撮影日記 2005年9月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
  

 2005.9.29(木) 両刀使い

(撮影機材の話)
 まだ取りに行っていないが、注文しておいたキヤノンの新製品・イオス5Dが入荷したとの連絡があった。
 楽しみと言えば楽しみであるが、本当なら、ニコンからFマウントのフルサイズ機が登場すれば言うことはない。一抹の寂しさもある。
 僕は、キヤノンに完全に鞍替えする気は全くない。フィルム時代から、レンズのラインアップの事情でニコンもキヤノンも併用しているのだから、これからもお互いのいいところを選んで使えばいいだけの話である。
 確かに、ニコンだけを使用している時に最初にキヤノンを買う際には、やはり抵抗があった。できれば1つのシステムでビシッと統一されている方が、何かすっきりするような気がした。
 キヤノンを使ってみると、1つに統一することもないなという気にすぐになった。形にこだわっていただけなのかなと思えた。
 ただそれでも、普段は迷ったら、ニコンを手にすることの方が多い。やっぱりニコンが好きなのである。

 ここ最近は、イオス5Dを購入するのに備え、無理をしてでもキヤノンを使用してきた。キヤノンのカメラの特性を詳しく知るためである。
 簡単なテストをすれば多少は分かるが、やはり、ここぞ!という本番で使わなければ、本当のところは、なかなか分からないのである。
 あくまでも僕の感じ方であることを、まず前置きしておく。
 ニコンのカメラの場合、どちらかというとハイライト側を露出アンダーに撮影しておき、あとで、ソフト的にダイナミックレインジを調整してハイライトを作った方が、いい結果が得られることが多い。
 最初から、ハイライトをピシャリ撮ってしまうと、ハイライトの表現が悪いのである。
 これは、ニコンのデジタルカメラは白飛びし易いと世間で言われていることによく一致する。ニコンをメインに使用している僕にとって、ハイライトの表現を考慮して、わざと露出アンダーに撮影することは当たり前のことであった。
 ところが、キヤノンの20Dやキッスデジタルで同じことをすると、その方法が必ずしもいい結果を生まないのである。
 ニコンのカメラと同等に露出アンダーに撮影すると、キヤノンのカメラはシャドーの表現がイマイチ悪いのである。
 あ〜デジタルだなという感じに、実に、ノッペリとしてしまう。
 ニコンのカメラは、確かにハイライトは白飛びし易いが、露出アンダー気味に撮影しても、シャドーの描写は決して悪くない。
 つまり、キヤノンのカメラの場合は、ハイライトをわりとピシャリと撮っておき、後からシャドーを作った方がいい結果になるように感じる。 

 

 2005.9.28(水) 自然さ

 海外の自然写真家の傑作集のページをめくると、日本人である僕との感覚の違いに気付かされることがある。
 それ故、世界のトップレベルの写真家から選りすぐったはずの本に、あまり感動をおぼえなかった経験は決して少なくない。
 もちろん、文句なしに好きな写真家も存在し、僕は、海外の写真家の中では、マイケル・フォグデンの写真が、他の誰のものよりも好きだ。
 また、ステーブン・ダルトンの「瞬間をとらえる」をはじめて目にした時には、感動と驚きのあまりに言葉を失った経験もある。
 瞬間をとらえるは、昆虫や野鳥や両生類・爬虫類の動きのシーンを、特殊な機材を使用し、あたかも完全に静止しているかのように撮影した写真を集めた名作である。

 瞬間をとらえるの中には、2枚ほどカワセミの写真が含まれている。
 そしてその足には、金属製の脚輪が取り付けられているので、恐らく、誰か研究者に依頼し、研究の対象になっているカワセミにカメラを向けたものではないか?と思う。
 日本人はそうした写真を非常に嫌う。極端な場合、脚輪が付いているだけで自然写真とはみなさない人もおられるだろう。
 例えば、北海道に行けばタンチョウの写真を撮影することができるが、まあ、脚輪の付いたタンチョウの多いこと。それを避けて撮るのは一苦労であるが、自然写真コンテストで入賞するタンチョウの写真には、まず脚輪などついてはいない。
 だが、欧米の人は、あまり脚輪の存在を気にしないのだそうだ。自然写真業界のある方から
「欧米から借りた鳥の写真には、脚輪が付いてるものが多くて、借りたものの日本では使えなくて困ることがあるんだよ!」
 と、聞いたことがある。
 日本人が自然写真にイメージとしての自然さを求めるのに対して、欧米の人は、自然さではなくて、自然現象を説明する日本でいう科学写真のようなものを求める人が多いようである。
 これは優劣ではない。自然観の違いである。

 さて、アメリカザリガニの生息環境を撮影するために、昨日〜今日にかけて動き回った。
 もしも科学写真のような視点でザリガニの生息環境を撮影するのであれば、実際にザリガニがすむ場所へと赴き、素直にシャッターを押せばいい。
 だが僕は、イメージとしての自然さも、求めたい。そこに実際にザリガニがたくさん棲んでいるかどうかよりも、実際にザリガニ釣りができるかどうかよりも、こんな風景であって欲しいという思いを込めたい。
 たとえ、町の中のザリガニの生息環境を撮影するのであっても、どこか穏やかな、中に入って採集でもしてみたくなる風景であって欲しいのだ。そう思うと、撮影のための場所探しには、非常に時間がかかる。

(撮影機材の話)
 昨日は、午前中だけのザリガニの環境の撮影のつもりが、結局一日がかりとなった。ホームページの更新はおろか、パソコンに触れることなしに一日が終わった。
 そして今日インターネットに接続してみると、オリンパスから続々と新製品の告知が!
 実は僕は、オリンパスのカメラに今最も興味を持っているのだが、使ってみたいレンズや面白そうなレンズのまあ高いこと。結局、ニコンかキヤノンが手堅いという結論に落ち着くのである。

 

 2005.9.26(月) 脳内革命

 先日、ある昆虫写真家のホームページの中で、一組の蛾の幼虫の写真を見た。
 僕はあまり蛾は好きではないし、日頃、蛾の幼虫をマジマジと観察するようなことも滅多にない。が、その幼虫の体に施されたデザインの不思議を見事に写し取った画像に、僕はしばし引きずり込まれた。

 写真の技術が高かったことは、もちろん言うまでもない。だが、それだけでは片付けられない被写体に対する撮影者の思い入れが、写真から溢れ出していた。
「虫が好きだ!自然が好きだ!研究することが好きだ!」
 と主張する人は決して少なくない。
 だが、好きを通り越し、その思いが言葉や態度や写真から自然と滲み出るほどの物好きには、やはりそんなに頻繁に出会えるものではない。
 そこに、プロになってまで毎日のように生き物の写真を撮らなければおさまらなかった人と、アマチュアとの境目があるように感じることがある。
「はは〜」
 と僕は思う。
「蛾を夢中になって撮影している人には、こんな風に見えているんだ。」
 と。
「こういうものを見せたかったんだ!」
 と。そして、それが表現できるほどの深い深い思い入れを持った写真家は、プロの中にも少ないのである。
 大抵の場合、一般的には嫌われがちな被写体にカメラを向ける場合、
「よ〜し、かっこよく撮ってやろう!何とかしてみんなを振り向かせてやろう!」
 などという撮影者の邪念が見え隠れし、独りよがりな自己陶酔の写真に終わる傾向がある。
 一般受けする被写体であれば、誰が撮影してもそれなりに人の心を打つに違いない。だが、マニアックな被写体にカメラを向け、それでマニアではない人の心までもを捉えようとすると、情熱の有無ではなくて、邪念のない情熱の深さが要求されるのだと思う。

