撮影日記 2005年4月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2005.4.30(土) 時にはつらい撮影もある

 風景の写真家といえば、どちらかとお年寄りをイメージする人が多いのではないだろうか?風景は逃げないし、のんびり、ゆっくりと撮影するイメージが僕にはあった。
 かつて僕が生き物にしかカメラを向けなかった頃、
「風景写真なんて年を取ってからでも撮れる。だから今は生き物だ!」
 と、考えていた。
 が、滝を撮影するようになってからは、その考えが一転した。それが大きな間違いであることに気付いた。
 場所によっては、1時間以上も登山をしなければならない滝も珍しくないのだ。しかも、滝の近辺はしばしば道が非常に険しい。よく考えてみれば、多くの滝は地形的に厳しい場所にあるのだから、それは当然のことである。また、ただの登山ならまだしも、重量級の機材や大きな三脚を担いで歩くのだ。やってみれば、生き物の撮影など比較にならないほど体力を要することが分かった。
 これは、若い人間にしかできにくいと。
 そう感じるようになって以降は、熊本や宮崎、島根や鳥取あたりに取材に出かけるときには、(1)滝の撮影その他で長距離を歩く日、(2)田んぼや湿原で足元のさまざまな生き物を撮影する日、(3)何かスター性のある1種類の生き物を徹底して追いかける日を、なるべく一日ずつ計画に組み入れることにしている。
 今日はクタクタになるまで歩く、今日は足元を見つめる、今日はスターの追っかけになる・・・と、あらかじめその日をどんな一日にするのか、決めておくことが多い。
 昨日トンボを撮影したが、トンボに関しては、当面スター性のある種類だけに絞って撮影することにしている。例えば昨日のムカシトンボもそうだが、オニヤンマやギンヤンマなど、仕事ウンヌンではなくて、子供の頃からの憧れの生き物を憧れのままに追いかける時間を持ちたいのだ。

 さて、昨日のトンボの撮影は急遽決まったものであり、本来その日に予定していた仕事を、前日とトンボの撮影から帰宅した夜の時間とでカバーすることになった。
 当然、スケジュールが過密になり、特に前日は、本当に仕事が辛かった。一日撮影した挙句、夜中になってからまた新たな被写体にカメラを向けることは、さすがに堪えた。
 が、苦しいことが時にあっても、撮影した写真が本になって届けられると、そうした苦しさも消し飛んでしまう。
 
たんぼのあまがえる (世界文化社) 写真撮影を担当しました。

 

 2005.4.29(金) 夢のような一日

 4月4日に紹介したムカシトンボの撮影に、また出かけてみた。
 今回の撮影場所は福岡県の北九州市であり、北九州在住のトンボの写真家・西本晋也さんが今年になって新たに発見した生息地だ。
 その場所に案内してもらえば、なんと、僕もカタツムリの採集に出かけたことがある、すでに知っている場所であった。
 ムカシトンボは、主に水がきれいな渓流に生息するが、今日の撮影地はまさにそんな典型的な場所であり、上の画像の真下では、岩盤にポッカリと穴が開いていて、そこから水が流れ出すことで川が始まっている。
 つまり、より上流部は地下を流れているのであり、水が汚れているはずもない。すばらしい場所である。 
 オスは上の画像のように、主にコケの生えた岩場の周辺を飛び回り、小さな昆虫を食べ、また、メスはそんな場所にやってきてコケに卵を産みつける。
 今日は運良く産卵も撮影することができた。


 オオルリの水浴びの画像は、トンボの撮影のついでに、200ミリのレンズで撮影したものである。
 ホームページでの画像の掲載のサイズが小さいため、見やすくするために若干トリミングをしているが、200ミリ程度のレンズで、それなりの大きさに小鳥が写るというのは、鳥との距離が非常に近いことを意味する。
 オオルリはもちろん、僕がそばにいることは分かっているようで、若干警戒したそぶりを見せる。が、どうしてもこの場所で水浴びがしたかったようで、僕の方にグングン近づいてきて、一口水を飲んだあとに水浴びをして、その後の羽づくろいの時間も含めて、数分間の間、僕の目を楽しませてくれた。
 何もかも、夢のような一日であった。

 

 2005.4.28(木) 水滴

 撮り慣れないものを撮ろうとすると、やはり思うようにはいかないものである。
 昨日は、花の中の水滴を撮影してみたが、どの画像も、思ったほどは良くない。
 撮影中は何だか凄くいいような気がして、
「いいぞ〜いいぞ〜」
 と、ブツブツつぶやきながら撮影してみたものの、今日、事務所のパソコンで大きく表示してみると、写ってはいるが、決してそれ以上のものではない。ちょっとがっかりである。
 そうしたことを何度か繰り返すうちに、シャッターを押した瞬間に、決まった!と分かるようになる。水滴のような被写体も、今後もう少し練習してみようと思う。

(撮影機材の話)
 今日の画像は、キヤノンの65ミリマクロレンズで撮影したものだ。
 このレンズは、昆虫や小動物の卵などをシャープに撮りたい時にはいいが、ボケ味が要求されるシーンには、どうも向かない。特に、絞りの枚数が少ないため、絞りの形が出るような状況では、あまりよいレンズとはいえないようである。
 意外に、50ミリクラスの一般のマクロレンズに、接写リングを入れたほうがいい結果が得られるかもしれない。次回試してみたい。

 

 2005.4.26(火) 原尻の滝

 天気がいい日には、
「今日は撮影日和で、いい写真が撮れるでしょう!」
 と、道行く人たちから、よく声をかけられる。
 が、晴れた日には影が強く出すぎるため、撮影が非常に難しくなる。曇りの日とは異なり、太陽と自分との位置関係をよくよく考えなければならないのである。
 特に、太陽が真上にある昼間の時間帯は、どうにもならないほど日向と影とがゴチャゴチャ混ぜになり、撮れば撮るほど見苦しい写真を量産してしまう。
 僕は、晴れの日の昼間には、基本的には写真を撮らないことにしている。
 昆虫の撮影など、ストロボ(照明)を使用する場合は、真昼の時間帯でにも照明の具合できれいに写真が撮れるが、自然の光で撮影する場合、晴れの日には、遅くても10時には撮影を切り上げる。
 その後は、新しい場所を探して車を走らせてみたり、考え事をしたい時は、温泉に浸かることもある。この時間が、実は僕にとって非常に重要である。終始バタバタしている人には、本当にいい仕事は出来にくいものである。
 今日は、午前9時に、予定の滝の撮影を終えることにした。
「え!9時で仕事が終わり?いいな〜そんな生活。」
 と羨む人もおられるだろうが、その分、朝が早いことを付け加えておかなければなるまい。今朝は、4時半に目を覚ました。
 
(撮影機材の話)
 今回の取材は、この春新しく購入したニコンのD2Xの本格的なデビューである。スタジオや小動物の写真は、すでにかなりの枚数を撮影してみたが、野鳥や自然の風景を真剣に撮ったのは、昨日〜今日が初めてだ。
 スタジオで試してみると、D2Xは、ちょっと神経質なところがあるカメラかな?と感じる。それまで使用していた同じニコンのD70に比べると、わずかでも、照明の具合が悪かったり、カメラの露出が悪いと、突然に画像が破綻してしまう印象を受ける。いうならば多少乗りこなしが難しい馬のようなものであり、ちょっと気難しい馬に乗ってみた結果、それまでの自分の技術に多少の甘さがあったことに気づかされた面があるのだ。
 が、それは細かい光のコントロールが要求されるスタジオでの話で、スタジオに比べると大雑把な野外では、その神経質さをまだ感じていない。むしろ、大きなファインダー、切れのいいシャッターと、大きすぎることを除いては、非常に使い勝手がいい。
 1200万画素というD2Xの画素数であるが、小動物の撮影には800万画素程度がちょうどいいように僕は感じる。が、より細かい描写が求められる風景の場合は1200画素がありがたい。
 もちろん、風景の撮影に600万画素でもそれなりに行けるが、1200万画素を持つことで、もっと撮りたい!と気持ちが非常に盛り上がるのだ。

