撮影日記 2005年10月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2005.10.31(月) 自由演技と規定演技

 日頃、児童書向けの写真を撮る時には、僕は、仕事を依頼してくださった方が心の中に思い描いているイメージを何よりも大切にする。
 自分自身を、そのイメージを形にするための単なる一技術者か道具であると位置づける。
「俺の作風はこうだ!」
 などと、自分が出すぎるのは好きではないし、相手が主であり、自分が従であると考える。
 スケートや体操競技などのスポーツの世界には自由演技と規定演技とがあるが、児童書の世界で仕事をする際の僕は、規定演技を演じていると考えてもらえればいい。 
「そんなのツマラナイ!だって個性的ではないじゃない!」
 と言う人もいるが、優れたスポーツ選手を見ていると、自由演技が上手い人は規定演技も上手いものだ。たとえ規定の演技を演じたとしても、そこに力の差や個性がにじみ出るものである。
 だが、いったん児童書の世界を離れれば、今度は自由に写真を撮る。規定演技ではなく、自由演技を演じる。
 自由演技なのだから型にはまる必要はないし、例えば、風景にカメラを向けるのであれば、晴れた日の気持ちのいい景色よりも、雨の日や、霧の日が楽しい。天気予報を調べ、翌日が雨と予報されれば、その晩の寝床では何となく胸がときめき、楽しい気分になる。
 今日は、雨の予報を受けワクワクして目を覚ましたが、目的地に到着する10分ほど前に突然に雲が去り、雨が止み、青空が顔をのぞかせ、煙っていた山肌はあっという間にすっきりとクリアーになった。がっかりである。
 が、今になって思えば、雨〜晴れへと短時間で移り変わるその瞬間に最高のシャッターチャンスがあったはずだ。例えば、雨の日のガスで煙った山肌に薄っすらと光が差し込み、ガスが見事に立体的に見えるような瞬間が。
 今日の僕は、それをタッチの差で撮り逃してしまったのではないだろうか?

 

 2005.10.30(日) 温暖化

 先日、着替えをバックに詰め込み、撮影に出かける準備をしていたら、
「寒いのはすかんやろう。」
 と父に話しかけられた。
 が、僕は、ある意味、寒さや暑さを感じるために自然の中に出かけるのであり、寒いのは嫌いではない。
 そう父に何度も伝えたことがあるのだが、父にはどうしても理解できないようであり、繰り返し、
「寒いのはすかんやろう。」
 と言われることになる。
 父はよく、「他人と接する時に自分ならどうして欲しいかを考える」と言う。例えば、もしも父が車の設計者だったとするならば、自分ならどんな車に乗りたいのかを考え、そんな車を設計する。つまり、相手を自分に当てはめて考えるタイプであり、寒いのが嫌いな父に僕を当てはめれば、
「寒いのはすかんやろう。」
 という言葉が出てくるのだろう。
 僕は、父とは逆に考えることが多い。例えば仕事をする際には、「僕ならこんな写真が見たい!」ではなく、依頼者の話を聞き、そのイメージに合う写真ることを重視する。
 時には、
「お任せしますので、好きに撮ってください。」
 と言われることもあるし、そう言われれば喜んでそうさせてもらうのだが、僕は基本的には自分の好みが偏っていて極端だと思うし、そんな自分に人を当てはめることにはためらいを感じる。
 親子であるが、全く逆のタイプなのだ。

 僕は、この時期には、早くガ〜ンと冷え込んで欲しいと思う。一気に気温が下がり、見事な紅葉が見たいと望むのだが、ここ数年、年々紅葉の時期が遅くなっていくのを感じる。
 今日訪れた渓谷は、まだ青々とした葉っぱが主に見られた。もう十分に色づいていてもおかしくない場所なのだが・・・
 温暖化って、本当なんだなと実感させられる。

 

 2005.10.29(土) 堂々巡り

(撮影機材の話)
 ここのところニコンの新製品の噂が絶えなかったが、どうも今回の噂は本物のようだ。
 ニコンD200が近々発表されるはずだ。
 イメージセンサーはAPSサイズのおよそ1000万画素。 ニコンファンの僕としては、欲しくてウズウズしてしまうのだが・・・。

 僕は、APSサイズのイメージセンサーのカメラとしては、600万画素、800万画素、1200画素を使用している。その中で、画質面でどれが一番結果がいいか?と言えば、僕の場合は、実は600万画素だ。
 もちろん、画質はどのカメラが優れているのか一概に言うことはできない。例えば、もしも画像を大きく伸ばして印刷するのであれば、理屈の上では画素数が多いカメラが有利であり、おそらく1200万画素の画質が優れているだろう。
 が、そこまで大きく画像を引き伸ばして使用する機会は仕事の上ではそう多くはないし、極端に大きく伸ばさないのなら、逆に、設計に無理のない600万画素がいい。1200万画素は、やはり詰め込み過ぎだと感じる。
 具体的に言うと1200万画素の色や質感がノッペリするのに対して、600万画素にはゆとりがあるように感じる。また、撮影時の光線の条件が十分に良ければ大して気にはならないのだが、悪い日には、あるところを境にガクンと1200万画素のカメラの画質が悪くなる。粘りがないと感じる。
 すると、近々発表されるD200の1000万画素というのは、今僕が欲しい画質が得られるカメラではない可能性が高い。
 
 APSサイズのセンサーに600万画素を詰め込むのは、そのおよそ2倍の面積を持つフルサイズのセンサーにおよそ1200万画素を詰め込むのに相当するが、つい先月購入したキヤノンのイオス5Dは、フルサイズのセンサーで1200万画素だ。
 このカメラは、粘りがあり、しかも大伸ばしに耐える絵を吐き出すカメラであり、使えば使うほど、う〜ん凄い!と唸らされる。
 特にスタジオ撮影と、風景の撮影では、APSサイズのセンサーのカメラで撮影することが馬鹿らしくなるほどの差を感じる。
 がしかし、それでもD200欲しくなるのは、ニコンが好きというファン心理なのであろう。そしてまた5Dの絵を見て、やっぱりAPSのカメラを使うのは馬鹿らしいと納得し、堂々巡りに陥ってしまう。
 
 

 2005.10.28(金) 準備

 僕は非常に人付き合いが悪く、自分の方がどこかに出向くことは滅多にないが、先日、野鳥好き、写真好きの知人宅に遊びに行った。ちょっとした理由があり、ごく普通に写真や鳥が好きな人の話を聞いてみたくなり、数年ぶりにKさん宅を訪ねてみた。
 僕の身の回りには極端な生き物好きが多いが、自分も含めて、それに人生をかけ、生き物が最優先であり、おのずとその意見は偏りがちである。
 がしかし、ちょっと冷静になると、日本人の人口比で言えば、生き物が大切などと声高に主張するものはごく少数派であろう。例えば、衆議院選挙で候補者が野鳥の保護訴えたら、毛嫌いはされても、まず当選することはできないに違いない。
 それが、世間一般の認識であろうと思う。
 が、生き物好きの中にどっぷりと漬かってしまうと、自分の方が正常だと思い込んでしまいがちである。それが訳分からなくなった時に、ふと、人の話を聞いてみたくなるのである。

