撮影日記 2003年06月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ

06月30日(月)

 昨日は、アジサイとカタツムリの組み合わせで写真を撮ったが、今日はアジサイとアマガエルの撮影をした。事務所の駐車場の片隅にある小さな庭での撮影だが、アジサイが2株植えられている庭は、僕の野外スタジオのようなものだ。
 実物を見れば、
「なんだ。庭じゃなくて花壇じゃないか」
 という程度の広さしかないが、僕にとっては貴重な場所なので、敬意を込めて、『庭』『野外スタジオ』と呼ぶことにしている。例えるなら、社員が二人しかいない会社で、
「シャチョウ〜 センム!」と呼び合っているようなものだ。

 今月の水辺を更新しました。今月は、雨の写真を使いたかったのですが、スキャナーで取り込んでみると、かなり大きなサイズの画像にしなければ、パソコンのモニター上では雨が見えないことがわかり、急遽代役を立てることになりました。
 
  

06月28〜29日(土〜日)

 まだ学生の頃、ある野鳥写真家の写真集を見て、「下手糞だな〜。これなら僕にも撮れるんじゃない?」と思ったことがある。僕が写真家を志すことになったきっかけは幾つかあるが、その時にそう思ったことも、大きなきっかけの1つだった。
 ところが、自分でやり始めてみると、自分の読みの甘さが解った。下手糞だな〜と僕が思ったその写真のクオリティーは確かにあまり高いものではなかったが、その野鳥写真家は、気が遠くなるほどたくさんの種類の野鳥を写真におさめていた。あの人の所に行けば、あらゆる種類の鳥の、あらゆるシーンの写真が借りられるよと、自然写真業界で言われているような、質よりも量で勝負をしている写真家だったのだ。
 アマチュア写真の世界では、質のみが問われるが、プロの世界では、質と共に量が要求される。どんなにいい写真でも、その一枚の写真で本はできないが、それほどいい写真ではなくても、いろいろなシーンが揃っていれば本ができるのだから、質よりも量の方がより求められていると言ってもいいのかもしれない。量が大切だとわかってからの僕は、とにかくたくさん写真を撮るように心がけてきた。
 量を撮れば質が落ち、質を取れば量が稼げなくなる。どの辺りで折り合いを付けるか、試行錯誤の毎日だが、ここのところの僕は、今度は、質をより重視した撮影を心がけている。きっと僕の性格なのだろうが、質を落としてたくさん撮影をしても、結局、納得のいく写真が撮れるまで、また撮り直しをしてしまう。量が大切だとよくわかり、量を撮ることを試みた上で、自分の性格には逆らわないことにした。

 今日は、アジサイとカタツムリの組み合わせで撮影をしたが、昨年までなら、少しずつ撮り方を変えて何カットかの写真を撮るところ、今日は1カットだけ、その代わりに丁寧に撮った。カタツムリのポーズ、表情にこだわって撮った。
 
  

06月27日(金)

 今日も雑務をこなしたが、正確に書くと、24〜25日に撮影した虫の写真の現像があがるのを待っている。今年は、え〜い!とスタジオでたくさん撮影した結果、撮影に不手際や技術不足があり、すべてボツというケースが多いので、ちょっと慎重になろうと、撮影のたびに現像を待つことにした。
 ただ地方に住んでいると現像がやっかいで、僕の場合は、次の3つの方法を使い分けている。

 (1)東京に郵送して、クリエイト東京で現像する。
 (2)博多の町まで出向き、クリエイト福岡で、その場で現像をする。
 (3)近所のカメラ屋さんにフィルムを出す。

 1は、自宅にいながらにして現像ができるが、郵送の時間を含めると4〜5日の時間がかかるのが難点。2は、博多まで出向く時間がかかり、現像だけで丸一日が潰れてしまうのが難点。3は、自宅にいながらにして中一日で現像ができるが、目玉が飛び出るほど値段が高い。僕がよく使用する220フィルムの場合、東京や博多であれば860円程度で済むところが、1700円前後のお金がかかる。
 近所のカメラ屋さんにフィルムを現像に出すと、最終的には博多のクリエイト福岡で現像されるが、僕〜近所のカメラ屋さん〜富士フィルム〜クリエイト福岡と、間に2つの取次ぎ店が関わることになり、値段が跳ね上がってしまう。
 そこで、特別に現像を急ぐ場合は博多の町に出向く。それから通常は、数本撮影したフィルムのうちの1本だけを近所のカメラ屋さんで現像をし、仕上がりに間違いがないことを確認してから東京に郵送する方法を取っている。
 
  

06月26日(木)

 今日は、ちょっとばかり小休止。事務所の整理をした。撮影に出かけるときには、本やインターネットで資料を集めてから出かけることがあるが、そういった資料のコピーが山積みになってきたのでファイルしたり、フィルムでの撮影のついでに撮ったデジカメ画像をディスクに整理したり・・・。
 整理は基本的には嫌いではないのだが、どうしても撮影を優先するので溜め込んでしまう。できれば、撮影して、整理して、頭の中も整理してという手順になれば理想的だが、年々そういう状態から遠ざかっていく。ここのところ、物がなくなったり、忘れ物をしたりといったミスも多い。
 以前は、物忘れや忘れ物が絶対に許せない性質だったが、最近は許せるようになってきた。
 
  

06月25日(水)