 

 2005.4.25(月) オオルリ

 僕は毎年この時期に、1〜2日、オオルリを撮影するための時間を作る。
 オオルリは決して珍しい鳥ではないが、高いこずえで囀ることが多く、カメラからの距離が遠くて、撮影はなかなかに難しい鳥だ。
 ごく一般的な鳥であるにも関わらず、野鳥専門のプロが撮影した写真も含めて、これぞ!と唸らされるような写真に、滅多に出会うことがない。
 ただ、九州の場合、今の時期であれば、撮影は比較的易しい。
 ちょうど今、オオルリはこれから巣作りをはじめる段階であるが、雄どうしが雌をめぐる縄張り争いに夢中になり、争ううちに低い位置にまで下りてくることがあり、またそんな機会には、人が近づいてもなかなか逃げないのだ。時には、カメラの画面からはみ出しそうなくらいに大きく撮影することができる。
 そんな場所を知ってさえいれば、今の時期になら、半日あれば結果がでるのだ。
 もう10日早ければ、さらに縄張り争いが盛んで、撮影はもっと簡単になるはずだが、まだ新緑があまり芽吹いていないため、木の枝に止まったオオルリの姿が殺風景になる。
 また、あと一週間遅ければ、新緑が大きくなりすぎて、オオルリは葉っぱの影に隠れがちになる。そして、オオルリたちのカップルが出来上がり、縄張りがほぼ決定してしまい、それ以上の争いごとが起こらなくなる。
 そうなると、オオルリは木の梢から滅多に降りてこなくなる。撮影はほぼお手上げになる。
 今日、半日で余裕で撮れた写真が、今度は一月費やしても撮れなくなる。生き物の撮影とは、大体そんなもののようである。

 オオルリの写真の中に、若干雨が写っているが、今日は、撮影中に雨が降り出した。しばらくすると、ぐんぐんガスが立ち込めてきて、辺りが真っ白になった。

 実は、昨日、オオルリを撮影するための機材を車に積み忘れていることに気づき、途中で引き返すはめになった。
 事務所にまで道具を取りに戻り往復すると、4時間くらいは見なければならず、今回は野鳥の撮影をやめようか?とも考えたが、やはり取りに戻って良かった。
 オオルリは、多少雨が降るような日で、比較的雲が薄く明るい日に最もきれいに写真に写るが、今日はまさにそんな日であった。

 

 2005.4.24(日) 棚田

 ここ2〜3年、熊本や宮崎方面への取材の初日は、熊本県の南関町にある小さな棚田に立ち寄ることが多かった。少ない時にでも、最低月に一度はその場所をおとずれ、田んぼの風景を定点撮影して、周辺で水辺の小動物たちの写真を撮った。
 ざっと考えてみても、数十回は、同じ場所から写真を撮ったことになる。
 昨年冬からその場所は区画整備に入り、今日は付近を通りかかると重機が動いていて、曲がりくねっていた棚田は見事直線を描き、また岩を組んで作られた水路は、コンクリートの立派なものになった。
 ふと、宮崎へと出かけようと思えば、初日に行く場所が見当たらず、なんだか手持ち無沙汰である。
 人様の土地であるが、ポッカリと心に穴が開いたようでいて寂しい。自然や生き物や撮影の仕事のことだけでなく、その間に僕の身の回りに起きた様々な出来事や思い出が、いつの間にか、そこに凝集されていたようだ。

 ただ、全国各地で棚田を残そうという運動が起きているようであるが、僕はイマイチその意味が理解できない。棚田は美しいが、田んぼは見て楽しむものではなく、やはり作物を作る場所ではないか?と、感じる。
 作付けが行われず放置されている田んぼを、誰かが趣味として耕し、棚田のままで残そうというのであれば僕は大いに支持をしたい。またその中で、農業とは無縁であった誰かが土に触れる機会があれば、それは大変に意味のあることだと感じる。
 が、棚田を守る運動には、しばしば、自らはドップリと文明の恩恵にあずかりながら、一方で古い時代が良かったと懐古する現代人の我がままが込められているような気がする。そして、食の安全を守るなどと様々な理屈が出てくることになるのだが、本当に守りたいのは、食や棚田ではなく、誰かの思い出であるような気がする。
 思い出はいいものである。が、食の安全などという事柄は、みんなが本当に真剣に、そして理論的に考えなければならない重要なことであり、個人の思い出のレベルの話とごちゃ混ぜにして語るべきではないように僕には感じられる。
 そのレベルで食が語られてしまうことで、食を論じることが、だれかの思い出のレベルの話に落ちついてしまうことを、僕は心配に思うのだ。

 

 2005.4.23(土) 植物に手間取り・・・

 今日から宮崎へと出かける予定を組んでいたのだが、昨日植物の撮影に手間取り、今日は、その続きを撮影するはめになった。
 僕はどうも植物があまり得意ではない。
 得意ではないと、撮影そのものの難易度は低くても、どうしても腰が重く、取り掛かりが遅くなり、計画がずれ込んでくる。
 自信の有無は、かなりヤル気を左右する。
 一方で、植物の撮影の合間に、今日は、カタツムリの卵を撮影してみた。卵の中に影が見えるが、すでに卵の中をカタツムリの子供が這い回っているのだ。
 本当はカタツムリにカメラを向けている場合ではなく、早く植物の撮影を終えなければ、さらに一日宮崎への出発が遅れるのだが、撮りなれた被写体の場合は、急いている時でも、楽にカメラを向けることができる。


 カタツムリを飼育していると、時々、ほとんど目に見えないような小さな昆虫が、ピョンピョンと飼育ケースの中で飛び回るようになる。
 今日は卵の撮影中に、たまたまその虫が目の前に止まっていることに気付き、カメラを向けてみた。
 今回のカタツムリの卵は、直径が1.5ミリ程度である。したがって、この虫は0.3ミリ程度の大きさであろう。何という名前の虫だろうか?
 肉眼では、その姿が良く見えないくらいに小さいが、こうして拡大して写してみると、顔はつぶらで、なかなか可愛いようだ。

 

 2005.4.22(金) 稲葉さんのうんこ

 ちょっと汚い話で申し訳ないが、
「稲葉さんのうんこなら、食べてもいい。」
 という女性に、かつて出会ったことがある。稲葉さんとは、家の近所の誰かではなく、B’zという人気のグループの歌い手であり、女性は、うんこを食する趣味を持つわけではなく、それくらい稲葉さんが好きだ!と言いたいのである。
 しかし、女性の例えは何と凄い例えであろうか!
 僕は未だ、
「黒木瞳のうんこなら食べてもいい!」
 と公言するようなおじさんには出会ったことがない。
 そう言われると、むしろ厳しい目で稲葉さんを評価したくなるのが心情であるが、確かに稲葉さんはカッコイイ。
 さらに、歌も上手ければ、歌い方にオリジナリティーもある。どんなにカッコイイあの稲葉さんの顔をしていても、あの歌声がなければ、そこまで女性ファンを熱烈にさせることはできないのではなかろうか?
 僕はカラオケが大嫌いであり、集まりに出かけてもカラオケが始まると迷いもなく帰宅の準備を始めるが、もしも稲葉さんくらいに歌が上手ければ、
「愛の爆弾 もっとたくさん おっことしてくれ〜」
 と、今晩もどこかでシャウトしているに違いない。

 さてカラオケとあと1つ、僕が不得手にしているのが写真撮影である。写真を撮るのは仕事だが、写るのは何よりも苦手なのだ。
 今日は、新聞のインタビューを受ける約束になっていたが、あらかじめ、
「僕の写真が必要な時は、すでにある写真を提供しますので、カメラを持ってこないでくださいね!」
 とお願いをしておいた。したがって、楽にインタビューを受けることができた。
 僕の場合、報道関係者は非常に好きなタイプか、非常に嫌いなタイプの2つにきっちりと分かれる傾向にあり、会ってみるまでどこか気が落ち着かない。
 が、今日事務所にお越しになった方は、実に素敵な人であった。素朴で、インタビューを受けるよりも、むしろ手料理でも作ってもらった方が良さそうな、記者としては珍しいタイプの方であるように感じられた。
 
