撮影日記 2005年8月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2005.8.31(水) やや良し

 ここのところ調子が上がらないことは昨日書いたばかりであるが、もしも本来の調子であれば、この8月に何箇所か行ってみたい場所があった。
 例えば、マルタンヤンマというすばらしく美しいトンボを探しに行ってみたいと考えていたし、また、ある昆虫写真家が熊本県の阿蘇で昆虫採集を予定しておられることを知り、その場にお邪魔をして昆虫採集を手伝い、ついでに話でも聞きたいものだとも考えていた。その方に、以前にカタツムリの採集を手伝ってもらったこともあり、今度は僕の番だと内心予定していたのだ。
 それがどうしたことか、最低限の仕事だけをギリギリこなし、あとはボ〜っとして過ごす日々が続き、不調のどん底に陥ってしまった。
 ただ、今日は若干いい。
 元々、一日おきに悪い日と多少いい日とが交互に訪れる傾向にあったので、ただ単に今日がいい日にあたっただけかもしれないが、それ以上に、気分が楽な感じがする。
 とすると、昨日までやたらに辛かったのは、8月末に重なってしまった幾つかの締め切りがストレスになっていたのだろうか?
 写真家の性であろうが、締め切りの範囲内で最高の写真を提供したい!と思うのだが、その思いが強過ぎると、逆にそれがストレスになり、手が動かなくなる。
「まあ、これでいいでしょう!たかが生き物の写真だもん」
 というくらいの多少のルーズさも、仕事をする上では必要であると感じることは多い。
「限界までこだわって素晴らしい!」
 と褒めてくださる方もおられるが、そうではない。ただそんな性格に生まれ付いてしまっただけである。
 僕のような性格の場合は、むしろこだわり過ぎず、まあいいじゃない!と自分にいい聞かせることも大切であるし、逆に、日頃まあいいや!というタイプの人は、頑張ることも必要であるのかもしれない。

 

 2005.8.30(火) 締め切り

 8月いっぱいが締め切りの仕事を幾つか抱えていたのだが、もうタイムリミットである。昨晩、画像をCDに焼付けて発送する準備を整え、今日は、ようやくそれらの締め切りから開放された。
 締め切りというヤツは、やはり辛いものだなぁ〜と感じる。
 今年はイマイチ調子が上がらないので困る。特に8月の状態が悪くて、今回の締め切りは、すべてが僕にとっていっぱいいっぱいであり、まるでゴールと同時に倒れ込んでしまうマラソンのランナーのような状態に陥ってしまった。
 僕の場合、調子とは技術ではなくて、しばしば気持ちの問題であり、どうしても集中できないことがある。とにかく、何もする気にならないのだから始末が悪い。

(撮影機材の話)
 今年は昆虫の撮影の依頼が多いが、虫をある程度まとまった量撮影してみると、昆虫写真家の気持ちがよく分かる。
 例えば、昆虫の写真家には、シャープな写りのレンズを好む人が多い。
 一般的にシャープに写るレンズにはぼけ味が悪いものが多いが、それでも多くの昆虫写真家は、ぼけ味よりも鮮鋭度を重視する傾向にある。
 僕は日頃レンズのシャープさよりも、むしろぼけ味を重視する。
 だが、そんな僕でも、昆虫にカメラを向けると、シャープな写りのレンズが欲しいなぁと感じる。
 昆虫写真の仕事には、他の生き物の撮影では滅多に要求されないような特殊な撮影がある。例えば、虫の足の先端を撮影するような極端な拡大撮影や、体全体に完全にピントがあっているような極端に被写界深度が深い写真を要求されるようなケースが決して珍しくない。
 そうした極端な撮影に取り組んでみると、レンズの性能の差からくる写りの違いが、思いの他大きいことを思い知らされる。
 現在市販されているほとんどすべてのレンズは、一般的な撮影に使用するのであれば十分すぎる性能を持っている。したがって一般的な撮影の範囲でレンズの性能の差がどうしようもなく問題になることはほとんどないしと言い切っても過言ではないだろう。
 その点、虫の撮影の場合は、レンズの性能のギリギリのところが要求されるわけである。
 あるレンズではテントウムシの足の裏の形が良く分かるが、別のレンズでは、それがイマイチ見えないなどなど、道具によって、極端に写真の良し悪しが分かれてしまうケースがあるのだ。

 

 2005.8.28(日) 工夫か?ズルか?

 僕が撮影を担当した本の読者からの手紙が、出版社を介して、僕の手元に届けられたことは先日日記に書いた。
 本は月刊の児童書であり、読者は、正確には読者ではなくその子供のお母さんであるが、
「子供たちの一番のお気に入りは、カタツムリの号です!」
 と、手紙には書かれていた。僕は、そのカタツムリの号の約30ページ分の撮影を担当したのである。
 お母さん自身は、カタツムリの号の前月の、卵を特集した号がお気に入りなのだそうだ。
 卵の号も、合計14ページ僕の写真が使用されたが、手紙にはさらに、
「生き物の命について考えさせられました。」
 と書かれていた。
 それを読むと、やはり読者を裏切らないようにしなければならない!と、僕は感じる。

 生き物の撮影は、必ずしもすべて屋外で、自然状態で撮影できるわけではない。時には、スタジオ内に自然を再現したり、作らなければ撮れないものがある。
 口が悪い人は、それをやらせというが、まるで工作か箱庭作りのようにそれを楽しむ遊び心も、自然写真家には必要ではないか?と、僕は考えている。
 なぜなら、もしも遊びというものを認めない真面目すぎる社会があったなら、そんな社会では、結局自然も本当の意味では大切にされないような気がするからである。
 かと言って、自然界ではあり得ないウソを作り上げてしまうことは、ひかえるべきではないだろうか?
 では、果たしてどこからどこまでが遊びで、どこからがウソなのだろうか?
 僕は、自分自身の基準として、もしも読者が真相を知っても、幻滅したり、がっかりしない範囲が遊びであるとと考えている。
 例えば、スタジオの中に自然を再現し、
「ここで今からカブトムシがおしっこをするシーンを撮影するんだよ。」
 と、読者にその舞台裏を正直に明かしても、多くの読者は、
「へ〜面白そうだね。いろいろ工夫するんだね。」
 と、今度は写真家という職業に興味をもってくれるのではないだろうか?
 だが、もしもひばりの卵の代わりに、そっくりに作られた偽卵を撮影したならば、それを知った読者は、
「なんだかずるいな〜」
 と、がっかりするに違いない。
 工夫なのか、ズルなのか、僕はそこに線引きをする。

 

 2005.8.27(土) 努力?