 匿名で書きたい放題書きまくる悪名高き某掲示板に、餌付けして野鳥を撮影することの是非を議論するスレッドを見つけた。その中で、
「餌付けをして撮影するなど、不自然でもっての外!」
 と、カワセミの写真で有名なSさんや、鷲鷹の写真で有名なMさんが叩かれていたが、僕が今撮影している虫の撮影も、スタジオに自然を再現して出産のようすを撮影するという、そういう意味では不自然なものなので、僕の思いを書いてみようと思う。
 
 生き物が好きという人には、大きく分けて2つのタイプがある。1つは、生き物を愛でるのが好きな人で、あとの1つは、生き物について深く知りたいと思う人だ。生き物に興味を感じる人は、誰しもその2つの要素を両方とも持ち合わせているが、どちらの割合が高いかによって、自然への接し方が違ってくる。僕は、どちらかというと後者の気持ちが強い。野鳥をみて、
「ああ、かわいいね〜」
 とはあまり思わない。愛でるよりも、もっと鳥のことを深く知りたい。
 大学で生物学を専攻するような人の多くも、僕と同じように感じるタイプで、時には研究のために生き物を殺す。僕は、生物学の学生時代に蚊の研究をしたが、数え切れないほどの蚊を殺した。
 一方で自然を愛でたいと思う人にとって、自分の研究のために生き物を殺すことなど、もっての他の行為に思えるかもしれない。極端な人は、大学での実験動物の使用を止めるように求める行動をとる人もいる。

 僕は、愛でることと、深く知りたいと思うことは、どちらが欠けてもならないと思う。
 愛でるだけの人は、可愛い生き物やきれいな生き物など、愛でるのにふさわしい生き物には興味を示すが、そうでない生き物には冷たいことが多い。美しい鳥の写真には興味を示すが、蛇の写真を毛嫌いする。また、愛でるだけで自然をよく知らなければ大切にすることはできない。
 だが、自然を知りたいと思う気持ちだけでもダメ。知るために好き放題振舞えば、生き物の生態に悪影響を与えてしまうし、悪影響を与えなくても、愛情なしに自然を深く知ることなどできないのではないだろうか?

 自然写真家が撮る写真にも、愛でる立場から撮影された写真と、自然を知ろうとする立場から撮影された写真とがある。カワセミ写真のSさんの写真も、いうならば、生物学の研究者たちが生き物のことを調べる時のような立場から撮られた写真で、カワセミの捕食行動に興味を感じたSさんは、まるで実験をするときのように、カワセミに餌付けをして、その瞬間を写真で記録した。
 それは生き物を愛でる写真ではなく、自然を深く知ろうとした写真なのだが、それが、愛でることしか頭にない人にとっては不自然で、感覚として理解できないのだろう。ちょうど、実験で生き物を殺すことが理解できないように。
 
 カワセミ写真のSさんや鷲鷹のMさんは、平凡社の『アニマ』という雑誌で活躍した写真家だが、『アニマ』は、生き物を愛でるのではなく、記録するという点に重きをおいた雑誌だ。インターネットの掲示板の中ではそのアニマもひどく叩かれていたが、ひどく叩いた人の記事を読むと、そのアニマのコンセプトが理解できない人だと僕は感じた。
 ただアニマは、優れた自然写真家を次々と輩出したにも関わらず、廃刊になった。雑誌には寿命があるので、その寿命だったと言う人もいるが、僕はそれだけではないと思う。生き物を知ることに重きをおいた反面、愛でることを馬鹿にした嫌いがある。生き物を愛でた写真に対して、「こんなの、ただの情緒だけの写真だよ・・・」と。
 それが、多くの人に受け入れられなくなったのだと思う。最近は、アニマで活躍した写真家よりも、自然を愛でるタイプの写真家が活躍するようになったが、僕は、自然を愛でるだけの写真家も、またいつか消え去っていくような気がする。生き物を記録するだけでも、愛でるだけでも何かが足りないような気がする。

 僕は、大学時代に蚊を山ほど殺したが、自分の知識欲さえ満たされれば、それで良かったわけではない。むしろ、大半の人よりも、僕は蚊が好きだ。もちろん血を吸われたら困るので、蚊が近寄ってきたら叩き殺すが、何蚊だろう?と蚊の種類が気になるし、多くの人のように敵意をもって叩き殺したりはしない。どこか、蚊が好きなのだ。

 僕もいつか、SさんやMさんのように叩かれる日がくるかもしれない。「奴の写真は、スタジオで作って撮ってるんだよ」と。だが、叩かれるくらい売れたいので、SさんやMさんが羨ましくもある。それを叩かれてから書いたのでは負け惜しみになってしまうので、いつ叩かれるかわからないが、ここに前もって書いておくことにした。
 
  

06月24日(火)

  5月27日の日記の中で、小さな虫の赤ちゃんの画像を掲載した。この虫は、親が卵ではなく、いきなり子供を産み落とすが、その親子の様子を撮影しようと、この一ヶ月間苦心をしてきた。その撮影のために数十匹のメス親を採集し、一匹ずつ出産の撮影を試みてきたが、とうとう最後の一匹が出産を終え、手元に出産を控えたメス親がいなくなった。うちの周辺での繁殖期間が終わりに近づいてきたのだ。

 写真は、使えそうなものが2枚撮れた。が、完璧ではない。一枚は子供たちの様子が見事に写っているが親の向きが若干悪い。あとの一枚は、親の向きはいいが子供たちがやや分かりにくい。ただ、繁殖の時期が終わってしまったのだから、これ以上足掻こうにも足掻けない。気分を刷新するためにも、21日からは大分県に出かけ、雨の中で菖蒲や滝を撮影したが、元々僕は雨の中での撮影が大好きなので気持ちがいい。夜眠る時や、朝起きた時に聞こえてくる、ポタン、ポタンという雨が車の屋根をたたく音が何ともいえず良くて、幸せな気分になった。
 