 僕は、自然写真の基本的は遊びであると考えるし、
「きれいなだけの写真なんて何の価値もない。もっと内容が濃いものを・・・」
 などと教条的で、説教じみたことを言われると、
「クソ食らえ!」
 と思わないこともない。
 そんな僕でも、本来人が毛嫌いする蛾の幼虫を見事に見せられると、人に好かれる被写体を好かれるように撮ることに何か物足りなさを感じる。
「きれいなだけの写真なんてつまらない。」
 という主張の意味が、やっと分かるのである。
 カワセミの瞬間を写し止め、
「ホ〜」
 と人に感激されるのもいいが、蛾の幼虫の写真を見せて、その瞬間に蛾に興味がない人の脳内を革命してしまうことには敵わないのではないか?と思うのである。
 
 

 2005.9.25(日) ひげ

 このホームページのギャラリーの中に、『湧き水の池にて』というページがある。
 それらの写真を撮影したその池は、ビル街から車で15分程度の距離にあるにも関わらず、見事な透明度であり、僕が最も豊かな気持ちになれる場所の一箇所である。
 ウグイやフナやヨシノボリやオイカワやカワムツやオヤニラミに混じって、アメリカザリガニの姿も見られる。
 今回の一連のアメリカザリガニの撮影は、まさにその池にすむアメリカザリガニをイメージしたものである。
 奥行きが制限された水槽撮影で、自然の池のイメージを再現することは難しいが、今回の撮影では、最後まで、その一点にはこだわり抜こうと思う。

 それから、アメリカザリガニと言えば、赤い体に大きなハサミと、長いひげである。
 ところが、現在市場に出回っているアメリカザリガニの写真には、そのひげが切れて短くなってしまった個体を写した写真が圧倒的に多い。
 僕は、今回、アメリカザリガニの長いひげにもこだわっている。
 ザリガニは喧嘩っぱやい生き物である。1つの水槽で複数のザリガニを飼育すると喧嘩をし、ほぼ100%ひげが切れてしまう。
 そうならないように、今回は撮影のために約20個の水槽を準備し、その中に1匹ずつ、アメリカザリガニを飼育中である。
 昆虫であれば、容器が20個あっても大したことはないだろうが、ザリガニの場合、いいコンディションで飼おうと思えば、水をろ過するシステムを整える必要があり、虫に比べると断然に大掛かりになる。
 それもまた、ひげが切れたザリガニの写真が多いことの1つの要因ではないだろうか?
 
 さて、昨晩は、2匹のアメリカザリガニが脱皮をした。
 まず一匹目は、ザリガニが思った場所で脱皮をしてくれないので、ちょっと棒で動かそうとしたら暴れ、砂を巻き上げて水を汚してしまった。撮影は失敗である。
 二匹目は、今度はザリガニの方が脱皮を失敗し、死んでしまった。
 その脱皮を待つ合間に、真っ赤なオスのザリガニのポートレートを撮影してみた。
 この写真は、僕が大好きな湧き水の池にブクブクと潜り、アメリカザリガニを見つけ出した時のイメージに近いように思う。
 ひげの長さは、ザリガニの写真を撮る際にどうしようもなく重要な問題ではないが、ひげがながいと、撮影は楽しくなる。

 

 2005.9.23(金) 波打ち

 ガラスの上を移動中のカタツムリを、ガラスの反対側にまわりこみ裏側から覗き込むと、腹部が波打つように動くようすが観察できる。
 その波打ちを、横から見るような角度で写して欲しいと以前に一度依頼されたことがあるが、何度カタツムリを這わせてみても、カタツムリは胴体を地面にピタッと密着させ、密着しているその中で体を波打たせるため、横からでは、腹部の波打ちを確認することができなかった。
「横からでは、どうも波打つ様子は見えないようですよ。ガラスの裏側から撮影した写真ではダメですか?」
 とお勧めし、その時は、結局、僕がお勧めした通りの写真を使用してもらった。
 ところが今日、たまたまナメクジを撮影したら、横から見たナメクジの画像の中の数枚に、波打つ腹部が写っていることに気付いた。
 重たい殻を背負うカタツムリで同じ現象が見られるのかどうか、それはまだ分からないが、以前に撮影を依頼してくださった方が見せたかったシーンのイメージがよく分かった。
 さて、ナメクジにはいろいろな種類がある。
 うちの庭や事務所に多いのは、茶甲羅ナメクジという外来種であるが、今日の画像は、ナメクジという名前のナメクジのようである。
 このナメクジは、図鑑によると外来種なのだそうだ。

 

 2005.9.22(木) 証明

 生き物の行動にはばらつきがある。図鑑等に書かれている生き物の性質は、必ずしも、毎回、その通りになるものではない。
 だからと言って図鑑が不正確なのか?と言えば、そうではない。自然科学は、生き物の行動を何例も何例も観察し、その中から、
「これが典型的なパターンですよ!」
 といえるものを抜き出す作業であり、図鑑には基本的にその典型が掲載され、典型に漏れるものがいても、全くおかしいことではないのである。
 自然科学はつまり、生き物を統計的に分析し、そしてその統計的なデータから何かを証明する作業なのである。

 僕は自然科学の世界ではなく、自然写真の世界を選んだ。
 理由は幾つもあるが、統計的なものの見方にそこまでこだわりたくなかったことのも、科学ではなく写真を選んだ理由の1つである。
 生物学の学生時代、自分の実験結果から、直感的に、こうだ!と何かを感じても、それを統計的に証明できないといったことが何度かあった。そして、統計的に証明できないものは、科学の世界では認めてもらうことができない。
 それが、科学の世界のルールである。
 僕は、そこまでして、自分の実験結果を世間に認めてもらいたいとは思わなかった。むしろ、自分が実験の中で何かを感じることで、十分に満足であった。
 僕は自分が何かを知りたいのであって、僕が好きな自然は自己満足の世界であり、必ずしも客観的に証明できなくてもいいし、その結果科学として成立しなくてもいいと感じていた。

 例えば、ザリガニって野外で何年くらい生きるのだろう?と疑問に感じたとする。
 そこである一匹のザリガニに目をつけ、定期的にそのザリガニの隠れ家を観察し、5年目に、隠れ家からザリガニの姿がなくなってしまったとする。
 すると誰しも、ザリガニの寿命は5年くらいかな?と感じる。
 だが、科学の世界では、それだけではザリガニの寿命を調べたと認めてもらうことはできない。まず、そのザリガニを一度捕獲して、何か目印をつけなければならないだろう。
 仮に目印をつけなくても、観察者は、自分が毎日見ているザリガニは、様々なしぐさから、区別できるものである。
 だが、それは観察者の感覚に頼っているのであり、科学の世界では、個人の感覚を認めない。
 また、目印をつけないのであれば、ザリガニの色や形の中に、人間で言うなら指紋のような、一匹一匹を識別できる何かを見出し、それで個体識別ができることを先に証明しておき、その上で、私は5年間同じザリガニを観察し、5年後に姿が見られなくなりましたと主張しなければならないだろう。
 だが、これは、その個体識別だけで1つの論文が書けるくらいの大仕事になるに違いない。まず、手当たり次第にザリガニを採集して、
「ここを見れば、個体識別ができるよ!」
 と証明しなければならないのである。
 それが科学の決まりごとであるが、僕がそこまでのレベルで自然を知りたいとは思わなかったし、だから、写真を選んだ。
 写真家には、同じような感覚の持ち主が多いのではないか?と思う。
 かといって、科学の世界では感覚に頼らず証明しなければならないことが間違えているわけではない。僕の好みには合わないだけである。

