撮影日記 2004年3月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2004.3.31(水) 

 カンニングの名手として知られていた中学時代の友人が、
「テスト中にウロウロと見まわりをする先生よりも、教壇の高いところからじっと生徒を観察する先生の方が手強い。」
 と、話してくれたのを、ふと思い出した。
 僕は生き物を撮影していて、その証言を、
「うん、確かにそうかもしれない。」
 と、感じる事が多い。
「何か生き物がいないかな?」
 と、探しているときよりも、じっと一箇所に座っている時の方が、周囲で起きていることがよく見えるからだ。
 今日は、田んぼの水路にドジョウの子供がたくさん出てきているのを見つけたが、近づくと、一瞬でどこかに隠れこんでしまう。そこで、水路の脇に座り、静かにドジョウが出てくるのを待っていると、マツモムシやコガムシやイモリやツチガエルやヌマガエルやアマガエル・・・次から次へと、いろいろな生き物の姿が目に飛び込んできて、ここに座って手のどく範囲で、一日写真が撮れるのでは?という気がしてくる。
 立ちあがってあぜ道を歩くと、びっくりしたカエルが飛び出してきて、水の中に隠れた。すぐ足元に隠れていたのだろうが、動いていると大抵は見落としてしまい、逃げる後姿を見て気がつく。
 せっかく水の中に隠れたつもりのヌマガエルだが、そこには何も障害物がなくて、隠れている姿が丸見えだ。そこで、水の中に潜り、じっとして敵をやり過ごす様子を撮っておこうと、カメラにストロボを取り付け、水路の脇の草むらを掻き分けようとして、一瞬思い留まった。
 せっかく草が伸びてきて影を落としているのだから、そのままの様子を撮ろうと考え直して、ストロボを使わずに、草を掻き分けずに草の隙間から、草の影と一緒にカエルの姿を撮影した。
 
*撮影データ ペンタックスist*D/FA マクロ100ミリf2.8/ややトリミング
 
 

 2004.3.30(火) 菜種梅雨

 野生動物の撮影は、時にシャッターを押すことはもちろん、その動物を見ることさえ難しいので、数ある写真のジャンルの中でも、難しい部類に入るだろう。だが一方で、もしもカメラのファインダーの中でその姿を捉えることが出来れば、他のジャンルの写真よりも、撮影は易しいような気もする。
 何といっても動物は絵になるし、被写体そのもののが強い存在感を持つので、少なくとも何を撮ろうとしたのか、写真を見る側の人に、撮影者の意図が伝わりやすいからだ。
 つまり、撮影の技術その物よりも、そこに至るまでの過程が難しい撮影だといえるし、仮にすばらしい動物写真が目の前にあったとしても、その魅力の大半は、写真家の技術よりも、動物その物の魅力によるところが大きい。
 だから、動物を上手く撮れるからといって、他の物も上手く撮れるとは限らない。例えば、水などの無機物や風景を撮影してみると、目の前にある逃げもしない被写体の撮影がとても難しくて、しばしば動物しか撮らない写真家は、技術の未熟さを露呈してしまう。
「写真って、難しいな・・・」
 と、僕もよく、動物ではない物を撮ったときに、自信を喪失する。
 だが、動物を撮るにしても、しっかりとした技術を持っているに越したことはないし、一通りの技術を身に付ける意味もあり、僕は動物以外のものも積極的に撮影する。ただ、あまりに手を広げ過ぎるのもきりがないので、当面は、動物以外の被写体は「水」というテーマに絞って撮影している。
 水の中で、最も厄介なのは雨だ。雨は、なかなか写真に写らない。また仮に写ったとしても、ただ雨が写るか写らないかというような次元で撮影をするのではなくて、やはり何かテーマを設定しなければ面白くない。
 そこで、雨にまつわる色々な言葉を、写真で表現してみようと考えているのだが、例えば、3月末から4月にかけて降る雨を表わす菜種梅雨という言葉がある。今日は、ちょうど雨が降ったことだし、菜の花と雨の組み合わせて菜種梅雨を撮影してみた。
 細い線状の被写体は、デジカメでは写りにくいと言われているが、確かに思ったよりも雨が写っていない。フィルムでも同時に撮影しているので、現像を終えたら比較してみたい。


 菜種梅雨の撮影を終えて、車に戻ろうとしたら、葉っぱの裏側にモンキチョウが休んでいるのを見つけた。
 昆虫の雨宿りは、とても写真がよく売れる人気のシーンだ
 本当は雨宿りをしているのではなくて、単に気温が低くて動けないだけかもしれないが、たまには「雨宿り」というようなイメージも、風流でいいだろう。
「よし、蝶の雨宿りを撮ろう!」
 と、雨の中でもがいてみたが、風が強くてどうにもならない。とうとうカメラバックがびしょ濡れになり、レンズが曇り、拭いても拭いてもどうにもならない。
 仕方なく、車の中で道具を乾燥させることにした。
 やがて雨が上がると、一斉にモンシロチョウが飛びはじめた。交尾をしているものもたくさん見られる。
 フィルムでその様子を撮影し、デジカメに持ち替えたら交尾を終えてしまったが、それはそれで画面の中の蝶の配置が絵になる感じがするので、一枚撮影してみた。
 
*撮影データ ペンタックスist*D/FA マクロ100ミリf2.8
 
 
 
 2004.3.29(月) 田んぼにて

 600万画素クラスのデジカメを買ったら、田んぼの周辺の植物をつぶさに撮ってみたいと、ずっと楽しみにしていた。
 例えば、今の時期ならカラスノエンドウが所々に見られるが、ツルを伸ばして、お互いに絡み合っているそのツルの表情や、花だけではなくて葉っぱの表情など、日頃あまりレンズを向けない部分にクローズアップしてみたいと、楽しみに待っていた。
 葉っぱやツルなどの写真は、植物の写真家ならともかく、僕が撮っても滅多に売れないだろうから、フィルム代や現像料のことを考えると、なかなかシャッターを押せずにいたのだ。

 今日は、定点撮影中の田んぼに出かけてみたが、ちょうど1年間、毎月一度撮影してきた田んぼにレンズを向けた後は、花を咲かせている植物を、1つ1つ順番に撮ってみた。
 絵にしてやろうなどという気持ちもないし、こんな植物を見ましたという証拠写真でもない。茎の特徴、葉っぱの特徴・・・など、ちょうど絵が好きな人がスケッチをする時のようにデジカメで撮った。
 並行して645判のカメラでも撮影した。こちらは視点を変えて、花を咲かせている植物の全体を見せながら、同時に田んぼの風景が入るように撮ってみた。ただし、いかにも
「ここは田んぼですよ〜。」
 という説明的な感じではなくて、ボケの具合から、かろうじてそこが田んぼであることが分かるような、空気で田んぼの雰囲気を表現するような撮り方を試みた。説明はデジカメで、イメージはフィルムでと、使い分けてみた。
 今日から数日間は、フィールドで撮影する予定だ。

 今日は初めて、新しく買ったデジカメのデータを、ノートパソコンに取り込んでみたが、大変に時間がかかるので驚いた。1Gくらいのデータを撮り込むのには、10分以上の時間がかかるようだ。
 また、日記に使用するための画像を扱おうとしても、予想以上に時間がかかる。
 これまでは、すべて事務所にデータを持ちかえり、事務所の処理能力が高いパソコンでデータを取り扱っていたので、ハードディスクにデータを移すための時間や画像処理の時間など、気にも留めなかったのだが・・・
 事務所のパソコンはCPUの速度も速いし、デスクトップなので、仮に同じ速度のCPUでも、ノートタイプよりも断然に処理が早い。一方で、取材に持ち歩くパソコンは、もう数年前から使用している古いノートなので、処理速度がとても遅いのだ。
 取材の際に宿を取る人には、どうでもいいことかもしれないが、僕のように車で寝泊りして取材する場合は、パソコンの電源を取るために車のエンジンをかけておかなければならないし、その時間がデジカメを持つことで長くなるのが、ちょっと心苦しい。
 ノートパソコンの充電式のバッテリーを使用する手もあるのだが、バッテリーを使うと、パソコンの作動がとても不安定になり、何かとトラブルが生じる。ワープロかメール程度の作業ならそれで事足りるのだが、画像のデータを扱うのにはやはり心もとない。一度充電すれば、20時間くらいもつバッテリーがあればいいのに。
 
*撮影データ ペンタックスist*D/FA マクロ100ミリf2.8
 
 
 
 2004.3.27〜28(土〜日) 準備

 季節の変わり目というが、自然写真家の場合、気温などの環境の変化や体調の変化だけでなく、仕事の内容までもが、それによって大きく変わる。僕の場合は、3月がその境目になるが、この時期に、冬場の撮影の体制を、春から秋の体制へと切り替える。
 だから3月はどっちつかずの時であり、例年だらけてしまう季節だが、今年はこれまでになく充実した月になり、生き物が活発になる季節を迎える前に、いい準備ができていると思う。
 初歩的なことだが、
「準備をするって、こんなことなんだ!」
 と、今更ながら感じる。

