撮影日記 2004年1月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2004.1.31(土) ひいきの生き物

 生き物が好きな人なら誰しも、ひいきの生き物が、心の中に存在することだろう。
 そのひいきは、必ずしも美しい種類やかっこいい種類とは限らず、往々にして、大半の人から見れば、え!これが?と思われるような生き物であることが多い。
 そうしたひいきを持つ人を、世間では「オタク」や「マニアックな人」と呼ぶ。
 例えば、干潟には、シギやチドリというグループの鳥が生息するが、いずれも色合いが極めて地味で、種類の識別も難しい。
 が、だからそれが好きだという、シギ・チドリマニアが存在する。
 今日は知人が最近オープンした、昆虫ショップに顔を出してみたが、やはりオタクの匂いがプンプンした。
 まず、陳列棚を一通りみると、アマミノコギリクワガタというラベルが貼られたケースが多い。ケースが多いということは、人気があるのかな?と思い、
「アマミ(奄美)ノコギリクワガタって、人気があるのですか?」
 とたずねてみたところ、
「人気ありますよ。私もノコギリ系が一番好きで、来シーズンには、別の離島のノコギリクワガタも入荷する予定ですよ。」
 と力強くおっしゃった。
 でも、何度眺めてみても、夏になると付近に出没する、ごく普通のノコギリクワガタとどこが違うのか、僕には分からなかった。

 そういう僕にも、ひいきの生き物がいる。
 例えば、魚の中では、アカザという小さなナマズのような魚がとても好きだ。
 そのアカザを、この冬、うちの水槽の中で飼育中だが、今日は、アカザを撮影するための準備に取り掛かった。数日うちに、その写真を掲載できる予定だ。
 アカザをみて、皆さんがどのような印象をもつかわからないが、オタクは堂々としていなければダメだと、僕は最近悟ったばかりだ。遠慮なく、「プッ、こいつオタクだ・・・」と笑ってもらえればいいと思う。

 アマミノコギリクワガタの他には、ヘラクレスオオカブトがたくさん飼育されていた。こちらは、オタクというよりは、カブトムシの王様か、大王様だ。
 羽化したばかりのものや、蛹もたくさん飼育中で、まじまじと見るのは初めてだったので、大変に興奮した。いつか写真を撮らせてもらおう。
   
  
 

 2004.1.29(木) いろいろな作戦

 昨日、リンクのページに、新開孝さんの虫のホームページを加えたが、新開さんがカメラを向ける被写体は、虫の中でも、マニアックな種類が多い。
 誰しも、カブトムシの写真を一度は見たことがあるのではないかと思うが、有名な虫の写真には需要があり、マニアックな虫の場合は需要が少ないのは当然のことであり、そうした写真を狙って撮ることにはリスクが伴う。
 新開さんは、あえて、作戦として、それに取り組んでおられるのだそうだ。

 僕の場合、新開さんのその作戦に匹敵するのが、色々な被写体にカメラを向けることだ。
 大きな望遠レンズを使い野鳥を撮る。水中カメラを持ち水に潜る。小さな生き物を拡大するレンズを取り付け、小動物を撮る。広い範囲を撮影できるレンズを取り付け、風景を撮る・・・・
 これには、やはり、大きなリスクが伴う。
 まず、いろいろな技術を会得する時間がかかるし、幅広く撮影することで、1つ1つの撮影が手薄になる。
 鳥・水中・小動物・風景・・・といった撮影が、点になり、バラバラになってしまうと、鳥専門のカメラマンに負け、水中専門のカメラマンに負け、小動物専門のカメラマンに負け、風景専門のカメラマンに負け・・・と、四連敗くらい喫してしまう危険性があるからだ。
 それらの点を1本の線としてつなぐには、かなりの時間がかかるし、人よりもたくさんのエネルギーが求められるだろう。が、僕は自分の世界をどんどん広げていくやり方に、活路を求めようとしている。

 色々な物を撮ることで、身に付くこともある。
 僕は、ある時、ひたすらに風景ばかりを撮った時期があるが、風景の撮影では、他の撮影よりも構図が大切だと感じた。
 風景の写真は、どうしても、”だから何?”といった感じの、ただ写っているだけの平凡な写真になりがちなので、いかに画面に変化をつけるか、そのアイディアをたくさん持つことが大切になる。
 例えば、ただ滝を撮るのではなく、手前に木を入れてみる。逆光で光を入れてみる。色を入れてみる・・・・何かプラスアルファーが大切で、風景を撮り込むと、それを探そうとする習慣が身に付き、それが、小動物の撮影に役に立ってくる。
 また、花鳥風月という言葉があるが、鳥の写真の世界には、被写体を優雅に美しく撮ろうとする雰囲気がある。鳥の撮影に取り組むことで、そうした習慣が身に付くし、その心でカタツムリを撮影したら、
「あなたのカタツムリは気持ち悪くない」
 と評価してもらい、たくさんの写真が使われた。
 僕は、いろいろな物を撮ることの相乗効果に、勝負をかけたのだ。
 そして、半端に取り組んだのでは、何も身につかないし、ある程度、物になったと自信が持てるまで、続けなければならない。

 今月の水辺を更新しました。今月は、カモの写真を選んでみました。
   
  
 

 2004.1.28(水) 忘れ物

 携帯電話とパソコンを接続するコードを忘れたまま取材に出かけ、ホームページの更新ができなくなっていたが、今日帰宅をした。
 最近、忘れ物が多い。
 忘れ物の多さは、多分遺伝だと思う。僕の父も忘れものがすごい。
 父は、車で仕事に出かけ、車を忘れて、タクシーで帰宅をしたこともある。
 僕は生活に困っているので、さすがに金目のものを、どこかに置いて帰るようなことはないが、必要な物を持っていくのを忘れることは多い。
 僕は忘れ物が多いくせに、忘れ物などのうっかりが許せない性質なので、始末が悪い。
 今回も何とかならないか?と色々と考えた。
 普通の電話のコードがあれば、どこか公衆電話で更新できるのではないか?と考え、近くにある公衆電話を見てみたが、データ通信が出来るような差込口はどこにもない。また、何もない山の中なので、公衆電話自体が滅多にない。
 さらに、普通の電話のコードでさえ、売ってそうなお店もない。
 諦めの悪い僕だが、これには諦めるしかなかった。
 
 今朝は、広島県の山間部を島根県へと通り抜け、島根県から山口県を走り、福岡に帰宅をした。画像は、広島県の山中で撮影した朝の風景だ。
   
  
 

 2004.1.27(火) 

