撮影日記 2025年3月分 バックナンバーへTopPageへ
 
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● 25/3/31 危険


NikonZ7U NIKKOR Z 17-28mm f/2.8 PL

 月に一度、子供の頃に遊んだ場所で写真を撮ることにしています。
 今月は近所の公園に行ってみました。
 この場所は、公園であると同時に、城跡でもあり、戦没者の慰霊の場所でもあります。
 さらに昔は、公園の中に小さな動物園がありました。公園は誰でもいつで入ることができる構造なので動物園は無料だったし、さらに管理人さんが常駐していたのですが、誰がお金出してたのでしょう?
 僕は、同級生の中でも、ここでよく遊んだ者の一人でした。
 今は多分いないと思うのですが、当時はヤマタニシが住んでいて、なんだこれは?奇妙な生き物だなと眺めた記憶があります。
 また、ここでマイマイカブリを捕まえて、ペットショップにもっていって
「カブトムシと交換してくれ」
 と店主にお願いをしたら、断れた記憶があります。

 クラスメイトの富田君と一緒に遊びに行ったときには、捨てられた大量の文具を見つけました。
 その中に含まれていたシャープペンシルという存在は、その時初めて知りました。
 富田君が、
「キャップをあけてみて。」
 というので言われた通りにペンシルのキャップを取ったら、中に小さな青くてきれいな消しゴムが入っていて、かっこいい〜と一目ぼれして持ち帰りました。
 が、おそらく盗品が捨てられたのだろう、と母が派出所に届けてしまい、がっかりしました。

 富田君は小学校で最初にできた友達でした。 初めての下校日に、
「あんた、こっちに帰るんやろう?知っとうばい。一緒に帰ろうや。」
 と誘ってくれたのがきっかけでした。
 おかげで僕は、友達ができなかったらどうしようといった心配をせずに済み、とてもスムーズに学校に溶け込むことができました。
 それを思うと富田君との出会いは、自分の人生の中でも、指折りのいい出会いだったのかもしれません。
 不思議なのは、富田君は人見知りではなかったけど、社交的という感じでもなかったことです。なのになぜ、僕に声をかけてくれたのでしょう。
 小学校を卒業後に後富田君がどうなったかはわからないのですが、6歳の富田君はなぜ僕の帰る方向を知っていたのか、もしもどこかで会えたら、聞いてみたいものです。



● 25/3/30 危険



 区画整理にともなう引っ越しでスタジオがせまくなり、撮影中にスタンド類をひっかけがちなので、改善を試みました。
 今まで専用スタンドに取り付けていたディフューザーを、クランプ類を使用してライト用のスタンドに取り付けまとめることで、スタンドを一本減らしました。
 今のところ、悪くない感じがします。
 ディフューザーは、ストロボの発光部に取り付けるタイプのライトボックスを使用すれば、そもそもそれ用のスタンドは必要がありません。
 ところがライトボックスの場合、ライトボックスの形(四角なら四角)でしか光らせることができません。
 その点、ディフューザーとストロボが別々になっていれば、ストロボをディフューザーに近づけることで丸い形に光らせることが可能になります。また、丸い光の輪郭をぼやけさせるなどの調整も可能になります。

 僕がその手の改善作業をするのは、今回もそうだったのですが、たいていスタジオ撮影の待ち時間です。
 生き物の撮影の場合、しかたなく寝ている時間は別にして数日の待機は珍しくないので、時間はたっぷりあります。
 その場合、改善に夢中になっている間にシャッターチャンスを逃してしまう危険性があるので、カメラはHDMIケーブルを使用してパソコン用のモニターに接続し、撮影中の被写体の状態がよく見えるようにしておきます。
 さらに危険なのは、今まさに撮影に使用中で動かしたり変更すべきではない機材にまで、改良を加えたくなることです。
 そして実際に、それをやっている間に被写体を落っことしてしまい、撮影を台無しにしたこともありました。
 手を加えたい衝動を、グッと抑える必要があります。