 準備をするためには、その前に、何に備えて準備をするのか、つまり後々何が必要になるのかを、準備をするその人が想像できなければならない。会社のような組織の場合は、先輩がいて教えてもらえるのだろうが、自然写真の場合は、それを自分で把握しなければならないし、そもそも何が必要になるのかは人それぞれであり、それがわかるには、まずそれなりの経験が必要だろう。
 最初は、準備よりも、むしろ写真を撮ってみること、つまり体験してみることが大切なのだと、僕は感じる。
 そして、体験をして何を準備しなければならないかが分かれば、今度は、手探りをするのではなく、ちゃんと準備をしてから取り掛かることが大切なのではないだろうか?今の僕は、そろそろ準備をする習慣をつけることが大切な時期にさしかかっているのかな?と、最近感じる。
 子供の頃、学校で、
「ちゃんと計画を立て、準備をしましょう!」
 と教わったが、闇雲に準備をすればいいのでもないし、また闇雲に体験をすればいいわけではない。学校で教わったことは嘘ではないと思うが、その場の状況に応じて、何が必要なのかは変わってくるのだと、僕は思う。

 

 2004.3.25〜26(木〜金) 足が生えた

 僕は、人の真似でもいいから、とにかく写真を撮ってみることを重視している。最初は、
「個性だ!」
 などと、自分を主張しない。
 ただ心を空っぽにして、
「上手いな!この人は」
 と、感じた誰かの写真を、単純に真似る。
 僕は、我が強いタイプなので、そうして真似をしても、結局は、自分はこう思う!という主張が滲み出てくるので、そのやり方が合っているのではないか?と、今のところは考えている。
 僕を放っておくと、考え過ぎたり想像が先走り、我が強く出過ぎて、変なところに迷い込んでしまいがちなのだ。とにかく一度は真似ることで、変な自分のこだわりを捨てるように、心がけている。
 
 サンショウウオも、数人の写真家がすでにたくさんの写真を発表しているので、まずは、そんな写真をたくさん見た。そして、真似から撮影を始めた。
 真似てみると、1つ感じたことがあった。サンショウウオの幼生は、これまでに僕が見た多くの写真から感じられたイメージよりも、ずっと実物が小さかったのだ。
 手足が出た幼生の写真を見た時には、
「10センチくらいはあるのかな?」
 と思い込んでいたものが、わずか2〜3センチの体長で、手が出て、足が出て、こんないっぱしの形をしていることに驚かされた。
 それなら、人が撮らなかった小ささを撮ればいいと、今月の水辺の中では、枯葉を写し込むことで、手が生えてきたばかりのサンショウウオのサイズを表現しようと試みた。
 次は、足が生えたら撮影すると、その時に書いた。足は、どれくらいの大きさになったら生えてくるのだろう?と、ずっと楽しみに待っていた。
 そして、ここ3〜4日で、足が目立つようになり、今日は足が生えてきたカスミサンショウウオを撮影した。

*撮影データ ペンタックスist*D/FA マクロ100ミリf2.8/ストロボ

 

 2004.3.24(水) サナギマン

 昔、イナズマンというテレビ番組があった。仮面ライダーみたいな、主人公が変身をする番組だったと記憶しているが、イナズマンの特徴は、主人公が、一度サナギマンという虫でいうサナギのような段階を経て、最終的に強い強いイナズマンへと変身するところだった。
 サナギマンはとにかく弱い。敵に打たれても打たれても我慢をする。その怒りが頂点に達した時に、サナギマンはイナズマンへと変身する。
 テレビ番組だと、笑わないで欲しい。よくよく考えてみると、誰しも日常生活の中で、サナギマンのような段階にさらされる機会があるはずだ。

 先日、車を新しいものへと変えたことを書いたが、取材に使う車は、中で寝たり生活ができるように改造を施さなければならない。特に今度のハイエースは商売用の商用車であり、運転席と助手席以外のシートがなくて、4.7Mも全長があるのに、後部座席はただ広いスペースがあるのみだ。
 そこにベッドや収納スペースを、自作する。
 だから買い替えにともなって、一時的に取材に出かけることが出来なくなり、サナギマンのような無防備な状態にさらされる。車が到着するのも、予定よりも1週間くらい遅れて、その間に予定していた4泊5日の取材旅行を中止した。
 それをここ3日間で、何とか撮影に出かけられる態勢を整えて、今日は朝から、気の向くままにフィールドを走ってみた。
 山道を運転してみると、中に積んだ荷物が振動で跳ねてしまったり、ガタガタ音をたてたりと、若干積み方や中の工作物に改良を施す必要があることが判明した。が、とにかく、いつでも撮影に出かけられる状態は整った。
 
 イナズマンは石森章太郎さんの作だが、なんてユニークな作品だろう!仮面ライダーもやはり石森さんの作で、バッタやカブトムシなど、昆虫がモデルになったキャラクターが多い。虫の不思議を上手く取り入れ、子供を楽しませた作品だ。
 虫の写真を撮る時にも、学術的なことにこだわり過ぎない写真家が一人くらいいてもいいのではないだろうか?今活躍している、学術的なことにこだわらない虫の写真家は、虫の不思議をすべて切り捨てて、デザインや詩の題材として、或いはスナップ写真の題材として虫を撮影する傾向が強いが、虫の不思議な現象を、ちょっとデフォルメしておもしろおかしく見せてもいいのではないか?と、そんな気にもなる。
 残念なことに、僕はそんなことができるキャラクターではないが・・・ 

 

 2004.3.22〜23(月〜火) コンプレックス

 何かコンプレックスを抱えて、ウジウジしている人を見ると、
「いいだろう!たかがそんなことを気にしなくても。」
 と、僕は気が短いものだから、すぐに焦れてくる。ところが、いざ自分のことになると、全くつまらないことでウジウジしてしまうものだ。
 まず、僕は歌が下手なので、カラオケには絶対に誘わないでほしい。下手は下手なりに、気にせずに堂々と歌えばいいのだが、どうしても人目が、いや人耳が気になるのだ。
 それから、僕は字が下手だ。
 もしも僕が将来子供を持ち、その子が小学校に通うようになったなら、・・・きっと、担任の先生に、親として手紙を書かなければならない機会もあるだろう。例えば、あしたは一日学校を休ませて、子供を連れて取材に出かけ、ついでに魚釣りを教えてやろうなどと、まるで義務教育をあざ笑うかのような、すばらしい案が思い浮かんだとする。
 そして、
「担任の先生様へ。明日は、深刻な深刻な家庭の事情で学校を休ませます。」
 などと書こうものなら、きっと先生はこう言う。
「武田君、この字はお父さんが書いたのではなくて、君が自分で書いたものだね!ダメじゃないか、そんな勝手なことをしたら。」
 と、僕の子供が疑われることは明白だ。かわいそうに。
 順調な人生を歩んできた人には、
「そんなことを疑うひどい先生がいるはずないよ!」
 と思えるかもしれない。だが、僕自身、疑われた経験がある。
 子供のころ、学校でいたずらをして、先生からそれを手紙として連絡帳に書きつけられ、両親からの返事をもらわなければならない時に、僕は、親になりすまして自分で返事を書いて先生に見せた。
 だが、先生は疑った。疑ったと言っても事実だが・・・。
 今になって思えば、この年になっても字が子供並なのに、通用するはずもない。ズルをしようとしたことも含めて、二重三重に怒られる結果に終わった。
 だから、僕は、どうにも手紙を書く気になれない。ワープロでいいのなら手紙は嫌いではないが、ワープロだと心がこもっていないと受け止める気難しい人がいるので、困ったものだ。
 それから、一般に字が下手な人は、絵が下手だ。僕もその例外ではない。だから、人前で絵を披露する時には気が重い。
「いい年して絵を披露する機会なんてあるの?」
 と、疑問をお持ちの方もおられるかもしれないが、本の仕事をする時には、大抵は、前もってどんな写真を撮りどう構成するのかを、絵で打ち合わせする。
 そして、そろそろ、今シーズンに撮影する写真をイメージした絵を、担当する編集の方に提出しなければならない時期だ。おおまかなところは、すでに描けているのだが、それを普通の人が見て理解できるレベルに清書しなければならない。
「絵はファックスで送ればいいでしょうか?」
 と、たずねたら、
「ファックスだと、細かいところが分からないことがあるので、郵送にしてください。」
 と、返事をいただいた。僕の絵には細かいところなどないので、それを思うと、ついつい笑いが出てしまう。いや、苦笑いだろうか?
 とにかく、絵のお粗末さを、ファックスの印刷のせいにすることは出来ないようだ。

 

