撮影日記 2005年5月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2005.5.30(月) 混乱

 写真って簡単だな!と自信満々でカメラを向けることができる日もあれば、逆に、何でこれが撮れないの?と、何でもない撮影を非常に難しく感じる時もある。
 今日は、まさに後者の典型で、パソコンのモニターの上に映し出されたデジカメ画像が、果てしてまともに写っていると言えるのかどうか、自分で全く判断ができない混乱した状況に陥っている。
 何だか色や質感がおかしいように感じられるが、こんなもんか?という気もする。
 一年に何度かそんなことがあり、特にスタジオでの撮影の際に、そうした状況に陥りやすい。
 見れば見るほど、解決しようとすればするほど、深みにはまっていく感じがする。
 野外の撮影した写真の場合は、それがどんなに変に写ったとしても、それが事実なのだから仕方がない。だが、スタジオの場合は、何か僕の設定がおかしい可能性があり、自分を疑う必要があるので、そもそも疑心暗鬼になりやすい。
 
 

 2005.5.29(日) オタマジャクシ

 一作日の日記にカエルの画像を掲載したが、撮影のついでにアマガエルを10匹ばかり採集してかえった。
 今の時期、夜の水辺でアマガエルを10匹も捕まえれば、大体翌日には卵が産み落とされていることが多い。
 今日はその卵から孵化をしたオタマジャクシを撮影してみたが、まだ産卵から2日しか経過していないのだから、ただただ驚かされる。たった2日で、丸い卵がこうして生き物らしい形へと変化するのだ。
 アマガエルは浅い水辺に卵を産むことが多いが、浅い水辺には水が涸れてしまう危険性が付きまとう。したがって、アマガエルは水が涸れるまえに上陸する必要があり、非常に成長が速くなっているのだと思う。
 とにかく飼育してみれば、あっと間に足がでて、手が出て、上陸していくのだ。
 
 オタマジャクシを撮影していると、ノソノソと1匹の貝が視界に入ってきた。恐らくモノアラガイではないか?と思うが、よく見れば、実に可愛らしい顔をしている。
 昨日のイズモマイマイや今日のモノアラガイなど、比較的いつでも撮影できそうな被写体の画像がUPされている時は、大抵僕の調子が上向きな時である。
 ここ数日の場合は植物の撮影に苦心をしていたのだが、ようやく要領が掴めて、植物を撮影したあとに時間が余るようになり、その時間で、日頃ちょっと気になっている存在の生き物たちにカメラを向けるのだ。

 

 2005.5.28(土) イズモマイマイ

 うちの事務所を訪れるお客さんの中には、
「生き物を見せて欲しい。」
 とリクエストをする人がいて、僕は時に、その声に応える。
 カタツムリをお見せすると、大体反応が決まっていて、
「大きいね!」
 という声があがるが、みんなが大きいと感じる殻のサイズには大体の基準があり、今日の画像の一番左側のセトウチマイマイを見せると、
「大きいね!」
 と、驚きの声をあげる人が多い。
 さらに、その隣のツクシマイマイというカタツムリをお見せすると、
「うそ〜デカイ!」
 と、もう信じられないといった感じになるが、日本にはさらに大きなカタツムリが存在し、上の画像の一番右のカタツムリ(イズモマイマイ)は、殻の直径がなんと6センチ以上にもなる。
 先日、島根の湿原で撮影をした帰りに、山道を這っていたところを採集したものであるが、僕も、一瞬目を疑うような大きさなのだ。



 そのイズモマイマイであるが、体を出すと、胴体の部分は肉が分厚くて、なんとも重々しいというか神々しい。なんだか軽々しく扱えない雰囲気が漂ってくる。
 僕は、日頃、『貴重な自然』 『希少な生き物』といった言葉があまり好きではない。貴重だとか希少などという発想は、人間の基準に生き物を当てはめて、それによって生き物にランクをつける傲慢な発想であるような気がするからだ。
 だが、そんな僕でも、特大のイズモマイマイを目にすると、
「貴重やなぁ」
 と。
「こんな生き物が生息し、生き延びることができるような日本の自然であって欲しいなぁ。」
 と、理屈抜きに感じてしまうのである。
 
 

 2005.5.27(金) 夜の田んぼで

 先週の水曜日に、
「いい場所を見つけた!」
 と書いたが、そうなると、善は急げ!と一刻でも早くその場所へとでかけたくなるのは、ごく自然な成り行きではないだろうか?
 僕は、何とかしてそのための時間を作ろうと、今週はかなり無理もしたし、色々と画策もしてきた。
 が、無理をすると悲しいかな仕事が雑になる。簡単に終わるはずの仕事が、やり直し、やり直しの連続で、今度は、新たに時間を作り出すどころか、本来今週の間に片付けるべき最低限の仕事でさえも片付かない状況へと陥ってしまう。
 最低限のことをこなすのでさえ実は結構難しいのだと、しみじみと思い知らされることになる。
 規模は小さいが一種の挫折である。

 挫折をすると、それまでに心の中に描いていた思いを捨てなければならなくなる。が、1つ何かを捨てると心に空きスペースができことになるので、僕の場合は、意外にも、代わりに何か別の楽しいアイディアが思い浮かぶことが多い。
 昨晩〜今朝の早朝にかけては、
「そうだ!遠出が無理なら、身近なところで生き物を楽しもう!」
 と、そんな気持ちになり、夜の田んぼに出かけてみることにした。また、時には夜更かしをして、翌日はみんなが汗水たらして働いている昼間に気持ちよく昼寝をするのも、なかなかの贅沢ではないか?という気にもなる。
 夜の田んぼは、ちょうどカエルを採集しなければならない仕事があり、一石二鳥でもある。
 そこで、まずはカエルの採集と思っていたら、いきなり面白いシーンを目の当たりにした。ヌマガエルの雄が、間違えてアマガエルをパートナーに選んでしまったようだ。



 ヌマガエルは、九州の水辺で多く見かけるカエルであり、驚くと、さっと泥の中に潜ってしまう。同じ田んぼに生息するカエルでも、アマガエルは、そうした行動を滅多に見せない。
 地味なカエルであり、また写真の需要もそれほど多くはないので、日頃じっくりとカメラを向ける機会は滅多にない。が、隠れている様子や、意外に愛嬌のある顔など、穏やかな心でカメラを向けてみると、撮影は楽しい。
 特に隠れている様子は、隠れるというシーンの特性上、写真に愛嬌が欲しいので、気に入った写真を撮ろうと思うとそれなりに時間もかかり、カメラを向ける向きや角度など、工夫も要求され、撮り始めると奥が深い。
 今回の撮影はストロボ(カメラ用の照明)のテストも兼ねていたのだが、僕の改造ストロボが、非常にいい感じに働いてくれることも確認することができた。
 ストロボを使用すると、被写体に強い影が生じたり、また、被写体が平面的になってしまう嫌いがあるが、今日の画像を見てもらえば分かるとおり、優しい穏やかな影がつき、それなりに生き物の立体感も自然に表現できているようだ。特にヌマガエルの写真などは、昼間に自然の光で撮ったものだ間違えてしまう人もいるのではないだろうか?
 
 

 2005.5.26(木) 努力?

