撮影日記 2005年7月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2005.7.30(日) 新しい方法

 非常にマニアックな志向で有名な、プロデューサーのSさんと仕事をすることになった。
 そこでSさんを納得させようと、機材の改造と照明の方法に関して試行錯誤を繰り返していたら、新しい方法を思いついた。
 さっそく試してみたが、ただの標本写真でも、ずっとリアルで迫力のある写真が撮れる。
 一般に、特殊な機材を使用すると目新しい面白い絵は撮れるが、画質が悪くなることが多い。ところが、今回の方法は画質面でも全く問題がない。
 A3くらいのサイズまでは十分に引き伸ばしが可能であろう。

 写真の良し悪しは、画質がすべてではない。
 だが画質が悪いと、使用できる場所が限られてしまうことだけは確かである。例えば、その写真と一緒に掲載される他の写真の画質がいいと、その中に画質の悪い写真が一枚入ることが、全体として違和感を感じさせることがある。
  逆に言えば、画質がいい写真は使い道が多いことになるが、この手法でたくさんの写真を生産し、
「あ、これは武田だ!」
 と写真を見ただけで分かる世界を確立してみようではないか。そろそろ、そんな何かが欲しいと思うのだ。
 
 機材の改造と書いたが、本来は短期間でできるような類のことではない。ところが、数年前に別の用途に使用するために特注した部品が、ピシャリ今回の撮影にはまった。
 特注であるから、1つの部品に結構なお金がかかった。
 にも関わらず企画倒れで、実戦に投入できるような道具にはならなかった。
 ちょっと前に、道具を整理する際に、
「捨ててしまおうか?」
 とも考えた。が、お金を払って特注したのであるし、場所も取らない小さな部品であったから捨てずに取っておいた。
 それが、思いもよらぬところで生きてくるのだから気分がいい。
 ただ、難点もあり、ピント合わせが非常に難しい。動かないものを撮るのにも、それなりに苦労させられる。だが、その点はデジタルカメラの良さであり、ピントが合っているかどうかすぐに確認できる。

 それからあと1つ。なぜそんな道具を思いついたのか?
 それは、今回一緒に仕事をするSさんがこだわりの人であり、簡単に
「うん。」
 とは喜んでくれそうもないからである。
 本来写真は自分の興味を突き詰める作業だと思う。だから理想を言えば、誰かに納得してもらうためではなく自分の興味を追求した結果、どこかにたどり着くのがいい。
 だが現実には、なかなかそうもいかぬものであり、誰かにプレッシャーをかけてもらうことが、しばしば必要になる。

 この手法が気に入ってもらえるかどうかは、また別の話だが、そんな機会に湧いてきたアイディアは財産になる。

 

 2005.7.29(金) いや〜知らなかった

 あるとき、
「あなたの本を、私のホームページの中の今月のベビーローションの中で紹介しますね。」
 とメールが届いた。
「今月のベビーローションって一体なんだ・・・・」
 もしかしたら育児中のお母さんの中には、毎月ベビーローションの種類を変える凝り性な人がいるのだろうか?
 しかし、その中で僕の本を紹介するとなると、今月のベビーローションを赤ちゃんに塗りながら僕の本を読んで聞かせるということか?それはすばらしいことである。
 恐らくその子は、立派な大人に成長するに違いない。
 きっとそうに違いない!と思いきや、今月のベビーローションは、今月のヘビーローテーションの読み間違いであった。
 ヘビーローテーションとは、音楽に携わる人の用語で、ラジオ局などが推薦する曲を1日に何度も放送したりすることなのだそうだ。いや〜知らなかった。
 僕は返信を書いた。
「是非、今月のベビーローションしてください。」


 

 2005.7.28(木) 論文

 昨日撮影したカタツムリを提供してくださった京都大学の方が、カタツムリに関する論文を一遍送ってくださった
 。論文をお書きになったのはご本人ではなく、同じ京都大学でカタツムリを研究しておられる別の方であり、僕は以前にカタツムリに関して教わったことがある。
 その論文が実に興味深く、まるで子供の頃、読みたかったマンガを手にした時のような胸の高まりを感じた。オタク道にはまってしまったな〜としみじみ感じるのである。
 
 さて、自然写真家といっても、仕事の場は人それぞれであろう。
 例えば、僕の友人にはしばしば写真雑誌に登場する者がいるが、写真雑誌はアマチュアカメラマンをターゲットにした本であり、そこで写真を発表するということは、大雑把に言えば写真業界からお金をもらうことになる。
 一方で僕の場合は、ほとんどすべての仕事が自然関係の本である。つまり自然業界の中に生きているのであり、その中でもここ4〜5年は特に、子供向けの本の世界に力を注いでいる。
 同じ一枚の写真を撮影するにしても、写真業界に向く写真と自然業界に向く写真とは全く性質が異なるし、自然業界でも大人向けの本と子供向けの本とではまた事情が異なる。
 他にも、カレンダーを意識して写真を撮る等、コマーシャル業界をターゲットにする生き方もあるに違いないし、現実的には、自然業界をターゲットにしている僕の写真がカレンダーに採用されることもある。
 が、ともあれ、自分が主にどこで仕事をするのか?つまり誰からお金をもらうのか、それをある程度意識しておかなければ、なかなかまとまった額のお金は得られにくい。
 写真業界でやっていこうと思うのであれば、写真ファンが、
「うわ〜」
 と胸をときめかせるような写真でなければならないし、自然業界でやっていこうと思うのであれば、自然業界の本作りの傾向をよく知らなければならない。
 子供向けの本の中ではカタツムリの写真が需要は多い。したがって僕がカメラを向ける機会はおのずと多くなる。そして、あくまでも子供向けであるからマニアックな写真が要求されていない。
 それが大人向けの本になると、突然にカタツムリの写真の需要はなくなってしまう。
 日頃、滅多に見ない写真であるから、多くの大人にしてみれば、
「なんでカタツムリなの?」
 と感じられるに違いない。
 ただ、せっかくカタツムリが面白くなってきたので、今度は、大人向けのちょっとウンチク系のカタツムリの写真も撮ってみようかと思う。需要がなくても、それを切り開く遊びも、たまにはいいのではないか?と思うのだ。

 

 2005.7.27(水) いろいろな心配り

 先日熱帯魚のプロが名古屋産のカタツムリを送ってくださったが、送られてきた箱を開く際に、僕は大変な感激を味わった。
 洒落たカタツムリが入っていたからではない。
 箱の中の荷造りが、やはり熱帯魚をよく知るプロの作業だと感じたのである。
 ペット業界に詳しい人の経験が滲み出ているように思えた。
 今日は、京都市で採集されたカタツムリとキセルガイを撮影した。
 送り主は、京都大学の生態学の研究者であり、貝と一緒にちょっとしたデータが添えられている点が嬉しい。研究者としての配慮とこだわりと習性であろう。
 それが直接役に立つかどうかではない。
 どこにその人が気を配るのか、それが僕にとって面白いのだ。
 かなり以前に北海道の友人からカタツムリを送ってもらったこともある。
 友人は写真家で、非常に心根の優しい人タイプである。カタツムリが入ったタッパーには細かい空気穴が開けられていたが、カタツムリが息苦しくないようにという配慮であろう。
 実際は、そのような穴は不要であり、むしろ害の方が大きいのかもしれない。
 カタツムリが吸う空気の量はごく微量であり、タッパーの中に閉じ込められた分で十分だろう。それよりも空気穴から水分が失われる方が怖い。
 だが、何が正しいかではないのだ。これが結果が求められる人間の医療であれば話は別だろうが、たかがカタツムリなのである。送り主がどこに気を配ったのか、その心根の方が大切なのである。
 また、女性から送られてきたカタツムリには、一緒に大きなニンジンが入れられていた。
 これも、冷めた目で見れば、ニンジンはないほうがいいだろう。
 カタツムリのようなノソノソした生き物は代謝が遅く、そんなに簡単に飢えるものではないし、むしろ餌が腐る方が怖い。
 だが、女性的な心配りがいいではないか。