  携帯電話とパソコンを接続するコードを忘れたので、こうして書いているホームページを更新することができない。
 日頃、1日くらいは更新をしない日があるが、2日も3日も更新しないことはないので、下手をすると遭難だと思われてしまうかもしれない。
 そうすると人様には迷惑をかけるし、僕自身は恥ずかしい。
 電子メールだけは、携帯電話で読めるようにしているので、チェックしてみると、先輩の一人から、
「ちょっと教えて欲しいことがあるのだけど・・・」
 とメールが来ているが、
「返事は急がないから」
 とも書いてある。とにかく気遣いのある先輩からのメールなので、もしかしたら、さり気なく、大丈夫?とたずねてくださったのかもしれない。
 明日は午前中に撮影して、急いで帰ろう。

 今日は、11月分の『今月の水辺』で紹介した滝を、また撮影した。
 この滝をはじめて撮影したのは、去年の初夏で、そのついでにウロウロしていたらオオサンショウウオの生息地があることを知り、10月にオオサンショウウオ撮影した。
 11月には、紅葉の滝を撮影して、今月の水辺の中で紹介したら、
「西日本にもいい場所があるのですね・・・」
 というメールをもらった。
 そして、今回は雪の中での撮影だが、次々と”連想ゲーム”か”しりとり”のように撮影がつながっていくのは、楽しいことだ。

 以前の僕は、水辺というテーマを設定することには、多少の心配があった。
 風景を撮る、小動物を撮る、水に潜る、野鳥を撮る・・・・と、いろいろな物に手を出した結果、写真がどれも断片的になってしまう危険性があるからだ。
 だが、最近になって、一生懸命に撮影すれば、無駄なんてあり得ないと、感じるようになってきた。仮に、写真が断片的になったとしても、鳥の撮影で身につけた技術は、僕の主な仕事である小動物の撮影にも役に立つし、風景の撮影で身につけた技術も、また役に立っている。
   
  
 

 2004.1.26(月) 南アルプス
 絵になりそうで、なかなか絵にならない被写体がある。
 例えば、雪の渓流などが、そうだ。
 雪に埋もれてしまえば、渓流もただの吹き溜まりだし、所々顔をのぞかせた黒い岩肌と雪の白が入り混じり、写真に撮ると、白黒がゴチャゴチャした何が何だか分からない写真になってしまうのだ。
 冬の渓流の写真で、ホ〜と感動するような写真を僕はまだ見たことがない。

 いや、ただ一枚だけ、いいな!と感じた写真があった。
 田代宏さんとおっしゃる写真家の作品で、凍りついた渓流の岩場を、水飛沫が静かに跳ねていくような写真だった。
 僕が学生の頃に買った本で、グラフィック社から出版された『南アルプス』という写真集の中の一枚だった。
 『南アルプス』は、田代さんが亡くなられたあとで、田代さんの師匠である宮崎学さんと水越武さんの手で作られた本だった。亡くなられた原因は、落石か何かの山の事故だったと記憶しているが、宮崎学さんが事故の現場をおとずれてみた時の感想を、”何でこんな危ない場所にテントを張ったんだ?”と、書いておられた。
 きっと、初歩的なミスだったのだろう・・・。

 今日は渓流を歩いてみたが、雪が深くてなかなか前に進めない。
 雪が少ないところで膝くらい。多いところで腰くらいの深さがあるし、渓流には大きな岩がゴロゴロしているのだから、変なところを踏むと、ストーンと落っこちてしまう危険性もある。
 撮影をしていると、小さな雪崩が起きた。
 雪崩は僕が三脚を立てていた場所に到達した時は、ほぼ収まっていたのだが、それでも雪のしぶきで目の前が真っ白になり、カメラがびしょ濡れになった。
 その直後に、雪のしぶきが収まりかけた時にシャッターを押したのが、今日の画像だ。
 
 冷静になってみると、高山や冬山でなくても、雪崩の危険があると気付いた。小さな規模の雪崩でも、飲み込まれ、谷に放りこまれたら危ないだろう。
 写真を始めたばかりの頃は、何もかもが目新しくて恐ろしく、必要以上に慎重になったものだが、最近は慣れてきたので、案外そんな時に、事故に合うのかもしれない。
 『南アルプス』の田代宏さんが、山の事故で亡くなられた時が、確か30代半ばだったと思うが、今の僕と同じくらいの年齢だ。
 宮崎学さんだったか、水越武さんだったか、田代さんの師匠のうちのどちらだったか忘れてしまったが、田代さんは山の姿を捉えつつあったと、書いておられた。
 ”捉えつつあった”ということは、まだ捉えていなかったことになるし、『南アルプス』には足りないものがあると師匠は見ておられることになるが、僕は、とても好きな写真集だ。
 
  
 

 2004.1.25(日) 売れる写真

 「生き物のカメラマンになりたいんです。」
と、昆虫写真の海野先生に手紙を書いてから、およそ10年の年月が流れた。
 初めて先生のもとをたずねた日、海野先生は、
「仕事として写真を撮るからには、撮りたくない物も撮らなければならないし、覚悟が必要です。」
 とおっしゃった。そして、写真にはニーズがあり売れるものと、そうでないものとがあり、食いたいのなら、まず売れる物を撮りなさいと、教えてくださった。
 また一方で、
「たとえ売れる写真ではなくても、好きなものを無心で撮ることも大切だよ。」
 と、おっしゃった。
 その翌日、先生の車に乗せられ、海野写真事務所がある東京から、昆虫撮影スタジオがある長野に向かうその途中で、先生が突然に車を止め、アゲハチョウの撮影をはじめた。
「これは売れる!いい状況だよ。この花とアゲハチョウの組み合わせは売れ筋なんだよ。仮に写真一枚の使用料が2万5千円だとするでしょう。今の撮影で2〜3枚使える写真が撮れて・・・ほら!5万円くらい稼いだんだよ。」
 と、僕の目の前で、シャッターを押しながら説明をしてくださった。
「生活のために、売れる写真を撮ることは、それなりに辛いことだよ。」
 と先生はおっしゃっていたが、”これは売れる!”とアゲハチョウの写真を撮る先生は、とても楽しそうだったし、とにかく何でも楽しくやればいいんだ!と、僕はその時思った。