 

 2005.4.21(木) 信じられない話

 以前に取引があった会社から、身に覚えのないお金が振り込まれていたことがある。今となっては昔の話だが、僕はその会社に写真を預けていた時期があり、その写真が売れると、会社が4割、僕が6割受け取る契約であった。
 つまり、写真の委託販売のようなものである。
 振り込まれた額はおよそ3万円だ。つまり写真は5万円で売れたことになる。
 そんな内容の支払い明細が届き、
「あれ?まだ僕の写真を何枚か預けたままになっていたかな?」
 と思いつつよく明細を読めば、そこには、写真のタイトルが「小泉純一郎」と記されている。僕には、小泉総理の写真を撮り、その写真を委託販売をするために預けた記憶は一切ない。
 何かの手続きの間違いで僕に振り込まれたのだろうが、世の中には、そんなこともあるのだ!
 さて、3万円なら驚きもしないが、それが100万円だったら・・・
 そんなことが実際におきてしまった。
 その日はある原稿料の振込みの予定日で、僕はお金を下ろすために銀行に出かけ、まずは残高を照会した。
 その口座はお金を受け取るだけの、ほぼ空の口座であり、基本的にはお金をおいておく口座ではない。残高は確かわずか15万円程度と記憶していた。
 が、その日新たに残高の照会をしてみても、画面に表示される金額は「150000」と、支払われるはずの原稿料分が増えた形跡がない。
 おかしいぞ!騙されたか?
 しかしよ〜く見ると、15万円ではなくて、150万円と一桁多いのだ。何か事情は分からないが素晴らしい人がいるものだ!と感謝感謝でお金を下ろす。
 よ〜し、このお金は一切使わぬつもりで、貯金を預けておく口座に入れ、あとは忘れてしまおう。が、場合によっては相手にお礼を言わなければならないだろう。また、こうしたことは阿吽の呼吸が大切なので、むしろお礼を言ってはならないのかもしれないが、いったい誰がそんな殊勝なサービスをしてくれたのか、確認くらいはしておいた方がいいだろう。
 僕の手元にはカードしかない。そこで急ぎ通帳を取りに戻り、そして通帳記帳だ。
 出てきた名前は某出版社であったが、名前は伏せておこう。僕の仕事を担当した編集者の素敵な笑顔が思い浮かんだ。
 僕はお礼のメールを書いた。
 翌日、
「間違いでした。返してください。」
 と返事がきたことは言うまでもない。

 

 2005.4.20(水) ミツガシワ

 大学〜大学院と6年間を過ごした山口県の山口市は、僕の第二の故郷と言ってもいいだろう。
 その山口市に「ミツガシワ自生地」と書かれた大きな看板があることは、学生時代からよく知っていた。
 が、植物にあまり興味がなかった僕がその場所をおとずれたのは、大学卒業後のことであり、今からほんの数年前である。
 山口市のミツガシワは、お寺の裏の湧き水の池に自生していて、池にはイモリが多数生息し、さらに奥にも別の池があり、モリアオガエルの声が聞こえてくる。なかなかいい場所であり、学生時代知らなかったことが恥ずかしくさえ感じられる。
 県庁所在地の、まさに県庁の建物から車で4〜5分の距離にそんな場所がある山口県がどんな場所であるかは、これ以上説明する必要もあるまい。
 昨年だったか、「SAGA佐賀」と、佐賀県の田舎具合をおちょくった歌がヒットしたが、僕の見たところ、佐賀県と山口県はほぼ五分である。ただ一般的に山口県の田舎具合は好印象であり、佐賀県は忘れ去れた県というイメージが付きまとう。これは、おそらく山口県の歴史によるのではないだろうかと思う。
 幕末の長州といえば今の山口県であり、またその流れからか、山口県には有力な政治家が多く、特に総理大臣に関しては伊藤博文をはじめこれまでに7人を輩出している。華やかな歴史をもつ県なのである。
 因みに、僕の名前の晋は、幕末に活躍した長州藩の高杉晋作の晋から取られたものだ。


 ミツガシワなどというマイナーな植物は、植物のカメラマンならともかく、僕が撮影してもまず写真が売れることはあるまい。
 特にミツガシワの場合寒い地方の植物であり、北日本には素晴らしい群落があるはずだし、小さな群落で植物専門でもない僕が撮影をしても、太刀打ちできるはずがない。また、今回撮影した写真も間違いなくイマイチである。
 そこで、せめて高速道路の代金分くらいは何か稼ぎたいではないか!と、いかにも売れそうなシーンをついでに撮影して帰ることにした。
 春になりたんぼぽが咲き、カタツムリが目覚めたよ!
 といったところである。本当はタンポポの種類にまでこだわり、帰化植物のセイヨウタンポポではなく、日本に本来自生するタンポポで撮影したかったが、今やセイヨウタンポポがどこにでも当たり前に生えているのだから、これでもいいかなと、撮影してみた。

(撮影機材の話)
 タンポポとカタツムリの写真、写真のできに関しては、何か違う!と多少納得がゆかない。具体的に言うと、写りすぎているような気がする。
 理由は恐らくレンズに慣れていないためだろう。使い慣れたペンタックス645判用の120ミリマクロレンズが使えるデジタルカメラの登場が待ち遠しい。
 もちろん、今日撮影した写真は十分に商品として通用するに違いない。また今回の撮影を仕事として考えた時に、それ以上を求めることに何か意味があるのか?という気がしないでもない。が、使い慣れた道具で微妙な味わいをコントロールするのは、また楽しいのだ。
 
 

 2005.4.19(火) 更新

 今月の水辺を更新しました。
 
 

 2005.4.18(月) 心変わり

 ザリガニの撮影に取り掛かろうとしている。
 画像はザリガニではないので、念のために前置きしておかなければなるまい。
 ザリガニを撮影するための水槽を準備し、撮影のための照明の具合を試しているが、その過程で、水槽内のヤマトヌマエビを撮ってみたものだ。
 さて、先日ニコンの最新のカメラ、D2Xを購入したことを書いた。当然、その新しいカメラでザリガニを撮ってみたいと思う。が、幾つかの事情があり、散々試した挙句、結局、昨年来使用している600万画素のペンタックスを使うことにした。
 具体的には、照明のシステムが、ペンタックスの方が使いやすいのだ。
 照明に関して言うと、僕が現在所有しているシステムでは、一番使いにくいのがキヤノン、ニコンはまあよし、ペンタックスは、ほぼ言うことなしである。
 キヤノンというメーカーは、
「うちのカメラはこう使え!」
 とメーカーの方が押し付けてくる傾向がある。それにピタリとはまると使いやすいが、そうでない場合、たとえば機材に改造をを施す必要があったり、特殊な工夫が必要な場合には、極端に使いづらい。野鳥を大きな望遠レンズで撮影するには、キヤノンは非常にいい道具であろう。望遠レンズで遠くから撮影するのに細工もないもないし、ただカメラに任せればいい。メーカーも、カメラやレンズを開発する際に、野鳥を撮影するケースもある程度想定しているに違いない。
 が、水槽撮影などというオタク過ぎるジャンルともなれば、メーカーは恐らく全くの想定外であろうから、キヤノンでは困るのだ。
 ペンタックスの照明のシステムが進んでいるわけではない。逆に一番遅れていて、原始的である点がいい。ニコンやキヤノンは、照明のシステムを比較的最近になって新しく変えているが、その際に、古い道具が使用できなくなった。ペンタックスの場合はそれがないので、古くからある色々な照明器具を選択できる点がいい。

 それから、昨年600万画素のペンタックスで撮影した画像が、続々印刷物として届いているが、小さな生き物の撮影に関しては、
「600万画素って凄いなぁ。」
 と、驚かされている。その点も、ザリガニの撮影にはペンタックスを使おう!と心変わりした理由の1つである。
 600万画素が十分に通用することは前々から分かっていたが、僕の想像以上の実力があるようだ。むしろ、1200万画素よりもパソコンでの処理に際して扱いやすいのは言うまでもないが、画質面でもなんとなく扱いやすいように感じる。
 小動物の撮影に関して言うと、800万画素が理想かな・・・という印象を受ける。
 ただ、ニコンのD2Xを覗き込んだ時の像の見やすさや、シャッターボタンを押した時の反応の素晴らしさは、他の追随を許さないといったレベルである。画素数ウンヌンをすべて抜きにして、D2Xは操作性がいいカメラであると感じる。

 

 2005.4.17(日) 掲示板の設置?