 気分が紛れたからだろうか、ふと僕は、あることに気付いた。大分県の山間は、僕の自宅の周辺よりも植物の開花が2〜3週間遅い。ということは虫も同じなのでは?
 さっそく探してみたら思った通り。繁殖の時期が終わったからと一旦区切りを付けた虫の撮影だったが、またまた繁殖を控えたメス親が採集できた。今日は、その親を急ぎ持ち帰り、完璧な写真が撮れなかった親子の撮影に再チャレンジすることにした。
 我ながら、本当に諦めが悪いな〜。あと1つ撮影したい滝があったのだが、滝は、虫の繁殖のように厳密な季節がわるわけではないので、また出直せばいいだろう。
 
  

06月23日(月) 大分県 白水の滝
 先々週だったか、博多の町にフィルムの現像にでかけたら、2時間で終わるはずの現像が長引き、現像所でしばらく待たされた。その間、いろいろなお客さんが出入りをしたが、僕は、大学の写真部の学生と、写真クラブに属するおじさんたちの会話を、面白く聞かせてもらった。
 学生さんが撮影した写真を見て、おじさんたちが、まるで何かの呪文のように、
「切り取れ、切り取れ!」
 とアドバイスを送っている。
 切り取れとは、もっと画面のある一部分だけをクローズアップして写しなさいという意味で、学生さんの写真は、沢の流れと周囲の木々が写った菊池渓谷の風景写真だったが、その写真の中の、沢の流れの部分だけを写せば、もっといい写真になるぞ〜という趣旨の話しだった。
「切り取れ」は、そのおじさん方に限らず、写真クラブに属する多くのアマチュアカメラマンが、ほとんど妄信的に信じ込んでいるセオリーのようなものだが、僕は、何でもかんでも切り取れというその発想が、写真をとてもつまらないものにしているように感じる。例えば、滝の写真を見ると、そういったおじさんたちは、
「俺なら、この白い流れの部分だけを切り取るな」
「いや、俺なら、もっと狭く、この部分だけでいいね」
 といった主張をよくするが、そうして狭く撮れば撮るほど、写真は個性を失っていくからだ。滝の白い流れの部分だけを狭く撮れば、菊池の滝でも、白水の滝でも、どこの滝でも同じような写真になるし、菊池にしかない美しさ、白水の滝にしかない美しさを殺してしまうことになる。
 もちろん、写真の画面の中に余分なものはない方がいい。だが、余分な物を除くことと、妄信的に切り取りまくることとは全く別だし、何が除くべき余分なもので、何が画面にあった方がいいものなのか、その状況判断こそが大切なのだが、それを考えることを放棄して、闇雲に切り取りまくっている人がクラブに属する人には多いように思う。
 先生のアドバイスや、先生に影響を受けることを悪いとは思わないが、それが個性のない、コピーのような写真ばかりを量産することにつながるのなら、僕はつまらないと思う。

今日は、大分県の白水の滝を撮影した。
 
  

06月21〜22日(土〜日) 大分県 神楽女湖にて
 今日から4〜5日間は、フィールドで取材をする。今回のねらいは雨にまつわる写真で、撮影場所は大分県の別府〜湯布院の辺り。アジサイやショウブと雨を組み合わせて撮影したい。
 雨と言えばアジサイやショウブが定番だが、九州では梅雨入りして本格的に雨が降り出す前に、アジサイやショウブの季節が終わってしまう。
 ただ場所によって、花の時期が遅い所もあり、今日撮影した神楽女湖の周辺では、まだつぼみが固いアジサイもたくさんあった。
 ねらい通り、雨の一日になったが、果たして雨が写真に写っているだろうか?
 
 体操競技には自由演技と規定演技があるが、定番のものを定番通りに写す今日のような撮影は、例えるなら規定演技だと言ってもいいだろう。「ショウブと雨」「アジサイと雨」といった世間から与えられた決まりきったテーマを、いかに上手く表現するかという表現の世界になる。
 定番の写真はやはり売れるので、それを撮らなければならないことが多いが、正直に言うと、僕は、その手の撮影があまり好きではない。定番のものを写すよりも、その前に、まず何にカメラを向けるか?というテーマ選びにカメラマンの個性や写真の面白さがあると思うからだ。写真から、「鳥が好きだ」「沢が好きだ」といった、その人の被写体に対する情熱が伝わってくる写真が僕は好きだ。
 ところが、僕のように感じる者はむしろ例外的なならず者で、写真コンテストなどの入賞作を見ると、定番写真ばかりがゴロゴロとしていてる。今日ショウブを撮影した神楽女湖も、九州では定番中の定番だが、今日一日で、いったい何人のカメラマンが神楽女湖に訪れたのだろう?りっぱなカメラを手に大挙して押し寄せるおじさんたちを見て、「日本人って定番が好きなんだな〜」と実感した。そう言えば日本の伝統芸能も、何か新しいものを生み出すよりは型を大切にするものが多い。

 ただ、定番を全く撮らないという人もいるが、それもつまらないような気がする。定番写真は撮りつくされているので、その中で光る写真を撮ろうとすれば、画面の隅から隅まで表現にこだわらなければならない。そういう表現力も写真には大切だ。
 テーマが面白いだけでも、表現力があるだけでもダメ。それらが両立されていなければ、それは何かが足りない写真だと思う。
 
