撮影日記 2005年2月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2005.2.28(月) 続・オークション
 インターネット上のオークションに夢中になっていることは昨日書いた。それが気になって気になって、いったい何度オークションのホームページを覗いたことだろう?
 3000円で入札をはじめた釣り針は今や21500円に、5000円だったリールは12500円、3000円の釣竿も12500円になった。
 他にも数点を出品し、一点をのぞいてすべて誰かが入札をしている。そして、まだ誰も入札していないその一点が、今日の画像である。

 ルアーと呼ばれる釣り針の3個セットであるが、それほどに希少価値があるわけではない。特別に人気があるシリーズでもなく、それに対して僕が最初につけた価格が若干割高(4000円)なので、入札がないのは妥当であると思われる。
 では、なぜそんな価格をつけたのか?
 当初は2000円で入札を開始し、誰か一人くらい2000円で買ってもいいという人が現れるかな?と予測をたてたが、投稿用に撮影した画像を眺めていたら、この3個のルアーのデザインと色合いに改めて惚れ直した。特に色がいい。
 自分で言うのもなんだが、基本に忠実に丁寧に撮られた写真というのはやはり物を言うのだ。ペンは剣よりも強しというが、写真も一種のペンであり、人の心を動かすのである。僕は不覚にも、自分の心を動かされてしまったのだ。
 ただ、このルアーはブラックバス釣り用であり、僕は今後バス釣りをしないことを決めているのだから、やはり不要なのである。
 そこで、誰か買い手がつけば諦めるが、誰も手を挙げてくれないことをどこかで祈りつつ、4000円という値段をつけたのだ。
 
 今日は、新たに別のものを出品しようか?と、今後使う予定のないルアーを数個選び出したが、どうせなら完璧な写真を撮ろう!と、そちらに火がついた。
 先日、釣り用のリールを撮影する際に、なかなか思い通りに撮れずに苦心した。詳しい説明は省くが、艶があり丸みのある金属の撮影は難しいのだ。
 そこで、そうした物も短時間で撮れるように今日はスタジオの改造である。それもどこかで生き物の撮影に役立つに違いない。

 

 2005.2.27(日) オークション

 夜空の撮影中に、突然に頭が痛くなった。22日の夜のことである。
 僕は日頃頭痛に悩まされることは滅多にないので、珍しいことだ。節々も痛いような気がするし、程度もひどい。突然に気力も萎えてきた。
 これはインフルエンザか?と、用心のために携帯していたインフルエンザの特効薬をすぐに飲み、それから数日間、薬の服用を続けた。
 特効薬は、発病の初期に服用すれば、ほぼ100%発病を抑えるといわれている。それを飲んだのだから高熱が出るわけでもないし、今となっては、本当にインフルエンザであったのかを確かめる方法はないが、ここ数日間は微妙に体調が悪く、特にやる気がひどく萎えるので、インフルエンザは間違いではなかったように思う。
 
 気力が湧かないのだから、仕事よりも、日頃「やらねば!」と思いつつ放っている雑用に手をつけることにした。今回は、事務所の押入れの整理だ。
 押入れには、撮影に使用した小道具などを放り込んでいるが、それ以上使わないものを捨て、新たに物を収納できる場所を作り出すことにした。今シーズンも様々な撮影用の小道具を作成するであろうし、それを使い終えたあとで整理する場所をいずれは作らなければならない。
 こんな時にやっておけばよろしい。
 ふと、懐かしい箱ができてた。タックルボックスと呼ばれている釣り用の道具箱である。中には、今となってはプレミア付きの人気の小道具が入っている。およそ20年前の道具たちだ。
 その一部をオークションに出品してみたのだが、これがなかなか面白くて夢中になった。
 以前もYahooのオークションへの出品を考えたことがあったが、その時は、何やら手続きがややこしくて、途中でやめてしまった。が、その後、Yahooのさまざまなサービスを利用する機会があり、その際に、僕の個人情報などを登録することになり、そうした情報をそのまま流用してオークションに参加することができるようで、今回は、すんなりと手続きできた。
 僕が出品した道具たちに対して、次々と入札されている。中には、複数の人が競っているものもある。
 そうなると気になって仕方が無いのだが、ふと冷静になると、他人を競らせて喜んでいるのだから、僕もなかなか悪趣味だ。
 ただ言い訳をすると、金額が釣り上げられるから面白いのではなくて、物の価値が面白いのだ。倉庫の中で眠っていて、所有している本人でさえ買った記憶がないような物に、
「これいいね!欲しい!」
 と誰かが価値を見出すことが面白いのだ。
 ともあれ、オークションは面白いが、競り落とす側からすればかなり悩ましい作業であろう。競り落とす側にはなってはならないと、僕は思った。

 

 2005.2.26(土) 供給

「おかしい!何で僕の写真が売れないんだ?」
 と、疑問に感じることがある。また逆に、
「おいおい、こんなに写真が右から左に流れていいのか?」
 と、不思議なくらいに次々とさばけることもある。
 何がその差を生むのかというと原因はいろいろとあるだろうが、大抵は、需要と供給のバランスである。どうも需要と供給をそれなりに理解しておかなければ、写真でコンスタントにお金を稼ぐことは、難しいようである。
 この2つの要素のうち、需要、つまりどんな写真にニーズがあるのかは比較的理解しやすい。いろいろな出版物に積極的に目を通せばいい。そうすればニーズは自然と把握できる。
 ところが供給の方は、何の写真がどの程度にダブついているかである。
 例えば、カワセミの写真がポスターに使用されていたとすると、僕らが目にすることができるのは選ばれた一枚の写真だけあり、その奥にあるダブついている写真の量を、そこから把握することは難しい。
 冒頭に書いたように、
「おかしい!何で僕の写真が売れないんだ?」
 と感じる時は、大抵は、自分なりにニーズをよく考えて需要があるものを撮っているつもりなのに、同じ被写体を撮る他の写真家がたくさん先行しているケースのようである。
 なにかと、
「どうせ、そんな写真を撮っても、他にもたくさん撮る人がいて売れないだろうからね〜」
 と口にする者がいる。だが、
「この写真を持っている人は少ないはずだ!」
 と思って撮った写真が意外にダブついていることがあるし、逆に、思いがけない写真が品薄であることも、決して珍しくない。やってみるしかないのである。
 唯一、何らかの形で出版の現場にいて仕事をすることだけが、供給に関する情報をもたらしてくれるように感じる。

 先日も書いたように、科学の実験に関わるような写真を撮る人は、いまとても少ない。実験に使用される生き物の種類によっては、今、日本中で僕だけが新しい写真を撮っているケースもある。
 するとライバルがいないのだから、写真はコンスタントに売れる。そこだけを見ていると、自然写真でお金を稼ぐことが簡単であるかのような錯覚さえ起こしそうになる。
 それはさておき、そうした環境の中で写真を数多く使用してもらい、その過程で僕が感じたことを1つ書いてみようと思う。
 僕は、「自分は自分だ!」と基本的には考える方だ。だが、他人から必要とされるということは、やはり大変な励みになるのだと、しみじみ感じる。
「好きなことをしましょう!」
 と、今は叫ばれる時代である。つまり、自分の主張を押し通す喜びである。人から必要とされることは、むしろ受身であるとみなされる傾向になる。
「ちょっと待てよ!」
 と、僕は思う。それで本当にいいのだろうか?