 一昨日、感想として寄せられたメールに対して日記の中で答え、昨日その続きを書いたら、その間に、
「掲示板を設置する予定はないのですか?」
 と複数のメールが寄せられた。そこで今日は、インターネットの掲示板について触れてみようと思う。
 
 自然写真家のほぼ全員が自然に対して興味を持つのは言うまでもない。が、自然写真を通して何を求めているのかは、人それぞれである。
 例えば、 自然写真家の中には、一枚の写真を撮るために何ヶ月粘り、何日徹夜して、どれだけの時間を費やしたのかを、よく話題にする人が存在する。
 この人は、いったい何を求めているのだろうか?
 まず、自分の苦労を分かってもらいたいことは明白であろう。つまり、頑張っている自分を見てもらいたいのであり、そのためには誰か他の人がウンウンと話を聞かなければならないのだから、大雑把に分類すれば、人とのコミュニケーションを求めている人である。
 理科系か文系かといえば文系タイプであり、実は、人間に何よりも興味がある人だ。
 僕の場合、自然写真はむしろ一人になる場だ。
 もちろん、写真を通して誰かと接点を持つことは楽しく素晴らしいことであり、それを求める気持ちは多分にある。が、矛盾するようであるが、他方で一人になれる場でもあり、それが、僕の心の大部分を占める。
 時に、何かの拍子に新聞記者その他からのインタビューを受ける機会があるが、撮影にいかに苦労をしたかなどと問われると、僕の場合は非常に気分が悪い。
 僕は典型的な理科系人間であり、技術屋であり、黙って自分が作業をしている時間が楽しいタイプなのだと思う。
 では、掲示板が楽しいと感じる人は、いったいどんな人たちだろうか?
 大きく分けて2つのタイプが存在するように感じるが、1つは、情報を求めている人である。自然関係の掲示板は、生き物に関する知識の坩堝でもある。そして、あとの一つは、自分も参加できる点が楽しくて、人とのコミュニケーションを求めている人である。そして、こちらは掲示板の主な設置理由であろう。
 つまり僕が自然に求めるものと、掲示板のすばらしさとは、噛みあいにくいのである。

 さて、掲示板には様々な意見が集まるが、意見交換をすることも、偏らないために大切ではないか?と主張する人が少なからず存在する。
 が、僕はそうは思わない。自然写真などという活動は、独断と偏見で構わないか、むしろそれがいいのである。したがって、このホームページも、実に一方通行である。
 例えば、もしもあなたと、家族や恋人との間に揉め事があり、話し合いの場を設けたとする。そして何がしかの解決をみる。あなたが相手に譲るかもしれないし、逆かもしれぬが、いずれにせよ、譲った側の人が、心の底から説得されるなど、ほとんど皆無ではなかろうか?
 話し合いをして一時的には解決をみても、時が経てば、同じことで何度も何度ももめるのが人間という生き物である。
 人は様々な理屈をこねるが、本質は直感と好みで動くのであり、理屈は後からついてくるに過ぎない。写真を撮る行為は、その直感を表現する場であり、誰か人の意見を聞いて平均化された理屈を表現する場ではないように感じる。
 話し合いを否定するのではない。会社や家庭や組織の中では、話し合いによる妥協は不可欠であり、すばらしいものである。他に、より優れた方法はないのだ。
 が、写真撮影の場は、会社での仕事ではない。
 インターネットの掲示板上では、たくさんの意見が交わされているように見えるが、注意深く読めば全員が一方通行であり、そこで何か影響を受けることよりも、さまざまな人が集合することが主たる目的であるように、僕には感じられる。
 掲示板での意見のやり取りを読んで影響されてしまうような人は、気をつけた方がいい。その人の素直さは、悪い宗教団体のうまいお話に騙されてしまう危険性を多分にはらんでいるに違いない。

 

 2005.4.16(土) つまらないですね!

 写真家といえども、1カメラマンとして、歯車の一枚になり写真を撮ることがあると、昨日書いたが、ある新聞記者のインタビューを受けた際に、
「そんなのつまらないですね!」
 という言葉を浴びせられたことがある。
 そこで、今日は何がどうつまらないのか、それについて触れてみようと思う。

 僕が歯車の一枚としてカタツムリの写真を撮る。また別の写真家が、同じく歯車の一枚として写真を撮る。同じように写真家が出過ぎないように心がけつつカタツムリにカメラを向けても、結果はかなり違った写真になる。
 写真家ではなくてカタツムリが主役であっても、カタツムリのどこに目をつけるのかは、人それぞれだからだ。写真家の個性は、何も照明の具合だとか、レンズの選択といった写真術だけではない。
 歯車の一枚になることを極端に嫌う人がいるが、そんな人は恐らく、本当の意味での自信がなく、それを隠すために虚勢を張ろうとしているのではないか?と、僕は感じる。
 ただ、それは僕の感じ方に過ぎず、感じ方は人によってそれぞれ異なるものであり、どうしても歯車の一枚はイヤだという好みの持ち主がいても不思議ではない。
 そんな人は、歯車の一枚にならずにすむ場を選べばいいのではないだろうか?
 例えば自分が主役である写真展を開催し、また自分が主役である自分の写真集を作る努力をすればいい。そんな場で自分を売り込み、決して自分を曲げない写真家として評価され、まさにそれで食えるようにすればいい。
 そうする自由が写真家にはあるのだから。

 恐らくそれは非常に厳しい世界であろう。そんなやり方で生きていけるのは、一握りの中のさらに一握りであることは、想像に難くない。
 が、自分を貫くということは、そんな場に飛び込んでいくことだと思う。
 ぬるま湯に浸かり、比較的簡単にお金がもらえる場で、俺は俺は!と個性を主張するのは、筋違いであると僕は感じる。
 残念ながら、僕にはそれだけの素質がなく、時に歯車の一枚になるが、それでも、僕がカメラを向ければ僕の写真になり、また、僕の写真を好み、君の写真を使いたいと言ってくださる方々がおられる。
 僕はそれで十分に幸せである。

 先日トンボの撮影に出かけたときに採集したサワガニを撮影してみた。
 ちょっと試したいことがあったのだが、なかなかの好結果が得られた。何か新しいことを試すと、それに伴い写真がよくなる点もあるが、逆に損なわれる部分があるのも普通である。
 一歩進んで半歩下がるといった感じになるが、今回の試みは、写真の質が向上し、撮影に要する時間を短縮でき、また資源の無駄を多少抑えることができると、いいことずくめなのである。

 

 2005.4.15(金) TPO

 昨日、デジカメの画像に関して、
「最近のデジタルカメラの画像は特に手の込んだ画像処理をしなくても、ほぼ撮影したまま状態で印刷に回すことができるようだ。」
 と書いた。
 デジタルカメラの性質上、レベル補正と呼ばれる操作だけは大抵行うが、それ以外の処理に関しては、僕の場合、ほとんど何も手を加えないことを書いた。
 すると、
「色を強調するなど、画像の色を操作できるのはデジカメのメリットであり、それを生かさないのは勿体ないのではないか?」
 とメールが寄せられた。
 非常に最もな意見であり、また、もちろん僕も色を強調したり、あつかうことがある。
 そこで今日はそれに答える形で、どんな時に色をあつかい、また、どんな時に色には手を加えないのか、僕のケースを書いてみようと思う。