 

 2005.7.26(火) 報道とは

 報道写真から自然写真へと転じたある写真家が、報道と自然とを比べ、
「報道は基本的に人にとって悲しい出来事を伝えるが、自然写真は人を喜ばせる。」
 と、今月号のある雑誌に書いておられた。
 確かにその通りであるように思える。
 悲しいできごとはニュースになりやすく、いい出来事は、よほどに大きなことでなければニュースにはならない。時に、
「最近は悪いできごとばかりがおきる。」
 と嘆く人もいるが、悪いことばかりが起きているのではなく、悪いことを取り上げるのが報道の役目であるのかもしれない。

 なぜ、人の悲しみがニュースのネタになりやすいのか?
 悲しい出来事をよく知り、その不幸を繰り返さないための反省材料だろうか?そんな側面もあるには違いないが、僕は、大部分でそうではないように思う。
 なぜなら、そんなに人が毎日毎日反省しているにしては交通事故はなくならないし、大半の事件や事故は同じようなことが性懲りもなく繰り返されているからだ。
 僕は、人は反省する生き物ではなく、悲しみを楽しむ妙な生き物であるような気がする。
 例えば、悲劇というものがあり、悲しい物語に涙を流しながら、
「あ〜悲しいね。」
 と楽しむ。また文学のテーマや演歌の歌詞も、しばしば悲しみや苦しみである。
 僕のもとに寄せられるメールにも、そんな文学調や演歌調のものが時に含まれていることがある。
「あなたは何か苦しんでおられるのですね。あなたはデリケートな優しい人だ。実は私にもこんな不幸な出来事があり未だに悲しいのです。」
 と始まるメールが、過去に何度か送られてきたことがある。
 ところが僕はあまり悩み深い性質ではないし、僕が悩んでいると書かれていても何のことが書かれているのかが分からない。
 さらに、その送り主がなぜ自分自身の不幸をわざわざメールに綴るのかも僕には理解できにくい。
 何よりも、私にもこんな悲しい出来事があったと書かれているその文面が、実に生き生きとし、書きたくて書きたくてたまらない情熱に満ち、生気に溢れ、その会話に僕を引き込みたくて引き込みたくてたまらない思いが伝わってくるのだ。

 コンプレックスという言葉がある。
 誰しも、多少はそんな何かを抱えているに違いないが、それを堂々と人前で語れるようになったとすると、それはすでにコンプレックスではないだろう。
 悲しみや苦しみとはそんなものではないかと僕は思う。本当に辛いことは進んで語れるものではないし、語れるようになった時は乗り越えた時ではないだろうか?
「実は私にもこんな不幸な出来事が過去にあり、いまだに辛いのです。」
 と主張する人がウソをついているとは僕は思わない。未だに辛いに違いない。
 だが、その悲しみの程度はすでに乗り越えられたものであり、それが、もしも今まさに苦しんでいる人に対して語られたなら、それは大変なありがた迷惑ではないだろうか?
 その手の会話が好きな人は、それが好きな人どうしの間で語るべきだと思う。
 最近は報道とワイドショーの区別がつきにくいが、報道と言えば正義感に満ち溢れているような気がするし、すべての正義感を否定する気はないが、報道には悲しみが楽しいという妙な側面があるような気がする。
 
(お知らせ)
7月27日はメインテナンスのため、1:00 〜 15:00の間、ホームページが閲覧できなくなります。

 

 2005.7.25(月) 更新

 今月の水辺を更新しました。
 
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 2005.7.24(日) 限界

 あと一日フィールドで撮影する時間を取っていたのだが、ここ数日あまりに暑く、事務所で飼育中の生き物たちが心配になる。
 僕はだいたいにおいて、何かに取り組めば他のすべてのことを忘れられるタイプである。
 が、撮影用のモデルを死なせてしまうと、あとで非常に苦労させられるので、こればかりは慎重にならざらるを得ない。
 果たして帰宅をしてみれば、やはりすべてが限界寸前であり、与えた野菜は腐り、水槽の水温も35度を越えつつある。帰宅を選んで正解であった!と胸をなでおろしたところだ。
 今回の取材はやや短めで三泊四日だが、梅雨が明けると、そこらが限界になる。

 今朝は、広島県の作木という村で滝を撮影する予定を組んでいた。
 晴れの日の青空をバックに、滝の水しぶきを写しとめる予定であったが、どうもその場所は太陽が通るコースからして僕が思い描くような写真が撮れないことが判明した。
 ならば滝の冷気を楽しんで帰ろうと、滝のほとりで横になっていると、ポチャーンという水音が耳に入った。
 それが今日の画像のトノサマガエルである。
 僕はカエルの中ではトノサマガエルが一番好きだ。しかも、今日のトノサマガエルは、緑色の体色の具合や体型など、まさに僕のイメージにピッタリで、標本写真を撮るのであれば、是非こんなヤツを写してみたい!とその気にさせられたのだ。
 
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 2005.7.23(土) 機材の話

 (機材の話 上級編
 僕は主にニコンのデジタルカメラを使用するが、645判のフィルムカメラと一緒にデジカメを持ち歩く際には、最近はキヤノンのイオス20Dを使用する。
 今日はご覧の通り風景の撮影であり645判のフィルムカメラをメインで使用したので、キヤノンを一緒に持ち歩いた。

 キヤノンを使う理由は、大きく分けて2つある。
 1つ目は、レンズも含めた重量であり、キヤノンの17〜40f4は高性能であるにも関わらず、比較的軽いのでありがたい。それに発売されて間もない60ミリのデジタル専用のマクロレンズを組み合わせている。
 ニコンには17〜55f2.8というさらに高性能なレンズがあるが、こちらは非常に重たくて、645判のカメラと組み合わせるには不向きである。
 それからキヤノンを選択する2つ目の理由は、ニコンのデジタルカメラの絞りの表示の方式にある。ニコンの表示方式は独特であり、ペンタックスの645判のカメラと組み合わた場合に混乱してしまい、どうも良くない。