 僕はKさんの話しに耳を傾け、Kさんからは、写真の業界のことを色々と尋ねられた。
「武田さんが写真を撮る時は、誰かから何か依頼があってカメラを向けるのですか?」
「そうですね、今は全体の撮影の8割くらいが、そんな感じになると思います。」
「その場合は、どんな写真を撮るのか、細かい指示などあるのですか?」
「時には、ファックスで、具体的な絵が送られてくることもありますよ。」
「それは、本を作る時には本一冊分?」
「そうそう。でも実際はね、その絵の通りにはならないものですが、一応叩き台はあるんです。ちょうど今は、ザリガニの写真をそうして撮影していますよ。」
「なるほどね、好きなものばかり撮れるわけではないのですね。そう言えば、昔の武田さんは野鳥をよく撮っていたのに、最近はあまり撮っていませんよね。つい先日も、女房と野鳥の写真はやめたのかな?などと話したところですが、それは依頼される仕事の都合だったのですね!」
「本当は、仕事をあっという間に片付けて野鳥を見に行きたいのですけどね。なかなか、そうは上手くいきません。」
 そんな会話を交わしながら、ここ数年は、ひたすらに仕事をこなすことにエネルギーを費やしてきた自分の姿を思い浮かべていた。
 がしかし、今ある仕事をこなすだけでは写真家としては片手落ちであることは、重々承知である。がそれでも、生き物の撮影などというものは計画通りに進むものではないし、仕事を請け負えば、時間が幾らあっても足りないという側面がある。
 もちろん、経験を積むことで失敗による試行錯誤の時間を短縮し、より多く自分の時間を持てるようになりつつはあるが、それでも、劇的に時間ができる訳ではないし、すべての仕事を終えたら好きな場所に行こう!などと考えていたら、そうしてもがいている間にも、どんどん月日が流れていく。
 そこで今シーズンの秋は、よほどに仕事がはかどらない場合を除いて、時には、仕事をすべて忘れて好きな場所を歩こうと心に決めていた。
 今日は、出発の準備である。
 
 

 2005.10.27(木) 去っていく

 僕の知人に、
「みんな私の元から去っていく。」
 が口癖の人がいる。 世間一般的に言うと非常に不幸な生い立ちを背負った人で、僕も、その方から、そう言われたことがある。
「やっぱり私の元から去っていく。でも私は去るものは追わない。私は、いつでも人が私から去っていく覚悟はできている」
 と。
 がその前に、去っていくというが、僕は、そんなつもりはない。
 仕事上の付き合いや、結婚をしたり、恋人同士なら、「一緒に過ごしましょうね」と一種の契約をするわけであり、その状態から見て去っていくと言えるのかもしれないが、僕は、その方とそんな契約を結んだ過去はない。
 去っていくも何も、最初から別々の、完全に独立した人間どうしである。
 僕は、義理や人情や契約があるから、または義務で他人と接するのではなく、自由な心で人と接したいと思う。自分も話をしたいから話す。それだけは、筋を通したいと思う。
 その方が、ひねくれている訳ではない。
 辛い過去を背負っている生い立ちゆえに、仕方がない面がある。確かなものが欲しいと、知らず知らずの内に相手に契約を求めるのだろうと思う。その表れが、私の元から去っていくではないか?と思う。
「人が私の元から去っていく覚悟はできている。」
 という言葉とは裏腹に、本当は全く覚悟ができていないのであろうが、様々な経験の中から、本当はどうするのが自分にとって一番幸せなのかを知り、それを素直に受け止めることができた時に、背負ってきた過去を乗り越えていくことができるに違いないと僕は信じる。

 仕事の場合は契約なので話は別である。むしろ、仕事の上で生じる人間関係に、僕は自分の好き嫌いを持ち込まないように努力をする。
 また一種の契約である結婚の場合も、仕事に似た側面があるに違いないとおぼろげに推測する。「そうしたいからする」は、言い換えるなら自由であり、自由といえば響きはいいが、「したいことしかしない」という意味でもあり、義務が生じている場ではただの我がままなのであろう。
 が、本来義務ではない空間には、義務を持ち込みたくないのである。心が自由であることにこだわりたいのである。
 僕は、時に事務所に人を招きいれることがある。このホームページを見て興味を持ち、たまたま訪問可能な距離に住んでいたという人が多い。よほどに忙しくない限り、断ったことはない。
 みんな帰り際に、
「時間を作ってくださって、ありがとうございます。」
 と挨拶してくださる。それは礼儀としてごく自然だと思うが、本当のところを言うと、僕は、依頼され、仕方なく人を受け入れているわけではなく、僕自身も、面白そうだなと思いつつ受け入れているのだから、お礼を言われる立場にはない。僕も楽しいのであり、対等な立場なのである。

 

 2005.10.26(水) 写り込み

 昨日の画像は、パソコンで処理をしなければ、こんな感じになる。
 水槽の奥側のガラス面が鏡の役割を果たし、手前にあるもの(この場合は紐と消しゴムと水槽の縁)がそこに写ってしまうことになる。
 本来は人の目にもこう見ているのだから、この写真こそが自然な見え方のはずだが、感覚的には不自然に見えるだろう。
 自然といっても、色々な自然があり、人が手を加えないという意味の自然もあれば、感覚的に感じられる自然さもある。

 これは、背景が暗く、手前にあるものが明るい場合に顕著に見られる現象であり、写真家は写り込みという言葉を使う。
 したがって、白い衣服を着てガラスを撮影すると、その白い衣服が写り込みとして写真に写ることがある。ガラスを撮影する時の服は黒系がいい。
 時には、自分の顔が薄っすらと写ってしまうこともある。僕は、ガラスを撮影する時は、昔のシャネルズのように顔に黒い靴墨を塗るのである。ウソウソ。
 
 テレビで心霊写真が鑑定される時、しばしば、その心霊は暗いガラス面に写っているが、大抵は、写り込みであろう。
 また、カメラのレンズ部分は、何枚ものレンズで構成されている。
 そして、光の状況によっては、あるレンズに別のレンズが写り、それが、写真に撮ろうとしたシーンと重なって写ることがある。すると、写真の中に、レンズの形をしたモヤっとした明かりのような何かが写るが、そうした現象をゴーストという。
 先日、テレビで、演歌歌手のKさんが、
「UFOを撮影した!」
 と数枚の画像を見せたが、実に見事なゴーストが、ちょうどUFOの形になったものであった。

 眼鏡でも同じことがおきる。
 小学生の頃、黒板に向いて字を書いている先生から、
「武田君!コソコソしなさんな。」」
 と怒られたことがあるが、黒板は黒っぽいので、眼鏡のガラス面に教室の様子が写っていたのだろう。先生は、眼鏡を鏡のように使い、生徒たちを管理していたのだ。
 最近の眼鏡は、コーティングと呼ばれる処理がなされていて、それがおこりにくくなっている。
 
 

 2005.10.25(火) 加工

 今日の画像は、これから始まるある撮影のためのテストとして、シャッターを押した際のものである。
 これは、ガラス水槽の上から、四角に切り抜いた消しゴムを紐でぶら下げた状態だが、この画像をみて、
「これはおかしい!この画像は、何か加工が施してあるはずだ。」
 と一目で分かる人がいたら、その人の職業は、ほぼ間違いなくプロの写真家だろうと思う。
 しかもプロはプロでも、水槽を使用した撮影によほどに慣れているか、或いはガラス瓶や宝石や化粧品を撮影するなどの商品撮影のジャンルに通じている人に違いない。
 なぜ、加工を施すのか?というと、その方が、写真が自然に見えるからである。写真は、ありのままが、必ずしも自然ではない。写真は、結果なのである。

 がしかし、こうして写真を掲載してみて、一点だけ、加工を忘れている場所があることに気付いた。それがどこだか、お分かりだろうか?