 僕は以前に、
「自然写真家になりたいという若者に対して、努力をしないさい!とアドバイスを送る人がいたとしたら、その人は残酷な人だ。」
 と、この日記の中に書いたことがある。
「努力をしなさい。」
 というアドバイスは、努力をすれば写真家になれると思い込ませる嫌いがある。
 実際には、自然写真家などというイカガワシイ職業の場合、努力以外にも、運や、出会いや・・・、さまざまな不確定な要素が付きまとうものである。
 努力をしても必ずしも報われるわけでなないし、努力をすれば写真家になれると思い込んだ人は、そんな局面にぶち当たった時に失望を感じることだろう。
 だが僕自身は、とにかく深く考えずに、努力をすることに決めている。
 ある程度計画を立てて仕事をするし、
「あのシーンが売れる。」
 と聞けば欠かさずそれを撮り、自然写真を仕事として成立させる手間は惜しまないことにしている。
 それで成功することを期待しているわけではないし、また学校の先生的な教条的な発想で、努力をすることが素晴らしいことであると考えているわけでもない。
 グウタラも、また素晴らしい人生ではなかろうか?と想像する。
 ただ、努力をすることが一番簡単なのである。
 
 そう決めていても、やはり得手不得手があり、気付いたら怠けている条件があり、例えば、人ごみや渋滞が大嫌いな僕は、そんな状況に一時間でも置かれると、もう仕事どころではない。
 今日は、ある昆虫を撮影するために朝から出かけたが、高速道路の料金をケチったばかりに渋滞に巻き込まれ、現場に着いた時にはすでに気力が失せていた。
 カメラを持ち出すことなく、帰宅したのであった。
 車で外回りをしているサラリーマンからみれば、恐らく考えられないような堕落であろう。
 事務所に帰りつき、しばらく放心状態ですごし、ようやくギリギリこの日記を更新するだけの力を搾り出した。
 そこに自分の弱点があることはよく分かっているのだから、そうならぬように計画を立てるべきであった。
  
 

 2005.8.26(金) 一生懸命見ろよ!

 うちの事務所の建物は大変に古い。どこか隙間が開いているのだろう。よくダンゴムシが入り込む。
 多い日には、廊下にダンゴムシが10匹以上這っているようなこともあった。が、数年前に外壁をやり直してからは、その数はぐっと少なくなった。
 それでも、常に2〜3匹のダンゴムシを探し出すことができる。

 最初は、それらをゴキブリのように潰して捨てた。
 その後、撮影に使用した亀を飼育するようになってからは、集めてカメのエサにした。
 ところが、あるときダンゴムシの本を作ったら、とてもそんな気持ちにはならなくなった。それどころか、屋外に放置してある植木鉢の中にカタツムリ等に与えた野菜の残骸を捨て、板で軽く蓋をしてダンゴムシの餌場を作った。
 ダンゴムシの餌場には、ワラジムシやハサミムシやゴミムシやミミズやキセルガイや・・・さまざまな生き物が棲み付き、大きな生き物の死骸でもあっという間に分解してしまう。言わば、生き物を利用したゴミ処理機ができた。
 それまでは気持ちが悪いと感じていたジメジメ系の生き物たちが、面白く感じられるようになった。
 ともあれ、カメラを向けたことがきっかけになり、その生き物を好きになることは多い。

 ところが、生き物撮影の中には、その生き物を殺さなければ撮れないものがあるから、実に皮肉なものである。例えば、体の内部の器官を撮影する仕事がくれば、殺して、解剖をして撮影する他ない。
 昨日〜今日にかけては、オスメス一匹ずつのアメリカザリガニを犠牲にして、そんな撮影を試みた。

 ふと、生物学の学生時代のネズミの解剖を思い出した。担当のY先生が、
「自分の手で殺すのだから、命が無駄にならないように、一生懸命見ろよ!
 とおっしゃった、その言葉が頭に思い浮かんだ。
 猟奇的な志向を持つ者ならともかく、一般的な感覚の大学生にとって、それは言われる間でもないだろう。
 だが、先生がおっしゃいたかったことのすべては、理解できていなかったのかもしれない。今回は、すべて自分の責任で、撮影を目的にしてアメリカザリガニを殺したら、実習の際にネズミを殺した時とは比較にならないほどのストレスを感じた。
 またその分、ネズミを解剖した時以上に、慎重に、心を込めて写真を撮った。
 大学時代の実習は、心のどこかに、
「これは実習でやらされているんだ!僕の責任ではないんだ。」
 という逃げの気持ちがあったのだろう。
一生懸命見ろよ!
 とおっしゃったY先生の言葉が、あの表情の意味が、ようやく分かったような気がした。
 
 

 2005.8.25(木) 間違いメール?

 僕は、自分では新しい物好きのつもりはない。
 ITにも特別興味はなく、パソコンも、それ自体には全く興味はないし、多くのコダワリ派がマックだ!と主張しても、僕にとっては安あがりなウインドウズでいいといった程度のこだわり具合である。
 だが地方に住み、そして東京でしか成り立ちにくい自然写真の出版に関わるためには、好き嫌いに関わらず、使えるものは工夫をして上手く使わざるを得ない。
 このホームページは、そんな動機がはじめるきっかけになった。
 他に、携帯電話もよく使う。
 例えば、取材先で天気を詳しく知りたい時には、パソコンよりも携帯電話のサイトの方が使いやすい。
 また、取材先での電子メールは、パソコンで受信する前に、携帯電話を利用して一通り読み、迷惑メールは、パソコンで受信することなく、携帯電話から削除しておく。
 携帯電話をパソコンに接続してメールを受信しようとすると、通信速度が遅くて結構な時間がかかるが、携帯電話で直接不要なメールを削除するとほんの数秒の接続ですむ。
 その後、必要なメールだけを、パソコンへ受信すればいい。
 欠点は、携帯電話の画面であるから、文章が少しずつしか読めないことであり、時々、読み間違えを起こすことであろうか。