 

 2005.2.24(木) 自然とは

 カタツムリの一種、ツクシマイマイが一度に何個の卵を産むのかを調べると思ってほしい。
 あるものは30個、またあるものは40個の卵を産み、さらに別のツクシマイマイは50個の卵を産んだが、中には3つしか産まないものがいたとする。
 もしもそれが生物学の研究であれば、その3つしか卵を産まなかったカタツムリのデータは、無かったものとして除外するのが一般的である。
 そこには、カタツムリの体調不良など、何らかのアクシデントがあったと考える。
 つまり自然科学という学問の世界では、生き物がみせる現象のすべてを自然を考えるのではなくて、ちゃんと法則性・規則性にのっとった典型的な部分を自然と考える。そこから大きく外れるものは不自然であり、除外をしても構わないのである。
 そうした自然科学の世界でいう自然は、欧米人の考える自然である。
 それに対して、日本人には、
「3つしか卵を産まなかったカタツムリのデータを除外してしまうなんて、それってデータの捏造じゃない?」
 と感じる人も少なくない。
 日本人は、ありのまま、人が何も手を加えない状態を自然と考える。だからツクシマイマイが3個しか卵を産まないことがあっても、それも一種の自然であり、勝手に除外をしてはならないのである。
 したがってそんな日本人には、実験のデータを、人の手が加わった実験室内の不自然な状態で得られた結果であるとして認めたがらない人も少なくない。
 いったい日本人の自然と欧米人の自然、どちらが正しいのだろうか?
 どちらが正しいわけでもない。
 例えば、実験室での結果が、自然界での結果とは一致しないこともあるだろう。また逆に、実験室の中で人の手が加わった結果、自然状態では絶対に分析不可能な現象が山ほど解明されていることは言うまでもないだろう。
 ただ日本人は、人の手が加わることや実験を、不自然であると考える傾向にある。
 
 カワセミが魚を捕まえる瞬間を撮影する際には、まず川のほとりに小さな人工の池を作り、魚を入れ、その池にカワセミを餌付かせた上で、その池の中で捕食の瞬間を撮影することが多い。
 それに対して多くの日本人は、不自然な行為であると感じる。ものすごく悪いことであるかのような言い方をする人も少なくない。やらせ写真という言葉がある。作り物だ!と言う。嘘だ!という。
 そうして撮影された写真は、自然写真ではないと考える人もいる。
 が、恐らく欧米人にとっては、それも紛れもないカワセミの行動を捉えた自然写真であろう。たとえ餌付けをしても、自然状態のカワセミが魚を捕るのと本質は同じであると考える。
 実際、
「餌付けをした写真とそうでない写真、具体的にどこがどう違っていますか?」
 と突きつけられたなら、それに対する答えを持つ者は恐らく皆無である。
「それなら同じことでしょう。むしろ餌付けをすることで、もっと分かりやすい写真が撮れますよ。」
と、それが実験の考え方である。
 ただ、日本人には、やはり馴染みにくい。
 
 日本の自然写真界の流れは、日本人にとっての自然の方向へと向かっているように感じる。だが僕は、その流れに反して、実験的な写真にもっとこだわりを持って取り組んでみようかな・・・と考えている。
 理由はまた明日にでも詳しく書こうと思うが、今、そうした写真を撮る人が大変に少ないからである。このままいけば、そうした写真も撮れる自然写真家は絶滅するであろう。
 科学を学んだものとして、何かそこに残したいのである。
 
 

 2005.2.23(水) 完璧なはずの備えが・・・

  この空にオリオンが姿を現してくれたら・・・と、書いたのは、ちょうど先月の今頃である。
 ようやくオリオンがやってきた。
 星座だけを撮るのであればさほどに難しくはないのだろうが、滝の撮影のためには月の位置が非常に重要であり、撮影を難しくする。
 月が出る時間、月の大きさ、月が通るコースが滝の風景を決める。つまり、何月何日の何時頃とカメラを向けるべき時間がおのずと決まり、その時間に偶然にオリオンがこの場所になければならないし、空には薄雲がかかることさえも許されない。
 満たさなければならない条件が、非常に多い撮影である。
 場合によっては、僕がイメージしたシーンはあり得ないのでは?とも思ったが、こうして現実のものとして見ることができた。
 月の出が多少遅くなる今日は、もうこのシーンを撮ることはできないだろう。恐らく一年に一日だけ撮ることが可能なシーンではないだろうか?

 さて、完璧なはずの僕の備えが、もろくも崩れ去った。
 今シーズンは、僕の主な写真をデジタル化してハードディスクに収めて持ち歩き、写真の貸し出しの依頼があれば取材先からでも対応できる体制を目指している。
 持ち歩いている画像を車の中でCDに焼付け、郵送すればいい。
 また、もち歩いている写真はWEB上でカタログ化して公開しているので、出版関係者はそこで写真を選ぶことができる。
 つまり、写真の貸し出しのために事務所へと帰る必要がない。
 ところが、である。
 「この写真が売れるだろう!」と僕が予測をして準備をしている画像とは微妙に違うものを依頼されることが多い。昨日、車の中で受けたアマガエルとカタツムリの写真の貸し出しの依頼も、まさにそんな例であった。
 僕が持ち歩いているデジタルデータの中に、ピッタリくる写真が見当たらないのだ。
「木曜日に帰宅しますから、写真の郵送はそれからでもいいですか?」
 と答え了承してもらったが、やはり待たせている感じがするし、気持ちが落ち着かずソワソワする。
 さらに、別の仕事が1つ。
 こちらは、以前に使用を検討したいと申し出があった写真が正式に使われることとなり、フィルムを送って欲しいとの依頼である。
 フィルムを送るのであるから、これは事務所に帰るより他に手はない。
「では木曜日でいいですか?」
 とこちらも木曜日に約束をする。
 貸し出しが2つ貯まってしまっては、もういよいよ落ち着かなくなった。
 ところが昨日は、そこからさらに依頼が1つ。こちらは急ぎで一日を争うという。
 こうなるともう帰るしかない。
 なかなか思い描いたようには、事が進まないものである。

 