  

06月19〜20日(木〜金) 

 僕は子供の頃によく父に山登りに連れて行ってもらった。厳密に言うと、ぐうたらな僕がきついことを好むはずがなく、連れていかれたと書いた方が正しいが、父は必ずカメラを持ち歩き記念撮影をした。
 誰しも記念撮影の経験があると思うが、人物を撮影すると、写真のネガの中には小さな人物の像ができる。もしも、その人の身長が170センチで、ネガの中の像の背の高さが1.7センチだったとすると、その人は1.7/170に、つまり1/100に縮小されてフィルムに記録されたことになる。
 逆に、小さな被写体を撮影すると、実際の被写体のサイズよりも、ネガの中の被写体の方が大きくなることもある。例えば、直径1ミリのメダカの卵がネガの上に5ミリのサイズに写ったとすると、その場合、メダカの卵は5倍に拡大されたことになる。
 今日は、小さな動き回る被写体を5倍に拡大する撮影にチャレンジしたが、「うん、上手くなった!」という実感があった。初めて5倍の撮影を試みた時には、まったく動かない被写体だったにも関わらず、なかなかピントが合わなかったり、うまく被写体の形を表現できなかったりして苦心をしたが、最近は、動く被写体でも、高倍率でスムーズに撮れるようになってきた。

 僕が撮影をした、朝霧に包まれた池の風景写真を見た知人から、
「いや〜、上手いね」
 と誉めてもらったことがある。写真を趣味にしておられる方だったが、僕は上手いという表現は違うなと思った。なぜなら、もしもその方が僕の隣で写真を撮っていたのなら、僕でなくても、その方にも同じような写真が撮れたことだろう。僕が上手いのではなくて、その日のその場の状況が良かったのだ。
 風景写真の場合、技術うんぬんよりも、いかにいい状況に行き当たるかが写真の出来を左右する。もちろん風景写真にも技術がないわけではないが、技術で上手く写した風景写真は、所詮どんなにあがいても状況がいい時に写した写真には敵わないような気がする。
 一方で、小さな被写体を写真に写す場合は、技術の良し悪しがとても大きく写真の出来を左右する。ほんのちょっとしたアングルの違いで、カエルの顔が生き生きと見えたり、そうでなかったり、カエルの形が分かりやすく写せたり、分かりにくくなったり・・・。技術や器用さが要求される。
 日本人はよく器用だと言われるが、欧米のカメラマンに比べて日本人には小さな被写体の撮影が上手い人が多いような気がする。僕は、日本の写真家よりも欧米の写真家に好きな人が多いが、小さな被写体を写した写真だけは日本の写真家の作品が好きだ。
 
  

06月18日(水) クスの木を登るカタツムリ
 雨の中のカタツムリの撮影に出かけた。雨とカタツムリの組み合わせは梅雨のイメージの定番だが、今回の撮影はそんなイメージ写真ではなく、カタツムリのその物を紹介する本の中に使いたい写真だ。
 今日撮影した写真が、その本の編集者に選ばれるかどうかはわからないし、まだ現像もしていないのだが、僕が見ているカタツムリのイメージに近い写真が撮れているような気がする。気のせいだったりして・・・

 僕が今撮影をしている身近な生き物たちは、大抵は子供の頃に捕まえて遊んだ生き物で、「そういえば、あそこにザリガニがたくさんいたなぁ」 などと、ずっと昔の記憶をたどりながら撮影や採集に出かけることが多いが、カタツムリだけは、子供の頃にほとんど接したことがなくて、全く手掛かりがない状態から撮影を始めた。
 まずは、いろいろな出版物に目を通してみた結果、カタツムリには恐ろしいほど種類が多く、それらをちゃんと区別をすることなど不可能で、本の中では多くの種類が一まとめにされ、『カタツムリ』として扱われていることがわかった。ただ、そのイメージからだろうか、写真は、大型で縞模様のあるタイプのカタツムリがよく使われていて、九州では、ツクシマイマイがそのイメージによく当てはまる。
「よ〜し、じゃあツクシマイマイを捕まえよう」と何度か出かけてみたものの、カタツムリの分布には偏りがあり、見つかる場所では多く見つかるが、見つからない場所では、どんなに雰囲気が良くても見つからない。
 なかなか最初の一匹に出会うことができず、初めて木の幹にツクシマイマイを見つけた時には、「ハハ〜」と平伏したい気持ちになった。その時の僕が見た、木の幹の上の渦巻き模様が、僕のカタツムリのイメージなのだ。
 
  

06月17日(火)

 撮影済みのフィルムを現像したら、あまり出来がよくなかった。今一番多くのエネルギーを注いでいる虫の写真はともかく、それ以外の写真は悲惨な出来栄えだった。
 何か1つの被写体だけを撮ればいいのなら難なく撮れる写真が、虫とカエル、虫とカタツムリなどといった風に重なると、どちらかがおろそかになる。まだまだだな〜。今回良くなかった写真は、スタジオで撮影したカタツムリなどの写真で、どうも複数個使用している照明の中の1つがうまく光っていなかったようだ。丁寧な仕事をしなければ、結局はやり直しで遠回りになる。
 