 そもそも、うちのライトスタンドの大半は品質が悪く、脚の伸び縮みがスムーズではないので、あまり触りたい道具ではありません。
 というのは、引っ越し前が広かったこともあり、スタンド類は使用する長さで何本も出しっ放しにすることができたので、特に動かす必要がなく、可動部の動きの悪さはあまり問題ではなかったし、激安の粗悪品や使い古された廃棄品ばかりを使用していたのです。
 しかし今のような状況になるのであれば、そこそこいいものを買っておくべきでした。
 考えてみると、スタンド類はとても長く使用できるので、触って気持ちがいい高品位な製品を買うべきでしょう。



● 25/3/25 教訓

 ミジンコの耐久卵の孵化がどうしても撮影できないので、これ以上1つのシーンに時間を使うことはできない、と自動撮影に切り替えたのはちょっと前のことでした。
 苦心しているのは、以前にも書いた通り、僕が撮影している種類の孵化率が非常に低いことです。
 孵化しやすい条件を探してはいるものの、今のところ、予備実験で非常にうまくいったケースでさえ10%以下の孵化率なのです。
 そんな滅多に孵化しない卵を、孵化するかも・・・と数日間連続して見続けるのは、やってみると全く現実的ではありませんでした。
 多分、大谷翔平選手くらい前向きな人でも、間違いなく心が折れます。
 その点、自動撮影なら、心はないし、そのうち当たる可能性があります。

 ただやっかいなのは、毎日膨大なデータが得られてしまうことです。
 ミジンコの場合、卵が孵化したかどうかの確認が目視では難しくて、撮影したデータをすべてチェックする必要があります。
 卵には孵化の痕跡が残らないし、稚ミジンコが生まれてもなかなか見えなくて、小さな容器の中に確実にミジンコがいるケースでさえ、それが見えたり見えなかったりするのです。
 泳がずに沈んでじっとしているような時間があるのかなぁ。
 したがって、画像をチェックするしかなく、データを記録メディアからハードディスクにコピーし、それらを一通り見るには、毎日3時間近くの時間がかかってしまいます。
 そんな中、先日、撮影用の容器の中を小さなミジンコが泳いでいることに気が付きました。
 やった!生まれてる!
 ということは絶対に写っているはずだ!と僕はドキドキしながらデータをチェックしました。
 ところが孵化の瞬間はどこにも写っていませんでした。
 まず思いついたのは、死角になっている箇所から子供が出てきたか、僕の撮影間隔が長過ぎて、シャッターとシャッターの間に孵化が完結してしまったの2つでした。
 そこでまずは撮影間隔を短くして、再度自動撮影にチャレンジしてみることにしました。
 撮影間隔を短くするということは、よりたくさんの写真が撮れてしまうことになるので、前にもまして画像のチェックに時間がかかります。
 さらに、より大容量の記録メディアが必要になり、新たなものを購入するはめになりました。
 実はちょっと前にもその撮影用に記録メディアを買ったばかりなのですが、記録メディアは高価なのでけちったばかりに中途半端な容量のものを買ってしまいました。
 どうせ買うなら、記録メディアは、これで十分と思うサイズよりもさらに大きなものを。
 カードリーダーは最高に高速なものを、というのが今回の撮影の教訓です。
 
 

● 25/3/23 ナメクジの卵


NikonZ7U NIKKOR Z MC 105mm f/2.8 VR S

 産卵直前のナメクジです。板の裏側に張り付いています。
 手前が頭で胴体の膨らんでいる箇所が卵です。
 膨らみは頭の方に移動して、頭の辺りから卵が出てきます。
 より厳密に書くと、卵は顔の右側から出てきます。したがって、物陰に産卵しそうなナメクジがいたとしても、顔の右側が見えていなければ撮影はできません。
 また物陰の中ではナメクジの輪郭が背景に溶け込みやすく、そのそも何が写っているのかわかりにくい写真になりがちなのが、難しいところです。
 カメラとは逆の方向から光が入り、その光がナメクジの輪郭を照らし出すような状況になればいいのですが、なかなかそうなりません。
 
 カタツムリと比較をすると、ナメクジは、行動がより機械的な感じがします。
 条件が整うと、交尾や産卵などのイベントが、みんなで示し合わせたように、いっせいに始まります。
 カタツムリはより気まぐれで、条件が整った時でも、個体によってかなりばらつきがあります。
 したがって撮影することに関してはナメクジの方が読みやすいのですが、その肝心な一日に用事が入っていたりすると、たった一つの用事で撮影がアウトになってしまいます。
 そういうタイプの生き物の撮影が控えている時は、とにかく、人と約束をしないことが何よりも大切です。
 ところが、普段それを自分なりに徹底している僕でさえ、いつくるかわからないその一日をきちんと開けておくのは案外難しくて、人間って用事が多いんだなぁと思います。