 先月末に、僕が撮影を担当したカタツムリの本を紹介したが、この本の画像に関しては、僕は全く色を操作していない。
 なぜ色に手を加えなかったのか?といえば、今回のカタツムリの本の場合、僕が主役なのではなくて、カタツムリが主役だからだ。僕のイメージで色を操作した武田ワールドを見せるのではなく、素直なカタツムリの画像を素材として提供するのが僕の役割だった。
 もしも出版社や編集をする側が、受け取った僕の画像の色に手を加えもっと派手に印刷しようと考えれば、僕の意志とは関係なしにそうすることもできるし、ある程度、僕の希望を伝えることはできるが、それは希望に過ぎない。
 極端な話をすれば、カメラマンは僕でなくても構わなかった。
 例えば、本の中に海外産のカタツムリの画像を加えようと、誰かが撮影した外国のカタツムリの画像をお借りして、写真協力という形で使用させてもらうこともできた。
 今回のカタツムリの本に関しては一枚残らず僕の写真であり、また他の人の写真を借りることはしないと、あらかじめ知らされていた。が、それは予算の問題であり、僕一人で撮影すれば、僕に一冊幾らと支払えばいいが、他から借りれば、その写真の提供者にまた別途支払う必要が生じ、それはできないという事情があったからである。
 つまり、僕は素材を提供する歯車の一枚に過ぎず、その自分の本分を守ったわけである。

 が、もしも僕が写真展を開催するのなら、時には画像の色を操作することもあるだろう。空の青みを強調する、背景の緑を派手に発色させる・・・などなど、様々な操作がありうる。
 僕が写真展を開催する場合、その写真は100%僕が撮影したものでなければならない。一枚だけ、写真展の展開を考えて、他の人から写真を借りるなどというのはあり得ない。
 つまり、武田ワールドが求められているのだから、僕の主観で画像を操作しても構わないのである。
 出版の場合は、仮に武田晋一写真集を出すのなら、そこに他人の写真を借りることは、やはりあり得ないだろう。

 同じように僕が写真を撮影した本であっても、いろいろなケースがあり、TPOを守ることがプロの写真家としての礼儀なのだ。

 

 2005.4.14(木) 夢を与える?

 知人のホームページの日記に、僕がまだ見たことのない水鳥の画像が掲載されていて、羨ましいな!と感じたことがある。その翌日は、花の写真であった。そしてそこには、
「デジカメは難しい!思うような画像に仕上がらない。まず第一にフィルム時代にはなかったさまざまなカメラの設定、第二にパソコンでの画像の処理、第三にそれをプリントしたりホームページに掲載するための処理。難しさが3本立てだから。」
 と書かれていた。
 確かにデジカメになってややこしくなったことは間違いない。
 一方で、逆に、パソコンでの画像処理や写真に関してど素人に近い人がデジカメを手にし、実に素晴らしい写真を撮るケースも目立つようになった。つまり、簡単になった部分もある。
 デジカメやパソコンといった新しい道具に対する相性が、写真の良し悪しを多少左右するようになった。
 ただ、新しい道具をイマイチ使いこなせないという人には、ある程度の共通点があるように僕は感じている。自分流を重視し、そして自分の味を出そうという意識が強い人が、意外にも、新しい道具に馴染めないケースが多いような印象を受ける。
 ホームページの主である知人も、やはり様々な工夫を考える人である。知人から送られてくるメールは一行ごとに改行がなされているし、ホームページの中の文章は、文字が大きく設定されている。見易いようにという配慮であろう。 
 メールやホームページの文面のレイアウトにまで工夫しているわけだが、なぜかそんなタイプの人には、デジカメが難しいという人が多い。
 そこで、画像の処理に関して、僕が日頃感じていることをちょっと書いてみようと思う。

 僕は以前に昆虫写真の海野和男先生から、
「デジカメの画像は、ほぼ撮ったままの状態で通用するよ。特に色に関しては、ほとんど何も画像処理をする必要はないよ。」
 と、教わったことがある。
 当時、僕はまだ仕事に使えるデジカメをもたなかったので、それはデジカメ導入の勧めでもあった。
 ところが、いざデジカメを購入してみると、それなりに時間をかけて画像処理を施さなければ、デジカメ画像は納得できる仕上りにはならなかった。僕の第一印象は、
「おかしいな〜。海野先生の話と違うじゃないか・・・」
 というものであった。
 ところが、最近は、まさに海野先生の話の通りなのである。
 デジカメとフィルムの性質の違いがあってデジカメ画像を全く処理をしないわけではないが、ほとんど手を加えずに十分に通用し、ホームページに掲載するにしても、出版社に提出するにしても、画像処理に必要な時間は一枚につき実質30秒以内で十分になった。
 使用するカメラの設定を変えた訳ではない。また、僕がデジカメを使いこなせるように特別に成長した訳でもない。
 ではいったい何が違うのか?
 最近の僕は、デジタルカメラやデジタル画像に対する過剰な、そして誤った期待を持たなくなった。以前は画像処理で何てもできると、いつの間にか思い込んでいたように思う。
 思い通りの画像が得られない時、本当はデジタルカメラが難しいのではなく、デジタルやフィルムに関係なしに僕の撮影技術が悪く、その悪い画像を画像処理でカバーしようとしていたのだから、難しいのは当然であった。
 どうしても上手く行かない時は、道具のせいにもした。パソコンが難しい、プリンターが悪い、モニターが悪い、デジカメが不完全であると。
 なんて恥ずかしいことだろうと、今振りかえって感じることは多い。
 自分の意志を一枚の画像に反映させようという意識が強い人ほど、パソコン上で、何とかしてやろう!何とかできるはずだ!とむきになり、それが上手くできない時に、おかしい!デジカメは難しいと!と、そうした落とし穴にはまりやすいのではないだろうか?

 話はそれるが、同じようなことが、臓器移植や不妊治療にも通じるような気がする。
 そうしたテクニックが開発される以前は、大病を患ったり子供ができなければ、誰のせいにもせずに諦めていたのが、技術が発達すると、病院が悪い、子供の臓器移植を認めない国が悪い・・・と、とにかく何かに擦り付ける人が増えた。
 不妊でヒステリーを起こしている女性がなんと多いことだろう。
 夢を与えてくれる技術革新は、時に人に過剰な期待を抱かせる残酷な側面も持ち合わせているようだ。
 
 

 2005.4.13(水) 難易度

 プロの写真を使用すると使用料が発生するが、ある雑誌は1ページ幾らと額が決まり、またある雑誌は写真一枚につき幾らと額が決まり、またある本では一冊幾らなどと額面が決められる。
 時にはフィルム代や取材費を別途請求でき、内容によっては日当が支払われたこともあるが、大抵の場合、どんな支払われ方をするにしても、写真にはおよそ定価と言えるような相場が存在し、どこにどういう風に使用されたかによって、その相場に相応しいお金をもらうことが多い。
 撮影が困難を極めても、簡単に撮影できた場合にでも、いずれかの相場に従ったお金が支払われるのだ。
 したがって、
「こんな簡単にお金をもらっていいのかな・・・」
 とウハウハな場合も、また、
「畜生〜こんな難しいリクエストしやがって!」
 とお涙頂戴のケースもある。
 ただおいしい仕事があり、またそうでない仕事もあるのは当然のことである。そこは平均して考えなければ、自然写真の業界全体が成り立たなくなるだろう。したがって僕は、どんなに割に合わないと感じる仕事でも断ったことはない。

 そう覚悟は決めているが、
「仕事の話をしましょう。」
 と持ちかけられた時は、それが割に合う仕事なのか、そうでない仕事なのか、内容を聞くまでは気が気ではない。ある一枚の写真を撮影するのに1時間ですむこともあれば、2〜3週間かかることもあるのだ。
 今日は、今シーズンに撮影するシーンに関する打ち合わせをするために、東京から雑誌の編集者がお越しになった。
 今回のシーンは、例えるなら石ころを撮影するようなものである。
 石ころを撮れと求められれば簡単であるが、石ころを絵にしろと求められれば、それは困難を極めるだろう。
 今日求められたシーンを写真におさめるだけであれば簡単であるに違いないが、見応えのある写真に仕上げるのは、かなり難易度が高いことは間違いない。

 