 さて、昨晩もそうやって携帯電話でメールを読んだ。
 すると、そこには、
「湊和雄は浮気しない。」
 という文字が読める。湊和雄さんとは、言うまでもなく沖縄在住の自然写真家であるが、もしや、あて先を誤った間違いメールではないだろうか?
 だとすると、誰かに浮気がばれて、改心したことを誓わされているに違いない。
 しかしながら、よく読むと、それはカメラの話であった。
 キヤノンから魅力的な新製品が発表されたが、ニコン党の湊さんはあくまでもニコンを使うのだそうだ。湊さんが浮気など、するはずがないではないか!
 同じくニコン党の僕は、その新製品を買おうと思う。それ自体は、ワクワクする楽しみであるが、一抹の悲しさもある。長く愛用しているニコンから同等の製品が発売されれば、それ以上の喜びはない。
 ただ、ニコンからは、本来発売されてもおかしくない他の製品の発売も遅れていることを考えると、それはまだまだ先の話しになるだろう。

 

 2005.8.24(水) 手紙

 僕が約30ページ分の撮影を担当した月刊誌に寄せられた読者からの手紙を、出版社の方がコピーをして送ってくださった。
 月刊であるから毎月違った内容のものが発売されるが、特に、僕が撮影したカタツムリの号が褒められているのだ。
 ここのところ調子が上がらずに困っていたのだが、手紙を読み、なんだか、その不調から抜け出せそうな気がしてきた。
 
 さて、今年はアメリカザリガニを撮影する予定であったが、チョコチョコと色々な仕事が入ってきて、ザリガニに本格的に取り組めずにいた。
 そうした色々な仕事もだいたい片付き、今日はザリガニを撮影するための水槽をきれいに整えた。
 水槽には水草を植えているが、水草は高温に弱い。夏場はなかなかきれいに育てることができない。
 ちょうど今、僕の水槽は悲惨な状況であるが、そろそろ朝夕は涼しくなってきた。今日新たに植え直した水草は、しばらくするときれいな葉っぱを開かせることであろう。
 すると、ザリガニの本格的な撮影が始まる。今回は、まだ誰も撮っていないくらい、ザリガニを事細かに撮影する予定である。 

 

 2005.8.23(火) とうとう

(撮影機材の話)
 撮影用にある昆虫を採集するために、阿蘇に出かけている間に、キヤノンから新製品が発表された。
 発売されると噂されていた35ミリ判フルサイズのイメージセンサーを持つデジタルカメラだが、とうとう現実のものとなったようだ。
 沖縄在住の先輩写真家・湊和雄さんから、
「おい、とうとう出たぞ〜。」
 とメールが届いた。

 僕も、湊さんも、基本的にニコンを使用してきたが、一時は世界の報道カメラマンの95%を占めていたほどのニコンはシェアーを次第に失い、今やキヤノンに逆転されてしまった。
 最近では、誰にかに影響されてカメラのメーカーを選ぶようなことはなくなったが、以前は、好きな写真家がどこのカメラを使用しているのか、それに左右もされた。
 僕は以前に野鳥専門の写真家を目指していた時期があるが、僕が好きなある野鳥の写真家は、かつてはニコンを愛用していたにも関わらず、いつの間にか、キヤノンの超高級デジタルカメラを積極的に人に勧めておられるようだ。
 何たる堕落であろうか!
 その野鳥の写真家がニコンで撮影した数々の作品をを眺め、
「あ〜いい写真やなぁ。僕と同じ道具でこんなにすごい写真が撮れるんだ!」
 と、僕はそれを支えにしていた時期もあるのだから、鞍替えするとは実にケシカランのである。

 しかしながら、キヤノンの新製品に予約を入れようではないか!と、今日は早速、写真店に勤める知人にメールを打った。
 デジタルカメラのセンサーの大きさに関しては、人それぞれ好みがあるが、僕はもともとほぼすべての仕事を645判のカメラでこなしてきたくらいであるから、やはりちょっとでも高画質な道具がいい。
 レンズは、シグマ社製の20ミリとタムロン社製の90ミリを一緒に注文する予定であり、今すでに使用している17〜40ミリや65ミリマクロレンズがあれば、趣味として撮影している野鳥や水中は別にして、生活費をかせぐための撮影には、ほぼ完全に対応できるはずである。
 長年愛用してきたニコンも、とうとう趣味のカメラになってしまうのであろうか?
「俺はニコン党だ!」
 と長年主張してきた、あの頑固一徹の湊さんも、
「意地を張るのも止めようかな?」
 などと、もしかしたら考えているかもしれない状況なのである。

 

 2005.8.21(日) 僕の撮り方

 8月分の「今月の水辺」で紹介したアキアカネの写真は、フィルムでも同一のシーンを撮影しておいた。そのフィルムを現像してみると、結果はフィルムが上。
 画質にのみ関して言うと、望遠レンズはデジタルカメラでもいいが、広角レンズを使用する写真では、やはりフィルムがいい。
 僕は、1つのシーンに時間をかけて、徹底して撮る。例えば、風景にカメラを向けるのであれば、早起きをして、
「あ〜いい感じで光が当たってきたな〜」
 と写真を撮り始め、もしも手ごたえを感じたなら、太陽が移動してその場所の光の当たり具合が悪くなるまでとにかく同じ場所で撮る。
 途中で、
「よし、満足!」
 というのはあり得ない。
 プロとして頑張っているのではない。だいたい、僕は、1つのものに打ち込むのが好きなタイプなのである。同じ場所で長時間撮影するのが楽しいのである。その分、その一箇所にはこだわりたいのだ。きれいな女の人でも、2人も3人もはべらせたいとは、あまり思わない方だと思う。だが一人でいいから、どうせ一緒に過ごすのであれば、本当に自分の好みにあう人がいい。

 写真を始めたばかりの頃は、そうして時間をかけても、一番いい写真は案外最初の方に撮れたものである。後は質が落ちる一方というケースが多かったが、最近では、時間をかければかけるほど、いい写真が撮れるようになってきた。
 僕の場合は、そもそも性格上は、感覚的にズバッと一瞬で画面を切り取るというよりも、理詰めで時間をかけて写真を撮る方が向いているのだと思う。だが、理詰めで時間をかけて撮るためには、技術が必要である。
 将棋の世界に、「下手の考え休むに似たり」という言葉があるが、写真も同じであり、技術が伴わないのに考えても、なかなかいい結果には、結びつかないものである。最近になって、その技術が多少は伴うようになってきたのかな?、自分では判断している。

