撮影日記 2021年9月分 バックナンバーへTopPageへ
 
 
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● 2021/9/9〜9/21 白バック写真


 イソニナは、近所の磯で見ようと思えば毎回見ることができるのに、撮影したのは実は初めて。
 なんで今まで一枚も写真を撮らなかったのか?は自分でも分からないのですが、外観が淡水の貝的に地味で、この貝を海の貝の中に入れると海のイメージが薄らぐというのか、浮いてしまうからかな?
 でもこうして白バック写真を撮ってみると、淡水の貝とは全然別物。
 形などは淡水のカワニナに似ていますが、
「カワニナとは違うのだよ。カワニナとは。」
 と言った感じです。

 さて、僕が写真を始めたころは、白バック写真はプロが撮るものであり、ある種の憧れでした。だから白バック写真の撮り方をずいぶん研究したものでした。
 それが今では普及して、白バックにさらにこだわるのはむしろハイアマチュアの世界になりつつある感があります。
 それに伴い、僕は昔ほどは白バック写真に力を入れなくなりました。人が持っている時間には限りがあるので、何かに時間をかければ他の何かができなくなり、それならばすでに普及しているものをより完璧に撮影するよりも、まだ未開の物事を切り開きたいからです。 
 ただ、白バックでしか表現できないものもあり、イソニナの撮影ではそれを改めて感じました。
 この写真を撮ってみると、次の段階として、今度は磯の現場でイソニナの写真を撮りたくなりました。
 イソニナの形態は白バック写真ですでによく描写できているので、現場では生息環境や現場感がよく現れた写真を撮ってみたいものです。



● 2021/8/23〜9/8 好み

 日頃、慎重で手厚い手法を好む人は慎重な意見を、日頃、多少リスクを取ってでも何かを達成しようとする人はそんな意見を。
 新型コロナ騒動でしみじみ思うのは、「自分の主張こそが正しい」と主張される意見にも、その人の好みが多分に含まれていることです。一般に、人の好みと物事の良し悪しや善悪とが結びついたもののことをイデオロギーと呼んでいるように思うのですが、「これが正しい」と語られる人の意見の多くは、大抵の場合、厳密には良し悪しや善悪の話ではなく好みの話。つまり、イデオロギーの話だということです。
 長年、イデオロギーの対立なんてなんで起きるのだろう?そんなのどうでもいいやん、と思ってきたのですが、人の好みは、僕が思っているよりも需要なことなのかもしれませんね。
 
 そもそも、自然界には正しいとか間違えていると言った概念はありません。
 自然界にあるには習性だけで、例えば肉食の生き物が他の生き物を食べる時に、それは正しいのかどうか?などという観点はないでしょう。
 何が正しいか?などという観点は人が作り出したものなので、当然人によって中身が違うし、自分が主張できるのは、実は何が正しいか?ではなくて自分の好みに過ぎないのではないか?という気が、最近僕はします。
 ただ、ほとんどすべての物事は好みであると言ってしまうと元も子もないので、それを仮に戦わせてみるのが現代の政治なのかな?
 
 あと1つ、コロナ騒動で痛感させられるのは、今の日本のような社会の場合、物事は、人が理解できる範囲あるいは納得できる範囲でしか、実現しないということ。
 感染症に関する知識を持った人が、どんなに「こうしなければならない」「これが正しい」と主張しても、多くの人がその意味を理解できなければ、実現しないということ。
 物事の良し悪しと違って、知識の場合は好みの問題ではないので、正しいや間違えているというのがあるわけですが、それでも、人の社会の中では正しいことが選ばれるわけではなく、知識とは、そのような性質のものだということ。
 知識で社会を治めようとしても、そこには限界があるということを、僕は痛感します。


   
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