 ニコンのデジタルカメラの絞り表示は、露出倍数も含めた実絞り表示である。
 実絞り表示とは何か?
 例えば、絞りリングをf11に設定したとしても、もしもその時の撮影の倍率が等倍撮影であったなら、f11に露出倍数がかかり実際にはf22になる。そのf22という露出倍数も加えた絞り値、実値をニコンのカメラだけが表示し、他社のカメラは露出倍数を含まないf11と表示するのだから混乱の原因になる。
 特にストロボを複数個使用するようなややこしい撮影の際には、フィルムで撮影する前にデジタルカメラでの試し撮りによって露出を決定する方法が有効であるが、絞りの表示方式が異なるニコンは、ペンタックスの645判のフィルムカメラで撮影するための試し撮りには使いにくい。
 ただ、従来の方式と違う!と頑なになるなかれ。ニコンの方式は、上手く使うと非常に便利である。
 例えば、ニコンのストロボはレンズから距離情報を受け取り、それを利用して発光の強さをコントロールする。
 もしも被写体がカメラから30センチの位置にあるなら、その時の絞り値で、距離30センチの被写体に対してちょうどいいようにストロボが発光するが、その場合に、ニコンのカメラは露出倍数までもを含めて絞り値として理解しているので、露出倍数に惑わされず非常に正確な調光が可能になる。
 つまり、オートストロボを使えということである。
 僕の場合は、トンボの飛翔シーンにストロボを使用する場合はオートストロボを使う。その場合には、ストロボの発光量に補正を加えるなどの必要があるが、一度補正量を決めると、あとはトンボをレンズで追いかけるだけで、何も考えずに、実に楽チンで確実な撮影ができる。
 初めはニコンの方式に馴染めず使いにくく感じ、ニコンは気がふれたのではないか?と疑ったのだが、ようやく最近になってニコンの方式のメリットが理解できはじめた。
 それからスタジオ撮影にも便利な面があるが、そちらはまたの機会にしようと思う。
 一長一短なのである。
 
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 2005.7.22(金) あの沼へ

 今年の初夏のことである。滅多に人が訪れることがない山上に、僕は、見事な湿地を見つけた。湿地はモリアオガエルの宝庫であり、ハッチョウトンボを確認することができた。
 その湿地に梅雨時の雨がたまり、湿地が沼へと変貌を遂げたことは、先日日記に書いた。
 その沼の写真を晴れの日の太陽のもとで撮りたくて、昨晩は沼の麓まで車を走らせた。
 今朝はまだ薄暗いうちに目を覚まし、
「さあ、いくぞ!」
 と気合を込めたが、うす雲が広がり僕が望む天候ではない。
 撮影を諦めることした。
 仕事として写真を撮るときには望みどおりの天候にならなくても写真を撮らなければならないことが多いが、好きな被写体を趣味として撮影する際には、一点の曇りもなく心の底から納得できる時にのみカメラを持ち出したい。
 せっかく来たのだから撮っておこう!という発想は、似合わないのである。

 アマチュア写真家にも、今日の僕と同じように、納得できないときには写真を撮らない人を見かけることがある。
 だが、もしもその人が写真を上手くなりたいと望むのであれば、僕はアマチュアにはそうした撮り方をお勧めしない。
 思い通りではない気象条件のもとで写真を撮ってみたら、思いの他結果が良かったというケースが決して稀ではないし、そんな機会こそが、どんな気象条件の時にどんな写真が撮れるのか?それを覚えるいい機会になる。
 プロの写真家の場合は、仕事として思い通りではない天候の時にも写真を撮らなければならないケースがあり、そこで、いつの間にか、まざまなことを身に付けてしまっているのである。
 
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 2005.7.21(木) めだかの学校(世界文化社)

 数ある写真の被写体の中でも、野生生物の撮影は非常に難しい部類に入るに違いない。
 カメラを手にする前に生き物を探すことからはじまり、カメラを向ければ、せっかく見つけたその生き物がしばしばサッと逃げ去ってしまう。
「もうちょっと構図を・・・」
 とか、
「もう少し大きく撮った方が・・・」
 などと外野からアドバイスがあったとしても、思うようにならないのが野生の生き物である。
 だがさらに難しいのが、モデルとして子供を撮影することであり、その難易度は野生の生物の比ではない。
 子供の撮影の中でも、運動会やイベントなど、何か流れの中で撮影するのならまだしも、あえてモデルとして子供に写ってもらう撮影は難しい。
 子供を撮影するとなると、僕は一週間以上も前から気分が冴えなくなるほどだ。
 この7月に発売されたメダカの本のために、今年は5月の上旬に、子供にカメラを向ける機会があった。楽しそうにメダカを見てもらいたい僕の意に反して、メダカの水槽の前でこんなセクシーなポーズをとり続けてくれるのだからお手上げである。
めだかのがっこう (世界文化社)

 自然雑誌の中で子供の撮影を依頼する編集者は、その子供の個性が写らない写真を望んでいるに違いない。面と向かってそう依頼されたことは過去に数えるくらいしかないが、恐らくほぼすべての編集者がそれを望んでいるだろうと思う。
 例えば、子供の隅々までシャープに写っている写真よりも、子供がボケている方がありがたがられるだろう。
 多くの人が目にする本である。そこに写っている子供が、何々家の誰それ君では困るのだ。
 そうではなくて、抽象的なごく一般的な幼稚園児のイメージであったり、小学校の元気な男の子のイメージが求められる。
 つまり子供を、個性をもった一人の人間として撮影するのではなく、画面の一部、背景の一部、時にはたんなる1つのアイテムとして見て撮影することになる。
 以前に、僕はそれを、
「子供をサルだと思って撮影しよう!」
 と表現したことがあるが、すると、
「人間をサルに見立てるとはケシカラン!」
 と、お叱りのメールが送られてきた。
 僕は極端な人権意識には全く賛同できないし、サルの子供の群れを見ていると、思いの他人間の子供と似ているなぁなどと感動するくらいである。それを失礼な例えだとは思わぬが、仮に多少の失礼であったとしても、僕にとって写真撮影は仕事である。
 その状況に応じて、時には、命あるものを、生命ではなく単なる1つの素材としてクールに見ることも必要である。
 もちろん、それがどうしても理解できない人もいるに違いない。

 では、僕自身の本音はどうか?といわれれば、子供の個性を消して撮影することは心苦しい。いや、まだそれができないと言ってもいいかもしれない。
 メダカのがっこうの撮影の中で僕が写した女の子の写真を見て、ある編集者が、
「きれいな写真ですね。」
 とおっしゃった。
 全くその通りで、この一連の撮影の中で写した写真を拡大すると、子供の肌の質感など、その子の素材の良さが見事に写った写真であった。
 が、それでは、メダカの本のための写真ではなく、子供のための写真である。失格なのである。
「きれいな写真ですね。」
 といわれ、実に複雑な気持ちであった。
 次回子供を撮影する時は、技術者に徹して思いっきりクールに撮ってみようかと思う。
   
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 2005.7.20(水) 暑い!

