撮影日記 2005年1月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2005.1.31(月) 雪の日

 九州では、日頃車の運転中に、道路維持にたずさわる車、例えば道路用の清掃車や公団の車などを見かけると、
「大した用事もないのに何だか邪魔くさいな〜」
 と感じる。
 だが、冬の北海道あたりに出かけると24時間体制で除雪車が走り、それがなければ降雪時にはあっという間に車が走れなくなるのだから、同じ道路維持に携わる車に対して、
「実にありがたいな〜」
 と感じる。時に、除雪作業をしている人たちに対して、
「かっこいいな〜」
 とさえ感じることがある。
 北海道の人にとっては当たり前の光景なのかもしれないが、九州には除雪車が準備されている場所はほとんどないし、除雪をする体制が整っていることに対して、僕は感激さえ感じる。
 もっとも山地は別にして、九州の平地では、雪用のタイヤさえ取り付けておけば、除雪車が必要になるほど雪が積もることはない。僕が子供の頃から30数年思い起こしてみても、一度もないように思う。
 ただ、どんなに僕が雪用のタイヤを取り付けていても、雪に慣れない九州の人は、ノーマルタイヤで時速10キロ前後でノロノロと雪の上を走ってみたり、チェーンの取り付け方を間違えていたりして、そうした車が道を塞いでどうにもならなくなる。だから、寒波が来て雪の写真を撮りたい時は、前日のうちに移動をしておかなければならない。
 明日は、九州でも大雪が降ると言われているが、今日は熊本県まで移動をしておくことにした。あさっては事務所での仕事があり、たった一日の撮影になるが、滅多に降らない大雪が九州に降るというのだから、出ていかない手はないだろう。
 最終的にどこで撮影するかはまだ未定だが、どこかの渓谷で、まさに宙を舞っている雪を写真に写しとめたいと思う。

 

 2005.1.30(日) 色校正

 3月に発売予定の本の見本が、昨日の夕方、自宅に届いた。今回は、その見本を見ながら、写真の色の具合に関して注文をつける色校正と呼ばれている作業を行う。
 昨晩のうちにその作業を終わらせ、今日は撮影に出かける予定であったが、見本の色具合が大変に悪くて、色校正が今日の夕方まで食い込んだ。
 ちょっと色がおかしいぐらいであれば、
「ここをもう少し青く・・・」
 とか、
「ここはもう少し暗く」
 と文章で説明できるが、あまりにかけ離れている場合は、自分で見本のプリントを作製して、
「こんな感じに印刷してください。」
 と注文を出す以外に手はない。今日は、そのプリント作りに追われる一日となった。

 それにしても、11月末にプリンターを新しいものに買い換えておいて良かった。それまで使用していたプリンター(染料系プリンター)は、印刷をしてから本来の色に落ち着くまでに数時間を要したのに対して、新しく買ったプリンター(顔料系プリンター)は印刷直後から色がすでに安定している点がいい。
 プリントの作成はなかなか一度ではうまくいかないこともあり、同じ写真に修正を加えながら何度も何度もプリントすることがあるが、色が落ち着くのに時間がかかるプリンターを使用していると、その待ち時間で作業がとても効率の悪いものになってしまう。
 プリンターが新しくなっていたおかげで、数時間を得したことになる。

 

 2005.1.29(土) 愛国心

 先日、日本で公務員として働く在日韓国人の女性が、
「日本国籍を持たないという理由で管理職になれないのはおかしい!」
 と訴え出た裁判をニュースで知った。国籍がなくても管理職になれることが妥当なのか、あるいはそうではないのかは僕にはどっちとも判断がつかないが、その女性が放った日本国を批判する言葉の汚さが、僕にはとてもひっかかった。
 正直に言うと、不愉快だな〜と感じた。

 僕は、韓国人を差別する気持ちを持ちあわせないつもりだ。
 僕の目が切れ長であることを指して、
「お前のその切れ長の目は朝鮮系の目だから、きっと朝鮮人に近いんだろう。」
 と、子供の頃よく父に言われたし、そうした経験もあり、韓国の人に対してはむしろ大変に好意的な思いを持つ方だと思う。
 女性も、日本で活躍するタレントさんなど、韓国の人には好みのタイプが多い。と言っても、日本で活動する韓国人タレントの数は知れているので偶然かもしれないが、女子十二楽坊など中国人が12人いても一人も好みに合う人がいないし、やっぱり何か、そこに好みがあるような気がする。音楽だって、車の運転中にBOAの曲を週に一度くらいは聴く機会がある。
 だから、決して韓国人に対して排他的な気持ちを持つつもりはないが、それでも、日本を批判する言葉を不愉快だと感じたのは、無意識のうちに、愛国心と呼ばれているような、何かそういった思いが込上げてきたのだろう。
 日頃僕は大変にドライな方だと思うし、愛国心とは縁がないつもりだが、やっぱり何か持っているんだ!と自覚させられた。
 僕は、愛国心を植えつけるような教育を受けた記憶がないが、それは本来、植えつけるものではなくて、抑えようとしても自然とこみ上げてくるものなのではないだろうか?

 さて、昨晩は夜景の撮影で大分県まで車を走らせたが、薄雲が広がり、結局何も撮影することなく帰宅した。深夜の2時30分頃に自宅に帰りついたら目が冴えて眠れなくなり、テレビをつけたら、田原総一郎さんの「朝まで生テレビ」が放映されていた。
 テーマは学校のゆとり教育だった。
 僕は一人一人の個性を伸ばす教育などというものを、あまり信じていない。
 逆に、たとえ誰かが抑えつけようとしても滲み出てくる頑固さや執念深さを持った性格が個性ではないか?と感じる。むしろ、
「平凡でも何一つ恥じることはない!」
 と伝えることこそが大切だと感じる。僕は、必死に写真を撮る写真家の仲間や個性的な暮らしを送る知人よりも、平凡でも、自分の家庭がすべてだという友人の方に
「こいつには敵わないな!」
 と、凄みを感じる。
 
 

 2005.1.28(金) 慣れ

 11月に初めて夜景を撮影した際に、夜の森を一人でトボトボと歩くのを「怖いな〜」と感じたが、何度か撮影してみたら、ほとんど怖さを感じないようになった。今日も、これから夜景の撮影で大分県へと出かける。
 本来の予定では、今晩から数日間広島へと向かい、広島の山中で夜空を撮影するつもりであったが、明日、事務所でやらなければならない仕事が入り、予定を変更することになった。
 
 