 そこで、最初はデジタルカメラでバシャバシャ撮りながら、少しずつ画面を修正して、構図や視点をどこにするかなどを判断する。そして、
「よ〜し、決まってきたなぁ。」
 と感じ出したら、そこでフィルムを持ち出すといった具合に、フィルムとデジタルとを使い分けてアキアカネにカメラを向けたわけである。
 そのためには、フィルムとデジタルの2種類の機材を持ち歩かなければならないが、機材が重くなり疲れるのが困る。早く、100%デジタルがフィルムを上回る時代になってもらいたいものである。

 

 2005.8.20(土) 変異


 自然写真の世界でも、写真の売り上げは、需要の有無に大きな影響を受ける。
 需要がある生き物にカメラを向ければ写真は売れやすく、逆に、そうでない生き物の場合は、信じられないほどに売れないものである。
 これだけ頑張れば、この程度は稼げるのでは?と、写真家を志したことがあるものであれば、誰しも多少の皮算用の経験はあるだろうが、需要がある生き物を撮ると、写真は僕の想定の10倍くらい売れ、逆に需要がない生き物を撮ると、写真は僕の予測の百分の一程度にしか、現在の時点では売れていない。
 1万円くらい稼げるかな?と思っていたら10万円に化けることもあれば、逆に100万いける!と踏んでいたら1万円にしかならないことも、その需要によってあり得るのである。
 10倍だとか、1/100というのは、あくまでも僕の感覚に過ぎないが、身の回りの写真家と話をしてみても、だいたいみんな同じくらいの感覚をもっているように感じる。

 カタツムリの写真には結構な需要があることは、何度か書いたことがある。だがその中味はほぼ100%児童書であり、児童書というジャンルを離れると、逆にカタツムリの写真にはほとんど需要がない。
 したがって、当初僕は、稼ぐために児童書にターゲットを絞ってカタツムリにカメラを向けてきたが、それがやがて趣味になり、今では、児童書にはまず登場しないオタクなカタツムリを撮影する時間が楽しくなってしまった。
 カタツムリの撮影に限ると、自然下での撮影よりも、スタジオでの標本撮影の方が楽しい。
 カタツムリには種類によって、殻の色や胴体の様子や大きさに大変に変異が多く、それが僕にとっての魅力である。ところが、自然の中で撮影をすると、それらが不思議なくらいに同じように写ってしまう。
 やはり、多くの生き物の形態は、背景に溶け込むようにできているのだと思う。
 スタジオで標本風に撮影してみると、カタツムリの形態が強調され、種類ごとの微妙な違いなどが面白い。
 カタツムリを見たことがない人は、少ないだろう。上の画像は、ウスカワマイマイという、多くの人が普段見ている種類だ。

 さて、こちらもウスカワマイマイ(沖縄産)であるが、同じウスカワマイマイでも、別の生き物のように見える。
 殻の色はもちろん、殻の質感や胴体の感じが全く異なり、さらに、この画像のカタツムリは、最初に掲載したタイプのウスカワマイマイの平均的なサイズよりも一回り大きい。
 カタツムリは生息によって形態が大きく変化する。一般に平地型は小さくて、明るい色合いで、肉の部分はツルンとした感じに、山地型は大きくて、黒っぽく、肉の部分がゴツゴツする。
 カタツムリの殻は少しずつ伸びて大きくなるが、山地型を捕まえ、平地型と一緒に飼育をしても、山地型のカタツムリに新しく伸びてくる殻は山地型のままである。つまり、山地型と平地型の違いは、エサの中味ではないようだ。
 あるカタツムリが山地型になるのか、或いは平地型になるのかは、子供の時にまるでスイッチを切り替えるかのように決定され、それは一生変わらないものなのかもしれない。
 
 

 2005.8.19(金) 更新

今月の水辺を更新しました。

 

 2005.8.18(木) 気分

「好きなことができていいですね!」
 とは、よく言われる言葉である。
 だが、誰しも気分のむらはあるし、年がら年中、喜々として自然写真が楽しい訳ではない。
「気分が乗らないな。」
 という時期が、定期的にやってくるものである。
 ここ1〜2週間の僕はまさにそんなタイミングであるが、請け負った撮影を時間で割ると、そんな日にも最低限こなさなければならない仕事が決まってくる。
 そうなると、自由な仕事は、むしろ自由である故に辛い仕事へと早変わりする。誰もそばで鞭を打ってくれないのだから、どんなにきつくてもやる!という鉄の意志が必要なのである。
 今日は、まだ暗いうちに目を覚まし、羽化直後の昆虫をモデルにしてスタジオで写真を撮った。
 僕の場合、スタジオでの撮影に限って言うと、一枚一枚の写真の質はむしろそんな気が乗らない時の方が高いことが多い。
 元気がありすぎる時には、多分、必要以上にセッカチになっていて、どこかで自滅しているのであろうと、自分では分析している。
 例えば、元気があり余り、カメラや照明その他の機材を操作する僕の手の動きが早すぎて、モデルの生き物を脅してしまっているなど・・・
 今日も、本来はなかなか難しいはずの撮影であったが、予想以上にいい結果が得られた。
 ただ、その後が良くない。他にも事務的な仕事など幾つかこなさなければならないが、何となく何もできないまま、時間がどんどん過ぎ去っていく。
 
 

 2005.8.15(月) 

(撮影機材の話)
 キヤノンから、35ミリ判フルサイズのイメージセンサーを搭載したカメラが発売される噂がある。価格が実売で40万円前後。
 これまでキヤノンのフルサイズのデジタルカメラといえば100万円に近かったのだから、もしも事実なら、フルサイズのデジタルカメラが、なかなかお手ごろな価格で登場することになる。
 果たして、そんな価格で作れるのだろうか?
 最初は、あり得ない?と疑ってみたが、よく考えてみれば、僕が所有しているキヤノンのイオス20Dは、APSサイズと呼ばれているより小さなイメージセンサーを搭載したカメラであるが、実売価格で14万円強だ。40万円との間には26万円の差額であり、その26万円をセンサーに費やすことができると考えれば、量産も可能であるように思えてくる。
 ただ、あくまでも噂である。が、何か新製品が発表されることだけは確かなようであり、その発表日は近いとされている。
 