 2005.2.22(火) 馬刺し
 また一つ、僕は弱点を克服しつつある。
 と言っても、それは、日頃早寝の僕が苦手としてきた夜の撮影の話ではない。料理である。
 お茶を沸かしたり、インスタントラーメンを作ることでさえ面倒に感じる僕が、事務所での昼食の際には、自炊をするようになりつつある。
 なんといっても、今年は期待の新型デジカメが発売される見込みの年であり、お金を貯めておかなければならない。できれば大小2台ばかり買いたいと思う。
 そのために経費を抑えるために、自分で米を炊いてみたら、炊きたての米はうまいという発見があった。30分でも保温したら、厳しい僕の舌はもう許してはくれない。
 炊いて10分以内でなければならない。
 あらかじめ米を水につけて準備だけはしておくが、お腹がすいたな〜と感じてから炊飯器のスイッチを入れる。これは出来そうで、一般の家庭では意外に難しいのではないだろうか?
 なかなかの贅沢である。
 しかしある日、その米を食べる前に野菜を食べ過ぎて、米が食べられなくなった。コンビで大きなサラダを買ってしまったのだ。
 そこで、ご飯をおにぎりにしておき、翌日トースターで焼いて焼きおにぎりにしたら、これがまた素晴らしい。さらなる進化を遂げるために、次はマグロを醤油に漬けたものを冷凍しておき、事務所で鉄火丼を食べようと目論んでいる。

 さて、鉄火丼をイメージし過ぎたのか、どうしてもマグロが食べたくて堪えきれなくなった。そこで、昨日取材の行きがけにクルクル寿司に入ってみたら、真っ赤な肉が、寿司の上に乗っかって流れてくる。すりおろした生姜その上に添えてある。
 さすが熊本県!馬刺しである。
 全皿100円のはずだが、どうも信じられずあたりを見回す。が、皿の種類による価格差を示すものは何もない。
 疑いつつ1皿とってみると、これが実に美味い。
「本日のサービス品の馬刺しでございま〜す。」
 と声がして、続々と流れてくるが、さすが熊本県民。食べ飽きているのか、ほとんど誰も手を出そうとしない。
 これが北九州であれば間違いなくパニックに陥るはずである。家族連れの厚かましそうなおばさんが、3皿も4皿もごっそりと家族の分をがめてしまう。
「あ、あの糞ババ〜。」
 とあちこちから小声が聞こえてくるはずである。
 
 さて、月がまた満ちてきて、渓谷の夜の撮影だ。
 あらかじめ決めておいた場所があったが、数枚撮ってみたら、まったくお話にならないことが判明した。
 僕は、水辺の木々の合間から、月明かりに照らされた夜の渓谷がのぞいているシーンをイメージしていたが、渓谷の水が闇に吸い込まれてしまい、水辺らしく写らないことが分かった。
 仕方なく、撮り慣れた場所へと移動をするはめになった。

 

 2005.2.20(日) 反骨精神

 僕は、反発の塊のような闇雲に反抗したがる人間を好きではないが、反骨精神に満ち溢れた人は大好きである。今、ライブドアの堀江社長が様々に取り上げられるが、僕は好きだ。
 社会に対して非常に挑戦的であるが、話は極めて論理的であり、反骨精神に満ちている。
 写真家も、僕はどこか反骨精神が感じられる人が好きだ。

 その堀江社長のことを、M元総理が、
「お金で何でも買えるというのはおかしい。若者のそうした傾向は、ここ最近の教育の結果ではないか?」
 と語っておられたが、僕は、そういう物言いが大嫌いだ。
 一見冷静に世情を分析して、これからの社会のことを憂いているようでいて、その実は、単に気に食わないという個人的な嫌悪感でしかない。
「私はああいうタイプは虫が好かない。」
 と言うべきところを、教育などという言葉を持ち出しつつ、遠回しに自分を正当化しながら語るその語り口は、実に気分が悪い。インテリや社会的な地位がある人が、よく使う方法である。
 例えば、協調性などという言葉を持ち出して自分に従うものを正義に、そうでないものを悪に仕立てようとする。
 堀江社長の振る舞いがもしも最近の教育の影響であるとするならば、M元総理の振る舞いは、いったい何といったらいいのだろう?かつて総理であった頃に、水産学校の船がアメリカの潜水艦と事故を起こした際に、それを知りながらゴルフを楽しんでいた御仁である。
「あ〜古い教育の悪影響だな。」
 とでも分析したらいいのだろうか?
 それならば、最近の教育はおかしいと言うが、古い教育は超おかしい。
 確かに教育の影響や時代の影響は存在するのだと思う。が、それは社会全体を眺めた時の傾向であり、人の振る舞いの大半は個人の資質や問題である。

 自然愛好家の場合は、
「子供たちのために、自然を守りましょう。」
 と言いたがるが、僕はその傾向を好きではない。自分を正当化しながら遠回しに語るのではなく、なぜ、
「私は自然が好きなのです。」
 と言わないのだろうか?

 

 2005.2.19(土) 準備

 この時期
「寒波が来る。」
 と天気予報が予測をすれば、
「よし行くぞ!」
 と、僕は撮影の計画を立てる。雪がどれくらい降りそうなのか、気温がどこまで下がりそうなのか、各地の細かい予測を、インターネットで詳細に調べながら計画を立てる。
 が、2月も中旬を過ぎると、寒くなると言っても空から降ってくるものは雪ではなくて雨であることが多い。
「な〜んだ雨か。そろそろ春だなぁ。」
 と、ほんの一年ぶりなのに、とても懐かしい気持ちになる。
 同時に僕は、仕事のペースを整えようとする。
 疲れ果てた状態で春を迎えたくはないものだ。わざとちょっとだらけ気味の生活を送り、ゴロゴロしてみたり、事務所と自宅の往復に徹して、
「野山を歩きたい!」
 という衝動を高める。
「写真を撮りたい!」
 という禁断症状を春の訪れの時期に引き出すために、なるべくカメラを持たないようにする。
 また、今シーズンは何をすべきかを冷静に検討をして、それを頭に叩き込む。
 人は放っておくと、マンネリに陥る生き物である。いつの間にか、自分の型に閉じ篭って暮らすようになる。自分のスタイルを持つことは大切なことでもあるが、新しくなることも同じく大切である。
 同じ場所でばかり写真を撮っている人は、ある時から突然に上達がとまり、不思議なことに、むしろ下手になり始める。その人は、すでに死に体であり、飽きているのであって、変わる勇気を持たなければならない。
 これは、変わることを諦めることであると思い込んでいる、真面目で保守的な人に多い傾向である。
 だが、いつもテーマを変えている人も、また決して上達していないように見える。
 その塩梅が、何かを長く続けていくためには大切であると僕は感じる。

 

 2005.2.18(金) 更新

 今月の水辺を更新しました。

 

