撮影日記 2025年8月分 バックナンバーへTopPageへ
 
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● 25/8/30 暗い


NikonZ7U NIKKOR Z 14-30mm f/4 S

 暗部が大きな面積を占めたり強い写真は、自然写真の仕事の現場では大変に嫌われ、真っ先にはじかれる傾向があります。
 でも、明暗は生き物の生態を大きく左右する重要な要素なので、明るいイメージ作りのために排除して欲しくないなぁとよく感じます。
 観光ポスターならイメージ重視が当然としても、自然について紹介する本では、そこにあるものはきちんと表そうとして欲しいからです。
 生き物を紹介する本の編集では、引き算はなるべくしてほしくないのです。
 近年は特に、夏が暑いので、撮影時に隠れられる日陰の位置を意識することが多く、より一層、影を排除してほしくない気持ちが強くなりました。

 人が明るいを求めるのは、おそらく、人が昼に適応した生き物だからでしょう。したがって、明るいと暗いがあった時に、明るいが中心になるのは当然のこと。
 でも明るいは比較の話なので、暗いがなければ明るいもないし、暗いがあってはじめて、明るいは真に明るく感じられるのではと思うのです。

 暗い場所にいる生き物は、当然、人の目には見にくく、それゆえに本を作る際には明るく表現しようとします。
 生き物の姿がきちんと見える写真が必要なのは当然として、一方で、人の目に見えるまんまの写真も、やっぱり大切なんじゃないかと感じます。
 それを排除してしまうと、自分がフィールドに出た時に本と実際との差が大きく感じられ、本のようには上手くいかないとなり、生き物を現場で自分の目で探すことに結びつきにくくなります。
 
 

● 25/8/28 K君


NikonZ8 NIKKOR Z 14-30mm f/4 S

NikonZ8 NIKKOR Z 14-30mm f/4 S

 小学校のクラスメイトのK君が住んでいた家の前を通りかかったところ、建物が50年前からほぼほぼ変わってなかったので、ビックリしました。
 僕が子供の頃には建物が新しかったのならともかく、当時すでに古い印象があったので、まるで時間が止まっているかのようです。
 修復はされているのでしょうが、見た目が変わったところと言えば、エアコンの室外機が置かれたことくらい?

 K君のお父さんは牧師さんで、一家で教会に住んでいました。
 組織から派遣されて各地の教会に赴任するしくみになっていて、転勤もあると聞いたことがありました。
 確か、お父さんもお母さんも東京教育大学の出身の教育者で大変に教育熱心だったし、K君は中学から県外の私立に進学しました。
 僕は地元の中学に通ったので、以降、K君と会ったことはありません。
 いつもつるんでいる友達というわけではなかったけど、今振り返ってみると、K君は僕にとって特別な存在でした。
 というのは、一緒に生き物を見に行ってくれる唯一のクラスメイトだったから。
 当時から、大人になったら生き物にかかわる仕事をしたいと熱望していた僕にとって、K君との思い出は、今になってみると別格なのです。

 ある時、K君が、学校の裏手にあった図書館でアゲハチョウの幼虫を捕まえて、教室に持ってきたことがありました。
 先生はK君を絶賛して一通りたたえた後、図書館にはミカンの木があること、アゲハチョウの幼虫はミカンの葉を食べることなどを話してくれました。
「先生のうちにミカンの木があるから、毎日葉っぱを持ってきて育てましょう。」
 と教室で幼虫を育てることになりました。
 僕が捕まえてくる生き物と言えば、先生が知らない生き物ばかりでした。K君のように褒められたことはありませんでした。
 今となっては考えられないことなのですが、当時僕は、K君がアゲハの幼虫を採集した図書館の敷地で、なんと!ダイコクコガネを捕まえたことがありました。
 でも、ダイコクコガネについて知っている大人は、身の回りにはいませんでした。
 ダイコクコガネは動物のフンを食べる糞虫で、今や限られた場所でしか見れない虫好き憧れの生き物ですが、当時は遠賀川の河川敷に牛が放されていたので、辺りに生息していたのだと思います。
 ちなみに僕の父は河川敷でランニングをしていて、巨大な牛の糞に足を突っ込んだことがありました。
 ともあれ、それに対してK君が捕まえてくる生き物は、教科書に載っているような、素性が良く知られた生き物でした。