 ところが、いざ自分で取り組んでみると、好きな写真を撮る時間はともかく、生活のために売れる写真を撮る時間を楽しむ余裕は、僕にはなかった。売りたい!売りたい!売りたい!と、ひたすらに窮屈で苦しいのだ。
 ようやくここ2〜3年、どうしたら写真が売れるのか、要領が多少分かってきたし、売れる写真を撮る時間も、それなりに楽しくなってきた。
 これは売れる!と楽しそうにアゲハチョウを撮影した海野先生のように、生活のための撮影も、自分が単純に好きで撮る写真も、何でも楽しんでしまう海野流を、少しだけ会得できた。
 そしてあと1つ、
「売れなくても好きなものを撮ることが大切だよ。」
 とアドバイスしてもらったのだが、仕事を抜きにして自由に撮った写真も、ちゃんとした形にして発表したいと最近強く思うようになってきた。
 僕は渓流の水辺が好きなので、沢や沢の生き物を撮り続けいてるが、もっとその時間を増やしていきたいと思う。
 明日からは、広島〜島根県の雪の渓流を撮影する。先週の寒波で、積雪がすごいはずだ。
    
  
  

 2004.1.23〜24(金〜土) 

 九州としては、数年に一度の寒波が押し寄せてきた。平野部にも雪がたくさん降った。
 が、僕が定点撮影している田んぼには、全く雪が積もっていなかった。
 田んぼの定点撮影なのだから季節感が欲しいし、冬はやはり雪だと、22日の夜の間に、熊本県にあるその田んぼまで移動をした。
 ところが、雪が積もっているにちがいないと、ワクワクしながら目をさましたのに、いつも通りの田んぼがあった。
 がっかりして帰宅をしようと高速道路に乗ると、すぐに渋滞にはまってしまった。
 雪による通行止めだった。ほんの少し離れたところは、雪なのに・・・。
 渋滞で何もすることがないので、電話で天気予報を聞いたら、もっと凄い寒波が近づいているという。ヨ〜シと、さらに一泊日程を延ばすことにして引き返し、田んぼの付近で車内泊をした。
 ところが、やはり今日も雪の気配はない。それどころか、見事な青空が広がっていた。

 気のせいかもしれないが、九州でいい場所を見つけて定点撮影しようとすると、同じようなことが多いような気がする。
 例えば数年前に、熊本にある大桜をやはり定点撮影したが、今回の田んぼの同じように、そこだけなかなか雪が降らなかった。
 もしかしたら、雪が降りにくく気候的に恵まれている場所に、生き物が特に豊かな田んぼがあったり、或いは大きな大木が育ったりするのだろうか。
 今後ちょっと気をつけておいてみよう。
   
  
 

 2004.1.22(木) 我武者羅

 昨日の、”あなたはオタクだ!”の続きという訳ではないが、僕は何かに取り組み出すと止まらないところがあり、その性格がいい方に出ることもあれば、悪く作用することもある。
 良くも悪くも無理をしてしまう。
 数日前にも書いたが、熱帯魚や水草の飼育に夢中になり、撮影がおろそかになってしまったり、逆に、それが生き物の飼育水槽の撮影に生きてきたり・・・。
 自分では、特別に熱中しているつもりはなく、ごく自然に振舞っているのだが、人から指摘をされ、そのことに気付き、突然に恥ずかしくなることもある。
 先日ある出版社で、ホームページを使って写真の売り込みをしていたら、
「ここまでやるか?・・・という感じのホームページですね」
 と笑われてしまった。
 例えば、僕はスムーズに連絡を取り合えるように、このホームページの”仕事依頼窓口”の中で大まかなスケジュールを明らかにしているのだが、
「こんなことしている人、初めて!」
 と言われ、笑われた。
「そこは笑いをとる場所ではないのですが・・・」
 と口から出そうになるのをグッと堪え、そうか、僕は変わっているんだと、実感する。

 写真が好きな人は、数え切れないほどいるのだし、中にはアマチュアでもほとんど毎日のように写真を撮る人がいる。
 僕の知人のあるおまわりさんは、24時間勤務をして、2日の休みを取り、その休みで花の写真を撮る。6日のうち、2日仕事をして4日撮影をすると、これはもう、ほとんどプロの写真家並の撮影時間を持つことになり、それはそれはすばらしい写真を量産しておられる。
 そんな人たちよりも、もっと上をいかなければ、プロなんて必要ないのだから、プロの写真家には、あらゆる工夫や我武者羅さは不可欠だと僕は信じている。
 ”やり過ぎ!”と笑われるくらいで、ちょうどいいのではないか?と思うのだ。
 でなければ、ジリ貧になり、埋もれてしまう。
 
 ただ、無謀な無理は控えなければならないと、最近強く感じるようになった。
 例えば、車の運転がそう。昔は、少しでもたくさん撮影したくて、九州から新潟まで一日で移動をしていたのだが、事故を起こしてはならないし、これからは、絶対に無理はよそうと、心に決めた。
 明日は、定点撮影中の田んぼに行ってみたい。
 今日の九州は、雪に見舞われ、道路はノロノロ運転で徐行をする車で渋滞だらけだ。熊本の某所にある田んぼへの移動は、夜間人が寝静まってからでなければ、昼間だと何時間かかるのか想像もつかない。
 ただ、僕は夜が弱いので、そんな運転には危険が伴うし、今日は昼間の間に十分に昼寝をして夜の運転に備えた。 
   
  
 

 2004.1.21(水) あなたはオタクだ!

 「あなたは、オタクだ!」
 と、笑い飛ばされた。先日上京した際に、知人をたずね写真を見てもらったときのことだ。
 知人とは、主にコマーシャル関係で人物を撮影する写真家だが、人物やファッションなど一般的な被写体を撮影する人から見れば、生き物の写真ばかりを撮ることは、とても偏ったオタクな行為なのだ。
「ここまでオタクになれれば立派だ。あなたの武器だ。」
 ともおっしゃった。
 ただ、その時に見てらった写真は、自然写真界ではごくごく一般的な定番の被写体ばかりだった。それでも普通に暮らしている人から見れば、十分に特異で、オタクの世界なのだ。
 たとえば、僕が、
「アマガエルなんてありふれているし定番だからな。この写真には新しいものがないな」
 と思いつつ、アマガエルの写真を見せる。すると、
「いや〜、こんなものマジマジと見るの初めてだな。新鮮だね。」
 という言葉が返ってくる。
 言葉に出してオタクだ!と言ってもらえた事が、とてもありがたかった。多くの人にとって、僕たちの世界がどう映るのかを言葉に出せるくらいよく知っておくことは必要だと思う。
 僕が見てもらった定番で、比較的分かりやすい生き物たちの写真でさえオタクなのだから、そうでない生き物の写真は、オタクを通り越して、単なるマニアックな資料写真か何かにしか見えていないのだろう。
 自然写真界では、定番の生き物の写真以外は滅多に売れないが、なぜ限られた生き物の写真しか売れないのか、なるほどなぁ〜と改めて感じた。

