撮影日記 2024年11月分 バックナンバーへTopPageへ
 
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● 24/11/30 渋滞


NikonZ7U NIKKOR Z 24-120mm f/4 S

 子供の時に釣りの師匠に連れて行ってもらった渓流に、行ってみました。
 山が深く、九州の渓谷の中では有名な難所で、師匠が渓流釣りに夢中だった時代には道が悪くて、複数回のパンクに備えて追加の予備タイヤを車に積んでいた場所です。
 今では道が舗装されて観光地になり、人に会いたくない僕は、足が遠のきました。
 カメラがデジタルになってからは、多分初めてじゃないかな?
 
 道が舗装されたとはいえ、今でも難所であることには違いがありません。
 まず道が細くて、大部分の行程で、車のすれ違いができる場所が限られています。それに加えて、山道の距離がとても長いのです。
 ところがそこに大量の自家用車が押し寄せてくるものだから、交通量が多い時間帯には大渋滞が起きます。
 朝、渓流に向かう行きは早朝なのでいいとして、撮影を終えた帰りは、下手をすると対向車と後ろからの車で、まったく動けなくなってしまいます。
 町の渋滞は、渋滞の先頭の車が走り去ればいつかは解消しますが、山のすれ違いができない箇所での渋滞は、先頭の車がお互いに動けないので、渋滞の最後尾の車が下がるしかなく、非常に厄介です。

 今回僕は渋滞のピークの時間よりも少し早く山を下りましたが、それでも山を下りきる最後のあたりで渋滞に巻き込まれそうになりました。
 途中、小さな渋滞の原因になっていたのは、いずれも大きな車でした。以前ならそんな山道ではまず見かけなかったトヨタのクラウンと何度かすれ違いました。
 意外に渋滞の原因になっていたのが、スズキのオフロードカーのジムニーやトヨタのランドクルーザーでした。
 植物にすって車体に傷をつけたくないのか、あまり端っこまで寄らないことで、すれ違いができにくくなっていました。
 豊かさって何なんだろうな?とつい考えてしまいます。



● 24/11/26 車内泊


NikonZ7U NIKKOR Z 24-120mm f/4 S

 渓流沿いの道を歩いている最中にヤマメが釣れそうな場所があると、胸が高鳴ります。
 僕は、そんな場所をきれいだなと感じます。
 何か生き物に出会えそうな感じがして楽しい風景の本を、引退する日までに作ってみたいものです。
 楽しいは楽しいでも、生き物に出会えそうで楽しいは、自分の経験に由来する可能性があります。
 その場合、同等の経験がない人には理解ができにくい感覚ということになります。そして一部の経験者にしか理解ができないものは、仕事としては成り立ちにくいでしょう。
 それをクリアーするためには、そうした本を出す大義名分を考える必要があります。
 自分がやりたいことが、すでに存在する社会の枠組みのどこにはまるかを見出すこと、つまり自分の方が世間に合わせていくことが重要になるわけですが、これがなかなか難しいです。
 こうしたら企画が通るかもと思えるアイディアもあります。
 でもそうすると、だいたい、ごくごく普通の生き物の本になります。
 一方で自分が伝えたいことが前面に出てくるような作りの本を目指すと、今度は、いかにも素人の企画になってしまいます。

 春に引っ越しをして以降、すべてがリセットされた状態になり、何か新たな撮影をするたびに、道具ややり方を調整しなければならない状態が続いていました。
 改善すべき箇所をメモしていくと、毎回メモが膨大になっていました。
 それが次第に落ち着き、最後に残ったのが車内泊を伴う取材です。
 近年は車内泊が流行りなので巷には多くの情報や工夫がありますが、いずれもためにそれを好き好んで楽しむ人たちが対象であり、紹介されているノーハウは、だいたいめんどくさいものです。
 僕のような宿に泊まるお金が惜しいから仕方なくという者の場合は、荷物の積み下ろしやメインテナンス等にいたるまで、少しでも労力がかからない方法を考えるのが重要です。
 道具を車の中に収納しやすくまとめておくのは当然として、帰宅後に家の中でも収まりやすく、同時に手入れをしやすく、さらに忘れ物などをしにくい状態に整理しておかなければ、次第に出かけることがめんどくさくなってしまいます。
 荷物の積み下ろしやメインテナンスは、家の構造にも左右されます。
 長年やってきた車内泊ですが、結局、すべての道具を見直すことになりました。
 
 

● 24/11/19 ボール盤



 遠隔地操作で動物を撮影する際に、地面に放置したカメラに被写体が触れ、カメラが微妙に動くことがあります。
 そこでその対策として、カメラの底に、金属をおもりとしてくっつけることにしました。
 おもりは6ミリのステンレス板を選びました。
 場合によっては追加ができるように、板は2枚調達しました。
 板に穴を開け、ネジを使って三脚の代わりにカメラの底にくっつける構造です。