NikonZ7U NIKKOR Z MC 105mm f/2.8 VR S

 カタツムリの場合、僕が過去に見た種類は、卵を一粒ずつ産みました。
 一方でナメクジは、卵塊の状態で産みます。胴体とそんなに違わない太さのものが塊のまま出てきます。



● 25/3/18 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。



● 25/3/16 おもしろいとつらいは紙一重



 昨晩は、カメラが置いていあるスタジオのそばで待機をしました。
 狙いは、ナメクジが卵を産むシーンの撮影でした。
 悩ましいのは、撮影したい現象がいつ起きるのかの予測の幅が例えば2〜3日など、ある程度ある場合、どこかで仮眠をしなければならないことです。
 残念ながら昨晩は、その仮眠の間にシャッターチャンスを逃してしまいました。

 一方で、ナメクジが卵を産む際には、微妙とはいえ、ある程度の予兆があることがわかりました。
 ナメクジの産卵の撮影は、すでに3年目。
 本当を言うと、一昨年〜去年の間に失敗をしながらそうした予兆を把握しておくべきでした。
 ところがちょうど区画整理に伴う引っ越しの準備から引っ越し作業と重なり、じっくり粘り強く撮影することができず、ただ失敗するだけに終わり、次につながる何かが得られていませんでした。
 得られるものがなかった自覚は、当時すでにありました。
 集中できてないなと思っていました。
 したがって翌年またチャレンジしてもうまく撮影できる自信がなく、生き物の撮影ってつらいんだな、と内心思いました。
 ところが転居の作業から完全に開放された今年は、失敗はしたものの、多少なりとも前に進めた感じがしました。
 生き物の撮影の仕事のおもしろいとつらいは、紙一重であることを改めて実感しました。



● 25/3/14 名前の話


EOS R7 RF-S10-18mm F4.5-6.3 IS STM

 車で2時間ほどの山口県の磯に行ってみたら、ベリルイソギンチャクがまとまって見られたので、カメラを向けました。
 ベリルイソギンチャクは近所の磯でも見かけますが、圧倒的に数が多くて目につくのはヨロイイソギンチャクで、少数がその中に混じる程度です。

 上の行でヨロイイソギンチャクの名前を書こうと思ったら、最初、名前がなかなか出てきませんでした。
 しかたがないので、「磯、イソギンチャク」でインターネットを検索したら、ヨロイイソギンチャクの文字が目に飛び込んできて、ああ、それそれ!と思い出しました。
 ところがすぐに、でもなんか違うような気がしてきました。
 例えるなら、いつも入力しているパソコンのログインパスワードが、その日に限ってわからなくなるような感じです。
 そこでヨロイイソギンチャクについて書かれた記事を読んでみると、頭に思い浮かべていたのはヨロイイソギンチャクで間違いありませんでした。
 僕が、物の名前を右から左に忘れてしまうのは、別に今にはじまったことではなく、子供の時からです。
 正確に言うと、小学生くらいまでは大好きだったルアーの名前などをたくさん覚えていて、それらの大部分は今でも忘れていません。
 ところがその後、しだいに名詞を暗記する記憶力が怪しくなり、やがて好きなものの名前でさえ覚えにくくなりました。
 なぜ記憶力が悪くなったのか?は分からないのですが、ルアーの名前を覚えすぎて脳が満タンになったんだ、と解釈することにしています。

 最近は、名前を忘れる以前に、どうせすぐに忘れてしまうのだしと最初から覚えようとしなくなりました。
 生き物の記事を作る仕事をしているのに怠惰だなぁ、と思うわけですが、カメラマンの場合、名前を憶えていなくても、その実体の方に興味があればそれで十分じゃないか!と感じるようになり、現場に行って時間をかけてそれを見ることに徹するようになりました。
 写真に生き物の外観や性質は写っても、名前は写らないからです。
 そう思うのには、僕の性格もあるでしょう。
 物の名前は、社会と自分が通信する時に必要になるもの。それに対して僕は、あまり社会との通信を求めてないから。
 誰かとしゃべらないのなら、名前を宙で覚えておく必要はあまりないからです。