 2005.1.26(水) 覚悟する

 子供のころ、僕がいつも不思議に感じていたことの1つに、山はいつ、どうやってできるのだろう?という疑問がある。学校で、石や砂は山が侵食された結果できるものだと教わったときに、それならいつか山が無くなってしまうじゃない?と感じたのがきっかけだった。
 なぜそう感じたか?というと、僕は、山ができるような地形の変化を見たことがなかったからだと思う。
 だが、もしも山が生まれるような大きな地形の変化がどこかで生じたなら、時に、想像を絶する大きな災害を伴うに違いない。新潟や東南アジアで地震の被害が相次いだが、おそらく、あんな程度では済まないに違いない。
 ところが、このまま地球が静かに静かに侵食され山が無くなれば、水も流れなくなるし、やはり人間にとって困ったことになることだろう。
 残酷で恐ろしい災害だが、地球全体の環境を考えればそれも必要なものなのかもしれない。
 作家の畑正憲(ムツゴロウ)さんが、北海道でのヒグマの事故を
「いいじゃないですか!多い年でも死ぬのは1〜2人でしょう?それくらい熊にも食べさせてあげましょうよ。」
 と語るのを聞いたことがあるが、正直な人だなと感じる。
「豊かな自然を、環境を守りましょう!」
 と口にすることは易しいが、本当にそうするためには、畑正憲さんが語ったような、「多少の犠牲はしかたがないですよ。」という覚悟も必要なのだ。犠牲が必要であることを知っている人は、たくさんいるのだろうが、それをはっきりと口に出して認めた上で、自然を大切にしましょうと主張した人を、畑正憲さん以外に僕は知らない。

 さて、僕は撮影中に、
「もしもこの崖が崩れ落ちたら僕は死ぬだろうな〜」
 となどと事故を考えることがある。それは何も特別に危険視されている場所でなくても、一般の人が入らない場所には多々あると言ってもいい。
 もちろん、事故を起こさないためにベストを尽くすが、それでもそこに出かけ撮影をするのだから、僕は、「その時は仕方ないよ。」という覚悟を無意識のうちに受け入れて、行動をしていることになる。
 また縁起でもないが、そうして自分が死んでしまった時のことを考えることもある。崩れ落ちる危険性がある崖の下で撮影しながら、
 撮影用に飼育している生き物をどう処分するか、家族は困るだろうな〜
 そういえば、カタツムリに与えたキュウリの残骸を置きっ放しにしているな〜
 今は部屋が雑然としているから、遺族に申し訳ないな〜などと、結構くだらないことが気になるものだ。

 昨年末から、いろいろと考えなければならないことがあり慢性的に疲れがたまっていたのだが、今日は、午前中にちょっと出かけただけで、僕としては珍しく、ほぼ丸一日を自宅で過ごした。特に理由ががないのに、一日を自宅で過ごしたのは、もしかしたら高校生の時以来かもしれない。
 いつもは帰宅時には疲れきっているので、自宅では何もできずにそのまま寝てしまうことが多いが、今日は部屋の整理ができた。
 事務所は仕事場なので、ある程度きれいに整理をしているが、自宅の部屋は、捨てなければならないのに捨てたくないもの(例えば古いフィルムなど)が雑然と置かれていたりして、あまりきれいではないのだ。

 

 2005.1.25(火) かっこいいポーズ

 僕はデジタルカメラマガジンを定期購読しているが、いつも表紙の写真のクオリティーを楽しみにしている。本を手にしてパッと表紙をみて、その画質がフィルムに比べてどうかを自分なりに検討する。
 その結果、デジカメはずいぶん進歩したと思うが、トータルの画質としてはフィルムの方がまだ上だなぁと僕は感じる。デジカメがフィルムの画質を越えたと感じたことはまだない。
 たった一度だけ、
「うお〜これは凄い画質だ!これはフィルムと同等だ。」
 と驚かされたことがあるが、それは岩合さんが撮影した柴犬と富士山(桜だったかも)の写真で、本に記載されたデータを見てみると、デジタルカメラマガジンであるにも関わらずフィルムで撮影されたものだった。
「なんだ!やっぱりフィルムか・・・」
 と一方でがっかりして、また一方で安堵させられた記憶がある。
 ところが、今月号のデジタルカメラマガジンでは、初めて
「これは完璧にフィルムと同等だ!」
 とデジカメの画質に対して感じた。デジカメとフィルムとではその絵作りの特徴に違いがあるので比較ができない面があるが、トータルとして僕が感じる画質の良し悪しである。
 使用されたカメラは、キャノンのEOS1Dsマーク2という一般向けのデジタルカメラの中では最高に高価な(安いお店でも80万円弱)、お化けのようなカメラであった。僕が使用しているような20万円以下のデジカメが、フィルムレベルに達するのにはもう少し時間がかかるのだろう。

 それでもデジカメを使うのには訳がある。
 画質ではフィルムに及ばなくても、その場で画像を確認できフィルム代が不要なデジカメを使用すると、納得いくまでシャッターを押すことができる。その結果、動きのある被写体の撮影では、フィルムではなかなか撮ることができない、ビシッとポーズが決まった写真が撮れる。
 今日は、メダカの稚魚を撮影したが、ご覧の通り、生き生きしたポーズに撮れた。
 これは、動き回る一瞬を撮影した画像である。どんなポーズに写るのかは、撮り慣れている僕にも、結果をみるまではほとんど分からない。
 つまり、もしもフィルムを使用して撮影したなら、山ほど撮ってみて、どれか当たっているに違いない!というような撮り方になり、いつ自分にOKを出し、撮影をやめてもいいのかの判断ができにくい。
 したがってフィルム代や現像代を考えると、たかが水槽内のメダカのこの程度の絵でもフィルムではほぼ撮れないと考えていい。フィルムでは撮れないものを、デジカメで撮ればいいのだと思う。

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今月の水辺を更新しました。

 

 2005.1.23〜24(日〜月) 自然の中で過ごす時間

 僕は滅多に人に相談を持ちかけることがない。特に、心の悩みは、人には決して話したくないと思う。
 仕事の上で戦略を練るなどという類の相談は大好きだが、心の傷を舐めあうような相談をする気には、なかなかならない。
 とても極端なケースで、もしも僕が何か心の悩みを抱え、ある日どうしようもなく自殺をすることがあったとしても、僕は、前日までいつも通りに撮影して、恐らく誰にも相談することなくそうするだろうと思う。
 仕事や金銭的な悩みであれば話は違うのだろうが、心の悩みは、基本的には、自分だけのものであると、僕は感じる。
 ただ、他人がそうでなければならないとは思わない。きっと、僕が自問自答型であり、相談型の人の気持ちが全く理解できないのだろうと思う。そう言えば、僕は色々なタイプの女性を好きになったが、1つだけみんなに共通点があり、それは、自問自答型で自分で考えてくれるタイプの人だった。例えば、
「私の彼氏がね・・・」
 と誰かが僕に相談を持ちかけたとしても、僕は逆にその相談者の気持ちの方を疑う。
「あなたは相談していいかもしれないけど、相手からしてみれば、自分のプライバシーを他の誰かに相談されるなんて大変な疎外感を感じるかもしれないよ。」
 と。また、
「なんで自分で考えないの?」
 と、僕はそんな気持ちになるのだ。

 2004年12月分の今月の水辺で紹介した場所に、昨晩、また行ってみることにした。前回撮影した写真に若干不満があり、撮り直しをしたくなったのだ。それから、20日にオリオンを撮影した画像を掲載したが、その際に
「オリオンってきれいだな〜」
 と感じ、そのオリオンがこの場所に現れるところを撮りたいと思った。
 が、試してみるとなかなかに難しいことが分かった。下の画像は、上の画像から約45分後だが、月の位置の関係で、滝の周囲の岩場が真っ暗になり雰囲気が描写できていない。日が落ちてからずっとシャッターを押していくと、滝の雰囲気を写し取れる時間帯は、ほんのわずかな時間であることがわかった。
 つまり、ただオリオンが移動するのを待てばいいのではなく、月の位置とのからみがある。僕の予測では、明日の夜にベストのタイミングが訪れるような気がしているのだが・・・・。