 

 2005.10.24(月) 横着

 デジタルカメラの場合、フィルムとは異なり、画像をパソコンで多少修正することができる。
 例えば、スタジオで撮影した昆虫の背中に、室内でしか見かけないようなホコリがついていたとしても、その程度であれば、楽に消し去ることができる。
 僕の場合は水槽での撮影が比較的多い方だと思う。水槽の場合は、水の中を浮遊するゴミや、ガラス面に付着したゴミなどに悩まされるものだが、フィルム中心の撮影からデジタルへと移行し、その点が大変に楽になった。
 パソコンを使用して消し去ればいい。

 人は、楽になると横着になるものだが、便利な機械が登場すると、僕は、横着になり過ぎて、だいたい何度か失敗を経験する。
 今日は、
「よし、これで撮影終わり!」
 と、水槽を撮影した画像をパソコンで拡大してみて、あまりに水槽のガラス面に付着したゴミが多いことに愕然とさせられた。とても、パソコンでは処理しきれないほどの量であった。
 フィルム時代であれば、撮影の前に必ずガラスを丁寧に拭いた。
 その習慣が便利になり失われたわけであるが、やはり基本は今まで通りでなければならないようだ。パソコンはあくまでも、基本を守った上で、便利に使わなければならないのだと痛感させられた。
 そこで撮り直しをすることになるが、水槽の中の生き物の振る舞いがなかなか思い通りにならず、結局、明日再度撮影をやり直すことになった。

 

 2005.10.23(日) 水槽撮影

 ザリガニや魚を水槽を使って撮影する場合、写真家は、水槽の中が自然な感じに見えるように、砂利や水草や岩などをレイアウトする。
 どの程度までそれに凝るかは、人によって異なる。
 本物の川の中で撮影した写真と区別がつかないくらいリアルに作り上げる人もいれば、水槽だねと、見え見えの写真を撮る人もおられる。
 リアルに撮れば必ずしも写真がよく売れるわけではない。例えば、自然の川さながらに、底に不気味な沈殿物がたまっているような水槽写真よりも、もうちょっと小奇麗な写真の方がよく売れる。
 僕の場合は、超見え見え〜超リアルまで、水槽内のリアルさの段階が0〜10まであったとするならば、7〜8あたりのリアルさを目指す。
 僕は、もしも写真が趣味なら、水槽の中の生き物を撮影することなど、まずないだろうと思う。僕は、自然条件下の生き物にカメラを向けるだろうし、それが何よりも楽しい。
 つまり僕にとっての水槽撮影は、写真を仕事として成り立たせるために撮影するわけであるから、どんなにリアルな写真を撮っても、売れなければ話しにならない。
 一方で、水槽撮影が全く面白くないか?といえば、そんなこともない。
 野外での撮影が、より面白いだけであり、それはそれなりに面白いものである。
 そこで、ある程度は売れる写真に仕上げることを考えつつ、その範囲で、なるべくリアルな写真を狙い、楽しむのである。
 今日は、撮影用の水槽を1つ準備したが、ちょっとした失敗がきっかけになり、水槽をより小奇麗なリアルさに見せるいい手法に気がついた。
 
 中には、プロはそうして本来撮りたくないものでも撮らなければならないから、せつないと主張する人もおられるが、僕は、嘆き節はあまり好きではない。
 嘆くのではなく、いかに自分を楽しませるか、写真に限ったことではなく、子供ならともかく、それも自分の責任であると思う。

 

 2005.10.21(金) クリーニング

 アメリカザリガニは、あの印象的な大きなハサミの他に小さな手を持ち、その手で、体をクリーニングすることがある。
 その様は、まるでだらしのないどこかのオヤジのようであり、時にはポリポリと頭を掻いてみたり、また時にはゴロンと横になった状態で、体をモソモソと掻くようなこともある。
 横になっているので、死にかけているのかな?と思い、水槽をコンコンとノックすると、慌てて飛び起きる有様で、その様子は、とにかく実にユーモラス!
 僕は今、アメリカザリガニの撮影の仕事を、本のページにして約30ページ抱えているが、その中で、その体の掃除の決定に笑える写真を発表したいと考えている。
 ところが、僕はアメリカザリガニの飼育水槽と撮影用の水槽を分けているのだが、撮影用の水槽の中にザリガニを入れると、そのこっけいな体の掃除が見られなくなる。せいぜい、今日の画像程度の、ちょっとした体の手入れしか見せてくれない。
 撮影用の水槽は、中の生き物をクリアーに写すためにとにかく水質を良く保っているが、水がきれいだと体の掃除の必要がなくなってしまうのだろう。
 どうも、体のクリーニングの撮影の専用の、ちょっと水が汚い水槽を準備する必要がありそうだ。
 明日は、今日までの撮り方に見切りをつけ、さっそくその準備に取り掛かろうと思う。
 
 

 2005.10.20(木) 撮影モード

(撮影機材の話)
 キヤノンのイオス5Dの場合、「風景」だとか、「ポートレート」だか、「忠実設定」だと、撮影モードを選択することができる。
 これは5Dに限った機能ではないが、イオス5Dのそれは大変によくできていると思う。
 今までのデジタルカメラの場合、そうして撮影モードを選択することはできても、僕にとって、その中で自分が気に入るモードは1つしかなく、事実上、選択肢がないような状態であった。
 たとえばニコンのカメラの場合、派手な発色をするモード3という設定が僕の好みに合うが、それ以外のモードに設定すると、地味すぎて、派手なモードに比べてただ見劣りするだけであり、モード3以外を試そうという気にあまりならなかった。
 そう感じているのは、多分、僕だけではないだろう。
 ところが5Dは、モードを変更すると、仮にどのモードを選んだとしても、それはそれなりに魅力のある色がでる。
 昨日の画像は派手な発色の風景モードに設定してあるが、忠実設定にすると、また違った魅力の色合いになる。ただ地味なだけではなく、地味であるゆえの味わいが感じられる。
 初期設定のスタンダードに設定してみてもなかなかいける。
 まるでフィルム時代に、フィルムによる発色の違いを楽しんだように、デジタルカメラの設定による色の違いを楽しむことができる。