 デジタルカメラのイメージセンサーの大きさに関しては、
「絶対にフルサイズがいい。」
 という人もいれば、
「APSサイズがいい。」
 と主張する人もいるが、僕は現実的な価格でフルサイズもラインアップされていて、用途によって選べるのがいいと思う。
 先日星を撮影する機会があったが、その時には、
「フルサイズのデジタルカメラが欲しい!」
 と痛感させられた。
 星を撮影する際には明るい広角レンズが欲しい。35ミリ判フルサイズのカメラの場合は、例えばニコンなら28ミリのF1.4、28ミリのF2、キヤノンなら24ミリのF1.4、28ミリのF1.8などの選択肢がある。
 だがAPSサイズのイメージセンサーを持つカメラの場合は、それに相当するレンズは一本も存在しないのである。さらに今存在しないどころか、永久に発売されない可能性も高いと思える。
 かといって、デジタルカメラの感度を上げればノイズが目立ち、目に見えるか見えないような小さな星が、ノイズに埋もれて写らなくなってしまう。
 その点、フルサイズのデジタルカメラであれば、明るいレンズが存在し、さらに高感度や長時間露光の際のノイズも断然に少ない。
 また一般的な撮影でも、広角レンズを使用した場合には、現状では、APSサイズのイメージセンサーを持つカメラの画質は、明らかにフィルムよりも劣る。フィルムからデジタルへの移行期であるといっても、新しい製品が出て、その結果画質が悪くなるというのは、どうも納得できないように僕は感じる。
 最近の僕は、広角レンズに関しては、またフィルムカメラを持ち出すようになっているが、フルサイズのデジタルカメラがあればどの程度の画質が得られるのか、それを試してみたい思いもある。
 現在発売されているフルサイズのデジタルカメラ、1600万画素のキヤノンのイオス1Dsマーク2は価格が高すぎること、重たすぎ大きすぎること、広角レンズを使用した際の周辺画像が悪すぎる点で、僕は購入を見送った。
 が、今回発売の噂のキヤノンは、どうも比較的小さくて軽いカメラになるようである。また1300万画素前後と言われているから、画素数が少ない分設計に無理がなく、フルサイズでも十分な周辺画像の画質が得られる可能性もある。
 ちょっと楽しみである。
 
 

 2005.8.12〜13(金〜土) 撮影スタイルの違い

 ちょうど一週間前、トンボの写真家・西本晋也さんと大分県の高原でトンボを撮影した。
 僕は滅多に人と一緒に出かけることはない。したがって、そんな珍しく人と同行をする機会には、他人の撮影スタイルを見て、
「ふ〜ん、写真ってこうやって撮るんだ!」
 と、自分と人との違いに驚かされることが多い。
 西本さんと一緒に出かけた場合には、自分が一箇所で非常に多くの時間を費やして撮影していることに気付かされる。
 何か1つのシーンを撮影しようとすると、まず間違いなく僕の方が後まで撮影することになる。先日もアキアカネを撮影していたら、待ちきれなくなった西本さんが、
「粘りますね。先に行っときますね!」
 と前へ歩いていってしまった。
 西本さんは、一度撮影に出かけると、色々なトンボにカメラを向けてみたいようである。
 僕の場合は、ここぞ!という場所を一箇所決め、一度三脚を構えたら、その場で2〜3時間同じシーンを狙って待つようなケースも決して珍しくない。
 すると、僕の場合はたくさんの種類の生き物を撮影することが難しくなる。西本さんのトンボの写真を見て、
「何でこんなにたくさんの種類のトンボが撮影できるの?」
 と、僕は以前に感じたことがあるが、それが撮影スタイルの違いなのである。
 
 さて、大分県〜熊本県の山間部には、忽然と水が湧いて出る池が多数ある。今回はその中の1つ、池山水源で、水中に繁茂した苔を撮影してみた。
 あまりに水の透明度が高く、まともに撮影すると、水中であるにも関わらず陸上のように写る。そこで、水面の反射に地上の風景を写すことで、陸上に茂った苔の写真とは違った、水中の姿を表現してみた。
 水面に陸上を写そうとすると、太陽の位置や、空の雲の具合によって刻々と風景が変化する。それをずっと眺めつつカメラを向けていると、いつの間にか同じ場所で2時間もの時間が経過していた。その間、ただの一箇所を撮影するために4本のフィルムを消費した。
 
 

 2005.8.11(木) ミヤマアカネ

 図鑑のページの中では、埋もれてしまい、つまらなく見える生き物の中にも、野外では実に美しく感じられる種類がある。
 このミヤマアカネも僕にとってそんな生き物であり、図鑑の中では他の赤トンボの仲間とたいして違わないトンボのように見えるが、野外では際立って目立つ、特徴のあるトンボである。多くの図鑑に掲載されているミヤマアカネの写真を、僕はあまりイメージの湧かないつまらない写真だと感じる。
 確かに図鑑の文章を読みながら理屈っぽく種類を区別する際の特徴は、それらの写真によく写っているのかもしれないが、野外で見たときにパッと伝わってくる第一印象は、そこには全く写っていないように思う。
 多くの図鑑写真が、そんな印象という部分を切り捨てすぎているように感じる。
 何か知らない生き物を見つけ図鑑を開いたときに、図鑑の説明を読む前に、写真を見て
「ん、これか?」
 とあたりをつけるのが難しいのである。
 図鑑であるから、ここに線が入るだとか、ここに斑があるだとか、理屈っぽくなければならないのかもしれないが、もっと感覚的なものが大切にされてもいいのではないか?と僕は図鑑を見て感じることが多い。
 重大事件を引き起こした犯人を捜す際に、最近では似顔絵が威力を発揮するケースも珍しくない。 似顔絵がほんとうの意味で忠実か?と言われれば、所詮絵であるから写真に比べれば忠実ではない。
 だが、第一印象のような感覚的なイメージを伝える際には、忠実かどうかだけでは片付けられないものがある。生き物の図鑑写真にも、パッと見てわかる明快さが欲しいように思う。
 