 2005.2.17(木) 書くこと

 今日は原稿を書く作業が1つ。
 何か文章を書くと、その日は文章を書くエネルギーがそこで使い果たされてしまうようで、日記を更新しようとパソコンの前に座っても、なかなか進まなくなる。
 今日は、書いては消し、また書いては消しの繰り返しで、なんと2時間も座ったままだ。僕は文筆家ではないのだから、これ以上もがくのは止めておこう。時間も大切である。
 しかし、将来は文筆家になるのもいいと、時に思うことがある。
 そのためには、写真でもっと成功して十分に名前を売る必要があるだろうが、文筆家なら、大病をして寝たきりになったとしても、ベッドの上でもできそうなところがいい。

 

 2005.2.16(水) 物造り

 気が付けば、今日はなんだか気分がいい。
 が、今朝はむしろ、気が乗らない朝であった。1つヤボ用があり、その用事は多少お金がかかり、苦痛が伴い、しかも決められた時間に出向かなければならず、かといって決して避けては通れない用事であった。
 ところが、用を済ませた帰り際にちょい車を走らせてガラス細工のお店に立ち寄ってみたら、それが良かった。
 撮影機材の改造に関する相談を持ちかけたら、気分が一気に晴れた。対応してくださった技術者の方が、物造りをする人独特のオーラを発しておられる方だったからだ。
 何かを夢中になって作っている人がかもし出す雰囲気が、僕は好きだ。

 

 2005.2.15(火) テレビの威力

 目立つことが大嫌いな僕が、昨年の夏、テレビの30分番組に出た。思いおこせば、今でも冷や汗や時には脂汗もでるし、テレビは二度とごめんだという気持ちがある反面、僕を取り上げてくださったディレクターのMさんには、感謝をしなければならないようだ。
 まず、僕の両親や恩師や周囲の者をあれほどに喜ばせた人は、Mさんをおいて他にはいない。僕がどんなに傑作を撮影しても、
「ふ〜ん、あっそう。」
 としか感じない者どもが大感激したのだから、Mさんの、いやテレビのディレクターのといった方がいいのだろうか。その力は凄い。
 しかし僕も頑固者である。
「たかがテレビに出たくらいであんなに喜んで。みっともない。」
 と当初は感じた。
 が、その後、もしもその番組がなければ接点が失われていたはずの人たちがその番組を見て、僕が元気に、そして夢中になって日々暮らしていることを知り喜んでくださったと、方々で聞かされた。
 昨晩も、小学校時代の友人のK君が、やはり番組を見ていたことを知らされた。

 K君は、たまたまお母さんと一緒に番組を見たようであった。僕とはまるで正反対。品行方正・成績優秀なK君には、僕は学校でさまざまにお世話になったが、お母さんにも時に世話になったものだ。そのK君のお母さんが、
「晋ちゃんは今好きなことに打ち込んでいるんだ!」
 と、番組を見てくださったようだ。
 目立ちたい訳ではない。テレビに取り上げられたよ!と自慢したいわけでもない。なのに、知ってもらえるということは、なんて嬉しいことなのだろう。

 

 2005.2.14(月) 褒める



 毎日日記を更新するとかなりの時間を食うが、いい事もある。まず、当たり前のことではあるが、書くことが上手くなる。
 僕の身の回りには、かつて文学にのめり込んだ経験を持つと自称する者が数人いて、中には、
「わしは昔文学で飯を食っていた時代がある。」
 などと、大ボラを吹く者までもがいるが、連中は口をそろえて、
「いや〜君は文章が上手いよ。センスがあるよ。」
 などと失礼なことを言う。
 なぜ、それが失礼なのか?
 褒めるという行為は、基本的に上の者が下の者に対してすることである。
 例えば、先生が生徒を褒める。言い換えると出来るものが出来ないものを褒める。
 つまり、生徒が褒められているのであっても、その実態は、
「それでいいんだよ。そのペースで頑張りなさい」
 と先生が生徒を指導しているわけである。
 稀に先生と生徒の関係が逆転して、生徒が先生を褒めることもあるだろうが、それは厳密に言うと褒めているのではない。
「先生凄〜い!」
 と感動をしているのである。そこには先生が生徒を褒める時のような教条的な意味合いはない。

「わしは昔文学で飯を食った。」
 などといっても、所詮今ではやめてしまった程度の情熱の持ち主が、今それを続けている者を軽々しく褒める、つまり上から指導すべきではないないと、僕は思う。
 ただ、良く似た言葉ではあるが、
「あなたの文章が好きです。」
 というニュアンスを持った言葉は非常に嬉しいものだ。中には、
「あなたの文章が好きです。」
 という言葉の代わりに、
「あなたは文章が上手い。」
 とおっしゃる方がおられるが、その場合はとても気持ちがいいし、それはニュアンスとして伝わってくるものだ。
 
 また、日記に何かを書くことで、僕はしばしば自らの退路を断つ。
「今からこれをやるぞ!」
 と公に宣言し、逃げ道を断ち、やり遂げるために日記を書くことがある。
 今日は、一昨日から取り組んでいる作業の続きである。梅雨〜梅雨明けの渓流のイメージを、本のページのようにレイアウトしてみた。

 

 2005.2.13(日) 待ち時間


 僕は、待つのが嫌な人間である。もしも渋滞にはまったら迷わず抜け道を探すし、その結果、そのまま待ち続けるよりも目的地に遅く着いたとしても、それでも全く構わないと思う。
 それくらいにセッカチな人間である。
 鳥の写真を主に撮っていた頃には、よく、
「待つのが大変でしょう!」
 と言われたものだ。だが、鳥を待つことは大したことではない。
 待ったと感じるかそうではないかは、事の大きさによって決まるものだ。例えば、仮にどこかに土地を購入して、これから新しく家を建てるとする。もしも家が3日で出来上がったなら、
「え!もう出来たの?」
 と誰でも感じるであろう。が、注文した宅配のピザが届くのに3日かかったなら、それはとんでもない待ち時間である。
 では、鳥の撮影は?
 僕は趣味で鳥の撮影をはじめたばかりの頃、プロが撮影したすばらしい作品に大変な憧れを感じたものだ。同じレベルのものを撮りたい!と日々もがいても、そんな写真は撮れなかったし、人によっては、趣味で20年野鳥の撮影を続けても、一枚もそのレベルの写真を撮ったことがない人も少なくない。
 いい写真というものはそれくらい得がたいものであるし、それを得るための数日は、長いか短いかと言われれば、短い時間である。

 さて、日頃僕にとって長く感じる時間の1つに、フィルムをスキャナーで取り込み際の待ち時間がある。ところが、並行して他の作業を進めてみると、その待ち時間はなんと短いことだろう。
 例えば、スキャナーを動かしながらお茶を入れようとする。すると、お湯が沸く前に、スキャナーは作業を終えてしまうし、慌ててまた一枚フィルムをセットしても、今度は、急須にお茶の葉を入れる間に、スキャナーはまた作業を終える。
 スキャナーに向かって、
「もうちょっとゆっくりやってもいいよ。」
 と声をかけたくなる。
 また、待ち時間は、その時の心の状態によっても、時に長く、時に短く感じるものだ。
 僕は昨日から写真を売り込むための見本作りに取り組んでいるが、気分がのっていると待ち時間が苦にならないから不思議なものである。
 そうした作業は、やりたい!と気分が盛り上がっている間に一気にやってしまうのが正しい。普段1分待ったと感じているところが、20秒待ったと感じる程度で済めば、40秒の得をするのだ。
 