 僕は、現像した写真を最初に目にする時、十中八九がっかりする。写真を撮っている時には、とにかく理想が高くなっているので、その理想と現実のギャップを受け入れることができないのだと思う。
 そのシーズンが終わる頃になって改めて写真を見ると、ようやく冷静に写真を見つめる余裕が生まれるが、今回良くなかった写真は、そんな次元ではなく明らかな失敗作だ。
 
  

06月16日(月)

 今日はスタジオでの虫の出産の撮影の合間をぬって、定点撮影中の田んぼに出かけた。本来の予定では、虫の出産の撮影はとっくの昔に終えているはずだったが、なかなか上手くいかなくて、一日一日とずれ込んだ結果、2つの撮影が重なってしまった。
 北九州で撮影をして、熊本県の田んぼまででかけ、急いで帰ってまた北九州で撮影をするのは、さすがに慌しいが、よく考えてみたらすんなり撮影できることの方が珍しいのだし、いつもの事でもある。
 
  

06月14〜15日(土〜日)

 僕が所属する日本自然科学写真協会の評議委員会に出席するために上京した。僕は学生時代から昆虫写真の海野先生のお世話になっているが、いつかは先生にちゃんとお返しができるような身分になりたいと思う。
 だが、自然写真界の第一人者である海野先生にお返しをするとなると、僕自身もそれができるだけの力を身に付けなければならず、今の僕にそれだけの力がないことはもちろん、まだまだ教わることの方が山積みというのが現実だ。
 そこで、海野先生が副会長をつとめる日本自然科学写真協会の中で多少の仕事をして、代わりに、自然科学写真の世界に貢献しようと考えているが、いかんせんその委員会の時期が悪い。6月中旬というと僕にとっての一番の稼ぎ時なのだ。昨日は、評議委員会〜総会に出席した後、最終便付近の飛行機で帰宅をした。

 本当は、委員会後の懇親会に出て、いろいろなジャンルの先生方の話を聞いたり、一週間くらい東京に滞在して出版社を回ったりできれば理想的だが、今日は、スタジオで朝から虫に向かい合っている。それにしても東京の街は疲れるなぁ。いつもスタジオでは、野外で撮りたい!と葛藤しながら撮影するのだが、今日は、昨日の疲れで少しもそんな気持ちにならない。
 
  

06月13日(金)

 アマガエルが好きだという女性からメールが届いた。不思議と女性にアマガエルのファンが多い。女性といってもルーズソックスをはいた女子高校生とアマガエルの組み合わせを想像された方からは、「嘘だ〜」という声が聞こえてきそうなので、追加をして書くと、小さな子供がいても良さそうな世代の女性が多い。
 ただ、僕にそんなメールをくださった方の中には、「いや、私はピチピチのギャルよ!」と自負しておられる方もおられるかもしれないので、ギャル〜お母さん世代の女性に人気があると書いておこう。
 初めてそんな方に出会った時には、
「変わった人やなぁ」
 と正直思ったのだが(失礼)、最近は、なるほどな〜と思うようになった。
 アマガエルの写真は子供の本の中でよく使用されるが、子供の本は子供だけでなくお母さんも目を通すものだと思う。そんなお母さん世代の女性に人気があるのも、アマガエルの写真が子供の本の中でよく使われる理由の1つなのかもしれない。
 
 お母さん世代の女性の発想は、僕とは全く違っていて、時々ドキッとさせられることがある。昨年の冬のことだが、子供が生き物の飼育をしているシーンを撮影するために、僕のいとこの子供にモデルをお願いした。
 すると、いとこが、自分の子供に着せる洋服の選別に夢中になり、
「うちの子の服装はキッズ系だけど、そんな服で大丈夫?」
 とたずねられた時には、親馬鹿だな〜と思った。
 だが、僕は少しも子供の服装のことなど考えなかったし、よく考えると、洋服も雰囲気を演出する大切な要素なので、しばらくして、今度は
「なるほどな〜」
 とうならされた。
 
  

06月12日(木)

 今日から一週間とちょっと、またスタジオで撮影する。腹痛で快適とはいえなかった蛍の取材だが、やはり野外での撮影は楽しくて、また新しい撮影意欲が湧いてきた。
 蛍の撮影に出かける前に取り掛かっていた虫の撮影に行き詰まりを感じ、なんとかするぞ!という思いと同時に、そこからどこか逃げ出したい気持ちに取り付かれていた僕だが、じっくりと立ち向かう勇気がどこからともなくこみ上げてきた。
 本当は一週間おきくらいに、野外とスタジオとを交互に計画できれば、お互いにいい気分転換になるような気がするのだが、なかなかそう上手くいかなくて、2週間続けてスタジオで撮影したら、頭が働かなくなり行き詰ってしまった。精神力よわいなぁ。
 今日は、さっそくスタジオで撮影をするための準備を整えた。
  

06月11日(水)

 先月末にフィルムスキャナーが故障をした。それからしばらくすると、今度はパソコンのモニターがおかしくなった。そして今日はペンタックスのカメラが壊れた。
 カエルの撮影中に水に濡れたままの手でシャッターを押したら、シャッターから手を離しても、カメラのシャッターが動き続けるトラブルが発生した。内部に水が入って壊れてしまったのかな?
 ドライヤーで乾かしてみても、エアコンの風を長時間送り込んでみてもダメ。先日の腹痛といいついてないなぁ。機械は壊れるものだし修理代は必要経費だが、そのお金があれば結構高級なすしが食べられるのに・・・などと下世話なことを考えてしまう。