 2004.3.21(日) とんこつラーメン

 3月分の今月の水辺の中で、高校生の頃、
「3浪しても大学入学は無理!」
 と、担任の先生に宣告されたことを書いたら、
「とても面白かった」
 と、いくつかの反響があった。
「でも、そんなことを言うなんて、担任の先生はひどすぎます」
 と、当時の僕を気遣ってくださった方も数人おられて、その優しさがじ〜んと身に染みたが、先生の名誉のために書いておくと、それは決してひどいことではなくて、その通りだったと思う。
 僕は、360人の生徒の中で350番台をキープしていたのだから、そう言われたことは仕方がないだろうと思う。大学はやる気がある人が進むべき所で、やる気がない者は退場するのが正しい。また、進学を志す高校生なら、そのやる気は、
「俺はやればできるはずだ・・・」
 ではなく、黙って勉強をして結果で示すべきだろう。
 ともあれ、仕方がなかったにしても、成績が悪い、いや勉強する気になれないことの不安は内心大きくて、高校一年の時にはそのストレスからすい臓炎を患った。それからもう20年近く経つが、それ以降、油を多く含むものを食べると、すぐにお腹を下すようになった。中でも、特に良くないのがとんこつラーメンで、食べればほぼ100発100中、数時間後か翌日にお腹が痛くなる。

 博多が本場のとんこつラーメンだが、北九州の味を食べたことがある人は、大抵、
「北九州の方が美味い!」
 というし、僕もそう思う。当然、事務所の付近にも、いくつかお気に入りの店があるが、昨日は、新しいお気に入りを開拓するために初めて入った店が、とてもおいしくて感動した。
 そして、予想通り、今朝はお腹を下している。今回は重症の部類になるが、油がたっぷり浮かんだスープを全部飲み干したのが間違いだった。
 そもそも僕は、体を気遣ってラーメンは食べないようにしていた。が、ある時テレビで、ラーメン店を出店する際に相談を受けてアドバイスをするラーメンコンサルタントの仕事をしているラーメン通が、
「スープは最初に1口しか飲みません。あんなものたくさん飲んだら体がボロボロになってしまいますよ〜。塩分なんて、あっという間に取り過ぎてしまうでしょう。」
 と話すのを聞き、なるほど!そんな食べ方があるのだと知り、スープを飲まないようにして、時々ラーメンを食べることにした。スープを飲まないのは店主に失礼な気もするが、そうすることで、多少はお腹をくだす確率を下げることができるようだ。
 それが、昨日はあまりにおいしいので、禁をおかした。とんこつラーメンを目の前にすると、自制がきかなくなる危険性をはらむが、昨日ラーメンを食べたのは、実は、今日がお腹を下しても構わない日だったからだ。
 今日は、車の乗り換えのために、新しい車を取りに行くので、撮影をしないことになっている。そんな日くらい、リスクを犯して好きなものを食べよう。

 車は、今まで2台でおよそ40万キロ走行した三菱のデリカスターワゴンから、トヨタのハイエースに変わった。正直に言うと、半分悲しい気もする。
 三菱のデリカは、ワンボックスカーでありながら足回りがオフロードカー並に頑丈であり、また見た目は大きいが、回転半径が小さくて、山の中で使うにはいい車だった。
 ただ、整備の面に関してはいくつか欠点があり、車がゴツイ分修理代が高く、おしゃれではあるが、その分、整備がやりにくい構造になっていた。
 ヘッドライトの球を1つ交換するのに、バンパーを外さなければならない仕組みになっていた。すると、バンパーの取り外しの代金が追加され、さらにライトの球の交換ごときで1時間以上待たされた。また、僕の車は寒冷地仕様でバッテリーを2つ搭載していたが、2つ目のバッテリーがとても奥まった場所にあり、そこに水を補給するために、バッテリーを車から降ろす必要があった。すると、またバッテリーの積み下ろしの代金がかさんだ。
 その点、トヨタは、整備がしやすい構造になっている。ただ、大きすぎるのは正直言って・・・まあ、たくさん走る前から愚痴を書くのはやめておこう。
 大きいのは大きいなりにいい点もあるのだから、それを生かすようにしよう。また、大きくて小回りがきかない分、ノロノロしか走れないし、安全運転につながるのではないだろうか。
 第一、これまで気に入って乗っていたデリカは、すでに製造中止で作られていない。

 

 2004.3.20(土) 人もメダカも

 僕は自然写真家の中では、撮影の技術に、あまり穴がないほうだと自負している。これが苦手・・・というような撮影は少ない方だろう。
 ごく普通の自然光による撮影から、ストロボ(人工の照明)を使用した撮影 ・ センサーを使用した自動撮影 ・ 水中撮影 ・ 超望遠レンズを使った撮影 ・ スタジオ撮影まで、一通りのことを身に付ける努力はしてきたつもりだ。
 だが、努力ではどうにもならないこともある。例えば、僕は夜が弱くて、天体の撮影や、夜景の撮影や、徹夜をして虫の羽化などの現象を待ち続ける類の撮影は、とても苦手だ。
 昨日、
「パソコンを使って一定時間ごとにデジカメのシャッターを作動させれば、自動的に昆虫の変態の様子などを撮影できるかも?僕はその間眠ることができる・・・」
 と横着を書いたが、そんなことを考えなければならないのは、夜の弱さからきている。
 とにかく、睡魔には弱い。
 今まで、いろいろな夜の撮影を試みてきたが、唯一眠くならなかったのは、奄美大島の小さな林道でリュウキュウコノハズクという小さなフクロウの仲間を撮影した時くらいのものだ。奄美大島は、リュウキュウコノハズクの密度が高くて、林道を車で走ると点々と鳥の姿があり、嬉しくて、興奮して、朝が近づくほどに目が冴えた経験がある。
 だが、それは例外で、とにかく地球のサイクルに合わせて、体が素直に反応するようにできているようだ。
 
 今日は、フィルム整理を予定していた。が、メダカの産卵に関連する撮影で、オスがメスに求愛するシーンを先日撮りそこねたため、それがどうしても気になり、撮影をすることにした。
 そうこうして、いつもフィルムの整理がおろそかになるが、本来、メダカの求愛を撮影する予定を組んでいた日に、必ず、代わりにフィルム整理をしよう!
 フィルム整理は撮影を終えたあとの夜でも可能だし、いつもそうして予定を組むが、夜はどうしても眠たくなってしまう。その結果、フィルム整理がおろそかになるので、やはり昼間に時間を作る必要があるようだ。

 さて、メダカは産卵をする前に、オスがメスの前でクルリと回るように泳ぎ、求愛をする。
 先日は、オスのメダカが、その求愛を飛び越していきなり産卵行動に入ってしまい、求愛のシーンを撮影することできなかった。今日も、やはり求愛を飛び抜かし、すぐに産卵しそうになる。
 撮影用のメダカは、オスメスの相性が悪くて産卵しなかったというような無駄を防ぐために、オスとメスとの組み合わせを決めて飼育している。今撮影中のつがいは、もう一ヶ月以上、同じ組み合わせでほぼ毎日産卵をしているのだが、相手が変わらないと求愛の必要がなくなるのかもしれない!と、思いつき、今日はいつもとは違うオスを水槽に入れてみた。
 すると、予想通り、何度も何度も求愛をした挙句、卵を産んだ。
 こうしたところは、人も魚もよく似ているのかもしれない。相手が変わらないと、だんだん雑になる。
「そう言えば、うちのカアチャンにも、もう10年くらい求愛してないな〜。」
 といった声が、聞こえてきそうだ。

 

 2004.3.19(金) 迷惑メールと勘違い

 先日、大学〜大学院時代の恩師からメールが届いたのだが、危うく、間違って削除しそうになった。メールに記載される送信者の名前からメールのタイトルまで、すべてがアルファベットで記載されていたので、迷惑メールだと勘違いしそうになったのだ。
 そこで、僕が送信するメールの送信者の記載を、ローマ字の表記から、「武田晋一」と日本語の表記になるように改めた。今度は自分自身が、迷惑メールだと勘違いされる確率を、減らしておくことにした。
 僕は、大体心当たりがないメールや手紙やダイレクトメールなどを開いてみたいと思うタイプではない。業者や企業から送られてくる郵便物は、封も切らずに捨ててしまうことが少なくない。
 大体付き合いが悪いタイプでもあるので、学校からの同窓会の案内なども、しばしば、見もしないで捨る。大抵は寄付だとか、同窓会名簿が10000円だとか、その手の内容だろう。
 だから、時々、重要なものを捨てることもある。例えば、借金の督促状など・・・
 というのは冗談だが、電子メールの場合だと、プロバイダーからの重要なお知らせといった類のメールを、見もしないで削除し、あとで、プロバイダーのアクセスポイントの電話番号が変わり、突然にインターネットへの接続が出来なくなり驚いたこともある。