 

 2005.2.12(土) 楽天的


 プロの写真家は、仕事に対して楽天的でなければならない。写真家だけでなく、プロと呼ばれる職業はみな同じではないだろうか?
 学校の先生のことを、一般の人がプロの先生と呼ぶことはないし、事務員さんをプロの事務員と呼ぶこともない。先生は先生であり、事務員は事務員である。
 日本人がプロという言葉を使う時、プロはアマに対応する言葉であり、アマが存在してはじめてプロがある。つまり、人が遊びとして取り組むことを仕事にしてしまった者を、プロと呼んでいることになる。
 元々が遊びであるのだから、楽天的でなければならないと、僕は考える。
 残念ながら、僕はまだその域には達していない。が、最近多少ではあるが、プロの心得が身に付きつつある。

 ここ最近は、撮影に出かけようと計画すると、まるでそれを狙い打つかのように、仕事が入ってきて予定変更を強いられる。今日もまさにそうであったし、1月末にもそんなことがあった。
 1月の末は、雪の撮影に出かけようとしたら仕事が入り、仕方なく出発を遅らせた。
 すると、出発を遅らせたその日に、前の週に撮影した分のフィルムが現像所から届き、フィルムを一通りチェックした結果、雪の撮影に大変に参考になることがあった。それを見ることなしに、予定通り雪の撮影に出かけるよりも、遅れて撮影に出かけた僕は、恐らく、いい結果に終わったのではないかと思う。
 また先週は、すんなり撮影に出かけたかと思えば、思いがけない金欠で帰宅を強いられた。やはり不本意であったが、帰宅を強いられた結果生じた空き時間で、フィルムの整理を完璧に済ませた。その後幾つか依頼された写真の貸し出しには、完璧な態勢で臨むことができた。
 ここ2〜3年は撮影した写真がなかなか見つからず、ありがたいはずの写真の貸し出しの依頼に恐怖さえ感じていたのだから、これはお金が続きあと2〜3日余分に撮影するよりも、気付けばはるかに大きな前進であった。
 今日は、急遽飛び込んできた仕事はすぐに片付いた。そこで、残りの時間で、ここ数年撮り溜めてきた渓流の写真をレイアウトして、本の形にしてみることにした。

 渓流の写真は、池田大作ならぬ武田大作である。写真集にまとめたいが、写真が100枚強なので、売り込み用の見本を作ろうにも半端な時間ではどうにもならない。かといって、思い入れが強い写真なので、
「本になりませんかね?」
 とポンと写真だけ渡す気にもならない。
 見本作りに取り組まなければ!と思いつつも、手が付かなかった作業を手がけてみると、またまた多くの発見があった。
 その発見を知らずして闇雲に撮影に出かけるよりも、ツボを抑え、何をどう撮るべきかイメージを固めた上で撮影に出かけることが、間違いなく今の僕には必要であっただろうと思う。渓流の写真に関しては、そろそろ、形にしてみる時期に差し掛かっていることが分かった。
 不本意なことがあっても、最近は、それがしばしば好結果に結びつくような気がする。
 
 

 2005.2.11(金) 環境を整える
 
 僕が写真を覚えたての頃にちょくちょく名前を見かけていた自然写真家の中には、今では全く名前を聞かなくなった人も少なくない。
 また時には、
「あの人は仕事が成り立たなくなって、写真をやめたらしいよ。」
 と、噂を耳にすることもある。
 出版業界は不況で非常に悪いと言われているが、そのあおりを受けた人が少なくないことは容易に想像できる。
 僕の場合は、プロになろうと決意した時にはすでに景気が悪くなりつつあったし、好景気の頃の写真業界を全く知らない。初めから一番厳しい状況で、コツコツと積み上げていく他に選択肢がなかった僕は、恐らく運が良かったのだと最近感じる。
 写真業界は結果の世界であるから、時に弱肉強食の残酷な側面を垣間見ることもある。
 僕のような凡才肌の人間が、素質だけでそこに長く生き続けることは難しいだろうから、僕は、総合力で勝負するように時に自分に言い聞かせる。

 写真の腕を磨くことは大切ではあるが、僕はそれ以上に、腰をすえて写真を撮るための環境を整えることを重視する。
 例えば、僕は仕事場を整えた。
 ボロ屋ではあるが部屋が3つあり、廊下にも一部屋分くらいのスペースがある。撮影用の照明器具を常にセットした状態で、器具に電源を入れ、被写体さえおけば、すぐに撮影できるスタジオが整っているし、そんなスタジオを2つこしらえているので、2つの仕事を並行して進めることもできる。
 仕事場から20〜30分間車を走らせれば、初夏にはアマガエルがうじゃうじゃ集まる田んぼもあるし、車で5分の距離には、特殊な撮影の際の工作に必要な道具を買える店もある。
 1〜2分歩けば食品を売っているスーパーもある。
「カタツムリが餌を食べている写真はありませんか?」
 と求められれば、15分もあれば、相手のイメージにピッタリの写真を、その場で撮影することができる。
 写真の素質ウンヌンよりも、そうした環境を整える行動力の方が、むしろ大切なのではないか?と最近感じる。天才は別にして、凡人はそこに無理があると、いずれ写真が面倒な作業に感じられ、苦痛になってしまうのだ。
 今年はカタツムリの仕事が非常に多い。カタツムリが餌を食べるシーンを、いったい何枚売ったことだろう?今日はまた新たな依頼があり、新しい写真を撮影することになった。

 

 2005.2.10(木) 論理派
 
 日頃は、我ながら非国民ではないか?とひそかに自分を疑う僕も、国際試合があるとなると、サッカーの試合にくぎ付けになる。
 昨日の北朝鮮戦は、かろうじて日本が勝利し、際どかった分、感動が大きかった。勝利のあとのインタビューは、同じものを何度も見ても実に気持ちがいい。
 やっぱり僕も日本国民だ!と実感する瞬間でもある。
 また、北朝鮮代表として出場した在日朝鮮人2人の活躍には驚かされた。2人とも外見は非常に素朴で真面目な日本の高校生くらいに見えるが、話をする様子は実に堂々としている。その態度からは、何か強い思いが伝わってくる。
 それが、背負っているものがあるということなのだろうか?ちょっと羨ましく思う。