 最近の僕は、幾つかの撮影に苦心中である。そんな時は、僕なりにいろいろな対応があるが、時には、その上手くいかない撮影のスペシャリストになるつもりで打ち込むことでやっと解決することもあれば、逆に、まず相手に求められた写真だけを求められた通りに撮影することにして、頑張ろう!という思いをいっさい捨てることで、むしろすんなりと解決することもある。
 凝った方がいいこともあれば、凝らない方がいいこともあり、頑張れば好結果が得られることもあれば、頑張ることをやめた方がいい結果になることもある。
 自然は人の理解を超えた存在であり、自然を相手にするときには、必ずしも「努力=好結果」ではないように感じる。また、写真の世界にも、「努力=好結果」ではない場合が、しばしば見受けられるように思う。
 例えば、三好和義さんという優れた写真家がおられるが、三好さんの写真を見ると、努力では絶対に撮れないものがあると良く分かる。

 もしも誰かが、これから写真家を目指す人に、
「努力をしなさい!」
 とアドバイスをするのなら、僕は、それを非常に無責任で、残酷なアドバイスだと感じる。なぜなら、
「努力をしなさい!」
 という言葉は、
「努力をすれば写真家になれる!」
 と相手に思い込ませてしまう嫌いがあるからだ。実際には、自分なりに頑張り続けているのに、なかなか結果が出ない人も少なくないし、そんなに踏ん張らなくても、自然体で結果を出してしまう人もいる。
 場合によっては、「努力をすること=怠けること」ではないか?とさえ、感じることもある。自然写真の目的はストイックに我慢をすることではないはずである。昆虫写真家の海野和男先生は、僕がはじめて先生の事務所を訪ねた際に、それを、
「努力の方向を間違えないように!」
 という風にアドバイスをしてくださった。
 つまり、時には、努力よりも、冷静によく考えることが必要であったり、要領や、世渡りの上手さだって大切であるに違いない。また、努力をすること以上に、楽天的であることが大切なケースも少なくない。それが自然写真という仕事の本質であるように、僕には感じられる。
 闇雲に「努力」と「努力」と繰り返す人は、むしろ、そうしたさまざま現実から目をそむけようとしているのではないだろうか?それは、現実逃避のための努力ではないだろうか?
 非常に矛盾することを書いてしまうことになるが、その努力は、むしろ、ある意味怠けているのではないか?と、時に僕は感じる。
 
 

 2005.5.24(火) 楽しく取り組むこと

 そんなに難しくないかなぁと引き受けた植物の撮影が意外にも難しい。今週は九州の水辺へと撮影に出かける予定を組んでいたが、中止をして、その時間を植物の撮影へと回さなければならない状況になってきた。
 求められている写真をただ撮るだけであれば、今苦戦をしている植物の撮影も、どうしようもなく難しい仕事ではないと思う。が、ただ基準を満たす写真を撮り、義務を果たすのではなく、僕は、心を込めた仕事を提供したいと思う。
 そのためには、辛いな!とか、仕方ないなではなく、僕自身が、楽しいな!と感じつつカメラを向ける必要があり、目の前の1つの仕事に対して、どうしたら楽しく取り組めるのか、今僕は試行錯誤をしているのだ。
 ただ、どんな職種であるにせよ、仕事は時に辛いものだと思う。だから、何か新しい仕事に取り組む時に、最初は辛い!でも、僕は構わないと思う。
 が、写真家の場合は、やがて何か面白いなと感じる部分を見つけだし、そこを多少なりとも追求し、そして最後は楽しいな!とカメラを向けたり、その他の作業に取り組むことは、義務に近いことであるような気がする。
 よく、
「毎日のように日記を更新し、感心ですね!」
 と、僕は声を掛けられる。が、僕は自分の意思で、そうしいたから更新しているのであり、頑張るために更新しているのではないし、また、時代の流れだからホームページを持たなければならないと思って、このホームページを作成した訳でもない。 
 そこが、サラリーマンのような組織の世界と、やりたい!と自らの意思でその世界を選ぶフリーランスの世界の大きな違いの1つであるように、僕は日頃感じる。

 例えば、僕が仕事を依頼されたとする。
 相手は僕と気の合う大好きな仲間である。が、仕事の内容自体には、あまり気乗りがしない。
 サラリーマンの世界では、
「気乗りがしない仕事だけど他ならぬ彼の依頼だし、いっちょやるか!」
 と意気に感じて引き受けることは美学かもしれない。むしろ、それが気乗りがしない仕事であればあるほど、それだけたくさん相手のために我慢をしているのだから、美しいことであるのかもしれない。
 が、フリーランスの世界では、そうした義理人情を、むしろ不愉快だと!と、嫌う人も少なくないだろうと思う。
 大好きな人に仕事を依頼されたら、その依頼された仕事の中に何か面白そうな部分を見つけ出し、
「うん、いいね!そのアイディア。」
 と答えてあげられることが、ヤル気があって当たり前というフリーランスの世界での、相手に対する思いやりであるように僕は思う。

 

 2005.5.22(日) コウホネの花

 野鳥を主に撮影していた頃、僕は、北海道〜沖縄まで、ほぼ日本全国、色々な場所へと出かけた。
 野鳥は、日本で記録があるものがおよそ500種類くらいである。
 これは、ほぼ全部を撮影することも全く不可能ではなく、また現実に、そのほぼすべてを写真におさめたプロが存在する。
 野鳥写真で生活をしようと思うのなら、500種類もの野鳥の写真をすべてそろえる必要はないだろうが、それでも300種類くらいは揃えたいところだろう。
 300種類と簡単に書いたが、野鳥を300種類見ることはほぼマニアの域であり、通常の趣味としての野鳥観察では、ベテランでも300種類を見たことがない人の方が多いのではないだろうか?
 身近な場所でばかり撮影をしていると、大体100種類前後で停滞するようになり、そのあとが難しくなる。そこで、状況を打開するために、全国を旅することになる。

 ところが、遠くに出かけてみると、実は身近なところで身近な鳥を十分に撮影できていないことを痛感させられる。
 例えば北海道でタンチョウの写真を撮りながら、
「ここでどれだけタンチョウを撮っても北海道在住の人には敵わんなぁ」
 と、急につまらなく感じ、さらに、
「それなら、僕は、九州在住と言えるだけの写真を、九州で撮れているのだろうか?」
 と考えてみると全く自信がない。
 今考えれば、
「北海道に行けば何とかなる。全国を回れば何とかなる。」
 というのは、写真で生活できるのだろうか?という不安から逃れるための一種の逃げ口上だったのではないか?と感じられる。
 
 さて、事務所の片隅に置いているスイレン鉢に、コウホネが花を咲かせた。
 中を良く見れば、なかなか複雑な形をしていて、また、丸っこい全体の形が可愛らしい。
 6月の湿原に行けば、コウホネがびっしりと生えているような場所があるが、いざ花のUPの写真を撮ろうと思うと、手が届くような場所にいい花が見当たらず、思うような撮影ができないことが多い。
 また、せっかく素晴らしい湿原にでかけ、花のUPばかりを撮るのも勿体ないではない。どうせなら、コウホネの花の極端なUPよりも、花と同時に、その素晴らしい湿原の雰囲気が伝わるような、ちょっと風景的な写真を撮りたい。
 UPの写真は、庭でも撮れてしまうのだ。
 庭で撮るというのは、面白味のない方法ではあるが、まめにそうして撮っておけば、湿原でコウホネを見つけたときに、そこでUPの写真を撮る必要がなくなり、コウホネの花と湿原の風景の写真に集中することができる。
 いずれ、そんな写真も広がりのある写真も掲載したいと思う。