 

 2005.8.10(水) 痛恨事

 この初夏に採集した大きなカタツムリが、ある本の中で紹介されることになった。
 まさに国内最大級のカタツムリであり、採集時に正確な大きさを測ったわけではなかったのだが、持ち帰り、ちょっとものさしをあててみると、およそ65ミリに迫ろうかというサイズに見えた。
 記事の担当者は、カタツムリに関してさまざまな取材をなさったようで、その過程で陸産貝類の専門家の話にも耳を傾けてこられたようだ。そして専門家の話は、
「65ミリというのは幾らなんでも大きい。多分62〜3ミリでしょう。それでも国内最大級の驚きのサイズであることは間違いありません。」
 とのことであった。
 そこで今日慌ててノギスで測ってみると、確かに63ミリ弱である。
 さすが専門家!と関心させられると同時に、大きめに見積もった自分が恥ずかしくなる。
 逃がした魚は大きいというが、採集した魚、いや採集したカタツムリも大きかったのである。

 僕はカタツムリを持ち帰りスタジオで標本写真を撮影したが、採集時は条件が悪くて、野外で木に止まっている姿を撮影することができなかった。だが最大級であるなら木に止まっている写真を撮っておこうと、今日はカタツムリ持参で撮影に出かけた。
 ところが、ここで間違いがおきた。
 カタツムリを木に止まらせカメラを向けシャッターを押すと、シャッターが切れない。
「あれ?」
 とカメラを確認すると、画像を記録するカードが挿入されていない。そう言えば、昨日スタジオで使用した際にパソコンに挿しっ放しになっていたのである。
 だが予備があると、車に戻った。
 しかし、ここでちょっと横着をしてしまった。
 短時間だからと、カタツムリを一度容器に収納することを怠った。
 果たして、カードを手に車からもどってくると、カタツムリの足は意外に早くて、木のかなり高いところを登っているではないか。そこで今度は、車に積んであった捕虫網でカタツムリを捕まえることにした。
 カタツムリの下から網を近づけ、木に張り付いている胴体を剥がすつもりであったが、なんと、網で受け取り損ねて、カタツムリは木の下草の藪の中に落ちてしまった。
 今度は長袖の上着を羽織り、虫除けを塗り、藪を掻き分けた。
 まあ見つかるだろうと、その時までは、まだ余裕があった。
 ところが探しても探しても見つからないのである。
 逃がしたカタツムリは大きかったのである。

 これは、ただお気に入りのカタツムリを逃がしただけでなく、僕にとって痛恨事だ。
 今回使用するカタツムリの写真に関しては、現在撮影済みのものでほぼOKが出ている状況である。だが、
「もうちょっと違うアングルの撮影を依頼するかもしれません。」
 と、昨日言われたばかりであり、いつでも撮影できるように飼育を続けなければならなかったのだ。
 あとは、すでに撮影済みの写真でOKが出るように祈るしかない。それにしても心苦しい。
 電話が怖い。
 僕はデジカメにカードを入れ忘れることが多く、いつか何か失敗をしようだとは思っていたが・・・・一番、熱を入れている状況で、まさかその悪い予感が的中するとは。

 

 2005.8.9(火) センサークリーニング

(撮影機材の話)
 デジタルカメラには、従来のフィルムの代わりにイメージセンサーと呼ばれる部品があり、画像を記録する仕組みになっている。
 したがって、もしもイメージセンサー上にゴミが付けば、ゴミの影も一緒に画像に写り込む。デジタルカメラにおけるゴミ問題はカメラマンを悩ますやっかいな問題である。
 フィルムの場合は、フィルムを巻き上げるたびにフィルムが移動をする。それに伴って、仮にゴミが付着してもゴミもどこかに行ってしまうため大した問題にはならない。が、デジタルカメラのイメージセンサーは動かないので、一度ゴミが付着すると、その後撮影したすべての画像にゴミが写りこむのだから性質が悪い。
 しかも、イメージセンサーが帯びる静電気によって、付着したゴミは増える一方なのだそうだ。
 実際にデジタルカメラを使用してみると、目に見えないほど小さなゴミも、結構な大きさに写り込むことに驚かされる。
 唯一オリンパスだけが超音波によってゴミをふるい落とすダストリダクションシステムを搭載しているが、他社のカメラのユーザーの多くは、ゴミに悩まされたり、ゴミがカメラに入り込まないように気を遣っていることだろう。
 例えば、ゴミはレンズを交換する際に入り込むことがある。したがって、レンズ交換ができないコンパクトタイプのデジタルカメラではゴミが問題になることはまずないと考えておいてもいいだろう。つまり、レンズ交換はすばやく、またレンズとカメラの結合部分は常にきれいに掃除をしておかなければならない。
 フィルム時代には全く気にかける必要がなかった配慮が求められるのだ。

 では、ゴミが付いてしまったらどうするのか?
 自分で掃除をする方法もあるがイメージセンサーは高価な部品であり、傷つけてしまったら多額の出費になる。したがって多くのユーザーは、サービスセンターに持ち込むか、メーカーに郵送して掃除をしてもらっているようである。
 僕も、これまでは面倒でも博多に出向き、サービスセンターでの掃除をお願いしてきた。
 が、うちの事務所から博多までは1時間以上かかる。
「これは割に合わんなぁ。」
 と、とうとう耐えられなくなり、ニコンから発売される専用のクリーニングキットを購入し、今日はそれを試してみた。

 キットにはCDが同封されていて、まずは、動画で掃除の方法を勉強する。
 次に、デジタルカメラのイメージセンサーを掃除する前に、まずはレンズ用のフィルターで訓練をつむ。
 そして最後にデジタルカメラで本番に臨む。
 僕の手元には現在全く使用していないキヤノンのD30があり、まずは失敗を覚悟の上で実験台のD30のイメージセンサーをクリーニングしてみたら、これが実に容易い。
 少なくとも、レンズ用のフィルターを掃除するよりは容易い。
「え!こんなこと?」
 という程度なのである。
 次に、EOS20Dをクリーングだ。これもすぐにきれいになった。
 明日は、博多に出向き、EOS20Dのイメージセンサーをクリーニングする予定であったが、これで半日以上の時間が浮くことになる。こんな簡単なことなら、もっと早く試してみるべきであった。