 今日は、ペンタックスから、何やらお知らせのメールが届いた。これまた削除しそうになったが、そう言えばペンタックスのデジカメを買ったのだった!と思い出し、一応メールを開いてみたら、デジタルカメラに内蔵されているプログラムが、新しくなったことを知らせるメールだった。
 よく読んでみると、なかなか良さそうな変更が施されていたので、さっそく、新しいプログラムをカメラに取り込んでみた。今回、新しく追加された機能を使えば、カメラをパソコンに接続し、パソコンを使って、カメラのシャッターを一定時間ごとに作動させるような撮影ができるようだ。
 これは、使えるのではないか?と、僕は思う。
 例えば、虫が幼虫から蛹になるようなシーンを撮影する場合、幼虫は一旦蛹になる態勢を取れば、あとはほとんど移動をしないのだから、1分おきくらいに自動的に写真が撮れるようにしておく。
 極めて横着な方法ではあるが、どうしても眠たい時などには、試さないよりはいいだろう。2Gくらいのメモリーカードを入れておけば、1分おきに撮影しても、3時間くらいは寝られるはずだ。
 こうした撮影は、フィルムカメラにも可能にする道具があるが、フィルムの場合、1分おきなどに写真を撮っていたら、フィルム代の無駄が出て仕方がない。その点、デジカメなら、全く問題はないだろう。
 いつもいつも横着をするのは論外だが、たまには横着もおもしろそうだ。
 そうそう、
「横着だ!悪い見本だ」
 と苦情が入らないように、大切な一言を書くのを忘れた。良い子のみなさんは、決して真似をしないでください。

 

 2004.3.18(木) フィルムとデジカメ

 「つまらない失敗をなくす努力をする」
 と、先日、今シーズンの努力目標を書いたが、簡単なようでいて、なかなか難しい。
 昨日、水槽で撮影したアメリカザリガニの子供の写真の中に、
「もしかして失敗?」
 と、後から不安になる写真があり、今日は、そのフィルムを現像してみることにした。とにかく注意深く、細かいところまで気を配った上で撮影したのだが・・・
 おや?っと思ったら現像して確認し、すぐに修正をして、1つ1つ確実に仕事をこなすように心がけたい。
 ついでに、ここ数日で撮影したメダカの写真も現像した。
 メダカは、デジタルカメラとフィルムとで両方とも撮影しているので、フィルムをスキャナーで取り込んで、デジカメ画像と比較してみた。
 もちろん、メダカの位置や形が違うので、厳密な意味での比較はできないが、さて、あなたは、どちらの画質がいいように見えるだろうか?




 フィルムは、フィルムスキャナーを使い、4000Pixels/inchで取り込んだ。デジカメは、RAWで撮影し、その画像をパソコン上で現像した。
 比較のため、2枚の画像がなるべく同じ調子になるように、フォトショップを使い、最低限の修正した。そして、メダカのサイズが、ほぼ同じになるように切り出した。
 フィルムの方が、元々1まわり小さくメダカが写っていたので、よりトリミングによる拡大の率が高く、ややフィルムに不利な比較になっている。

  失敗の可能性があったアメリカザリガニの写真は、全く問題がなく、僕の取り越し苦労だった。
 撮影に使用した水槽のガラスの端に、よく見ても見落とす程度だが、うっすらコケが付着していて、それが画面の中に写り込むかどうか、とても際どい位置にあったので心配したが、大丈夫だった。
 そのフィルムの現像が仕上がるまでの3時間、現像所の近くにある北九州の山田緑地公園で、カエルを撮影して過ごした。
 昨日は雨が降ったので、産みたてのニホンアカガエルやヤマアカガエルの卵が点々と見られた。ある一角からは、無数のヤマアカガエルが鳴き交わす声が聞こえ、タゴガエルも、今日は、よく鳴いていた。
 鳴き声の方を注意深く見ると、交尾をしているタゴガエルを、数匹確認することができた。そう言えば以前も渓流での撮影中に、タゴガエルの交尾を撮影したことがあるが、このカエルは、昼間にもよく、産卵をするのだろうか?


 さて画像の比較だが、メダカの画像、上がフィルムで下がデジカメだ。少なくとも、極端に画質にこだわる人以外の、大半のカメラマンにとって、互角の画質といってもいいだろう。
 ただ、強いて言うなら、フィルム(上)の方が、気持ち絵が立体的に見え、デジカメの方がベタっとして見える。特に、遠くから離れてみたら、その差がよりはっきりする。
 この画像に限ったことではなく、全体的に、フィルムの方が、明から暗までの変化が細やかに感じられ、写真に立体感がある。つまり、フィルムの方が階調性が豊かだ。
 階調性は、歌で言うなら、歌手の音域の広さみたいなものだと、僕は考えている。
 歌手にとって、声の音域は広ければ広いほど有利になり、楽曲に極端な低音部や高音部がある曲は、音域が広い人にしか歌えないが、もしも楽曲が、高音から低音まで幅広い声を出す必要がないような平坦な曲なら、音域が広い人であろうが、狭い人であろうが、同じように歌いこなせるだろう。
 画像も同じで、日頃どちらかというとベタっとした撮り方を好む人にとっては、階調性の良し悪しは、あまり気にならないだろうし、重要ではないはずだ。逆に、明から暗まで、幅広い明暗を豊かに写さなければ表現できない写真を好む人にとっては、階調性はとても重要だ。
 僕の場合は、写りのシャープさよりも、立体感つまり階調性を重視するので、画質に関しては、まだデジカメには満足していないし、それがフィルムの645判を使い続ける理由だ。
 デジカメは、フィルム代を気にせずたくさんシャッターを押せることと、その場ですぐに結果を確認できることを、フルに生かすような使い方をしたい。
 どんなにフィルムの方が絵に立体感があっても、デジカメでたくさんシャッターを押すことで、より生き生きした動物たちの表情を捉えることができれば、それが生き物の撮影では最優先だ。そうした使い方が、デジカメも使いこなしだろうと考えている。

*タゴガエル・撮影データ ペンタックスist*D/FA マクロ100ミリf2.8/ストロボ 

 

 2004.3.17(水) 疑問

 今日は、心の中にあった小さな疑問が解けたような気がする。
 魚を水槽で飼育すると、気温が低い時期に、種類にもよるが、魚がとても神経質になり、人がちょっと近づいただけで、物陰に隠れ込んでしまう。
 水度と魚の警戒心とに、何か因果関係があるのだろうか?
 うちには、今、合計で6つの撮影用水槽が設置してあるが、その目的によってヒータを使用しているものと、そうでないものとがあり、ヒーターを使用しない水槽の魚が、冬場に神経質になるのだ。
 直感的には、逆であるように思える。寒いのだから鈍くなるのでは?
 なぜだろう?と、ずっと疑問を抱いていたが、
「もしかして餌の要求量と関係があるのでは?」
 と、今日気付いた。
 水温が低いと、餌の要求量が減る。ある一定の水温よりも下がると、魚はちゃんと活動をするが、突然に餌を欲しがらなくなる。すると、人間様の有り難味がなくなる。暖かくなると、餌の要求量が増え、魚はお腹が減る。すると、餌を落としてくれる人間が、突然に神様に見えるのではないだろうか?
 冬の間は、僕の姿を見ると、岩の裏側に隠れ込んでいた小魚たちが、今や、僕が歩くと、まるでアイドルの追っかけのように、その方向に群れでついてくるのだ。
 
 さて、今日の画像は、「今月の水辺」で紹介したカスミサンショウウオの幼生だ。ウオと名前に付くが、両生類に分類され、よく観察してみると、その動きは魚ではなくて獣だ。
 例えば、胴体はそのままで、首だけを曲げて横を見ることがある。魚は決してそんな動きはしない。目だけを動かして横を見るか、体ごと横を向く。

*撮影データ ペンタックスist*D/FA マクロ100ミリf2.8/ストロボ/ややトリミング 

 

 2004.3.16(火) 偶然

 僕は、自分が信頼できないタイプなので、カメラを手にすると、同じシーンをたくさん撮影する。
 ピントがちゃんと合っているかどうかに自信がなくて、ピント合わせをやり直して、同一のカットを何枚も撮る。
 また、カメラが壊れているかもしれないからと、別のカメラで撮る・・・
 毎回毎回必ずそうするわけではないが、僕にはそんな傾向がある。
 実際のところは、そんなにピント合わせに失敗するわけではないし、カメラが壊れていた経験もない。だから、用心のためにたくさん撮った写真が、すべてピントが合っていて、同じような写真がたくさん仕上がってくる。
 だが、それは決して無駄ではない。その中に微妙な差で、本当に気に入る写真と、写っているだけの写真とが生まれるのだ。
 とにかく、しつこく撮る。プロの写真家の中でも、僕は特にその傾向が強い方だと思うが、その経験から、たくさん撮ることの効果を、人よりもよく知っている方だと、自負していた。

