撮影日記 2024年1月分 バックナンバーへTopPageへ
 
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● 24/1/31 雑用

 子供の頃に時々耳にしていた言葉に、「ねまる」があります。
 調べてみると「腐る」の方言のようですが、僕が子供の頃に耳にしていたねまるは、食べ物以外にも物事がどうにもならなくなった時にも使われていたような記憶があります。
 そうした用途のねまるは、僕にとって、意外に変わりが見つからない言葉です。「にっちもさっちもいかない」よりも、もっと泥臭くて地味なイメージがあります。
 今ではねまるは通じないので、僕がこの言葉を使うのは、心の中でつぶやくときのみ。
「ああ、ねまってきたな・・・。」
 とか。
 
 ともあれ、何かがねまってしまった時に、気分転換を兼ねて刺激を受けに行く博物館の学芸員さんが以前、
「雑用などと言うものはない」
 と言っておられたのを、時々思い出すことがあります。
 たくさん話をする中でその言葉が特に思い出されるのは、自分の心の中の何かの思いが刺激されているのでしょうね。
 あるいは、世の多くの人が
「世の中雑用だらけだ。」
 と嘆いているのと対照的だからかなぁ。
 雑用とは、自分がすることを「有意義なこと」とか「つまらないこと」とか「したいこと」とか「したくないこと」などと分類した結果ですが、すべてのものごとは連続していてどこも疎かにできないのは、最近しみじみ感じることです。
 今の季節なら税にかかわる申告のために領収書を整理したりしますが、しかたなくやっているつもりが、きちんとお金の出入りを見ることで気付くことがたくさんあります。
 あるいは、自分で洗濯をすると、衣類の選び方や使い方が変わります。
 自分でゴミ捨てをすると、何を紙に印刷して何をデジタルデータで保管するかなどが変わってきます。
 それを、やってくれる人に丸投げしてしまうと、その場は楽だけど自分には分からないことが多くなり、ある種の「裸の王様」になってしまうんだろうなぁ。
 分業せざるを得ない大きな組織は、また別にして。



● 24/1/30 立ち上がり

 自然写真みたいな趣味性が高い仕事では、人の心を動かす何かが求められます。
 そして、人の心を動かせるようなものを目指す場合、まず自分が「面白いな!」とか「楽しいな!」と無心になって取り組むことが大切です。
 これで俺の評価が上がるとか、これを乗り越えたら力がつくみたいな邪念があると、よほどに飛びぬけた技術力がある人は別にして、だいたいうまくいきません。
 中でも「企画を立てる」とか「原稿を書く」みたいな作業では、それが顕著になるような気がします。
 パソコンを整理していたら若い頃に作った企画に関するメモが出てきたのですが、今見ると、構想というよりは野望でしかない邪念だらけの内容であり、思わず赤面してしまうような残念なものでした。
 なんとかしたい!なんとかしなければならない、という焦りが満ち溢れていました。

 問題は、人には気分があり、いつでも、何にでも、無心になれるわけではないということです。
 そこで僕の場合は、その日一番夢中になれることを、その日一日の仕事にすることにしています。そして、元々何かを予定していたとしても、これは乗れないと思ったら、乗れる別のことをします。
 すると不思議なことに、普段は全く興味がないお金の計算や会計処理に夢中になれる日があったりします。
 あるいは、いつもなら一刻も早く片付けたい写真の整理が妙に楽しくて、丁寧に作業できる日もあります。
 そんなところは、意外にも、スポーツの選手の話が参考になることが多いです。
 例えば、プロ野球の投手の「立ち上がり」と呼ばれる試合開始直後の段階は、その日の自分の特性を探り、どの球を投げたら勝負になるのかを探している状態らしいのです。
 写真を撮りたい日には写真を撮り、文章を書きたい日に文章を書く。
 道具の修理が楽しい日に道具を修理し、領収書の整理が楽しい日に会計処理をする。
 スポーツ選手の話が役に立つのは、例え頭を使う作業であっても、体あってのものだからでしょうか。
 ともあれ、ここのところはその立ち上がりが上手くいかずに、野球の投手に例えるなら、立ち上がりから調子に乗れないまま、ズルズルと負け試合になってしまうような日が続いています。