 さて、ここ数日で、10匹以上のザリガニの脱皮を観察することができた。
 ザリガニが脱皮をする前には、大抵は幾つかの兆候が見られるが、中には、ほとんどそうした兆候なしにある日突然脱皮をしてしまう例もある。
 が、ほとんど兆候がない場合も、集中してじっくりとザリガニの脱皮を観察した結果、直感としか言えないような微妙なザリガニの行動の変化が感じられるようになった。
 こいつは来るぞ!と予感がするのである。
 そうした観察は、科学と言うよりは、占いといったレベルであるが、僕にはそれで十分である。
 占いが当たると、僕は、むしろ科学的に証明できたときよりも愉快なのだ。

 

 2005.9.21(水) 撮影機材の話

(撮影機材の話)
 ニコンを主に使用する僕だが、先日キヤノンのイオス5Dを注文した。初回の出荷分は、どうも僕には回ってこないようで、僕の5Dは10月上旬に届く予定である。
 イオス5Dといえば、フルサイズのイメージセンサーを搭載するカメラである。
 が、正直に言うと僕は、フルサイズのセンサーがそれほどのものとは今のところ思っていない。多分、APS−Cと呼ばれている現在主流の多くのデジタル一眼レフと、長時間露光や高感度での撮影を除いて、画質面では区別がつかないレベルではないか?と予想している。
 今月号のデジカメ雑誌には、その5Dで撮影された画像が掲載されているが、どれをみても、どこがAPS−Cよりも優れているのか、雑誌の紙面上ではさっぱり分からないというのが正直なところだ。
 むしろ、どこか画像が甘いような気もする。
 ただ、もしも買わなければ、フルサイズのセンサーを持つデジタルカメラの実力が気になってしかたがないだろう。だから、買って、確かめてみるのである。

 

 2005.9.20(火) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

 2005.9.19(月) やり直しのやり直し

 10日の日記に仕事のやり直しを求められたことを書いた。
 仕事とは植物のやや特殊な状況での撮影であるが、今度は、そのやり直しがうまく行かず、やり直しのやり直しを余儀なくされている。
 より正確に書くと、現在は、やり直しのやり直しのやり直しのやり直しの段階であり、さすがにこれだけ失敗が続けば、僕もうつ気味になる。自分がただ生きていることさえも、苦痛に感じられてくる。
 最初に納めた写真は、クレームがついたものの、植物の葉っぱの広がり具合がたまたま完璧ではなかっただけであり、決定的に悪い写真ではなかった。
 ところが、今回失敗を繰り返している撮り直しの分は、それ以前の問題であり、その撮影のための準備段階でつまずいてしまう。
 もしかしたら季節的なものであり、その植物が育たない条件になっているのかもしれないが、何はともあれ、根気強く取り組むほかない。自然写真といえども、仕事は時には辛いこともある。

 昨日僕は、ザリガニの脱皮をじっくりと観察しつつ、カメラを向けたことを書いた。
 ザリガニの脱皮は、ザリガニを飼育していれば、力まずともいつかは自然に撮れるシーンであろう。が、自然に撮るのではなくて、狙って自在に撮ることを目指していることも書いた。
 なぜ、そんなに力を入れようとしているのか?
 それは、徹底的に研究しておかなければ、今回の植物の撮影のように、ある時は上手く撮れても、また別の機会には、全く撮れないといった状況に陥ってしまうからである。
 僕は植物の専門家ではないし、植物の撮影の依頼は決して多くはない。したがって、植物であれば多少の右往左往は受けて立とうと思う。
 だが、ザリガニは僕がテーマとしている水辺の生き物であり、撮影の依頼も多い。それだけ仕事の数が多ければ、自信を持っておかなければ堂々と仕事を受けることができにくいし、仕事としては成り立たなくなってしまうからである。

 

 2005.9.18(日) 片手間

 12日の日記に、
「これからアメリカザリガニが次々と脱皮をするのではないか?」
 と書いたが、予想は的中し、以後、僕が飼育中のザリガニは、毎日一匹以上が脱皮をしている。
 夏〜秋へと切り替わるちょうどこの時期に脱皮のピークがあるのだろう。
 昨日はその中の一匹を写真に撮ることができた。そして今日は、新たにまた一匹、脱皮の様子を撮影することができた。
 おかげで、昼間仮眠を取り、夜を徹してカメラの前で待つという生活が4日ほど続いたが、脱皮の兆候やその他、かなり詳しく知ることができた。
 
 アメリカザリガニの脱皮を待っていると、水槽の同居人であるヤマトヌマエビがこちらを向いたまま、体を掃除しているのでカメラを向けてみた。
 そう言えば、以前に、水辺の生き物の顔を多数撮影したことがあり、その際にはヤマトヌマエビにもカメラを向けた。
 だが水槽を目の前にして、かなり頑張ったが、これといった写真は撮れなかった。
 ところが、今回は、片手間でヤマトヌマエビらしい顔が写った。顔の写真は表情が命であるが、とても微妙なもので、ちょっとした角度の具合で表情が見えてきたり、また、ただ形を写した写真に成り下がってしまったりする。
 
  顔の撮影を終えると、今度は付近で体の掃除を始めたが、これも、なかなかポーズがユニークでよろしい。
 こういう写真も、ただ体の掃除を説明する写真を撮ることは容易いが、それ以上の写真を撮るのは難しいものである。撮るぞ〜と気合を入れて待っていたら撮れるというものではない。
 今日のような日は、何だか得をしたような気がする。この小石は、ザリガニの撮影の邪魔になるのでは?と思い、取り除こうと思ったが、なぜかわからないが放っておいたのである。
 
 僕は以前、アメリカザリガニも、今日のヤマトヌマエビのような感じに撮影してきた。水槽の前でカメラをいつでも使えるようにセットしておき、力まずに、適当に、折を見て撮影するのである。
 それで脱皮を撮影したこともあるし、それがお金になったこともある。
 だが、今回はそうではなくて、脱皮を撮る!と気合を込めて臨んでいる。これは、ただ写真を撮るのではなく、あたかも研究者のように観察し、脱皮に関して詳しくなることも、目的の1つとしているのである。
 計画を立てても撮れない写真もあれば、覚悟を決めて臨まなければ見えないものもあると、僕は感じる。

 

 2005.9.17(土) ザリガニ写真オタク

 アメリカザリガニの背中と尾っぽの間に隙間ができたら、間もなく脱皮が始まる。
 今シーズンは、アメリカザリガニの脱皮を4匹分撮影したいと考えている。今日は、ようやくその第一弾を撮影することができた。