 ある時、僕がモンシロチョウの幼虫が見たいと言ったら、いる場所を知っているから連れて行ってあげてもいいよ、とK君が案内をしてくれました。
 場所は、遠賀川にかかる日出橋を渡った先にある感田のキャベツ畑で、確かにモンシロチョウの幼虫がいて、大感激しました。
 幼虫のみならずサナギも見つかりました。
 幼虫と違って葉にくっついているので持ち帰るには葉ごと採集せざるを得ず、
「葉っぱを取ったら怒られるかね?」
 とK君に聞いたら、この葉は傷んでいて食べられないから取ってもいいんじゃないかなというので、持って帰りました。
 こんないい場所を教えてくれるなんて、なんて大きな人間なんだとK君に感謝しました。
 世界中で僕とK君しか知らないことです。
 
 

● 25/8/22 ばえないシーン


EOSM6U EF-M11-22mm F4-5.6 IS STM

 水面を水生植物で覆われた夏の池の中って、どんな景色なんだろう?とカメラを沈めてみました。
 事前のイメージは、植物によって日が遮られた水の中は全体に暗くて、葉っぱの合間から幾筋もの光が差し込み、それが光芒になっている景色でした。
 陸上でいうと、晴れの日の早朝の杉林みたいな景色をイメージしていました。
 ところがカメラを沈めてみると、全然違いました。
 別に事前のイメージと違っていること自体は構わないのですが、問題は、とにかく雑然としていて見通しが悪いことでした。
 どこをどう撮影するのか、最後まで、要領をつかむことができませんでした。
 最近は見栄えがすることを意味する「ばえる」という言葉がよく使われますが、その逆で、「ばえない」のです。
 そんな風だったので、今日はまともな写真が一枚もないかもしれないと思い、もう一ヶ所、別の、今度は名が知られていて人が次々やってくる湧き水の池に行ってみました。
 すると、真っ青な湧き水の池はまさに「ばえる」であり、そのままポスターに使えそうな写真が、何の苦労もなしに、いと簡単に撮影できました。
 いずれも、同じ人間が同じ日に撮影した結果です。
 二ヶ所目の池で撮影した写真は、8月分の今月の水辺で紹介する予定です。
 
 ばえるの威力を思い知らされた一日でしたが、僕は最近、ばえる場所には、何か事情がない限り行かないことにしています。
 今は情報過多な時代であり、ばえる場所にはカメラマンが集中し、同じ場所で撮影された写真が氾濫しているからです。
 単にきれいな景色を見せたい、あるいはその撮影を楽しみたいのなら、ばえるでいいけど、生き物や自然のことを伝えたい場合は、ばえる写真や人を驚かせる写真は、それを目的にするのではなく、そこに存在するものをきちんと正確に伝えようとした結果、あとから付いてくるものだと思うのです。



● 25/8/18 アイディア

 自然写真の活動で一番重要なのは、こんなことをやろうという企画を考え、人にその話をして、企画を通すことでしょう。
 その先の写真を撮ったり文章を書いたり、それらを編集するなどの作業ももちろん大切だけど、企画の重要性は別格です。
 企画を立てる人は、もっとも替えがきかない存在だと言えます。

 そこのところは、音楽の作曲家と演奏する人の関係にも似ています。
 演奏する人はもちろん大切だけど、作曲家はそれ以上に大きな権利を持っています。
 むかし、歌手の森進一さんが、作曲家の川内康範先生の逆鱗に触れてしまい、名曲「おふくろさん」を歌わせないとへそを曲げられたことが思い出されます。
 あるいは、資本家と労働者の関係に似ていると感じることもあります。
 企画を出す人が資本家で、それを実現する人が労働者です。そして、権利の大きな部分を有しているのは資本家です。

 そんなの不公平だ、という方もおられます。
 その場合は、自分が企画を出せば済むことです。
 上の例えで資本家になるのは時に物理的に難しいかもしれないけど、自然写真の優れた企画を出すくらいなら、理屈の上では、誰にでもできる程度のことです。
 でも、その誰にでもできそうなことが、とても難しかったりします。
 
 さて、僕にとって一番怖いのは、アイディアが出なくなることです。
 アイディアの難しさは、まじめに取り組めば、出てくるわけではないところです。
 時々、
「自分がこんなに一生懸命取り組んだのだから」
 と自分を認めるように求める方がおられますが、アイディアが求められる活動には向かないことでしょう。
 一般に、忙しい忙しい、と日頃からバタバタしている人は、アイディアに欠ける傾向があります。
 僕は、アイディアが命の活動の場合はそうなってはならないんだなと思うわけですが、それでも、自分が仕事に関して不安を感じている時には、自分を忙しくしようとする傾向があります。
 忙しいと何かやった気になれるわけですが、自分をマネージメントすることの難しさを思います。