● 24/1/27 ミニマリストのカメラ


 
 朝、氷が張った池の上に横たわっていたヒキガエルは、お腹が氷に張り付いていたし、ピクリとも動かないし、さすがに死んでるんじゃないかなぁと思っていました。
 カエルが死んでいるのと生きているのとでは、写真の持つ意味合いが全く違ってくるので、それを確認したいのですが、カエルまでの距離が遠く手に取ることができないので、どうしたものかと考えていました。
 するとお昼ごろ、池に日が差し始めると、カエルが歩き始めました。
 なんと、カエルは生きていました。

 本来の目的は凍り付いた池の風景の撮影だったので、僕に必要な機材は、風景撮影用の広角レンズ付きのニコンでした。
 でも、何か予想外の被写体に出会う可能性もあり、それに備えてOMのカメラと望遠レンズのセットもカメラバッグの中に入れておいたのが大正解でした。
 結果、野生の生き物のたくましさを撮影することができました。
 OMのカメラは、僕が他に併用しているニコンのカメラと比較をすると、起動力で勝る反面、構造上、画像が白飛びしやすい弱点があります。
 今日の写真で言うと、背景の雪がただの真っ白になってしまい、質感を失いやすい傾向があります。
 そこでその弱点を軽減するために、レイヤーと呼ばれる仕組みを利用したより丁寧な画像処理を施しました。
 丁寧な画像処理には時間がかかるので、OMのカメラを使用する場合は、いろいろな撮り方をして何枚も写真を残そうとするようなやり方はしません。
 自分のイメージにぴったり合うたった一枚の写真を撮ろうとします。
 何かに例えるとするならば、ミニマリストのような発想で写真を撮る、と言ってもいいのかもしれません。
 あるいは野球のイチロー選手のような、無駄な筋肉のないスタイルと例えてもいいでしょう。
 
 将棋の対局を見ていると、プロの棋士は、余裕で勝つよりもギリギリで勝つことを、無駄のない「見事な勝ち方」と見なしている節があります。
 例えば、対局に勝った時に、まだ持ち駒がたくさん残っているよりも、すべての持ち駒をちょうど使い果たしたところで勝つような勝ち方です。
 テレビやインターネットで放送される将棋の対局にはたいだい解説者が付きますが、誰かがそんな勝ち方をすると解説者が
「うわ、お見事」
 と感嘆の声をあげます。
 そのまさに「ちょうど」のところを目指しそして楽しむ感覚は、写真撮影の世界でも分かるような気がします。
 
 

● 24/1/24 人の社会の決め事

 インボイスだ何だで、長い間使用していた会計処理ソフトを、新しいものに更新しました。更新と言っても、僕が使用していたバージョンのものからはあまりに間があり過ぎていて、全く別のものになっていました。
 以前のようにCDではなくなっているだろう、とは思っていました。おそらく、ソフトをダウンロードして使用するのではないかと。
 ところがもはやそれも通り越し、今や、インターネットブラウザーを使用する仕組みになっていました。
 ネット銀行などと同じですね。
 料金体系は、いわゆるサブスクです。
 確か一年間は無料だったかな?それなら、馴染めなければ解約すればいいと新しいシステムを使ってみると、入力がとても楽になっていました。
 会計処理ソフトみたいなものはたくさんの人が使うものだし、詳しくない人も使うだろうし、わかりやすく進化するのが早いのは当たり前か・・・。
 ただ、最初の一歩がなかなか煩わしいです。
 僕は、自然の話みたいに自分で見出すことには関しては、あまり抵抗がありませんが、税制みたいな人の社会の決め事、つまり何らかの形で誰かに聞かなければわからないことを、難しく感じます。
 僕とは、逆のことを主張する人もおられます。
 生き物を観察して何かを見いだせと言われたら嫌だけど、人の社会の決め事を勉強することならいいと感じる人です。
 多分、後者の方が多数派なのかなぁ。

 自然の話の中でも、生き物の分類や名前みたいなものは、人の社会の決め事です。そして僕は、自然の話の中でもそこの部分に関しては、実はあまり興味がありません。
 そこで、自然の話の中でも人の決め事の部分は、ある程度切り捨てることにしています。
 その分、自分の目で見て感じ取れる部分を重視することで、写真撮影がより一層楽しくなりました。