 僕が人に相談をする必要がないのは、僕のタイプもあるだろうが、こうして自然の中で過ごすことができるからかもしれない。自然の中で過ごす時間は、美しい、怖い、寒い、暑い・・・・いろいろな感動で満ち溢れていて、それ以外の考えるゆとりを与えてくれず、僕を無にしてくれるのだ。

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 2005.1.22(土) 新聞社のカメラマン

 ちょうど去年の今頃、友人を通して、M新聞社のカメラマンであるYさんから、
「カメラマン向けの保険を立ち上げたいので、話を聞いてもらえないでしょうか?」
 と打診をされた。友人の仲介でもあるし、話を聞くことにしてお会いする日時を約束したのだが、その際に
「急用が入ることもあるので、約束の4〜5日前に再度確認の連絡をします。その時に約束を確定しましょう。」
 とYさんの方から提案があった。ところが、確認が入るはずの日を過ぎても連絡がない。とうとう約束の前日になったのに、それでも音沙汰がない。
 翌日、僕は相手を待つべきか、それとも自分のスケジュールで撮影に出かけるべきか検討した上で、約束を違えたのは相手なので待つ必要はないだろうと考え、撮影に出かけた。
 やがて僕の携帯が鳴り、
「今日は会う日では・・・」
 とYさんがおっしゃるので、
「確認の連絡がなかったので、キャンセルだろうと判断しました。ではさようなら。」
 と答えたら、
「申し訳ありません。そこを何とか・・・」
 とおっしゃる。僕は、急ぎ帰宅をすることになった。Yさんによれば、新聞社のカメラマンには何があるか分からないので、直前まで約束ができず、それで確認の連絡を入れることができなかったのだそうだ。
 しかしまあ、なんと変な話であろうか。
 話を聞いてくださいとお願いにくる側の人が、
「私は忙しい身なので約束が出来ないのです。」
 とおっしゃるのだ。

 Yさんの話の内容は、こうだった。
「今はM新聞でカメラマンをしていますが、将来はカメラマンをやめ、カメラマン向けの保険の仕事一本で行きたいと思います。私のすべてをかけます。」
「なんといってもカメラマンはきわどい職業であり、機材や自分の生命も含めて、なかなか保険に入ることが出来ません。ところがなんと!今回私が立ち上げる商品は、そのカメラマン専門の保険なのです。信じられないようなお買い得なものです。」
 さらにYさんの話は、
「最終的には、カメラマンを目指す人のための奨学金の立ち上げや、機材のトラブル時に代替機を貸し出すボランティアも考えています。とにかくみんなに気持ちよく仕事をさせてあげたいのです。」
 と続いたのだが・・・
 そもそも、保険は安心を売る職業であるにもかかわらず、自分の都合で約束をたがえるような生活を送っている人に、企画を成り立たせ、販売まで漕ぎつけることができるのだろうか?ましてボランティア的な奨学金その他など、僕には考えられなかった。
 それでも最後まで話を聞いたのには訳があった。
 Yさんの保険は個人では入ることができず、信用の置ける団体のメンバーのみが契約できる仕組みになっていた。Yさんは、僕が所属する日本自然科学写真協会の会員を対象にして案内をしたいと望んでおられた。
 つまり、僕には全く興味がない話でも、他の会員の方の機会を僕が勝手に奪うことはできまい。またYさんは無責任な人でも、ちゃんとした保険会社の商品としてそれが発売される段階まで漕ぎつけることができれば、魅力を感じる人がいるかもしれない。僕が最初に話を聞いた上で、日本自然科学写真協会の総会の際にでもYさんをお呼びできるように僕が尽力してみましょうという話しになっていた。
 事務所からの帰宅の際に、
「それでは日本自然科学写真協会で話ができるようにお願いします。数日中に資料を作り、まずは武田さんにお送りします。」
 とおっしゃったYさんだが、その後、またもYさんからは連絡がなかった。恐らく、保険の立ち上げ自体がボツになったのではないだろうか?
 
 Yさんに限らず、新聞のカメラマンや記者には、「俺は新聞社のカメラマンだ!だからしかたがないんだ。」ということを言い訳にした無責任さが多々見受けられるように思う。彼等は、いつも近寄る時にだけ調子がいいことを言って、用を達すれば無責任である。
 ちょうど今、NHKと朝日新聞とがもめていて真相はまだわからないが、報道全般を聞いた範囲では、朝日の記者の強引過ぎる手法であったような印象を受ける。
 新聞社のカメラマン全員がそうではないが、彼等は、同じカメラを手に仕事をする立場でも、僕にとっては非常に反りが合わない人種である。

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 2005.1.20(金) いや〜恥ずかしい

 先々月から取り組んでいる水辺の夜景の撮影に出かけた。今回は、谷間の夜空を横切るオリオンを撮影してみた。

 僕は、夜景の撮影に関してはど素人なので、まだお試しの段階ではあるが、どんな条件でどう写せば、どんな仕上がりになるのかが多少わかってきたように思う。
 それから、夜空のことも少しは詳しくなった。
「え!」
 と思われるかもしれないが、僕は月というものを全く理解していなかったし、興味もなかった。
 だいたい僕は、子供の頃に学校で授業に耳を傾けたことがほどんどない。大抵は空想の世界に入り、自分が好きなことを考え、テストは、試験の前に自分一人で教科書を読み、すべてギリギリのところでクリアーしてきた。
 だから、きっとどこかで勉強する機会があり、それを僕が聞いていなかっただけなのだろうが、月は毎月25日くらいに満月になり、一ヶ月単位で満ちたり欠けたりしているのだ。
「そうか〜、ひと月というのは、月が一度満ち欠けする期間なのか!」
 と、今頃そんなことに気付き、驚き、そして感激するはめになった。
 いや〜恥ずかしい。
 正確に言うと、知らなかったわけではないが、それはひと月という言葉の起源であり、現在の暦でもそうなっているとは知らなかったのだ。
 しかし、子供の頃に聞いていなくて良かったとも思った。きっと授業で聞かされても、ふ〜んとしか思わなかっただろう。それが、今必要に迫られて、「いつが満月だ?」と自分が知りたくて、その過程で得られた知識は、実に感激に満ちていた。

 僕が、なぜ夜景を撮りたくなったのか?といえば、それはやはり、夜空を美しいと感じるからだ。美しいと感じるから写真に撮りたい。写真に撮りたいから知りたい。知りたいから知識が楽しいという流れが、僕の心の中にあった。
 自然写真家の中で知識派の人には、美しく撮ることを軽んじる人も少なくない。しばしば、情緒的に撮られた写真をさして、
「この写真は美しいだけで、意味がない。」
 と批判する傾向にある。が、僕は両者を切り離したくない。僕にとっては、自然を美しく感じることと、自然を知りたいと思う気持ちは、一つながりのものなのだ。その過程で、美しいだけの写真もあっていいと思う。
 ただ、
「写真は芸術性、美しさがすべてだ!」
 と主張する人には、
「違う!」
 と僕は答える。