 アメリカザリガニは非常にポピュラーな生き物であるし、写真の需要も多い。
 にも関わらず、まとまった量の本当にいい写真を、僕はまだ見たことがない。
 なぜ、アメリカザリガニのいい写真がないのか?と言えば、水槽を使って撮影しなければならないシーンが多いからである。そして水槽撮影には様々に制約が付きまとい、なかなかに難しいのである。
 その写真の多くは、アメリカザリガニに対して愛情を持っている人が撮影したものではなく、どちらかというとあくまでも仕事で、生活費を稼ぐために撮影された写真だと感じる。

 僕は、これまでにも、そこそこの量アメリカザリガニは撮影してきた。だが今回は、ザリガニといえば武田の写真!と真っ先に業界の人が思い浮かべてくれることを目標とする。
 要するに、日本一のザリガニ写真オタクを目指すのである。
 
 

 2005.9.16(金) 美を理解する心

 以前、写真を片手に、ある著名な編集者に会いにいったことがあるが、その方を仮にSさんとしておこう。名目は、「写真を見てもらいたい。」であったが、実を言うと、話がしてみたいというのが本当の理由である。
 Sさんは、かつて雑誌の記者だった時代に、田中角栄総理大臣にインタビューをした際の話を聞かせてくださった。そして、田中角栄総理大臣の迫力と政治家としての実力を評価した上で、
「田中角栄という政治家に、もしも美を理解する心が備わっていたなら、今の日本はもっと違った姿になったのではないだろうか?」
 とおっしゃった。 
 僕は、例えば、電柱がない日本の風景を見てみたいと思う。

 政治家と言えば、僕の自宅がある直方市は選挙の際の区割りでは福岡8区になるが、麻生(あそう)太郎さんという衆議院議員がおられる。
 麻生さんは、吉田茂元総理大臣の孫である。次の総理大臣に一番近いというもっぱらの噂でもある。
 かつて、自民党の総裁に立候補したこともある。その際には、麻生さんの他に橋本龍太郎さんと小泉さんが立候補し、当時は大変な不景気であったが、小泉さんは何を聞かれても
「構造改革なくして、景気の回復なし」
 で押し切り、緊縮財政を主張したのに対して、麻生さんは、
「緊縮財政では、益々景気が悪くなり、デフレスパイラルに陥る。」
 と、景気に対する刺激策を主張された。
 ユニークだったのは、その景気の刺激は従来の道路や箱物作りではなく、電線を地下に埋め、光ファイバーを一気に普及させるといった内容であった点だ。
 もしも麻生さんが総理大臣になったら、電線を地下に埋めてもらいたいのである。
 僕は、きれいな景観をきれいだなぁと感じる心なしに、日本の自然が豊かに維持されることはないのではなかろうか?と感じる。

 あと1つ麻生さんが主張したのが、海外でも人気の日本の漫画を国として保護し、日本の産業と言えるなレベルに育て上げるというものであった。麻生さんは、漫画が大好きなのだそうだ。
 僕は、これには反対である。
 漫画だとか、ロックだとか、写真は、遊び心や反骨精神あってのものであり、いわゆるクソ真面目なエリート君たちから、
「くだらねぇ。」
 と、軽蔑されることにも、どこか快感があるのだ。国が保護などしてしまったら、面白くないのである。
 もっとも、もしも保護するのであれば、僕は優先的にその中に入れて欲しい・・・。

 

 2005.9.15(木) 理想

 僕は、仕事の写真と趣味の写真とを、同じ自然写真でも、比較的はっきりと区別している方だと思う。
 仕事は、とにかく相手のニーズに応えることに徹し、趣味の場合は、本当に好きなシーンを好きなだけ撮影すると、あらかじめ心に決めている。つまり、仕事は技術重視、趣味は自分の思い入れや好みを大切にし、極端な話、写真が全く売れなくてもいい。
 仕事の写真は、ここ数年の売り上げを見ると、6割以上が児童書向けの写真撮影になった。そして、これからも、僕は、その児童書の世界で自然写真の技術を頼りに生きていくつもりである。
 ただ僕は、たとえ仕事であっても、ニーズに応えることと自分を表現することが相反するとは思っていない。

 写真家が一枚の写真に込める思いは、人それぞれである。
 例えば、ある写真家は、都会の町を背景にして、町の中の生き物を撮る。人が作り出した環境を既存の生き物がどのように利用し、今という時代にいかに適応し、また適応できないでいるのかを見せようとする。
 またある写真家は、失われてしまった古き良き日本のイメージを伝えようとする。
 僕は、児童書の中では、そのどちらでもなく、
「こんな社会がいいな〜。」
 と、
「こんな自然と人との関係であって欲しいな〜。」
 と、僕が目指したい未来の様を見せたいと、最近考える。
 僕が写真をはじめた当時と比べると、最近は、今を訴える自然写真家が増えたように感じるが、そこに、その人が思い描くビジョンや将来の日本の社会の様は写っていないと感じる。
 もちろん、今を分析することも、また過去を振り返ることも大切なことであろう。だが、こんな景色を目指そうよと理想がない分析は、片手落ちであると思うのだ。

 

 2005.9.14(水) 映像表現

 選挙の際の民主党のテレビコマーシャル、僕は大変に洒落た映像表現であると感じた。
 白の背景で岡田代表が登場し、岡田さんのさまざまな声色の叫びが時に大きな声で、時に小さな声で流れる。
 構図は大胆。画面の切り方もおしゃれであり、デザインにこだわる人の中には、ふ〜んと興味を持って画面を眺めた人もおられるのではないだろうか?
 自民党の方は、固定された画面で小泉総理が淡々と話をするという内容である。お世辞にも、きれいな映像表現ではないだろう。
 だが、内容は自民党の方が断然にいいと、僕は感じた。コマーシャルで何をしたいのかがよく伝わってきた。
 それは、衆議院の解散の日の小泉総理の鬼気迫る演説の雰囲気を再現したものであり、自分たちが何をきっかけに、何を旗印に選挙をするのか、それが大変に明確であったと思う。多くの人をひきつけた総理大臣の演説を忘れないようにさせる狙いがよくわかった。
 デザインや映像表現の面白さというのは、しばしば、その程度のものなのである。表現の面白さや美しさは、まず最初にメッセージあってのものである。

 ザリガニやメダカが本来生息する里の水辺の雰囲気を表現できる場所は、大変に少ない。自然と人工物とが調和した景色を探し出すことは、しばしば、手付かずの自然を探すことよりも難しい。
「今は、人工物が避けられないほど存在することも事実なのだから、ありのままに撮ればいいじゃない!」
 と主張する人もおられる。
 だが、僕は、自然と人工物とがもっと穏やかに調和して欲しいと望む。その思いを、写真に込めるのである。

 

 2005.9.13(火) 機材の話

(撮影機材の話)
 ニコンのD2X、本当に素晴らしいカメラだなぁ!と感じる。
 最近のカメラは、メカであると同時に、電気製品である。そして最近は、電気製品の部分ばかりに改良が加えられ、メカの部分が置き去りにされる傾向にある。
 だが、D2Xはメカとしての完成度が高く、ただ写真が撮れるだけでなく、実に気持ちがいい。
 これを手にすると、
「写真を撮るぞ〜。」
 と気持ちが高ぶるのである。