 ところが、写真雑誌の中でも、5Dの撮影モードをさまざまに変更するテストがなされているが、僕がモニター上で感じる5Dの出来の良さを、誌面で感じることができない。
「モードを変えて、どこが変わったの?」
 と言いたくなる程度の差異しか、雑誌上では感じられない。
 デジタルカメラの画像は、RGB画像である。一方で、印刷をする際には、RGB画像をCMYKに変換する。
 そしてCMYKは、RGBと比較すると色域が狭く、RGBで表現できている色でも、印刷の際には表現できなくなる色がある。
 つまり例えるなら、最高速度360キロの自動車も、180キロの自動車も、制限速度100キロの道を走るのであれば大差がなくなってしまうような、そんな現象がおきているのではないか?と思う。
 だがモニター上では、5Dの色の深さは、従来のAPSサイズのセンサーを持つカメラよりは明らかに上であり、5Dを試してみる価値が多いにあると僕は感じる。印刷の場合はCMYKに変換しなければならないが、たとえば、自分でプリントを作成する場合には、その色の良さを、色のゆとりを体感できるのではないだろうか?
 ニコンのユーザーでも、主に望遠レンズで撮影する人で5Dに興味を感じている人には、5Dをお勧めしても良さそうな気がする。
 キヤノンのカメラの場合、アダプターを介せばニコンのレンズを取り付けることができる。絞り環を持たないレンズの場合は、工作をしなければ最小絞りに絞り込まれてしまうし、工作をしても、絞りが開放なら開放に固定されてしまうので実用的ではないだろうが、絞り環があるレンズでは、AFが使えないだけで、AEは使用できるし、なかなか面白いのである。

 

 2005.10.19(水) 続・予行練習

 新しく購入したデジタルカメラ・イオス5Dとフィルムとで、今日は同じ被写体を撮り比べてみた。
 今日の画像は、水滴を大きく拡大撮影したものである。

 たかが水滴の撮影だが、実に数時間を要した。
 何が難しいか?といえば、まず水辺の岩場に、上手く三脚が立たないことである。
 今日の画像くらいに水滴を大きく拡大する場合、カメラの位置がわずか5ミリ程度変化しただけで、写真に写る水滴の大きさや印象がぐっと違ってくる。
 つまり、三脚を立てる際に、ミリ単位で、厳密に狙った位置にカメラが設置されなければならない。
 平地であれば、それはたいして難しくはない。が、地面がツルツルであったりデコボコした岩場の場合、その程度のことが大変に大変に難しい。
 さらに、水滴ができるような岩場であるから、絶えず水しぶきがしたたっている。
 僕もカメラもびしょぬれである。
 が、今の時期であれば、寒くはないし気持ちがいい。

 

 2005.10.18(火) 予行練習

 スタジオでの撮影が長く続いた後に野外にでると、気持ちの切り替えができにくく、どうしても感が鈍る傾向にある。
 今週〜来週はスタジオでアメリカザリガニを撮影することになっているが、その後は11月の中旬まで、ひたすらに紅葉の撮影を予定している。
 そこで今日は熊本県に出かけ、多少水辺を歩いてみた。 スタジオでの撮影が長く続いているので、紅葉の撮影の予行練習である。

 それから、どこかサギの仲間の撮影が出来そうな場所がないか?と、菊池川沿いに車を走らせてみた。
 といっても、今すぐに撮影するつもりではなく、例えば、雨が降ったあとに川に作られた堰に行ってみると、魚たちがピョンピョンと上流に向かって上ってく日があり、そんな日にはサギが魚を食べにやってくる。
 それを撮影できそうな場所を探してみた。
 うちの近所の遠賀川にもそんな場所がある。いや、あった。
 以前は、そこによくサギの撮影に出かけたが、今や遠賀川はブラックバス釣りのメッカになってしまい、平日でも釣り人の姿を見ない日はない。当然、サギたちもゆっくりとは寄り付かなくなり、撮影が出来なくなってしまったのである。

 サギの撮影ポイントを探したあとは、阿蘇へと車を走らせてみた。新しく買ったイオス5Dのテストもかねて、夕暮れの草原にカメラを向けてみた。

(撮影機材の話)
 フルサイズのイメージセンサーを搭載したデジタルカメラの画質は中判に匹敵するという人もいるが、僕は、どう考えても、そんなレベルには到達していないと感じる。
 ただ、35ミリ判のフィルムの画質と比べると、状況によって、勝ったり負けたりのいい勝負と見てもいいのではないだろうか?イオス5Dを使ってみて、そう感じはじめている。
 やっぱり、フィルムと同等の画質を得るには、フィルムと同等のサイズのイメージセンサーが必要なのかなぁ。
 APSサイズのイメージセンサーを持つデジタルカメラを使用すると、良し悪しとは別の次元で、デジタルとフィルムとの絵の質の違いのようなものを感じるが、5Dを使うと、僕は、ほとんどそれを感じなくなった。
 フィルムで得られていた色や被写体の質感が、5Dはデジタルカメラであるが、同じように得られると感じている。

 

 2005.10.16(日) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

 2005.10.15(土) 物量作戦

 需要があって、しかも急に撮影を求められても撮影が難しいシーンは、本来の予定ではなくても、チャンスがあれば可能な限り撮影しておくに限る。
 ザリガニの脱皮は、まさにそんなシーンの代表格である。
 今シーズンは、撮影用に数十匹のザリガニを飼育中だ。
 さすがにそれだけの数を抱えると、特に苦労をしなくても、毎日一度観察すれば、そのうち脱皮の瞬間に立ち会うことができる。
 無理をして徹夜をする必要もないし、
「あ、脱皮が始まるぞ〜」
 と、自分の都合がいい時間に偶然目にした時に撮影すればいい。
 物量作戦で、ある時にドバッとたくさん飼育して、一気に撮影しておくのがいい。
 
 

 2005.10.14(金) 道楽の中の道楽

 僕は、たとえプロであっても、自然写真を客観的に見れば、その本質は道楽であろうと受け止めている。
 こう書くと、腹を立てる人もいるだろうと思う。
「いや、俺は高い志をもって写真を撮っているのであり、俺の写真は道楽とは次元が違う。」
 とか、
「俺にとって自然写真は生活をかけた仕事なんだ!」
 と。
 もちろん僕も一生懸命写真を撮るし、仕事として責任を果たす意思は、決して弱くない方と自負している。
 が、それはあくまでも僕の自分自身に対するこだわりか、せいぜい同じ業界の者どうしに通じるオタクな内輪の評価であり、大部分の人にとっては、自然写真は遊びであろうと思う。
 たとえば、自分で写真を売り込んでみれば、それを痛感させられる。
 自然写真で稼ぎと言える額のお金を稼ぐことは、なんて難しいのだろう!と。
 自然写真の市場は非常に小さく、つまり、客観的に見ると、あまり人には必要とされていないようである。
 