 ところが、ここ2週間くらい、デジカメで色々と撮影をしてみて、今までのその認識が足りなかったと、感じている。デジカメでは、フィルム代が不必要なので、ただでさえ多く撮る僕が、より多くシャッターを押すようになり、その結果、たくさん撮ることの効果を、さらにさらに強く、思い知らされている。
 例えば、オタマジャクシの顔を撮る。
 オタマジャクシがじっとしているあいだ、次々とシャッターを押し、それをパソコン上で確認すると、オタマジャクシはじっとしているだけのに、中には、いい表情の顔と、そうでない顔とがある。
 今日の画像のオタマジャクシは、口を開けているが、これが口を閉じていると、ちょっとつまらない写真になる。また、水に浮遊したゴミが、所々に写るが、そのタイミングで、ゴミが多い時と少ない時とがあり、その差が意外に大きいと分かる。
 オタマジャクシのパクパクする口が、開いているかどうか、水中のゴミが多いかどうかは、カメラをのぞいてみても、なかなか目では確認できない。だから、いいタイミングをつかむためには、量を撮る以外に方法はない。
 水槽の中で、じっとしているオタマジャクシの顔を撮るくらいの撮影にも、偶然の要素がたくさん付きまとうし、その偶然が、写真の良し悪しを左右する程度は、僕が思っていた以上に大きいようだ。
 たくさん撮らなければ、なかなかいい写真が撮れないことは、よくよく知っているつもりだったのだけどな・・・、理解できていないことがたくさんあるものだ。
 
 

 2004.3.14〜15(日〜月) 変態

 中学生の頃、友達が後輩からラブレターをもらい、それをとても羨ましく思ったことがある。正確に言うと、ラブレターと言うよりは、アンケート用紙みたいな感じで、色々な質問が書いてあり、遠回しに好意を持っていることを伝える手紙だった。
 そこには、
「初変はいつですか?」
 と質問が書かれていた。
 初変とは初恋の字の間違いだろう。手紙をもらったその友達は、
「初めて変態になったのはいつですか?という意味になるじゃないか!俺のことを変態よばわりしやがって」
 と、憤ったふりをした。きっとみんなの前で手紙をもらったことが、恥ずかしかったのだろう。
 さて、今日は「今月の水辺」を更新した。今月は、サンショウウオの変態を取り上げてみた。変態のサンショウウオではないので、悪しからず。

 

 2004.3.13(土) 弘法筆を選ばず

 先月の下旬から、600万画素クラスのデジカメを導入して撮影しているが、同時にフィルムでもなるべく同じカットを撮っている。そのフィルムの現像が仕上がったので、今日は比較をしてみたが、結論から言うと、一長一短あるが、小さな物を撮影するマクロ撮影に関しては、
「デジタルの方が、やや分があるかな・・・」
 と感じた。
 本当にいい条件が整って、写真がビシッと決まれば、フィルムの方がまだ上だと僕は感じるが、いい条件は、そんなに整うものではないし、”デジタルの方が、やや分がある”というのは、そうした部分も含めた、トータルとしての判断だ。
 
(道具の話)
 僕は、ペンタックスのデジタルカメラを購入したが、当初、そのカメラが特別に気に入って買ったわけではなくて、以前から使用している645判のフィルムカメラとの兼ね合いで、購入を決めた。だから、カメラ自体には全く期待をせずに、あくまでもフィルムのついでに使うデジタルカメラとして、手にした。
 レンズも必要なので、100ミリマクロレンズを1本買った。すると、ペンタックス製の100ミリマクロレンズの描写が、とても好みに合うので、感激した。
 マクロレンズでは、タムロン社製の90ミリレンズが描写に定評があるし、僕も、ニコン用とキャノン用と古いマウント交換式と、3本のタムロン90ミリマクロを所有している。
 確かに、いい描写をするのだが、時に、
「あ、タムロンで撮った写真だ。」
 と、写真の雰囲気からレンズの銘柄が分かることがあり、写真が、タムロン調の絵になってしまう点に、少しだけタムロンを使いたくない思いを持っている。
 タムロンの90ミリで花を撮ると、コントラストが高くてスカッと抜けがいいのに、決してボケが汚くなるほどコントラストが高くなくて、ギリギリのところで踏み止まる。そのコントラストの具合が実に絶妙過ぎて、
「あ!タムロンだ。タムロン以外では、この描写はあり得ない。」
 と感じられるのだ。ついでに、本格的に花の写真を撮る人には、タムロンを使用している人が多いので、なおさら目立つ。
 一方でペンタックスの100ミリマクロは、レンズの描写の調整の具合が絶妙というより、単純に写真が柔らかくて、しっとりした感じがする。そして、なんといっても使っている人が少ないので、
「あ、これはペンタックスだな!」
 と鼻につかないのがいい。
 写真を本格的に撮る人なら、誰しもお気に入りのレンズがあるだろう。だが、大抵の場合、画角が好きだとか、最短撮影距離が短いから、メーカーが好きだから、持った感じのバランスが好きだから、使い慣れているから、といった類の好きであることが多い。
 色々なレンズを比べた上で、
「このレンズの描写が私の好みに合います。」
 という好きは意外に少ない。
 弘法筆を選ばずと言うが、僕は、写真に関しては、道具がすべてではないが、道具もある程度、物を言うと、思う。たまたまペンタクスのマクロレンズを買ってみて、気に入った描写のレンズはいいものだ・・・と、強く感じた。
 これからは、自分の好みに合う描写のレンズを探して、選んで買うようにしようかなと、そんな気になっている。
 カメラ本体に関しては、もうノスタルジーに浸ってしみじみする時代ではないだろう。間違いなく、もうデジタルカメラの時代であり、カメラは半分機械だが、半分は電気製品だ。新しい物が必ず高画質に決まっている。ちょっと悲しいが使い捨ての時代だ。
 しかし、レンズの描写は、多分に好みの要素があるので、その点で、道具を大切にしたい。

 

 2004.3.11〜12(木〜金) 一休み

 今日は、ちょっと一休み。今シーズンは、カメラを持たない日を、週に1〜2日作りたいと考えている。仕事に使えるデジタルカメラを買ったこともあり、フィルムあり、デジタルありで、ちゃんと写真を整理しなければ、頭がごちゃごちゃになってしまうだろうから、その時間を写真の整理に当てたい。
 ここ2〜3年は、4〜9月くらいの期間は、ほとんど写真を撮りっぱなしで、秋〜冬にかけて1シーズン分の写真をまとめて整理するようになっていた。だが本当は、その時々でちゃんと写真に目を通して、反省すべき点は反省した方がいい。
 以前にも、何度か同じことを書いたことがあるが、まだ、実行できていないのだ。

 では、なぜ今までは、そうしなかったのか?
 本来は、1日で撮れるはずの写真が、僕の未熟さゆえにつまらない失敗を重ねたり、写真が甘かったりで撮り直しが必要になり、2日、3日・・・と余計に時間がかかってしまうのだ。その結果、計画が徐々に狂い、写真の整理をする時間を削り、その埋め合わせをしてきた。
 そこで、今シーズンは、何か新しいことにチャレンジするのを一時的にやめ、そのジタバタしてしまう時間をなくす事を、努力目標にしようと思う。

 自分を弁護するわけではないが、写真のような仕事をする人には、そんな無理をして、ジタバタする時期も必要だと、僕は考える。写真の整理を放っておいてでも、睡眠時間を削ってでも、撮ると決めたものは、絶対に撮るという期間が。
 写真は、それが好きで好きでたまらず、趣味で撮っている人がたくさん存在する。そんな人よりも上をいくためには、ある時期、多少の無理も必要だ。
 また、写真撮影自体は競争ではないが、仕事の数は限られているので、写真を売ることには多少の競争がついて回る。すでに十分に地位を確立している先輩方にも打ち勝たなければならない。相手は、名前も知れている、お金も持っている、経験もある・・・と、ほぼすべての面において、僕よりも上なのだから、たとえジタバタしてでも、なりふり構わず前に出て勝負する必要があると、思う。
 そこで、無理をせずに冷静に・・・きれいなことを言っていたら、永遠にそこで立ち止まったままになるような気がする。
 ただ、無理をしてジタバタすると、大変に疲れるし、精神的にはあまりよくない。そんな状態は、そう何年も続けられるものではないし、早めに卒業しなければならない。
 今年が、その卒業の時期ではないか?と、判断した。
 ちょうどスポーツの選手が、自分に合うスタイルを求めいろいろなフォームを試し、一転して今度は、そのフォームを固めて確実性を身に付けていくように、今の僕は、自分のスタイルを固めるタイミングだと、感じるのだ。

 

 2004.3.10(水) 科学の考え方

 先日、3月5日に、カスミサンショウウオの幼生を紹介した。全部で8匹いたものの中の2匹は、画像を掲載した日の翌日に死んでしまったが、残りの6匹は順調に成長をはじめた。
 人影が近づくと、慌てて枯葉の下に隠れ込むようになり、餌を食べる様子も確認できた。大体、飼い方が分かったような気がする。

 サンショウウオの仲間のような、飼育が難しいとされる生き物の場合、試行錯誤の中で、うまい飼い方を編み出さなければならない。だから、最初は、8匹のサンショウウオを3つのグループに分け、それぞれを違った条件の中で飼ってみた。
 すると、翌日に2匹が死んでしまったが、3つの中のどのグループのサンショウウオが元気がいいのか様子を見て、その最も調子が良かった飼い方に統一した。
 つまり、最初にどれかが死んでしまうことを覚悟の上で、幾つかの条件を試した。そうして生き物に少しずつ違う様々な条件を与え、その反応を見ながら結論を出すのは、生物学の実験と同じ、科学の考え方だ。
 今頃、生物学の学生時代に勉強したことが役に立っている。
 最近は、自分が知っていることや、身に付けたことどうしが、比較的上手く撮影に結びつくようになってきているが、学生生活を終えおよそ10年が経過し、10年前に勉強したことが、ようやく生かせるようになってきた。
 それにしても、知識を生きたものにするためには、時間がかかるものだ。