 板に穴を開けようとしたら、うちの古いボール盤ではスムーズに穴が開かなかったので、ボール盤を買い換えました。
 撮影用品でよく使用されるアルミと違ってステンレスは硬いので、劣化したボール盤では刃が建ちませんでした。
 実は春に引っ越しをする際に、場所を取るし、使用頻度は低いし、ハンドドリルである程度代用できるのでいっそうのこと捨てようかと最後まで迷ったのがボール盤でした。
 ところが現実には、捨てるどころか新しい物を買うことになりました。
 救いは、ボール盤は図体はでかいのだけど、値段はあまり大したことがない点です。

 動物が触れてカメラが多少動いたところで、構図が少し変わるだけなので、僕は長年、まあいいかと放っていました。
 すると、先日、ついにそれで写真を撮り逃してしまいました。
 カメラのおもり以外にも、ここのところ、日頃何となく気になっていた箇所がトラブルを起こすアクシデントが続きました。
 こんな悪いことが起きたらどうしよう?とトラブルを予測して先回りするのは、人の社会では大切なことですが、あまり突き詰めすぎると、低い確率の事象にコストがかかってしまうので、塩梅が難しい所です。
 
 

● 24/11/13 夢

 高校時代に強く影響を受けた知人が、夢に出てきました。
 どうしているのかな?と思って、名前でWEBを検索してみたら、論文がヒットしました。
 論文に記されていた名前をクリックしてみたら、熊本市内の大きな医療機関に所属していたことが分かりました。
 同性同名ということもあり得るけど、熊本の学校に進学したので、ほぼほぼ間違いないでしょう。
 最後に話をしたのは、大学一年の時かな。
 死ぬまでにもう一度話をしたいと思うのだけど、高校の同窓会名簿では行先不明になっているので、どうだろう。
 共通の友人の中には病死してしまった方もおられ、みんな、とにかく元気であって欲しいものです。

 学生時代の知人の中でも、大学の同級生は、連絡を取ろうと思えばだいたい取れる状態です。
 今でも、みんなが他人という感じがしないのは、生物学という共通点があるからかも。
 生物学の同級生の特徴は、いまだにどことなく学生っぽい顔をしていることで、
「この人、何してる人?」
 的な雰囲気があります。
 高校の同級生は、地元に残った者と他所の土地に行ってしまったものとで大きな違いがあります。
 地元に残った連中に関しては、誰かに聞けばだいたい連絡を取ることが可能です。
 市役所にも数人勤めているし、公の立場にいる連中は、いろいろ詳しいです。
 一方他所の土地に行ってしまった者は、手掛かりがない場合も多々あり、完全に別のコミュニティーに属している人です。
 中学、小学校の友人は、僕にとってもはや、実在の人だったかどうかが怪しく感じられる存在です。
 ノンフィクションであるはずのみんなとの思い出が、フィクションのような気がしてきます。



● 24/11/4 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。



● 24/11/2 比較とは



 目的のシーンが撮影できる状況ではなかったので、ブラブラと林道を歩いて、気になったものを撮影しました。
 予定していたものが撮影できない日は残念ではありますが、代わりに自由な撮影ができるのは、楽しみでもあります。
 今回はちょうどジャゴケが瑞々しくてきれいだったので、苔を撮影することにしました。

 仕事で期限が設けられた撮影の場合、時には状況が悪くても撮影せざるを得ません。
 そんな時に僕が考えるのは、悪い状況をいかに少しでもましに撮影するか、です。つまり、僕はその時、どう撮影したらよりましになるかの比較をしていることになります。
 比較には、しばしば、しんどさが伴います。
 そのしんどさの正体は、評価のしんどさです。
 例えば、学校の入学試験は人の学力を比較して順位をつける行為ですが、そうして評価されたり評価をするのは、なかなかしんどいことです。
 或いは、スポーツの試合やゲームで勝敗が決まるのも、同様に比較の結果であり、評価です。
 評価は、人の社会が作り出したものであり、人の社会の秩序の一種です。
 その点、気になったものを自由に撮影するのは比較ではないし、人の社会の評価というストレスから離れることで、心が穏やかになれます。
 
 ただ、比較がダメなことなのか?と言えば、そうではないでしょう。
 スポーツの試合が面白いのは、勝負が決まるから、つまり比較だから。
 それを排除してしまうと、いずれスポーツは衰退するでしょう。
 写真も同様で、
「それぞれの写真にそれぞれの価値があり、写真に優劣なんてないんだ」
 などと言い出せば、それは自分自身のためのプライベートな写真であり、写真を人に見せる理由は失われてしまいます。
 比較の結果導き出される評価は、人間にとって不可欠です。
 ただ、比較ではないものも、同時に必要ではないかと思うわけです。
 
 
   
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