 キヤノンのカメラとの違いは、絞りの表示方式であることは以前にも書いた。キヤノンは露出倍数を含まない値を表示するのにたいして、ニコンは露出倍数も含めた表示である。
 つまりキヤノンのカメラの場合、撮影距離を変えると、露出倍数のかかり具合も変わり、実質的な絞り値が変化する。だが、ニコンのカメラの場合は、例えば、露出倍数こみでf8にレンズの絞り値を設定すると、たとえ撮影距離を変えても、露出倍数こみでf8のままである。
 ニコンの方式は、スタジオ撮影では、実に都合がいい。
 スタジオ撮影では、まず照明の位置を決める。
 それから照明の強さとカメラの絞り値を決める。
 ところが、キヤノンのカメラは、撮影距離を変えるたびに露出倍数も変わるので、距離をかえるごとに、露出倍数の変化分、絞りを調節しなければならない。
 それがニコンのカメラの場合は、全く不要なのである。
 ザリガニにぐっと近づいても、ザリガニから離れても、カメラの設定を扱うことなしに、常に同じ露出が得られるのである。

 

 2005.9.12(月) マイナス志向に

 先日ある昆虫の写真家が、蛾の羽化の様子を撮影した写真を見せてくださった。
 それは、ただ単にさなぎから成虫が出てくるようなシーンではなく、その直後の非常に特殊な、そして不思議な行動が見事に写し取られた写真であり、写真の質、写っている現象の面白さともに完璧。
 まさにプロの仕事であった。
 そんな写真をまのあたりにすると、知らず知らずのうちに気持ちが高ぶり、力が湧いてくるものである。写しにくい現象の撮影にチャレンジしたくなる。
 ところが、どうも僕は夜に弱い。
 そして困ったことに、その夜中に、羽化や脱皮といった現象は生き物の種類を問わずしばしば集中する。
 昼間の僕のヤル気は、夜中には不思議なくらい見事に失せる。さらに、性格面でも、マイナス志向で弱気な人間へと早変わりする。
 そうした現象はあながち気のせいではないと、大学時代に、体内時計の研究の第一人者であった恩師から教わったことがある。
 メラトニンだったか何だったかが、昼間に少なく、夜に多く分布されるように体内時計によって調節され、その物質が人の生理機構に影響を与えるだけでなく、メンタル面にも多大な影響を与えるのだそうだ。
 確かに、よく考えてみれば、人の脳の活動も電気活動であったり、化学反応の結果である。
 
 昨晩のアメリカザリガニは、やはり脱皮を実行した。それから、つい先日も一匹、やはりアメリカザリガニが脱皮した。
 恐らく、ここ数日の夏〜秋への気温の変化を感じ取り、春夏向けの殻を脱ぎ捨て、秋冬向けの殻に着替えをするのではないか?と、僕は推測するが、その予測が正しいのなら、これからひと月くらいの間に、次々とザリガニの脱皮が見られるはずである。
 今シーズンは、すでに引き受けている仕事の都合で、アメリカザリガニの脱皮を数パターン撮影しなければならないが、ならば、今回徹夜をしてザリガニの脱皮をひたすら待つよりも、ザリガニがよく脱皮をする時間帯を掴んだ方がいい。徹夜をすると、その分、他の仕事にしわ寄せが行ってしまうのである。
 そこで昨日は、深夜の2時までと時間を区切り、脱皮を待った。
 その時間帯に脱皮をしない場合は寝てしまい、翌朝6時に起きて脱皮の有無か確認する。そして、早朝6時にすでに脱皮を終えていたならば、次回脱皮しそうなザリガニを見つけた場合は、あらかじめ昼寝をしておき、深夜の2時〜早朝6時くらいの間に的を絞って待つ。
 昨晩は、そんなちょっと長期的な展望でザリガニを待った。

 

 2005.9.11(日) 自然観

 ものの本には、
「アメリカザリガニは脱皮をする前に黒くなる。」
 と書かれているものがある。
 が、そんな際立った兆候なしに脱皮をする個体も多く、僕はこれまでに黒くなる現象をはっきりと実感したことがない。
 ところが、現在飼育中の個体の中の一匹が、明らかに黒くなった。色の変化だけでなく、動きも悪く、脱皮をする前の雰囲気に近い。
 果たしてこのザリガニは本当に脱皮をするのだろうか?もしそうなら、是非、この続きを写真に撮りたいと思う。
 さて、水槽の中でその脱皮のシーンを撮影したとする。それは、自然状態ではないから不自然であり、無意味な写真なのだろうか?
 
 あるアマチュアの写真家が、自然という言葉について、自らのホームページの中でその思いをぶつけておられるのを読んだ。
 例えば、野鳥を調査する際に野鳥に脚輪をとりつける。その野鳥はすでに脚輪の存在によって自然状態ではなく、その鳥の行動は不自然であるとその方は考えた。
 したがって、仮に調査の結果から渡り鳥の移動のルートなど何かが分かったとしても、それは本来の野鳥の行動とは言えず、無意味なのではないだろうか?という投げかけであった。
 これは、自然科学の世界で用いられる自然という言葉と、日本人が日常生活の中で人が用いる自然とをごちゃ混ぜにしてしまった間違いである。
 日本人は、通常、人が手を加えない状態を自然と表現する。
 例えば、カワセミが魚を捕らえるシーンを撮影するために水辺に池を作り、人の手で魚を放し、その上でカワセミを撮影すると、多くの日本人がそれを人工的で不自然であると考える。
 ところが、科学の世界では、それは不自然ではない。
 写真が撮影された池が人工かどうかは問題ではなく、そのカワセミがいつも通りのやり方で餌を捕ったかどうかが問題なのである。
 逆に、全くの自然状態でカワセミの捕食シーンを撮影したとする。
 だが、完全な自然状態で撮影された写真にも、たくさんシャッターを押せば、中には、例えばカワセミの翼の広げ具合が何だかおかしな写真が紛れ込んでくる。科学の世界では、たとえ全くの自然状態であっても、そうした日頃のカワセミの行動から判断して典型的ではないケースは不自然であると考える。
 つまり、そこに人が介在したかどうかではなく、日頃のある生き物の行動yや性質の中から典型を見出そうとするのが科学であり、その典型のことを科学の世界では自然と呼ぶ。

 2つの自然のうちのどちらが正しいわけでもない。好みの問題である。
 が、僕は、色々な生き物に接してきた経験から、野鳥に取り付けられる脚輪からは、本来非常に多くのことが分かるはずだと感じる。
 僕の身の回りには、昆虫オタクや魚オタクや・・・さまざまな生き物のファンが存在するが、例えばトンボ好きであれば、彼らはほんのわずかなトンボの痕跡から実に多くのことを嗅ぎ分ける。
 野鳥も同じではないか?と思うのだ。
 もしも野鳥に脚輪を取り付けた人全員に、脚輪に関するすべてのデータを提出する義務があり、誰でもがそのデータを閲覧できれば・・・
 渡り鳥がどこからどこへ移動したのか?大変にディープな部分が分かってくると僕は信じる。
 また、脚輪の取り付けによって何%くらいが死んでしまうのか?どのようなケースで脚輪を取り付けられる野鳥の死亡率が高くなるのか?調査と言えども、野鳥の捕獲を止めなければならない部分も分かってくるだろう。
 野鳥に脚輪をつけるためには許可を受ける必要があるが、許可を与える側は、許可だけを与えておいて、得られたデータを熱心に生かそうとは考えていないようにように感じる。
 ただ鳥を捕まえ脚輪をつけるのは、研究ではなくて採集ではないだろうか?採集が推奨されているようでいて、僕には、研究や科学がおかしいのではなくて、そこがおかしいように感じられる。