 ところで、学校で体育を教える先生は、スポーツで生計を立てていると言えるだろうか?
 言えなくはないかもしれないが、大半の人は、そうは受け止めないだろう。スポーツではなくて、教育に携わる教員としてお金をもらっていると考えるに違いない。
 スポーツなどという、趣味の要素が大きく、直接的に人の役に立たないことでお金を稼ぐのは非常に難しい。
 だが、それが教育というジャンルに組み込まれ、たとえば体育の先生として、教育の世界からお金をもらうのであれば仕事として成り立ちやすい。
 写真にもよく似た側面があり、僕は、ここ数年、特に児童書に提供するための生き物の写真を数多く撮影するが、児童書は一種の教育であり、教育には、人がお金を落としてくれやすく、その結果、自然写真がやっとこさ仕事として成立する。
 もしかしたら僕は、写真業界からお金をもらっているのではなく、教育の世界からお金をもらっているのかもしれないと思うことがある。
 純粋に写真で、自己表現の世界で、創作活動でお金を得ているという実感は、僕にはほとんどない。自然写真って道楽なんだなぁと思うのである。
 生物学の研究なども、同じようなものではないか?
 たとえば、大学のような教育に携わる機関に属すれば、比較的容易く給料が得られるだろう。
 が、自分の技術と知識だけをもって、
「私は、これだけ意義のある研究ができます。買ってください。」
 とどこかに売り込んだとして、果たして、誰かがそれにお金を払うだろうか。
 生物学の応用なら、たとえば、企業の研究所で、その企業のために研究技術を切り売りすれば、研究で飯が食えるのかもしれないが、いわゆる真理の探究そのもので生計を立てることができる研究者は、いったい日本に何人存在するのだろう。
 心理の探求といえばカッコイイが、心理の探求であればあるほど、反面、それは道楽なのではないだろうか?

 僕は、僕の自然写真が道楽でも構わないと思う。
 自分を卑下しているわけではない。逆に、道楽であることに自信がある。
 ただ単に開き直っているだけかもしれないが、人が何と言おうが、僕には、毎日の生活が充実している実感がある。
 中でも、マニアックなカタツムリの撮影は、道楽の中の道楽であろう。
 先日、飼育中のオオケマイマイのケースの中に、子供が生まれていることに気がついた。オオケマイマイは、殻に毛が生えた愉快な形のカタツムリである。
 道楽だからこそ、楽しいのである。

「あなたの自然写真は道楽だ!」
「あなたの研究は道楽だ!」
 と言われて、傷ついたり、腹を立てる人がいるが、そんな人は、何か他人から評価されることを求めてはいまいか?
 意外に、本当の意味で自然写真や研究が好きな人ではないのかもしれないと感じることがある。
 子供

 親
 
 

 2005.10.12(水) 三面記事

 近所の中学校で事件が発生し、今朝のN新聞の三面記事を賑わせた。
 テニス部の生徒が禁止されている携帯電話を学校に持ち込み、罰として連帯責任で、部員全員が丸坊主に刈り込まれたのである。
 全く馬鹿げているにも程がある。
 罰を与えた先生が、ではない。
 僕が馬鹿げていると思うのは、それを事件として取り上げる新聞記者と、記事として掲載することを許した責任者と、そこにコメントを寄せている連中だ。
 コメントを寄せた人は、どこの誰だったか忘れてしまったが、
「見方によっては体罰以上に子供の心を傷つけた!人権を守れ!」
 と主張しておられる。
 人権って、そんなものなのだろうか?丸刈りにすることは、今の教育としては行き過ぎなのかもしれないが、子供の心の本質をそこまでひどく傷つけた事件なのだろうか?
 そんなくだらない概念なら、僕は人権なんてクソ食らえ!と思う。
 中には、それを行き過ぎた指導であると判断する学校があってもいいと思う。が、その先生が、無茶苦茶な指導をした問題教師として新聞紙上にまで晒されるのは、丸刈り事件以上に極端であり、おかしいと感じる。
 せいぜい、管理者に呼び出されて指導を受け、該当の生徒の自宅を家庭訪問すればすむ程度の出来事ではないだろうか?

 僕が子供の頃は、市内の中学生は全員丸坊主であった。それが良かったとは少しも思っていない。
 全員強制的に丸刈りは、今の時代にはそぐわないと感じる。
 そして、今や坊主頭の風習が残っている場所はごく一部のようであるが、考えてみれば、時代とともに変わってきたことは他にも多くある。
 女性の権利が叫ばれるようになった。
 また、昔は我慢することが美徳されたが、今はむしろ、
「好きなことをしましょう!」
 と叫ばれる。
 世の中は間違いなく、自由で、平和で、平等な方向に向かっているようである。

 だが、それらの主張の中に、何か違う!と感じることも近年多くなった。
 例えば、丸坊主にした先生に対して、まるで鬼の首を取ったかのような批判のコメントを書いたその人は、むしろ、自分が気に入らない人をやり込めたいだけなのではないだろうか?
 その攻撃のための武器として、人権という概念が利用されていないだろうか?
 僕は、新聞に寄せられたそのコメントの中に、人権と言う理論は読み取れたが、子供に対する優しさを感じることはできなかった。
 例えるなら、その先生は、万引きをしたら死刑になったというような類のことだと思える。それこそ、まさに人権が重んじられていないような気がする。
 万引きをされた商店の主に、裁判官が、
「万引きをした彼を死刑にしましたからね!」
 と報告したなら、お店の人は果たして嬉しいのだろうか?
 先生が新聞にまで晒されて、部員たちは、
「ほ〜ら、先生が間違えていただろう!」 
 と納得し、喜んでいるのだろうか?
 僕はそうではないと思う。子供の人権というが、子供のことは、たいして考えられていないように感じた。

 生き物の世界でも、昔に比べると、愛や平和が重んじるように変化しつつある。
「昆虫採集は残酷だ!」
 と、認められなくなりつつある。残酷だと言われれば、返す言葉もない。確かに理屈を言えばその通りである。
 また、
「私が子供の頃は、法律違反ではあるけど、野鳥を捕まえて飼ったり食べたりしたよ。」
 という大人は多いが、今や、それは認められないだろう。
 自然が失われ生き物たちが減り、時代の変化の中でそれが仕方ない面もあると思う。
 だから、
「生き物を愛しましょう!」
 と主張するのはいいが、愛を語り、その実は、人をやり込めたり、とっちめることを目的にして欲しくないと望む。

 子供の頃に参加したキャンプで、インストラクターのお姉さんに、
「武田君は昆虫採集するから残酷だよ。虫が好きなら放してあげようよ。」
 と言われた経験がある。
 お姉さんにタマムシを見せようとしたら、お姉さんは気持ち悪がり逃げ腰になった。虫に対するやさしい思いは単なる大義名分であり、単に虫が好きではない人だったようだ。
 また、実験動物を救う為に署名をしてくださいと、ある女性に求められたことがある。
「考えられないくらいに残酷なことが行われています。」
 と、その方は主張されたが、僕は、その人が、単に、科学を嫌いなだけであるように感じた。
 もちろん、自分の意見を主張することはいい。
 だが、その主張の理由として人権や愛をあげるのであれば、その言葉を単に都合よく利用しただけに終わらせないように、人並み以上に他人を思って欲しいのである。
 たとえ、やり過ぎて失態を犯した先生であっても。