 

 2005.8.8(月) オニヤンマ

オニヤンマが集まってくる裏技があると昨日書いたが、その技を駆使して撮影する僕の姿を写した写真が、同行者の西本晋也さんから送られてきた。
 この画像の中には僕の手前に2匹のオニヤンマが列を作って写っているが、こうしてヤンマたちが集まってくるのである。
 恐らく僕の前方にはさらに別のオニヤンマがいて、僕はそちらにカメラを向けているのだと思う。 

 

 2005.8.6〜7(土〜日) 工作物



 飛んでいるトンボを空中停止させる方法があると知り、トンボの写真家・西本晋也さんと、それを試すことにした。
 道具が1つ必要であり、僕も西本さんもそれを自作して臨んだ撮影である。
 僕は市販のあるものに色を塗っただけの工作であるが、西本さんの道具・西本スペシャルは実に手が込んでいる。現場でそれを見せられ、自らの怠慢を思い知り、さすがに厚かましい僕も、自分のお粗末な工作物を現場で実戦投入できる状況ではなくなってしまった。
 場所は大分県の長者原という高原だ。

 さっそく西本スペシャルを試してみた。が、僕らの意に反して、トンボは全く興味を持とうとしない。
 それどころか、飛翔中のトンボはどこかそれを避けているようにも見える。
「避けるということは意識しとることになりますから、興味を持っちょりますよ。」
 と強気の西本さんであるが、顔色はすぐれない。僕も、
「これはダメか・・・」
 と、内心諦めの心境に陥る。
 西本スペシャルにはさまざまなオプションが取り付けられるようになっており、それを次から次へと試すが、全く状況に変化はない。
 ところが破れかぶれで僕のお粗末な工作物を使ってみると、一匹のオニヤンマがその前を飛びながらピタリと空中停止した。すると、今度はつい先程まで嫌われていた西本スペシャルの前でも、オニヤンマが空中停止した。
 どうもトンボと言えども気分があるようだ。
 やがてオニヤンマは飽きてしまったのだろうか、僕らの工作物には全く興味を示さなくなってしまった。
 僕は色違いの2つの工作物を準備して出かけた。1つはオレンジ色であり、あとの1つは緑色である。オレンジ色の方がやや工作がよく、そちらを最初に持ち出し、それにトンボに興味を持った。
 そこで今度は緑色の方を試すと効果絶大であり、オレンジ色や西本スペシャルには見向きもしなくなってしまった時間帯にでも、付近を通るほぼすべてのオニヤンマがピタリと空中停止をする。
 時には4匹のオニヤンマが同時に空中停止をするというモテモテの状況なのである。
 ただ、写真はイマイチだ。道具を試すことにすべての気持ちが向かってしまい、傑作を物にするためにはあと1度トライする必要がありそうだ。

 帰りの車のなかで、僕の工作物の元になった市販品がどこで売られているかを西本さんにたずねられたことは言うまでもない。
「よ〜し、帰ったらそれを全部買占めしとこう。あと10個くらい売っていますかね?」
 と意気込む西本さんであった。
 
 さて、ひどい腹痛を堪えて出かけた今回の撮影であるが、取材中は実に快適であった。
「真夏に車の中でよく眠れますね?」
 と時に言われることがあるが、今回は夜の気温が19〜22度、昼間の気温も27度程度であるから気持ちがいい。
 夜は天の川と満天の星空が見事だ。写真にそれがすべて写らないことがもどかしい。
 こんな見事な星空を目にすると、大枚をはたいてでも、小さな星も1つ残らず写し取る超高性能なレンズが欲しくなる。
 ほんのしばらく撮影している間にも、僕たち2人で10個くらいの流れ星を確認することができた。
 昼間食べた、カモのモモ肉の炭火焼が実に美味かった。夕方は、地鶏の炭火焼である。
 同じ高原でも、熊本県阿蘇の高原では非常に暑い思いをすることが多い。天気予報でも、だいたいにおいて熊本県は九州でもっとも高い温度を示すことが多く、夏の夜を車の中で過ごすのはチョイ辛い。
 それに対して、大分県の高原は、草原があり、牛が放牧された似た環境であるにも関わらず実に過ごしやすい。 

 

 2005.8.5(金) 腹痛
 昨日から少し腹具合がおかしいと思っていたら、今日はひどい。トイレから1分以上時間がかかる場所には行きたくないほどである。
 治まったかな?と物を食べたり飲むと、即座に腹を下す。
 せめてもの救いは、今日はハードなスケジュールを組んでいなかったことだ。今晩から、オニヤンマを撮影するために仲間と大分県の山中に出かけるが、出発当日にハードな予定を組むと出発が遅くなったり、疲れで車の運転が疎かになりがちなので、楽な撮影の予定をたてていたのだ。

 しかし、もしもこの腹痛が一日ずれ、今晩から明日の朝にかけて症状を現したなら、取材は悲惨な結果に終わったであろう。
 夜中にお腹が痛くなり、懐中電灯片手に公衆便所に閉じ篭るのは辛いし、できればそんな腹痛の時は、自宅の涼しいトイレでゆっくりと用を済ませたいものだ。
 だいたい腹痛は一日で治まることが多いし、明日はまだダメージが残っていて100%の力は出ないかもしれないが、撮影はできるに違いない。
 それを考えると、まだ付きは落ちてはいないようである。

 