 さて、僕の父は生き物を好きではないことは、先日書いたばかりだが、時々日常生活の中で、
「なるほどな〜」
 と、父の生き物嫌いの訳を、感じることがある。
 僕の父は、実践よりも、頭の中で物事を考えること好む。学校の教科の中では物理や数学をとても得意にしていたようである。つまり論理派である。
 何事も、理論ですっきり簡単に説明しようとする傾向がある。
 昨日は、サッカーの試合が終わった直後の監督インタビューを見た母が、
「ジーコ監督はまだ日本語がしゃべれんのね。」
 と言い出したが、父が
「ブラジル人の母国語であるポルトガル語と日本語は発音が違いすぎるから、ブラジル人が日本語をマスターすることは難しいからだよ。」
 と、まさに理論で答えた。さらに、
「日本語と英語も発音が違うから、日本人にとって英語は難しい。」
「でも、スペイン語やイタリア語と日本語なら発音が近い。日本人はスペイン語やイタリア語を覚えるのは簡単だ。」
 と、さまざまな言葉と日本語の類似点や相違点の説明が続いた。僕は、
「ふむふむ」
 と聞いていたのだが、
「ちょっと待てよ!」
 と思った。
 そんなことで、ある外国語が話せるかどうかが本当に決まっているのだろうか?
 例えば、何よりもそう語る父自身が、日本人が苦手なはずの英語を話すことはできても、得意なはずのスペイン語やイタリア語の会話ができるとは聞いたことがない。
 父の話は、もしも、日本人にいろいろな外国語を習得させる実験をしたのであれば、恐らく正しいのだと思う。
 が、実生活では、ある外国語を話せるかどうかは、その外国語が必要かどうか、教育を受ける機会があるかどうかでほぼすべて決まっていると言っても言い過ぎではないだろう。どう考えても、スペイン語を話せる日本人よりも、英語を話せる日本人の方が多いのだ。
 恐らく、選手として来日した時にすでに有名人であり、常に通訳を伴うことができる身分のジーコ監督にとっては、日本語を話す必要はないのである。
 が、父はとにかく理論にこだわりたいようであった。

 その理論がなかなか通用しないのが、生き物の世界である。生き物を知ろうと思えば現場主義でなければならない。
 もちろん、生き物の世界にも理論はある。が、生命現象は数学や物理よりもはるかに複雑で、凡人の理論が通用しないのが常である。
 恐らく論理派の父にとって、生き物は、教科書や理屈が通用しにくい大変に許しがたくて、理不尽な存在であるに違いない。
 しかし、僕はその生命現象の奥行きの深さにひかれるのだ。大体におて、簡単に割り切れない現象に興味を感じる。

 

 2005.2.9(水) 超高級デジタルカメラ

 昨年撮影した分の写真が、そろそろ本になって出来上がってくる時期が近づいている。出版に関する契約書を交わしたり、印税の話がでたり、やっとお金を手にすることが出来る。
 言うまでもなく小動物と言えば春〜夏が主な季節であり、出版もその時期に、ギャラが振り込まれるのも、また同じ時期にまとまってくる。
 ちょとだけ金持ちになったような錯覚に陥り、ふと気が付くと、身分にまったく相応しくない機材に手を出そうかと、いつの間にか検討に入っていたりする時期でもある。
 実は何を隠そう、つい先日まで、キヤノンの超最高級デジタル一眼レフ・イオス1Dsマーク2を買おうかなと、かなり真剣に悩んでいた。
 実売で80万円くらいになると思われるが、3年は使えるだろうから、年に直すと26〜7万円、月に直すと2万2千円程度である。フィルム代がかからないことを考えると、決してとんでもない値段ではない。
 が、その超高級カメラはレンズを選ぶと言われている。高価なレンズを取り付ければすばらしい絵を描くが、安物を取り付けると、安物の欠点が増幅された絵しか出てこないというもっぱらの噂である。
 すると、超高級レンズも買わなければ、超高級カメラを買う意味がない。
 そもそも、フィルム時代には、そういったレンズとカメラとの組み合わせの相性の良し悪しなどというものは存在しなかった。写真の写り具合はカメラではなくレンズの性能によってのみ決まり、あるレンズをAというカメラに取り付けても、Bというカメラに取り付けても、得られる絵は全く同じものであった。カメラの違いは、耐久性やフィーリングなどに限定され、写りには関係がないというのが常識であった。
 また、高級なレンズでも安物のレンズでも、フィルムを使用する限りは、今の時代になら写りに大した違いはない。十分に製品が熟しているのだ。。
 ところが、デジタルカメラは、構造上、レンズとカメラとの相性なるものが存在する。フィルムなら3〜4万円のレンズできれいに写るところが、超高級デジタルカメラでは20万円出さねばならぬとは、やっぱりちょっと馬鹿げているかなと思えてきた。
 高級デジタルカメラはやめて置こうと心に決めた。ニコンの高級デジタルカメラを買おう。
 
 

 2005.2.8(火) 生き物の形の意味

 重大な犯罪が起きると、犯罪心理学の専門家がどこかからテレビに引っ張り出され、様々に事件を解説する。
「この犯人は恐らく被害者とは顔見知りでしょう。動機はうらみです。単独犯だと考えてまず間違いないと思います。」
 などと、実に信憑性高そうに語る。
 ところ、犯人が割れ事件が解決をすると、まあ、なんと学者の予測の的中率の低いことか。特に、J大名誉教授のF先生の読みに至っては、僕は一度も的中したことを知らない。
 逆によく当たるのは、元警視庁捜査一課のナニナニさんといった現場の人間の読みである。いや読みではなくて、経験の積み重ねといった方がいいだろう。
 生き物と接することも同じで、何か生き物と家族のように接してみると、生き物を研究するだけではなかなか理解できない何かが、ピーンと分かる瞬間がある。

 僕はカタツムリを長く飼育しているので、現在、自宅と事務所で飼育中のカタツムリは、合計で100匹は下るまい。世話は、それなりに大変である。が、今は冬眠中なので、3〜4日に一度面倒を見れば十分である。
 その冬眠中のカタツムリの世話の際に、ケースをパッと開け、殻が地面の上にひっくり返って転がっていると、死んだかな?と、一瞬ドキッとする。生きているものは、大抵ケースの壁に殻を貼り付け、その中に胴体を引っ込めて休んでいるか、枯れ葉に張り付いていることが多い。
 そして、最近になって、「死んだかな?」と、僕をドキッとさせるカタツムリは、殻の入り口が何かの拍子に欠けてしまったものが多いことに気が付いた。
 カタツムリは、殻の入り口に速乾性の粘液を放出し、その粘液で殻を木の幹や壁に固定して、殻が固定されるとぐんぐん胴体を引っ込めて中に入り込んで休むが、殻の入り口がギザギザしていると、やはり固定したはずの殻が剥がれ落ちる確率が高くなるようだ。
 また、大人になったカタツムリの殻の入り口は、ラッパのように外側に反り返るが、これは恐らく、木や壁などと接する面積を広げ、貼り付けて固定した殻が剥がれ落ちてしまうことを防ぐためではないだろうか?
 子供のカタツムリの場合は殻の先端が伸びていくので、反り返らせるわけにはいくまいが、それ以上大きくならない大人の場合は、反り返っていた方が合理的なのだと思う。
 本当のところは、神様に聞いてみるしかないのだろうが。
 恐らく、生き物の形には、1つ1つ意味があるのだろうと思う。