 中には、
「本を作っている編集者の努力不足で、いつも同じ生き物しか取り上げないから、そうなってしまうのだ!」
 という写真家もいる。
「もっと色々な生き物を知らしめるべきだ」
 という人もいる。
 定番の生き物を撮り、多くの人にその写真を分かってもらうことも、また、オタクを通り越し、マニアックなものを撮り、もっと色々な生き物を知ってもらうチャレンジをすることも、どちらも正しいと思う。
 それは、その写真家が誰に写真を見てもらいたいか、そして何をしたいかの問題だと思う。
 下世話な話だが、僕はもっと稼ぎたい。稼ぐためには、たくさんの人に受け入れてもらわなければならない。多くの人に見てもらうためには、多くの人がわかるレベルで語りかける必要がある。
 定番の被写体を、もっと丁寧に撮ってみようと思う。定番の生き物の写真の中に、生き物の面白さをもっとたくさん詰め込んで発信してみたい。

 何かに置き換えてみると、物事が簡単に理解できることがある。僕は写真を撮る時に、よく学生時代に受けた授業をよく思い出す。
 中には十分に噛み砕いてわかり易い授業をしてくださった先生がおられ、また逆に、分かりやすいなんて志が低いと言わんばかりに、次々と難しいことを授業をされ、本物を与えようとなさった先生もおられた。
 僕は、わかり易い授業が好きだった。
 最近になって時々歴史を勉強したくなることがあるが、専門家の本は、ちょっと開いただけで頭がクラっとして、瞬時に僕を深い睡眠へと導いてしまう。専門家の本でなくても、高校の教科書レベルでも難しい。
 僕に合うのは、小学生向けの漫画世界史か漫画日本史くらいのものだ。あれは、とても面白い。
 僕は自分がそうなので、
「あなたの写真は良く分かるよ」
 といってもらえるようになりたい。わかり易い授業をしてくださる先生の話が、どんなに有難かったか・・・。
 そのわかり易さの最も客観的で、シビアな評価の1つして、写真が売れるかどうかがある。これも大切なことだ。
   
  
 

 2004.1.19(月) 今日はやや良し

 3日分処方された抗生物質(詳しくは昨日の日記へ)を全部飲み終え、今日は、薬を飲んでいない。
 それでも午前中は、昨日までに飲んだ薬の影響だろう、お腹の具合が悪かったのだが、午後からは比較的良くなってきた。
 遠出はやはり心配なので、明日は、近所の英彦山の渓流を見に行ってみようと思う。

 今日は、いつお腹がやばくなってもいいように、すぐに暖かいトイレに駆けつけることが出来る場所は?・・・と考え、買い物に出かけることにして、ストロボ(照明)用のアクセサリーを1つ買ってきた。
 ストロボの発光部を、上の箱のような入れ物の中にいれた状態で光らせると、直接光を浴びせるよりも物がきれいに写るのだ。
 今までは、自分で工作をして工夫をしていたのだが、今日買った純正のアクセサリーは組み立てが簡単で楽に持ち運びができるので、以前から欲しいと思っていた物だ。
 お店で商品を見ていると、予測どおり、お腹がやばくなってきた。が、暖房の効いた暖かいトイレがあるのだから心強い。
 暖かいっていいな・・・。あ〜山に行かないで良かった。
 普通は、お腹を下すことは不幸なことだが、山に行くことを考えていた僕のとっては、そこは暖かいトイレがあるお店だし、とても幸せに感じられた。
 野外で過ごすと、文明のありがたさが良く分かる。普段の生活も、普通の人の倍くらい楽しくなる。
 負け惜しみっぽいかな?
  
  
 

 2004.1.18(日) 腸内細菌 

 今月になってから、喉の入り口にできものが出来てるような不快感があったのだが、あまりに長く治らないので、喉頭癌のような悪い病気だったらヤバイな・・・と思い、一昨日、見てもらった。
 診断は、扁桃腺が腫れているとのことだった。
 僕は、生死に関係ない病気はほとんど放っているが、薬をもらったので抗生物質で治療をすることにした。
 一昨日から、その薬を飲んでいるのだが、下痢がひどい。体の中に侵入した菌を殺す薬だから、腸内の必要な菌も死んでしまうことになり、それが原因だと思う。
 雪の渓流を撮りたいと思うのだが、真冬の渓谷で、しかも雪の中での下痢はとても厳しい。あんな環境でおしりを出さなければならないのは、想像しただけでオゾマシイ。
 普通のうんこのようにスッと出て、後は便意が治まる場合は、ほんの数分ですむが、下痢の場合はそうはいかない。
 ということで、体の様子を見ながら撮影の計画を立て直している。明日から強行して出かけるか、余裕をみて、一週間遅らせるべきか。明日の具合を見て判断しよう。
 処方された薬は3日分で、今日で薬の服用は終わるが、崩れてしまった腸内細菌のバランスは、すぐには元に戻らないだろうなぁ・・・。
  
  
 

 2004.1.17(土) 夢中 
 僕は以前に熱帯魚や水草の飼育に夢中になった時期がある。
 水草を水槽の中にきれいにレイアウトして観賞用の水槽を作り、そこに魚を放すのだが、夢中になり過ぎて、写真がかなりおろそかになった。
 当時僕は野鳥のカメラマンになろうと考えていたが、毎日毎日、鳥ではなく水槽のことばかりを考えるのだから、”こんな生活をして大丈夫か?”と我ながら不安になった。
 すべてを犠牲にして打ち込み、レイアウトの腕前はメキメキ上達した。厚かましいが、もしも水草レイアウトのコンテストに応募すれば、間違いなく、上位入賞の常連になれたと思う。
 その後、小動物の撮影をするようになり、時々、生き物の飼育シーンを撮影する機会が舞い込んでくるようになったが、”あなたの飼育水槽の写真はいい!”とすぐに評価してもらえた。
 僕は、水槽の中に草や石や木の枝などをレイアウトして、そこに生き物を放し、飼育水槽として撮影したが、水槽の中に草や石や枝をレイアウトする際には幾つかの法則性があり、そのルールに忠実にレイアウトをして、写真を撮った結果だった。
 何が無駄で、何が役に立つのかずっと後になってみなければ分からないが、僕は、やるからには使えるレベルに達するまで、気が触れたように打ち込むことにしている。