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 2005.1.20(木) 小道具

 今月の水辺を更新しました。

 時に撮影用の機材を自作しなければならないことがあるが、今日は、車の窓枠に大きな望遠レンズをレンズを固定するための小道具が完成した。
 窓をあけ、車の扉にカポッと画像の道具をはめ込み、その上の雲台と呼ばれている部分にレンズを固定して、車の中から野鳥を撮影する際に使用する道具だ。
 以前から同じような道具を使用しているのだが、車が変わったので、新しい車の扉の幅に合わせて作り直さなければならなくなった。今回は、運転席用と後部座席用の2つを作成した。

 作成の方法だが、まずは、上の画像のようにアクリル板で模型を作る。アクリル板は、専用の道具を使えば曲げることができるので、一箇所ずつ曲げていき、車の窓枠にピッタリフィットするように作成する。あとは、金属加工ができる工場にお願いして、同じ形の金属を作ってもらう。今回お願いした工場は、インターネットで検索して探したのだが、1つ4000円で作ることができた。
 以前は、ワゴン車の車内に三脚を立てて撮影するようなこともあったが、やってみれば分かるが、とても不器用なやり方で、決していい方法とはいえない。
 ちょっとした小道具が、撮影をずっと有利にしてくれることもある。

 

 2005.1.19(水) スパルタなお店

 僕は日頃あまりたくさん食べる方ではないし、豪華なものを食べる方でもない。ただし、寒い場所で撮影したあとだけは別で、時には、食事を二人前注文したり、豪華に焼肉を食べることもある。
 昨日もそんな気持ちになったので、熊本県の阿蘇にある炭火焼のお店で、地鶏の炭火焼定食を注文することにした。

 熊本〜大分あたりの炭火焼のお店には、鍋奉行ならぬいろり奉行のような店長さんが多くて、
「地鶏の焼き方はね・・・」
 と食べる前に指導を受けねばならないことがあるが、特に昨日のお店のおばちゃんは、その指導が実にスパルタ並で、たいへんに厳しかった。
 うかつに、雑に肉を焼くことなど決して許されぬ雰囲気が、お店には漂っていた。
 ところが、肉を焼いていると仕事の電話がなり、電話に気を取られた僕は、肉を炭の中に落としてしまった。が、あのスパルタな雰囲気の中で、その肉をそのまま放置したり、拾い上げても残す勇気がある人は、滅多にいないことだろう。
 僕は慌てて肉を拾い上げ、焼けば大丈夫だろう!と泣く泣く肉を網の上に載せ、こびりついた炭の粉を箸で払いながら肉を焼き、その肉を食べるはめになったのだ。

 さて、そこまでしてでも取らねばならなかった仕事の電話は、新しい撮影の依頼だ。ただし、今回は写真が使われる補償はない。
 使われるかどうかはわかりませんが・・・・という実に奥ゆかしいカタツムリの撮影の依頼なのだ。今日は、カタツムリをぐるりと360度、いろいろな角度から撮影した。

 

 2005.1.18(火) 冬の撮影

 昨日の画像の凍りついた小さな滝は、駐車場に車をとめて40〜50分間登山道を歩いた場所にある。標高は1000Mを越えているのではないか?と思う。
 途中に、かなりの急斜面を登らなければならない区間があり、雪がたくさん積もっていると滑りやすく、なかなか疲れる場所だ。
 滝の周辺で存分に撮影しようと思うと、川を渡っていいポジションに立たなければならないし、胸までの長さの釣り用の長靴が欲しくなる。
 が、撮影機材もたくさん持っていきたいし、歩いて40〜50分と言っても冬山の雪の中で事故があってはならないので、非常食やそれなりの備えも持たなければならない。何を取り何を捨てるか、その選択がなかなか悩ましい。
 休日なら、登山客がたくさん通るので、非常食までは考えなくてもいいかもしれないが、平日にはほとんど人が歩かないし、昨日もとうとう誰ともすれ違うことがなかった。
 僕は昨日、撮影機材をたくさん持つために、釣り用の長靴をバックに詰めるのではなくて最初から履いて歩いたが、歩きやすい登山靴に比べれば、倍以上疲れる感じがする。
 おまけに昨日は、ちょうど出版社からの電話があり、滝へと降りる道を見過ごしてしまい、その後、虫の撮影に夢中になりふと気がつくと、駐車場から40〜50分のところを、2時間も雪の中を歩いてしまった。慌てて引き返して滝を撮影して、車に戻ったのは夕刻であった。
 雪の中での山や渓谷の撮影は、見た目よりもずっと苦労が多い。自分で撮ってみると、大したことがなさそうな写真さえも、なかなか撮れないものだ。
 僕が所属する日本自然科学写真協会の写真展・SSP展は、毎年一度各地で開催されるが、さまざまなジャンルの自然写真が展示される。山や風景の写真に関しては、圧倒的に冬の写真が多くて、僕にはどれもこれも同じような写真に見えてしまうのだが、それでもみんなが冬山の写真を選ぶのは、冬山は絵になるということだけでなく、根性なくしては撮れないという撮影者の苦心がそうさせるのかもしれない。

 今日は太陽が出たので、氷がぐんぐん解け始めた。気温が上がり暖かいと、体力的には楽になるが、木や岩場から落ちてくる水しぶきがすごくて、機材もろともずぶ濡れになってしまう。

 

 2005.1.17(月) 虫はすごい

 昨日、取材先の駐車場で休んでいると、
「昆虫写真家がテレビに出ているよ。」
 とメールが届いた。昆虫写真家とは海野先生のことで、動物奇想天外の再放送が放映されていた。海野先生が出演している番組が放映されると、よく誰かが連絡をしてくれる。
 メールには、
「ムシごろうさんみたいだ。」
 と書かれていたが、おそらく海野先生の雰囲気が、ムツゴロウさんこと畑正憲さんと似ていると感じ、ムツゴウロをムシ(虫)ゴロウにもじったのではないだろうか?確かに、一般の人がパッとみて、
「何か普通じゃない!」
 と感じ取れる雰囲気が海野先生にもムツゴウロさんにもある。
「虫が好きな人ってすごい。」
 とメールは結ばれていた。

 虫が好きな人はすごいが、虫もすごい。 渓谷の水が凍るような寒い日に、雪の上を歩き回る虫がいるのだ。

 

 2005.1.16(日) 冬の九州

「冬の北海道に出かける。」
 というと、
「え〜大変ですね!」
 という人が多いが、実は北海道は実に取材がしやすい。まず、冬の北海道では、多くのトイレが暖房完備で、中にはお湯が出る公衆便所までがある。天国である。
 一方で九州は?というと、山間部のトイレは「凍結のため使用できません。」とシャッターが下りているような場所もあり、車内泊ができる場所が限られてくる。少なくとも、水が凍らない麓まで移動しなければならない。また、その他の面でもほとんど何も雪に対する対策がなされていないので、例えば、北海道でもお目にかかれないほど見事に道路が凍っていたり、冬の九州の山間部は時に苦心させられる。
 今日は、大分県の山間部で、明日の撮影のための下見をした。