 今日は、メダカが水草に卵を産みつける様子を撮影しようと試みたが、うまくいかなかった。淡水記の中に、以前に撮影した写真を掲載しているが、もっと分かりやすい写真を撮りたいのだ。
 実は、卵を水草に産み付けるシーンは、水槽内で再現させることが、なかなかむずかしい。大抵の場合、メダカは卵を地面にこすり付けたり、泳いでいる過程で下に落としてしまう。
 メダカは毎日卵を産むのだから、メダカが数匹入った水槽に水草を入れておけば、その水草は、卵だらけになってしまうはずだが、実際にはそんなことにはならないし、水草に付着した卵が見つかることの方が少ない。どうも、メダカにとって生みつける場所は、水草でなくてもいいようだ。
 また、卵を産み付けているのではなく、お尻にぶら下がっている卵を、体からこすり落としていると言った方が正確なのかもしれない。仮に水草に付着した卵も、孵化をするまでの間に、水草から落ちてしまうこともある。
 それでも、一般的には、卵は水草に産み付けるとされているし、実際に水草に産み付けることもあるのだから、写真は水草に産み付けているところを撮らなければ、まず使われないだろう。
 そんな、一般的に知られていることと、実際の様子との間にギャップがある撮影は、とても苦労させられる。

 

 2004.3.9(火) ファン心理

 さて、今日は昨日の続き、ある有名な自然写真家のホームページが、一部有料化された話題を書こうと思う。そのホームページの有料化に対して、
「有料化なんて、あなたを見損ないました。」
 と、イチャモンをつけた人がいて、それがホームページ上の掲示板で話題になったのだ。
 掲示板に意見を書き込まれた方々の思いは、一致して、
「有料化は決しておかしくない!」
 というものだった。が正直に言うと、実は僕も、有料化された時に、ちょっと微妙な気持ちになった者の一人だ。
 お金が惜しいからではない。お金のことを口にするのであれば、有料化されたその中身は、お金を払っても惜しくない内容であり、有料化といっても、大した額ではない。
 だから、今日は、その理由を書いてみたい。
 自然写真の世界は、多くの人に特殊過ぎる世界なので、プロの歌い手の世界に置き換えて書こうと思う。

 歌が好きな人なら誰しも、とても楽しくて、衝動に駆られて歌うことがあるだろう。気の合う仲間と集まった時、楽しい食事の後・・・。とにかく楽しくて、自然と出てくる歌声が。
 また、プロなら、多くの人を集めて、お金をもらいコンサートとして歌うこともある。いついつに歌うことが予め決まっていて、その中で歌う。その緊張したステージも、また楽しい時間であるに違いない。
 だが、前者と後者は、同じ楽しいでも質が違う。前者は、趣味の楽しさであり、後者は仕事の楽しさだ。
 そして、もしもあなたの友達の中に、プロの歌い手がいて、そのプロが仕事ではなく、プライベートで、趣味として歌うメロディーを耳にする機会があったなら・・・きっとそこには、コンサートでは味わえない、お金で測れない何かがあるに違いない。
 だが、そのプライベートな歌の途中で、そのプロが、
「ちょっと待って!僕はプロなのだから音楽で生活しているのだし、みんなほんの少しでいいから、お金を出してくれないかな」
 と言ったなら?
 その一言で変わるのは、お金を払うかどうかだけでなく、そこで奏でられる音楽の質もまた、変わってしまう。趣味の音楽から、仕事としての音楽になる。
 写真家も同じだと、僕は考える。

 掲示板には多くの意見が寄せられていたが、大半の意見が、
「写真家も霞を食って生きているわけではない。コストがかかる。情報にもお金が支払われるべきだ。それを分かっていない」
 といったお金に関する意見だった。だが、
「有料化なんて、あなたを見損ないました。」
 と、メールを送ったその人は、本当に、単にお金のことを書こうとしたのだろうか?
 例えば、歌が好きで、歌を聴いてもらいたくてたまらなかった無名のストリートミュージシャンが有名になり、やがて、
「お金がもらえないところでは歌いません」
 と変わっていったなら、趣味の歌ではなくて、仕事としての歌を歌うことは、プロとしては当たり前の姿だが、一抹の寂しさがないと言えば、僕は嘘になる。お金の問題ではなくて、
「ただ歌いたくて、歌う歌はなくなったのですか?」
 と、素朴にそう思う。
 掲示板に意見を寄せなかった中に、そんな思いから、何となく有料化に寂しい思いを感じた人は、意外に多かったのではないだろうか?と、僕は推測する。それもまた、1つのファン心理ではないだろうか。

 ただ、それでも、
「有料化なんて、あなたを見損ないました。」
 と意見することは余計なお世話だ。自然な感情として内心そう感じるのはいいが、口をはさむことではない。
 そう言えば、僕も同じ類のことを言われた経験がある。あるおばさまから、
「プロの人にとって、一般の人の意見って大切なんでしょう?それならね、私は一般の人なのだから、私の意見は貴重な意見として聞かなければならないんじゃないの?」
 と、詰め寄る人がいたのだ。
 僕の場合は、もっと極端で、直接的な例になるが、そんなのは、ファンの意見でも何でもない、強引で行き過ぎた、ただのわがままだろう。
 最終的に、何をどうするかは、写真家自身が決めることだ。
 
 

 2004.3.8(月) 
  3月5日に、
「僕のこの日記は、商売っぽい雰囲気にはしたくない。」
 と書いた。日記の話題として、写真を売る話は書くが、日記を書くことは自体は、あくまでも書きたいから勝手に書くのであり、仕事ではないというのが、基本姿勢だ。
 そして、今日、ある有名な自然写真家のホームページに設置された掲示板を見ていたら、やはり写真家とお金に関する話題があった。
 事の発端は、その有名な写真家に、1ファンと称する人が送信した1通のメールだった。

 そのホームページは、最近になって、一部、有料化されたのだが、ファンと称する人は、
「有料化なんて見損ないました。あなたは、もっと気骨のある人だと思っていました。」
 といった内容のメールを送りつけ、それを写真家が、
「みなさんはどう思いますか?」
 と、掲示板上で問いかけたのだった。
 写真家の立場から言えば、そのメールに書かれた中身は、余計なお世話以外の何物でもない。有料なのか、或いは無料なのかは、自分で決めることであり、違法なことやモラルに反することをしているのならともかく、全く個人の自由だと言っていい。有料には有料の良さがあり、お金が絡まないやり方には、そのやり方の良さがあるのだから。
 だから、もしもその1ファンさんが、無料であることがそんなにすばらしいと思うのであれば、それを人に押し付けるのではなく、自分が自分の手を動かして一生懸命写真を撮って、それに匹敵する活動を、無料で提供すればいいと思う。
 自分の意見を持っているのなら、それを他人に押し付けるのではなく、自分が行動をすればいい、と僕は思う。
 ただ、ホームページの有料化に関しては、ちょっと考えさせられるところがあったので、続きはまた明日にでも書いてみたい。

 さて、今日は水草に付着したメダカの卵を撮影した。10日くらいたてば、孵化をするだろうから、その瞬間を撮影したい。
 これから毎日、水草に付着したメダカの卵を集めていき、それを採卵した順に並べておけば、先に産み落とされたものから孵化をしていくはずなので、毎日孵化を撮影するチャンスが訪れることになる。
 だから、そんなに力まなくても、時々水槽を見れば、
「あ、孵化してる!」
 と、簡単に撮れるのではないだろうか?
 もっとも、僕の皮算用が、そんなにうまくいった試しは、ほとんどないが。
 
 

 2004.3.7(日) 頭部側線

 意外に知られていないことだが、メダカは条件さえ整えば、ほぼ毎日産卵をする。つまり、卵を産むことは、メダカにとって日常茶飯事だ。
 だが、産卵は、それでも大変な作業のようで、産卵を終えた直後のメスは、大変に苦しそうだ。特に、卵の数が多かった日には、このまま弱って死んでしまうのではないか?と、思えてくる。
 今日のメダカの産卵は、今まで僕が見た中では、最高の産卵数ではないかと思う。これだけの大きさのものが、体内から出てくるのだ。このメスは、かなり長い時間、ほとんど動くことができなかった。補足をすると、写真に写っている卵は、今日生まれた卵の半分で、残りの半分の同じ量が、体の反対側の右側にくっついている。
 その動けない状態を狙って、今日はデジタルカメラで、メダカの頭部側線を撮影してみることにした。昨日に続いての撮影だ。
 