● 24/1/22 隆起

 小学校の授業で教わったことの中で印象に残っていて、今でも時々思い出されるのが、理科の時間の「浸食と隆起」です。
 印象に残った理由は、浸食はともかく、隆起の方がピンと来なかったからでしょう。
 地面が雨やその他の影響で削られる浸食は子供でもよく目にする現象。それに対して地面が盛り上がる隆起の方は、なかなか見ることができないからです。
 教科書には、実例を紹介する写真などが掲載されていたに違いありません。
 でもそれは小規模なもので、高い山ができるような現象は想像ができませんでした。
 「浸食と隆起」について教わった日、僕は近所の福智山を思い浮かべた記憶があります。
 福智山の標高は約900M。
 数メートルならともなく、どんなに長い時間が経ったとしても、地面が900Mも盛り上がるなんて、どう考えてもあり得ないと感じたものでした。
 そしてその感覚は、今でもあまり変わっていません。
 ただ、隆起と言う現象が実際に起きることは、近年、実感するようになりました。先日の石川県の大地震でも、約一分の間に4M隆起した場所があると報道されています。

 僕は、社会のことがあまりよく分からないので、原子力発電所の是非に関しては、これまで意見がありませんでした。
 強いて言うなら、「原子力発電が日本にとって吉とでるか凶と出るかは、誰にも分からないこと」というのが、僕の意見でした。
 したがってどちらの意見にせよ、それを断言する人の意見は聞くに値しないと感じていました。
 ところが先日の地震の際の4Mの隆起の報道を見聞きして、原子力発電は、日本の場合は、大変に危ない綱渡りではないかと感じるようになりました。



● 24/1/17 思いがけず

 デジタルカメラは暗い場所でも普通に撮影できる設定にすると、その代償として画像にノイズが現れてしまいます。
 ただ近年は、そのノイズを、Aiを駆使してパソコンで除去することが可能になりました。
 僕にとっての問題は、ノイズ除去のソフトを動かすには、それなりにスペックのパソコンが必要なことでした。
 当時使用していたパソコンではかなりの時間がかかり、Aiによるノイズの除去は、仕方がない時に少しだけ使用する手法でした。
 そこで、ちょうど写真がまとまった額売れたこともありパソコンを買い替えたことは、以前にも書きました。
 すると、このパソコンの買い替えには、僕が思っていたよりもずっと大きな効果がありました。

 まずは、暗い場所に弱いという理由で活躍の機会が少なかったカメラが、機能するようになりました。
 逆に、当時所有していた、暗い場所でもノイズが出にくいカメラが不要になり、普段メインに使用している一台のカメラでカバーできるようになりました。
 それらの暗い場所用のカメラを手放して、代わりにレンズを数本購入しました。ちょうど引っ越しに伴う物の処分も重なり、短期間でこんなに道具を入れ替えたことはない、というくらいに物が入れ替わりました。
 道具が大きく変わると、写真の撮り方も変わってきます。また、何にレンズを向けるかも変わります。
 僕はパソコンに興味がないので、せっかくのお金でパソコンを買うのは、必要ではあっても、おもしろくはありませんでした。
 ところが、まさかまさか、パソコン一台の有無で、こんなに写真撮影が変わるとは。



● 24/1/15 人の秩序ではないもの

 写真みたいな活動は、真面目に取り組んだからと言って、評価されるわけではありません。真面目さとは違う何かが要求されます。
 真面目な人とは、一般的には、人の社会の秩序を重んじる人のことを指します。
 そしてその真面目が通用しにくいということは、世間が僕らに求めているものは、「人の社会の秩序ではないなにか」ということになります。
 もちろん社会の秩序がどうでもいいわけではなく程度問題ですが、それ以外の何かがなければ、スタートラインにつくことができません。
 写真に限らず、いわゆる結果の世界に共通することです。
 SNSなどを眺めていると、世間には、「人はこうあるべき」という人の社会の秩序の話が溢れているのに、一方で、写真や芸術、音楽やスポーツやその他、まじめさでは測れないものも求められています。
 人の社会の秩序はもちろん大切だけど、人の秩序ではないものも人間には必要というのは、僕にとってとても興味深いことです。
 人の秩序ではないもののことを、日本語では自然と呼びます。
 そういう意味では、写真や音楽やスポーツには、人の中にある自然の部分を癒す活動という側面があります。