 今日は、車で下見をしただけなので、日記を更新するのをやめようかな?と思ったが、ふと、パソコンが新しくなったことを思い出して、更新してみることにした。システムが変わると往々にしてトラブルがおきるものなので、何でもないときに確認しておこうと考えた。
 これまで使用してきたウインドウズ98搭載のパソコンが、最新のものになったのだが、やはり快適に動くし気持ちがいい。あとは、携帯電話の高速回線化が進めば完璧だ。取材中にちょっと調べたいことができた時に、快適にインターネットで調べることができるだろう。
 現在は、インターネットに接続した際に、画像を表示させない設定にしておき、文章を読み、必要な画像のみを手動で表示させているのだが、そんな面倒なことも必要なくなるはずだ。
 
 

 2005.1.15(土) 予定の変更

 午前中で終わるはずの事務所での写真選別の仕事が、なんと夕方までかかってしまった。そうした予定変更はいつものことではあるが、「早く出かけたいな〜」などと考え始めると、やはり堪える。
 ただ、今日は結構激しい雨が降った。
「それなら、事務所でいいじゃないか!」
 と思える。また、明日グッと冷え込むなどと言われれば、
「よ〜し、今晩のうちに山に出かけて、渓谷で氷を撮るぞ!」
 と、またウズウズしてくるのだが、特に冷え込む様子もない。明日朝起きて、ゆっくりフィールドにでて、楽に被写体を探せばいいだろう。

 

 2005.1.14(金) 仕事始め?

「出版社は、もしかしたら今日が仕事始めか?」
 と、疑いたくなるほどの電話ラッシュの一日だった。
 打ち合わせが重なり、非常に慌しい。
 明日から、フィールドに出かける予定だが、午前中までは、事務所で仕事をしなければならないだろう。

 

 2005.1.13(水) そうでなければ出来ない

 地元の人というのは、つい応援してしまうものだ。ちょうど今、大相撲の世界では、僕と同郷の魁皇関が横綱取りにチャンレンジしているが、やはり気になる。僕は横綱にならないくていいと思うが、若の花や貴の花のように極端にチヤホヤされて、変にマスコミにたたかれることなく、穏やかな時間を送って欲しいな〜と、同郷の人に対して感じる。

 福岡にはプロ野球の球団があるので、野球もつい応援する。プロ野球にはセリーグとパリーグがあるが、福岡のホークスは人気がない方のパリーグに属する。
 昔、パリーグに福本さんという素晴らしい記録をもった選手がおられたが、パリーグは人気がなく、ほとんどの人が名前だけで顔を知らないことを利用して、あかの他人が、
「あの福本です。」
 と名乗り、飲み屋で、つけで派手に飲み食いする犯罪があったように記憶しているが、パリーグの選手の認知度と言えばだいたいその程度である。
 ところが僕の場合は、ホークスを応援する結果、他チームの選手の顔と名前も一致するようになり、時には、その中に、素晴らしいな〜と感じる人が出てくる。最近僕がそう感じるのは、近鉄から新球団の楽天に移籍した岩隈投手という、昨年一番いい成績を残したピッチャーだ。
 まだ若くて20代前半の選手だが、大変に家族思いで、野球よりも断然に家族と過ごす時間が大切で、子供の世話をするのが何よりも楽しいと公言しておられる。
 何かに打ち込んでいる人は、僕自身も含めて、しばしば家族を犠牲にする傾向がある。自分がどうしても打ち込まなければならず、家族がひたすらに支えるという構図ができやすい。言葉は悪いが、家族が家政婦さん化する。
 そして、
そうでなければ出来ないから。」
 と主張する。
 が、本心を言えば、自分が自分のエゴとして趣味の仕事に打ち込みたいのであり、時には家族も犠牲にせざるを得ない、そうでなければ出来ないというのは、いい言い訳なのだ。ただ写真にせよ、特殊で他人には分かりにくい仕事は、そうでなければ出来ないという言い訳が通用しやすくて、それについ甘え、そのうち板についてくる。
 逆に、家族を大切にしなければならないから、仕事に打ち込むことが出来ないと主張してしまう人もいる。が、それも恐らく逃げるための言い訳である。
 一般的に言うと、打ち込まなければならない類の仕事をする人のうち負けん気の強い人は、周囲の人を家政婦さん化して突き進み、気の弱いところがある人は、周囲の人をたてるふりをして、立ち向かうことから逃げる。

 が本当は、大抵の場合、仕事に打ち込むことと家族を大切にすることは(もちろん多少はぶつかり合うだろうが)何でもなく両立できるのだと思う。
 打ち込むものが仕事ではなくて冒険だったなら話は別だが、仕事は、長い期間継続しなければならない性質のものである。毎日毎日何十年間も、その人の限界ギリギリいっぱいに動き回るなんてあり得ない。それなりのペースで成り立つものであり、その中に、家族を大切にする時間が作れないはずはない。
 最近、その岩隈選手がよくインタビューに取り上げられるが、仕事と家族を両立するなどということも考えずに、無心になって野球に打ち込み、当たり前に家族を大切にしているような印象を受け、
「なるほどな〜!あんな風に、力まずに、穏やかに、自然体で取り組めばいいんだな〜」
 と、見本を見せられたような気がしたのだ。また、そうでなければ、本当にいい仕事なんて出来ないのではないだろうか?
 
 

 2005.1.12(火) 新しい仕事

 昨年は、3月くらいから、なんだか原因不明でイライラして、カッカする感じがした。理由はずっと後になって分かったのだが、昨シーズン分として請け負った仕事の量が多くて、そのすべてを本当にこなせるのだろうか?という不安だった。
 人によって感じ方が違うだろうが、僕は、質の高い写真を撮らねばならぬことよりも、たとえ20〜30ページの小さな本の撮影だったとしても、必要な写真をすべて一通り撮影して揃えなければならない量の方が、断然に負担に感じる。
 どんなにただ写っているだけの写真であっても、どんな身近な生き物であっても、その生き様を一通り見て、写真におさめることは大変に難しいと思う。
 が、僕がこれからガンガン仕事を続けていくためには、不安になるくらいの量にチャレンジしてこなすことも、時には必要だろうと思う。

 僕が昨年請け負った仕事の大半は、もしも僕が撮らなければ、他の誰かの写真が使われたはずだ。その他の誰かは、現在の自然写真界のメンバーを考えると僕よりも年下である可能性は非常に低くて、もしも僕が存在しなければ、その売り上げは、誰か先輩の口座に振り込まれたはずだ。
 つまり、僕が先輩のシェアーを奪ったことになるし、これからももっとたくさん奪わなければ、僕は暮らしていくことができなくなる。
 相手は、僕よりも経験があり、人脈があり、腕がよくて、お金もたくさん持っていると考えるのが素直だ。僕が勝てるとしたら、臭い言葉ではあるが若さ以外にはない。そうした、ほとんどの点で自分よりも勝っている相手のシェアーを奪うためには、ある時期無理も必要ではないかな?と僕は考えている。
 ただ、そればかりでは息切れしてしまう。毎年、イライラ、カッカして、気力と根性で写真を撮るなんて馬鹿げている。今年は、昨年よりも少ない仕事を、極めて丁寧にやってみたい気がする。