 

 2005.9.10(土) ついで

「秋の気配漂う湿原に出かけよう!」
 と予定を組んでいたら、1つ仕事が割り込んできた。
 新しい仕事ではない。この6月に主なシーンの撮影を終え、すでに画像を納めた仕事のやり直しであり、
「ちょっと気に入らない部分があるから、追加撮影を・・・」
 という依頼である。
 依頼の内容は、言われてみれば、実にもっともなものであった。
 そして、最初に写真を撮る段階で、本当に注意深く臨んでいれば、回避できる類の撮り直しでもあった。
 今年は、昆虫の撮影でもそれに近いケースがあった。
 ある昆虫の撮影を終えしばらくすると、別の出版社から全く同じ虫の撮影の依頼があった。
 最初の仕事をする際に、依頼されたシーン以外で、
「ついでにこんなシーンも撮っておこうかな・・・」
 と、あるシーンの撮影を思いついたのだが、早起きが苦痛だったので、
「まあいいや!」
 とさらりと流したら、今度はまさにそのシーンの撮影の依頼が来た。
 その時に撮っておけば早起きをするだけで済んだものが、また新たに昆虫採集からはじめ、さまざまに準備を整え直し、さらに早起きをして撮影しなければならなくなった。
 ちょい、詰めが甘かったようである。
 生き物の撮影は決して儲かるものではないので、与えられた撮影をこなすだけでは、なかなか仕事としては成立しない。
 1つ仕事をする時に、ついで先を見越して様々なシーンを撮っておくことも大切なのである。

 

 2005.9.9(金) 煩悩

 小動物の写真の世界は工夫のるつぼである。写真家は、目的とするシーンを撮影するためにさまざまなアイディアを搾り出す。
 そうしたアイディアは滅多に公表されることもないし、他の人がどうやって写真を撮っているのか、同じ仕事に携わる僕にも正確なことは分からないが、それでも、人の写真を見れば、8割以上はそのノーハウが見抜けるつもりではいる。
 ノーハウと言えば非常にスマートな印象を与えるが、中には、生き物に対して負担を強いる撮影方法もある。時には、いい写真を撮るためには無理が必要なこともあり、いい写真を撮ることと、生き物に対して優しくあることは、しばしば相反するのである。
 先輩方の写真を、その先輩が若かった頃から出版物の中でずっと追いかけていくと、年を取るにつれて自然に対して優しくなっていく人と、次第にえげつなくなる人とが存在するように感じる。
 ただ、長く自然写真業界で仕事を続けることができる人は、次第に優しくなる方向に変わっているように僕には感じられる。

 僕は、自分が下世話であるから、エリートタイプの人はあまり好きではない。例えば、子供の頃にクラスで学級委員を務めることができるようないい子ちゃんとは、気が合わないことが多い。
 煩悩を持った人が好きでもある。
 写真家なら、マナーという一言ですべてを律することができる人よりも、
「いい写真が撮りたい!写真で飯が食いたい!」
 と、つい無理をしたい人が好きな傾向にある。
 だが、そんな僕も、例えば、
「プロは稼いで何ぼだ!」
 と、開き直る人は好きではない。煩悩を持った上で、でも自分を律することができるようになりたいと、もがく人が大抵は好きである。
 煩悩が分からない人は、むしろ無関心なのではないだろうか?
 虫好きの人であれば誰しも虫を飼育した経験があり、そして、
「虫が好きなら、虫が自由になれるように放してあげようよ。」
 と一度くらいは周囲の大人に勧められた経験を持つのではなかろうか?
 だがそうアドバイスをした大人は、虫には興味がないのだと思う。むしろ、自分が虫を遠ざけたいのだと思う。
そこからは、優しさも、全く何も生まれないような気がする。
 多少の試行錯誤を許し見守る大らかさと、それでも、本当におかしいことにはおかしいと言える強さが、どちらも欠けてはならないのではないか?と、最近感じる。
 ただ、強くなることはしばしば難しい。自分ひとりでは、なかなかそうなれるものではなく、先輩方がもがき、そして変わっていく姿だけが、説得力を持つように思う。

 

 2005.9.8(木) 思いやり

 ある写真家が、バンディングと呼ばれる野鳥の調査に対して一石を投じたことは、8月分の今月の水辺の中で書いた。
 バンディングと呼ばれる調査が野鳥に結構な負担をかけることも、その時に書いた。
 ただ、まだ伝わらないだろうなぁという思いも、若干残った。
 調査と言えば実に響きがよく、野鳥の調査をしていると言えば、多くの人が、
「ふ〜んいい事じゃない!」
 と、思い込んでしまう傾向にある。
 調査の過程で、網にかかった野鳥がショック死をすることもあると僕は書いたが、それでも、多くの人は、
「多少はねぇ、仕方がないでしょう。」
 と考えるに違いない。
 ところが実際に調査に携わっている人が明らかにしてくださったデータを見ると、
「うわっ、死亡率が結構高いなぁ!」
 と僕は大いに驚きを感じる。多くの人が思う「多少の犠牲」の次元ではないなぁと、思わざるを得ないのである。
 野生の鳥は、特に小鳥は、想像以上にデリケートな生き物のようだ。

 一方で、調査に参加したことがある人に話を聞くと、非常に多くの人が、
「あんなの調査じゃない!」
 という。
 調査の常連さんたちの調査中の態度はしばしば真剣味に欠け、実に雑に野鳥を扱い、調査のために必要最低限鳥に触れるのとは程遠く、笑いながら野鳥を扱いまわすようなケースや、野鳥をおもちゃのように扱うことも、決して稀ではないようだ。
 他にもさまざまな話が伝わってくるが、一言でいえば、心を込めて調査をしている人の数に対して、不謹慎な輩の割合が非常に高いのである。
「こんなの絶対におかしい!」
 と日頃温厚な人が憤り、二度と調査には参加しないという人が僕の身の回りにも数人おられる。
 ある写真家とは、野鳥の写真家・和田剛一さんであるが、和田さんの調査に対する戦いは、そうした状況を踏まえた上での行動なのだ。
 
 さて、野鳥と昆虫や小動物は、必ずしも同じように見てはならない。
 例えば、うちの中にゴキブリが這っていたのなら叩き殺せばいいし、あなたの腕から蚊が吸血しているのであれば、迷わずたたき潰すべきである。
 その蚊をそっと捕らえ、ちょっと意地悪して人間の怖さを教え込んだ上で、
「だめだよ。人間から血を吸っては。」
 とどこか山の中に放すなどという愛情の持ち主がいたら、その人は偽善者であろうし、僕は笑い転げる。
 ただ、それでも生き物の死を、笑いのネタやエンターテインメントにはしたくはない。例えば、吸血に来た蚊を殺し、ギャグ風にそれをインターネット中継するような人がいたら、僕は、そうした振る舞いを間違いだと思う。
 今日のザリガニは以前に撮影したものであるが、昨日の画像と異なるのは死んだものを撮影している点だ。
 昨日の画像のザリガニは生きているので、何百枚と撮影しても、手が8本あることすらなかなか分かり辛い写真になる。が、今日の画像は死んでいるのだから、手を広げさせたり、体のパーツがすべて見える写真を撮ることができる。
 これは、他に解剖しなければ撮影できない仕事があり、その際に、解剖をする前に標本として撮影しておいたものだ。
 しかしながらどんな理由があっても、自分が自分なりにどれだけ気を配っても、生き物に負担をかける行為は非常に泥臭く、笑ったり、ジョークにする気にはなれない。
 野鳥の調査もしかりである。
「いや、たとえ人間が笑い転げていても、野鳥に人間の笑いの意味は理解できんよ。」
 と主張するリアリストもおられるだろうが、そこにその人の思いやりが現れているのではないだろうか?
 その思いやりは、調査の様々な局面でにじみ出るに違いない。