 ということは、膜をはって殻を何かに貼り付けることがない水中の貝の場合は?
 インターネットでさまざまな画像を見てみたら、若干反っているように見えるものもあるが、大抵は、カタツムリほどはしっかりと反り返ってはいないようだ。
 
 

 2005.2.7(月) 空き時間

 何気に入ったレストランがとても高くて、たった一度の昼食で3日分の食費を使い果たし、帰宅を強いられたことは昨日書いた。
 不本意ではあるが、そうした思いがけない帰宅は、意外にいい結果に結びつくことが多い。そこにポッカリと空き時間が生まれ、普段はなかなか手をつけないような何かをやってみようかという気分になり、今日は事務所の整理をしておくことにした。
 まずは、フィルムの整理である。
 昨年撮影した分のフィルムはすでに整理を終えているが、僕はフィルム整理の際に、何か企画に結びつきそうなものをまとめてケースに入れ、抜き出しておくことが多い。
 ところが、それをすっかり忘れて、抜き出したままのフィルムが山と貯まってしまう。
 わざわざ抜き出すくらいであるから、それは見所のある写真であり、僕の記憶にはしっかりと刻まれている。そして、事務所の電話が鳴り、例えば、
「オタマジャクシの顔のかわいい写真はないですか?」
 と電話の向こうの声が問い合わせてくる。思い当たる写真があり、
「いいのがありますよ!」
 と僕は答えるものの、その写真がどうしても見当たらず、
「ごめんなさい。写真が出てこないのです。」
 と、断りの電話を入れる羽目になる。
 今日は、そうして抜き出したままになっていたフィルムを、本来の位置に整理し直したが、以前に見当たらなかった傑作が次々と出てくるではないか。
 また、本来はなかったはずの時間であるから、「今日はここまで終わらせなければならない」というノルマがない。ノルマがないと気分が楽な分仕事がはかどり、今まで手をつけようにもつけられないほど貯まっていた訳の分からないフィルムが、今日一日ですべて片付いた。
 これが空き時間ではなく、あらかじめスケジュール表に、「抜き出した写真の整理」などと書き込んでいたのなら、そうは仕事が進まないものだ。1日で終わるはずのものが、2日、3日とずれ込んで、4日目あたりで
「止めよう!」
 となり、またフィルムが見当たらないというトラブルに遭遇してしまうのだ。
 今回出てきたフィルムはしっかりと売り込んで、そのお金で、安いお店でも80万円前後というキヤノンの最高級デジタル一眼レフ・イオス1Dsマーク2を購入しよう!
 冗談冗談。
 写真は、なかなかこちらから売り込めるものではないように感じる。
 もちろん売り込める部分もあるが、基本的には買い手市場の世界であり、向こうから、
「こうした写真が欲しい。」
 と言ってくるのを待たねばならぬことが多い。出版関係者には二面性を持つ人が多くて、こちらから売り込んでも、その時その写真に需要がなければ極めて冷たくて、その反面向こうにニーズがあって写真を探している時には、実に腰が低いのが常である。

 

 2005.2.5〜6(日) 肥後赤牛の焼肉

 僕が子供の頃、武田家では勉強に決してお金を惜しまなかったことは、1月分の「今月の水辺」の中に書いた。
 もしも学生時代の僕が望めば、どんな国にだって留学することが許されただろう。
「ホ〜、理解のあるご両親ですね!」
 と驚かれる方は多いが、それは理解というよりも、父自身の趣味が勉強であったからといった方が正しい。父の趣味に反することに関しては、逆に非常に了見の狭い面も少なくなかった。
 例えば、生き物を嫌いな父は、僕が飼育していた生き物を、何か僕の落ち度を見つけては罰という名目で捨ててしまった。
「記録をつけるのであれば飼ってもいい。」
 と言われたことがあるが、記録をつければ、それはただの飼育ではなくて勉強になるのだから許される。
 ただ、僕は一度も記録をつけたことがない。言われて記録をつけるくらいなら、捨てられた方がマシだと感じていた。
 僕は生き物が好きなのだ。もしもピアノを弾くことを心底好きな人が、指導者に怒られ、強制され泣きながらピアノのお勉強をする誰かを見たなら、
「なんでそんな風にピアノをつまらなくしてしまうの?」
 と不思議に感じるに違いない。何よりも好きな物事に関しては、義務や教育の一環にはしたくないものである。自分自身が何か疑問を持ち、
「よし、記録をつけてみよう!」
 と思い立ったのであればいいが、
「記録をつけなければならない。記録をつけなさい。」
 という発想は、僕にはなじまなかった。
 それから、父は食べることに関してもほどんど興味を示さず、父と旅行に行くと、食事は心を満たすものではなくて、エネルギーを供給するための作業に近い、実に味気ないものであった。
 僕が注文した料理が遅くなると、
「すぐに出来るものを注文しないお前が悪い。食事はカレーライスかサンドイッチにしないさい。」
 と、怒られたものだ。
 ただ、たった一度だけ、博多にある和田門という超高級レストランで、究極の贅沢をさせてもらったことがある。20年くらい前のことだと思うが、当時のお金で一皿数千円のステーキを次々と注文しては食べた。恐らく数万円を支払ったに違いない。
 和田門のステーキは、そっと目を閉じて思い起こすとクラクラするくらいにおいしかったが、その日心行くまで食べた満足感は今でも持続しており、
「あれだけ食べたのだからもういい。もう結構。」
 と今日、この瞬間にも感じる。

 さて、昨日は僕としては珍しく食事に贅沢をするはめになった。
 氷の撮影を終え、「肥後赤牛の焼肉」という看板に釣られてお店に入ったはいいが、メニューを見て驚いた。一番安いものが3000円と、僕の3日分の食費に匹敵する価格だったのだ。
 農家風レストランというその名の通り、どうみてもレジではカードが使える雰囲気ではない。が、そこで逃げ出しては男がすたるというものだ。有り金をすべてはたいてその一番安い焼肉セットを見事平らげ、資金切れという理由で、一日撮影しただけで帰宅をするはめになった。
 
 