  成り行きは省略するが、先日日記に、
やさしくて、ついでにきれいで若〜い女性の新聞記者さんと親しくなれば・・・・」
 
などと日記に書いたら、
「ふ〜ん、若い人が好きなんだ。」
 とだけ書かれたメールが送られてきた。
 メールには返事を書かなければならないし、よし、それならもっと書くか!と、最近テレビでよく見かける好みのタイプの若い女性を必死に思い浮かべ、
「最近は、熊田曜子や杏さゆりが好みのタイプで、吉岡美穂あたりも結構好きですよ。」
 と返信したら、
「面食いってことだね。」
 と返事がきた。しまったなぁと思う。
 安めぐみさんを書き忘れていたのだ。


 さて、毎年、この日を境に暑くなったなぁと感じる日があるが、今年は、7月16日がその日にあたる。
 その日の午前中までの数日間、僕は山地で撮影をしていたので比較的涼しく暮らしてきたが、帰宅をした途端にあまりに暑くて、その急激な変化に体が対応できず、一昨日あたりから無気力症候群に陥っている。
 昨年は、暑い暑い博多の町中でセミを撮影していた。それに体が慣れてしまい、あまり夏の暑さを感じなかったのだが、快適な山の水辺ですごすと帰宅をした時にその反動が大きい。
 無気力症候群に陥ってしまった時には、僕は、あまりそれに抵抗しない事に決めている。
 本来の計画をぐっと絞り最低限の仕事だけを残し、少ない仕事にたっぷりと時間を費やし、毎日少しだけ確実に前進するように心掛ける。
  
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 2005.7.18(月) 水に濡れた被写体

 デジタルカメラが登場して以来、昆虫のいい写真を撮る人が増えた。
 昆虫のような線で構成された角々したものは、とにかくデジカメがよく写るのだ。
 一方でデジタルカメラが不得手な被写体もあり、例えば、水辺に濡れたものの質感は、なかなか写し撮ることができない。スタジオで白い紙の上にカタツムリを置いて撮影するだけでも、カタツムリの表面が濡れていると、途端に画質が悪くなる。
 先日、アゲハチョウの写真を掲載したが、乾いていて、線で構成されていて角々したアゲハチョウを撮ってみると、まあ、デジカメがよく写ること!
 デジカメ画像をパソコン上でグングン拡大すると、拡大すればするほどに、
「よく写っているな〜」
 と感心させられるのである。
  僕の場合はテーマが水辺の自然であるから、水に濡れた被写体が多い。今の時点では、僕の撮影にはデジタルカメラが不適であるケースも少なくない。したがって、デジタルカメラで撮影したのちに645判のフィルムカメラで同じ被写体を撮ることが多い。
 今日の画像であれば、フィルムの方が水中の泥の質感がよく写り、大きく伸ばした時に、まさに自分の目で見ているような臨場感が表現しやすい。

 さて、ザリガニは撮影の対象として非常に面白い。カッコイイ形に赤い体色。怒ったり、隠れたりと表情も豊かである。
 半面、ザリガニが怒ったときに泥を巻き上げ水中が汚れてしまったりと、扱いにくい面もある。ザリガニにグ〜ンとカメラを近づけるとザリガニはハサミを振り上げて怒るが、もう一回!と、ザリガニの頭をチョンと叩いたりしていると、ザリガニの脚が水中で泥を巻き上げ水が濁り、いかにもカメラマンが試行錯誤しました!といった感じの写真になってしまう。
 そこで色々な田んぼを調べてみると、田んぼの土の性質には様々あり、中には非常に濁りにくい田んぼもある。
 撮影はカメラを持ち出す前に、田んぼの泥の質の調査から始まるのである。 
 
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 2005.7.17(日) 不快な昆虫

 僕は以前に野鳥の写真家を目指していたことは何度か書いたことがあるが、今日の画像は、当時撮影したサンコウチョウである。
 野鳥の撮影は、今僕が主にカメラを向けるような小動物とは異なり、一箇所でじっとして待つことが多く、撮影用のテントの中にこもり、あとは姿を見せないようにしておく。
 ところが、そのテントの中は、しばしば快適ではない。暑さ、身動きできない辛さ。待たなければならない退屈さ。特にサンコウチョウの撮影ではしばしば蚊の襲来に悩まされたが、この鳥は、神社の裏手のような、いかにも蚊が多そうな森に生息し、蚊を含め昆虫を食べるのだ。
 産卵の時期は、九州北部では他の鳥よりもやや遅い傾向にあり、僕の観察では7月になってから子育てをするものが多かった。ちょうど梅雨時でテントの中は非常に蒸し、虫除けを塗ってもあっという間に流れ落ちてしまう。
 サンコウチョウを撮影すると虫に刺されてボコボコになってしまうのだが、僕は必死に自分に言い聞かせた。
「この蚊が餌になるから、ここにサンコウチョウが生息するのだ。」
 と。
 僕は、その手の理屈で自分を納得させるのはあまり好きではない。どんな理屈があっても、不愉快なものは不愉快だからであるが、時には、そうして理屈で自分を律するしかない場合もあるようだ。
 
 さて、昨日は山上の池を目指して歩いたが、距離が長く傾斜も厳しくて、非常にきつい撮影であった。
 その行程を益々きつくさせるのが、歩行中に身にまとわりつく昆虫の存在である。目玉の中に飛び込んできたり、プ〜ンという音は不愉快極まりない。
 世の中には蛇を嫌う人が多いが、蛇は大抵自分から逃げ出してくれるので付き合いやすい。それにひきかえあの昆虫たちは・・・
 だが、そのうちの一匹がグンバイトンボに捕まり食べられてしまった。
 脚が軍配のように広がったこの洒落たトンボであるが、僕にとって迷惑なまとわりつく虫たちも、トンボにとってはご馳走なのである。
 うん、人間にとって不快な昆虫も、必要とされているようである。

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7月27日はメインテナンスのため、1:00 〜 15:00の間、ホームページが閲覧できなくなります。

 

 2005.7.16(土) 変貌

 6月22日の日記に画像を掲載した湿原に行ってみると、なんと、あの見事な湿原が沼へと変貌を遂げていた。
 その場所は元々火山の噴火口に水がたまってできた環境である。
 非常に小さな流れが一本入り込んでいるだけなので、恐らく雨が少ない時期に湿原になり、梅雨時に沼へと変化するのだと思う。
 前回も書いたが、およそ一時間の登山を強いられる。道もそれなりに険しい。撮影には非常にきつい場所だが、四季を通して撮影してみようと思う。
 ほぼ無名であり、地元のおまわりさんに沼への道をたずねても、
「さ〜ね〜、聞いたことないね。」
 といった具合なのである。
 全く手付かずの場所で写真を撮ることができるのは、どんなに道のりがきつくても快感ある。
 湿原から沼への劇的な変貌を目の当たりにして、心がグラグラっと揺さぶられたのだ。

 さて、帰宅をするとアサヒカメラ(8月号)が届いていた。一見開きであるが、僕の写真が掲載されているので是非見て欲しい。
 すべてデジタルカメラの画像であるが、画質調整の際に、ちょっとコントラストを付けすぎたかな・・・と思わぬでもない。
 これにはちょっとした理由がある。僕が主に仕事をしている子供向けの自然雑誌は、あまり上質の紙を使うこともないし、印刷のクオリティーも決して高くない。
 そんな状況で印刷をする場合は若干コントラストを上げ、色をのせておいた方が見栄えがするのだ。それに慣れすぎてしまっていることに気付かされた。
 一番最後のページに、読者アンケートのハガキがある。今月号で良かった写真のところに僕のページをあげることは言うまでもないだろうが、よろしくお願いします。ナンチャッテ。
 
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7月27日は、メインテナンスのため、終日ホームページが閲覧できなくなります。

 