 2005.4.11(月) 振られた時は

 春になり気温が上昇すると、多くの植物が花を咲かせ、動物が活発になる。
 生き物の活動は気温や機構の影響を受けるが、一般に、動物は、植物ほども気温や気候の影響を受けないことが多い。
 もちろん全く影響を受けないわけではないが、それ以外に動物の場合は体内にカレンダーを持ち、気温や気候に関係なく、春がきたことを把握しているのだ。
 植物の体内にも恐らくそうしたカレンダーが存在するのだろうが、植物の場合はより大きく環境に左右され、狂い咲きというのは、まさにその例である。
 動物は植物の狂い咲きほどひどい間違いは、滅多に起こさないものである。
 したがって植物の場合、データに頼るよりも、とにかく現場に行ってみるのがいい。今日は、ミツガシワの花を撮影したかったのだが、今年はまだ一輪も花を咲かせていない。
 花の撮影は、とにかくタイミングが肝心で、そのタイミングも年によって多少のずれがあるものだから、特に年に一度しか花を咲かせない植物の場合は、なかなかに難しい。
 
 ミツガシワに振られた場合は、鍾乳洞を撮影しようと予定を組んでいた。
 鍾乳洞と言えば、地下の洞窟であるが、僕のテーマは水辺であるから、地下を流れる川がある!という視点でカメラを向けた。
 画像は秋芳洞の遊歩道である。
 ダメだった時はあそこに行こう!と準備をし、目的の被写体に振られた時に他のものを撮影して楽しむことは、どうも非常に大切なことであるように最近感じる。
 僕は必ずしも売れる被写体を選んで撮影するわけではない。特に渓谷に出かける時は、売れなくてもいいから好きに撮ると、あらかじめ決めているのだが、目的の被写体に振られた時は、どんな被写体でもいいから、一枚は必ずどこかで売れそうな写真を撮ることにしている。
 自分が気に入った写真を撮ることは、天候やその他の条件に大きく左右されるので条件が合わなければ難しいが、売れる写真を撮ることは、それよりもずっと簡単なことであり、とにかく腰を低くしてマメになればいいのだ。
 目的の被写体には振られたが、今日撮影した写真はいつか売れるだろうから交通費くらいは出るはずだし、まあいいや!と自分にいい聞かせるわけである。

 

 2005.4.10(日) 準備

 昨日のムカシトンボは、まさに期待通りの実に素晴らしいトンボであった。それだけ胸をときめかせて出かけた撮影で、僕がフィルムカメラを持たなかったのは、恐らく昨日がはじめてだったのではないだろうか?
 デジタルカメラが撮影の中心になると、今度はパソコンまでもが撮影機材だと言い切っても過言ではあるまい。
 そうなると、故障や買い替えなどにともない、ほんの2〜3時間でもパソコンが使えない時間があると、気分的に非常に落ち着かないものだ。
 近々、新しいパソコンを追加購入する予定だが、2台あれば、どちらかが故障をしても仕事だけはできるので安心だ。
 今日は、新しく購入するパソコンもインターネットに接続できるように、ルーターと呼ばれる道具を購入した。ルーターの部分でインターネットに接続するケーブルを分岐すれば、2台のパソコンを同時にウエッブに接続できるだけでなく、パソコンの間でのデータのやり取りが可能になるようだ。。
 パソコンを一台購入すると、やれ接続だとかインストールだなどとゴタゴタするので、あらかじめできる準備を、負担に感じない量だけ、少しずつ整えているのである。
 
(撮影機材の話)
 2台のパソコンをインターネットに接続できるようになったが、肝心の新しいパソコンをまだ購入していないので、代わりにノートパソコンをつないでみた。
 ちゃんとインターネットにもつながるようだ。
 そう言えば、新しいデジカメ・ニコンのD2Xを購入したのだから、D2X用のソフトをノートパソコンにもインスールしなければと思い出し、そのままニコンのサイトに接続して、ニコンキャプチャーの新しいバージョンをインストールしてみた。
 ソフトの作動も確かめておいた方がいいだろうと、D2Xの画像を開いてみてビックリ。ちょっと尋常ではないほどの時間がかかり、ほぼ使い物にならないレベルである。
 もちろん、取材先で、ノートパソコンを使ってニコンキャプチャーで画像の処理をしようなどとは毛頭考えていないが、デスクトップとノートパソコンの間で、それほどに能力の差があるとは、僕は知らなかったのだ。
 しかもノートパソコンの方が新しく、購入時の価格も5割増しと高価である。
 そこでよく調べてみると、残存する最強のノートパソコンでも、恐らくD2Xの画像をまともに扱うことができないだろう。そのレベルにノートパソコンが達するのは、少なくとも2〜3年はかかりそうな印象を受ける。
 ニコンキャプチャーでD2Xの画像を扱うと非常に時間がかかるという人は多いようだが、なるほど〜と納得させられた。
 やはり、それなりのパソコンを持たなければならず、間違いなく、今やパソコンは写真機材の一部になってしまったようだ。

 

 2005.4.9(土) ムカシトンボ

 多くの人が思い浮かべるシオカラトンボやオニヤンマなどのトンボは、4枚の羽を広げて止まるのが普通である。
 また中にはイトトンボと呼ばれる、まるで爪楊枝のような細長いトンボの仲間がいて、それらは羽を閉じて止まる。
 ところが中には、オニヤンマのような色や体型であるにも関わらず、イトトンボのように羽を閉じて止まる例外的な存在のトンボがいて、その名をムカシトンボという。
 その名の通り原始的なトンボであり、ムカシトンボに類するトンボは、世界中を探してもあと1種類しか存在しないのだそうだ。
 日本国内でも分布は非常に限られているようで、なかなか珍しいトンボだが、今日は、トンボ愛好家のみなさんにお世話になり、その珍品を撮影することができた。
 ムカシトンボ撮影ツアーのお世話役は、北九州在住のトンボの写真家・西本晋也さんである。また、今回は大分県から相談役として、日本でも数本の指に入ると言う詳しい先生が1人、山口県からは、某大手カメラ店に勤務し豊富な行動力を誇る隊員が一人参加し、合計4人でのツアーであった。

ムカシトンボは、通常は渓流に生息するトンボだが、今日の場所は、畑の間を流れる水路のような雰囲気の川である。
 本来は渓流の岩場に登り、植物にぶら下がって羽化をするこのトンボが、この場所では、上の写真のように、畑の隅っこで羽化をする様子が観察される。
 今日は、合計で7匹のムカシトンボが確認された。
 興奮しすぎて、ちょっと疲れを感じる一日になった。

 

 2005.4.8(金) 新しいモニター

 ある有名な動物写真家が、まだ駆け出しの頃、出版社に写真を持ち込んだ際に、
「動物ってなかなかピントが合わないんだねぇ」
 と、皮肉を込めた一言を浴びせられたことがあると、書いておられた。
 今では誰よりもシャープな写真を撮ることで有名な人である。そう言えば、その写真家は、写真を貸し出す際に必ず自分の目でピントがよく合っているかどうかを確かめ、ピントの良し悪しには非常にこだわるのだと、出版関係者から聞かされたことがある。
 恐らく、駆け出しの頃の体験が、そうさせているのだろう。
 同じような経験を持ち、シャープな写真を撮りたい!シャープに撮らなければ!と執念を燃やす写真家は、決して少なくないのではなかろうか?
 昔はシャープな写真を撮りたければ、ただひたすらに腕を磨いた。確実にピント合わせができるようになることと、ブレないように撮ることである。
 が、デジタルカメラが普及を始めてからは、それを画像処理に頼る人をちょくちょく見かけるようになった。印刷をする時に、「シャープ」という処理をすることで、ピントが十分に合っていない写真でも、シャキッと見せることができるのだ。
 また印刷を担当する人のシャープの効かせ具合に関して、
「もうちょっとシャープを効かせて、シャキッと印刷して欲しかったなぁ。」
 などという写真家の不満を、ちょくちょく耳にするようになった。
 が、シャープを効かせると損なわれる部分もあり、印刷を担当する人は、その点も加味しなければならない。シャープを使いすぎると写真がノッペリとして、被写体がコンピュータグラフィックスのように見えてしまうのだ。
 ところが、写真家の側は、シャープに撮りたい!というその一念が強過ぎて、しばしば視野が狭くなっているのである。その結果、確かにシャープだが、コンピューターグラフィックスのような画像を、しばしば目にするようになった。
 僕はシャープな写真が好きだが、シャープを効かせたシャープさは好きではない。画像処理に頼るのではなく、ちゃんとピントを合わせる、ブレを防ぐなどなど、基本に忠実に撮られたシャープな写真を、写真家の側の努力で提供すべきだと思う。
 画像処理は、仕方がない時の応急処置であり、初めからそこに救いを求めるのは邪道ではないか?と感じる。
 パソコンという道具は便利だが、その便利さは、しばしば人の視野を狭くするように感じる。
 と言いつつも、今やパソコンなしでは、写真の仕事が成り立たなくなった。
 新しいパソコンの導入を考えていると先日書いたが、昨日は新しいパソコンラックが、今日はそのディスプレーが事務所に到着し、次はパソコン本体を購入する番である。