 2005.2.4(金) 遅くなってしまったけど

 明日は晴れるというので、今晩から、渓谷へ氷の撮影に出かけてみようと思う。
 しかし一方で、写真の貸し出しなどの事務作業が多い時期であり、また出かけるとなれば、飼育している生き物たちの世話をまとめてやっておかなければならない。今日は、暗くなる前に出発する予定であったが、夜になってもまだ仕事が片付いていない。
 取材に出かける日は、実に慌しい。
 今回は、月曜日まで撮影する時間を取ってはいるが、予報通りに明日晴れれば氷はグングン解けてしまうだろうから、撮影ができるのは明日だけになる可能性が高い。が、明日は太陽の光に照らされて氷が美しいだろう。今日は予定よりもずっと遅くなってしまったが、多少鞭を打ってでも現場に到着しておかねばなるまい。
 氷が解けてしまったら、そのあとで、どんなに努力をしても手遅れなのである。
 
 

 2005.2.3(木) 日進月歩

 ちょっと前に、ペンタックスから ist*Ds という新しいデジタルカメラが発売された。
 僕は、その前に発売された ist*D を所有しているが、新製品は、価格をぐっと抑えた、初心者向けの製品として発売された。乱暴な言い方をすれば安物である。
 その分、シャッターの感触などは、僕が持っているものに比べて悪いと言われている。ただ、日進月歩のデジタルカメラだから、後から発売されるものは、たとえ安物でも、先に発売された高級品に勝っている面が多々あるのが常だ。
 僕は、現在使用している ist*D に対しては、データをカードに書き込む速度が遅すぎるという不満を持つが、もしも新製品の書き込み速度がより速くなっているのなら、買い換えようかな?と考えていた。
 そしてある日、博多のヨドバシカメラで新製品のデモ機を触った際に、僕は嬉しくて、ついニンマリしてしまった。全く書き込み速度が速くなっていなかったのである。
「え!速くなってほしいんでしょう?」
 と思われるかもしれないが、速くなっていたら買わなければならないし、余分なお金がかかり、僕のような貧乏人には厳しい。
 だが、もしも書き込みが速くなった新製品が発売されたのなら、それを買わなかったら、
「あ〜新しいものに買い換えておけば撮れたのに!」
 といった類の後悔の元になりそうで、後悔の芽は早めに摘んでおきたい。その点、希望の製品が存在しないのなら、諦めるしかないので気楽でいい。
「貧乏くさいヤツやな〜。」
 と感じる人もいるだろうが、恐らく内心僕と同じように思う人も多いのではないだろうか?僕は、 ist*D を散々使いまくったように感じているが、よく考えれば、買ってまだ一年も経っていない。コストの面以外でも、もう少し長く使いたいな〜と思う。

 さて、今日は、ペンタックスからメールが来た。
 ペンタックスのデジタルカメラで撮影した画像を処理する専用のソフトが新しくなったので、ダウンロードしてもいいですよというお知らせだ。古いバージョンのソフトに感じていた使いにくさがかなり改善されている。
 ただ、改良版がでるのが遅すぎて、これまで実に不自由した。キャノンやニコンのようなプロが多く使うメーカーなら、とっくの昔に改良版が出て、改良版のさらに改良版といった感じで代を重ねているはずだ。
「遅い!」
 といいたい。勝手な言い分ではあるが、ただで提供してもらえるものは、早い方がいい。ただ、ペンタックスというメーカーの、一度出した製品は大切にして長く流通させるという姿勢を僕は嫌いではない。
 対照的なのはキヤノンで、どんどん新しいものに切り替わる。あまり好きではない傾向だが、悲しいかな、その開発力には参った!と言わざるを得ない面もあり、来春はキヤノンのデジタルカメラ(20D)も一台購入する予定だ。

 

 2005.2.1(火) ビギナーズラック

 昨年の11月ごろから、僕は、渓谷の夜景の撮影に力を入れている。きっかけは、星を撮りたいと思ったからで、ただ星を撮るのであれば、僕の水辺というテーマとかけ離れてしまうので、星と水辺とを合体させた結果、渓谷の夜景になった。
 ところで、僕は大学一年の時に写真を本格的に始めたが、なぜ今頃になって星を撮ろうと思いついたのだろうか?
 その理由をよくよく考えてみたら、夜が弱くて日頃早く寝てしまうこともあるが、目が悪くてコンタクトレンズなしでは星が全く見えないことが、その理由としてあげられることに気が付いた。
 ずっと星を見ていなかったのだ。
 コンタクトレンズとは高校時代からの付き合いになるが、ある日原付バイクを運転中に、ボロリとコンタクトレンズが目からこぼれ落ちたことがあった。
「あれ?失くしたかな?」
 と焦った初めての機会だった。だが、原付バイクをUターンさせ、
「この辺かな?」
 とイメージしながらパッと地面を見たら、そこに僕のコンタクトレンズがあった。
 その後、何度か日常生活の中でコンタクトレンズを紛失して出てこなかったことがあるが、何でもないところで落としたコンタクトレンズが見つからず、まして走行中の原付から落ちたコンタクトレンズが、すぐに道路上で見つかるなんて、奇跡といってもいいレベルの偶然だろう。
 僕の初めてコンタクトレンズ紛失の危機は、一種のビギナーズラックによって救われた。

 写真の世界にも、ビギナーズラックがあるように思う。そして、そのビギナーズラックは、高価なプロ向けのカメラではなくて、一般向けの安っぽいカメラからしばしば生まれているような気がする。
 例えば、全く写真に興味がない人がコンパクトカメラで撮影した雪の中での記念撮影がビシッと決まり、ハラハラと落ちてくる雪が見事に写っている写真を、僕は何度か見たことがある。コンパクトカメラは、周囲がある程度暗くなると勝手にストロボを発光させるが、そのストロボの光が、本来はなかなか写真に写らない、降っている最中の雪を写しとめた結果だった。
 ストロボを光らせると、雪がしっかりと写真に写るのだ。
 ところが、通常、風景の撮影の際にはストロボを使用しないのが原則で、プロの風景写真家にはストロボを持ち歩かない人が多く、ストロボを使いこなせる人は少ないだろう。その結果、プロの風景写真家が撮影した冬景色の写真に、降っている最中の雪が写っていることはほどんどない。
 つまり、カメラや撮影に関する常識を一切持ち合わせず、一般の人が、カメラ任せに適当にシャッターを押した結果、ただの記念写真に雪が見事に写り、それが絵になったことになる。
 では、プロ用の機材で、よ〜く考えて雪の中の風景撮影の際にストロボを光らせたら!
 それを今回試してみたら、ストロボの光の強さや向きなど、なかなかに難しいことが分かった。また同じように光らせても、雪の量、風向きによって、一枚一枚が全く違った写真になることがわかった。ほとんどすべての写真は、違和感のあるイマイチな結果に終わり、相当の数を撮らなければ絵にならないことが分かった。
 デジカメである程度撮影をして、要領がわかったらフィルムでと考えていたが、デジカメでのテストの段階で終わってしまった。
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年2月分


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