小学生の頃に連れて行ってもらったヤマメ釣りをきっかけに僕は渓流に親しみ、今でも一番好きな場所として、渓谷にカメラを向ける。
 釣り師は、カメラなどという大げさな道具を抱える写真家と違い身軽であり、道無き沢をグングン、時には数キロ歩き通す。その結果、渓流釣り師しか見たことがない風景が渓谷には存在することになる。
 それをカメラに納めてみたいと、そんな気持ちがここ2〜3年高まりつつある。渓流釣りには禁猟があり、今年はもう遅いが、来年は・・・
 渓谷といえば、ある川のほとりを車で走ると、いつも同じ看板が目に飛び込んでくる。その看板には、
ここは、アマゴ釣り場です。」
 とある。釣り場と書かれると、まるで釣堀か、釣りをするために川が存在するかのような気になり、僕はその看板が好きではない。
 釣りがブームになり、何となくそんな風潮を感じることが多くなり、それに嫌気がさして釣りをやめてしまった僕だが、渓流のことを隅々まで知るのには釣りに敵うものはないのである。
 
「ここは、アマゴ釣り場です。」の看板もそうだが、他人には大して気にならないであろうことが、僕にとってはたいそうな違和感を感じることがある。
  例えば、神々しい雰囲気の水辺では、人がお賽銭としてしばしばお金を投げ入れるのだが、せっかくの景観が台無しになってしまうようで、僕は好きではない。今日の画像の場所は洞窟内の水溜りだが、写真に写さなかった手前にジャリジャリとお金が沈んでいる。
(EOS5D・17〜40)
 
 

 2005.11.2(水) 試すこと

 僕はスタジオでも生き物の写真を撮るが、自然写真家の中には、生き物の撮影をスタジオには決して持ち込まない人も少なくはない。
 もちろん野鳥をスタジオに持ち込むわけにはいかないが、それ以外にも ある一枚の写真を通して何を伝えようとするのか?それによって、スタジオを是とするのか、あるいは非とするのか、写真家の身の振り方も変わってくるだろう。
 それについては、またいつか書こうと思う。

 ただスタジオで写真を撮ると、間違いなく写真の技術は向上すると感じる。
 どう光が当たると、どんな写真になるのか?スタジオでは始終それを試すのであるから、写真の基本である光の使い方を憶える。
 またレンズの性能や、フィルムやデジタルカメラの発色など、スタジオは、仕事をすると同時に機材をテストしているようなところがあり、この点においては、野外でしか写真を撮らない人には理解できない部分を知り得る立場になる。
 それから、ただひたむきにシャッターを押すのではなく、試すことを憶える。
 一枚のカタツムリの写真を撮るのに、乾いている葉っぱにカタツムリをとめ、その上から霧を吹くのと、先に葉っぱに霧を吹き、そこにカタツムリをとまらせるのとでは写真は違ってくるし、日々、そんなことを思いつく限り試すのであるから、考える習慣がつくのは当然であろう。
 逆に、スタジオを経験することによって、試すことができない被写体にはカメラが向かなくなる嫌いがある。一瞬の出来事を、考えずに感性でズバッと撮るというのができ難くなる。
 
 さて、今日は、とある砂浜で野鳥にカメラを向けてみた。
 打ち寄せる波のタイミングによって、野鳥の背景は大きく変化する。同じように波が引いていても、打ち寄せてくる直前と、波が引いた直後とでは、全く写真が違ってくる。それをデジタルカメラで一通り試し、自分のイメージをかためた上で、今日は、フィルムを使ってみた。
今日の画像は波が引いた直後にシャッターを押したものだ。
 
(撮影機材の話)
 この夏、広角レンズを使用してアキアカネにカメラを向けた際に、フィルムとデジタルカメラとで撮り比べをしてみたら、予想以上にフィルムの結果が良かった。広角レンズを使用した場合の画質に関しては、明らかにフィルムが上と断言するしかないほどの違いであった。
 もちろん、写真は画質だけではない。
 その場で結果を見ることができるデジタルカメラは、動き回る生き物の撮影には絶対的に有利であり、本来、デジタルが上かフィルムが上かの勝負はそれも含めた上で語られるべきであるが、僕は、ただの画質にもこだわりたいと思う。
 今回の超望遠レンズを使用した野鳥は、果たしてどうだろうか?
 それとあと1つ。
 今日は、ニコンのF5を使用してみて、AFの性能が素晴らしいことに驚かされた。野鳥の撮影に関しては、最高の技術を駆使して作られた最新のデジタルカメラであるD2Xなど問題ではないほどの差がある。
 これでもしも、新製品のD200のAFの性能がいいなどということがあると・・・誰か、僕のD2XとD200を交換して!といった気持ちになりそうで怖い。 
(D2X・600)

 

 2005.11.1(火) そうではないもの

 僕は、自分が撮った写真の中では、プロになろうと決意をしたばかりの頃に撮影した野鳥の写真が好きだ。
 右も左も分からず我武者羅に取り組んだ思い入れもあるだろうが、それだけではないと思う。
 当時の僕は、何でもない身近な場所で、ヒバリやキジやホオジロや・・・ 珍しくもなんともないごく普通の鳥たちに、無心になってカメラを向けた。
 目標はただ1つ。
 鳥たちの生き生きとした姿を僕が見たままに写し取ることである。
 一般的に言う絵になる写真を撮ろうとは思わなかったし、誰かに認めてもらいたいなどと考えたこともない。ただただ自分が好きなイメージを追い求めたのだから、今でもその頃の写真が好きなのは、あるいは当然のことなのかもしれない。
 当時の写真が売れるか?売れないか?といえば、商品としてはあきらかに弱い。
 鳥だけを追かけていたので季節を象徴するような何かが画面の中に写り込んでないし、かといって図鑑に使用できるような説明力のある写真でもない。
 例えば、どんなにきれいなお姉さんでも、おばさんタレントが必要な場では活躍できないだろうし、どんなにカッコイイ俳優も、子役が必要な状況では何の役には立たないだろう。
 写真も同じで、ある一枚の写真を商品としてみるのであれば、それがどんな需要に適うのか、そのことを抜きにして写真業を成立させるのは難しい。当時の僕はそんなことを知る由もなく、したがって写真の使い道など考えもせず、使い道のない写真を量産していた。
 最近は、今から撮ろうとする写真を何に掲載したいのか、それをあらかじめ考えた上でシャッターを押すようになった。
 ただ一方で、それによって失われるものもあると感じる。
 
 さて、湿原といえば初夏〜夏がいい。が今日は、誰も訪れることのないこの時期の姿にもカメラを向けてみたくなった。
 世間が求める美しい自然のイメージや絵になる風景はそれはそれでいいが、そうではないものもやっぱり大切だと感じる。
 特に近頃はインターネットのお陰でかなりのところまで下調べをして出かけることができる。例えば紅葉の撮影であれば、ベストの日がいつなのかを知った上で出かけることができる。がしかし、いいところだけを効率よく摘み食いするのは、何だか愛情に欠けると感じるのである。 
(EOS5D・17〜40)

  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年11月分


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