 今回は三菱製の19インチのCRTモニターを購入したが、モニターの購入のためにカタログを見て驚いた。今や、ほとんどのモニターは液晶であり、CRTの大部分、特に性能のいい製品が製造中止になっているのだ。
 が、画像の見え方の自然さでは、まだCRTに一日の長がある。また、高性能な液晶はかなり値が張るので困る。
 安い価格帯のCRTはまだ何種類かカタログに掲載されているが、評判を聞くと、あまりよろしくない。そこで今回は、すでに製造中止になっている製品を探し出した。

 

 2005.4.7(木) 



「とにかく何でも撮っておいた方がいい。」
 と、僕はこれまでに何度か、先輩からアドバイスを受けたことがある。
 が、実際に何でも撮ろうとするときりがなく、全くテーマが絞れないので困る。僕は、最初は何か一点に絞って撮影した方がいいように思う。
 ただ、一点に絞って撮影している人はそこから抜け出せなくなり、撮りなれたもの以外には興味さえもてなくなる嫌いがある。
 そうなる前に、今度は何でも撮ってみればいいと思う。
 ただし、本当に何もかもを撮るのは不可能である。第一、世の中には数え切れないほどの物体が存在するのだ。
 何でも撮るというのは、ちょっとでも「あ!」と思ったものにカメラを向けてみることであり、実際に、身の回りのものを次々と撮影することではない。
 僕は主に水辺の生き物にカメラを向けることにしているが、「あ!」と思えば、その他の被写体を撮影することもある。今日は、カナヘビを撮影してみた。



 カナヘビはトカゲのような爬虫類だが、細長くて体を伸ばすとまるで蛇のようにも見える。
 蛇との違いは足が生えていること以外にも瞼にあり、蛇には瞼がないが、カナヘビにはあるのだそうだ。だから蛇は目を閉じることはないが、カナヘビは目を閉じることがある。
 今日は事務所の付近でカナヘビを見つけたのだが、カメラを向けてみると、目を閉じていて、まるで死んでいるようにも見え覇気がない。
 そこでちょんと突付いて目を開かせて撮影しようかと思ったが、ふと蛇との違いを思い出した。
「そうだそうだ。UPで顔を撮影して、瞼を閉じた写真を撮っておこう!」
 一般的には、カナヘビのような地味な生き物の顔をUPで撮影しても、下手をすれば、一生その写真が売れずに終わる可能性があり、その確率は決して低くないだろう。
 だが、瞼を閉じた写真と開けた写真とが揃っていれば、一生に一度くらい、
「カナヘビに瞼が存在することがよく分かる写真はありませんか?」
 とリクエストがくるのではないだろうか?
 そんな写真が僕のところにありますよ〜

 

 2005.4.6(水) 帯に短し、タスキに長し

 そのうちオリンパスE-300を買ってみようかな・・・と、ここのところ検討中であった。カメラに詳しくない人のために簡単に紹介すると、E-300は非常にコンパクトで、しかもレンズ交換ができる本格的なデジタルカメラである。
 車に例えるのなら、コンパクトカーなのに本格的な装備を備えているとでも言おうか。自動車メーカーのスズキに、ジムニーという、軽自動車でありながらタイヤの周辺だけは本格的なオフロードカー並という素晴らしい自動車があるが、E-300は、ちょうどそんな存在のカメラである。
 目的は水中撮影だ。
 そして先日、E-300専用の水中撮影用のケースが発表された。
「よ〜し、買うぞ!早く使ってみたいな〜」
 となればワクワクして楽しくていいのだが、僕が希望するものとはちょい違ったものが開発されたようだ。
 オリンパスは、それなりに豪勢なものを作ろうと考えているようで、作りは見るからに良さそうだが、僕の希望よりもずっと大きくて高価である。大きさは僕の予測よりも二まわり大きく、価格は僕の予測の倍以上だ。
 水深60メーターまで耐えれるとあるが、僕は水深40メーターでいい。もっと安く、小さく作って欲しいl。
 オリンパスからはすでに、コンパクトカメラ用に安くて小さな水中撮影ケースが発売されているが、それをE-300用に作って欲しかった。
 オリンパスの開発者は、自社のカメラの良さをあまりよく理解していないのではないか?
 本格的な水中撮影用のケースなら、ニコン用やキヤノン用がすでにたくさん発売されているのだし、水深60メーターといえばかなりの深さである。そこまで潜ろうという本格派はニコンやキヤノン用の超本格派機材を選べばいい。
 またオリンパスにはE-1というE-300よりも上位の機種が存在するが、本格的な水中撮影用のケースを発売するのであれば、E-1用を発売すればいいのにと、僕は感じた。
 それよりも、ちょっと家族で海水浴に出かけるような時に気軽に持って行くことができ、しかし、ケースの中に入るのは小さいけど本格的なE-300であって欲しかった。

 僕の場合は、田んぼでオタマジャクシを撮影する時に、そっとカメラを水中に沈めて水溜りの世界を撮ってみたい。超本格派の機材は大き過ぎ、水溜りを撮影することはできない。
 せいぜい水深50センチまで。時には手とカメラだけを水中に突っ込んで撮影してみたい。
 しかし、今回発売されたものが全く魅力がないかといえばそうではなく、僕にとって、帯に短し、タスキに長しであるから実に悩ましい。すでに発売されているコンパクトタイプのデジタルカメラと、その水中撮影用のケースを購入してみようか・・・。

 

 2005.4.5(火) 白バック写真

「今年はザリガニをたくさん撮るよ。」
 と言ったら、
「それならついでに色付きのザリガニも撮っておいてください。いつか写真を使う機会があると思います。」
 とリクエストされた。
 そうしたリクエストが、実は非常に重要である。
 何がしかの契約を交わして写真を撮る場合、そのプレッシャー(主に時間の制限)から力を出し切れないこともあるし、逆に自分から進んで撮影して後からそれを売り込もうとする場合は、時間がたっぷりある分、だらだらと撮影してしまう嫌いがある
 自ら進んで撮影する時に、
「いつか使う機会があるに違いないから。」
 と、軽く声を掛けてもらえるのが、ほどよい緊張を保てるいいやり方である。
 最近はアメリカザリガニの見慣れた赤以外に、白や青のザリガニがペットショップに売られているのを見かけるが、そんな時代を反映して、色ザリガニの写真に需要があるのだろう。
 僕はまず、どんな感じに撮ろうか?と、考えた。野生のザリガニなら、なるべく自然な撮影セットを水槽内に再現して、まるで水中をのぞいているかのような写真を撮ればいい。しかし、色ザリガニは人工的に作り出されたものなので、見るからに自然な撮影セットは逆に不自然である。
 まず考えられるのは、白の背景で撮影された白バック写真だ。白バック写真なら、図鑑や飼育の本に掲載する機会がちょくちょくあるに違いない。
 色ザリガニは多分高価だろうから、一度購入した時に思いつく限り撮っておいた方がいい。他にも、色ザリガニの飼育シーンは、必要だろうと思う。