 

 2005.5.20(金) 諦めた経験

 植物の撮影を放ったままにして水辺の撮影にでかけ、帰宅をしてみれば、植物たちは、虫食いその他で悲惨な結末に終わっていた。
 こんなのチョロイ!と受け止めていた仕事だが、種をまき、やがて花をつけるまで2ヶ月かかることを考えると、虫食い等から守りながら、常に撮影に耐えるきれいな状態で育て上げることは、もしかしたら、かなり難しいのではないか?などと不安になる。
 そこで、よく調べてみよう!と、本棚の、日頃滅多に見ない植物の本をあさっていると、むかし僕の写真を使ってもらったカレンダーや時刻表が幾つか出てきた。
 時刻表の方は、海の上を飛ぶカモメの群れであるが、96年8月で、もう10年も近くも経過したことになる。
 カレンダーの方はスキャナーに入りきらなかったので日付の部分がないが、今日掲載した画像は、やはり8月のページである。こちらも時刻表と同じく、海とカモメになっている。

 当時の僕は野鳥専門の写真家を志していたが、野鳥写真には仕事が少なくて、野鳥では食えない!と判断した僕は、進路を変更することになった。その後僕は、野鳥写真から、子供の本向けの小動物の撮影へと、仕事をシフトさせてきた。
 子供の本のギャラは決して高くない。
 写真一枚あたりのギャラで比較をすると、カレンダーは子供の本の3〜4倍、時刻表に至っては10倍くらいの価格である。が、そんな高価な仕事があっても野鳥写真では食えないのは、仕事全体の数が非常に少ないことを意味する。

 時刻表とカレンダー、共に8月に海とカモメが選ばれているのは偶然ではない。
 それが定番と言うヤツで、毎年似たような写真がたくさん使用され、それを撮ると、需要が多いのだから、写真が使用される可能性が高い。また、こうして印刷物として、そんな定番写真が出てくるということは、当時の僕は、それを知った上で写真を撮っていたことになる。
 が、今の僕が見ると、定番のシーンが写っているだけで撮り方が甘い。写真の技術にだけ気持ちが向かっていて、定番をどう撮ったら売れるのか、何が求められているのか、それを全く意識していない。自然や生き物の生き生きが写っていない。
 自分の写真集ならこれでもいいかもしれないが、8月を象徴する商品として考えると何かちょっと足りないので、逆に、これで写真が使われたのだから運がいいくらいかな?とも思えてくる。
 これでは、確かに大した売り上げはあがらないだろう。今なら、もうちょっと野鳥でも頑張れるような気がする。
 8月は海とカモメが売れる!は知識である。当時の僕は、その知識で写真を売ろうとしていたように思う。
 実際は、その次の段階として、売れると言われているシーンをどう撮影したら実際に売れるのか、それを体で覚える必要がある。
 先程「生き生き」と書いたが、正確には、それは言葉にはならない感覚的なものなので、下手の鉄砲を数打つことで経験を積む以外に、身に付ける方法はないだろう。
 なのに、売りたい!と思う気持ちが強過ぎて、売れるから撮る、売れるなら撮る、あまり売れないから撮っても意味がないと心が変遷し、諦めてしまったように思う。
 そうした知識があることがプロだと思い込んでいたのだが、実は、その後の過程こそが、プロのプロたるゆえんでることが分からなかったのだ。

 

 2005.5.19(木) やっと安心

 今月の水辺に野鳥の画像を掲載したら、
「好きな写真です!」
 と、野鳥仲間の野村さんからメールが寄せられた。
 それ以前にも時々、画像処理などについてお尋ねのメールを受け取ったことがあるし、また、例えば、シャープな画像を得るにはどう処理したらいいのかなど、かなり前のことだが、僕の事務所にパソコンを持ってお越しになり、憶えて帰られた。
 画像をシャープにするためには画像処理ソフトを使うが、カメラの中にも画像をシャープにする機能はある。両者は方法が違うのか、同じシャープな画像でも若干イメージが異なるとされている。
 以前は、画像処理ソフトの方がきれいに仕上がるというのが常識であった。が、最近では、カメラの機能に捨てがたい良さがあると言われる。
 一般的に、画像処理ソフトでシャープな画像を作成すると、下手をすると画像の輪郭に縁取りのようなものができ見苦しくなるのに対して、カメラの方のシャープにする機能は、単純に画像の輪郭のエッジを立てるようなシャープさで、いやみがないと言われる。
 また、画像処理ソフトを使ってシャープな画像を作成する場合にでも、カメラの方の機能を多少なりとも併用するのが、一番きれいな画像が得られるとされている。僕は、仕組みは良く分からないのだが、特に、カメラの画素数が多くなればなるほど、その傾向が顕著になるのだそうだ。
 そう言えば、僕が300万画素のEOS30Dを使用していた頃は、カメラの側のシャープにする機能を使うなどというのは、ほとんど聞いたこともなかったが、600万画素のカメラが登場してからは、それが言われるようになった。
 僕の場合は、カメラの機能の方をやや強めに使うことにしている。そして、出版の仕事で画像を渡す必要がある時は、その画像をそのまま渡し、また、写真を自分でプリントするような場合には、その状況に応じた微調整をした方がいいので、画像処理ソフトで画面をよく見ながら、シャープにする処理を追加する。
 つまり、カメラであらかた処置をしておき、必要に応じて、パソコンで、最終仕上げを施す。

 さて、野鳥仲間の野村さんであるが、日頃から、
「画像処理が難しい。」
 とおっしゃっていたのに、なんと!最近では、
「画像処理のいい本を見つけました!」
 なとど、実に楽しそうだ。つい先日の取材に出かけている最中にもそんなメールが寄せられたのだが、きっと要領が掴めてきたのだろう。
 僕は今年になって購入したニコンのD2Xに非常に満足させられたが、一時は、次から次へと新しいものが出てきて、物に関しても、知識に関しても、頭の中がゴチャゴチャであったのに対して、ようやく、すべてが一通り落ち着いたように感じる。僕のように、経済的に楽ではない者の場合は、ようやく、いかに物を揃えるかではなく、安心して写真が撮れるようになったと言える。
 
 

 2005.5.18(水) 歩き方を忘れる?