 2005.7.15(金) 自虐的な人

 ここ数年大きな地震が多いが、何か人間による環境破壊が原因で、人に天罰が下っているのではないか?と言う人がいる。
 また、渇水や記録的な大雨が降ると同じく、人間が地球に優しくないから・・・と誰かが言い出す。
 確かに、人間の活動は随所に悪影響を与えているに違いない。
 だが僕は、あまりに人間ばかりを責める極端に自虐的な人には、どうしても共感ができない。
そんなことを言うのなら、人間が自ら絶滅する他、それを解決する手段がないからである。
 ところが、
「人間が悪い!人間がやさしくな」
 といつも自虐的な人が、しばしば自殺することなくのうのうと暮らしているし、それが理由で誰かが自殺したという話を僕は聞いたことがない。それどころか、自らの生活の心配をしたり、中には趣味をもってエンジョイしている者もいるに違いない。
 口先だけで自虐的になり、人間が悪い、人間が優しくないと責めるのは簡単であるが、そんな人は、自分が謙虚であるつもりになり自己満足をしているに過ぎないような気がする。
 そんなに人間が悪いのなら、まずあなたが死ねば?と言われてみれば、みんな困り果ててしまうのである。

 環境問題という言葉がある。
 それを自然を守ることだと勘違いしている人が多いが、環境問題とは自然を思いやることや守ることではなく、今の人間の生活を守ることではないだろうか?
 例えば、大昔に地球上のほぼすべての生き物が死に絶えた時期があるという。
 ほぼすべての生き物が絶滅したのであるから、今風に言えば環境が著しく破壊されたことになるが、その時期を振り返って、その事実を問題視する人が果たしているだろうか?
 ごく当たり前に言うと、それも1つの地球の摂理であり、全く何の問題にもならないだろう。
 環境が破壊されることでむしろ問題なのは、僕たちの子孫が日々の生活に苦労をしたり、自然という人類にとっての財産が失われることである。
 極端な話、人間が地球上に存在しないのであれば、人間にとって地球の環境などどうなってもいいし、ほとんどすべての生き物が絶滅してしまうような時期があっても全く何の問題でもない。
 人間は自然の一員であるような気がするが、意外に、自然などという概念は、人間の心の中にあり、人間の考え方の1つなのかもしれない。
 自然を考えるときに、自虐的になり、憂いたり、悩んだり、悲しんでみせるだけでは、何も解決しないように思う。むしろ大切なのは
「自然って楽しいなぁ」
 とか、
「自然の中で過ごせて幸せだな。」
 とか、
「生き物って不思議だな。」
 といった楽しくて愉快で幸せな思いであるような気がする。他にもいろいろな形があるに違いないが、人間にとって自然って価値があるよ!と1つでもたくさん見出し、主張することではないかと思う。

 今日は湿原を歩いてみた。正確な種類はまだ不明だが、エゾトンボの仲間を撮影することができた。
 トンボの目玉の色がきれいに撮れると楽しいし、遠くを飛んでいる小さなトンボが望遠レンズで大きく写り、トンボの種類が分かると、これまた楽しい。
 カメラっていい道具だなぁと、そんな時、しみじみ思う。
 
(お知らせ)
7月27日は、メインテナンスのため、終日ホームページが閲覧できなくなります。

 

 2005.7.14(木) 重たい荷物

 運転中の携帯電話には出ないことにしているが、ちょうど車を止める場所があり、電話をとると、先日セミの本(都会にすみついたセミたち・偕成社)に関して連絡をくださった新聞記者の方であった。
 福岡県の博多の町で、なぜクマゼミが大繁殖するのか?
 一般的には、都会の乾燥した環境をクマゼミが好み、そこにクマゼミが集まってきたと言われているが、それだけが原因であろうか?
 僕はそれ以外にも、街路樹を植える際に、木にセミの卵がくっついてきたことが大きいのではないか?と考えている。
 記者さんは、そこに興味をもってくださったのだ。

 セミの本を作る際の取材の中で、博多の町に植えられた街路樹の産地は宮崎や熊本など九州南部であると教わり、そういう風に本の中に書いたが、今日の記者さんの話によると、宮崎ではなく福岡県の田主丸ではないか?という。
「え!そうだったの?僕はなぜ宮崎だと思い込んでしまったのだろう?」
 と思いつつ、さすが新聞の人やな〜と、プロの取材の能力に感心させられる。
 気が利いて、やさしくて、ついでにきれいで若〜い女性の新聞記者さんと親しくなれば、調べごとがある時やその他、いいことずくめではないか?という妄想が・・・・。
 ともあれ、田主丸とは福岡県南部の町で、植木の一大産地だ。
 付近にはヒナモロコという絶滅寸前の魚が生息し、どこだった忘れてしまったが役場には水槽があり、そのヒナモロコが飼われている。
 それから通りには植木の組合の大きな建物と立派な庭があり、中に入ると市民会館のような立派な作りで・・・
 あれ?僕はなぜ田主丸に詳しいのだろう?
 そういえばすっかり忘れていたが、僕も誰かに福岡県の街路樹は田主丸産だと教わり、昨年田主丸にでかけたのだ。そしてそこで、田主丸には市場があるだけで、ケヤキは宮崎や熊本から送られてくると教わったのである。
 ついでに宮崎県のケヤキの生産者の連絡先を教わったような、いや調べてもらったがわからなかったような・・・ほんの去年のことであるが、自分でも不思議なくらいに記憶があやしい。
 記者さんには、
「あ!思い出しました。」
 と宮崎産のケヤキについて慌てて説明をしたが、つい昨年、本に書いたばかりのことを完璧に忘れていたのだから、かなり記憶の悪い人間だと思われているに違いない。
 言い訳をすると、昨年は究極に忙しかった。自分でも、よくやったな〜と惚れ惚れして感心してしまうくらいにたくさんの仕事を、しかも丁寧にこなした。
 そして、あまりにその内容が多く、昨年の仕事がもう3〜4年前のことのように感じられるのだ。
 さらによく思い起こせば、セミの取材に関してたくさんの人のお世話になった。
 どなたからだったか、街路樹の詳しい資料を手に入れてもらったが、それが誰だか思い出すことができない。お世話になっておきながらなんて失礼な!と、突然に冷や汗が出てくる。

 さて、なぜそこまでたくさんの仕事を昨年一年間に詰め込んだのかというと、撮影機材を一気に揃えるためのお金を稼ぐためだ。
 特にここ1〜2年で急速な発展を遂げたデジタルカメラであるが、プロの仕事に十分に使えるレベルに技術が到達したと僕は判断し、デジタルカメラにもっとも適するレンズなど、周辺機器も含めて今年は山ほど買い物をした。
 ところが、たくさん機材を買っても体力の側の問題で一度も持ち歩ける量には限度がある。
 でも、買ったらからには全部持っていきたい。
 お陰でこの春から山歩きがきつくてきつくてたまらなかった。
 とうとう耐えなくなり、今日は三脚をいつもよりも1キロ軽いものにして、機材をずっと絞り込むと、山歩きが非常に楽しい。
 前回出かけた時には、きつくて何度も途中で休んだ滝だが、今日は、息が切れる前に、あっという間に目的地に着いた。
 