 生き物の飼育水槽を撮影する際には、僕はいつも水槽の中に自然を再現した箱庭を作り、その中に生き物を放すが、水槽の床には、うちの庭で採集したコケや草を敷き詰めることが多い。うちの庭には、そんなコケや草がたくさん生えるのだ。
 ところが、この冬、妹が交通事故にあった犬を拾ってきて、その犬の元気がよすぎるため、犬が走り回る部分は、土がむき出しになりツルツルになってしまった。
 来年は、飼育の写真を撮るかもしれないので、これは困った・・・と、今日はその対策に乗り出したのだが、庭に大きなスイレン鉢を幾つも並べ、犬が入れない場所を作った。
 画面手前の水が張ってある2つの水槽は、ずっと以前から置いてあったもので、鉢が邪魔になり犬が走れないので、鉢の合間に緑の下草やコケが生えている。そんな空間をたくさん作るために、一抱えもあるようなスイレン鉢を庭に合計で8つ設置した。
 植物は、今年の5月くらいに、アサザやガガブタやコウホネやスイレンなどを植える予定だ。鉢の合間にコケを繁茂させるだけでなく、ちょっとした水辺が、うちの庭に出来るのだ。
  
  
 

 2004.1.15(木) 帰宅
 
 福岡に帰宅をした。東京は疲れるな・・・。 
 ということで、おやすみなさい。
  
  
 

 2004.1.13(火) シミジミ
 
 ここのところ何かと調子が悪くて、失敗ばかりが続いていた。事務所で写真をひっぱりだし、上京をして出版社をたずねる準備をしていても、自分でイライラしてしまうような失敗ばかりを繰り返した。
 そもそもすべてのケチのつき始めは、昨日12日が祭日であることをすっかり忘れ、そこにスケジュールを入れるつもりで上京の日程を組んだことだった。
 祭日はみんなお休みしているのだから、実質的に一日日程が短くなり、その分別の日にスケジュールを無理に詰めこむことになり、なんだか急かされているような焦りを感じ、仕事が雑になったのだろう。
 そこで今回の上京は、あまり綿密に準備をせずに、話をして”楽しいな!”と感じる出版社の方のところだけをたずねることにした。そこで身を任せてみることにした。
 打ち合わせに行くというよりは、お食事会に参加させてもらうつもりで上京をした。
 今日は、多少仕事の話しをしたが、僕にとっては、笑ったり、考えたり・・・、とてもいい気分転換になったと思う。
 いつもであれば、上京して話しをすると、ヨ〜シと気合満万になるのだが、今回は、本の仕事って楽しいなと、シミジミ感じた。
  
  
 

 2004.1.12(月) スタジオで
 
 今日は知人が経営する写真撮影スタジオを見学させてもらった。五反田にあるパオラスタジオという、主に人物を撮影するためのスタジオだ。
 スタジオの経営者であり、写真家でもある中原さんは、僕が住む福岡県の筑豊地区の出身で、中原さんのお兄さんと僕の父が親しい友人どうしであり、家族ぐるみの付き合いがある。
 人物と生き物とはかなり撮り方も違うだろうから、役に立たないかもしれないよ・・・と、心配しておられたが、僕にとっては勉強することが多い一日になった。
 写真用の照明を何通りか並べ、そこに中原さんが、スタジオのアシスタントの方をモデルさんの代りに立たせ、影のつき方を説明してくださった。
「ちょっとそこに立って」
「次は、その照明の電気を消して、代りに隣の照明の電気をつけ、その前に立って」
「もう少し前にでて」
「後一歩」
「ちょっと左」
 と、中原さんがアシスタントの方に指示を出す。
 照明の基本的なことは、もちろん僕も勉強して知っているが、本職のスタジオカメラマンの照明はとても繊細で細かい。中原さんが、
「後一歩」
「ちょっと左」
 とアシスタントの方を立たせる位置を変えると、ほんの一歩前に出たり、横にずれたりするだけで、影のつき方が変化してくる。
 僕は、照明の前にただ被写体を置いて撮影していたが、照明の前と言っても、光が当たっている中心部と、光の周辺部とでは影のつき方が違うのだ。
 また、僕が自分のスタジオで撮った生き物のスタジオ写真を見てもらい、
「これはこれで十分じゃない!」
 とも、アドバイスをしてもらった。
 全く同じ事を昆虫写真の海野先生からも言われたことがあるが、写真術に凝りすぎると、技に溺れ、逆に主役である生き物が弱くなってしまうという指摘だ。
 それでも僕は、一通りのことは、やはり知りたいと思う。
 きっと先輩方が指摘してくださったように、この先、技に溺れてしまうこともあるだろう。でも、一度そんな体験をして、自分で”技に溺れた”と実感して、修正をして、”これが僕の写真だ”と言える何かを確立したい。
 凝りすぎて分かりにくい写真だと誰かに指摘された時に、海野先生や中原さんの顔を思い浮かべ、”そうだな”と素直になれれば、回り道だが、それがいいのではないか?と思う。 
  
  
 

 2004.1.11(日) 
 
 東京へと向かう飛行機の中から、今日は、富士山が見えた。
 僕は富士を撮影したことはないが、富士山の写真は撮り尽くされている感があるし、被写体としての富士には飽き飽きしている。
 だが、富士はやっぱりきれいだと思った。
 僕の座席はちょうど翼の上で、その翼と水平と雲と富士はきっと絵になっただろうし、一瞬デジカメを持ってきたらよかった・・・と思ったが、やっぱり持たないで良かったと思い直した。
 富士山は、俗っぽい写真を撮るよりも、遠くから眺めていたいような気がする。あの感動は、絶対に写真には写らないと思う。
 写真家失格かもしれないが、時にはフィルムやデジカメではなくて、自分の心の中に記憶した方がいい時もある。

 僕の自宅から車で30分ほど走った場所には香春岳という山があり、香春岳の山頂は、セメントの採掘で削り取られていて、本来の標高の半分くらいは失われている。
 その香春岳ではないが、もしも、”富士を削って何かをしよう”と言い出す人がいたなら、あの風景を見たことがある人の多くが、”なんてばち当たりなことを”と、憤慨することだろう。
 ”生態系が破壊され、いろいろな悪影響が生じる”などという理屈を抜きにして、”明らかにそれは間違いだ”と、大半の人が感じるのではないだろうか?
 自然を守る活動に携わる人たちの大部分が、生態系などという言葉を使い、理論で自然を守ろうとする。だが僕は、それだけではなく、”私はこの風景を見続けたい”と意見する人が、もっとたくさんいて欲しいと思う。
 僕は、生物学出身なのだから、理論の大切さは痛いほど分かっているつもりだ。
 だが、誰でもが理論を唱えればいいとは思わない。生態系と口にする人は、それをよくよく勉強した人や、勉強する意思がある人であって欲しい。
 ある福岡県の県会議員の方が、スローガンに、”福岡県はガンの死亡率が高い。環境・自然をもっと大切にしなければならない”と書いておられたのだが、死亡率などという数字を持ち出して、理論で相手を説得するのであれば、自分で勝手に、”福岡県のガンの致死率の高さは環境の悪化に原因がある”と決め付けるのではなく、まずガンの発生率と環境の悪化との関係をちゃんと調べた上でなければならない。
 もちろん環境はいいに越したことはないが、ガンの原因には遺伝もあるし、食生活から発生するものもある。
 無理をしてデータを持ち出してこられた訳だが、
「私はきれいな空気のところに過ごしたい」
 と、なぜ言わないのだろう?