 さて、水中の生き物をどうやって白のバックで撮ろうか?
 これはあらかじめ試しておいた方が良さそうだと、昨日脱皮したザリガニの抜け殻を撮影してみることにしたが、手持ちの水槽では奥行きが不足して、完全に納得できる写真は撮れないことが分かった。
 よし、水中の白バック写真専用の、特注水槽を作ろう。
 水槽の底に敷く白は、光沢のある白の塩ビ板では、恐らくその表面に、上に置いたザリガニが反射をして鏡のように写ってしまうに違いない。今日は、動かない被写体なので当面紙を水に沈めて撮影したが、工夫が必要である。
 この点に関しては、スタジオ撮影用品の専門店のカタログに良さそうな商品が掲載されているので、さっそく取り寄せてみよう。

 

 2005.4.4(月) 蓑ザリガニ

 うちのザリガニの多くは蓑ザリガニである。
 背中にコケが生えたカメを蓑ガメと呼ぶが、うちのザリガニの背中にはコケが生えているので、蓑ザリガニなのだ。
 いずれも昨年から飼育しているもので、比較的良く光が当たる場所に放置しておいた結果、水槽がコケだらけになり、そのコケがザリガニの背中にも移ったのだ。
 それらは、脱皮をして古い殻を脱ぎ捨てない限り撮影のモデルには適さないが、脱皮を待つよりも、新しいザリガニを探した方が早いだろう。今シーズンのザリガニの撮影用に、そろそろモデルを調達しなければならない。
 一匹だけ屋内で飼育していたザリガニがいて、こちらはモデルの資質が十分にあるが、たった一匹ではどうにもならない。
 と思っていたところ、今日はザリガニの飼育の準備中に、よりによってその唯一のザリガニが脱皮を始めた。
 慌てて撮影に取り掛かろうとするが、まだ飼育の準備の段階であり、撮影の準備は全く手をつけていない。仕方なく、昨年ザリガニを撮影して、手入れもせずにそのまま放っておいた水槽にザリガニを入れ一応撮影してみたが、背景の水草が何とも不自然であり、記念撮影に終わってしまった。
 それでも、写真は撮った方がいい。僕はシャッターをたくさん押しながら、調子を整えていくタイプなのだ。
 
 

 2005.4.3(日) フィルムに有利な被写体

 デジタルカメラの雑誌に、キヤノンのデジカメと新設計のレンズの広告が載せられていた。
 その道具を使用して撮影された画像と撮影者のコメントがメインであり、どちらかというと隅の方に、
「この画像はキヤノンで撮影しましたよ!」
 と記されている。カメラそのものよりも、キヤノンを使っている人を主人公にして、
「できる写真家はみんなキヤノンを持っているよ!」
 と、アマチュアの心を揺さぶるパターンの宣伝だ。
 キヤノンというメーカーはこの手の宣伝を得意にしており、時には、それまでキヤノンを使用していなかった写真家に機材一式をプレゼントして使ってもらい、その上で、そんな広告を掲載することもあるようだ。僕の身の回りにも、キヤノンから機材をプレゼントされた人が数人だが存在する。
 さて、今回は、そのキヤノンの広告に氷の画像が使われていたが、僕には、その画像がイマイチであるように感じられた。
 担当した写真家が悪いのではない。フィルムの方が、デジタルカメラよりもよく写るシーンがあると、僕は何度か日記に書いたことがあるが、水や氷のように輪郭がはっきりとしない被写体の撮影では、デジタルよりもフィルムに分があることが多い。
 そうした被写体を日頃フィルムで撮影している僕には、
「な〜んだ。これならフィルムで撮った方がいいじゃないか。」
 と感じられるのだ。
 輪郭がはっきりとしない被写体の場合、微妙な濃淡を繊細に再現することで像を描き出さなければならないが、被写体の微妙な濃淡、つまり質感の表現に関しては、フィルムの方がよく、デジタルで撮影すると、絵が平坦な感じになってしまう。
 早くその点が改善されたデジタルカメラに登場してもらいたいものだ。

 昨シーズン、デジタルカメラが通用せずに、結局フィルムで撮影した画像が、本になって僕の手元に届けられた。
 メダカが生息する池を再現したシーンであり、画面中央付近の水草に、半透明のメダカの卵が産み付けられている。
 デジカメで撮影した画像では、その卵の質感がどうしても描き出せず、背景の水草に溶け込んでしまう。もちろん、それでもよく見れば卵は見えるが、これは子供向けの本である。恐らく小さな子供の中には気付かない者も出てくるに違いない。
 照明その他、いろいろに変えて試したがどうしてもダメ。
 そこでフィルムで撮ってみると、実に簡単に写るではないか!
 デジカメで撮影した画像を予め見ていた担当の編集者は、
「実はデジカメの画像を見て正直に言うと満足できませんでしたが、このフィルムならいい!」
 と、納得してくださった。
 デジカメで数時間をかけても撮れなかったものが、フィルムで、実に短時間で撮れることもあるのだ。
 
ビッグサイエンス5月号 おかあさんがうんでくれた たまご  チャイルド本社
メダカの卵・カタツムリの卵・ヒバリの卵の計14ページを僕が担当しています。他に、モンシロチョウ・ウミガメのページがあります。
 
 

 2005.4.1(金) 小さな小さな川で

 北九州市の小倉南区の渓流にヤマメ釣りに出かけた。
 今日は、どうも先行者がいるようで、まだ新しい水に濡れた足跡が点々と残っている。
 ヤマメは大変に敏捷で、もしも食い気のたった魚がそこにいれば、最初の一投で釣れるのが普通だ。逆に粘っても滅多に釣れることはない。次々と場所を変えながら、人によってはヤマメ釣りをして一日に数キロを歩くと言われている。
 その歩き方だが、下流から上流に向かって川を遡るのがセオリーだ。
 魚は一般に川の上流を向いていることが多いので、魚の尾っぽの側から気付かれないようにそっと近づき、釣っては上へ、釣っては上へ登ることを繰り返す。つまり、僕が見かけた足跡の主は、より上流側で釣りを楽しんでいることだろう。
 また、ヤマメという魚は非常に警戒心が強い。一度誰かが釣りをすると最低でも一日待たなければ、その日は滅多に釣り針にかかることはない。したがって先行者がいる場合、その人を後を追いかけても、まず釣りにはならないという厳しい現実がある。
 唯一の手段は、先行者を追い越すことであり、先行者が一日ゆっくりと釣りをできる範囲を残し、その上流からより上流へと釣り進ばいい。が、今日の場所は川に奥行きがなく、それができない場所である。つまり、一日に一人しか釣ることができない短い川であり、残念だが、帰宅をする以外に選択肢はなかった。

 さて今日は平日である。平日には釣り人が少ないものである。しかも今日の場所は非常に規模が小さく、言葉は悪いが、釣り師にとって取るに足らないような川である。もっと大きな渓流がたくさん流れる熊本県や宮崎県であれば、ほとんど誰も興味を示さないような小さな小さな川なのである。
 そんな重箱の隅をつつくような小さな場所に、しかも釣り師が少ない平日にも人が入るなんて、やはり近くに北九州の100万都市を抱えているからとしかいいようがない。
 昨年、僕は、都会(博多)のセミを撮影する機会に恵まれたが、都会の風景が絵になることを気付かされた。写真の対象として、都会は非常に面白い!と感じた。
 一方で、やっぱり僕は人が少ない土地でのんびりと暮らしたいと、しみじみと思う機会が年に何度かはある。
 自然写真を仕事にすると、自然の中で過ごしたいと思う気持ちは、人よりも満たされることだろう。その結果、オーソドックスな自然写真に対する興味が薄れ、むしろ都会を背景にした生き物の写真の方を新しい!と感じる傾向がある。
 だが、それは自然に対する憧れの気持ちがある程度満たされているからだと思う。
 中には、会社員で都会に住まざるを得ず、小さな小さな川での釣りに満たされなければならない人がたくさんいて、しかもそうした人たちが日本の経済を支えていることを考えると、自然っていいな〜という気持ちにさせるオーソドックスな写真が、やはり自然写真の中心であるべきだと思う。
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年4月分


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