● 25/8/15 遺言書

 いずれ起きるであろうことでも、それに対する準備がないと必要以上にダメージを受けることを、最近思い知らされる機会がありました。
 そこで、自分が急死しても家族がなるべく困らないように、正式な遺言書を作ったり、生命保険の受け取りに関して詳細を保険会社に問い合わせたり、できることをやっておくことにしました。
 中学のクラスメイトのK君がたまたま弁護士として近くにいるので、最初に、相談に行きました。
 その時に、正式な遺言書を作っておいた方がいいと教わり、こういう内容にしてはどうかと案を示してもらった上で、正式な遺言書を作る公証人役場に行くようにアドバイスをもらいました。

 公証人役場に行ってみると、徹底して不正が起きにくいシステムが採用されていました。
 例えば、公証人の方からは、こうした方がいいですよ的な誘導に結びつく可能性があるアドバイスはできないしくみになっていました。
 ところが、こちらは法律のことがほとんど分かりません。何かたたき台がなければ、話しを始めることができません。
 そこで、弁護士のK君が作ってくれた案が、大変に役に立ちました。
 それを見せて、こういう形でと相談すると、話しがスムーズに進みはじめました。

 公証人役場で正式な遺言書を作るためには、そこそこ時間がかかることがわかりました。
 その時間に加えて、事前に法律の専門家に相談する時間も加味すると、準備に要するトータルの時間は一ヶ月では、ちょっときついなと思いました。
 さらに、誰に相談するか、何を相談するかを考える時間も加えると、落ち着いて考えるためには、最低でも、自分が健康で十分に動ける状態で、2〜3ヶ月は欲しいと思いました。
 運悪く自分が命にかかわる急病になったり事故にあってからでは、その手の引継ぎ作業はきついなと感じました。
 遺言書は、身内の争いみたいなものを防ぐためのものだと思い込んでいたのですが、それだけではないことがわかりました。
 例えば、僕が死んでしまった場合、遺族は遺言書をもって銀行に行き、僕の口座のお金が自分に引き継がれることを伝えるのだそうです。また不動産の場合は、法務局に行き、やはり遺言を見せた上で、新たに登記してもらうのだそうです。
 その際に遺言書の書き方がまずいと、遺言としては機能しなくなるケースがあるのだとか。
 そう言えば、知人から、親が死んでしまった時に銀行口座の名義を変更しようとしたら、たらい回しにされてなかなか対応してくれなかった話は、聞いたことがありました。
 正式な遺言書は、そうしたケースを防ぐわけです。



● 25/8/14 まぐれ

 寄せられた注文に対応できる写真はないかな?と昔撮影した古い写真を改めて見る機会がありました。
 結論は、使えないことはないけど、提供しても多分使われない、でした。
「写真を探しています。」と声をかけられる時に、自分だけに声がかかることは滅多にありません。依頼者は何人もの人に問い合わせ、その中から写真を探す場合が大半です。
 すると、ツボを押さえていない写真は、なかなか使われません。
 
 自然写真を仕事として成立させる上で大変に難しいのは、コストの問題です。自然という予定が立てにくい存在を相手にすると、無駄がたくさん生じ、コストがかさみます。
 それらのコストを加味すると、撮った写真が一度使用されたくらいでは生活費にならない場合が多くなります。
 同じ写真が、何度も何度も繰り返し使用されて、初めて利潤が出る感じです。
 写真が一度使用されればいいのなら、きちんとした写真の技術と生き物に対する知識があれば、さほど難しくはありません。
 ところが何度も使用される写真に仕上げようとすると、業界の事情や慣例を知り、ツボを押さえておく必要があります。
 その点、若い時に撮った写真を今見ると、技術的には仕事ができる水準に達していても、業界の事情に無知であるがゆえに使われない写真がほとんどです。
 当時としては、ツボを知っているつもりだったのですが、今見ると、無知そのものなのです。
 そうした現実をまじめに考えると、あらゆることを犠牲にして撮影した写真が使われないなんて、俺のあの努力は何だったんだ!と叫びたくなってしまうことがあります。
 なので僕は、最近は、あまりまじめに考えないようになってきました。