 しかたなくカメラをメーカーで修理することを決め、夜になって故障箇所を触ってみたら、自然に故障が治っていた。どうも単純に水が入っただけのトラブルで、その水分が乾燥した結果、カメラは元気になったようだ。
 僕は、いつも雨の中で、たくさん水滴が付いたまま撮影をしているが、これまでに今回のようなトラブルがおきたことはない。かといって、今回シャッターを押した指先がひどく濡れていたのか?というとそうでもないので、ちょっとした加減だったのかもしれない。
 ただ、いつもトラブルが起きなかったとしても、気を付けておいた方がいいことはよく分かった。今年は梅雨どきに雨の撮影をたくさん予定しているので、カメラの雨具を自作しておこう。
  

06月10日(火)

 九州南部が梅雨入りしたらしいので宮崎でのホタルの撮影をあきらめて、昨晩のうちに大分県まで移動をした。今日は大分県も雨の予報だったので、花と雨の組み合わせで撮影をしようと考え、アジサイやショウブが多い大分県の城島高原付近を選んだが、一帯は毎年花が遅くて、ショウブはチラホラという程度でアジサイはまだつぼみが多い。撮影には少し早すぎた。
 付近の由布川渓谷で沢の撮影をしようか?とも思ったが、僕は由布川渓谷があまり好きではないので、天気予報を聞いて、曇りの予報の熊本県まで一気に移動をして、田んぼで水辺の小動物を撮影することにした。ちょうど田植えや、水が入った田んぼを耕している真っ最中で、そういった農作業やカエルやヘビを撮影した。今日は不思議なくらいにヘビが多い日だった。
 早い田んぼでは手足が出たアマガエルのオタマジャクシが上陸を始めている。

 7日にとんでもない体調不良に陥ってしまい、救急車を呼ぼうか?と考えた僕だが、やっと回復してきた。昨日の夕食からは食べ物が美味しく感じられるようになった。安静にするために、かけうどんを食べて過ごしたが、昨晩は別府で鴨南蛮うどんを食べたら美味しくて、ついでにおでんを食べた。

スキャナーの修理が完了し、5月分の今月の水辺を更新しました。
  

06月09日(月) 一面のピンク画像
 僕が大学時代を過ごした山口県には蛍の名所が多く、大学の近辺でもたくさんの蛍が見られた。その蛍を、『ホタルカウント』と称して一晩中観察して、光の数を数え記録をしたこともある。蛍は夕暮れとほぼ同時に8時頃から一斉に光りはじめ、あとは約3時間おきに発光が盛んになる時間帯がある。

 写真に撮りやすいのは、夕方のまだ空の明るさが残る8時頃の時間帯で、その時間帯であれば、ホタルの光と同時に夕暮れの風景も写すことができる。
 また、月が出ている晩には、空が真っ暗になってから月明かりで撮影した写真も面白い。詳しい理屈の説明は省くが、夕暮れ時よりも月明かりで撮影した方が、たくさんホタルの光を写真に写すことができる。月は新月なのか満月なのかで、かなり明るさが違うが、僕はホタルの撮影には半月くらいの明るさが好きだ。また、月がでる時間帯や月の位置も考えておかなければならない。
 今年は6月の8〜10日にホタルの撮影を計画したが、ちょうどこの日は、半月よりも少し欠けるくらいの月が空の高い位置に出るため、月明かりを使った写真を撮ることができる。ただ、月光で撮影するためには月の条件が整うだけでなく晴れの日でなければならないし、梅雨が間近に迫ったこの時期に、月の条件が良くて、しかも晴れる日はとても少ない。今回、体調不良を無理して出かけたのは、その条件が整う貴重な日だったからだが、8〜9日の夜は僕の希望通りの月が出てくれた。

 今回は、フィルムでの撮影と同時にデジタルカメラでテスト撮影をして、その場で撮影結果を見た上で、細かい調整をすることを思いついた。デジタルカメラの感度を高く(iso1600)して、フィルムであれば撮影に10分かかるところを2分30秒ですむようにして、そのテスト撮影を試みた(さらにf1.4の明るいレンズを選べば、フィルムで10分かかるところを30秒前後で大体の様子を掴むことができるはず)。
 これは使えるぞ!と期待をしていたのだが、僕が使用しているキャノンのD30は、何故か一面ピンクの究極のH画面が撮れるだけで全く役に立たなかった。ホタルの撮影に出かけてピンク画像を手に入れてもしかたがないんだけどなぁ。なぜだろう?極端に暗い状況では写らないのかもしれない。

 宮崎はそろそろ入梅するはずだが、今日は、突然に風が強くなり雨が降り出した。明日も雨の予報だ。今晩はホタルを撮影できそうもない。どこに行こうかな。

スキャナーの修理が完了し、5月分の今月の水辺を更新しました。
  

06月07〜08日(土〜日) 

 僕は子供の頃から凝り性なところがあり、何か1つのことに徹底するのが好きだった。食事にいってもあれやこれやと食べるよりも、その日一番食べたいものを1種類だけ山のように食べ、うちですしをとる時には、
「僕はあなご30個!」
 と、当時大好物だったあなごばかりを30個ほど注文したこともある。おすし屋さんはきっと驚いただろうなぁ。さすがに最近はそこまで極端ではないが、美味しいなと感じたものを毎日のように飽きるまで食べ、飽きたらまた別のものを飽きるまで食べ・・・というような傾向は今でもある。
 昨日も、カボチャのプリンを4〜5個ほど食べたら、突然におなかが痛くなった。初めは食べ過ぎでおなかを壊したかと思ったが、症状がひどくて、どう考えても程度のひどい食中毒としか思えない。
 それでも無理をして蛍の取材に出かけたら途中で動けなくなり、何度か運転を止め休憩をしたり、仮眠を取りながら、かろうじて宮崎まで移動をした。
 いざ蛍の撮影をはじめたらすっかり元気になったが、撮影を終え、眠ろうとすると、突然にひどい頭痛と寒気がして熱を測ってみると38度を越えている。明らかに病気にかかっているようだ。病院や医療が大嫌いな僕だが、救急車を呼ぼうかな?という気になったり、今回は取材を取りやめるべきだったな〜と後悔。
 