 今の時期はプロ野球の試合があるので、僕は車を走らせながら、地元福岡・ソフトバンクの試合をラジオで聞くことが多い。
 放送は、RKBとKBCの2局があり、僕は細かくないので自分がどちらを聞いているのか分からないが、「神様、仏様、稲生様」とうたわれた、元西鉄ライオンズの投手、稲尾和久さんの解説が聞きたくて、稲生さんが担当する局を選ぶ。
 稲尾さんが歴史に残る名投手であることは野球ファンなら改めて言うまでもないだろうが、僕はその現役時代を知らない。ただ、日本シリーズで強かった時代の巨人と対戦して、4連投で4連勝して日本一に導いたという、桁外れに豪快な投手であったと聞いたことがある。
 その稲生さんの解説の何が好きか?と言えば、基本的には論理的であるのに、時に、非常に動物的でもあり、何か人間味に溢れているところだ。
 例えば、突然に、
「このバッターには、配球なんて考えずに、ズバッとストライクを投げ込んだ方がいいですね。」
 と言い出し、そして、
「バッターはね、時々打ち方を忘れることがあるんですよ。このバッターは、どうも忘れているみたいだけど、ここで下手にボールをたくさん見せると、急に打ち方を思い出すことがあるから気をつけたほうがいいよ。」
 と続くのだ。
 すると、そのバッターが、本当に、実に簡単に三球三振をしてしまう。
 バッターは、果たして打ち方を忘れるものなのだろうか?僕には分からないが、そう言えば、僕も写真の撮り方を忘れたり、山道の歩き方を忘れることがある。
 今日は、山道をおよそ一時間歩いたが、前半は、きつくてきつくてたまらなかった。
 そして、荷物を降ろし休憩の最中に、ふと、足元のカタツムリに気付き、写真を撮った。今日は雨であったが、そう言えば、僕は雨の日にはカタツムリを探しながら山道を歩き、すると、どんなに長い距離を歩いても不思議と疲れを感じないのだが、その歩き方を忘れていたことに気がついた。
 それさえ思い出せば、残りの道のりは楽チンなのだ。

 さて、今日は、山の上に沼があると言うので見に行ってみることにした。沼は、ほぼ無名で、付近に駐車場もなければ、そもそも人を呼ぶことを前提とした施設も一切ない。
 坂道はかなり厳しく、距離も長い。そこまでして、沼を見たいという人は、確かに珍しいだろう。
 最初に沼が見えた時、僕にはそれが広大な田んぼに見え、
「な〜んだ、次から、この田んぼの場所まで車で登ろう。」
 と考えた。 
 そして、ところで沼ってどこにあるの?と探すと、なんと僕が見たものは、田んぼではなく、沼の周辺に広がる湿原だったのだ。今日の画像は、ちょうど湿原のまん中から撮影したもので、この倍の広さがある。
 山の上の沼と聞いていたので小さな沼をイメージしていたが、湿原とあわせて40000平方メートルというから、東京ドームと同じくらいの広さがある。資料によると、そもそも、火山の噴火口だったと紹介されている。
 入ってはいけませんなどという一切の規制もなく、そこに誰もいないのだから・・・
 今シーズンは、何度かここに通ってみようではないか!
 
 

 2005.5.17(火) イシコ

 大学4年のときのことであるが、僕が所属していた生物学の研究室が騒然とした日があった。
 事件の主人公は、僕の同級生であるKさんという女性と、一級年上の先輩で、当時大学院の1年生だった石河さんという男性だ。
 ある日、実験室に、
「石河〜、これやっとけっち言ったやろうが!」
 と後輩であり、しかも女性であるKさんの怒鳴り声が鳴り響いたのだった。
 なんとKさんは、気の優しい石河先輩を、自分の代わりに実験をさせる家来として使っていたのだ。そして実験が進んでいない!と腹を立てていたのである。
 Kさんは気が短く、カッとなり、周囲に人がいることに気付かなかったのだろう。
 先日、この取材のでがけに、山口市の定食屋さんで昼食を食べたことを書いたが、そのお店に最初に連れて行ってくださったのが石河さんであり、食事をする僕の頭の中には、そんな学生時代の思い出が、次々と駆け巡った。
 石河を正しく読めた方は、おそらく皆無ではないだろうか?
 イシカワではなく、イシコと呼ぶ。
 愛媛出身の方であり、もしかしたら、愛媛県では河をカワではなくなどと呼ぶ風習があるのかもしれない。愛媛に面河という実にすばらしい渓谷があるが、面河は、オモゴと呼ぶのだ。

 さて、その面河渓谷であるが、僕の知る範囲では、水の透明感はNO1である。
 もっとも、僕が面河を最後にたずねたのは、もう20年前になるから、今ではどうなっているのかはわからない。
 が、そのときの思い出はすばらしく、早めにもう一度行って見たいと思うのに、船があまり好きではない僕にとって、九州からは直接の陸続きではない四国はちょっと行きにくい場所である。
 水がきれいだったら、だから何?という気がしないでもない。
 例えば、生き物は必ずしも水がきれいな場所に多いわけではない。なんだかプ〜ンと臭ってきそうな池がトンボの宝庫であったりする。
 また、僕は面河にすんでいるわけでもなし、その澄みきった水の恩恵にあずかれるわけでもない。
 が、究極に澄み切った水を目にすることは、文字通り心が洗われ、理屈抜きに気持ちがいいのはなぜだろう?ほとんど、本能と言っても言い過ぎではないような気がする。
 自然にカメラを向けるときには、いろいろな視点がある。
 例えば、生き物の不思議など、知的好奇心を満たすような写真がある。また、人間社会が生き物たちに対してどのような影響を与えているのか、そんな視点もある。さらには、まるで絵を描くかのように、自然をデザインや美術の素材として見つめ、風流を楽しむ視点もある。
 さまざまな視点があるが、僕は、面河渓谷を見て理屈ではなく心が洗われるような何かを写しとめたいと思う。それをテーマと言えるような段階にまで追いかけていこうかなと、最近考えている。

 さて、今日は岡山県の湿原を歩いてみた。
 花はまだほとんど咲いていないし、トンボの姿も、平地とは異なり、まだまだ少ない。
 が、だからこそ楽しいこともある。
 カムリタケだと思うが、他に撮るものがあれば行き過ごしてしまいそうな被写体と、今日はじっくりと見つめる時間があった。

 

 2005.5.16(月) 渓谷にて

 僕は風景の写真家が撮影した風景写真を、
「いいな〜」
 と心底感じたことはないような気がする。
 僕が好きな風景写真は、風景の専門家よりも、今森光彦さんや湊和雄さんなど、むしろ生き物を中心に撮影している人が撮影した風景写真なのだ。
 何が違うのか?と言われれば、これ!と明快に答えることができない。
 が、無理やりに言葉にするのなら、風景の専門家の写真は絵やデザインの美しさであり、今森さんや湊さんの場合は、自然そのものの美しさであるような気がする。
 僕も、自然そのものの美しさを撮りたいなぁと、いつも風景にカメラを向けるときには考える。
 被写体に対する愛情は、やはりどこか写真に現れるような気がする。

 

 2005.5.15(日) 湿原にて

 実は今回の取材は、本来であれば、他の仕事の関係で取りやめにしなければならなかった。
 ちょうど進行中の植物の撮影が山場を迎えていたのである。
 が、ここのところ体調がイマイチであったので、取材にでかけることにした。
 僕は体調が悪いときは、自宅で寝泊りするよりも、外の空気を吸い、歩いた方が回復が早く、車での寝泊りを選び、出かけることが多い。
 植物の撮影は、再度、種を植えるところからやり直さなければならない。