 昨日はフィルムで撮影したのだが、頭部側線がどこにあるのか、撮影をしている僕自身がわかっていないのだから、現像をしてみなければ、それが写っているかどうか、自分でも全く分からない。
 デジタルカメラなら、その点すぐに確認できるが、何となくそれっぽいものが写っている。もしも、頭部側線をご存知の方がおられたら、教えて欲しい。
 この写真の目の青い縁の右側、中央よりちょっと下のあたりに、白くて小さなブツブツが見えるが、これじゃないかな・・・?目の上、やや右側にも、似たものが見える。
 一見おうど色に見える体にも、拡大をしてみると、黒っぽいブツブツがたくさん見える。これは、きっと色素だろう。周囲が黒っぽい時には、この色素が大きくなり体色を黒く、周囲が明るい時には、色素を小さくして、体を明るい色に変化させるのだと思う。
 
 ついでに、メスのお尻にくっ付いている卵を拡大してみた。卵の画像は、今日の一番上の画像を、部分的に拡大したものだが、卵の中の小さな泡までもが写っている。

 この泡がどうなっていくのかは、淡水記の中に詳しい画像がある。
 いよいよ、デジカメの時代が来たな〜と感じる。ちなみに、等倍撮影が可能なマクロレンズで、一番近づいて撮影をすると、今日の最初の画像の大きさに、メダカが写る。

(道具の話)
 ペンタックスのデジタルカメラ istD に続いて、ニコンのデジカメも、そう遠くないうちに手に入れようと、考えている。ニコンは、野外で、野鳥や、色々な自然を撮影する際に使用したい。
 なぜ、野外ではニコンを使うかは、そのうち書いてみたいが、例えば、オートフォーカスの性能は、ニコンかキャノンが抜群にいい。
 自然写真の場合、オートフォーカスが必ずしも通用するわけではないが、飛んでいる鳥の撮影他、時々、それが絶対的な威力を発揮する状況がある。
 鳥を撮影する人のホームページを見ると、
「オートフォーカスは通用しないので、手でピントを合わせるのが一番」
 と、書いている人が多いが、物はなんても使いこなしだ。それが威力を発揮する状況で使えばいい。
 また、マクロ撮影では、オートフォーカスは役に立たないと書いている人も多い。だが、これも必ずしも正しくない。キャノンの超音波モーター内蔵の100ミリマクロレンズのオートフォーカスは、時と場合によっては、大変に威力がある。
 カブトムシくらいの大きさの物が、直線的に、わ〜っと近づいてくる時など、少なくとも大半の人が手でピントを合わせるのよりも優れているし、上手く行けば、大型のトンボが飛びながら近づいてくる様子を、連続写真で、バシバシバシ・・・と、撮れる可能性もあると思う。

 

 2004.3.6(土) メダカの産卵

 先日(2/26)、メダカの目の付近にある、頭部側線という器官が写った写真を貸し出したと、書いた。
 自分の写真を貸しておきながら、その頭部側線が、僕の写真の中のどこに写っているのかが分からないままの貸し出しだった。
 ただ、頭の部分が大きく写った写真を見本として見てもらい、その上で、
「この写真を貸してください」
 と、依頼をされたのだから、相手には分かっているのかもしれないし、また頭部のイメージがよく伝わる、頭が大きく写った写真であれば、それで十分だったのかもしれない。
 が、いずれにしても、頭部側線は、相当に見難い器官なのだと思う。
 とにかく、顔をなるべく大きく撮影する他は、それを写す手段はないだろうから、今日は顔のUPの写真を撮影した。

 なぜ、先日貸し出したばかりの写真を、また今日撮ったのかというと、僕のところに依頼が来たということは、その写真が市場にないということになる。だから、同じ写真をまた誰かが必要とし、依頼される可能性は高い。
 そして、その依頼が、もしも急で、
「頭部側線がはっきりと写った写真を、大至急(これが意外に多い)撮ってください!」
 というものだったなら・・・
 メダカのように小さくて、泳ぐ魚の頭部をUPで、短時間で撮影するのは骨が折れるし、メダカを水から出し、横たえて、顔を拡大して写すことになるだろう。メダカには、気の毒な撮影だ。
 それを避けるために、ゆとりがあるときに、泳いでいるメダカの顔を、なるべく大きく撮っておこうと考えたのだ。

 さて、ゆとりがあるにしても、泳いでいるメダカの頭部のUPを写すのは難しいので、策を練った。そして同時進行で、メダカの産卵を撮影することにした。
 メダカが産卵をする直前には、相手に自分を見てもらうためではないか?と思うが、水中で停止をする時間が長くなる。その瞬間に、サッと近づいて撮影をすれば、うまくいくのではないだろうか?
 また、産卵のシーンは需要が多いので、ついでに、たくさん写真を撮っておいてもいい。
 すると、思いの他、簡単に撮影することができた。
 
(道具の話)
 デジタルカメラ用に買ったペンタクスの100ミリマクロレンズだが、なかなかいい描写をするので、驚いている。滑らかで、立体感がある写真が撮れる。
 これなら、35ミリ判のフィルムカメラもペンタックスを買い、このレンズをフィルムでも使いたいが、ペンタックスの35ミリ判には、気に入ったカメラがない。どの機種を試しても、シャッターを押してから、実際にシャッターが切れるまでの間が長く、一瞬のチャンスを捉えにくい欠点がある。
 唯一、古いLXというカメラがいいが、発売中止から時間が経っていて、メインテナンスなど問題があり、さすがに今買うカメラではない。
 ペンタックスは、アマチュア用のカメラを主に生産するメーカーだと、メーカー自体がうたっているのだから仕方がないが、もっとたくさん、このレンズを使いたいのに・・・。
 僕は、100ミリクラスでは、ニコンの105マクロレンズ(MFもAFも)、キャノンのUSM100ミリレンズ、タムロンの90ミリマクロレンズ(1/2倍も等倍も)などを、たくさん使ったことがあるが、1〜3絞り絞った時の描写は、ペンタックスが一番ではないか?と思う。
 
 

 2004.3.5(金) カスミサンショウウオ・幼生

 サンショウウオと言えば、何か奥地に生息するかのような印象を受けるが、中には、里に暮らす種類がいる。
 北九州では、今日の画像のカスミサンショウウオが里に生息するが、里はどこも開発が進んでいるので、数を減らしつつある。
 今日は、小倉の山田緑地公園で、スタッフの方が採集した卵から生まれた幼生を、数匹分けてもらった。
 今年は、公園内で見つかった卵の数が極端に少ないらしいが、山田緑地公園は完全に保護されていて、一切開発の手が入らないので、環境破壊が原因で、カスミサンショウウオが数を減らす道理はない。恐らく、今年だけの現象ではないだろうか?
 他の場所で、自分で卵を採集しても良かったのだが、開発が進み、痛みつけられている場所で採るのは気が引けたので、山田緑地公園のスタッフの方にお願いする方を選んだ。
 
 さて、今日の画像も、先日購入したデジタルカメラで撮影したものだが、600万画素クラスのデジカメがあれば、その画像をホームページだけでなく、印刷物の中でも使うことができる。つまり、仕事ができる。
 以前使用していた機種は、300万画素クラスで、性能的に、仕事にはちょっときついかな?という面があり、単にホームページの中で、雰囲気を伝えるためだけに一応撮っている感じだったが、600万画素クラスで撮るとなると、やはり本気になる。
 すると、こうして掲載する画像が不正使用されるのでは?という危険性があり、画像にクレジットを入れようかな?と考えたが、そうすると、何だか商売っぽい感じになるので、ためらっている。
 写真家は、写真を撮ってお金を稼ぐのだから、商売するのは当たり前のことだが、僕はすべての活動で採算が取れる必要はないと考えている。中には、採算を度外視して、ただ、自分が発信したいから発信するという部分が欲しい。僕の場合は、この日記が、それに相当する。
 僕は、書くことが嫌いではないが、書くのが好きで、ここに書いているのでもない。
 撮影をしたり、生き物に接すると、いつも何か感じることがあり、それが、心の中から自然と溢れ出して来るので、この日記を、その受け皿にしている。
 そうした、義務ではない、一切無理をしない、自然発生的に生まれてくる活動は、お金が絡まないからこそ、成り立っていてるような気がするし、ちょうど、体が痒くなったらそこを掻くのと同じように、自然な流れの中で書いているつもりだ。
 そこに、商売っぽい匂いは似合わかな?と感じたのだが、もう少し考えてみよう。
 
 カスミサンショウウオと言えば、数年前に、サシバという鷹の子育てを撮影したが、親鳥が、かなり高い確率でカスミサンショウウオを餌として運んでくることに驚かされたことがある。カスミサンショウウオは、大人になると陸にあがって生活をするが、隠れ込んでしまうので、産卵の時期以外に、人がカスミサンショウウオを見つけるのは至難の業だ。だが、さすがに鳥はすごい。
 
 