 一晩明けると、やや症状は落ち着き、30時間ぶりに食事ができた。温泉にも入った。入浴料を払おうと財布を取り出すと、思いの他、たくさんのお札が入っていることに驚き、ちょっと嬉しくなった。昨日から食事もとっていないし、風呂にも入っていない。とにかく何もお金を使っていないのだ。負け惜しみっぽいが、おなかを壊すといい事もある。ナンチャッテ。
 今日は、今晩の撮影に備えて、昼間は一切撮影をせずに、体調の維持に気をつけて休憩をしている。

スキャナーの修理が完了し、5月分の今月の水辺を更新しました。
  

06月06日(金) ワンダーランド7月号(世界文化社)
 ワンダーランド7月号が届いた。カワセミの写真を2ページ分、使用してもらった。
 本と一緒に、小さなメモが添えられていて、この号を担当された飯田さんの
「毎日どんな事を想い、写真を撮っていますか」
という一文に、僕はふと我に返った。

 ちょうど今の季節は、生き物が好きな人にとって、見たいものがたくさんあり、一年で最もワクワクする季節になる。だが生き物の写真を職業とする者にとっては稼ぎ時でもあり、最も集中と緊張を要し、一年で一番苦しい時期でもある。時に、自然が素敵なものであることさえ忘れそうになるが、
「毎日どんな事を想い、写真を撮っていますか」という言葉で、もっと自然そのものを感じて、それを写真の中で表現しなければ!と思い直した。
 仕事をすることばかりを考えていた視野を、ほんの少しだが広げてもらうことができた。

スキャナーの修理が完了し、5月分の今月の水辺を更新しました。
  

06月05日(木)

 ここ数日で撮影したフィルムを現像するために博多に出かけた。北九州から博多までは、車で往復2時間。現像を待つ時間が2時間なので、合計で4時間を費やすことになる。
 本当は、今日は虫の赤ちゃんの誕生の様子を撮影するのがベストなのだが、もしも、現在撮影中の撮り方そのものが悪ければ、どんなに今日がんばっても努力は無駄になる。そこで、一度現像をして様子をみた方が今後の迷いがなくなり、集中できるのでは?と考えたのだ。
 結果は、ギリギリ使えるというレベルと、最高にいいの中間くらい。撮り方そのものや、雰囲気は悪くはない。あとは、粘って、辛抱して、少しでもいい写真を撮るだけだ。

 現像から帰って、今度はスタジオで撮影を試みたが、町の中を何時間もウロウロした疲れで、手先が不器用になっていて、細かい作業が上手くできない。夜の11時頃までがんばってみたが、また明日撮影をすることにした。 
  

06月04日(水)
 おととい、虫の誕生を撮影するための工夫を思いつき、初めてその瞬間を捉えたと書いた。昨日は、再度同じ手法を試みて、とどめを刺そうと思ったが、うまくいかなかった。
 むずかしい撮影には何らかのアイディアが必要だが、それ以外に、それをやり遂げる執念が大切で、昨日はその執念が途切れてしまった。
 今日は、そこで気分転換も兼ねて、定点撮影中の田んぼに出かけてみたら、僕が定点撮影中の場所にはまだ水が入っていなかったが、すぐ隣の田んぼまでは入ったばかりの水で満たされていた。

 今年は、田んぼの定点撮影を1つのテーマにしているが、一年間を通して何度も撮影するのだから、いい場所を見つけるための場所探しに多くの時間を費やした。その過程でふと気が付いたことだが、一枚一枚の田んぼが小さくて、田んぼが曲がっている方が、写真が優しく感じられる。
 本当は田んぼに感情なんてないのだから、優しいも冷たいもないし、田んぼの大きさや形によって、まるで、その田んぼが優しく感じられたり時には冷たく感じられたりしても、それは人の偏見でしかない。
 そして、一年間の田んぼの変化を客観的に伝えるという点から言えば、そこに写っている田んぼの一枚一枚が小さくて曲がっていようが、大きくて直線的であろうがどちらでも構わないし、むしろ最近の田んぼはほとんど区画整備されていて大きくて直線的なのだから、その方が正確なのかも知れない。
 だが、そう思う僕も、やはり見る人に優しい印象を与える田んぼにカメラを向けたくなる。写真って、人間が見るものなんだと思う。 
  

06月03日(火)
 
 今日も虫の赤ちゃんがお母さんのお腹から出てくるシーンの撮影だが、「決まった!」といえる瞬間をおさえることができない。今日は、ホタルを見にでかける予定だったが、スタジオで、あの手この手と苦心しているうちに、それも間に合わない時間になってしまった。そんな時が一番せつない。