 車での取材中は、夜の過ごし方が意外に難しい。
 エンジンを止めると、もう寝る以外にすることがないので、8時や9時に寝てしまう。その結果、翌日は2時や3時などと言う半端な時間に目が覚める。そこから2度寝をすると遅すぎる時間に目が覚め、そのまま起きておくのも退屈すぎる。
 今回は、充電式のテレビを手に入れ、夜は布団の中でそれを見て過ごすことにしてみた。
 11時頃に寝て、4〜5時頃に起きるのが、僕の場合は理想だ。
 購入したテレビは、カシオ製の本来はお風呂用のポータブルなものだ。新品は約4万円と高いのでオークションで探してみたら、初期不良等でメーカーに返品されたものを再度整備したものが安く売られたいたので、それを購入した。
 メーカーもいろいろな販売の方法を考えるものだ。
 体調が悪いときには、車の寝心地の良さがかなり気分を左右する。ちょうど昨年の春から、僕の車はトヨタのハイエースのロングになり、それまでの三菱デリカよりも大きくなった。パイプベッドを積み込んでいるので、車のシートをフルフラット倒して寝ていたそれ以前とは比較にならないくらい快適でだ。
 車の買い替えには、いろいろとあった。
 三菱デリカの販売店の店主は大変に人柄がよく、笑顔で気持ちよく大きな声で
「おはようございま〜す。」
 と挨拶をされると、こちらも、スカッといい気持ちになる。が、整備は技術がイマイチで、何度もトラブルがあった。
 そこで、今度は全く逆のお店から車を買うことにした。
 今度のお店の店主は、まさに絵に描いたような職人で、いつも手は真っ黒。日曜も関係なく、従業員が休みの日にも一人で車の整備をしているのだ。腕は凄腕だと巷の評判だが、お店に車を持っていっても、チョコッとうなずく程度にしか、ろくに挨拶もできないといったタイプなのだ。
 それを悪く言う人もおられるようだが、武田家の場合は、愛想よりも仕事の結果であり、そんな環境で育った僕には、職人肌の人が安心できる。
 無愛想なのを擁護しているのではない。
 これが、公共の仕事に携わる人の場合は、そんなことは許されないに違いない。例えば、役所の職員は態度が悪いと、よく公務員は批判されるが、公共の仕事につく人の場合、仕事はできるが愛想がないのは、公共の立場から不特定多数の人に接することを考えると、礼儀として許されないだろう。
 では、写真の場合は?
 こちらは車の整備よりもさらに職人気質が認められる世界だ。本作りに携わる編集者は、
「いや〜写真関係者はみんな気難しくて、どこか怖くてやりにくい。」
 としばしば嘆き節だが、それは悪口ではなく、一種の笑い事なのだ。
 いい仕事ができるのなら、一般人の常識なんて糞食らえ!と。
 それでしか出来ないこだわりの仕事があることを肌で知っている者の集まりなのである。
 もちろん、その分、写真家にはプレッシャーもかかる。
 フィルムを現像に出すと、時に現像ミスがおきる。それはお粗末な話ではあるが、彼は、一般の職業人なのであり、ミスは、冷や汗をかき、そしてわびなければならない事であっても、恥ずかしいことではないに違いない。が、写真家に限らず特別な存在であるプロの場合は、お粗末な仕事は恥ずかしいことであり、一般の職業人よりもさらに高い、普通ではないレベルの仕事が、そもそも求められるのだ。

 

 2005.5.14(土) 島根へ

 島根県へと移動する途中で、山口市の、大学時代によく通った「めんとく」という定食屋さんで昼食をとることにした。僕のいつものメニューは、サンマの焼き魚定食である。
 その店のご飯は大盛りで、出されたものを全部平らげるとかなりの満腹になる。サンマも、特にはらわたが非常にうまい。
 あ〜美味い!と気分が非常に気分がいいが、あまりに良すぎて、いつも究極の睡魔に襲われ、車の運転に危険が及ぶ前に車を止めて仮眠を取らざるを得なくなる。
 今日も、そのいつものパターンで、最終目的地の島根県中部に着いたのは真夜中である。
 途中で、モリアオガエルの生息地を見に行く予定であったが、付近の人に道を尋ねると、歩いて数十分かかるらしく、もう夕刻だったので、
「今から行くの?」
 と驚かれた。
 結局今日は、カエルの生息地へ向かう道の入り口の確認だけで終わってしまった。まあ、そんな日も、たまにはいいだろう。
 今日道を確認したモリアオガエルの池へは、数日うちに行ってみる予定だ。
 明日は、湿原での撮影を予定している。

 

 2005.5.13(金) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

 2005.5.12(木) 比較

 写真雑誌にはしばしば、機材による描写の違いを比較する企画が掲載される。
 例えば、各社のほぼ同格のレンズで同じ被写体を撮り比べてみたり、キヤノンとニコンのカメラとで同じ被写体を撮ってみたり・・・。
 それらの結果を見る限りでは、確かに機材によって描写は異なるが、だから何?といった程度にしか違わないのが常であり、むしろ、いったいどこが違うの?と雑誌の紙面を食い入るように見つめなければならないことの方が多い。
 さらに、機材による描写の違いよりも、画像が掲載される際の微妙な明るさの違いなど、印刷の際に生じていると思われるバラツキの方が、大きいくらいである。
 したがって、
「私は機材にはこだわりません!」
 と主張する写真家の気持ちはよく分かるし、またそれが合理的であるような気がする。写真を鑑賞する多くの人は、食い入るようように画像の細部を見て比較をするわけではないのである。
 ところが、いざ自分で道具をじっくりと使うと、やはりそこに描写の違いが存在し、時には、写真の良し悪しまでもを左右してしまう気がする。
 どうでもいいようで、やっぱりこだわりたくなるのが、写真の道具選びではないだろうか?
 
(撮影機材の話)
 さて、今日はトキナー社から最近発売された100ミリマクロレンズをテストしてみた。比較の対象は、ニコンの105ミリマクロレンズとペンタックスの100ミリマクロレンズである。
 この中で最も描写がきれいなのはペンタックスの100ミリマクロレンズだ。100ミリクラスのマクロレンズと言えば、一般的にはタムロン社製の90ミリの評判がいいが、描写の美しさではペンタックスの方が上ではないだろうか?
 ただしペンタックスは光を選ぶ傾向があり、苦手な条件があり、万能ではない。タムロンは穴がない。
 今回テストしたトキナーの製品は、どちらかと言えば、ペンタックスよりもニコンに近い印象を受けた。
 シーンによっては、ボケの像があまりによく似ていて区別ができないような画像もあった。共に8群9枚のレンズ構成であるから、もしかしてほとんど同じ光学系か?とも感じたが、ニコンの方が、ややハイライトが飛びやすい気がする。その結果、トキナーの絵が若干きれいに見えるように感じた。

 余談であるが、しばしば雑誌の企画で、ニコンのデジタルカメラは、キャノンに比べると白飛びし易いと叩かれる。
 この点に関して、僕は3つの可能性があるように感じている。
 まず1つ目は、キヤノンのイオス20Dをスタジオで使った印象だが、キヤノンのデジタルカメラはニコンのカメラよりもコントラストが低く設定されているように感じた。
 初めてイオス20Dを、スタジオでのカタツムリの白バック撮影に使用した際には、あまりのコントラストの低さに、え!照明がおかしかったかな?と、驚かされたのである。
 コントラストが低ければ、当然、白飛びしにくくなるが、画像を印刷する際にはコントラストを上げ、人の視覚に近いコントラストを与えることになり、ニコンで撮影した画像も、キヤノンで撮影した画像も、白飛びの程度は同程度になる可能性があるように感じる。
 2つ目は、カメラではなくてレンズの側の原因である。ニコンのレンズは、キヤノンに限らず他社の製品と比較をすると、ハイライトが飛びやすい傾向にあると思う。
 そして、3つ目は、雑誌等で指摘されるように、本当にニコンのカメラが白飛びし易い可能性だ。