 

 2005.9.7(水) 画像処理

 最近になってようやく、デジカメが使いこなせている!という実感がある。
 デジカメと言えば、昨年の春にまず手始めにペンタックスのistDとニコンのD70を手に入れ、今年になってニコンのD2Xを購入したが、そのD2Xで撮影した画像も、とうとう2万枚を越えた。
 だいたい癖や傾向は掴めてきた。
 以前は、撮影した画像をある程度ためこんでおき、定期的に画像を整理する日を設けていたが、最近は、撮影したその日のうちに必ず画像処理を施す。
 小学校の遠足の時に、先生によく言われた、
「家に帰りつくまでが遠足です!」
 ではないが、画像処理を施すところまでを撮影と考えるようになったのだ。
 僕は、パソコン上で画像を複雑に扱うことは滅多にない。
 だが、画像のコントラストは、必ず一枚ずつ注意深く調整する。それから、画像処理ソフトを使用して、画像のファイルの中に、写っている生き物の名前や撮影日や撮影場所を書き込んだデータを埋め込む。
 また、今日の画像のような標本撮影の場合、ザリガニを入れた白い容器にザリガニの糞や小さなゴミが貯まってしまうことが多く、そうしたゴミは、パソコンを使用して消しておく。
 ようするに、すぐにでも写真を貸し出せる状態にしておくのである。

 なぜ、その日のうちに画像処理をするのか?というと、フィルムの場合は現像してみなければ結果が分からないように、デジタルカメラの場合、実際に画像処理をして最終的な形にしてみなければ、本当に思い通りの写真が撮れているかどうかがなかなか分からないのだ。
 後ででまとめて画像処理を施そうとしたら、思ったよりも処理が上手くいかず、撮影そのものを条件を変えてやり直さなければどうにもならないことがある。
 そうした二度手間を省くために、その日のうちに画像を画像処理を施す。
 ただ、仕事が終わるのが遅くなってしまうのが問題であり、ここ数日は、朝の比較的早い時間帯に撮影を始め、午後の9時頃になって、疲れ果て、もう何もしたくない状態でようやく仕事が終わるというありさまである。撮影以外の雑用が、どんどん貯まってしまう。
 それはそれなりのペース配分を考える必要がありそうだ。
   
 

 2005.9.6(火) 外来生物

 政治の世界のことはよく分からぬが、内閣の組閣の結果に対して、
「何でコイツが大臣なの?」
 と不満や疑問を感じた経験をお持ちの方は、少なくないのではなかろうか?
 僕は、
「なんで小池ゆりこさんが環境大臣なの?」
 と以前に不満を持っておったが、あることきっかけに、いつの間にか小池さんを応援するようになった。
 あることというのは、特定外来生物被害防止法である。
 この法律は外来生物による生態系や農作物への被害を防ぐためのものである。この法律の対象となった外来の生き物は、移動その他が制限され、いわばブラックリストに登録された状態になる。

 その法律の対象となる生き物の中に、ブラックバスを含めるかどうかは、水辺の環境に興味を持つ者の間ではそれなりの議論になった。
 ブラックバスは強力な肉食魚である。日本に本来生息する水辺の生き物たちを大量に食べる。
 したがって、ブラックバスが、日本の水辺の自然に与える悪影響は決して小さくない。
 ところが、日本の水辺の自然を愛する多くの人が、ブラックバスを法で規制すべきと考えていたのに対して、釣具業界は大反発をした。
 ブラックバスは釣りの対象として日本に輸入されてきたのであり、人気があり、そこに釣り人が落とすお金は大きい。
 したがって、ブラックバスが規制されると釣具業界が縮小し、業界で商売をしている人たちが生活できなくなる可能性があるというのが、反対派の理由であった。
 どんな法律でも、定めようとすると必ず反発する団体が存在し、懇意にしている政治家に陳情に赴き、法律が成立しないように活動し、骨抜きのザル法なるように働きかける。
 ブラックバスもそうした圧力の結果、特定外来生物被害防止法の対象にはならないことがほぼ決定されていたところ、小池環境大臣が、
「ブラックバスは指定します。」
 と、たった一言でひっくり返してしまったのだ。
 郵政の民営化のような非常に多くの人に関わる法律は別にして、生き物に関する法律程度であれば、リーダーさえまともな判断力を持てば、たった一人の一言で変えれることを教えられたのである。

 さて、アメリカザリガニも外来種だ。
 子供の間では大変に愛されている生き物であるが、環境という側面からは嫌われ者である。子供向けの小動物の写真を多く撮影する僕としては、アメリカザリガニにカメラを向けると、非常に複雑な思いになる。
 アメリカザリガニと言えば、大きなはさみで魚を捕まえているシーンが有名だ。が、僕は非常に多くのアメリカザリガニを飼育しているにも関わらず、過去にメダカ〜フナやタナゴまで、生きている魚が食べられた例はゼロである。
 仲間どうしで共食いはするが、生きている他の生き物を襲うことは滅多にないのではなかろうか?例外はオタマジャクシであり、オタマジャクシだけはよく食べられる。
 ともあれ、多くの人がイメージしているような生態系に対する悪影響はないのではないか?と、僕は感じている。
 そうしたことがあまり知られないまま嫌われている面もあり、僕は、アメリカザリガニの本を作るのであれば、見るからに凶暴な姿ではなくて、本当の姿を描いてみたいと思う。

 あと一つ大切なことがある。
 それは、ある外来の生物が人にとって有害かどうかとは別に、たとえ害がなくても、そうした生き物を野生化させていいのかどうかの議論である。
 これは、ブラックバスとはまた別の問題であり、ごちゃ混ぜにしてはならない。
 今日は、アメリカザリガニのオスを撮影してみた。オスはハサミが大きいのである。
 

 

 2005.9.4(日) 定番

 前回の日記に3匹のカタツムリの画像を掲載したが、『大中小3匹のカタツムリ』というシーンは幼児向けの生き物の本の中では定番であり、よく写真が使用される。
 僕はその需要を見越して、あらかじめ売れそうな写真を品揃えしたことになる。
 僕の場合は、そうして小動物の写真を売り、その売り上げで野鳥にカメラを向け、渓谷の風景を撮影し、水中写真を撮る。
 したがってカタツムリやその他小動物の撮影は仕事であり、野鳥や水中写真や風景写真が趣味であると言ってもいいのかもしれない。
 もちろんその境界は曖昧であり、他人の目には遊んで暮らしているイカガワシイ奴に映るに違いないし、現実に趣味で撮った写真が売れることもある。
 だが、大きな目で見て利潤が上がるかどうかに注目すれば、仕事と趣味との間には明確な一線が横たわっている。