 さて、今日は、今年に入ってからの、最初の撮影の依頼がきた。
 僕がもっとも得意とするジャンルではないが、どうしようもなく苦しみそうな撮影でもない。また、依頼してくださった方は大変に写真家の気持ちをよく理解できる方で、円滑に、気持ちよく仕事ができることは間違いない。また、その仕事そのものの儲けは多くはないだろうが、その際に一連の流れでついでに撮影できる画像は、それなりに利潤を生んでくれそうな被写体である。
 だから、何の不足もないが、それでも、やりませんか?と言われて、
「はい、やります。」
 と答えるのは、一瞬決意が必要になる。
 
 

 2005.1.11(月) 丸見えだよ!
 最近のデジタルカメラで撮影された画像には、画像以外にも様々な情報が含まれている。例えば、撮影された時間や、カメラの機種名やレンズの焦点距離、撮影時のカメラの細かい設定などである。
 先日、「クマゼミの交尾って朝の何時ごろだったかな?」と、自分で撮影したデジカメ画像を調べてみたら、どう考えてもおかしな時間が記された画像が含まれていたが、そう言えば、ちょうど僕のデジカメが故障をして、数人の知人にカメラを借りて撮影した時期だったので、その中のどれかの時刻設定が狂っていたのだろう。
 ともあれ、よく考えてみたら恐ろしいことでもある。WEB上で閲覧できる画像で、
「これどうやって撮ったのかな?」
 と疑問に感じたなら、それを自分のパソコンにダウンロードして、データを見ればいいのだ。つまりそうした情報は丸見えだし、何を隠そう、僕もたまに人様のデータを見せてもらっている。
 もちろん、消す方法もあるだろう。が、それは、なんとなく正々堂々ではないような気もするし、データを消した結果、
「この人、撮影時に、人に見られたくないやましい操作でもしているのかな?」
 と疑われかねない。

 また、逆に、そこには記憶されない情報もある。例えば、どこで撮影したかや何が写っているかは、撮影者の記憶に頼らなければならない。が、場所に関しては、そのうちGPSデジカメなどというものが登場して、経度や緯度までもが記録される時代がくるのかもしれない。そうすると経度や緯度から地名を割り出すソフトが発達して、カメラのデータとして、撮影場所・福岡県の直方市などと表示されるようになるかもしれない。
 しかし、僕はちょっと困る。例えば、友人から送ってもらってうちのスタジオで撮影したサッポロマイマイの画像などは、疑われてしまうだろう。
「え!これサッポロですか?」
 と。
 そのたびに、
「いやいや、北海道から送ってもらったものを九州で撮影したのですよ。」
 と説明せねばなるまい。それとも、そんな時代がきても、室内やスタジオ内にはGPSの電波は届かないのだろうか?
 僕は、そのデジカメのデータの中に「備考」などというような欄が2〜3つあり、そこに関しては、パソコン上で自在に書き込みができるようになったらいいのにな〜と感じる。現在でも、フォトショップのCSを使用すれば、ファイル情報に自分なりの記述を加えることができるが、いちいちフォトショップで画像を開かなければならないので、なかなか面倒だ。

 画像を整理していると、思いがけないものが写っていて驚かされることがある。今日は、殻に閉じこもったカタツムリを撮影した画像に、カタツムリの目が写っていることに気付いた。
 この画像を自分のパソコンにダウンロードして、一般的なデジカメに付属している画像閲覧ソフトで見ると、どこかに画像の日付他が表示されることが多いと思うが、この画像は昨年の5月に撮影したものだ。今頃、そんな面白いものが写っていると気付いた。
 きっと撮影した時は忙しくて、画像を良く見なかったのだろう。
 
 

 2005.1.10(月) 子供たち

 北海道のある池に生息しているブラックバスを調べたら、かなりの割合で比較的最近に放流された魚が含まれていたと、今朝の新聞で読んだ。ある魚がいつ放流されたかを調べる方法の詳細は、化学の知識が必要であり面倒なので書かずにおくが、同じような場所が他にもあるのだそうだ。
 すでに日本に居ついているブラックバスにどう対処すべきかは、
「駆除すべき。」
「いや、ブラックバスは今や日本の魚の一員であり認めるべき。」
 と様々あるが、僕は自分の意見を持ち合わせていない。ただ、新たに魚を移動して別の場所に放流する行為は、絶対に許す気になれないし、もしも僕の知人がそのようなことをしたら、二度とその人とは口をききたくなくなるだろう。
 それからあと1つ、
「ブラックバスを認めるべきである」
 という意見の中に、どうしても納得ができないものがある。それは、
「ブラックバスは、釣りを通して子供たちが自然と接する機会を作ることに多大な貢献をしている。」
 という意見だ。釣り好きで有名な某タレントのS.Kさんなどがそうした意見をテレビで話すのを耳にしたことがあるが、
「本当にそうですか?」
 と問いたい。子供たちというのがひっかかる。
 福岡県北部にも遠賀川や久保白ダムのようなブラックバス釣りのメッカのような場所が数箇所あるが、どこに行っても釣っているのは子供たちではなく、圧倒的に大人だからである。これはブラックバスに限ったことではなく他の釣りでも対して違いはない。いい大人が場所を独占して、大変に排他的な振る舞いをしている。まさに大人のエゴ丸出しの世界ではないか?と、僕は感じる。
 僕は、時にエゴ丸出しでもいいと思う。が、子供のために・・・という都合のいい大義名分はやめて欲しい。
「子供を担ぎ出すのではなく、俺はバス釣りが好きだと言ってみろよ!」
 と言いたい。釣りだけではない。プロ野球も同じではないか?
 昨年はプロ野球のストがあったが、
「野球で子供たちに夢を・・・」
 と多くの人が訴えた。が、プロ野球が好きで盛り上がっている人の大半は、オヤジ連中ではないか?すぐに子供たちのためという言葉を持ち出す人に対しては、偽善者か?とまず疑った方がいいだろう。

 ただ、僕は自然写真を撮っていて感じることだが、やはり自然は大切だと思う。また、自然を大切にしていくためには、子供の段階で深みのある、40年も50年もその人の中で生き続けるような教育が必要だし、それ以外に、今の日本でできることはほとんどないように思う。
 そうした教育が、ブラックバスを釣って楽しいというようなことで可能なのだろうか?僕は、バス釣りを通して子供たちに自然を・・・という意見は、実にくだらない意見だと感じる。

 

 2005.1.8(土) ポータブルHD

 今日は昨日までとは一転して、博多へ買い物に出かけた。ポータブルタイプのハードディスクを購入することにした。その中に、僕の主なデジタル画像を保存しておき、遠征中でも依頼があれば車の中でCDを焼き、画像の貸し出しができるようにするのだ。
 今回購入したハードディスクは80Gである。
 ポータブルタイプなので、パソコン本体から電気が供給され、コンセントは必要ない。車内に寝泊りして取材をする場合、車のバッテリーを変換して電源を得るが、その容量の関係で幾つもの電気製品を同時に使用することができない。大体パソコン一台起動すると、他は何も使わない方がいいという感じになる。したがって、電源不要はありがたい。
 80Gあれば、かなりの画像を納めることができる。