 2005.8.4(木) 取っ組み合い
 かなり以前に、ビデオをやってみようかな?と、ちょっとばかり検討をしたことがある。
 自然写真界の先輩、沖縄在住の自然写真家・湊和雄さんの影響であるが、
「僕にはまだ早い。」
 と、その時には却下した。
 ビデオに取り組んでいる知人にたずねてみると、ビデオと写真とを同時進行させることは難しいという。
「今日はビデオだ!」
 或いは、
「今日は写真だ!」
 とあらかじめ決めておかなければ難しいようである。
 今僕は、2通りの撮影に取り組んでいる。
 1つは小動物の撮影であり、あとの1つは風景や水中撮影も含めた水辺の自然の撮影である。
 前者の場合は、時には水槽の中の生き物を撮影したり、また時にはスタジオ内に自然を再現してでも、ほとんど手段を選ばず、目的とするシーンを撮影する。生き物との取っ組み合いといっても言い過ぎではないだろう。
 後者は全く逆で、現象を捉えるのではなく、僕の心の中にある自然を形にあらわすことを目的としている。好きな場祖を歩き、その過程でごく自然と心の中に湧き起こった思いを表現する。
 無理をして幾つもの撮影を詰め込むようなことはしない。今日はここ!と決めた場所で贅沢に時間を使う。
 同じ生き物の撮影でも、前者の場合は、体力的にも、気持ちの面でも時には辛いこともある。が、後者の場合は、水辺を歩けば歩くほど、自分自身が体も心も元気になるように感じる。
 ともあれ、そうして2本だてで撮影しているのであるから、そこにあと1つビデオを追加することは難しいと判断したのだ。
 
 とは言え、現実には小動物と取っ組み合いをする時間の方が長い。今日は急遽ダンゴムシを撮影することになった。
 ダンゴムシの撮影の難しい点をちょっと書いてみようと思う。
 まず、丸いイメージのダンゴムシであるが、歩いてるようすなどは、写真に撮ってみると意外に平たくて、まるで海にいるフナムシのようにグロテスクに写る。あの可愛らしいイメージが、なかなか写らないのだ。
 それから丸まったシーンを撮ろうとしても、また丸まったままじっとしてくれないものが多く、さらに丸まったのならまだしも、よく見ると少し開いたままの完全に閉じないダンゴムシが多い。
 たくさんのダンゴムシを採集してきて、丸めてみて、その中からきれいに丸々タレントを選びだすのである。。
「10分で終わるぞ!」
 などと甘く見ていたら、あっという間に1時間、2時間と時間が過ぎ去ってゆく。
 
 

 2005.8.3(水) ついでに

 先月、アゲハチョウの写真を日記に掲載したが、水辺をテーマにしている僕にも、時にはそんな依頼がくる。
 すると、それを見た別の出版社から、
「それならうちの分もアゲハの写真を撮ってよ。」
 とさらなる依頼があり、それを片付けたら、またアゲハの写真のリクエストがきた。
 どうもアゲハチョウの写真には、たくさんの需要があるようだ。
 今日は渓谷に行く予定であったが、予定を変更してアゲハチョウの幼虫の採集にでかけた。
 その撮影中に幼虫が目の前で糞をした。
 子供はうんこが大好きである。だから恐らく、僕が写真を引退するまでに最低一度は、
「アゲハの幼虫が糞をしている写真はありませんか?」
 という依頼が、子供の本の出版社からくるだろう。
 本来糞をする様子は、多少は待たなければ撮ることができないシーンである。その手のシーンが偶然に、簡単に撮影できると得をした気分になる。
 
 

 2005.8.2(火) 写真展

 写真展の展示作業のために、博多のフジフォトサロンへと出かけた。今日から
僕が所属する日本自然科学写真協会の写真展(SSP展・福岡展)が始まる。僕の写真1点も含め、会員の写真が70点、会員外から公募した一般公募の写真が10点展示される。

  フジフォトサロン / 福岡
  2005年8月2日〜8月13(日)
  AM9:00〜PM17:00 / 土・PM15:00 / 日・祝休館
 
 展示作業終了後は、駆けつけたみんなとの懇親会であり、昨晩の僕は、珍しく盛り場から帰宅した。

 最近の僕は、子供向けの生き物の本を作る仕事に力を入れているが、そのために、何にもっとも気をつかうか?と言えば、子供に分かる写真を撮ることだ。
 これは写真を撮る時にだけ、また仕事の時にだけ、さらに子供と接する時にだけ、それを心掛けてもできるものではない。どれくらいのレベルの話が子供に伝わるのか、常にそれを念頭に置く習慣を僕は持っている。
 例えば、大人にとって当たり前の言葉にも、子供には難しいものがたくさんある。
 僕は、子供の頃に父から勉強を教わる際に、
「こんな言葉も知らんのか?」
 とよく怒られたものである。
 父は教育熱心で、勉強を教えたがったし、
「日本の教育はこうあるべき。日本の先生はつまらん!」
 と、日本の教育に関して不満を持っているようであった。だが、今僕自身が何かを伝える立場に立ち、そこで仕事をしてみると、父の意見は、ど素人のものであったと思う。
 例えば、
「こんな言葉も知らんのか?」
 ではなく、子供に分かる簡単な言葉で自分の方が伝えるのが教育である。子供にも分かる言葉を父が持ち合わせていないのである。
 逆に僕が知っている言葉を、父が知らないこともたまにはあった。
 釣りが好きだった僕は、防波堤という言葉をよく知っていたが、父はそれを知らず、
「あれは波止めだ。」
 とゲンコツをされたことがある。しかし防波堤という言葉は辞書に出てくるが、波止めという言葉は僕が所有する辞書にはない。
 また比較的最近のことだが、「ため口」という言葉を父が知らないことに驚かされたことがある。ため口は慣用句だが辞書に出てくる言葉であるし、テレビの中でもよくつかわれる。
「こんな言葉も知らんのか?」
 というのは、しばしば、子供に伝わる言葉を知らない大人が、自分の無力さをごまかすための言い訳なのである。
 父が怠慢であったとは、僕は全く思わない。
 父は伝えることのプロではないし、家庭での教育と第三者に対する学校での教育とは別のものであろうし、子供に語りかける訓練をしなければならない立場にはないだろう。
 だが、多くの学校の先生方を僕は気の毒だなぁと思う。
 恐らく、ほとんどすべての先生は、僕の父よりもはるかに上手に伝えるであろう。
 にも関わらず、
「日本の先生はつまらん!」
 とあちこちでたくさん罵られているに違いない。
 言うは易く、行うは難しである。

 さて、昨晩のように生き物好きの仲間が集まった時だけは、僕もハメを外す。
 相手に分かるように話すのではなく、オタク道にどっぷりと浸かり、マニアックな話しに花を咲かせる。
 
  
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年8月分


このサイトに掲載されている文章・画像の無断転用を禁じます
Copyright Shinichi Takeda All rights reserved.
- since 2001/5/26 -

TopPageへ