 業界の事情や慣例の難しいところは、写真撮影を練習しても、身に付かないことです。
 基本、誰かに教わるしかありません。
 そこのところは、法律の難しさなどに似ています。
 人がどう決めたかの話であり、科学の研究みたいな、自分で導き出す類のことではありません。
 すると、慣例を教えてくれる仲間の存在が重要になってきます。
 ただ自分に下心があると、人は警戒するので、なかなか仲間ができません。
 たいていの場合、いい仲間とは、何となく出会います。
 幸運やまぐれに近い感じがします。
 「まぐれは呼び込むものだ」、という人がいますが、わかるような気がします。
 まぐれを狙って起こすことはできないけど、まぐれが起きうる遊びを持たせることなら可能だし、その遊びがないとまぐれが起きなくなってしまいます。
 
 

● 25/8/13 人の都合ではないもの

 もうずいぶん前のことですが、時々腹具合がひどく悪くて、ある時、いつでもトイレに駆け込めるように、トイレの前の床に横になり待機をしたことがありました。
 腹痛の具合は経験したことがないものだったので、これは何かあるかも?と後日大腸の検査を受けたら3センチもの腫瘍が見つかり、取り除いてもらいました。
 その後は、同じ感じの腹痛が起きなくなったので、おそらく腫瘍が悪さをしていたのでしょう。
 それはともあれ、トイレの前で横になっている僕を見た家族が布団を敷いてくれたところ、そばにいた犬が真っ先に布団に寝ころびました。
 僕は、脂汗がにじむような腹痛だったにもかわらず、その犬の振る舞いに大変に癒されました。
 
 あの癒される感じはいったい何だったのだろう?とあとで考えてみると、僕を癒したのは、人の事情を理解しない、犬のいつも通りの振る舞いでした。
 人の事情に関係なく変わらないもの、人の都合ではないものと言ってもいいでしょう。
 そう言えば、昔拉致被害者の方々が日本に帰宅した時に、
「親や兄弟に会っても涙はでなかったけど、故郷の山や景色を見たら涙がでてきた。」
 と何かに書いておられたのを読んだことを思い出しました。
 人の温かみはとても大切なものだけど、人間には、人の都合とは無関係のものも必要と感じました。
 僕に限らず、今は犬や猫を飼う人が多くいます。
 その犬や猫は、一部の例外をのぞいて、人の何か手伝ってくれるわけではありません。むしろ動物は困ったことをする場合も多々あり、合理性で考えると、動物を飼うのは非常にバカげた行為でしょう。
 にもかかわらず動物を飼う人が多いのは、僕だけでなく、多くの人にとって、人ではないものも必要だからではないかな?と思うにいたりました。

 もちろん、すべての人がそうではなく、動物なんて論外という人もおられます。人の予定通りに進む物事を好む人です。
 僕の身の回りでは、父がまさにそうでした。
 ある時、父が、柴犬のミキを山登りに連れて行ったところ、ミキがいなくなってしまったことがありました。
 驚いて必死に探そうとする母に対して、父は、もう探すなと主張しました。父が、自分の自由な時間を費やして、なんとかしてミキを探そうとすることはありませんでした。
 父が動物と接するのは、あくまでも自分の暮らしを変える必要がない範囲に収まっている場合のみでした。
 学校の教科では物理が好きだ、とよく言っていました。理由は、計算通りに行くからでした。
 また、生のものを相手にするよりも、本の中の世界を好みました。
 ともあれ、結局、ミキは山の中にいて、付近に貼ってまわった張り紙が功を奏し、ミキを見かけた登山者の方が確保してくださいました。



● 25/8/12 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。



● 25/8/6 売れる写真

 お金がたくさんあったらなぁ、と僕は時々妄想します。
 一方で、お金がないのなら、工夫をしたり写真が売れるように努力をせざるを得ず、その時に身に付くことはとても多いです。
 その努力を、裕福な状況でできるか?と考えてみると、僕は多分怠けるし、自分には無理っぽいなと感じます。
 裕福な状況で努力できる人は、本当にすごいと思います。
 僕の場合は、追い詰められているから頑張るハングリー型です。
 中には、人から認められたいとか評価されたいみたいな出世欲が頑張る動機になっている人も見受けます。
 でも出世欲は、自分と他人との比較であり、他人を羨むや妬むなどに結びつきやすく諸刃の剣でもあります。それゆえに出世欲が制御できずに自滅してしまった人を、何人か見たことがあります。

 さて、写真が売れるように撮影することを、自分を殺すことだと思っている人は少なくないのですが、売れる写真を撮るのは、基本的に自分と社会との接点を探すことであり、自分を殺すことではない場合が多いように思います。
 確かに、写真を売る時に自分を殺す要素が全くないわけではないのですが。
 また、写真撮影の技術が高ければ高いほど、自分を殺さずに済みます。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2025年8月分


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