 

 2005.10.11(火) 科学者の立場としては

 先日、水棲昆虫を採集する際にメダカを持ち帰り、アメリカザリガニの水槽の中で飼育中である。
 ザリガニ用の餌を与えると、ザリガニが寄ってくるが、メダカも群がる。
 時には、ザリガニのむなぐらで、メダカの群れが餌をつつく状況になるが、ザリガニは、メダカを食べようとはしない。
 児童書には、しばしばアメリカザリガニが魚を襲うシーンがあるが、僕はそれは、ほとんど嘘といっても言い過ぎではないのでは?と思う。色々な種類の魚を同居させてみるが、生きた魚が襲われたことは過去に一例もなく、仮にあったとしても稀であろう。

「ザリガニが魚を襲うシーンを撮影してください。」
 と、もしも依頼が来たらどうしよう?と、時に考えることがある。
 僕は、基本的には写真業に徹し、仕事を依頼されれば、技術者として、相手が思い描いた絵の通りに写真を撮る。だが、そうであっても、
「これは間違いではないか?」
 と思うシーンは、撮ってはならないような気がする。
 イメージカットなら、作り上げてでも撮影すればいいと思う。例えば、僕は、毎年のようにアジサイの上にカタツムリを並べて、アジサイとカタツムリのイメージを撮影する。
 だが生き物の性質を伝えるページで、嘘は許されないように思う。
 ならば、代わりのシーンを提案できればいいと、様々な生き物をザリガニと同居させてみると、トンボの幼虫であるヤゴのような水棲昆虫は、すぐに食べられることが分かった。他にも、オタマジャクシはよく食べられる。
 それらのシーンを、僕が観察した事実を伝えた上で、代わりに提案してみようかと思う。
 ただ、いずれにせよ、アメリカザリガニは少なくとも大食いではない。同じ帰化生物でも、その点は、ブラックバスなどとは大きく異なると感じる。
 それを以前に、
「アメリカザリガニは帰化生物だが、ほとんど日本の在来種に影響はないのでは?」
 と書いたことがあるが、生態学の専門家が、科学者の立場としてはと前置きをした上で、
「何か新しい生き物がある程度の数すみつくと、影響がないことはあり得ないのです。」
 と意見をしてくださった。
 僕はやはり、専門家が、その立場にこだわった上で発する言葉が好きである。

 僕も科学出身である。科学者の立場から自然を見つめると、その意見は正し過ぎるくらいに正しいと、実は僕も思う。それが事実である。
 事実とは別に、現実問題としてすべての外来種を駆除できるわけではないだろう。放っておいて済まされるのであれば、放っておけばいいと思う。
 また、時には、たとえ駆除できなくても駆除を続けなければならない外来種も存在すると思う。
 僕は、小動物の写真家として自分が接した生き物の性質について知らせ、身近な生き物にどう接していくべきかを考えるための材料を提案し、時には具体的な自然との接し方を何か提言していきたいと、最近思う。
 
 さて、アメリカザリガニの話は、それが主であったわけではなく、カタツムリを採集してもらったついでである。
 今日の画像は関西に生息するクチベニマイマイであるが、京都大学のキャンパス内で採集されたものなのだそうだ。明日は、他にも譲ってもらったカタツムリを撮影する。 
 
 

 2005.10.10(月) この冬

 この冬は、できればひと月くらい、北日本に水辺の野鳥の撮影に行こうかな?と思う。
 だがそうすると、幾つかクリアーしなければならない問題もあり、例えば、飼育中の撮影モデルの世話がある。
 それから僕の場合、年間を通して1〜2月に写真の貸し出しが集中するため、それをどうするか?
 小動物の写真は5〜7月くらいに数多く出版物の中で使われるが、それらの写真は、大抵冬の間に貸し出されるのである。
 飼育の方は、お願いできそうな人を探すことにしている。が、写真の貸し出しの方はそうはいくまい。
 数枚の写真の貸し出しなら、人にもお願いもできるが、数十枚〜百枚単位になると、自分で自分の写真を探し出すのも一苦労であり、日頃からそんな態勢を整えていなければ、頼めるはずがない。
 昨年から、需要が多い写真については、デジタル化してハードディスクに収め持ち歩き、取材先の車の中からでも貸し出せるようにはしているが、それにも限界がある。
 
 さて、今日は、野外でキヤノンのイオス5Dを試してきた。
 被写体はトンボであるが、この冬、野鳥の撮影に出かけることを念頭に置き、機材を試した。
 キヤノンを使うと、ニコンの良さがしみじみ分かる。
 
 

 2005.10.9(日) 

 明日は、新しく購入したキヤノンのカメラで飛翔中のトンボを撮影し、野外でのテストを試みる。
 今まで僕が主に使用してきたニコンやペンタックスの場合は、カメラを持ち、レンズのピントを調節する部分を時計回りに回せばより遠くにピントが合うが、キヤノンの場合はその向きが逆だ。
 果たしてニコンやペンタックになれた僕の手が、キヤノンに対応できるのか?
 それを試すのである。
 風景など、瞬時にピントを合わせる必要がない被写体は、そうしたちょっとした仕様の違いは大した問題ではないが、飛んでいるトンボにピントを合わせるとなると、そう簡単ではないだろう。
 もしもキヤノンに対応できそうなら、キヤノン用のレンズを買い足してもいいかなぁと思う。
 だが対応できそうもなければ、キヤノンに関しては最低限の道具に抑え、ニコンから同等の新製品が登場するのを待つ。
 つまり一時しのぎにキヤノンを使用するわけだが、最近のニコンは新製品の開発が遅れがちであり、僕と同じように考えている人が、そうこうしているうちにいつの間にかキヤノンを主に使用するようになるケースも少なくないのかもしれない。
 今回僕が購入したキヤノンの新製品・5Dだが、これまでキヤノンがニコンに劣っていた操作性の部分がすべて改善されている。負けていた部分は、必ず同等にして新製品を出してくるキヤノンというメーカーは、実に商売が上手い。
 
(撮影機材の話)
 ニコンから、新しい規格のカメラが登場するというを先日耳にした。不変のFマウントがついに変わるという噂である。

 

