撮影日記 2022年2月分 バックナンバーへTopPageへ
 
 
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● 22/2/18〜2/26 更新のお知らせ

 1月分の今月の水辺を更新しました。



● 22/2/15〜2/17 政治活動と作家活動

以下は、明石市長 泉房穂さんの害獣に関するツイートです。
https://twitter.com/izumi_akashi/status/1493490950433239041

 人は勝手だな。
 だから害獣や外来種の駆除をやめようよなのか、
 あるいは、勝手なんだけど害獣や外来種の駆除は仕方がないよね・・・なのか、
 または、みんなで考えてみようよなのか・・・
 が書かれてないので、投稿の意図も明らかにして欲しかったな。

 自然写真家の活動は、時に作家活動です。
 そして作家活動の場合、人はどうあるべきかの前に、人の中にあるドロドロした部分をただ見ることも、とても大切なことだったりします。
 上記のツイートなら、害獣を駆除すべきかどうかの前に、人間って勝手だよねと、だからどうすべきかを抜きにしてただ見つめることも。
 でも政治の場合は、人はどうするのかを決める場所なのだから、市長は意見を表明してもらいたいなと思いました。

 面白いなと思ったのは、上記のツイートだけで、市長が害獣駆除を否定しているかのように受け止めている人がたくさんいること。
 そして、駆除は必要なんだよと怒り狂っている人が。
 そこで前後のツイートも探してみたのですが、そんなことは、どこにも書かれていません。
 つまり読み手が自分の心の中で、市長の文章を勝手に作っているわけです。
 ではなぜ、そうして勝手に文章が作られてしまうのかかな?
 頭の中の大部分が政治になっているんじゃないかな。人の都合を抜きにして、ただ物事を見つめるような時間が、その人の中でなくなっているのでは。
 人の都合だけで物事を決めるのであれば、確かに、駆除が人の勝手かどうかなんて考える意味はありません。どっち道駆除するわけだから人が勝手かどうかを考えることは、無駄な時間になってしまいます。
 その場合、逆に言うと人は勝手と口にするのなら、それは=駆除はしないという解釈になるのかな?
 ともあれ、政治はとても大切だと思うけど、政治は人の都合の話なので、人の都合ではない話もどこかに必要なんじゃないか?という気が僕はします。



● 22/2/7〜2/14 境界線の話

 なぜかツイッターのタイムラインに
「トランス女性は女性か男性か」
 の議論がたくさん流れてきました。トランス女性とは、手術の結果、男性から女性へと変わった人?
 性別の話で僕が思い出したのは、生物学の学生時代のこと。研究室で繁殖させていた蚊の中に、ある年、右半身と左半身とで性別が違う蚊が見つかったことでした。
 見つけたのは、先輩の石河さん。
「生き物って、オスとかメスにいつも分けられるとは限らんのやのぉ」
 と先輩がポツリとつぶやきました。
 その翌年には、今度は僕が、上半身と下半身とで性別が違う個体が見つかりました。
 蚊に限らず、生き物の雌雄は実はきれいに分かれているわけではなくて、境界線はモザイクになっていたりぼやけていたりします。
 多分、オスメスが存在するすべての生き物で、オスでもないメスでもない個体が存在するでしょう。
 では人の社会はなぜ、それをどちらかに振り分けようとするのか?と言えば、その方が都合がいいからでしょう。
 境界線がぼやけていると、トイレや公衆浴場やスポーツの大会の時など、さまざまな状況で困ります。多様な物事は扱いにくいので単純化したいわけです。

 よく似た問題が、ちょっと前にもありました。
 調べてみると1990年代の後半。それは、どこから先が人の死か?の議論でした。
 誰かが医師から
「この人死にました」
 と宣告されても、実際にはその人の体を構成している細胞の大多数はまだ生きています。そして、それらの細胞が少しずつ少しずつ死んでいきます。
 ところが人の死の線引きがそうして不明瞭だと社会は困ります。そこで、しかたがないから、ここから先を人の死と定義しましょうと決めたことがありました。
 亡くなった人からの臓器移植が法律で認められるタイミングでした。
 社会に興味がない僕でさえ、テレビや雑誌などで「脳死」という言葉を結構頻繁に見聞きしました。

 僕の場合は、境界が曖昧な物事をどこで線引きしたら、一番いい落としどころになるか?、つまり人の社会の話にはあまり興味がありません。
 でも、人が二つに分けている物事が自然界ではつながっていてきれいに分けられないことには関心があり、男女や生死の境目の話には、半分だけ興味があります。



● 22/2/1〜2/6 対人の話

 何が疲れるって、やっぱり対人。そして対人で疲れると、人の意図ではないもの(=自然)が欲しくなります。
 接客業をしている家族が帰宅後に犬を抱きしめて、
「あ〜癒される」
 としみじみ言うのも、きっとそういうことでしょう。僕の場合は、それが野山だったりします。
 昔、拉致被害者の蓮池薫さんが帰国した時に、
「肉親の顔を見ても涙は出なかったけど、故郷の自然(山だったかな?)を見た時には涙が出た。」
 という記事を読んだことがありました。
 散々、人の都合に振り回された人が、人の意図ではないものを欲し、それに癒されたのではないかと思います。
 そう言えば蓮池さんと同じこと言ってた人がいたと思い出しました。
 昔、高校で講師として理科を教えていた時に、毎年児童養護施設から通ってくる子供が数人いて、その中の一人が、
「空を見ている時が一番幸せ」
 と言っていたことでした。
 児童養護施設の中でも大舎制と呼ばれる大人数の子供を受け入れている施設には、システム上の問題がとても多いらしく、つらい生活を強いられるのだそうです。

 ではなぜ、人は自然に癒されるのだろう?と考えてみると、人の社会にあって、自然界にはないものがあります。
 それは、「正しい」とか「間違えている」といった概念です。評価と言い換えてもいいでしょう。
 評価がある世界は、とても疲れます。
 自然に癒されると言っても、自然が人にとっていつも都合がいいわけではありません。自然に困らされることは、多々あります。
 でもそれは誰かが悪いわけではなく仕方がないことであり、諦めざるを得ません。
 今日はある撮影を予定していたのですが、僕が希望する天気になりませんでした。カメラマンにとって気象条件はとっても重要なことであり、気象条件が整わないのは困ったことです。
 でも、腹は立ちません。しかたがないから。
 ところが天気予報が外れると、腹が立ったりします。外した人間をけしからんと思ってしまうのです。
 極端な例を挙げるなら、もしも病気で家族を亡くしたら、とても悲しいことですが、仕方がないでしょう。
 でも、殺されたりすると、残されたものはとてつもないストレスを抱えて、もがき苦しみ、時に鬼になることでしょう。
 人が一人いなくなってしまったのは、同じなのに。


   
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