 私はこの風景を見続けたい”と意見する人が、もっとたくさんいて欲しいと思うと、僕は何度か書いたことがあるが、今日は富士を見て、改めてそう思った。
 富士でなくても、素敵な場所はたくさんあるのだから。 
  
  
 

 2004.1.10(土) アルマゲドン
 
 僕が大学に合格した日、父は喜んではくれたが、大学に合格して大喜びをするのは間違っていると言った。
 大学は入る事が目的ではなく、そこで勉強をすることが目的なのだから今から何をするかが大切なのであり、入っただけでは喜ぶに値しないというのがその理由だった。
 また、僕は父から誕生日を祝ってもらった記憶がない。
 人は誕生日にある日突然に年をとるのではなく、日々少しずつ年をとっているのであり、誕生日だからといってのぼせてはならないというのが、その理由だった。
 僕は、ずっとそうして育てられてきたし、 武田家では、多少の出来事があっても、日々弛まぬ努力が求められた。
 そんな武田家にも正月はあった。
 が、父は毎年山登りに出かけたりして、父にとっては正月というよりは仕事がない日だった。一年は、毎日少しずつ時間がたった結果であり、正月に突然一年が始まるわけではなく、たとえ正月であろうと、いつもと同じように暮らしたのだろうと思う。
 僕もそんな影響を受け、日頃正月やお盆とは無関係に、毎日同じように仕事をして過ごすが、今年は正月に車が故障して取材が出来なくなったおかげで、正月らしい時間を過ごすことになった。
 そんな正月は、プロの写真家を目指し本格的に写真を撮るようになって以来、初めてのことではないかと思う。

 車がなくてすることもないのでテレビを見たら、これがなかなか面白かった。
 ”白い巨塔”の第一部の再放送を見たら、面白くて、次回からはじまる第二部の放送は絶対見ようと思った。何といっても再放送なので、一日に2回分の放送があり、しかも数日に分けて連日放送されるので、正規の放送のように予告編などを見せられて一週間も待つ必要がないし、せっかちな僕向きだった。
 昨日は、その流れで”アルマゲドン”を見た。
 地球に小惑星が接近し、そのまま衝突すると人類は滅亡する。そこで、選ばれた数人が小惑星にシャトルで着陸し、小惑星に250メーターの穴を掘り、その中に核爆弾を仕掛け、惑星の破壊を試みる。だがあと一歩のところで、核爆弾の遠隔操作の機械が故障し、勇敢な一人が自らが核のスイッチを押して自爆し、地球を救うという内容だ。
 犠牲になった一人が涙を誘い、そして称えられるといういかにもアメリカの映画らしい発想だが、”アルマゲドン”は馬鹿らしいな・・・と思った。
 同じような発想でイラクに兵隊が派兵され、中には死んだ人もいて、それを”勇敢だ、世界のためだ”と誤魔化しているように僕には感じられるのだが、それがアメリカ人の好みでもあるのだろう。
 どうもアメリカの発想は好きになれない。
  
  
 

 2004.1.8〜9(木〜金) 準備

 日曜日から上京するための準備を整えている。今日は、その際に持っていくフィルムを現像したり、整理したり・・・
 机の上での作業は、自分で思ったよりも、いつも時間がかかる。その割には、”仕事をした”という実感が湧かないので、机の上の作業が続くと不安になる。
 東京から帰ったら、フィールドに出て写真を撮ろう!冬の渓流を撮影しよう。
 僕は、幾つもの作業を同時にこなすのが、とても苦手だ。何か1つが頭にあると、全く他のことを考える気にならないのだ。
 ここのところは、上京の準備ばかりが頭の中にあった。早くそんな状態から開放されたい。
 
  
 

 2004.1.6〜7(火〜水) 8300万画素?
 デジタルカメラマガジンという雑誌を見ていたら、ブロニカというカメラメーカーの広告のページがあり、”8300万画素のポテンシャル”と、書かれていた。
 ”画素”という言葉は、デジカメの性能をあらわす言葉で、数字が大きいほど高性能になるが、今プロの間で最も普及しているデジカメがおよそ600万画素なのだから、8300万とはなんと凄い数字であろうか?
 桁が違うのだ。
 実は、宣伝されていたブロニカはデジカメではなく645版というサイズのフィルム用のカメラで、645版のフィルムを高性能なスキャナーで取り込むと8300万画素になるという計算だった。
 まだまだ、フィルムも捨てたもんじゃないよ、という広告だ。
 ただ、”645版のフィルムが8300万画素のデジカメに匹敵するよ”という計算は、正確に言うと、ちょっと大げさな数字だ。
 なぜなら、確かに高性能なスキャナーでフィルムを取り込めば8300万画素相当のデジタル画像になるが、最初から8300画素のデジカメで風景を撮影するのと、まずフィルムで風景を撮り、そのフィルムを8300万画素相当のスキャナーで取り込むのとでは、得られる画質が違うからだ。
 例えば、8300万画素のデジカメで風景を撮れば、遠くの木の枝に張られた細〜いクモの糸も写るかもしれないが、一旦フィルムで撮影すると、そうした細かいところまではフィルムに写らず失われてしまう。そのフィルムをどんなに高性能なスキャナーで取り込んでみても、フィルムに写らなかったクモの巣は出てこない。
 だから、645版のフィルム+スキャナーの組み合わせは、8300万画素のデジカメには敵わないだろう。
 ただそうは言っても、645版のフィルムをスキャナーで高画質に取り込むと、現在普及している600万画素よりはずっと高画質になる。特に風景みたいな細々とした物がたくさん写りこむ撮影では、その差が出る。
 望遠レンズや接写用のレンズで比較的狭い場所を撮影する時には、デジカメが有効だが、撮影全体を考えると、今の時点ではフィルムも捨てたものじゃないことは確かだ。
 フィルム+スキャナーも有効に使った方が賢いだろう。