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 2005.7.13(水) 半額

 僕はよく高速道路のパーキングエリアに車を止めて眠る。
 有料道路の施設は、一般道に設けられた道の駅などの施設とは異なり、お金を払わなければ入れないため、変な溜り場になりにくく安心感がある。
 もちろん、水道もあればトイレもある。
 また、一般道の施設ではしばしば真夜中にパトカーがやってきて車をノックされて叩き起こされ、職務質問をされるが、高速道路では今まで一度もそんな経験はない。
 もちろん、お金がかかるので、眠るためだけに高速道路を利用したことはない。移動のついでにパーキングエリアを利用するのである。
 最近は、ETCのシステムを利用して、朝の6時〜9時の間に高速道路へと出入りすると料金が半額になるが、これは利用しない手はないだろう。
 移動の途中に高速道路の施設で眠り、翌朝6〜9時の間にインターチェンジを出るだけでいいのだ。僕が高速道路で眠る機会は、ますます多くなるに違いない。
 ただし、半額になるのは合計の走行距離が100キロまでという決まりがある。そこで今日は、途中で一度高速道路を降り、再度同じインターチェンジから高速道にのり、明日の朝、僕が高速道路を降りる際に走った距離が100キロ未満になるように調整しておくことにした。
 今朝は島根県で撮影し、その後、鳥取県まで車を走らせた。
 他にも、高速道路の料金には、確か深夜料金という割引もある。が、深夜は無理をすると居眠りをしてしまったり事故につながりかねないので、深夜料金の利用は考えたことがない。
 
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 2005.7.11(月) 構図決定

 写真を熱心に撮る人なら、誰しも写真の構図について考えることがあるだろう。
 そこで今回は、今日、僕が構図を決定をする際に考えたことを順を追って書いてみようと思う。
 題材はアゲハチョウの幼虫で、この幼虫はしばらくすると蛹へと変化を遂げた。

 写真の構図というと、何となく被写体がきれいに見えるように捉えることだと思い込んでいる人が多い。
 例えば、被写体を画面のど真ん中に写すよりも、画面の中央から少し外した方が、気持ちよく見える・・・・
 確かにそうした構図もあるが、僕は、それを些細なことだと考える。
 そんな、ちょっと写真が気持ちよく見えるかどうかよりも、構図とは、写真の中にどんなメッセージを詰め込むのか?写真を通して何を伝えようとするのかではないだろうか?
 今日の僕は、まず幼虫に対して、どの角度からカメラを向けるのかを決めたが、これから幼虫の皮を脱ぎ捨て蛹へと変化をするのだから、その際に、最初に皮が破れる背中がよく見える、ちょっと見上げる角度を選んだ。
 ちょっと見上げる角度と言っても、ある1つの角度が厳密に決まるわけではない。もうちょっとカメラの位置を高くして見下ろしてもいいし、もう少しカメラを下げて、もっと見上げてもいい。
 だがカメラをもう少し高くすると、幼虫と背景の葉っぱが重なり、幼虫が見にくくなる。
 逆に、もっとカメラを下げ見上げると、右下の丸い物体が画面から消え失せてしまう。この丸い物体はスダチの実だが、アゲハチョウの幼虫はミカンの仲間の葉っぱを食べることが多く、スダチを入れることでその食草をも同時に伝えることができる。したがって、スダチの実の付け根がギリギリ画面に収まるこの角度を選んだのである。
 また、幼虫の真上の葉っぱがくびれているが、この形はミカンの仲間の特徴で、植物に詳しい人なら、ここを見ただけでミカンだと判断できるだろう。
 その特徴がギリギリ画面に収まるように、画面上部を考えた。
 それから、アゲハの幼虫は糸で体をぶら下げているが、糸は透明で細いので見にくい存在である。そこで、幼虫の後ろ側から光をあて、糸を光に透かすことで糸が見やすくなるように照明の位置を決めた。

「な〜んだ。説明することばかりじゃない!」
 と感じる人もいるだろう。その通りなのである。
 芸術家ぶった写真家には、説明することをつまらないことだと思い込んでる人が多い。特に、アマチュアの凝っている人にその傾向が強いが、そんな人にはエセだと判断を下しても構わないだろう。
 もしもあなたが、
「カワセミってどんな鳥?」
 と聞かれ、それに対して説明をしようとしたら・・・
 あなたは自分にとって最も印象的で感動的なカワセミの特徴を答えようとはしないだろうか?
 説明とは、そもそも感動から始まるのである。
 ただ、説明には技術が必要である。説明すること自体が悪いのではなく、その技術が悪い写真はたくさん見受けられるに違いない。そこを勘違いしないことが大切なのである。


 
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 2005.7.10(日) カメラを持つ動機

 2日に写真を掲載したアゲハの蛹が、今朝、羽化をした。
 その時は取材へ出かけるかどうかを迷っていて、羽化の可能性があるアゲハを待つべきか?それとも、本来の予定通りに水辺に出かけるべきか散々迷い、結局、アゲハの蛹を車に積み込んで取材先へと持って行くことに決めたのだと書いた。
 仕事の裏話だと思って読んだ方もおられるに違いないが、僕のテーマである水辺とは無関係のアゲハの写真をなぜ載せたのか?
 つい先日のことだが、この日記を、まだよく字が読めない小さな子供が毎日のように見ていることを知り、それなら、なるべく何か生き物の写真を載たいと感じたのだ。

 僕は文章を決して疎かにするつもりはない。また、こうして毎日のように結構な長さの日記を更新する僕が書くと、意外に感じる人もおられるかもしれないが、写真は、なるべくなら言葉による説明なしで、一目で見て分かるように撮りたいと思う。
 そうでなければダメだとは思わぬし、他人が撮影した写真に添えられたちょっとした文章を読んで、
「文章が添えられることで、写真が益々面白いな。」 
 と楽しませてもらうことは決して稀ではない。
 が、僕の場合、写真を通して表現したいものは、言葉にはならない自然や生き物への思いなのである。
 中には、
「それなら、一目で分かるように写真を撮り、何かエピソードを綴った文章が添えられていれば、なおいいじゃない?」
 と言う人もいるし、そうした人の多くは、
「だって、私たちは写真の専門家じゃないから、写真を見ただけでは分からないんだよ。」
 と主張する。
 だが、写真の専門家でなく、一般的な文章でさえよく読めないような子供が、何か分からないけど理屈抜きに生き物に興味を感じ、生き物の写真を楽しむこともあるのだ。専門家であるかどうかの話ではないし、学校の授業ではないのだから、分からないことがあってもいいと僕は感じる。
 自然写真のような仕事をすると、恐らく会社に勤めるよりも面白い出来事にたくさん出くわすし、そんなエピソードはエピソードとしていずれ形にして、なるべく多くの人に楽しんでもらいたいと思うが、それは、僕がカメラを持つ動機の本筋ではない。
 僕は、自然を解説したいわけでも、何か社会に問いかけたいわけでも、情緒的な心を表現したいわけでも、アートをしたいわけでもない。
 僕の思いはもっと簡単で、ただ、生き物が好きなのだ。

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 2005.7.8(金) 都会にすみついたセミたち

 この春発売されたセミの本(都会にすみついたセミたち偕成社・共著)の反響が凄い。
 ちょうどここ一週間でクマゼミが数多く鳴き出したこともあるだろうが、本の主人公であったクマゼミの生態や、今回出版されたセミの本に関する問い合わせが、立て続けに寄せられた。
 「都会にすみついたセミたち」という本のテーマは、昆虫写真家の海野和男先生が設定してくださったものであるが、それだけ数多くのセミに関する問い合わせが僕に寄せられるということは、海野先生のテーマ設定が面白く、それが多くの人の心を掴んだことを意味する。
 
