撮影日記 2025年7月分 バックナンバーへTopPageへ
 
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● 25/7/28 編集

 僕のパソコンのハードディスクの中には、インターネット上で目にして、
「あっ、これは何かの参考になるかも」
 とか
「この写真好きやなぁ」
 などといった理由で保存しておいた他人の画像があります。写真が保存されているフォルダーには、最初にそれをはじめたときに「資料写真」という名前を付けました。
 その 「資料写真」にあとでざっと目を通すと、自分が気になった写真にはある程度の共通点があることに気が付きました。
 好みや自分の視点いうやつです。
 やがて知識や情報の面よりも、そうした気付きの方に価値があると思うようになりました。すると、最初は画像を保存したもののそれを忘れてしまうことの方が多かったのが、今では、画像に目を通すのはルーティンになりました。

 たくさん保存した画像にざっと目を通そうとすると、一枚一枚の写真をじっくり見る時間はありません。画像を次々表示させ、ビビッとくる写真だけを見ている感じになってきます。
 ああ、そうか!編集者が画像を探す時も、多分それに近い感じになるだろうなぁ。いや、そうならざるを得ないでしょう。
 ということは、カメラマンは、そんな写真の選び方をされてもきちんと目にとまるように写真を撮る必要があります。
 最初は主に自然系の資料価値の高い写真がメインだったのが、次第に分野の壁がなくなり、鉄道や人物やアートっぽい画像も、気になれば保存するようになりました。
 さらに、他人が撮影した写真を画像処理し、写真に仕上げをするようにもなりました。
 すると、ちょっと画像処理をすることでキラキラ輝きはじめる画像があり、そんな時に、そのひと手間を加えることがとても面白いことに気付きました。
 そうか!これって編集だ!
 時々編集者と共に取材に行った時に、編集者に対して、自分で写真を撮った方が楽しくない?などと内心思うことがあるのですが、これが編集の面白さなのかと気付いたのでした。



● 25/7/24 リーダー

 テレビで政治家の話を聞いていたら、突然に、同級生の篠崎君のことが思い出されました。
 篠崎君は、中学〜高校のクラスメイト。友達のみならず先生からも頼られる存在で、中学でも高校でも、一学期の一番最初の学級委員は篠崎君というのが決まりでした。
 当時は、そんなものだと思っていました。
 ところが高校を卒業してから30年後の同窓会の時に、篠崎君がいつもリーダーに選ばれることが苦痛で苦痛でたまらなかったことを知りました。もういいかげんにして!と叫びたくなるような心境だったのだそうです。
 みんなが、この人になって欲しいと望む人と、自分がリーダーになりたい人。そのどちらがリーダーになるのがみんなにとっていいことなのでしょうね。
 僕は普段、人に役割を割り振る時に、それを好きな人、それをやりたい人にやらせた方がいいと思っています。
 そう感じるのはおそらく、僕がやっている自然写真の仕事が、好きこそものの上手なれ、が典型的に当てはまる仕事だからでしょう。
 でも、みんなを率いるリーダーのポジションに関しては、政治家にせよ、学級委員にせよ、生徒会長にせよ、クラブの部長にせよ、自分がリーダーになりたい人が良かった例はほぼほぼ見たことがなく、みんなが望む人がなった方が好結果になる印象を持っています。
 篠崎君がそうだったように。
 それが苦痛でたまらなかった篠崎君には気の毒なことですが。
 リーダーに必要なのは、みんなの尊敬であり、それは自分がリーダーになりたいと思う気持ちとは違うし、しばしば相いれないと思うから。



● 25/7/16 創作



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 本づくりの仲間・ボコヤマクリタさんから最新作を送ってもらいました。動物が主人公の創作絵本です。
 テーマは、多分、人の兄弟かな。
 ふと思い出したのは、数年前にテレビで見た「あらいぐまラスカル」の再放送でした。
「あらいぐまラスカル」と言えば、子供の時はアライグマのお話だと思っていたのに、大人になって改めてみるとアライグマはある種の表現の手段であり、むしろ人間関係のお話だと僕は感じました。
 それらの人間関係を直接的に表現すると、学校の授業的、教材的になり、情報としてはよく伝わるのだけど、心には響きにくくなりがちです。
 その点創作は、言いたいことはぼやけてしまうけど、心に直接入ってくる感じがします。
 
 僕は、普段、なるべく直接的な表現の手段を選んでいます。
 例えばネズミがドングリを食べるとすると、ネズミが食べた痕跡があるドングリを撮影するよりも、まさにドングリを食べているネズミを撮影しようとします。
 より直接的な表現をするのは、僕の写真が主に使用される場は科学物の出版物であり、より直接的にものを見せるのが科学だからです。
 誰が見ても同じように伝わるように書くのが科学論文の書き方だし、誰が見ても同じように見えるように撮るのが科学写真の撮り方の原則です。
 もっと言うと、間接的な表現は、才能がある人のすることだからという側面もあります。
 前述のネズミの例で言うと、ネズミの食べあとがあるドングリを撮影して、ネズミの姿が目に浮かぶような写真を撮るには、それなりに力量が求められます。
 その点、食べているネズミが写っていれば、撮影者が言わんとすることは、誰にでもわかるでしょう。

 近年は、科学性が以前よりも重視されるようになってきました。
 例えば、「エビデンス」という言葉がよく使われるようになりました。
 エビデンスとは、誰が見ても同じようにわかる証拠であり、客観です。
 そうなってくると、僕はむしろ、日本の社会がそちらに偏り過ぎているのではないかという気がしてきて、最近は間接的な表現を取り入れてみたいと感じるようになりつつあるのですが。



● 25/7/11 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2025年7月分


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