 一般に広く普及しているフィルムは、35ミリ版と呼ばれている。35ミリ版は広く普及しているのだから、それに対応するスキャナーも多いし、その使い勝手もいいし、完成されている。
 だが、35ミリ版ほど普及していない645版用のスキャナーの場合は、自分なりの工夫が必要になる。645版のフィルムをスキャナーで取り込もうとすると、今まで全く気に留めなかったことで、注意しなければならないことがあると分かってきた。
 例えば、僕は撮影済みのフィルムを1コマ1コマ切って整理する。
 その際に、これまではハサミで適当に切っていたが、はさみで切るとフィルムの余白(余黒かな?)のサイズが1コマ1コマ違ってくる。
 その違いが、スキャナーで645版のフィルムを取り込む際に、ちょっとばかり障害になり、いつも全く同じ余白でフィルムが切れていた方が都合がいいのだ。
 そこで、今日はフィルムを切る専用の機械(約3000円)を買いに博多の町に出かけた。カタログで商品を探して注文してもいいのだが、意外にこんなものは自分の目で見たほうがいいので、町まで出かけることにした。
 
  
 

 2004.1.4〜5(日〜月) 新しい技術

 年賀状に、”昨年は写真の技術を一から勉強し直した”と書いた。その理由として、”デジカメが発達して誰にでも簡単に写真が撮れるようになり、プロのカメラマンなんて不要になるのではないか?という不安があるから”と書いたのだが、知人がそれを心配し、
「おいおい、深刻じゃないか!」
 と声をかけてくださった。
 実は、僕は深刻な話を書いたつもりは毛頭なかった。むしろ写真のような仕事に携わる事ができる幸せを書いたつもりだったのだが、あとでよく考えてみたら、書き方が不親切だったかな?と反省をさせられた。この場をかりて説明をしておこうと思う。

 ある大工さんが、
「私は、気に入った道具や機械を見つけたなら、明日自分が引退すると決めていても、多分それを買うと思います。」
 とおっしゃるのを聞いた事がある。技術の世界、それから創造の世界に生きる人には、誰しもそれに通じる思いがあると思う。
 技術や創造の世界では、常に新しい物が求められる。”もういいや”と満足したら、その時点で、その人は終りだし、そうして満足して終わる事ができない人種の集まりが、技術や創造の世界なのかもしれない。
 今、写真の世界にはデジタルカメラの登場で技術革新が起き、変化が生じようとしている。
 デジカメがあれば、今までよりもずっと簡単に写真が撮れるし、誰にでも簡単に写真が撮れるようになることに対する不安は確かにある。
 が、それだけ写真が簡単になれば、僕の負担も減る。負担が減った分、それまで出来なかった事が、どこかで出来るようになるということでもある。
 負担が減ったからといって、今まで10のエネルギーを注いでいたところを7か8のエネルギーしか注がなくなれば、その人は本当に不要になってしまうかもしれない。
 だが、今までの仕事が7か8のエネルギーできるようになれば、残りの2か3のエネルギーで、今まで出来なかったことに取り組めるのだから、技術の進歩はすばらしいと思う。
 新しいことにチャレンジできることは、幸せなことだと思うのだ。
 
  
 

 2004.1.3(土) ヨシガモ

 未練がましいが、車の故障で取り止めになってしまった今回のカモの取材では、ヨシガモというカモを撮影したかった。
 僕はカモの仲間は、撮影が最も厄介な鳥の種類の1つだと感じている。
 まずカモは基本的に警戒心が強い。中国ではカモを番犬代わりに使うと聞いた事があるが、全く人慣れしていないカモをまともに撮影するのは無謀と言っても言い過ぎではないくらい敏感な鳥だ。
 その反面、カモは人が与える餌によく餌付く面もある。
 つまりカモの写真を撮るとしたら、どこかで餌付けてあるカモや民家の近くの池などで人の姿によく慣れているカモを撮るのは易しいが、そうでないカモを撮るのは極めてむずかしいことになる。
 僕が今回撮りたかったヨシガモは、多いカモではないが珍しいカモでもない。うちの近所を流れる川でもたまに見かける。
 ところがそれを撮ろうと思っても近所の川では警戒心が強く、最大級の望遠レンズを使用しても、まだ満足な大きさに写らないし、今のところ、僕はそうした写真しか持っていない。
 そこで、カモに餌を与えている全国の池を回り、どこかでヨシガモを見つけて写真を撮ることになる。ただ、ヨシガモは多いカモではないので、餌を与えている池で、毎年確実にヨシガモが見られる池を僕は知らない。
 ごく稀に、多分同じカモと思われるヨシガモが数匹、数年続けて同じ池に飛来するような例は知っているのだが・・・・平均的にいうと、たまたま餌付けをしているどこかの池にヨシガモが立ち寄った年でなければ、ヨシガモを完璧に撮ることはむずかしい。
 だからカモの取材に、遠くまで出かける計画を立てた。

 餌付けをしていない池であれば、ヨシガモが20〜30匹程度の数まとまって見られる池をいくつか知っている。山陽には幾つかそんな池がある。
 それをなんとか工夫をして撮ろうかな・・・と今僕は考えている。
 池に小さな隠れ家を作り、カモがそれに慣れ、まだ朝くらいうちにその隠れ家に隠れて夜が明けるのを待つ。
 これは、カモが隠れ家に慣れ、近くに来てくれるまでに時間がかかるだろうと思う。だが、成功すればヨシガモを群れで撮ることができる。オスメスがビシッと並んだ写真を撮ることもできるだろう。
 今回、車の故障で撮影が中止になったことで、チャレンジしてみようか?という気になってきた。
 カモは、餌を与えている池に行けば写真は撮れる。
 でも、そうして撮られた写真は、所詮は公園だという程度の写真になる。そうではない写真も撮ってみたくなってきた。その題材として、ヨシガモはとてもいいと思う。なんといっても餌を与えている池では、ヨシガモの群れは見られないのだから。 
 
  
 

 2004.1.2(金) いい集中

 故障した車の修理は年明けの営業が始まる1月5日の予定だ。それまでは撮影に出かける事ができないので天気予報を見ても仕方がないのだが、ついつい撮影をする予定にしていた地域の予報を見てしまう。
 天気と言えば、前回カモの取材に出かけた時は、全日程を通してほとんど満足できる天気の日がなかった。
 それに比べると今回は、すぐに車が故障をして帰宅を余儀なくされたのだが、撮影をしたわずか2日間はいずれも理想的な天候だったのだから、たった2日間で前回の取材を上回ったとも言える。
 そう思うと、僕にはまだツキがあるのかもしれない。