 写真を撮る者どうしが集まると、しばしば有名な先生方という言葉が出てくる。
 有名な先生方とは、例えば、海野先生をはじめ、特に高く評価されている売れっ子の写真家を指す言葉である。そして必ずといっていいくらい、そんな会話の中で、
「有名な先生方になると自由に振舞うことができ、何をしてもそれが評価され、また許されてしまう・・・」
 と誰かが言い出す。
 僕が一番嫌いな会話の1つであるが、なんてひがみっぽい発想だろうか。
 そんな発想の持ち主は早めに写真を止めた方がいいだろう。
 有名な先生方が多少なりともオーラを持っていることは事実である。が、評価されている人は、有名だから何をしても許されているのではなく、その仕事の全体を見つめてみれば、やはり面白い仕事をしているのだと僕は感じる。
 都会にすみついたセミたちという本を、僕は自分自身で、面白くて読むに値する本だと思っているが、ここのところで寄せられた反響の大きさは僕の自己評価をずっと超えるもので、いかに海野先生のテーマ設定がつぼを押さえていたのか、それを思い知らされたのである。
 つぼがしっかりと押さえられていれば、有名な先生ではない武田が撮っても、人は面白がってくれるようだ。
 海野先生と共著で本を作る機会に恵まれ何が勉強になったか、今日は、そこに触れてみた。

 この日記を読んでおられる方の中に、もしも福岡県の小学校にお勤めの方がおられるのなら、都会にすみついたセミたち推薦図書として取り上げるべきであろう。
 ウソウソ。それは九割方冗談であるが、博多に住んでいる子供たちには、是非読んでもらいたいのである。
 中には、夏休みの研究でクマゼミを調べる子供もいるに違いない。そんな子が、ひと夏クマゼミを調べてみて、そして都会にすみついたセミたちの存在を知り本を読めば、きっと益々生きものや本に興味が湧くに違いないのだ。
 ちょっと厚かましいか?
 誰か、この日記を読んでおられる方で、小学校の先生はおられないのだろうか?

 

 2005.7.7(木) コハクオナジマイマイ

 昨日、一昨日と、このまま車の中で寝ていて大丈夫かな?と心配になるほどの強い雨が、熊本では降った。
 当然川は大増水である。普通に考えれば、カメラを向けるような状況ではないが、それはそれで水辺の1つの姿であり、僕はよく雨の日にも撮影をする。
 ただ、防水をしても機材はずぶ濡れになり気を遣わなければならないし、雨具を着ると蒸れるし歩きにくくなるし、いつもの何倍も疲れを感じる。 
 その疲れをちょっとでも和らげるために、カタツムリを探しながら歩くと、僕の場合は、疲れが半減して楽しくなるが、今回の取材ではコハクオナジマイマイを採集することができた。 
 コハクオナジマイマイは、直径が1.5センチ程度の小さなカタツムリである。
 カタツムリの仲間は、全体に減少しつつあると言われているが、そんな中で分布を広げていると言われている種類であり、本来の生息地は九州だが、今では関東も多数見られるようになったようだ。
 では、九州でも増えているのか?と言えば、僕には分からないが、それほど多く見かける訳ではないように感じる。ちょっと気まぐれなところがある種類で、時に、畑の石垣などに大量発生するが、パタリとそれが見られなくなる。

(撮影機材の話)
 さて今回は、渓流や滝の他にも、デジタルカメラを使って、山間部でゲンジボタルを撮影する予定を組んでいたが、大雨で、夜は撮影どころではなかった。
 蛍の撮影のように高感度で長時間の露光をする場合、ノイズが非常に少ないキヤノンのカメラが圧倒的にいいと言われている。
 そこで僕もキヤノンを試したいと思うわけだが、僕の主な機材はニコンであり、キヤノンはイオス20Dやキッスデジタルを持ってはいるものの、レンズの数が少なくて、蛍を撮影できる道具はない。
 ふと、ニコンのレンズをキヤノンに取り付けるアダプターを買えば?と思いつき、さっそく購入して準備をして出かけたのである。
 アダプターの購入前に、果たして、アダプターを取り付けてカメラが正常に動いてくれるだろうか?と心配になり、カメラの構造を教わるためにキヤノンに電話をかけ問い合わせてみたが、キヤノンでは、そうしてかかってくる電話をすべて録音しているとのことである。
 どうも、クレーマーのような人に対する対策のようだが、よほどにたくさん、そうしたトラブルを抱えているのだろう。
 有名な例は、キヤノンの超高級カメラでは、時に撮影したはずの画像が消え失せてしまう現象が知られているが、メーカーは頑として、
「そうした例は報告されていません。」
 と、突っぱねていたようだ。
「そんなはずはない!」
 とユーザーは、何度も苦情の電話をかけるに違いないし、もめごとがたくさん起きるであろうことも、想像に難くない。
 結局、つい最近になって、画像が消えるトラブルを解消するためにカメラ内部のソフトをアップデートしたのだから、本当は、トラブルがたくさん報告されていたことになるし、苦情を申し出た人たちはクレーマーではなかったことになる。
 現在のキヤノンはNO1のメーカーであるが、そんな隠蔽体質であるならば、そのうちまたニコンに逆転されてしまう日が来るのかもしれない。

 

 2005.7.5(火) 渓流の写真

 先月、日本自然科学写真協会の定期総会に出席した際に、子供の頃に僕が夢中になって見ていた本の作者とお会いすることができた。
 岸田功さんとおっしゃる方で本業は高校の化学の先生であるが、子供向けの昆虫の本を出版しておられる自然写真家でもある。
 一般的に他に職業を持つ写真家は、写真でお金を稼がなければならない束縛がないので人に媚びることがなく、自由奔放な傾向があるが、岸田さんの写真は非常に礼儀正しくオーソドックスであり、また何が特徴か?と言われれば、極めて丁寧の一言に尽きる。
 他に職業を持っておられたのだから出版された本の数は少ないのかもしれないが、よくよく考えてみれば、僕は岸田さんの写真の影響を多大に受けているような気がする。
 なんといっても、今の僕の信条は、とにかく丁寧な仕事をすることなのだから。
 また写真術を身に付けて経験を積むと、他人が撮影した写真に対して、僕ならこう撮るのにといった思いが込み上げてくるものだが、当時僕が読んでいた岸田さんの本は、今の僕が見ても、何の違和感もなく、すんなりと心の中に入ってくる。
 あの当時、僕はなんて一生懸命に本を見つめていたんだろう!と、振り返れば自分自身で感心してしまうくらいに虫の本に夢中になった。
 今度は、誰かがそうして夢中になれるような本を僕が作りたいと、改めて感じた一日になった。
 それは写真家が考えるいい本とはまた別のものではないか?と、僕は感じている。
 例えば、写真家にとってカブトムシの写真は見飽きた何の目新しさもない写真であり、カブトムシの写真を撮ることで写真家としての評価を得ることはできないに違いないが、本を見る子供にとっては、そんなことは関係ないのである。
 むしろ子供は、目新しい表現とは無縁な、写真家が出過ぎないオーソドックスなカブトムシの写真に何よりも胸をときめかせるような気がするのだ。
 写真家としての評価など気にすることなく、子供にとってのいい本を丁寧に作ってみたいと思う。