 2004.3.4(木) 雪が降った

 ヤマアカガエルの産卵を撮影しようと出かけたら、昨晩は、なんと雪が積もった。
 さすがにカエルはいないかな?と思ったが、それでも、産卵後それほど時間が経っていないニホンアカガエルの卵と、ヒキガエルの姿が見られた。
 そのヒキガエルを捕まえて、スタジオで撮影したみたが、とても臆病で、手足を体にぴったりくっつけて、身を丸めてしまう。なかなか撮影ができない。
 一般に小さなカエルは、紙の上に置き、あごの辺りをチョンチョンと持ち上げてやると身を起こすので、簡単に撮影できるが、大きなカエルは、まるでカメが手足を引っ込め甲羅の中に閉じ篭るように、防御のポーズを取る。今日は、上体を起こした写真を撮るのに、午前中いっぱいの時間を要した。
 恐らく、大きなものは、簡単には食べられないという自信があるのだう。下手に走り回って逃げるよりも、伏せておいた方が生き延びる確率が高いのだと思う。
 一方で、小さなカエルは、急いで逃げなければ食べられてしまうので、伏せるのではなく、体を起こし、ジャンプをする態勢を取るのではないだろうか?
 カエルに限らず、小さな生き物の方がせわしない。

 ニホンアカガエルのオタマジャクシは、ご覧の通り、立派にオタマジャクシらしい姿になった。
 こうして連日撮影してみて、600万画素クラスのデジカメを買って本当に良かったと思う。とにかく、フィルム代が不要であることと、その場ですぐに結果が見られることで、とても気持ちが楽なのだ。
 ちょっと前に、”デジカメが登場して、アマチュアの野鳥写真のレベルが上がった”と書いたが、なるほどな〜と、そうなった理由がよく分かる気がする。
 カメラと一緒に、ペンタックスの100ミリマクロレンズを購入したが、レンズの描写も気に入った。ペンタックスのレンズは、ニコンのレンズほど力強い写りではないが、その分、細かいところまで写る感じがする。
 ニコンのレンズは、すべてのレンズがそうではないが、写真の中の暗いところをより暗く写す傾向がある。暗い部分をもっと暗く写すと、写真は力強く、シャープな印象を与える。だが、同時に暗い部分にあるものが、省略されて、失われてしまう嫌いがある。よく言えば力強く、悪く言えば、大雑把なのだ。例えるなら、パワーがあり頼れるが、無神経なところもある親父といったところだ。
 その点、ペンタックスのレンズは、力強くはないが、暗いところにあるものも、割とよく描写するように感じる。地味で、派手さはないが、よく気が付いて世話をしてくれるおばちゃんという感じだろうか・・・。
 写真を始めたばかりの頃は、技術的な原因で、写真がなかなかシャープに写らなかった。シャープに撮りたいと、いつも望んでいた。それがトラウマのようになり、長い間、とにかくシャープに写るレンズがいいレンズであるように思っていた。 
 だが、当たり前にシャープに撮れるようになると、柔らかい描写のレンズの方が、扱いやすいと、感じるようになってきた。
 
 

 2004.3.3(水) カエルの楽園



 生き物を採集して持ち帰ろうとすると、
「かわいそうだよ。放してあげようよ。」
 と言う人がいる。その通り、かわいそうだし、生き物は野外で見る姿が一番だ。
 だが、飼育には飼育の面白さがある。うちの事務所には、プレハブの飼育室があるが、今その中で、アマガエルを飼うための準備を整えている。
 そのアマガエルには、ジャンプの瞬間の連続写真など、野外では撮影が難しいシーンをスタジオで撮影する際の、モデルになってもらう予定だ。

 アマガエルの飼育は易しいが、同時に撮影をするのには多少難しいところがあり、例えば、カエルの色が思うような色になってくれないことが多い。
 アマガエルは、周囲の色に合わせ、茶色〜緑まで体色を変化をさせるが、多くの人がイメージする色は緑色であり、ジャンプをしているカエルの姿がきれいな緑でなければ、滅多に写真は売れない。
 ところが、アマガエルのきれいな緑は、野外の草の中でなければ、なかなか出ない。飼育ケースの中で3〜4日も飼うと、多くのカエルが色の浅い緑や、茶色と緑のまだらになる。
「周囲に緑があれば、緑色になるはずだ!」
 と、これまで、たくさんの工夫を試してみたが、どうしてもダメ。
 ・ 草を生やした鉢植えをケースの中に入れる。
 ・ 草をケースの中に直接生やす。
 ・ 飼育ケース自体を草むらの中に置く・・・
 すべて、うまくいかなかった。
 そこで、撮影の直前に新しいアマガエルを採集することになるが、思うようなサイズや顔つきのカエルや、数が、なかなか採集できず、効率が悪い。

 なぜ、飼育ケースの中では、きれいな緑にならないのだろう?
 1つ可能性としては、カエルは周囲に緑があるだけでは、緑色にならないのではないだろうか?その緑を、カエルがちゃんと自分の目で見て、周囲に緑色があると認識しなければならない可能性がある。
 飼育ケースの中では、カエルはどうしても落ち着かないし、狭いスペースに隠れ込もうとする。隠れ込んでしまうと、周囲に緑があっても、それが目に入らなくなる。
 そこで今回は、飼育ケースをなるべくシンプルにして、下に人工芝を敷いたらどうだろう?と考えた。
 以前に、ケースの中に緑の紙を貼ってみたことがあるが、カエルにとって、紙と葉っぱの緑とは別の色らしく、その時は、色の浅い緑になってしまった。でも、人工芝なら、結構いけるのではないだろうか?こうしてデジカメで写真を撮って見ても、草の緑色に近いように感じる。

 飼育ケースの中では、同時にカスミサンショウウオを飼いたい。
 画像の手前側のやや小高い陸が、アマガエルのエリアで、ここには観葉植物を茂らせるか、あるいは人工芝と同じ発想で、人工の葉っぱを置く。
 一番奥は水場で、その水場からポンプで水をくみ上げ、真ん中のやや低い陸のエリアに流し、そこに、岩や割れた植木鉢をおくと、サンショウウオの住処になるだろう。岩や植木鉢の上には、コケを育てる。
 こうなってくると、単純に撮影用のアマガエルを飼うのではなく、趣味の域に突入してしまうが、まあ、いつか役に立つだろう。
 ケースのサイズは幅が120センチとかなり大きいが、ジャンプをする生き物にとっては、狭いことは間違いない。カエルにとっては迷惑な話だが、厚かましくも、このケースをカエルの楽園と、名付けた。

 さて、今晩は雨が降るようなので、夜のカエルの撮影に備えて、昼寝をしておこう。
 
 

 2004.3.2(火) アカガエル

 昨年、小さな虫の糞を、白い紙の上において大きく拡大して撮影しようとしたら、紙の表面のガサガサがとても目立って、困った。
 そこで、表面が一番ツルツルの用紙ということで、パソコンのプリンター用のマット紙を敷いて撮影した。
 それから、いつも、白い紙の上で撮影する時は、同じ用紙を使用してきたが、今日は、その上にアカガエルを置いたら、カエルがくっ付いてしまうので驚いた。
 恐らく紙の表面に何か加工が施してあり、その加工がカエルの体液で溶け、糊のような役割をしたのだろう。カエルは体をよじり、無理に剥がそうとして、とても痛々しい。慌てて水道に走り、用紙ごと水につけたら、無事カエルがはがれた。
 生き物の撮影は、毎日が試行錯誤で様々なことを試すが、その結果、思いがけないことがたくさんおきる。
 そして、また撮影を続けようとしたら、あと一匹、撮影のためにバケツの中に入れていたアカガエルが、その間に脱走していることに気付いた。
 大掃除もかねて、あらゆるところを探したのだが、見つからない。困った。
 
 

 2004.3.1(月) 孵化

 水槽の中のアカガエルの卵は、ほぼすてべ孵化を終えた。今水槽の中には、2000匹以上のオタマジャクシが入っていると思うが、このうちの数匹を残して、残りは元の場所に返しに行く。
 生まれたばかりのオタマジャクシには、ほとんど動きがないし、ただひたすらにじっとしているだけで、まるで意志がないかのように感じられるが、それでも時々水槽をのぞき込んでみると、落ち葉の上や、岩の表面など、ちゃんと好きな場所があることが分かる。

 先月、広島で下見をしたヨシガモを撮りに行きたいのだが、なかなか天気が思うようにならない。今週は、丸々一週間、いつでも撮影にいけるようにスタンバイができているが、天気ばかりはもがいてもどうにも解決しないし、仕方がない。
 そうこうしているうちに、カモたちの北帰行が始まってしまう可能性もある。そうなると、また来年ということになる。晴れの日があと2日あれば、多分撮れるのではないか?と思うのだが・・・

 今日は、午前中が曇りところによって雨、午後からは晴れの予報だったが、昼過ぎまで小雨が残り、夕方になっても天気が悪い。
 そこで、今晩は、アカガエルとよく似た、ヤマアカガエルを探しに行ってみようと思う。
  
  
先月の日記へ≫

自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2004年3月分


このサイトに掲載されている文章・画像の無断転用を禁じます
Copyright Shinichi Takeda All rights reserved.
- since 2001/5/26 -

TopPageへ