 さらに、車の故障で帰宅をして以降、ずっと全国の天気予報を見続けているが、”あ〜今日は撮りたかったな” という好天の日はまだ一日もないし、予定では、今頃新潟で撮影をすることになっていたが、ここ数日の新潟も天候が悪いようだ。
 写真は必ずしも晴れの日がいいわけではない。
 一般的にはうす曇〜曇りくらいが撮りやすいのだが、開けた水辺での撮影は晴れがいい。またカモ類には光沢のある金属的な色合いをした種類が多いが、その金属光沢を写すためにも、やはり太陽の光が必要で晴れがいい。
 つまり、開けた水辺でカモを撮る時は絶対的に晴れがいいのだ。
 ここ数日のぐずついた天候では、仮に車が壊れずに取材を続行していても、天候待ちで車の中でゴロゴロして過ごしていたに違いない。
 それから、カモと言えば冬のイメージだ。だから例年は冬にカモの撮影に出かけていたが、天候を考えると、”春に撮影するのもいいかな?”という気がしてきた。カモは春になると北に渡ってしまうが、3月ならまだカモの姿が見られ、しかも晴れる確率が高いはずだ。
 きっと車が故障しなかったら、性懲りもなく毎年冬にカモの取材に出かけ、天候待ちで多くの時間を費やし続けただろう。
 3月に撮れば本当に上手く撮れるかどうかは実際に試してみなければ分からないが、もっと工夫ができるのではないか?と頭がそういう発想を持っただけでも、今回の車の故障は悪くなかったような気もする。
 
 迷いを断ち切り、目の前の撮影に集中することは大切なことだ。だが同時に、もっとこうしたらいいのではないか?と広い視野を持つことも大切だと思う。
 そして当たり前のことだが、集中(狭い視野)と広い視野とを同時に満たすのはとても難しい。例えば、集中が要求される撮影中に、”別の方法の方がいいかな?”などと考えてしまうと、迷いが生じ、もう集中することは出来ない。
 ところが一流の人は一方で集中しつつ、一方で広い視野も持っているものだ。僕もただ視野を狭め他のものを見ないようにすることで集中するのではなく、色々なものを見た上で目の前のことに全力を尽くせるようないい集中が出来るようになりたいと思う。 
 
  
 

 2004.1.1(木) 正直な気持ち

 僕はこの日記の中に、自分の思いを正直に書くことにしている。なぜか?というと、僕自身、人の正直な意見が好きだからだ。
 例えばある人が、ある温泉での、元ハンセン病の患者さんの宿泊拒否事件に対して、
「正直に言うと、私はホテルの方に対して気の毒だなと思います。どんなに害がないと言われても、生理的に怖いものが私にだってあるもん」
 とおっしゃった。
 それは一見自由奔放な過激な意見のようだが、確かに、誰にでも理屈抜きに怖い物はある。僕は、高いところがどうしても苦手だし、中には暗いところが怖い人、虫が怖い人・・・いろいろな人がいるだろう。
「元病気の方に対して怖いという気持ちは差別なんだ。そんなことはあり得ないんだ!」
 ではなくて、
「誰にでも怖いという気持ちがあります」
 と人のボロいところを認めた上で、
「だからこそルールを整備して、その怖いと思う気持ちを人の知恵で乗り越えましょう」
 という順序が、道順であるように感じられる。
 宿泊拒否をしたホテルが処罰されたのは正しいと思う。
 ホテルの側の方がどんなにハンセン病は怖くないと分かっていても、中にはそれを怖いと思うお客さんもおられるだろうし、うちのホテルの評判が悪くなのでは・・・という心配が当然だからこそ、みんなで公平にその心配を負担するために、ルールを決めて宿泊拒否をしてはならないと、僕は思うのだ。
”ハンセン病は今では怖くない病気だと” と広める努力も必要だが、理屈では割り切れない部分もあると、人の弱いところもよくみることも大切だと思う。
 だから、人の弱さをさらけ出した正直な意見が好きだ。
 
 正直な意見と言えば、ずっと以前の事だが、ある方がテレビの番組で、北海道でのヒグマと人の事故に対して、
「ヒグマに人が殺されるといっても平均したら年に一人以下でしょう?いいじゃないですか、一人くらい」
 とおっしった。その話しを聞いて、あるいは、
「人の命を軽視している」
 とムカッした方もおられただろうと思う。
 そして、話しはこう続いた。
「いったい、北海道内の交通事故で何人の人が死にますか?本気で防ごうと思えば防げる事故が山のようにあるでしょう?なぜそれを放っておいて、ヒグマを眼の敵にするのでしょう?」
 と。
 ヒグマが怖いも正直だが、一人ぐらいそれで死んでもいいもまた正直だなと思う。交通事故の死者の多さを持ち出すまでもなく、そこらに走っている9割以上の車は多少なりともスピード違反をしているのだから、数え切れないくらい多くの人が現実に人の命を粗末にしていることになる。
 車の速度は遅い方が絶対的に安全なのだ。
 ヒグマの事故で人が死んでも一人ぐらいいいでしょうという意見に対して、命を軽視しているとムカッした人の中にも、自分自身もスピード違反をして走り、人の命を軽視している人がたくさん存在しただろうし、その方が断然ヒグマよりも危険だ。
 確かに冷静に考えると、車の事故の方が怖い。

 日本で一番多くの死者を出している野生生物はスズメバチだと言われているが、僕もスズメバチよりも交通事故が怖い。つい先日車が壊れたばかりだからだろうか、とくにそう感じる。
 いつ動かなくなるか分からない壊れる寸前の車をぶっ続けで6時間運転する間に、もしここで・・・といろいろな悪いケースが頭に思い浮かんできて、ゾ〜と背筋が寒くなった。
 広島の山間部では積雪がすごかった。何と言っても新聞を見ると、北海道のスキー場よりも広島のスキー場の方が積雪が多いのだ。
 その近辺を走る高速道路の路肩は、積み上げられた雪で全く車を止める余地がない。壊れかけた車が動かなくなって車線を塞いだなら、ほぼ100%重大事故になると気付いた。車の整備や安全にはもっと気を使おうと、反省させられた。
「ヒグマに人が殺されるといっても平均したら年に一人以下でしょう?いいじゃないですか、一人くらい。交通事故で何人の人が死にますか?」
 という正直な言葉が思い出された。
 僕は自然の中ではベストを尽くすが、自然の中での事故死は、きっと僕の家族も納得してくれるだろう。だが交通事故は、ただひたすらにガッカリさせるに違いない。
 今年も僕は、この日記の中ではいつも正直でいたい。
 
  
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2004年1月分


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