 さて、今日は、80Gで一番安いものを買おうと決めてから出かけたが、お店に行ってみると、一番安い機種の相場が24000円台であると分かった。
 ところが、その中にたった1つだけ22000円の箱がある。
「???」
 箱を調べてみると、品番は24000円のものと同じだ。箱の外見も全く違わないのに、なぜか1つだけ価格が安い。値札のつけ間違いだろうか?
「これって、本当は24000円の間違いですよね?」
 と、それをレジで自己申告すべきか迷ったが、僕がどこかから安いラベルと持ってきて貼り付けたわけでない。その安い箱を、黙って持っていくことにした。
 レジでは、何だか悪いことをしているようでドキドキした。が、レジのお姉さんからは、
「19800円です。」
 とさらに安い価格を言われた。いったい何だったのだろう?なぜ安いのかも分からないまま帰宅した。
 あれだけ申告すべきかどうか真剣に迷ったのにな〜

【お知らせ】
僕が所属する日本自然科学写真協会(SSP)
ホームページに、一般の人が閲覧できる掲示板が設置されました。掲示板の中で写真の撮り方や生き物に関して質問することもできます。SSPには、いろいろなジャンルの自然写真家が所属しており、専門の方に答えてもらえることもあると思います。是非、ご利用ください。
 
 

 2005.1.7(金) 岩の起伏
 学生時代の知人のSさんが、あまりに紀宮さまに似ているので、
「お前は今日からSではなくて、サーヤだ!」
 と冗談を言ったら、
「そ〜か〜???私はあんなにおっとりじゃないぞ!」
 と言う。
「いやいや。似ていると言えば顔でしょう。」
「あ〜それなら私は鶴田真由に似ていると言われたことがある。」
 と、実に本気の答えが返ってきた。
 誰に似ているだとか、何に似ているだとか、何系だなどという判断は、人によって感じ方が様々なので当てにならないものである。僕はお見合いをしたことがないが、例えば、
「お相手の方は、お嬢様系ですよ。」
 などと言われたら、ある男性は紀宮さまみたいなタイプの人をイメージするかもしれないし、僕なら、矢田亜希子さんみたいな人をイメージして、胸を躍らせるに違いない。
 が、百聞は一見にしかずである。

 その百聞は一見にしかずではないが、撮影の際に、実際に行ってみて、自分の目で見てみなければわからないのが雪である。
 雪がドッカリ降り積もると絵になるような気がするが、実際は何もかも埋もれてしまって、面白くないことが多い。だが、昨日のオシドリの写真のように、辺りが雪に埋もれたからこそ撮れる写真もある。
 また、西日本では、一日の間に、かなり雪の量が変化する。朝、「うぉ〜今日はいいぞ〜。」と感激しても、日が昇り気温があがるにつれて、グングン雪が少なくなり、がっかりという日もある。
 雪を撮りたい時は、天気予報をみて、あ〜だこ〜だと考えるよりも、とにかく行ってみて条件が悪いと思っても歩いてみるのが一番いい。

 さて、今日は、比較的気温が高かった(2度くらい)こともあり、あっい間に雪が解け始めた。
 が、何気にシャッターを押してみて、
「うん。楽しい!」
 と感じた。
 渓谷を撮影するといつも感じるのだが、渓谷の岸辺には崖があったり、その崖に小さな川が流れていたり、デコボコが多いのに、写真にはなかなかその起伏が写らない。
 ところが、今日は雪が所々に残っていたため、岸辺のデコボコが比較的良く分かる。
 今日の画像の対岸には、雪が縦に筋状に残っているが、そこはちょっと谷になっていて、恐らく大雨の時などは支流になるのだろうが、そうした岸辺の状況が、わずかに残った雪のお陰で分かるのだ。手前の岩の起伏も、雪のお陰でよく分かる。
 いつも写らないものが写ると、嬉しいものだ。
 
 

 2005.1.6(木) 落穂拾い
 僕は、自分のペースをきっちり守りたいタイプである。多少の出来事があっても、いつも通りに過ごしたい気持ちが強い。正月だからと言って特別な物を食べたくないし、楽しいときも、辛いときも、とにかくいつも通りでありたい。
 昨年末に、自宅で夕食を食べようと思ったら、そばが出てきたので、
「ご飯ないの?」
 と言ったら、
「大晦日は、年越しそばに決まっている。手がかかり過ぎる。」
 と母に怒られた。
 が、僕はいつも通りにご飯が食べたいと思った。第一、炊飯器の中のご飯をお茶碗につぐ方が、そばを準備するよりも断然に手がかからないではないか?
 「それでいい。」と、いや「それがいい。」と、僕は身の回りの人に吹聴して回っているのだ。
 ともあれ、僕は、何事にもいつも通りが好きだ。
 パソコンでの作業の疲れと癒すために撮影に出かけたと昨日書いたが、本当は、パソコンばかりが続いたり、撮影ばかりが続いたり、写真の整理ばかりが続くのではなく、そうした作業を同時進行で進められるようにうまくバランスを保ち、年間を通して同じようなペースで写真を撮りたいと、僕は考えている。
 さて、一昨日〜昨日とフィールドの空気を吸い、温泉につかり、車内泊をすると、パソコンでの作業の疲れが取れてきた。疲れが取れると、いいシーンが目に飛び込んでくるようになる。
 今日は、30匹くらいのオシドリの群れが、田んぼで落穂拾いをしていることに気がついた。
 山陰・山陽にはオシドリが非常に多い。初夏には、つがいのオシドリが田んぼで食べ物を探す姿をよく見かける。が、こうして冬の田んぼで群れになって食べ物をあさる姿を見たのは、今回が初めてだ。
 今年は、山に食べ物が少ないといわれているが、その影響なのだろうか?
 
 

 2005.1.4〜5(火〜水) 雪の渓谷

 僕は、自然写真家の中では、パソコンへの依存度が高い方だと思う。
 例えば、僕の写真を使ってくださる方の中には、この日記を時々読んでいて、
「カタツムリの写真を撮っているのなら、ついでにこんなシーンも撮ってくれませんか?」
 などと撮影の依頼をしてくださる方もおられるし、また、僕に声をかける際には、「今週のスケジュール」のページを見て、僕が時間的にゆとりがあるタイミングを選んで、電話をかけてくださる方もおられる。
 自然写真の場合、出版はほとんど東京でしか成り立たないが、地方に住んでいて東京になるべく出て行きたくない僕は、なるべく東京に出ていかなくていいように、うまくITを使いこなすためのいろいろな作戦を練っているのである。
 東京がきらいなわけではない。上京する前日は楽しみでもある。が、上京したら、やはり大変に疲れて、油物を食べ過ぎた後のような後味の悪さがある。
 だから、パソコンやITには大変にお世話になっているのだが、パソコンでの作業自体は、どうも僕の体質には合わないようで、そうした作業が長く続くと次第に体調が悪くなっていく。今年の冬は、先月の中ごろからパソコンでの作業が長いが、やはり体調が良くない。
 そこで、下降気味の体調不良を一気に改善すべく、雪の渓谷の撮影に出かけることにした。