● 24/1/12 自分の意図ではない仕事



 一部のページの撮影を担当した雑誌が送られてきました。ポットという保育関係の本です。
 僕は編集者のみなさんと大分県の保育園に行って、園の様子を撮影しました。
 生き物の本を作っている出版社の中には、子供たちの教育関係の本を作っている会社があり、その関係で、時々こうした取材物の仕事を引き受けることがあります。

 写真を撮っている僕が傍からどう見えるかはさておき、心の中を書けば、撮り慣れない被写体の場合、いわゆるテンパるに近い状態になります。
 時には、正解が分からず、仕事をしながら写真の撮り方やカメラの設定などを探っているような時もあって、脳内のCPUやメモリの使用率が高くなります。
 そういう意味では大変!
 でもその結果、好きで好きで普段から撮り慣れている自然物の撮影よりも、慣れない被写体の撮影の方が強烈な思い出になったりもします。
 Potも、まさにそれで、思いがけず印象に残る撮影になりました。
 大学時代に恩師から、
「人の意図ではないもののことを、日本語では自然と言うんですよ。」
 と教わったことがありました。
 そういう意味では、僕の場合、生き物の撮影は自分の意図でやっていること。一方で、今回のPotのような撮影は、なぜか引き受けることになった、自分の意図ではない撮影。
 その自分の意図ではないものの方が結果的に印象に残るのは、僕にとって、自分の意図ではない自然が面白く感じられるのと、根っこは同じなのかもしれません。
 あくまでも、僕の好みの話ですが。

 僕の身の回りでは、僕の父は、自分の意図通りにならないという理由で、生き物が好きではありません。また、生き物以外でも、自分の意図ではないものを徹底して遠ざけます。
 子供の頃に父から、
「おまえは、世の中で俺が一番理解できない人間だ。」
 と時々言われていたことをふっと思い出すことがあります。
 その時に父が言っていた僕の理解できない部分は、今にして思うと、僕が人の意図ではないものを面白いと感じる部分でした。



● 24/1/11 発案と平等・不平等



 岩崎書店の「うまれたよ!」シリーズは、ネットを検索するとあちこちで取り上げられています。
 今では中国でも販売されていて、右は、昨年届いた中国バージョンで、本の大きさが少し小さくなっています。
 一時期、日本の自然物の書籍が韓国でも翻訳されて販売されたことがありました。が、最近はもっぱら中国です。 
 武田晋一の表記は、中国語でも武田晋一のままになっています。

 「うまれたよ!」シリーズの中の「カタツムリ」は、紛れもなく僕が撮影したもので、文章はボコヤマクリタさんが書いたものです。
 でもこの本は、「うまれたよ!」というアイディアを発案した編集者の作品と言った方がいいでしょう。
 自然写真の仕事や本作りで難しいのは、とにかく発案であり、発案が命です。

 発案がいいと、そこから派生して次の何かが生まれてきます。そういう観点で言うと、「うまれたよ!」は、佐々木崑さんの「小さい生命/1971年」に触発されたものらしく、1971年の「小さい生命」から今まで、何かが続いていることになります。
 時々、発案を軽視する人がおられますが、発案を重視できない人には、言うまでもなく面白いものを作ることができません。
 その結果、誰かの発案を受けて誰かの指示通りに作業するしかなくなり、自分が将棋の駒のように使われているような気がして、不満が渦巻いてしまいがちです。
 でも実は、人が自分を駒のように扱っているのではなく、自分が他人の発案で相撲を取ろうとしてしまっているケースが多々あります。
 自分自身に当てはめてみると、まだ実績がなかった頃は、俺が俺がになってしまい、人の発案をリスペクトできにくかったように思います。
 またどんなに発案が良くても、それを受けて写真を撮ったり文章を書く実務をする人が、発案をリスペクトできないと、何か物はできるのだけど、それだけのものになってしまいます。