● 25/3/10 自動撮影の話


EOS R7 RF-S10-18mm F4.5-6.3 IS STM

 スタジオでどうしても撮影できないシーンを、自動撮影に任せて、ヒキガエルの卵を見に行きました。
 池の中に卵を産みにきた親の姿はすでになく、今シーズンのこの場所での産卵は終わっていました。
 次は、生まれたオタマジャクシが群れて泳ぎだすのが楽しみです。

 撮影に使用したキヤノンのEOS R7は、割とコンパクトで、そこまでバカ高いわけでもなく、自然写真の仕事に使うには実用的でよくできたカメラだなという印象です。
 唯一、APS-Cサイズのセンサーに3250万画素は、ちょっと画素数を欲張り過ぎではないかと感じました。この感想は、以前、2580万画素のEOSM5を、3250万画素のM6 Mark IIに変えた時の印象とまったく同じです。
 デジタルカメラは画素数を増やし過ぎると、画質がのっぺりしてしまうと言われていますが、多少そんな感じがします。
 ただしキヤノンのカメラはだいたい完璧ではなく、たくさん不満点があるものの、その不満がすべて我慢できる範囲に収まっているというのが特徴で、そういう意味では、EOS R7も、いかにもキヤノンのカメラという感じがします。
 
 さて、スタジオで進めている自動撮影は、15秒に1枚、自動的に写真が撮れるようになっています。 
 僕がヒキガエルを見に行っている間にもしも目的の現象が起きれば、予想では、1〜2枚くらいは現象が写るのでは?と期待しています。
 撮影の間隔はもっと短くすることも可能ですが、その代償として、撮影できる期間が短くなります。
 いずれにせよ、今回は現象がおきてなかったので、写真は撮れてないのですが。
 15秒に1枚の自動撮影では、何か撮れたとしても、ベストの瞬間は逃す確率が高いし明らかに妥協した横着な方法だなと内心思います。
 一方で、自動撮影は自動撮影でやってみるといろいろな不具合が生じて難しいし、試行錯誤と蓄積が必要な分野なので、試すことができる場合はなるべく試すことにしています。
 今回も、ヒキガエルの撮影から帰ってチェックしてみると、1つ重大な不具合が起きていたことがわかり、その対策をしました。



● 25/3/5 星野さんがどこかに書いておられたこと

 ミジンコの耐久卵と呼ばれる卵が孵化をする瞬間を撮影したいのですが、一昨年から散々試しているのに、孵化率が低くて撮影に至りません。
 これまでに孵化させることができた数は、卵約100個を孵化させようとしたとして、0匹〜多くて3匹。
 そんな確率ではとうてい撮影ができないので、まずはカメラなしで、どうしたらたくさん孵化してくれるのかを調べる予備実験に取り組んでいます。
 試しに、同属の他の種類のミジンコでやってみたら、そちらはある程度の割合で孵化をするので、おそらく、僕が撮影している種類の孵化がむずかしいのでしょう。
 
 さて、時々、星野道夫さんがどこかに書いておられたことをふと思い出します。
 星野さんがMOOSE(ムース)という写真集を作る際に、草食動物であるムースとそれを時に襲う熊とのからみがなかなか撮影できずに苦心したい、という話です。
 星野さんはじっくり取り組むタイプの人だったので「なんとか一応撮れました」的な写真は発表しておられない印象ですが、今写真集MOOSEを改めてみてみると、ムースと熊の箇所に関しては写真が素人っぽくて、本当になかなか見れなかったんだろうなと感じました。
 生き物の記事を書く際に、著者にとってもっともエネルギーを要するのは、自分の目で現象を見ることです。
 一方でもっとも大切なのも、自分の目で現象を見ることです。