 2005.10.7(金) 討論

 NHKの教育テレビに、若者が集まり討論をする番組がある。
 番組には一人だけ大人がゲストとして参加し、そのゲストは、時に芸能人であり、芸術家であり、何か個性的に生きている誰かである。
 僕は、討論をあまり好きではない。
 そもそもタイプ的に人に意見を求める方ではないし、何か決断をしなければならない時には、むしろ一人の時間を持ち、その時の自分なりに考え、自分の中に答えを求める方である。
 仮に人に意見を求めるとしても、僕に対して直接発せられた意見よりも、誰かが何かの機会にしゃべったり、書いているものの中に、自分で僕に対する意見を探す方がいい。
 良くも悪くも、人に影響されにくいタイプである。
 したがって、仮に僕が討論に参加して打ち負かされたとしても、それは言葉のやり取りで理論的に言い負かされたに過ぎず、心の中の感情が、討論の結果変わってしまうような類のものではないだろう。
 このホームページの日記も、返ってくる誰かの意見を聞くというよりも、一方的でいい。
 もちろん例外はある。
 怒りをぶつけるというのは、討論とはまた別であろう。
 また技術的なことに関しては、僕にとっても人の意見は貴重である。
 先日、生態学を研究をしておられるある方が、ある生き物について科学者の立場から、
「私はこう思いますよ。」
 と意見を投げ掛けてくださり、その内容に大変に納得させられ、意見を投げ掛けてくださったことを嬉しく思った。
 だが心の問題は話が別であり、他人の意見など、僕の場合は役には立たないのである。
 もちろん、社会の中で暮らすために他人と折り合いをつけることは不可欠であり、話し合うことは大切だと思う。だが討論では、その結果勝ち負けは決まっても、ほとんど何も解決しないと僕は感じる。
 討論は無用に疲れるし、したがって僕はそのNHKの番組をあえて見ることはないが、適当にチャンネルをひねり、その回のゲストの発言に興味を感じた時には、短い時間、番組を視聴する。

 先日は、漫画家志望の女の子が討論の主役であり、その子の主張は、
「絶対にサラリーマンは認めない。」
 というものであった。得意のマンガで、人生に疲れ果てたサラリーマンを描き、
「サラリーマンなんかにならずに、もっと目標を持って生きられないの!」
 という投げ掛けであった。
 10代の若者の主張であるから極端であることは仕方がないだろうが、何でそうなってしまうのだろう?と思う。
 写真家も同じであろうが、漫画家など、社会がしっかりしているからこそ成立する職業であり、サラリーマンの勤勉さのつけで成り立たせてもらっているようなものではないか?
 僕自身は、写真業に徹して生きると決めているが、僕は優れた写真家よりも、ごく平凡な職業に従事している人であっても、家族を思い、子供を可愛がって生きている人により尊敬を感じる。
 いわゆる好きなことをする職業に従事する人間が、社会を支えている人を乗り越えてガミガミ主張するのは、どうも好きではない。
 その回のゲストは、マジシャンのマギー審司であった。
 ゲストは、番組の中で自分の意見を主張することも許されていて、中にはガンガン意見する方もおられるが、マギー審司はほとんど何も言うことなく番組を終えた。最後に、
「もっと周囲の人を思うことができれば、より優れた漫画家になれるかもしれませんね。」
 といったニュアンスの言葉で結ばれた。
 僕は、マギー審司さんの控えめさが、どことなく好きなのである。

 

 2005.10.5(水) 続・5D

(撮影機材の話)
 昨日〜今日と、キヤノンのイオス5Dをスタジオでの撮影に使用しているが、僕の場合、少なくとも、スタジオではAPSサイズのイメージセンサーを搭載したカメラの出番は、もう二度とないだろう。
 また同じことを書いてしまうことになるが、
「こんなに違うの?」
 の一言である。
 ずっしりと重みのある色が非常に素直に出るので、撮影後の画像処理の時間も大幅に短縮できそうだ。
 ただ、野外での撮影の場合は、昨日いろいろとテスト撮影を試みたが、一概にどちらを使うと言い切ることはできない。APSサイズのイメージセンサーを搭載したカメラも、それなりに使い道がありそうだ。
 2日にナツアカネの飛翔の写真を掲載したが、この撮影には200ミリレンズを使用した。
 それをもしもイオス5Dで撮ろうとすると、同じ大きさにトンボを撮影するためには300ミリが必要になるが、200ミリが300ミリになると、レンズの扱いはグッと難しくなる。
 例えば、画像のピントが浅くなり、連結して飛翔中の2匹のトンボの両方にピントが合う確率は間違いなく低くなる。
 2匹のトンボのうち、後ろにつながっているメスは時々お尻を振り、卵を空中から投げ落とすが、今回僕が撮影した画像の中には、その卵が薄っすらとではあるが写っている画像が一枚だけあった。
 もしも、それを200ミリではなく300ミリで撮影したとすると、多分、卵は被写界深度から外れすぎ、写らなかったのではないかと思う。
 2匹のナツアカネが連結して飛翔している写真はちょくちょく見かけるが、2匹にしっかりとピントが合い、しかも卵が写っていて、それが絵として様になっている写真は、やはり滅多に見ないのである。
 何か生き物の生き様を見せようとすると、単純に画質の良し悪しでカメラを選ぶことはできないのだ。 

 

 2005.10.4(火) 肌が合わずに辛い

 大学の研究職に就いていた学生時代の知人から、
「塾で講師をするための研修を受けたのだけど、肌が合わずに辛かった!」
 と、先日連絡があった。
 研究職といっても、知人はどこかに半永久的な就職ができた訳ではなく、期限付きの仕事で幾つかの研究室を渡り歩いたようだ。
 そしてとうとう当面の就職先がない状態に陥ってしまい、生活費を確保するために、塾での講師の仕事を考えざるを得なくなった。
 肌が合わずに辛いか・・・
 確かにそうだろうと思う。
 研究室ほど、そういう意味でのストレスを感じずにすむ場所は、世間広しと言えども、そうはあるまい。
 まず大学の研究室であれば、利潤を上げることをほとんど考えずにすむ。その点は研究者以外にも公務員でも同じであるが、研究職の場合はさらに、学生時代からの生活スタイルをほとんどそのまま引き継ぐことができる。
 その感覚で世間を眺めれば、大抵の職場は辛いと感じられるのではないだろうか?
 会社のような組織には、中には新人研修と称して人前で大きな声で挨拶の練習をするところまである。どこか一人の人間を冒涜しているようでもあり、理不尽にも思えるが、それらは恐らく学生のリズムを短時間で吹き飛ばすための儀式なのであろう。