 子供向けの本とは別に、僕は、大人向けの自然の本も作ってみたい。中でも一番力を注いでいるのが渓流の水辺であり、一昨日から僕は熊本〜宮崎の水辺を歩いているが、こちらは子供向けの本のように自然を伝えるものではなく、僕の心の中の水辺のイメージを形に現した写真による詩集にまとめたい。
 子供向けの自然の本が実用書に近い存在だとすれば、僕の渓流の写真は道楽であり、
「まあ、よくぞこんなにコストに見合わないことをして!」
 と、人様から馬鹿にされるくらいでありたい。
 
 

 2005.7.4(月) 滝の撮影

 僕は渓流をよく撮影するが、長い間、なぜか滝には興味が持てず、滝にカメラを向けることはなかった。
 それがある時、何気に滝にカメラを向けたのがきっかけになり、突然に滝を撮影するようになった。
 いったい滝の何がいいか?とよくよく考えてみれば、滝の場合、どこに行って何を撮るのかその目的が非常にはっきりとする点である。迷う要素が少なく、出かける前の計画が立てやすい。
 一方で小動物の撮影の場合、滝とは逆に、生き物がどこにいるのかを探すことから始まるし、時には目的とする生き物が見つからないハズレがあったり、また、他の生き物に出会い、その撮影に夢中になってしまうなど不確定な要素が多い。
 生き物の撮影では、巡り会わせが悪いとなかなかリズムに乗れないことがあるが、確実に撮れる滝の撮影と組み合わせることで、すんなりと自然の中に入っていくことができるのだ。
 獣を撮影するある有名な写真家が、
「動物があわられるのを待つ間に、私はいろいろな物を撮影しますよ。例えば、トンボが飛んでいたら、それを撮ってみるのです。常に何かをしていることが大切なんです。」
 と何かの本の中に書いておられたが、分かる気がする。

 

 2005.7.3(日) 水辺の撮影と雨

 僕のテーマである水辺は、気象条件の影響を大変に受けやすい環境である。
 例えば、決して逃げることがない、たかが滝の風景写真を撮ろうとしても、しばらく雨が降らなければ滝の水量が少な過ぎ撮影にならないことが多いし、こればかりは、どんなに自分を磨いてもどうにもならない。
 そこが水辺の難しさであり、面白さでもある。
 したがって僕は、雨の降り具合を判断しながら撮影計画を立てるが、最近の僕は、雨が少ない場合には湿原に出かけ虫や小動物を撮影し、ほどほどの水量が期待できる時には、滝や渓流を撮影することにしている。

 今年の九州は大変に雨が少なくて、さすがに日頃は楽天的な僕も、水不足が怖いな〜と不安になりつつあったが、ここ数日はようやく九州にも雨が降った。
 苔むした岩場を増水した水が流れ、実に気持ちがいい。今週は、九州の渓谷や滝をいくつか歩いてみようと思う。

 

 2005.7.2(土) 出かけるか否か

 宮崎〜熊本へ取材に出かけようと思うのだが、今日の画像のアゲハチョウが羽化をするシーンを撮らなければならず、どうしようかと今日は迷った。
 出かけている間に羽化をしてしまえば、羽化のシーンを撮り損ねることになる。また幼虫を採集し、木の枝の適当な場所で蛹になるように仕向け、そして新たな羽化を待たなければならない。
 だが取材を取り止めにして待つと、同じような仕事がなんだかんだと入ってきて、結局どこにも出かけることができなくなる。
 また、もしかしたらこの蛹は寄生を受けている可能性もあり、せっかく待ったのに、蝶ではなく別の生き物が出てくる可能性もあるのだ。
 そこで、今回はこの蛹を連れて行き、羽化をする兆候が見られれば、急ぎ帰宅をすることにした。
 取材先の車の中で撮影する手もあるが、今回の羽化の場合は、撮影にちょっとやっかいな面があり、十分な装備を備えたスタジオでなければ難しい。
 が、将来は、車内に完璧なスタジオを整えようと思う。沖縄にアネット社という写真撮影用の照明などを販売している小さな会社があるが、そこから充電式の電池で動くなかなか良さそうな照明が安く発売されていて、そうした道具を買い揃え、車内を工夫すれば、車の中でかなり本格的なスタジオ写真が撮れるような気がするのだ。
 僕が飛びっきり有名になって、僕が使っている道具をみんなが買いたくなる程影響力を持てば、こうして日記に書いただけで、
「是非もらって下さい。」
 と各社から道具が送られてくるはずだが・・・(ウソウソ)。

 

 2005.7.1(金) デジタルかフィルムか?

 先日、田んぼの風景の中でアマガエルを撮影する仕事をしたら、どうしてもデジタルカメラの画質が悪くて、改めてフィルムカメラで撮影をやり直すはめになった。
 フィルムで撮り直しをすると好結果であり、いつもはなかなか厳しい編集者が、いい!とお墨付きを与えてくださった。
 やはり現状では、フィルムとデジタルとの使い分けが必要だと感じ、先々週、湿原で撮影をした際には可能な限り両方試した。
 そのフィルムの現像が昨日仕上がってきたのだが、まじまじと比較をすれば、デジタルが好結果なシーンもあれば、フィルムに軍配があがるシーンもある。
 そこで、デジタル一辺倒になっていた機材を考え直し、デジタル用のレンズを若干削り、その分、フィルムカメラも持ち歩くことにした。
 今日の画像は、その際にデジタルカメラで撮影したものだが、このシーンに関してはデジタルが断然上。マクロレンズを使った接写に関しては、ほぼすべてデジタルカメラで問題はないと思う。
 一方で、被写体を風景の中に小さく撮影する際には、デジタルは厳しいこともある。
 ただその場合は、デジタルカメラのモニターで画像の一部を拡大してみれば、大まかな画質の程度が分かるので、基本はデジタルで、デジタルは通用しないと感じればフィルムに切り替えるような使い方になるだろう。
 
 デジタルカメラを手にして以来、僕は一時期、全くフィルムカメラを使う気になれなかった。
 デジタルカメラで撮影し、画像をすぐに確認できる安心感に慣れ、現像を待たなければならないフィルムには耐えられなくなったのだ。
 が、散々にデジタルカメラを使い倒した結果、心が満たされたのだと思うが、今度はすぐにその場で画像を見ることができないフィルムも、また便利がいい!と感じるようになった。画像が見れない分、開き直って被写体に集中することができる面があるのだ。
 この春に購入したばかりのニコンD2Xは、約3ヶ月で16000枚を撮影した。フィルムに直すと450本くらいであるから、年にフィルムを1800本弱使用するペースになるが、僕はおよそ16000回シャッターを押してはカメラの液晶モニターを見て、画像がイメージ通りに写っているかどうかを確認した訳である。
 その回数を考えると、シャッターを押し、モニターを確認したら画像がちゃんと画像が写っていることに飽きるのも無理はないかな?とも思う。
 たまにフィルムで不安を味わうのもいいかもしれない。
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年7月分


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