 肝心なトキナーとニコンのマクロレンズであるが、前ボケが入るようなシーンでは、明らかにトキナーの方がボケが素直だと感じた。

 

 2005.5.11(水) 好みの道具

 今年になって購入した新しいパソコンやデジタルカメラやレンズにようやく慣れ、快適に仕事ができるようになりつつある。
 新しいものを買うのは嬉しくもあり、煩わしくもある。パソコンにしても、撮影機材にしても、新しいものに慣れるまでにはさまざまな不具合が生じ、カッカ、イライラさせられることも珍しくない。物を買ったものの、何だか箱を開けるのが煩わしいな〜と感じることも、僕の場合は稀ではない。
 本当は比較的時間にゆとりがある冬の間になるべく機器を揃えて慣れておき、春〜秋にかけてはひたすらに撮影に集中するのが理想であろう。が、最近は道具の進歩が日進月歩であり、あまり慌てて物を買わない方が懸命だ。
 今シーズンの場合は、春の忙しい時期に突入する直前に、ドバッと物をまとめて購入したのだった。
 僕はフィルム時代には、ニコンのF5というカメラを非常に気に入っていて、2年くらい前には、あと一台予備を購入しておこうか?などと考えたが、そんなことをしないで本当に良かったと思う。やはり時代は完全にデジタルであり、もしもF5をさらに一台追加購入したのなら、恐らく一度も使うことなくお蔵入りになってしまったに違いない。

 機材の進歩が日進月歩のこの時代に、一方で、以前から使っている道具がやはり使いやすいと感じることがある。
 僕の場合であれば、ペンタックスの645判のシステムと昨年購入したデジタルカメラ istD は、非常に使いやすいと感じる。
 特に istD は一番最初に買ったデジタル一眼レフであり、その後、ニコンのD70,D2X,キヤノンのKissデジタル、20Dと様々なデジタルカメラを手にすることになったが、未だに、 istD が最も使いやすいと感じる部分がある。
 野外での撮影の場合は、よりデータの書き込み速度が速く、タフさに勝るニコンを使うことが多いが、もしもゆっくりと撮影するゆとりがあるのなら、僕はペンタックスを使いたいと感じる。
 それが好みというものなのだろう。
 ペンタックスの道具は面白味に欠けるが、安らぎにも似た温もりと素朴さがある。
 僕は大体素朴な物が好きで、女性も素朴なタイプが好みである。

 

 2005.5.10(火) 大好物

 アメリカザリガニにしても、カエルのオタマジャクシにしても、ゆでたほうれん草が大好物なのだから、いったいどうなっているの?と、僕は時々不思議に思う。
 ほうれん草は陸上の植物であり、また野生の生き物は、自然状態ではゆでたものを口にする機会はないのである。
 大きなアメリカザリガニの場合で、大体一日にほうれん草の茎付きの葉っぱを一枚くらいは楽に平らげる。
 ザリガニの餌と称するものがペットショップ等で売られているが、それですべて栄養が足りるのなら飼育はずっと楽になるだろう。が、意外にもアメリカザリガニは専用の餌をあまり好まず、うちの水槽のケースでは、ヤリタナゴがザリガニの餌を好む。ヤリタナゴは、魚の餌よりもザリガニに与えるつもりでばら蒔いたザリガニの餌の方によく群がる。

 え!魚とザリガニを一緒に飼っているの?とびっくりする人もおられるに違いない。が、うちの水槽では、ここ数年間で、魚がザリガニに襲われたことは一度もない。
 恐らく、子供向けの本によく登場するザリガニが魚をハサミで押さえ込んでいるシーンは、カメラマンのやらせであろう。イメージ写真の場合はやらせによる全くの作り物も許されると思う。が、何か生態を伝える写真の場合は、その内容に嘘が生じるようなやらせは慎むべきではないか?と僕は考えている。
 ザリガニはどちらかというと植物質のものを、そして動物質のものを食べる際には主に死肉をあさっているのではないだろうか?と、飼育をした範囲ではあるが感じる。
 ただザリガニにとってオタマジャクシは大好物であり、その姿を見つけると、人が変わったように?いやザリガニが変わったように積極的に襲って食べ、その際の動きは非常に俊敏である。
 したがって、ザリガニには魚を捕らえるだけの俊敏性が備わってはいるのだろうが、何か食べ物を選択しているようだ。

 水槽撮影は、もしも場所とお金がふんだんにあれば、恐らく実に容易い撮影であるに違いない。理想を言えば奥行きが90センチくらい、幅が3メーターくらいの水槽があれば、かなり思い通りの絵が描けるだろう。
 実際のところ何が難しいかといえば、狭い水槽の中に撮影セットを作り、その限られたスペースで撮影しなければならないことである。
 ただ、それはそれなりに工夫のしようがあるはずだと、今日はさまざまな方法を試みて、その中で最も水槽的な狭さを感じさせない写真をUPしてみた。

 

 2005.5.9(月) 趣味を仕事にする

「君は趣味を仕事にするタイプなんだね!」 
 と、僕は生物学の学生時代に、指導教官であった千葉喜彦先生に指摘をされたことがある。当時の僕は、大学の4年生であった。
 千葉先生は、
「俺はね、仕事が辛かったから、仕事を趣味にしたんだよ。」
 と自分自身を語ってくださった。
 確かに先生の指摘の通り、僕は趣味を仕事にするタイプだと思う。したがって、趣味を仕事にするの意味はよく理解できたが、仕事を趣味にするの意味は、当時の僕にはよく分からなかった。
 仕事が趣味にできれば確かにいいが、果たして自分の意志でそうして仕事を好きになれるものだろうか?と。
 が、最近の僕は、その意味が多少は理解できるような気がする。
 僕は近頃、写真の技術にこだわっているが、なぜ技術にこだわるのか?とよく考えてみれば、千葉先生の言葉を借りるのなら、仕事を趣味にするためである。
 例えば、昨年、ヒメダカの飼育の本を撮影する際に、僕は、飼育用の網やメダカの餌を撮影することになった。それは一般的に言うと、生き物の撮影とは異なる、面白味に欠ける、カッタルイ撮影である。
 が、技術にこだわり、少しでも網や餌の質感を見事に表現しようと思えば、その時間をこだわりの楽しい時間へと変えることができる。いろいろと照明を変え、どうしたら物の立体感や質感が上手くが表現できるのか、僕は納得のゆくまで、何度も何度も試した。
 千葉先生がおっしゃった、仕事を趣味にするは、果たしてそんな意味だったのだろうか?今度、先生にお会いする機会があったら尋ねてみたいと思う。

 さて、コンピューターのモニターは、機種や設置場所によって、色が異なって見える。自分のパソコン上でデジカメ画像の見事に色を調節したとしても、他のパソコンでは、それがおかしな色に見えることも珍しくない。
 つまり、デジカメの画像の場合、僕のパソコン上で完璧だった色が印刷所のパソコンでは違った色に見え、その結果、印刷物に仕上がった際に妙な色になってしまう危険性をはらんでいる。
 そこで、もしも厳密を期したいのであれば、モニターの色を調整する機器の出番だ。
 難しい説明はやめにしておくが、モニターを正しい色に調節するのだと思ってもらえればいい。一般的なパソコンのモニターの場合、正しい色よりも鮮やかに見えるようになっていたり、見栄えがするようになっているので、それを改めるわけだ。
 僕はSpyder2PROという製品を購入してみた。選んだポイントは、ずばり他のメーカーのものよりも安かったからである。といっても6万円弱であるからそれなりの出費になるが、それを、
「また買わなければならない」
 と感じるのか、それとも
「うわ〜試してみたいなぁ」
 と感じるのとでは大違いだ。