 問題は、仮に発案が命であることを理解できたとしても、アイディアを磨くのは極めて難しいということです。
 アイディアは、その人のそれまでの人生の集大成であり、その中には、運不運や偶然の要素もたくさん含まれていて、努力だけでは語れないからです。
 それゆえなのか、アイディアを軽視する人には、平等を重視する人が多い印象を僕は受けます。
 また、平等が重視される環境ではしばしばアイディア不足が言われ、役所などはその代表でしょう。何かを思いついただけの人が、実際に長い時間作業をする人よりも評価されるのはおかしいとなるわけです。
 自然写真みたいな分野の場合は、役所と違って嫌なら一生かかわらずに済む分野なので平等である必要はなく、逆にひらめきやアイディアが求められるわけですが。



● 24/1/10 あぶく銭?


NIKKOR Z 35mm f/1.8 S

 僕は普段、撮影機材を購入する際に、それをいずれ手放す時のことまでは考えていません。物を販売して換金するのがメンドクサイのがその大きな理由です。
 したがって僕が機材を手放すのは、簡単に言えば、お金に困っている時にしかたなく。
 そしてお金に困るのはちょくちょくあることなので、結果的に古い機材はあまり残っていないつもりでした。
 ところが今よりも狭い場所に引っ越すことになり、今度は、お金になるかどうかではなくとにかく物を減らすという観点で機材を整理すると、大したお金にはならない機材が思いの外たくさん残っていました。
 それらをオークションや買取業者さんに買い取ってもらうと、量がたくさんあった関係で、まあまあの金額になりました。
 そこで、自然写真ではあまり用がないレンズを一本買ってみました。
 NIKKOR Z 35mm f/1.8 S。用途は、時々、何かの取材に駆り出されることもあるので、室内での人物撮影などです。

 その手の慣れない撮影の場合は練習が必要なので、ここのところ、暇さえあれば人物の代わりにうちの犬を撮影し、ついに要領やカメラの設定が分かってきました。
 今日の画像を撮影した場所はとても薄暗くて条件は×。でも、最近のカメラの高感度と画像処理ソフトのノイズ除去とf1.8の明るいレンズを組み合わせると、なんと1/250のシャッターを切ることができてこの画質です。
 明るいレンズって、おもしろいなぁ。
 これで、来るなよ、来るなよと実は内心恐れていたちょっとした取材物の人物撮影の仕事も怖くありません。



● 24/1/8 更新のお知らせ

 今月の水辺を更新しました。


● 24/1/3 社会の変化

 去年は、物事が凄いスピードで変わるなぁ、と猛烈に感じた一年でした。
 僕はだいたい、新しいものごとは嫌いではありません。仕事に関して言うと、インターネットやデジタルカメラなどの新しいテクノロジーは早くに導入してきたし、今でも関係者のみなさんと昔の話になると、
「武田さんは新しいものにすぐ飛びつくよね。」
 と言われることさえあります。
 でもそんな僕も、ここのところの社会の変化のスピードは、いくらなんでお早過ぎないかと感じた一年でした。
 それらが一時的な現象なのか、それともそんな時代になっていくのか、あるいは、実は僕の方が老化で新しいものに対応できなくなりつつあるのか・・・ 実際のところはどうなのでしょうね。
 
 仕事に関して言うと、カメラの技術革新に驚かされた一年でした。
 生き物の撮影の場合は、野球に例えるならひたすらにストライクゾーンに球が来るのを待つようなジャンルであり、その場合、カメラの性能はあまり重要ではありません。
 ところがストライクであろうがボールであろうが、とにかく打ちにいかなければならないジャンルの撮影に関しては、最新のミラーレスカメラの威力は凄まじく、撮影機材が別次元に突入していることを実感させられました。
 これは、急いで道具を切り替えてしまわなければ、どこかでついていけなくなるぞと感じ、従来主流だった一眼レフの大部分を手放し、代わりにミラーレスのシステムを導入しました。
 今年はそうして導入した新しい道具をひたすらに使ってみる一年になるんじゃないかなぁ。


   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2024年1月分


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