 スタジオでの撮影は、僕の体験の中では生物学の学生時代の実験に近い。一筋縄ではいかない問題に、論理的な考え方とアイディアで立ち向かうという点で、実験とスタジオ撮影は同じ作業だといっても過言ではないだろう。
 現在の生物学は実験が中心だが、学生時代の僕は実験が嫌いで、生き物は野外で見たいと思った。そして、それが可能な仕事として写真家への道を選んだが、皮肉なことに嫌いだった実験と似たスタジオ撮影に取り組む時間も長い。
 もちろん、今でも野外での撮影が楽しいが、スタジオ撮影を手がけて良かったなとも思う。室内での作業は好きではないが、実験的な考え方(論理的に物事を分析し、さらにアイディアで答えのない問題を解決する)はきらいではないと分かったからだ。
 きっと学生時代の僕にも、実験にのめり込む素質があったのだろうが、それを、生き物とは野外で接したいという僕のロマンが邪魔をしていたのだろう。

 そう言えば、生物学の研究者として高い評価を受けている人には、あまり生き物を好きであり過ぎない人が多かったように思う。僕の指導教官だった千葉喜彦先生も学会で高い評価をされた先生だったが、元々医者になりたかったという程で、それなりに自然も好きだが、生き物狂というタイプではなかった。その方が、実験に集中することができるのかもしれない。
 生き物狂の先生は、実験をしている時よりも、実験材料を採集している時の方が楽しそうで、実験の方がついでのように思えなくもなかった。 
  

06月02日(月)
 
 先週から小動物のスタジオ撮影に取り組んでいるが、スタジオ撮影といっても、イメージが湧かない人が多いだろうから、ちょっと説明をしてみようと思う。
 まずは、室内に生き物の生息環境を再現した撮影セットを作る。セットを作るときには、目的とするシーンを撮影し易いように考慮しながら、同時に、その生態が嘘にならないように自然を再現する。そのセットの中に生き物を入れ、観察をしながら、産卵・誕生・脱皮などの、野外では偶然がなければ撮影がむずかしいシーンを待ち撮影する。
 照明は、ストロボという人工の光を使う。ストロボには、昼も夜も、晴れも曇りもなりので、狙ったシーンを時間や気象に関係なく写しとめることができる。
 また、ストロボの光には、被写体の動きを止める効果があるので、そうしてスタジオで撮影をすると、ぶれずに、シャープに、生き物の動きを写すことができる。時には野外で頻繁に見かけるような簡単なシーンでも、例えばカタツムリがただ木に登っているようなシーンでも、動きを止めるために、スタジオで撮影することも珍しくない。
 今僕が撮影を試みているのは、虫のお腹から赤ちゃんが誕生をするシーンだが、地面の上を這う虫のお腹の下を覗き込んで撮影することは野外では不可能なので、撮影セットを目線の高さに持ってきて撮影する。また、そもそもお腹から赤ちゃんが出てくる瞬間に、野外で狙って立ち会うことはほとんど不可能だ。

 今日は、赤ちゃんが出てくるシーンを、完璧ではないが、初めて捉えた。卵から赤ちゃんが出てくるタイプの生き物の場合は、卵は動かないので撮影は比較的易しいが、お母さんから子供が生まれる場合は、撮影がぐっとむずかしくなる。
 最初は、セットの中にオスメスの虫を入れておき、適当に見ていれば撮れるだろうと考えたが、いつの間にか子供が生まれていて、それでは撮れないと判断した。次に、セットを単純なものに作り直し、虫が隠れるようなスペースを無くして、観察をし易く改めたが、やはり気が付いたら子供が生まれていた。
 そうこうしているうちに、下手をしたら繁殖のシーズンが終わってしまうかもしれない。まるで試験前直前の受験生のような気持ちになる。顔が険しくなり、目つきも悪くなる。
 さらに、幾つかの方法を試したがすべてうまくいかず、昨日突然に思い付いた方法を試したら、今日は初めて写真に収めることができた。やれやれ。何を撮影しても、僕の場合は、大抵このパターンをたどる。
 
  

06月01日(日)
 
 何度か日記に書いたことがあるが、生き物の生態(生き様)の撮影は、本当にむずかしい。今年はアマガエルの写真をたくさん使用してもらったが、数年前に初めてまとまった量のアマガエルの撮影を試みた時も、そのむずかしさに僕は自信を失いかけた。
 カタツムリを撮影した時も、メダカを撮影した時もそう。アマガエルも、カタツムリも、メダカも、それ以前に、多少は撮影をした経験があったが、誕生〜成長〜繁殖と余すところなく捉えようと思うと、撮影はいつも想像以上にむずかしかった。
 今日は、今週の頭から本格的に撮影に取り掛かっている虫の撮影を続けているが、ようやく手掛かりが掴めたかな?という程度に撮影が進んだ。
 
 今は、アマガエルにしても、カタツムリにしても、メダカにしても、比較的短時間で思うような写真を撮ることができる。初めて撮影を試みた時にはひと月以上の時間がかかったメダカの産卵の瞬間も、今なら2〜3時間あれば撮影できる。
 そして、そういった何種類かの生き物を徹底して撮影した経験は、今回の虫の撮影にも役に立っているが、一番役に立つのは、生態の撮影のむずかしいさを肌で感じたこと。初めての被写体に向かい合い、
「むずかしくて撮れないんじゃない?」
 と諦めたくなっても、
「今は簡単に撮影できる生き物たちでも、はじめは自信を無くすほど難しかったじゃない!」
 と思い出すことで、
「最初は撮れなくてもいいんだ」
 と思える。今の時点で何かができない自分を受け入れられる点だと思う。
  
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自然写真家・武田晋一のHP「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2003年06月


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