(機材の話)
 モニターを調節してみた分かったことを書いてみようと思う。
 まず、僕はウインドウズの環境であるが、ウインドウズのユーザーの場合、S-RGBに対応したモニターを持っていれば、特に機器を使った調整は必要がないと感じた。今回、僕は趣味として機器を購入したが、フォトショップの画面上に表示される画像の色は、それまでとほとんど違いはなかった。
 つまり、S-RGBのモニターの色は、かなり信用できることになる。
 ただ、古くなったモニターの色は、どうにもならず、現在事務所に並べている古いモニターと、同じシリーズだが、つい先日購入したばかりの新しいモニターとでは、機器を使って調整しても同じ色にはならなかった。
 これを読んで、じゃあうちのモニターは古いから狂っているかも?と心配になる人もおられるだろうが、僕のモニターに関して言うと、劣化をしても色の傾向にはほとんど変化がなく、ただ発色が鈍くなるだけなので、かなり長時間使用したモニターではあるが、決してユーザーの混乱を招くような方向には劣化しないと感じた。
 それから、ノートパソコンも調整してみた。
 こちらは、デスクトップと同じ画像を表示して比較をしてみた結果、やらないよりはやった方が間違いなくいいレベルの変化があると感じた。
 が、ノートパソコンの液晶の場合、見る角度や周囲の明るさによってかなり色が違って見えるので、機器を使ってまで調整するなんてナンセンスだと指摘をする人も少なからずおられるだろう。それはまさにその通りであり、わざわざ機器を購入するのではなく、たまたま機器を使えるのであれば、調整した方がいいと受け止めてもらえればいい。

 

 2005.5.7(土) 好みの描写

 昨年の僕は、スタジオや水槽での撮影に関しては、同じ被写体をフィルムとデジタルとの両方で撮影することが多かった。
 スタジオや水槽の場合、生き物に逃げられることがないので、手間さえ惜しまなければ、それが可能である。
 が、今年は、水槽撮影に関しては、ほぼ100%デジタルを使用する予定だ。
 そこで、よりデジタルに適した方法を見出すために、ここのところ暇を見つけてはテストを重ねている。下の画像は、照明の具合を変えて同じ被写体を撮影したものであるが、ちょっとイメージが違うことが分かるのではないだろうか?
 


 
 どちらが優れている訳でもないが、僕は下が好みだ。
 上の方が、はさみに照明の反射が入り、ザリガニの強そうなイメージがよく写っているが、下の方が、反射がない分、はさみの細かい部分までよく見える。
 僕は被写体をより繊細に、はっきりと描き出すような描写が好みだ。
 ただ、好みだからといって何となくそう写すのではなく、照明をどう設定にしたら力強さが表現でき、また繊細な描写が可能なのか、それをよく知っておくことがすべての技術の始まりだ。それを知っている者には、当然、その中間も撮れることになり、技術とは、ただ自分の好みに撮ることではなく、画面を自在にコントロールすることである。
 
(撮影機材の話)
 今日の画像は、ペンタックスのデジタルカメラ・イストDで撮影したものだ。
 そのイストDのイメージセンサーだが、ソニー製で、ニコンのD100や確かミノルタのデジタルカメラと同じものだと言われている。が、それらのカメラから同じ絵が出てくるか?と言えばそうではなく、カメラによる味付けが異なり、それぞれが違う描写をする。
 そして忘れてはならないのが、レンズによる描写の違いだ。最近はカメラの性能ばかりが取りざたされ、滅多にレンズに関する話題が取り上げられなくなったが、僕の好みの描写には、ペンタックスのレンズ味がよく似合う。
 ただ、ペンタックスのデジタルカメラの現在の時点での問題点は専用のソフトにある。ニコンのソフトと比較をすると、ただただ使いにくい。
 昨日デジタルデータを整理したことを書いたが、あまりにニコンのソフトの方が使い易いので、水槽撮影にもニコンを使おうか?と、今日はニコンも試してみたが、やはり描写はペンタックスの方が好みに合う。
 恐らくカメラの描写の違いというよりは、レンズの描写の違いではないか?と思う。

 

 2005.5.6(金) データの整理

 最近めっきり人の写真や本を見る機会が少なくなったが、以前の僕は、定期的に大きな本屋さんへと足を運び、自然関係の出版物には片っ端から目を通すことにしていた。
 いろいろな人の写真を見て、時には生き物の不思議な生態を捉えた本に影響され、これこそ僕の求めている道だ!と真似をしたこともあるし、また時には、絵画的な美しい写真を集めた写真集に同じく心を動かされ真似てみたこともある。さらに、昆虫の飛翔や生き物の動きの瞬間ばかりを集めた輸入ものの写真集にノックアウトされ、同じタイプの写真を撮ろうと試みたこともある。
 思い起こせばいろいろな写真を試したが、自分がいったい何をしたいのか、それを正しく理解することは、なかなか難しいように感じる。
 
 さて、僕は2週間に一度、デジカメ画像をDVDへと書き込むが、今年はカメラが1200万画素へと大きくなったため、今日はなんとDVDを4枚も焼くはめになった。わずか2週間で、全部で16G前後のデータである。
 DVDに焼き付けると同時に、ディスクにトラブルが生じた時のために外付けのハードディスクにも記録し、また、中でも気に入った画像だけはさらに別のハードディスクに記憶させ、こちらは種類ごとに分類してカタログ形式にしておく。
 データが16Gともなれば、一枚一枚の画像に目を通し、どれを抜き出してカタログにしておくか、それをチェックするだけでも今日は半日がかりの仕事になったが、自分の写真をよく見ることは、人の写真を見ることよりもさらに大切なことであり、可能な限り丁寧な作業をしたいと思う。
 僕は風景から小さな生き物・鳥・水中と、さまざまな被写体のカメラを向けるが、そうして画像を整理する作業の中で、最近、ようやくそれらが1つの方向へとまとまりかけている気がする。
 自分の好みが固まりつつあるのだろう。
 
 僕がいろいろな人の写真に目を通したことに関して、
「感心ですね!」
 と褒めてくださる方がおられるかもしないがそうではない。僕の場合は、いろいろな出版物に目を通すことがとにかく楽しくて、自然とそうなったに過ぎない。
 中には人の写真にはあまり興味を持たない写真家もおられるだろうし、そんなタイプの人が、僕と同じように定期的に書店に出かけても、ほとんど何の役にも立たないだろう。
 結局は、自分が好きなことをする以外に、方法はないような気がする。

 