 僕も大学入学直後は、大学の研究者になりたいと考えていた。大学が無理なら、どこかの博物館。それが無理なら・・・と、幾つか思い描く生活があった。 
 ところが僕の場合は、なぜかそんな自由なはずの研究室が辛くて、研究ではなくて写真を選んだ。
 まず、科学的なものの見方だけにこだわりたくないと思った。
 それから、僕はもっと我武者羅に生きるのがいいと感じた。お金のことだけを考えるのも好きではないが、利潤を上げることをほとんど考えずにすむのも、何か仙人みたいであり、どうも人間らしくないように僕には思えた。
 僕の場合、好きだから写真を撮るのはもちろんだが、時には、お金が欲しいという動機も、また他にも、さまざまな動機がある。
 僕には、その程度の下世話さの世界の方が性に合うようなのである。どんな動機で撮った写真であるにせよ、それが売れると文句なしに嬉しい。その喜びを抜きにしては、恐らく自然写真を続けることはできないと感じるのである。
 その知人が、
「私は技術を切り売りしたくない!」
 と以前に話してくれたことがある。たとえ研究職に就ける機会があったとしても、自分が興味を感じない仕事は、断ってきたのだそうだ。
 それはそれで、素晴らしいことだと思う。
 その知人から見れば、僕は、もしかしたら堕落した人間に分類できるのではないか?
 昨日〜今日にかけては、ある本のための撮影に取り組んでいるが、僕の仕事は、編集者が描いた絵柄をなるべくその通りに写真に撮ることである。つまり、求められるがままに写真の技術を切り売りすることでお金をもらうのだ。
 お金を稼ぐために写真を撮ってみると、僕の場合は、利潤を生み出す喜び以外に、そこにたくさん勉強すべきものがあった。それが、また新たな興味にも結びついていく。
やらされてみるのも、なかなか面白いのである。

 

 2005.10.3(月) 5D

(撮影機材の話)
 昨日のトンボの撮影の帰りに、注文しておいたキヤノン・イオス5Dを受け取り、夜の間にスタジオで試してみた。
 今回は、主に同じキヤノンのイオス20Dとの比較である。
 キヤノン・イオス5Dは、35ミリ判フルサイズのイメージセンサーを持つデジタルカメラであるが、僕の予測は、よほどに大伸ばしにしない限り、APS-Cと呼ばれているサイズのセンサーを持つ大半のデジタルカメラと、明確な区別はつかないのではないか?というものであったが、見事に裏切られた。
 画質がいい!こんなに違うものなのだろうか?
 まず、色の抜けがいい。
 20Dの色の色に、そんなに不満を持っていたわけではないが、5Dと比べると、20Dは、何か薄い色の付いたフィルターでも取り付けて撮影したかのように見える。恐らく、20Dの色が微妙に飽和しかかっているのだと思う。
 それから、色の抜けの良さから波及してくる効果ではないかと思うが、5Dの方が比較にならないくらいにシャープだ。特にハイライトとシャドーのシャープさが全然違う。
 こんなに違っていいのだろうか?
 僕は、APS-Cのイメージセンサーを持つカメラには戻ることができないだろう。ただただ、凄いの一言なのである。
 あと一台買うか?その前にキヤノンのレンズを揃えるか?
 さらにその前にお金を作らなければならないから、イオス20DやAPS-C専用レンズは、下取りに出さなければならないが、持っていても、あの違いを知ってしまった今では使う気にはなれないだろう。
 唯一、ストロボの同調速度が1/200秒と遅いのが、野外での撮影では気にかかる。が、僕の場合は生き物の動きを止めるためではなく、色を出すためにストロボを使うのが大半であり、専用ストロボでFP発光を使えば1/8000秒まで同調可能なので、問題はないのではなかろうか?

 明日は、仕事の合間に望遠レンズを試してみようと思う。
 具体的には、ニコンのD2Xに600ミリレンズを取り付け、キヤノン5Dには600ミリレンズと1.4倍のテレコンバーターを取り付ける。
 これを比較してみる予定である。
 
 

 2005.10.2(日) ゆとり

 ここのところ僕は、アメリカザリガニの撮影に力を入れているが、一連の撮影は、僕の理想に比較的近い形で進めることができている。
 理想とは何か?
 僕の場合、理想的な状態とは、撮らなければならない!というストレスと、自発的に撮っている部分とが心の中で五分五分のバランスを保っている状態である。
 ほどほどにプレッシャーがあり、しかも同時に若干のゆとりも感じられる状況は、実は、僕が自然写真の仕事を始めて以来、初めてのことだ。
 現在撮影中のアメリカザリガニの写真の一部は、すでに使用される本が決まっていて、それらの写真に関しては必ず撮らなければならないが、同時に、今回の仕事には必要がないシーンにカメラを向け、わき道に反れる時間的なゆとりも確保できている。
 今日は、ザリガニの仲間たちを紹介するページのために、水辺の生き物の採集に出かけたが、採集を終えてから、ナツアカネの産卵シーンを撮影して帰ることにした。
 昨年は、仕事の量が多く、偶然に面白いシーンを目にしてもグッと堪え、ひたすらに目の前の撮影をこなさなければならず、その反省から、今年は仕事の量を押さえ気味にしているのだ。

「その通りですよ!ゆとりがなくっちゃ。」
 とおっしゃる方もおられるだろうが、それは早とちりである。
 時には量を詰め込んで、ひ〜ひ〜言いながら撮影する機会も必要であり、また時には、ゆとりも必要ではないか?
 理想通りいかないことも、また理想を掲げ、稀にそれを手に入れることもあっていいのではないだろうか?
 学校のゆとり教育、僕はくだらんと感じる。
 時にはゆとりを与え、時には、ガンガン鞭打てばいいと思うのである。

 

 2005.10.1(土) オタク道

 ナショナル・ジオグラフィック(日本語版)の、日本新発見のページに、僕のカタツムリの画像が掲載されている。
 これらの写真を売り込んでくださったのは、フォトプロデューサーという、面白い写真や記事を売り込む仕事をしておられる坂本陽平さんだ。
 坂本さんは、マニアックな生き物の写真を扱わせれば誰よりも上手いというのが巷の評判であるが、今回の記事はまさにオタク道まっしぐらといった内容であり、通常なら、
「う〜ん、面白いけど、一般の人に見てもらうにはちょっとマニアックだからな・・・・。」
 と、多くの人が二の足を踏むような生き物を、喜んで売り込んでくださった。 

 写真に関しては、ちょっとデジタル臭さが出てしまっているように思う。
 このページの担当である編集者の大村さんによると、この雑誌の場合、現状ではフィルムが中心であり、それらのページとの兼ね合いもあり、やはりフィルムが理想なのだそうだ。
 フィルムで撮影された写真とデジタル写真とには、特性の違いがある。したがって、フィルムを印刷するには、それはそれなりのノーハウがあり、デジタルを印刷するには、デジタルなりのノーハウがあるようだ。
 デジタルカメラの専門誌、例えば、デジタルフォト誌あたりの印刷のクオリティーはきわめて高いと感じる。
 そうした雑誌を見ると、一般的な大半の被写体の場合、今やフィルムだ!デジタルだ!と論じることが無意味であると感じられるのだが、これまでフィルムを前提にして培われてきたノーハウを大切にしている雑誌もたくさんあり、それはそれで正しいのだと僕は感じている。
 僕は、最近は、徹底してデジタルカメラを使うが、現状では、一枚の写真が印刷されるまでをトータルとしてみれば、平均すると、やはりまだフィルムに分があるようだ。 

 ただ、これは偶然かもしれないが、最近の僕の経験の範囲では、たくさんのデジタル写真の中にフィルムがポツリと数枚混ざるようなケースでは、むしろ、フィルムの印刷が、え?と目を疑いたくなるくらい悪いケースが続いている。

  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年10月分


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