 ミジンコに関する記事をインターネットで検索すると、書いた人が自分でものを見ることなく、誰かが書いた記事を再編集しただけの記事がたくさんヒットします。
 何を見てその記事を書いたかを明記しているものは別にして、あたかも自分でそれを見たかのような文体のものには、僕は、ただただガッカリさせられます。
 それはぱくりだという批判は当然として、それ以上に、なんで自分で見たいとも思わないものについて語ろうとするの?とその人の動機の部分に疑問を感じるのです。
 自分の見たいと思う気持ち、見れた時の感動が人の心に届くんじゃないの?と思うのです。



● 25/3/4 偽科学

 「生物学者の福岡伸一さんに対するインタビュー記事の内容が、生物学的に間違えだらけでひどい」という指摘を、SNSで見かけました。
 福岡さんが間違えているのか、あるいは記事をまとめた人が正しく理解できなくてそうなったのかは分からないけど・・・と前置きをした上でそれを指摘したのは、ある大学の生物学の先生でした。
 その指摘に対して、「福岡さんのお話はポエムっぽくて、自分はそこが好き」という意見もありました。
 一方で、「ポエムを発表したいのならポエムとして発信すべきであり、科学物として発信するべきではない」という反論がありました。
 近年、科学物とポエムをごちゃまぜにすべきではないと以前よりもきびしく言われるようになったのは、科学に紛れ込んだ科学ではないものがやがて「偽科学」に結びついてくるからです。
 偽科学とは、一見科学っぽいのに、中身はでたらめな情報のこと。それがSNSの力で猛烈に広がってしまうからです。
 確かに、SNS上に散見される偽科学や陰謀論は、もはや看過できないレベルに達しているように思います。
 科学とそれ以外の線引きは、今後、より厳しくなるでしょう。

 出版にも、同じことが当てはまります。
 本を出版する際にもしも科学物を名乗るのであれば、科学の要件をしっかり満たすことが、より強く求められるでしょう。
 ポエムの要素を取り込みたいのなら、科学物ではなく事実に基づいたドラマ的なものという位置づけが必要になるし、いかにうまく位置付けるかが著者や編集者の腕の見せ所になってくるでしょう。
 いい見本は、NHKの大河ドラマです。
 大部分の視聴者は、大河ドラマの内容がすべて事実だとは思っていないけど、すべてが作り事だと思っているわけでもなく、その境目のところを楽しんでいます。
 ただその大河ドラマも以前ほどは話題にならなくなった理由の1つは、世間が、フィクションとノンフィクションを混ぜることを嫌うようになったからではないか、と僕は推測します。
 良し悪しは別にして、近年は、知識の間違えや作り物が、ひどく嫌悪されるようになりました。
  
  

● 25/3/1 絞りの話


NikonZ8 NIKKOR Z 35mm f/1.8 S   f/1.8 AE

 先月、氷を撮影する際に絞りをf16まで絞ったら、氷の丸みが失われてしまいました。
 そこで絞りをあけてぼかしつつ、描写したい箇所にだけはピントが合うように、深度合成を駆使して撮影しました。
 被写体をただ説明すればいいのなら、絞りの選択は難しくはありません。一方でその場の雰囲気を切り取りたい場合は、絞りの選択は、なかなか奥が深い作業です。
 氷を撮影しながら、何をいまさら?何年写真をやっているの?という気もするけど、絞りの選択を一から見直してみようか・・・という気持ちになりました。
 
 絞りを使うことを考える場合、言うまでもなく、開放f値が小さな明るいレンズが面白いでしょう。
 また、明るいレンズを手にした場合、ありがちなf値を選択するのでは意味がありません。
 絞り開放で撮ってこその明るいレンズ、という話になってきます。
 その場合に気になるのが被写界深度不足です。
 それでも、被写界深度が浅すぎて歩留まりが悪くなることを気にせず使うのが、明るいレンズの使いこなしではないかという気がします。
 そういう意味では、僕はフィルム時代に中判のカメラを愛用していました。
 小さな生き物を撮影する場合に中判カメラの難しさは、被写界深度不足になりがちなことでしたが、浅いピントでうまく表現できた写真に関して言うと、単なる自己満足に終わらず、大変によく売れました。
 フィルムからデジタルに移行した後も、その手の写真に関しては、随分使われました。
 最近は、以前に比べると写真が簡単に撮れるようになったのだから、それくらいのリスクは取った方が、写真をより長く楽しめるのではないか、とも思うのです。


   
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