 体調が悪い時にでかける取材は、一日目が大変にきつい。昨日は、車の運転だけで疲れ果て、目的地に着いてからは、約12時間ひたすらに眠った。今日は、朝の8時頃にゆっくりと起きだし、午前中にだけカメラを持ち出した。午後からは昼寝をして過ごした。
 が、恐らく明日は絶好調になっていることだと思う。いつも、そうなのだ。

 渓谷での撮影を終え、広場に車を止めて昼食を食べていると、付近の枝にカケスがとまった。久々に山の鳥にカメラを向けてみた。
 
 

 2005.1.3(月) 写真の整理

 今の時期は、写真の貸し出しの依頼が多いとちょっと前に書いた。
 依頼されたシーンが写った写真を選び出し、相手に送るわけだが、一度に貸し出す写真の量が数枚ならともかく、数十枚などと多くなると、写真を選び出す作業に大変に時間がかかり、それだけで一日が潰れてしまうこともある。
 すると、その日に予定していた他の仕事のスケジュールが大幅に狂い、仕事を溜め込んでしまい、頭が混乱して何がなんだかわからなくなって悪循環に陥る。日頃簡単にできることも、できなくなる。
 写真を選び出すのに時間がかかってしまうのには、僕の写真の整理が悪いこともある。そこで、出版社が休みになり、仕事の依頼があり得ない正月の間に必死に写真を整理して、なんとか短時間で写真を貸し出せる態勢を整える努力をしている。
 写真は、凝りまくって、きれいに整理しすぎると、取り出したり元の位置に戻したりするのに時間がかかってしまう。かといって、雑にしすぎると、紛失したり、探している写真が出てこなくなってしまう。
 僕は、以前は、凝って、フィルム専用のファイルにとても丁寧に整理していたが、写真の貸し出しの依頼が増えるにつれて、それでは対応できなくなってきた。
 その反動で、逆に雑に整理しすぎた時期があり、撮影したはずの写真が出てこないということが、ここ2〜3年非常に多かった。
 いい加減にしなければ、大変に時間が無駄になって、その分、撮影にでかける時間が失われてしまうと痛感しているのだ。
 僕が出した結論は、可能な限りデジタルデータを貸し出すというものだ。
 以前は、気に入った写真は紛失に備えたり、複数の相手に同時に貸し出せるように、複写といって、写真をさらに写真に撮りコピーを作っていたが、今やそんな時代ではなくなり、複写をしてコピーを作るくらいなら、フィルムをスキャナーで取り込んで、デジタル化するようになった。
 先日は、フィルムを複写するための自作の機械を、倉庫にしまい込んだ。
 
 

 2005.1.2(日) カタツムリの貴公子

 奄美大島を描いた画家・田中一村を取り上げた映画の制作をめぐって、遺族と制作側がもめていると、先日新聞で読んだ。制作側が空想上の登場人物を設定したのに対して、遺族側は、ありのままの姿をえがき出すことを希望しておられるのだそうだ。
 写真と映画の違いはあるだろうが、作り手の立場から言えば、架空の人物を設定してでも、ドラマチックに仕上げたい気持ちは良く分かる。また、多少そうした話題作りがなければ、興行的に成功しないなどという事情も、あるのかもしれない。
 が、遺族の言い分も良く分かるではないか。特に最近は、何かと大げさに盛り上げて話題作りをし過ぎるきらいがあるので、そんな傾向にへきえきしている人も少なくないだろう。
 例えば、バレーボール女子の日本代表である栗原恵選手は「プリンセスめぐ」、大山加奈選手は「パワフル加奈」などと呼ばれていた。何とかして女子バレーを盛り上げたいのは分かるが、そこだけが話題になり、なんだか筋違いなんじゃないか?と、僕は感じる。
 また、編み物の世界で有名な広瀬光治さんは、「ニットの貴公子」と呼ばれているが、大げさ過ぎて、それを耳にした僕の方が恥ずかしくなる。
 もしも僕が、「プリンス晋」などと呼ばれたら、きっと恥ずかしくて町を歩けないだろう。
 また、もしも誰かが、カタツムリをもっとメジャーにしよう!などと目論んで、カタツムリの写真をたくさん撮っている僕のことを、「カタツムリの貴公子」などと呼ぼうものなら、恥ずかし過ぎて、僕は自殺してしまうかもしれない。
 話題作りをしたい気持ちは、それはそれとして、本筋を見失わないようにわきまえなければ!と、新聞記事を読んで感じた。
 僕は、女子バレーの選手の中では、プリンセスめぐでも、パワフル加奈でもなく、大友愛選手が好みであった。だいたいにおいて、僕は目立ち過ぎない人が好みである。

 さて今日は、来シーズン出版される本の中で使用するカタツムリの写真を撮影した。
 先日、その本の編集者がうちの事務所にお越しになった際に、
「ものすごく変わった形のカタツムリの写真が一枚欲しいですね!」
 とおっしゃったので、知人にお願いして、形の面白いカタツムリを送ってもらえるように手配していたのだが、それが昨日宅急便で届いたのだ。

【お知らせ】
 情報募集のページ(その他の中にあります)を更新しました。ちょっと気が早いですが、春がきて、どこかでカタツムリを見かけたら、ご協力ください。

 

 2005.1.1(土) 生活費

 僕の写真は、5〜7月頃に印刷物の中で使用されることが多い。小さな生き物が多くみられる季節は春から初夏なので、写真も、その生き物の出現時期に合わせて使用されるわけだ。
 5〜7月に使用される写真は、12月〜2月頃に僕の手元から貸し出されるケースが多くて、ちょうど今は、写真の貸し出しの依頼が多い時期である。正月はさすがに休みになるが、日によっては、数十枚の写真を選び出して、出版社へ郵送しなければならない日もある。
 つまり、稼ぎ時である。
 それ以外の時期にも写真は売れるが、他の時期の場合、次々と依頼がくるわけではないし、そんな時期に写真が売れた時には、そのお金はなかったものと考えて、仕事に使用する実用品ではなくて、ちょっとした遊びの撮影で使う機材などを買うことにしている。写真を貸し出しながら、
「ウヒヒ・・・、これで何を買おうかな」
 などと、つい考えてしまう。
 それに対して、今の時期にまとまった量貸し出される写真の売り上げは、生活費にあてることになる。そして、これは生活費になるんだ!と思うと、写真がたくさん売れても、突然に味気なくなるから不思議なものだ。
 
 写真は使用された後返却されてくるが、僕は返却された写真を、封も切らずに溜め込む傾向がある。今日は、その写真を取り出して、また新たに貸し出すことができるように整理をした。
 昨年の今頃貸し出した写真については、特に紛失などのトラブルもなく全部返ってきているようだ。よかった。
 よかったと、今頃胸をなでおろすくらいなら、本当は、写真が返却されてきたらすぐに、紛失や傷がないかどうかを確認するべきなのだが、つい面倒で放置してしまうのだ。
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2005年1月分


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