 初めて大中小3匹のカタツムリのシーンを撮影したのは、もう7〜8年前になる。
 その時はまだスタジオ撮影に本格的に取り組む前で、野外で自然光で求められたシーンを撮影した。
 なぜ、今はスタジオで、撮影用の照明を使用してカタツムリを撮るのか?といえば、写真のメカニズム上様々な問題があり、野外では撮影が難しいからである。
 当時はその難しい方法で撮ろうとしたのだから、3匹のカタツムリの写真は悲惨なものであったし、
「なんで3匹のカタツムリなんてシーンを考え出すんだ!蟻じゃあるまいし、カタツムリが行列なんて!」
 と、撮影を依頼してくださった相手に八つ当たりしたい気持ちにもなった。
 その後、何と!自然条件下で3匹のカタツムリの行列を目にしたことは、以前に書いた。
 一匹が歩けばそこが湿り、湿った場所を好むカタツムリにとっての道ができるのが、カタツムリの行列の仕組みであった。
 カタツムリに限らず他の生き物でも、定番のシーンに関して似た経験をが何度かある。定番というのは、全くのでまかせでもないようである。

 さて、僕のところに寄せられるリクエストの中で、他に定番と言えば、
「切抜きができる写真を・・・」
 という依頼がある。
 切抜きができる写真とは、写真の中から背景の部分を捨て去り、生き物の部分だけを取り出して使用するような写真であり、今日の画像はアメリカザリガニのメスの、切り抜き用の写真だ。
 メスは、まずハサミが小さい。
 それから、何となく体色が黒いことが多い。
 オスの場合、小さな脚の付け根には棘があるがメスにはない。
 メスは、尾っぽの裏側のフサフサした毛のような部分が、オスよりもずっと長い。
 それらの特徴が一枚に収まった写真を撮影してみた。
 捕らぬタヌキの皮算用であるが、この写真は絶対に儲けを生み出してくれると思う。願望を書いているのではない。ちゃんと勝算があってのことである。
 なぜ儲けを生み出してくれそうなのか?それは、また別の機会に気が向いたら書こうと思う。

 

 2005.9.2(金) メモ

 僕は、昆虫写真家の海野和男先生に多大な影響を受け、
「写真家になろう!」
 と決断したことを、過去に何度かこの日記の中に書いたことがある。
 初めて海野先生の元をたずねた時のことは今でもよく憶えているが、長野県の小諸にある先生のスタジオの机の上に、そのシーズン中に撮影しなければならない虫の名前が幾つかメモとしてリストアップされていたことを、今でもよく憶えている。
 僕はてっきり海野先生クラスになると左団扇で暮らしているのではないか?思い込んでいた部分があり、そのメモを見てちょっと驚き、また安心させられた。
 一流の人でも適当に感覚だけ生きているのではなくて、時にはそうやってメモを作り、自己管理をしつつ仕事をしていることを、その時初めて知ったのである。

 さて、昨年、
「大中小のカタツムリが並んで歩いている写真を・・・」
 とリクエストを受けた。
 カタツムリは貝であるから、僕が主な仕事としている児童書の中では水辺の生き物として扱われるケースが多い。
 したがって水辺をテーマにする僕は、カタツムリを数多く撮影しているが、大中小のカタツムリに関してはいい写真が手元になくて、仕方なく完全に納得できるわけではない古い写真を貸し出すことにした。
 そこは本作りに長けた編集者の実力で、写真は上手くレイアウトされた。決して悪くない出来栄えのページに仕上がった。
 だがしかし、
「送り出す段階で納得できる写真を!」
 とその時に感じ、そして、
「来シーズンは、大中小のカタツムリを忘れず撮影するように!」
 とメモを作っておいたのだが、ようやく昨日〜今日は、それを撮影することができた。
 今回の画像は、近々、間違いなく売れるに違いない。
 ただ、依頼が殺到する危険性がある。我こそは!と思う人は早目に予約を入れた方がいいだろう。ナンチャッテ。

 実は、この6月に同じシーンを撮ろうとしたことがある。
 ところが、カタツムリを3匹並べることができる程、節の長いアジサイの茎が見当たらず、しかたなく後回しにすることにした。
 僕は今日の画像のツクシマイマイという大型の種類を好んで撮影しているが、大型のカタツムリを3匹並べてみると、それは結構な長さになるのだ。
 その後、夏になり、うちの事務所の花壇に植えられたアジサイは葉を密に茂らせた。
 すると、日陰になった部分の茎はひょろ長く伸びる。3匹のカタツムリを並べて撮影するのにうってつけの茎が育った。
 
 

 2005.9.1(木) 隣の芝生

 僕は長いこと、大学院へと進学したことをコンプレックスに感じていた。
 コンプレックスと言っても日常生活の中でそれが現れるのではなく、自然写真家として生きていこうとした時に、
「進学した分、人よりも遅れてスタートしているんだ・・・」
 という思いが焦りへと変化し、そこから目をそらしたくなるのであった。
 僕が通った修士課程はわずか2年間である。したがって、
「たかが2年」
 と考える人もおられるだろう。
 だが自然写真のように、不安定で何も保障がない世界において、時間は非常に貴重なものであるし、時には、
「何歳までに目処が立たなければ、写真を諦めよう・・・」
 などと、年齢との勝負になることもあり得る。
 僕の身の回りで比較的遅くにプロを志した者は、共通してそんな焦りを抱えているように感じる。例えば、ある者は、
「俺はこの年からスタートするのだから、他の人と同じ方法ではやっていけない。」
 という。また知らず知らずのうちに、自分の年齢なりの、年齢に相応しい扱いを受けようとする。
 ところが写真の世界は結果の世界であり、どんなに年を取っていても、仕事の実績がなければ、なかなか取り合ってもらえない側面がある。
 結局仕事を選り好みせずに、まずは偶然目の前にこぼれ落ちてきた仕事に無心で取り組み、実績を作ることの方が、何倍も近道であるケースが少なくないように感じる。

 さて、僕が抱えていたコンプレックスであるが、僕と同じく科学出身のある先輩写真家が、昨年、
「進学が無駄なんて、そんなことないと思うよ。」
 とさらりと言ってくださった。
 その一言で、途端に気持ちが楽になった。
 自然写真を撮る人の中で、科学を学んだ経験を持たない人の中に、
「科学!科学!科学!」
 と必要以上に科学的なものの見方にこだわる人をたまに見かける。
 また、それとは逆に、
「学者の言うことなんて全くあてにならない!」
 と科学者を完全否定したがる人も少なからずおられる。
 科学を極端に崇め奉ることも、極端に否定したがることも、どちらも科学を知らない人の科学に対する一種のコンプレックスではないか?と思う。
  僕は、自然写真だからといって科学の目が必ず必要であるとは考えていないし、また、科学を勉強したからといって、それが今の自分にとって大いに役立っているとも感じていないが、
「科学を勉強して、どう役に立っていますか?」
 と問われたならば、
「必要以上に科学を崇め奉ったり、否定しないですむことです。」
 と答えたい。
 進学したことがコンプレックスに結びつくこともあれば、また科学を学ばなかったことがコンプレックスへと結びつくこともある。隣の芝生は青いのである。
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年9月分


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