 2005.5.5(木) 難しい箇所

 カエルがジャンプするシーンを写真に撮ろうとする。
 試してみればすぐに分かるが、野外では撮影はほぼ不可能であり、仕方なく、それをスタジオの中で撮影することになる。
 その際には、なるべく自然に見えるように、スタジオに自然を再現したセットを作成するが、1点だけ、僕には、どうしても上手くできない部分があり、毎年同じ箇所で試行錯誤をして、かなりの時間を取られる。
 今年も、やはりそこで足止めを食っている。
 他の人はどうだろう?といろいろな本に目を通せば、やはりみんな同じ箇所にスタジオならばでの不自然さが見られ、僕の弱点というよりは、一般的に言って難しい箇所であると考えても良さそうだ。
 その不自然さが限度を越えなければいいのであり、みんなその許容範囲の中で仕事をしているのだ。
 が、国内の写真では、唯一、久保秀一さんが撮影した写真だけは、その点が常に見事にクリアーされている。久保さんは、スタジオ撮影に関しては超一品の腕前の持ち主であり、間違いなく最高峰の一人なのである。
 が、たとえ相手が最高峰の写真家であっても、久保さんにできるのだから、僕にもできるはずだ!と、今日は、そのノーハウを手に入れるためのチャレンジをしてみることにした。

 僕はまず、完璧に久保さんを真似てみることからはじめてみた。
 久保さんが撮影した写真と似たようなシーンをデジカメで撮影し、並べて比較をして、違う点を修正するのだ。何度も何度もそれを繰り返し、少しずつ久保さんに近づけていく作戦である。
 今日の段階ではまだ途上であるが、1つ、今まで僕が信じ込んでいたことが、実は全く正反対であったことが判明した。
 まずは収穫があったわけだが、もう少し同じ試みを続けていこうと考えている。

 

 2005.5.4(水) センス

 数年前、このホームページの中の情報募集の欄でカタツムリに関する情報を求めたら、いくつかの情報が寄せられた。その中の1つに、数匹のカタツムリが木の枝に止まっている状況写真付きのメールがあり、僕はまさにその場所で、希望通りのカタツムリを採集できた。
 情報の提供者は、カタツムリに興味があるわけではなかった。他の生き物を探す過程で偶然に見たシーンを撮影したのである。
 その後、僕はカタツムリにのめり込んだ。当然、カタツムリに関して多少は詳しくはなった。そして、ふと思い出せば、僕に寄せられたメールに添付されていたカタツムリの状況写真が、非常にいい写真であったことに気付かされた。
 写真の技術が高かったのではない。その人が撮影したシーンが、まさにカタツムリが多く生息する場所の見本のようないい場所だったからだ。その画像を、頭の中にイメージをして森を歩けば、非常に高い確率で、カタツムリが目に飛び込んでくるのだ。
 カタツムリに詳しい人が撮影したのであれば分かるが、そうではない人が、さらりとそれを撮ってしまった。偶然と見る向きもあるだろう。が、僕はそうではないと思う。自然観察のセンスがある人は、そんな嗅覚を持ち合わせているのだと僕は感じる。

 さて、そうした嗅覚は真似ができるものではない。相手は天才なのである。天才は、一枚の写真を撮影する時に、恐らく深く考える必要はない。むしろ考え過ぎずに、ズバッと撮ればいいに違いない。
 が、真似ができないからといって、放っておけばいいものでもない。
 僕は、生き物とその周囲の環境が同時に写っているような写真を撮る時は、頭の中を整理し、どこからどこまでを画面の中に写せば、生き物が好む環境を上手く説明できるのかを、とにかくよく考えながら撮影するように心掛けている。
 天才とは別のやり方で、丁寧さで、自分の味を出したいと思うのだ。

 先日ムカシトンボを紹介したが、今回はよく似た名前のムカシヤンマの幼虫(ヤゴ)が成虫へと変化をする羽化のシーンである。
 ヤゴと言えば水中に暮らす生き物だが、このムカシヤンマは実にけったいなトンボであり、幼虫は苔むした崖に穴を掘り、その中で暮らすようだ。今回の場所も、崖であり、少なくとも水辺と呼べる環境ではないような印象を受けた。
 川や池であれば、小魚やその他さまざまな生き物が生息し、ヤゴの餌には事欠かないだろうが、いったい崖に穴を掘り、何を食べて暮らすのだろうか?

 こちらは、今や絶滅危惧種となってしまったベッコウトンボである。が、この場所では、決して珍しいトンボではない。池の雰囲気を余すところなく画面に納めるように、でも不要なものは決して入れないような撮り方を心掛けた。

 

 2005.5.1(日) 経験を積むこと

 昨年秋に撮影したメダカの画像が掲載された本が先日届いた。全27ページ。幼児向けの本であり、月刊誌である。
 ヒメダカの飼い方を、27ページも費やしてゆっくりと説明した本だ。
 この「かがくらんど」というシリーズの本は、主に幼稚園や保育園を通して販売される本だと聞かされている。したがって、一般の書店に注文をすることはできないが、こうしてホームページの中で紹介すると、小さなお子さんをお持ちの方から、
「家の子供が読んでいるよ!」
 と、時々お知らせのメールが届き、それが嬉しくて、こうして紹介することになる。
 このメダカの号は、そう遠くないうちに単行本化され、別の形で販売されることがすでに決まっているが、そちらは一般の書店でも、注文をすれば購入できる。
 今日はその単行本のための表紙の撮影の日であった。

 さて、この本の撮影をする際に、僕は2つのことを試してみたいと考えていた。
 まず1つ目だが、本来は、この本は子供に十分に分かる易しいレベルに仕上げるべきである。が、メダカに関しては、幼児が飼育する際に、ほぼ100%保護者と一緒ではないか?と、僕は考えた。むしろ、保護者の方に力が入るようなケースではないだろうか?
 したがって、子供が単独でメダカを飼うのではなく、保護者も一緒に飼育をするための、もう少し高度なレベルの本にしたいと考えた。
 例えば、幼稚園や保育園の子供にとってメダカのオスメスの区別は難しいだろう。が、保護者と一緒に飼うのであれば、保護者はそれを知りたいに違いない。そして、卵がうまれ、稚魚が孵ってくれたらいいのにと期待をするのではないだろうか?
 今回の本に関しては、そうした期待に応える、子供だけが読むには少し難しい内容にしたいと僕は希望した。
 同じ生き物の飼育でも、昆虫の場合はその点が違うのではないだろうか?。虫はどちらかというと、汚いからやめなさい!という親の意志に反して、子供が勝手に飼い始めるものだ。また、子供が途中で投げ出して虫が死ぬぬようなことがあっても、もともと寿命が短い昆虫であるから、それもいい経験である。
 が、魚の場合は、そこそこの大きさの水がもらない水槽が必要であり、また虫と違って死なせるとどこか心が痛むのが普通の人の感覚だ。

 そしてあと1つ試してみたかったのが、上の画像のような、複数の写真を1枚に組み合わせたページ作りだ。画像を組み合わせるためには、それを前提にした撮影が必要であり、そうした経験を積んでみたかった。
 実は、目に見えない工夫がたくさん凝らされているページなのである。
 その分、撮影に時間がかかったり、試行錯誤で何度も同じようなことを繰り返し、多少割りに合わない仕事になってしまった面があるが、経験は何よりの財産だ。また曲がりなりにもギャラをもらって、そうして試すことが許されるのは、ありがたいことである。
 そうした機会が与えられることに、感謝しなければならないだろう。

かがくらんど 6月号 メダカをかおう! 世界文化社
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年5月分


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